第2節 第20話 Against 9G
「ペンを置いて、もう何も言わなくていい」
レイアにとって一番身近な存在であった恒にすらも口を閉ざした心境が、荻号にはよく理解できた。
言葉にした瞬間にニュアンスを違えてしまいそうであり、非常に繊細な問題でもあり、どのような判断を下したとしても正解に結びつかない解のない問題だ。
彼女が聞いた天啓は……遠い海をゆく一羽の鳥が、死病におかされ力尽きようとしていたとき、海原の小舟の上からそれを見上げる者は手を差し伸べて羽を休める事を許すのだろうか。
そんな問いかけにも似ている。
死病におかされた瀕死の鳥は、舟人を死に至らしめるだろうか。
舟人は病鳥に手を差し伸べないこともできる。
彼女が手を差し伸べなければどうなるのか……死ぬのだ、鳥は力尽きて溺れ死ぬ。
「……何故、“止まり木”を求めるのか。ずっと、その意図がわからなかった」
荻号は彼女に今しがた手渡されたばかりの細糸を、彼女の手首にきつく結わえつけた。
荻号が彼女の記憶を看破したことが後ろめたくなるほど、彼女の マインドギャップは破られてはならないものだ。
この糸を彼女に与えた織図の判断は正しかった。
彼女の記憶には、鍵をかけておかなければならない。
「今、ようやくわかった」
荻号が全てを見通したかのようにそう告げた。
「随分と抽象的な話だな。一体何が言いたい」
アルシエルが水をさしたが、荻号が補足をしないので間に割って入ることをやめた。
暫し沈黙を保っていた彼女は、やがて遠くの空に視線を戻す。
荻号は彼が看破したものによるショックのため気付いていないようだが、西の方角に神が現れたのだ。それだけなら何も思うことはないが、見逃してはならないのはアトモスフィアが散乱状態にあるということ。
つまりこれは、彼なり彼女なりが、窮地にあるということを示しているのだ。
そこに行って、何が起こっているのか確かめる必要があると考えた。
しかし彼女にとって、不本意ではある。
”何の義理があって、神を助けに行かねばならぬのだろう“
不満を述べかけて、苦笑した。
そういえば荻号へのいくつかの、それほど軽視できない大きな借りがあったことを忘れてはいなかったからだ。
おそらくはレイアを通じて世界の根源に触れようとしている荻号を、一緒に助けに行かないのかと誘わなかった。
ふたりで連れ立ってゆくまでもない。レイアが世界の命運を握る女神だというのなら、危険な場所には連れて行くべきではない。
荻号かアルシエルが単独行動を取って、どちらかがレイアを安全な場所にとどめておくほうが得策だ。
彼女はそっと席を立ち、玄関で靴を履いて外に出ると、しなやかな肢体をばねのようにしならせて蹴上がり、持ち前のジャンプ力で音もなく軽快に屋根に飛び移る。
屋根上に立てかけてあったグングニルを足先で弾き、蹴上げて空中で取りあげ、今しがた虫干しをしていた不可侵の聖典の真上に突き立てた。
沼地に沈む櫂のようにグングニルを書物型ツールの中に格納してゆく。
そっと介添えをされ沈みゆく鈍色の輝きを持ったツールを見送りながら、黒く長い睫毛のついた瞳を瞑った。
「しかし、かの者は何故窮しておるのか」
アルシエルは両手で最凶の書籍型ツールを拾い上げると、その感触を確かめるようにやや冷気を帯びた表紙をぎゅっと握りしめ、洋館の屋根瓦を軽やかに蹴って空高く舞い上がった。
*
灰色の空とグレーのコンクリートの敷き詰められた無機質な風景の中に、三角と四角の単純な図形の組み合わせで出来たような、無駄のないフォルムをした F-22A ラプターのボディの上に立ってその鈍い輝きを見下ろす、八雲 遼生と藤堂 恒。ふたりの少年はこそこそと中に乗り込んでいた。
市民開放の日でたくさんの子供達があふれる特別なイベントがあればともかく、無人の基地に子供ふたりだけという状況はあまりにこの場所にはそぐわない。
避難しろとの軍の命令があったのか、基地内にはとうとう、一人の人影も見当たらなかった。
また、神階には 30kg以上の荷物の持ち込みが禁じられているので、10トンを超える戦闘機などお荷物どころか、最初から乗り入れという発想にも至らなかったようだ。
ともあれ、最新鋭ステルス戦闘機は出撃準備がなされたまま、格納庫におさめられもせず屋外に残されていた。
普段ならありえようもないことである。
「だめだよ、そこに入ったら危険だ。そこは乗るためのスペースじゃないよ」
「え? ならどうするの、シートにふたりで座るってこと?」
訓練用の二人乗りのF-22Bは開発が中止となりF-22は一人乗りが普通だが、一人用の機体にふたりで乗ろうとしているのだから矮小なのは当然だった。
結局ひとつのシートに、操縦する遼生が前、恒が後ろに掛けた。
シートに座っている恒の膝に遼生が座っているという構図だ。
計器類のアナログメーターなどひとつもない、デジタル化されたグラスコックピットを指差しで適当に確認すると、暗算で沖縄から風岳村までの燃料の計算をしている。
彼らしいといえば彼らしいのだが、復路のことは考えていない。
どうもこういう、社会常識を飛び越えることには躊躇してしまうのが恒なのだが、彼の行動力をどう評してよいものかわからない。
お世辞にも賞賛には値しないということだけはいえる。
「シートベルトって、しないんだ?」
飛行機ひとつ乗ったこともない遼生が戦闘機を操縦できるのかどうか、恒は心配だった。
彼は自信過剰なのか事実できるのか……恒の疑いをよそに、遼生は今にも飛び立ってしまいそうだ。
「安全志向だね。君が使うといい」
彼は日本円で180億円もする戦闘機エンジンに、車に乗るような気軽さで点火していたところだ。
轟音が耳から突き上げるように脳を揺さぶる。
気がつくとスムーズな動きで、機体は離陸のための滑走に入っていた。
動いている……遼生の一見適当ともとれる操縦によって、米軍が最強と誇るステルス戦闘機が。
空母艦からのテイクオフをも想定しているこの機体はまともに加速すれば離陸までの距離は短く、あとわずか1kmで離陸してしまう。
恒は今更のように後悔した、こんな手段を用いるならもっとましな方法が他にあったのではないかと。
たとえば、沖縄にも配備されているであろう神階の分門を使って一度神階に戻り、比企のOfficial Bird、火鳥「貫」を借りるほうがいい……。
「貫」は火の鳥という名をいただくだけあって、その翼で切り裂いた空気はあまりのスピードのため生じた摩擦熱で、燃え上がるように熱くなるのだという。
「貫」は神階最速を誇る光獣なのはいうまでもなく、空気抵抗を完全に排除できる領域を形成しながら飛ぶので戦闘機よりも断然速い。
一度戻ってタイムロスをしてでも、それでも特務省よりは早く風岳村に着くと考えられる。
「じゃ、いくよ。離陸のためのGは9Gぐらい。最高速でマッハ1.8だ、多分」
「9Gて! 血管切れるよ! パイロットは耐えられないから耐Gスーツを着ると思うんだけど。今からでも間に合うから、極陽に光獣を借りた方がよくない?」
光獣ならば重力緩和機能のついた足輪をしているため、騎乗者に重力負荷はかからない。
いくらF-22Aが高機動性を可能にしているとはいえ、それはパイロットにとって快適だという意味ではない。
一方、飛ぶためだけに存在する、光獣の飛翔は合理的で無理がない。
重力に反してチタン製の重いボディをエンジンで力任せに飛ぶのとは違う。
「耐Gスーツがないとか、文句が多いなぁ。まさか耐G訓練もしていなかったわけじゃないだろう?」
挑発して煽られてもそこは折れてはならない部分だ。
臆病者の烙印を押されても構わない。
「別にロケットや戦闘機に乗る予定もなかったからね。それに、怪しい操縦で墜落して死ぬなんて間抜けすぎるよ、やめよう」
遼生につられて自ら乗り込んだ身でなんだが、恒は弱腰だった。
遼生のしていることは、まさに車を運転したこともない少年が戦闘機を操縦しようとしているようなもの、これが比喩などではなくて事実なのだからもうどうしようもない。
無理なものは無理だ。命知らずの遼生に付き合って死ぬほど、恒はこの世に未練がないわけでもない。
それに、INVISIBLE収束を目前にして自滅してしまっては、これまでの日々は何だったのかということになる。
レイアと違って、こちらは不死身ではないのだ。
神は全能ではなく不死身でもないこと。その単純な事実を認めなければ、命がいくつあっても足りやしない。
「こういうものはよっぽど変な事をしても、それを補正してくれるフライ・バイ・ワイヤ性能がついてるから大丈夫だ」
「ちょ……」
彼はそう言うと、恒の同意も待たず加速をはじめた。
恒は慌ててシートベルトを締めると、体感したこともないほどのプラス方向への重力がかかり、急激にシートに吸いつけられる。
恒は唇を引きつらせながら何かを言いかけたが、あまりの加重で舌を噛みかけたので一旦口を閉ざすことにした。
神々の用いる飛翔術は、新幹線より多少速いかもしれないが、超音速を超えるスピードを出すことはできない。
体力を消耗するうえ、よほど急いでいるときは長距離を飛翔術で移動するより、転移術を使った方が効率的だからだ。
そんな理由で、戦闘機のスピードとその加速が生み出す加重を体感するにあたっての恒の心境は、戦闘機に無理やり乗せられて怯む民間人とあまり大差なかった。
平時の環境下にあって万全な状態では少しも怖くなどない、だが、墜落すれば100%確実にとはいわないがほぼ確実に死んで、そして転移術も使えないとなると怖くもなる。
恒が肩を竦め目と口を閉ざしてから、どれほど経っただろう。
ゆっくりと機体が傾く浮遊感がして、テイクオフから安定飛行状態に入ったことを知った。
恐る恐る目を開けると、遼生はいっしんに前方を見つめ、時折計器を見ながら操縦を行っている。
高度はかなり出ているかと思いきや、彼は低速を飛んでいる。
そしてコックピットの外からすぐそこに見える白いものは……
「ちょ! 兄さん……翼から煙出てるし!! もっと上空を飛ばないと!」
「ベイパートレイルだよ、ただの水蒸気さ。怖がりだな恒は。それに高高度を飛ぶと特務省を見失う。これでいいんだ」
恒が煙かと見間違えるほどに、圧縮された空気が戦闘機の周囲を取り巻いている。
遼生は計器を上手に使いこなしながら器用にステルス戦闘機を巡航させていたが、意図的にスーパークルーズ(超音速巡航状態)には入らなかった。
超音速のスピードで低空飛行を行えば、民家の窓ガラスやプレハブ住宅などをその衝撃波で片っ端から吹き飛ばしてしまうからだ。
彼の冷静な判断と落ち着いた表情を見て、恒も次第に落ち着きを取り戻してきた。
「なんか変なんだよね……どうして操縦できるの? もしかして、あてずっぽでやってる?」
恒は疑わしげに遼生に尋ねたところ、遼生は答える事もせず質問に質問を重ねてきた。
「乖離電位の残留って現象、知ってる?」
造語なのだろうか、捏造なのだろうか。
恒は知らなかった。
これでいて、勉学にはそれなりに勤しんできたつもりではあるが、失念したおぼえもない。
初耳だ。また彼のトンデモ学説を唱えはじめるのではないかと、恒は身構える。
彼は嘘をつかないことをモットーにしているらしいが、相手を煙にまくことが得意だ。
「なにそれ」
「人間は神と違ってね、強い思いをそこに残すんだよ。人の乖離電位はとても強い、だからマインドギャップを形成できないし、人は一つの脳で異なる事を同時には考えられない。人間の思いは強いんだ。神や使徒よりずっとね。何年前に死んだ人間のだって、場合によっては残っていることがあるんだよ」
彼はもっともらしく力説する。
恒を安心させる為だけに、口から出まかせを言っているのではないようだ。
そうだ、人間の想いは強く情は深い。
恒は知っている。そして、思いを残すという言葉も古来より多く存在する。
人間に対するマインドブレイクは簡単だ、それは彼らが強い思いと信念を持っているから。
人間のみがEVEに入ることができるという事実も、強い思いを記憶として残しているからだ。
織図は人の執心というものに、敬意すら覚えると言っていた。
結局どこまでいっても、人々の感情の多様性に、神階の住人は追いつかない。
「残留思念ってこと?」
「簡単に言うとそうだね」
遼生は機内に残された電位から、この場所に座って何百回と繰り返されたフライト記録と操縦士たちの思いを垣間見ていると言った。
パイロット達の強い思い。彼はそれを再構築しなぞっている。
これも遼生のMRIの看破能力の一部なのだろう。
そんなことまで出来るのか……恒はつくづく、遼生と比べて自分は何が勝っているのだろう、劣っていることばかりなのではないかと思った。
彼とほとんど変わらない遺伝子構造を持っていながら、何故これほどまでに差がついたのだろう。生まれ持ったセンスが違うと言い訳はできない。
その理由はひとえに、恒が自発的に組んだ鍛錬は、遼生が強制的に受けた訓練より決定的に甘かったということを実証していた。
遼生はその後も何事もなく平常心で、F-22Aを操縦している。
彼の表情に余裕があるように見えたので、恒は先ほどから言い出せなかったことを切り出した。
「兄さん。そのMRIっていう看破法、今度俺にも教えてほしいんだ」
「だめだ」
たった一言で却下されてしまって、恒は面食らった。
そんなにあっさりと、一言で片付けられてしまうとは思わなかったからだ。
遼生にしかできないことだというのなら、きっぱりと諦めろというのだろう。
恒は不満に思いながらも、口をつぐんだ。
「そう……」
「あ、ごめん何て言ったの? ちょっと今それどころじゃないんだ」
彼は恒の話を聞き流していたようだ。確かに、操縦中に話すことではなかったかもしれない。彼は宣言しただけあって知識はあるようだが操縦に関しては素人同然なのだから、集中力を削るような行為は慎むべきだった。後ほど改めてMRIを教えてもらおうと考え直した。
「黙っとく」
「いや、黙らずに一緒に考えてくれ。燃料が足りないんだ」
「燃料が足りない!?」
MRIの話などどうでもよくなってしまうほどの、衝撃的な一言だった。
「でも、離陸する前にちゃんとそのあたりも織り込んでたでしょ。もう一回計算しようか」
遼生は出発前に、燃料計算をしていた筈だ。
再計算しなければならないというのなら、条件さえ口述してくれれば恒でも暗算ではじき出せる。
彼は操縦で精一杯だろう、そのぐらいのサポートは進んで引き受ける。
「“重い”んだ、この戦闘機は。重力異常が起こってるんだろうね、本来の重量よりかなり重くなってる。あと、低高度を飛んでたからな」
よく知られていることだが、飛行機は低高度を飛ぶほど空気抵抗があって燃料の燃費が悪くなる。
遼生は低高度を飛ぶ特務省を追跡しようと低速で、それほど高くない高度を飛んでいたために、燃料を無駄に消費させていたのだ。
特に、重力異常条件下にあっての低速低空飛行による燃費の悪さは、遼生の計算を狂わせた。恒はまさか遼生がそんな単純なミスをすると思わなかったものだから、気抜けして上ずった声を出した。
「え!? 冗談じゃなく本当に風岳村まで届かないってこと?」
「そういうことだね。ここらで降りないといけないけれど、折角だから乗り換えようか。あれに」
重大なミスをしでかしたというのに、遼生には反省のいろもなしだ。あれというのは、わずか1km前方を悠々と航行している特務省の艦船に他ならない。
「特務省に?! これはどうすんの。乗り捨てていくの?」
「そのつもりだ」
1億ドルもしようかという戦闘機を落として、乗り捨ててゆこうとしている。
恒はつくづく遼生の配慮の足りなさと過激すぎる発想を嘆かわしく思う。
「何を言ってるんだ! 下は街だぞ、こんな重いものを落とせないうえに、この中にはミサイルを山ほど積んでる。これが街中に落ちたら、逃げのびていない多くの人が犠牲になるんだぞ!」
「そうか、忘れていたね。じゃ、二手に分かれよう。僕は特務省の真上につけて、君をおろす。僕はこの戦闘機を無事にランディングさせてから、何とかして君を追う。どうだ、平和的だろ?」
遼生は清々しく提案する。
何とかして、という曖昧なところが不穏で怖いが、戦闘機を落とさずに特務省を追う方法はそれしかなさそうだった。
遼生はそういえばと、思い出したように付け加えた。
「んー、あとひとつ疑問なんだけど」
「何? そういうのは早く言って!!」
恒はまくし立てる。
遼生が気付く素朴なことは恒にとっても重要である可能性が高いのだが、どうも遼生は話を一呼吸おいて、相手の反応をみる癖がある。
こんな非常時に勿体をつけて時間を無駄にしないでほしい、お願いだから。
焦燥感に駆られる恒とは対照的に、彼はどんな危機的状況においても危機感が希薄だ。
「特務省のレーダーはこっちを捉えてないのかな。そりゃ、ステルス戦闘機ってそういうものなのかもしれないけど。さっきから全然、攻撃を仕掛けてこないんだよね」
ステルス戦闘機といえば、レーダーに映りにくいことがうりの戦闘機だ。
攻撃されないことは有難いことだが、これだけおおっぴらに真後ろから尾行しておいて何もしてこないのは確かに、引っ掛かる。
恒は身を乗り出して、辺りの景色を見渡した。
「それってさ……下が街だからじゃない?」
恒はそう言いながら、今もなお危機的な状況にあるのだと気付いた。
特務省は不審なステルス戦闘機の追跡に気付いている、そして乗っている者が軍人ではないということもだ。
気付いてはいるが、攻撃しない。
ここは撃墜できない場所……つまり地上に街があって人がいるからだ、そう考えると辻褄があう。
「ということは、街並みが途切れたら!」
「山間部に差し掛かったら、高度を上げて隠れた方がいいかもね」
「え!?」
何と運の悪いことだろう、熊本市から突然街並みが途切れ、山地が下に見えてきた。
正面に見えるのは酒呑童子山をはじめとする、有名な阿蘇山の北西にあたる山地だ。
高度を上げようとしたが、いつの間にか谷底を航行していた。
F-22Aは特務省に先導され、直進以外の進路を潰されていた。
「まずい!! 特務省の上につけて!」
この時を見計らっていたかのように、先ほどまで閉ざされていた特務省の気球状の艦体の背面のハッチが開き、遠くからでも見分けのつく砲台のようなものが二門出現して、こちらに向けられている。
「早く! 何で逃げないの!」
「撃ってくるまで待つんだよ」
遼生は耳元で叫ぶ恒を振り払うように、短くそう言い切った。
「どうして! 逃げないと向こうの思う壺だ!」
砲門がぎらりと光った瞬間、遼生は右側面ウェポンベイからAIM-9Xを二発射出すると機体を急激に上に傾けてアフターバーナーを点火し超加速した。
ほぼ垂直の角度で急上昇し、超音速状態に入る機体をソニックブームが水蒸気のドーナツのように覆っていることだろう。
歯を食いしばって機体をコントロールし、遼生は機体を裏がえしに翻しながら二発のAIM-9Xが確かに二門の砲に命中したことを確認した。
砲門が完全に破壊されたかどうかまでは確認できなかったが、面食らうか、あるいは修理に手間取ってしばらくそこから撃ってくることはないだろう。
「あそこから熱が放出されるのを、待っていたってこと?!」
戦闘機が発する轟音にかき消されそうになりながら、恒が遼生に問いかける。
「そうだよ。アフターバーナーで燃料をかなり消費したけど、砲台二門潰せたから悪くないよね」
「今使っちゃったのって、AIM-9X?!」
「多分そうだよ」
遼生は兵装を示すグラスコックピットを指差しで確認して頷く。
恒は遼生の思い切った行動と判断に賞賛をおくりはしなかった。
むしろ彼が述べたのは苦情だ。
「何で全方位から攻撃できる赤外線誘導ミサイルを、早々と後方から使ったりしたの! 他のポジションから使えばよかったのに!」
「え? 最近のミサイルって、赤外線誘導なの? そんな事、誰も言わなかったけど」
遼生は真面目な顔をしてそんな事を言っている。
赤外線誘導ミサイルといえば、去年や一昨年開発されたものではない。
もう何十年もそうなのだ。
遼生はパイロット達が残した記憶を再構成して情報を引き出し操縦を行っているので、その判断には間違いはないはずだった……が、情報は歯抜けになっている。
「マジで! この機体に乗ってたパイロットって、実戦訓練に乏しい?」
「ああ、訓練は少なかったのかもね、残留電位が弱い」
実戦訓練をしていないというのは乱暴な言い方だが、恒はパイロット達の戦闘訓練の記憶が、この機体に強い思いとして染み付かなかった理由に思い当たった。
近年の日米関係を考えれば、何も不思議ではないことだ。
「そうか……沖縄だからだ」
そう、この機体が実戦配備されていたのはアメリカ本土ではない、日本の沖縄県だ。
アメリカ本土の基地での訓練とは違い、住民感情に配慮して大規模な戦闘訓練は避けてきた、もしくは最小限にとどめてきたことだろう。
パイロット達は緊迫感のない日々に物足りなさすら覚えていたのかもしれない、そのマンネリ化とフラストレーションが、彼らの実戦経験の記憶を機体に焼き付ける事を妨げた。
残る兵装にミサイルはまだ何発もあるが、遼生が頼りにしていたパイロットの実戦経験が浅いとなると、一発も無駄撃ちするわけにはいかなくなった。
そんなときに、今度はちょうど真下のハッチが開き、大型トレーラーのタイヤほどもある砲門が顔をのぞかせた。
F-22Aの下腹部に撃ち込むつもりなのだろうか。
先ほど遼生が仕掛けてきた攻撃から、まだ30秒も経っていない、迅速な応戦だ。
「また出てきた! ……この大きさ、主砲じゃないの」
「ん!?」
遼生はびくっと肩をこわばらせた。
場に漂う空気に、ほんの少しの違和感を感じたのだ。
恒は不安げに遼生を見守る。
「今度は何!?」
「感じない? ジャミング(電波欺瞞)だ。もうミサイルは使えないね」
戦闘機からのミサイルの被弾を防ぐために、交戦中は妨害電波を出してミサイルを誤誘導することがある。
遼生は強い妨害電波が発信されたことに気付いた。
ミサイル妨害電波が発信されたということは、砲門から撃ち込まれるであろう攻撃の種類がミサイルのような飛び道具ではないということだ。
バーナーのような熱波、あるいはレーザー状の光攻撃を仕掛けられると予測がつく。
飛び道具ならば、フレア(熱源欺瞞)を放って攻撃を逸らすこともできたかもしれない。
だが、真下の砲門の射程にすっかり入ってしまっている。
「恒。この戦闘機を特務省にぶつけて、乗り移ろう。特務省はフィジカルギャップと同原理のバリアを持ってて、速度と質量を持って衝突してくる物体を木っ端微塵に粉砕する。そうすれば、下の被害は最小限で済むだろう?」
何とタイミングの悪いことか、山々の間に再び街並みが見えてきた。
ひらけた谷あいの集落だ。この街の上で衝突事故を起こせというのか。
砲門はF-22A にロックオンされている、妙な行動を取れば砲が火を噴き、真下から火柱が上がる。それほど時間はなさそうだった。
遼生は機首を下に傾けて特務省に突っ込む体勢にもってくると、覚悟を決め表情を引き締めた。
「さあ、いくよ……軌道は整えた。このまま特務省に突っ込む瞬間に脱出する」
「待って! 兄さんは!? ちゃんと座ってないと危険だ!」
「君は適切な姿勢をとらず20G以上の加重がかかれば腰骨が折れて死ぬ。しかも、重力異常も起こっているみたいだしね。僕は君より頑丈だ。加重では死なない。これでいいんだ」
彼は返事もきかないまま強引に射出座席点火のスイッチを勢いよく押した。
恒の座っていた座席は遼生を乗せ、ロケットエンジンによって機体から勢いよく射出され、空中に放り出されると同時にパラシュートが開く音が聞こえた。
高度0、速度0でもパイロットをパラシュートが開く高度まで打ち上げるほどのロケットエンジンに突き上げられ、不適切な姿勢で打ち上げられた遼生は、恒に覆いかぶさるように射出座席の上に乗っていたが、顔を歪めていた。
直後、閃光と衝撃音が真下から放たれた爆風がふたりを煽り飛ばし、更に上空に吹き上げる。特務省のバリアにF-22Aが粉砕されたその衝撃で第二段階的に弾き飛ばされたのだ。
飛翔術を封じられた神は、風の吹くまま錐揉み状態になっている枯葉とそれほどかわらない。
恒は開かれたパラシュートによって衝撃を緩衝し、右手のブレークコードを全力で引いて左足を組み右側に重心を傾けると、グライダーをスパイラルダイヴというテクニックで螺旋状に360度旋回をさせながら高度を落とし、真っ逆さまになって次第に小さくなってゆく遼生を追った。
だが、いくら沈下速度を高めても翼抵抗もなく自由落下をはじめた遼生に追いつく事はできなかった。
「兄さん――――! 兄さん!!!」
恒が絶叫するなか、遼生の姿は小さくなって見えなくなっていった。
グライダーを操る恒もスパイラルダイヴの強い遠心力で頭がどうかしてしまいそうだが、気を失っている場合ではなかった。
このままの軌道では恒も真上から特務省に激突する。
質量とスピードをもって激突すればグライダーごと粉砕されてしまうだろう。
恒は遼生を追うことを一旦意識の片隅に追いやり、特務省の天井にソフトランディングをしなければならなかった。
たんぽぽの綿毛のように甲板に着地すると同時に、恒はポケットの中からよく手に馴染んだ愛用の古いナイフを取り出し、シートベルトとグライダーのラインを身体から切り離した。
ただちにグライダーを切り離さなければ、正面から吹き付けられる風圧にグライダーごと引き摺られて吹き飛ばされてしまうのだ。
「……兄さんは機転がきくから、死んだりしないとは思うけど」
ずり落ちそうになりながらも下を覗き込み彼は大丈夫だと自らに言い聞かせたところで、ほんの気休めにもならなかった。
*
“助けて……荻号さ…ん”
自分が、自分ではなくなってしまう。
朱音は蝕まれてゆく記憶を失わないように、必死に荻号の名を呼んでいた。
彼女の声はどこに届くだろう、誰も聞き届けてはくれない。
荻号のマインドブレイクは対象が彼の視界に入っていなければ基本的にはかけられない。彼の眼の届かないところでどれだけ助けを求めたとしても、助けにきてはくれないのだ。
だからといって、ファティナに助けを求めるのも筋違いのような気がする。
ファティナを背後から不意打ちで襲ったのは、信じたくはないが朱音自身なのだ。
しかも、朱音が指先をはじいてファティナの背にあてたものは、実際には何でもなかったような気がする。
少なくとも朱音の目には何も見えなかった。
体が他人のもののようにいうことをきかないという中で、何が起こっているのか理解できない。
今すぐにでも駆け寄ってファティナを助け起こして気遣いたい、それが本心なのに、足は地に吸いつけられたように自律すらできないでいるのだ。
金縛り、そうまさにその状態だった。
急速に世界が閉ざされているような錯覚に陥る。
この広い世界に、たったひとりきりで立ち尽くしているような気がした。
生まれるときと死ぬときはひとりだ。
母親がいつかの折に朱音に教えてくれた言葉が、妙に思い出された。
誰も助けてなどくれない、それが幕引きというものだ。
終わりというものを現実のものとして体感することは、死に近づくということでもあった。
彼女のなかのものはまさに、彼女を滅ぼそうとしているのだと。
自分と他者の境界はどこにあるのだろう。
ひょっとすると、朱音が思っているよりずっと曖昧なものだ。
今更知っても遅い。
自分が自分であるという現象は奇跡と呼べる偶然によって成り立っていたのだと、悟っても遅すぎた。
“私の中に、何がいるの”
混ざり合おうとする何者かの侵食を拒むこともできず、突如朱音の中で覚醒し牙を剥いたそれに、立ち向かうすべもなかった。




