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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第21話 Superfemale

 

「あなた……今」


 ファティナには聞えていた。少女の、心の声――。心の中の悲痛な叫びを。

 少女の意識は明瞭でありながら体の自由を奪われている。少女は自らの意に反して、ファティナのバイタルを奪おうとした。


 ファティナは地にはいつくばったまま、たった今攻撃を仕掛けてきたばかりの朱音に顔を向け、彼女の瞳の奥を見通し心層構造を分析する。ファティナは文型神でマインドブレイクに長けてはいない。彼女が枢軸の地位にまで上り詰めたのは、心理的な駆け引きよりも高度に論理的だったためだ。


 だから日常的に、最低限のマインドギャップは作るけれども、相手にはマインドブレイクを仕掛けていないし、特に警戒もしない。マインドブレイクの得意な神は油断していたとしても感覚的にマインドブレイクを行っているというが、ファティナは違う。彼女は性善説論者であり相手を疑う事は極力避けるというのが性分だ。神と対面するのでなければ、マインドギャップですらも展開することをやめていた。


 だから先ほどは気付かなかったのだ。

 彼女の心層に根を張るように、黒いかびのようなもやが覆い尽くしていたと。


 冴えてゆく思考の中で、ファティナが理解しつつあったのは。少女が何者であるのか。それは黒い黴が、ファティナのマインドギャップを看破したからだと考えれば説明がつく。つまり朱音の中にいるものは、ファティナがEVEから得た情報の重要性に気付いている。織図が常々、断言していたものだ。この世で一番安全な情報の保管場所は、データ化され暗号化されたEVEだ、と。


 ファティナの脳は、機密情報を運ぶ媒体たりえなかった。三階の命運を分ける情報は信じられない経路で漏出し、ありえない方法で略取されたことになる。


 だが、敗北というにはまだ早すぎる。ファティナ=マセマティカはある一点において慎重だった。織図がEVEのジャンクから拾ってきた重大な知見は今の間に根こそぎもっていかれたのかもしれないが、レイア=メーテールのバイタルコードはまだ相手には看破されていない。

 鉄壁なのだ。理由は明快、“ファティナの頭の中にレイア=メーテールのバイタルコード情報はないから”。


 ファティナは荻号にコードを伝えるまでの道中、彼女の身に何かがあってはいけないと用心し、レイア=メーテールのバイタルコードの情報だけは敢えて記憶していなかったのだが、この配慮が功を奏した。コードとその変数解が保管されているのはへクスカリキュレーションフィールドのハードディスクだ、ファティナが開封しなければ誰にも、ブラインド・ウォッチメイカーにすらも閲覧不可能な場所にある。切り札はまだ、こちらが隠し持っている。


「あなたは……時計職人ですね」


 返事はなく、朱音はまた指先をファティナの方に向けている。彼女の意思とは無関係の行動だ。ファティナは反応がないのが返事と受け取ると、へクスカリキュレーションフィールドの端末カード、ΔδΔ(デルタスリー)を取り出し、静かにアクセスを試みた。


 冷静沈着にデータをダウンロードし、ある重要な番号を掴み取る、それは石沢 朱音のバイタル コードだ。手負いの女神は頼りない足取りで、よろよろと立ち上がった。彼女の腕の傷から溢れた血液が、乾ききった土の上に散りばめられる。その透明水彩の濃淡の美から血痕が成す色彩は、あるいは前衛的でもあった。


「私がバイタルロックをかけ続ける限り、私を殺すのはきわめて困難です。が、私は使徒 石沢 朱音のコードをたった今把握しました。あなたの出方次第では死神よりお預かりしている権限を用いて、バイタル切断を合法的に執行いたしますよ」


 ファティナは一歩も退かず、震える声で宣告を試みる。


 朱音は青ざめて怯えた顔をしているが、右手を下ろそうとしない。朱音は何が起こっているか理解できていないが、朱音の行動が女神を刺激したことは気付いていた。天地神明に誓って言う、ファティナに対して敬意こそあれ、悪意は無い、害意も敵意もない。


 むしろ助けてほしいのはこちらの方なのに、 ファティナは険しい顔をしている。指先をはじいた罪で、彼女からどんな報復を受けるだろう。


“……どう、して……私じゃない。私の体が勝手に……”


 彼女の心が凍りついてゆく様子が、ファティナの目にはありありと見える。そうだ、朱音は悪くない。彼女の意識に根を下ろした、時計職人の傀儡となっている彼女に罪はないのだと。しかしもう、助からないのだとは告げられない。


「石沢 朱音から離れなさい。彼女はまだ子供ですよ!」


 しかし要求は退けられた。ファティナは瞑目し、朱音にマインドイレースを仕掛ける。

 朱音がただ操られているというのなら、意識を落とす方が人道的だ。朱音は子供、存在を脅かす極度のストレスを受け入れることはできない。


 よって、ファティナはマインドイレースを仕掛けた。

 抵抗値ゼロ(マインドギャップ 0層)の状態でマインドイレースを受けた朱音は眠るように目を閉じ、彼女の意識は完全に落ちたようだが直立の姿勢のまま倒れない。

 それはブラインド・ウォッチメイカーが今も朱音の内に存在するという証拠だ。


 ブラインド・ウォッチメイカーはノーボディと違ってどうやら同時多発的に依代を操ることができる様子だ。それを踏まえると、石沢 朱音だけにブラインド・ウォッチメイカーが憑依している可能性は低い。


 ブラインド・ウォッチメイカーの目的は何なのか。ノーボディが、「何者でもないもの」であるとすれば、ブラインド・ウォッチメイカーは「何者でもありうるもの」なのだ。ブラインド・ウォッチメイカーの意図は、解階や生物階の生物の遺伝子の中に刻み込まれ、なりを潜めていると推測できる。


 だがファティナが最も疑問に感ずるのは、何故神階の生命体たる使徒である朱音にブラインド・ウォッチメイカーが憑依しうるのか、という点だ。

 神もそうだが、使徒はブラインド・ウォッチメイカーの憑依を許す身体構造を持っていない。だからブラインド・ウォッチメイカーは有史以来、神や使徒には収束できないとされてきた。


 それは荻号 要が織図に伝えた「ブラインド・ウォッチメイカーは直接的に神階には影響できない」という言葉で保証されている。

 ファティナの状況把握を待たないまま、時計職人は差し伸べていた右手の人差し指から小指を軽く握り親指で全ての指の爪先を押さえ、しならせている。


「いけない!」


 朱音は手の甲を下に返し、小指から順に一本ずつ指を弾いた。

 ファティナは身構えながら恐々とした。今度はバイタル切断の波動ではない。圧縮された空気が、渦を巻いて空間に孔を穿つようにファティナめがけて今にも襲い来る様子を、はっきりと捉えていた。朱音が指を弾くたび、攻撃が繰り出されている。


 身軽なファティナは反射的に横っ飛びで身を翻し、両手をついて宙返りを打ったが、聖衣の一部を抉り取られた。飛翔できない環境下にあってジャンプ力だけで空中に蹴上がったファティナを、追い詰めるかのように更なる攻撃が襲う。

 彼女は宙返りをうち気弾を引き付け、あわや衝突となったとき、アトモスフィアを凝縮し抵抗として踏み台にする。


 傍にあったケヤキの大木の枝の上に踏み上がって第二弾、第三弾をかわした。

 数秒遅れて地響きとともに炸裂音したので振り返ると、山の中腹を抉るように数十メートル径の風穴があき、穴の向こうも垣間見える。


 ぞっと、鳥肌が立った。

 山の自重に耐えかね、山崩れが起こっている。

 ファティナはようやく事の重大さを認識した。

 目の前にいるのはただの少女ではない、INVISIBLEの影響が強まった今でこそ凋落の兆しあれど、生物階、解階の生命系を生み出し、その進化の道筋すら意のままに支配し続けた創世者なのだと。


 バイタルロックをかけていても、あれを一撃でも受けてしまおうものなら、存在そのものを無に帰されてしまう。そんな時にバイタルロックが何の守りになるだろう。


 ブラインド・ウォッチメイカーはファティナから、レイア メーテールのバイタル コードを割り出そうとしているのだろうか。

 或いは、ファティナを殺害せしめんとするのか。

 一息つくのも許されない。彼女の人差し指はまだ弾かれていないからだ。第四弾は、すぐに到来する!


「戦闘行為は得意ではないのですが、斯くなるうえは仕方ありません。私も枢軸のはしくれです」


 ファティナは手にしていたΔδΔを口に入れて咥え、ぎりっと真剣な面持ちで奥歯に仕込んでいたアダプターとΔδΔの回路を重ね合わせ、直接出力の形態を取った。

 ファティナのピンク色のマフラーの下の詰襟の金具に、ネックレスとともに束ねられていた10本のリングを抜き取り、全ての指に装着する。


 するとリングから10本の青い光が空に放たれ、やがて100mほど上空に透明なグリッドの平面が現れた。

 彼女は樹上ですっくと立ち上がり、両手を交差して高く空にかざした。


”いきますよ”


 彼女は気持ちだけ宣告すると、差し伸べていた両手を拳にして握り締め、交差を振りほどいて一気に大腿部まで振り抜いた。

 弛んでいたラインはぴんと緊張し、ファティナからのシグナルを上空のグリッドに伝える。

 神経細胞を連絡するかのように縦横無尽に、だが規則正しく光のシグナルがグリッド上を駆け巡る。


 ファティナの指先から繰り出されるほんの僅かな動きが、コマンドとなって緊密にグリッドとリンクしているのだ。

 彼女の命令に応えるかのように、天空のグリッドを突き破って25mプール一枚分の容積ほどもある長方形の柱が降ってくるのが見えた。

 格子をくぐるときには透明だったそれは、地上に近づくにつれて次第に灰色を濃くし、質量を伴って具現化してゆくのがわかる。


 そう、数学神ファティナ=マセマティカはノーボディの与えたへクスカリキュレーションフィールドを通し、仮想現実の世界から仮想物体を具象化させることができるのだ。

 へクスカリキュレーションフィールドの本質を理解し、仮想空間を現実化させるまでに完全に使いこなす、これこそがマセマティカ(数学神)という職名を通名に冠する、栄誉ある名を持つ女神の真価だ。


 石柱は朱音の目と鼻の先を目掛けて落下し、地響きを立てて突き刺さった。

 土煙があたりを覆い尽くし、視界を遮る。ファティナは更に手を休めず、同時に二枚の石柱を呼び出して彼女の背側面に墜落させた。

 朱音は無傷ではあれど、三枚の石柱の中に閉じ込められて逃げ場を失い袋のネズミとなった。


 この隙を利用して、ファティナは朱音にバイタル切断を行うかを決断しなければならなかった。

バイタル切断権は織図から一時的に与えられている。権利は完全に譲渡されるものではないが、死神の許可が下りれば問題はない。

 陰陽階神法のことはもう気にしている場合ではないのだが、 ファティナの性分として、朱音を殺すために合理的で合法的な、もうひとつの決定的な理由を探してしまう。


 ああ、分かっている、朱音は無実だということ。

 命を断ちたくない。


「何をぼやぼやしている」


 下にばかり集中していた彼女は不意に上空からかけられた女声に驚いて、弾かれたように振り仰いだ。

 彼女は目を疑った。

 ファティナは滞空するその女を知っているからだ。

 上空から尊大な態度で見下ろしている白いニットワンピースを着た女が、解階の女皇アルシエル=ジャンセンであるということ。


 彼女が両手に抱え込むように携えているものが、解階最凶のツール、不可侵の聖典(Inviolably Scripture)であり、その中にひっそりと仕舞い込まれているものこそ全てを貫通する凶器グングニルだということ。


 ブラインド・ウォッチメイカーの差し金で、ファティナを襲いにきたのだろうか。ブラインド・ウォッチメイカーにとりつかれた解階の女皇が玉座をあけて生物階に襲撃を開始した。

 そうとしか考えられなかった。

 ファティナの攻撃が大掛かりで悪目立ちしたために、近くにいたアルシエルを呼び寄せてしまったのだ。


 ブラインド・ウォッチメイカーとなら何とか渡り合えると見積もっていた戦況は逆転した、どうしようもないほどに悪化したのだ。

 ファティナはそのとき、運の無さと考えの足りなさをつくづくと恨み、ΔδΔを口から引き抜いて呟いた。


「アルシエル……何故あなたまで」


 アルシエルとブラインド・ウォッチメイカーを同時に敵に回すことは、ファティナにとってどう足掻いても勝てない戦いを意味していた。

 アルシエルはファティナに畏怖を植え付けたこととまだ女皇の名が生きていることに満足そうに微笑んで、彼女に問いかけた。


「敵はどやつだ」

「?」


 この物言い……。手を貸してくれるとでもいうのだろうか。

 アルシエルはファティナに襲い掛かってはこない。

 それどころか、まくりあげられた彼女の腕をよく見るとスティグマらしきものが見える。


 僅かな間もブラインド・ウォッチメイカーに隙を見せている場合ではないと思いながらも、ファティナはアルシエルに看破をかけた。

 そうでなければ、目的の知れない彼女に背を見せたままブラインド・ウォッチメイカーと戦うことはできないからだ。


 創世者 ブラインド・ウォッチメイカーと、まともに戦えば勝ち目などない女皇 アルシエル=ジャンセン。

 どちらが危険な存在なのか、ファティナは把握しておかねばならなかった。


 女皇は彼女の経歴からは俄かには信じ難い体験を経ていた。彼女はブラインド・ウォッチメイカーの手によって囚われ、二年間俘虜となって恥辱に耐えた。

 幽囚の身であった彼女を解放したのは彼女の腕に宿ったスティグマであり、そして解階と生物階を往来していた荻号 正鵠だった。

 彼女は滅亡した解階から荻号に伴われ、生物階に入り現在は荻号の家に居候している。アルシエルはファティナを襲撃するためにここに来たのではない、加勢に来たのだ。


「ABYSSは、滅びたのですか……」


 知らなかった。

 解階が滅びていたなど。

 神々は把握していない情報だったし、荻号 正鵠も神階に伝えなかったのだろう。

 解階の民もまた、ブラインド・ウォッチメイカーのために滅亡してしまったようだ。

 ともあれ彼女は味方だ。味方であると分かった以上、これほど頼もしい助っ人はいない。


 アルシエルはスティグマに覆われた腕に触れた。呼応するように、淡い光が明滅している。


「我の勘が外れていればよい。だが……此奴めが、よからぬものだと告げている。単刀直入に訊こう、その者は時計職人なのか」

「ええ。おそらく」


 ファティナは真っ直ぐアルシエルの瞳を見据えて頷いた。アルシエルは親友を懐かしむように、石柱の下に顔を向けて目を細めた。


「ここは任せて先に往け、荻号に用があるのだろう。それも軽視できん用だ」

「荻号様がそうおっしゃったのですか? 何故私がここに来ると?」

「同居人なのでな」


 彼女は羞恥する様子もなかったが、顔を赤らめたのはファティナの方だ。

 いつから荻号とアルシエルが仲良く同居などという事態になっていたのだろう、未曾有の事態というか、いよいよ世も末だ。


「ですがアルシエル! さすがのあなたでも……!!」


 ルシファー=カエサルに憑依したブラインド・ウォッチメイカーとアルシエルは直接対決を行い、一度敗北を喫している。彼女は負ける、彼女では勝てない。

 時計職人には勝てないと、あの時学んだのではないのか。


「時計職人には借しがある。千載一遇の機会だ、汝の助けなどいらんよ。往け」

「共闘しましょう、無理です。あの時、あなたは一度負けているではないですか! せめてバイタルロックがなければ、太刀打ちできる相手ではありません!」


 織図の言った通りだ。やはりバイタルロックがなければ創世者を相手にすることなど不可能だと、今のファティナには理解できる。


「ふん……確かめてくれるさ」


 そう言うが早いか、アルシエルはInviolably Scruptureのページを繰り、白紙のページを開いて中に手を差し入れた。

 さざめく紙面の海から隆起してきたものは、彼女の愛用する巨槍グングニル。


 彼女は重量のある巨槍グングニルをバトンのように軽々と振り回すと、石柱に閉ざされたブラインド・ウォッチメイカー目掛けて飛び込んでゆく。


「アルシエル! 中にいるのは少女です。彼女を殺さないでください!」


 ファティナはそう叫んだが、聞こえたのかどうかは分からない。どちらかというと心配なのはアルシエルの身だ。先ほどのように朱音が、いやブラインド・ウォッチメイカーが放つ攻撃を一撃でも食らえば……バイタルロックの掛けられないアルシエルはどう応戦するのだろう。ファティナはアルシエルの逃げ場をつくるためにリングの人差し指と中指を引いて三本の石柱を再仮想化すると、それまでの存在感が嘘のように透明となって雲散霧消する。


 土煙の中から現れたのはファティナが恐れていた光景ではなかった。アルシエルはまだ、朱音に攻撃を加えてはいない。

 アルシエルの端正な美しい横顔は動揺しているように見えた、彼女は朱音と知り合いなのだ。


「依代は汝だったか。結果論になるが、荻号から離れるべきではなかったな……」


 荻号だけが、朱音に潜むブラインド・ウォッチメイカーの危険性を知っていた。

 アルシエルは悔やんだがどうにもならない。

 荻号を伴って来ればよかったのかもしれないが、レイア メーテールを抱えたままでは思うように戦えまい。ここはアルシエルが決着をつけるほかない、どんな手段を用いてでも。


 断じて、レイア=メーテールのもとへ行かせてはならない。

 ブラインド・ウォッチメイカーは腰を低く落とし、瞳を閉じたままアルシエルの鳩尾に中指を当て、親指を人差し指で差し金のように止めて一撃の準備をしている。グングニルを持ったアルシエルは朱音よりずっとリーチが長いのだ、極度の接近戦に持ち込まれれば大槍を振り回すことができない。


「で? どうする」


 アルシエルが強がってそう言った途端、ブラインド・ウォッチメイカーは軽くスナップを利かせて、親指を弾いた。

 ファティナは悲鳴を上げそうになったが、アルシエルは倒れない。

 ニットスカートの真ん中に穴はあいたが、彼女の細いウエストに、先ほど山肌を削ったような風穴も開けられてはいない。

 毛糸の下に見えたアルシエルの皮膚はまったくの無傷だった。

 INVISIBLEに刻まれたスティグマの根が、彼女の腹部にまで手を伸ばして彼女を護っていたからだ。


 彼女は間髪入れず朱音の右手首を掴むと、彼女を押し倒して地に縫いつけ、グングニルの切っ先を手首に突き通し、左手首をアルシエルの右足で踏みつけ、左足で朱音の恥骨のあたりを踏みつけた。

 磔にされた右手首からは、鮮血がどくどくと流れて彩度の低い乾いた地に染みてゆくが、ブラインド・ウォッチメイカーは目を覚ましもしない。

 痛みすら感じていないかのようだった。


「アルシエル……!」


 非情なまでに的確な拘束、打ち抜かれた手首から溢れる赤い色彩を見て、ファティナは竦みあがった。

 使徒は人間と違って回復力に長けている。

 アルシエルが槍を抜いたとしても、人間のように手首の脈から失血死などはしない。

 あくまでも仮に縫いとめているだけ、ということだ。

 しかし次の一言で、ファティナはアルシエルがブラインド・ウォッチメイカーを朱音もろとも葬り去ろうとしていると勘付いた。


「朱音、悪く思うな。汝は助からん」


 アルシエルは険しい顔つきで朱音の喉を素手でわし掴みにし、彼女に最後の声をかける。


「苦しませはせん……一瞬で逝かせてやる」


 まさにアルシエルが彼女の喉を握りつぶそうとしたとき……ファティナは信じられない光景を目の当たりにした。

 アルシエルはとうとう……朱音を殺さなかった。

 慈悲をかけたのではない。アルシエルはグングニルを主音の手首から抜き、瞳を閉ざし、淡い太陽光に打たれるようにゆっくりと空を仰いだ。

 まるで何かを飲み干すように、頭のてっぺんから何かを、下してゆくように。その立ち姿は酩酊として、彼女を取り巻く雰囲気は異様であった。


 まさか……ファティナは凍りついた。

 今、彼女は素手で触れなかったか。ブラインド・ウォッチメイカーの憑依した朱音に、素手で! アルシエルは解階の住民だ、その身はDNAにより支配されており、DNAを持つ生物にブラインド・ウォッチメイカーが憑依するには容易なのだと、感染症U.Iという形を借りたブラインド・ウォッチメイカーからの逆襲は爆発的な広がりをみせたことから、苦い教訓として得ていた。


 文字通り眼光の変わったアルシエルが、ファティナに流し目を向けた。

 その虚ろな瞳、光を映さない黒い瞳の中には、かつての女皇アルシエルはみるかげもない。


「何故……ブラインド・ウォッチメイカーは……石沢 朱音からアルシエル=ジャンセンに」


 ファティナは絶望している場合ではなかった。

 彼女はΔδΔの検索モードを使い、ADAMにアクセスを試み、石沢 朱音の項目を精査せぬままに取り寄せる。


 極陽 創造神下第197使徒……それが朱音の母親の身分だった。

 母親使徒が生物階降下中に犯した重罪により母親は断罪され死罪となったが、彼女は身ごもっていた。

 子供に、生まれる前に殺されるほどの罪はないと憐れんだ極陽により、母親の母胎から人間の母胎に逃がされた使徒の子、それが石沢 朱音だ。

 だから、朱音は紛れもなく、そして疑いようもなく使徒だ。

 しかし何故、使徒である彼女にブラインド・ウォッチメイカーが憑依できる。

 朱音の身体に何が起こっていた? ファティナは尚も膨大な情報を取り寄せ、頭の中で検閲してゆく。全てを説明する事実があった。

 それは母親使徒の罪は何だったか、ということだ。


 母親使徒が死をもって贖わなければならなかった罪は、人間の男性と交わったうえに、遺伝子治療技術を用いて妊娠を可能とせしめたことだ。

 母親使徒は人間の男性に溺れ、執念で愛を実現した。

 信じ難いことだが、朱音は完全な使徒ではない。

 父親の、つまり人間の遺伝子を受け継いでいる。

 この事実を、朱音が知っているかどうか分からない。更に朱音は女性使徒だ。


 女性使徒、遺伝子を持つ、父親が人間、これらの共通点を解階の住民、あるいは生物階の住民たちに当てはめる。

 如何なる条件が揃えば、ブラインド・ウォッチメイカーが憑依するのかということを。


“これは性染色体依存性の……感染症のかたちで憑依する”


 暗い部屋にランプがともったように、ファティナはひらめいた。

 そういえば、解階の住民は全員が女性だ。

 一見男性個体に見えるものも、X染色体上にY染色体の機能が集約し対合している。

 そして生物階でU.Iに感染した人々は男女の別なく感染したが、より早く重篤化し死亡したのは男性(XY)より、男性の二倍の性染色体を持つ女性(XX)だった。

 そのときは、体力のない女性が先に死ぬものだと比企が合理的に考察していたが……理屈が合わない部分もあった。

 女性が男性より重篤に感染していたとすると、その理由を説明できる。

 ブラインド・ウォッチメイカーはX染色体を支配する。

 ブラインド・ウォッチメイカーの憑依に適した器となりうるものは、生物階におよそ30億!! 30億人のテロリスト候補がいるとすると、それは気の遠くなりそうな数字だった。ブラインド・ウォッチメイカーにとって最適の依代……その強さ、その経験、その精神力において、30億人の人間よりはるかに価値を持つその対象といえば――!


“そういえばアルシエルは……スーパーフィーメルでしたか”


 神階でもよく知られたことだが、アルシエル=ジャンセンは複雑に染色体異常を起こした個体で、その突然変異の積み重ねが彼女の不老化と他の追随を許さない強さを可能としている。

 遺伝子型はXXでもXYでもなくXXXXだ、Xが男性の4倍もある。

 ブラインド・ウォッチメイカーからの影響力は最大限となるだろう。


 朱音の2倍……男性の4倍も重篤に憑依される。


“危険を伴えど、神体の仮想化を行わなければ逃げられない!”


 どうやってでも、ここから逃げなければならない。

 ファティナにとってそれだけは最も困難で、最重要課題となった。

 ブラインド・ウォッチメイカーから逃げるためには、ファティナがあの天空のグリッドを介して仮想体(Ideal Body)となるほかに方法はなかった。

 仮想体となって10分以内に現実空間に戻ることができなければ、ファティナは非現実の世界に取り込まれ、自動的に死を迎えてしまう。

 ファティナは確認する余裕もなかったが、アルシエルの肉体にはもうひとつの重大な変化が起こっていた。


 アルシエル=ジャンセンの腕から、INVISIBLEの与えたスティグマは消えていた。



 F-22Aが特務省と衝突した衝撃で吹き飛ばされた遼生は、特務省のすぐ傍を擦り抜けるように一直線に地表へと落下してゆく。

 特務省を通り過ぎ、その真下に回りこんだとき、遼生は何を思ったかジャケットのジッパーを下ろして手早く上着を空中で脱ぎ捨てた。

 黒いセーターを一枚着ているが、外気温は氷点下だ。

 彼はなおも落下を続けながら瞳を閉じると、一語一語を確かめるように明瞭な発音で独り言を呟いていた。


「ALM-24, On」


      「miR-201, On」


              「miR-115, Off」


  「snR-221, Off」


            「SWAD-93 Down regulation」


 一連の単語を言い終えたとき、彼の神体は落下することをやめ、両足はブレーキをかけたように宙に浮いた。

 彼はジャケットを脱ぎ捨てたうえ更に、たった今の間にボロボロに朽ち果てた黒いセーターを下に放り投げた。

 古傷に覆われた素肌の上半身を厳寒の空に晒しながら、特務省の周囲を周回する転移装置の一つに片手をかけて飛び乗る。


 立ち上がった少年の背には櫨染色をした、一対のしなやかな翼が逞しく生え揃っていた。

 ヴィブレ=スミスによって一度は抉り取られたその双翼は、高度な遺伝子発現制御により彼自身の力で再生された。

 一度に数千もの遺伝子制御を行うncRNA(ノンコーディングRNA)の発現を切り替え、瞬間的に皮下細胞を脱分化させ、呼び起こされた遺伝子群が細胞の翼への分化を促したのだった。

 彼はいつでもどんなタイミングでも、遺伝子制御によって肉体に劇的な変化を引き起こす事ができる。


 “高いところから降りられなくなるなど、一度も考えたことがなかった”と遼生が笑いながら言ったのは、彼の特異な体質を踏まえてのことだった。


「恒、僕が落ちたと思ったかな」


 耳を澄ますと、甲板の上の方から、遼生の名を呼ぶ声がかすかに聞こえた。

 何度も、何度も自分を呼ぶ声に、遼生の胸はじんと熱くなった。

 誰かに心配されることなど、数えるほどもなかったものだから。


「心配をさせてごめん、そしてありがとう。でもこの姿では君に会えないんだ」


 彼は言い訳をするように呟いて、ぴんと整った翼の先端を引っ張り、ざらりと撫でた。

 使徒としての特徴を色濃く残した彼の姿を、恒に見せられない。

 それは羞恥や劣等感などからくるものではなかった。

 使徒の翼は使徒の生命線であり、多くの神経が集中して最も感覚に優れた部分だ。


 神のアトモスフィアをエネルギー源として蓄えておく部分だとも言われている。

 翼を失った使徒が長く生きられないといわれるのは、アトモスフィアの貯留ができなくなるからだ。

 しかし使徒と神体の性質を併せ持つ遼生の翼はアトモスフィアを共鳴させ、増幅させる。

 フィジカルレベルは二桁は軽く跳ね上がり、爆発的に能力を高めることができた。


 ヴィブレ=スミスが遼生の翼を抉り取ったのは原因はここにあった。

 極陽は気圧だけで遼生に殺されかけた経験があった。

 実験体に極位が殺されるなどということは、あってはならない事態だったからだ。


 共鳴され高度に圧縮されたアトモスフィアは羽ばたくたびにその振動数から周囲の生体の細胞を傷つける。

 とりわけ人間の細胞はアトモスフィアを伴った共鳴に弱く、恒の細胞をも例外なく傷つける。

 具体的にいえば、血管壁を損傷し出血させる。


 誰かと会うためにはただちに翼の不可視化装置を装着しなければならない。

 不可視化装置は翼を不可視化すると同時に、飛翔のための筋肉の動きをぴたりととめてしまう。

 使徒は羽ばたくどころかぴくりとも翼を動かすことができなくなる。

 そうなるまで恒にはもう会えない。


「大丈夫だよね、君は無事に追いつく」


 特務省は風岳村に向かうだろう、恒はただその背に乗っているだけでいい。

 遼生は恒を信じて、特務省の周囲を周回する転移装置の一基の制御部をこっそりと操作し、遼生だけを機械的に転送させて風岳村へと先回りした。



 レイア メーテールと荻号 正鵠はたがいの目を見つめて向かい合って動かなかった。

 だからといって恋愛関係にあるわけでも、親子関係にあるわけでもない。

 情をかわすこともなく、ただ見詰め合うだけのふたり。

 性に目覚め始めたばかりの思春期の中学生カップルでもそんなことはしない、異様な光景がそこにあった。

 レイアの体験を看破したことによって、いつもレイアに語りかけていたあの声をも、彼は聞いたのだろう。

 レイアは彼の次の言葉から、荻号がレイアの得た経験にほぼ一致するイメージを得たのだと知った。


「飛ぶためだな、もっと遠くへ」


 それはあまりにも一言でよく言い得ていて、真剣な面持ちで問いかけてきた荻号の腕を、レイアは思わず両手で握り締めた。

 それは彼女の何気ない咄嗟の行動だったのかもしれないが、レイアの心が荻号の意識とリンクされたという感触を得た。

 双繋糸を身に帯びていても対象と接触すれば意思を伝える事ができると、織図が言っていたのを思い出す。


“あなたは……全てを視たのですね”


 彼女の思念はどこか観念したようでもあり、安堵したようでもあった。


「理解できないことの方が多いがね。それで、お前はどうしたい」

“迷っています。声を信じるのか、それとも……”

「ノーボディを信じるか、か? ノーボディはINVISIBLEよりずっと狭い視野でしか物事を考えていなかった。いわんや時計職人をや、だな。INVISIBLEが正しいとは言わんが、最も俯瞰的な立場にいたのはINVISIBLEだ」


 INVISIBLEだけが、真実を見通せる立場にあった。

 大は小を兼ねている。

 これだけは認めなければならなかった、INVISIBLEは信じられていたほど、完全無欠にして最強の創世者ではないということを。

 ノーボディの視点からINVISIBLEを理解しようとすることは、最初から不可能。

 だが、あまりにもINVISIBLE を無能と決め付けてかかりすぎた。

 INVISIBLEは最初から知性と意思を持たなかったのではない。

 意志と知性を持ったものが、あまりに複雑な事情を経てINVISIBLEになった……正確に言えば、そうならざるをえなかった。


“INVISIBLEはどこにもいませんでした。あのヒトがそれを知ったとき、全てが……そして気の遠くなるような、長い時間が始まりました。彼は待ちました、ずっと待ち続けて。もう力尽きようとしている最後の力を振り絞って、助けを求めてわたしの中にきます”

「INVISIBLEは結局、何がしたい」

“休みたいと云っているのです、小さな自己の中で”


 レイアはそう言って、肩をすとんと落として深いため息をついた。

 彼女は誰かと情報を共有することが怖かった、また誰かを失わなければならないと思ったから。

 だが、荻号は全てを識っても殺されなかったし、その看破能力で隅々まで理解した。

 心の隅々にまで懐中電灯で照らされたかのように、あるいはずっと日陰にいた彼女の心に不意に暖かな陽が差してきたように、嫌な感覚ではなかった。

 彼は理解者として頼りにはなるかは分からないが、彼の前だったからこそ気負っていたものを吐き出せた。


「その“何者か”がINVISIBLEとなったとすれば、時系列があべこべだ。時間は一方向に進む、その法則を奴は覆してしまった。未来に進んだものが、過去から来た、ということだ」


 荻号もむろん、彼がどれだけ非科学的な言葉を述べているか、理解できていないわけではない。


「何が起こってそうなったのか、そこまでは見通せない。だが一つ言えるのは、過去に二度現れた絶対不及者、その裡に収束していたINVISIBLEは破壊を望んでいたわけではない。依代がINVISIBLEの収束を拒絶した。受け入れられなかったんだ。あまりにも突然で、恐怖のためにパニックを起こして」


 依代としての適格を欠いた器に、割れた器にそそがれた溶鉄さながら……熱量は器を破壊し、周囲を巻き込んだ。

 創世者の圧倒的な力の前に累々と重なる屍を、神々は許さなかった。神々は深くINVISIBLEを怨み、その意図を知ることもなかった。

 それは粛清などではなく、事故であったということを。

 INVISIBLEはただ静かに……小さないれものの中で休みたかった。

 薄く失われてゆく自我、ばらばらになったそれらを繋ぎ合わせて、ひとつの自己に戻りたかっただけだ。


「俺たちにはわからなかったんだ、その意図が……分かろうともしなかった。INVISIBLEが何をしたかったのかを。だから今度は収束する前に、INVISIBLEは手を打った」

“……わたしにスティグマを刻んで、先にしらせたかったと云いました。どうか、怯えないように。苦しめないから……少し休んだら自由にするから。だからわたしの身体を少し、借りたいのだと”


 収束をする前にあらかじめ依代にスティグマによって知らしめ、直接語り掛けて覚悟を求め、器を安定させる……これが、二度の失敗を踏まえた INVISIBLEの今回の戦略だったというわけだ。

 だが、レイアに刻まれたスティグマを見た神々は狼狽し、ノーボディにも扇動され、あまりにも過剰に反応をはじめた。

 それほど重視すべき問題ではなかったAnti-ABNT Antibody Projectが現実味を帯び、ノーボディが抗体活性の増強された抗体、藤堂 恒を使ってINVISIBLEの目的を阻もうとしたとき……INVISIBLEはとうとうノーボディを滅ぼした。


 彼の中に理性が残っているならば、生命を奪いはしない。

 彼は生命という現象を慈しんでいたし、少なくともそうあろうとした。だが今の彼は、かつての彼ではない。


 自分を見失って……狂気に支配された創世者INVISIBLEは彼の目的を邪魔をするものを、排除しようとするのだろうか ――レイアは考えたくもない。

 どこまで? 見境なく? それは恒ですらも?


 恒がレイアを救おうとする限り、いつか恒も消されてしまうのかもしれない……レイアは恒から離れ、誰の目も届かない場所に逃れたが、特務省からは逃れることができなかった。


「INVISIBLEは二度の収束の失敗によって、バランスを崩し意思を失いつつある……ということか」


 もう、彼は自分が何をやっているのかわからなくなっている。

 時々、どうしようもなくなるときがあると、そう云っていた。


 どこまでが自己で、どこまでそうでないのか判らなくなるのだと。

 そんな時、彼はただ苦しげだった。

 心を取り戻して彼を正気に戻したい、彼がまたずっと永遠を生きて、命の営みを守ってゆけるように。


「INVISIBLEは瀕死なのだろう……スティグマという目印も正確につけておけなくなったらしい。そうだ、これはエラーだ。不死身に近い肉体を持つ、つまりレイアに似た肉体の構造を持つ俺とアルシエルを間違えてマークした。アルシエルは老化をしない特異体質だし、俺はノーボディの器だからだ」


 天啓ではなく、ただのエラー。

 その理由をあれこれとこじつけようとした時間が無駄だった。


 実にくだらない。そう思って、荻号はふと腕のスティグマに目を落とした。

 まてよ……荻号の腕には両腕にそれがある。

 つい先ほどまで、右腕にしかなかったものだ。

 レイアと対話をしている間に、気付かないうちに新たに増えていた。

 これは……想像していたより、INVISIBLEは衰弱している。


 彼は、レイアという止まり木まで羽ばたいてくることができるのだろうか。

 それともレイアの目の前で、溺れ死んでしまう病鳥なのだろうか。


「スティグマが増えたな……」

“もう、わたしとあなたを見分けられなくなっているのでしょうか”

「まずいぞ……INVISIBLEがもし、器としての格を欠いている俺かアルシエルの中に入ってきたら。また以前と同じことが起こる、そしてもう“今度”はない」

“わたしが共存在を使ったから……おかしくなったのです”


 共存在を使うことにより、スティグマの一部を落としてしまった。

 彼女はもう二度と共存在を使うつもりはないという。


「共存在を使うと、スティグマが落ちる?」


 荻号は眉をぴくりと動かした。


“そうだと思います。次、INVISIBLEが収束できなければどうなるのでしょうか”

「INVISIBLEは自我を失い、薄くなってゆく。それはINVISIBLEのエネルギーの求心力を失うということだ……ひとつの宇宙が終わる。無限に拡散されゆく宇宙…………凍りついてゆくのか。元素も、時間も、光も熱も密度も失って」

“冷たくなってゆくと、そう云っていました”


 創世者は秩序を持って、エネルギーをとどめて置くための求心力だ。

 その意思が損なわれれば、肉体が屍となり土に還るように……そういうことだ。

 INVISIBLEを助けるほかに、生き延びる道はないということになる。

 冷えてゆく世界、やがて訪れる、熱的死。全てが凍りつく。

 荻号はひとつの提言として、とんでもないことをさらりと言ってのけた。


「俺に出来ることは何もないと思っていた。だがひとつ、出来ることが見つかりそうだ。俺が死ねば、さすがにお前にスティグマが戻るだろう。お前は完全な絶対不及者となれる」

“そ、そんな……! や、やめてください”

「俺もこの状態じゃ、そう簡単には死ねないだろうな。やるとしたら俺のバイタルが0になるまで共存在を発動し続けることだ。やるたびにスティグマも削れて一石二鳥じゃないか」


 レイアは突拍子もない話になってしまって、動揺している。

 荻号は自暴自棄ともとれる発言をしたあと、急にのけぞってソファーに腰をおろした。


「だが、この話はそんな単純なものではないんだ。判ってるだろ」

“ええ……とても怖くて。おっしゃるとおりです。わたしはINVISIBLEの味方をしなければなりません、あらゆる現状から、そうしようと思います。でも……怖いのです。ひょっとすると、全部嘘だったとしたら……わたしは取り返しのつかないことをしてしまう”

「俺がINVISIBLEの話を丸呑みして自殺して……INVISIBLEが単純に、気まぐれのために破壊を齎しにきただけと分かったら」


 荻号のいない世界……その時、INVISIBLEに突きつけるべき刃を失うのだろう。

 恒は、INVISIBLEに立ち向かうことができるだろうか。

 覚醒すれば、消し炭にされてしまう超存在を前にして、INVISIBLEを唯一鎮める可能性のあるAnti-ABNT抗体、藤堂 恒は戦えるのだろうか。

 彼に期待し全てを任せきってしまうことは、あまりに無責任にすぎた。

 そして、ほぼ望みのない勝算を放棄するということでもあった。


 レイア メーテールは世界を知らない、だが、守りたい存在もあった。

 彼女の選んだ選択が彼女にとって大切なものを裏切って、大変な間違いを犯していたら――そう思うと、彼女は動けなくなってしまいそうだった。

 彼女が誰を信じるのか、彼女の選択の責任は、三階が負うことになる。


 それにしても……荻号は腑に落ちない顔をしていた。


「INVISIBLEは、いつ生まれたんだ」


 荻号に解けない謎は、まだまだ暗い深淵に潜んでいた。

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