第2節 第19話 Tracking
「こんにちは、かわいい使徒さん。こんなところで何をしているの?」
ひたすら帰途を急いでいた朱音にとってまさに、寝耳に水だった。
朱音はあまりの衝撃にがくんと、膝がくだけた。
背後から突然、朱音を使徒と呼んでくる女性の声。朱音は凍りつき、すぐさま振り返った。
いつだ、いつから尾行されていた? それより……彼女は誰だ?
「な!?」
すぐ背後にいたのは、ピンクの不規則なボーダーのマフラーが印象的な、ロシア系の白人美女だった。
日本語を流暢に話すので日本人だと思ったのだが、紅茶色の髪の毛と瞳。背丈はそれほど高くはない、笑顔の柔らかさから、優しい印象を受けた。
悪い人物ではなさそう……だといいのだが。
「って、ああっ!」
朱音は声をかけてきた女が左肩にざっくりと大きな切り傷を作っているのを目ざとく見つけた。彼女の纏う裁判官然とした灰色のコートも、左袖が真っ赤に染まっている。
重傷の負傷者だったようだ。
「お、お、お怪我を!?」
「私のことは心配しないで。それよりもあなたは早く神階に戻ったほうがよいでしょう。ここは危ないですよ」
彼女は心から、朱音の心配をしているようだった。
彼女の怪我をどうしよう。上島も出て行ったし、処置をしてくれそうなのは荻号しかいない。
重傷の彼女に付き添っていきたいが、荻号の家に戻っては村を出るバスに間に合わない。
「あの、ひょっとしてあなたは女神様ですか?」
「私はファティナ=マセマティカ、陽階枢軸7位に叙する数学神です。では、気をつけて戻るのですよ」
彼女は驕っているようではないが、使徒なら神々の序列と名ぐらい知っていて当然だろう?
といわんばかりだ。使徒としては常識なのかもしれないが、朱音は神階の事情を知らないし、荻号も教えてはくれなかった。
ひとまず枢軸と聞けばすごい!、とは思うけれども、それ以上の情報を持ち合わせてはいない。
比企の威圧感に比べたら、枢軸のプレッシャーなど何という事もない、というのが本音だ。
朱音は愛想笑いをしてから彼女の行き先を尋ねた。
「あなたはどこに?」
「荻号さまのところにね。情けないことに、転移が使えなくなってしまったの。歩いて参ります、大丈夫ですよ」
彼女は恥ずかしそうに微笑むと、朱音に背を見せて歩き始めた。
そのときだ。ぞわり、と朱音の腹の中で何かが動いたような気がする。
朱音の右腕は機械的にすっと前に押し出され、気付くとファティナの方を指していた。
朱音は彼女の腕を、まるで彼女のものではないおぞましいもののように見遣った。
間違いなかった、彼女の腕には神経が通っていない。
なのに腕は動く。
“何……何で手が、勝手に”
朱音は感覚が痺れたまま、何が起こっているか理解もできないうちに右手の親指と人差し指を合わせて小さく輪っかをつくると、ファティナめがけて指先をはじいた。
そう、おはじきをするように。
朱音の中に蓄えられていた何がしかの力が継がれ、弾かれた。
彼女が弾いたものは、実質は微量の空気だったに違いない。
それも、5mも離れたファティナの髪の毛も揺らすことのできないほどのだ。
流体力学的に微風を生じはしただろうが、それがファティナの歩みを妨げるものでは断じてなかった。
だが……彼女は背を銃で射抜かれたようにあっけなく倒れた。
ふぁさっ、と柔らかい身体が土に落ちる、軽いファティナは畦の上に崩れた。
朱音にはその様子を、ストロボ写真のように断片的に、しかし鮮明に見ていた。
“あ……! えっ……!?”
まだ自分が自分であると確認するために、すぐにでもファティナに駆け寄りたかった。
ちょうどよいタイミングで、小石か何かに躓いただけだろうと思ったから。
朱音が数秒前に行った他愛もない動作のせいで、まさか女神が倒れたとは考えられなかったからだ。
しかし朱音の身体は動かなかった。本格的に金縛りにかかってしまったようだ。
“助けて……荻号さん。か……体が動かない”
朱音は彼と一瞬でも離れてしまったことを後悔し、彼の名を呼んた。
彼にもらった指輪は大切なもので、財布の中に入れてポケットに入っている。
肌身離すなと言われた言いつけを破った、その報いをただちに受けているような気がした。
地に堕とされ土をつけられたファティナはこの瞬間のうちに、何が起こったのか理解できなかった。
この感触、完璧にやられている。
今のはひょっとして……バイタル切断なのか?
そのインパクトはあったが、ファティナのバイタルはまだ奪われていない。
バイタルロック(生命力施錠)をかけているからだ。
だが、その鉄壁の守りがなければ即死だった。
たった今、背後からファティナは射抜かれた。
何に? その回答を得るのは難しい。背後には使徒の少女しかいなかった。
使徒の少女に偽装した、何者かなのか?
息を殺し、やりすごすことすら危険だった。
すぐに応戦しなければ、今度こそ殺される――。
それも今すぐに。
*
遼生は、恒の心の中が激しく波立つのを見つめていた。
さきほどまで鏡面のように静かだったというのにユージーンという言葉によって、恒の脳細胞は励起状態に入ったように動き始めた。
恒の変化を、遼生は少しだけ寂しく感じなかったかというと嘘になる。
そしてあらゆる意味で、彼の中の多くを占める人物に会ってみたいとも思った。
「それで、彼はどこにいるの? 神階にはいないようだけど、生物階にもいないね。それらしきアトモスフィアを感じない」
遼生はさっぱりした顔で腰に手をあて、天井を見渡したが、恒は改めてそれを口にするのも嫌だった。
「もう、どこにもいないんだ」
という厳然たる事実を。
「どういう意味?」
遼生はきょとんとした。
改めてもう一度繰り返さなければならないのかと、恒は口をつぐむ。
はっきり口にしなければならないのか。彼は死んだと。認めたくない、だが認めざるを得ない。
しかし遼生の問いかけは繰り返された。
「そんなこといっても。では、亡きがらはどこにあるの。遺骨も、君はその場所を知らないみたいだけど」
「亡骸?」
そうだ。遼生は鋭く抉ってくる。
恒は具体的に指摘されて、はたとわれにかえった。
彼は死んだ、恒は死んだと思い込んでいる。だがどうやって死んだ。恒ははっきりとは覚えていない。
全てがあやふやなのだ。
「よく見せて、君の心を」
遼生は両手で恒のこめかみを押さえ、焦点を恒の頭の中に合わせて目を凝らした。
この驚異的な遼生のMRIはまさに医療用MRIのようにアタック(入り)とアウェイ(抜き)を対象に体感させない。
そのテクニックは精密機械そのものだ。遼生は恒の頭の中で密やかに抹消されつつあった記憶を、糸を絡め取るように復元しはじめた。
かなり消耗する脳の使いかたをするのだろう、彼の手はじっとりと汗ばんでいる。
「彼がいなくなったから、レイアという子が身代わりになった。彼は……そう、彼は脳死状態にはあったけれどもまだ死んではいなかったみたいだね。ああ……なるほど。消えたんだ、忽然と。脳死状態にあったヒトが、そんなに簡単に消えられるかな」
恒は遼生の透視に誘導され、完璧ではないまでもおぼろげに記憶を取り戻してくる。
「記憶を失っていたのは……なにも俺だけじゃない。誰も思い出すことはなかった。不在だったんだ。陽階7位は」
「そうなの? 皆忘れてたってこと? それって有り得ることなのかな? ないよね」
恒の答えを聞くまでもなく、遼生は自己完結している。
もっと早く……恒が遼生の存在を知っていれば、そう思うと悔やまれる。
彼は記憶の地層を読み解き、誤った記憶に惑わされず真実を見抜くことのできる、他の追随を許さない個性的な看破能力を持っている。
彼とともに現実から目を背けないでいれば、簡単に創世者からの介入と明後日の方向へのミスリードを許すこともなかったかもしれない。
そう、この二年半はまさに失われた時間だった。
恒は完全に、ある特定の創世者からのミスリードに乗せられていた。
そしてもうひとつの敗因は、アルティメイト・オブ・ノーボディすらもそれに気付かなかったことだ。
「ノーボディ以外の創世者からの介入が入ったんだ……ノーボディも消されてしまったし。俺は何をやっていたんだ……」
この二年半、恒は行動を封じられていたも同然だったのかもしれない。
鼻のきかなくなった犬のように手当たりしだいに、漫然と見当はずれな事を繰り返してきただけ。抗体を鍛えさえすればよいものと思っていた。
まだ、間に合うだろうか。
土壇場での軌道修正は。手遅れになっていなければいい。
「そのあたりを含めて、織図様はご存じだったのかもしれないね。だからレイアって子を逃がした」
「そういえば……織図さん、何か変だったな」
ここ二年半の織図を振り返ると、彼はあからさまに恒と接触しようとしなかった。
織図は恒に会うことを明らかに避けていた。
何故あれほど親しい間柄だったのに避けられるようになったのか、今でこそ打ち解けたが、避けられるようなことを無意識のうちにしてしまったのか、ずっと釈然としなかった。
恒はおもむろに携帯を取ると、織図の番号を探る。
あのときどうすればよかったなど、後悔は無用だ。
弱気になるのは最善を尽くした後でいい。
「どこにかけるの?」
「織図さんに」
しばらくコールすると、プツッと電話が繋がった音がした。
「もしもし! お仕事中すみません。もしもし?」
織図は返事をしない。
こちらの声は聞こえているのだろうか、電話口は水を打ったように静かだ。
恒は何度も呼びかけたが梨のつぶてで、返事はかえってこなかった。
「つながらないの?」
「電波が悪いみたいだ、電話は取ってる。織図さん、聞こえてますか? お話したいことがあるんです。ユージーンさんのことです。あなたはご存知だったんですよね。俺、今から生物階に行きますからまた電波のいいところに出たら掛けなおしてください。たぶん、レイアも生物階にいます」
恒は電話を切り、電池パックを裏返して挿入すると、地球上のどこでも繋がる神階連絡衛星電話モードに切り替えた。
これで生物階でも電波が届くはずだ。
織図に真相を訊きたいが、あまりここでぐずぐずしていると生物階に行く時間がなくなってしまう。比企と約束したのは、本日中の降下だ。
今日を逃せば生物階降下の令状も失効する。
「では、生物階に行こう」
「んーと、どうやって神階の門から出るのかな? 確か手続きがいるんじゃなかったっけ」
「そういえば兄さんって、神体の量子化を利用した超空間転移はできないの? 俺一人でも精一杯だから、ふたりは転移に巻き込めないんだけど」
恒は突出した潜在能力を持つ遼生ならば、超空間転移も朝飯前だと考えていた。
恒ができる程度のことは、遼生にも簡単に出来る。
決して過大評価をしているわけではない。
「なんだって?」
遼生は何の話か要領を得ないようで、悪びれもせずにこにこしている。
そうか、そうだな。と恒は馬鹿な質問をしたと悪びれた。
使徒階に幽閉されていた彼に、超空間転移の習得など必要もなかっただろうし、その概念も知る必要はなかった。
教えれば要領よく習得するのだろうが、今は教える時間も惜しい。
こうやってうだうだ言っている間に正規のルートで生物階に入るしかない。
「じゃ、門を使って行こう。令状はあるんだ。……あれ?」
恒は途端に焦りを感じた。何故なら先ほど携帯から志帆梨に送ったメールが、送信エラーになって届かなかったという通知が今、携帯に届けられたからだ。
生物階に何か異変でもあったのだろうかと心が逸る。
志帆梨の顔を見るまで気が気ではない。
「生物階はどんな場所なんだろうね。楽しみだ」
遼生は楽しみにしているようだが、観光をする時間もないとんぼ返りだ。
いつか彼もゆっくりと落ち着いて、平和な暮らしができるようになるといい。
恒は義兄の穏やかな将来を祈りつつも、遼生を連れて神階の門の事務カウンターに行き、てきぱきと段取りよく比企の許可証と降下申請を行う正規の手続きを踏んだ。
「こんなときに、降下なされるのですか?」
「生物階は危険です。お考えなおしいただけませんか」
「極陽の許可は得ています。通してください」
「しかし……」
受付の使徒が五名ほど、恒を心配して集まってきて、口々に手続きをしながら何度も説得にあたる。
恒は比企の所有する有望な特待生として神階に広く認知されている。
大切な人材、もとい神材を失うわけにはいかないと考えたのだろう。
恒は彼らをなだめつつ、手続きを進めてもらった。
「あれ、おかしいですね」
門番の使徒が固く閉ざされた巨大な鋼鉄のハッチを開け、ハッチは轟音を立てて上下に開くと、強い風が吹き込んできた。
恒と遼生は生物階入階のための差圧調整室に入る。
ここで、神階から生物階へ入る者は生物階の気圧と重力に身体を慣らすのだ。
ハッチの奥は、神階の贅を尽くした内装が剥がれた宇宙ステーションそのままの景観がある。
床は漆黒のカーボン素材で覆われ、青い基盤が壁面を走っている。
横幅280m、高さおよそ130mの差圧調整室の奥には、三つの扉が穿たれていた。
神階にたった三基しかない神階の正門の一基に赤いランプがついて、それだけが神階に戻ってきてはいなかった。
リジー・ノーチェスがたった一柱だけ降下しているが、彼女を転送したあとゲートは神階に戻っていたというのに……不審だった。
「誰か出たのでしょうか」
「いいえ、陰階でも降下記録はありません」
門番は慌てて、モニタで降下記録をチェックしている。
門の出入りは厳しく制限されていて、記録簿で管理されている。
紙面の記録簿を見ても、デジタルログを辿っても直前に使用した者はいなかった。
「変ですね。生物階降下はここのところずっと、規制されていますが」
制服を着た壮年使徒の門番が神経質そうに腕組みをした。
「制御エラーでしょうか、すぐに呼び戻しておきます」
彼の相棒の若い門番は首をかしげながら、戻ってこなかった一基を操作して所定の場所に戻すコマンドを打ち込んだ。
「門を使ったのはレイアって子じゃないの?」
遼生が恒に耳打ちをする。
「レイアはゲートを使わなくても転移で生物階に出入りするよ」
彼女はほとんどの事をすんなりこなしてしまう、万能の女神だ。
恒と比企がそう仕立てた。
恒はレイアが門を使ったとはどうしても思えなかった。
それに、彼女はグラウンド 0で……恒の目の前で失踪したのだ。
神階で失踪したのではない。だからといって神階に戻ったとも思えなかった。
「生物階から神階への交通は、現在は一方通行に規制されています。極陽の許可がなければ、あなた方も例外ではありません。では、第一ゲートから生物階降下してください、生物階に出たら…」
「すみません」
恒はブリーフィングをはじめた門番の言葉を遮った。
「その、戻ってこない第三ゲートを使わせてください」
「え? ですが……少々お時間が」
すぐに使えるゲートがあるというのに、恒はわざわざ戻ってこないゲートを使いたいと言っている。
「大丈夫です、待ちます」
「そうだね、それがいい」
遼生もすぐに恒の意図に気付いて同意した。
「神が立ち去っても暫くアトモスフィアはその場に残る、今なら誰がゲートを使ったか分かるだろう。君の判断は正しい」
第三ゲートの到着を待つ間、恒は生物階の状況を門番に訊いていた。
神階にはまた、正門のほかに非常用分門という生物階と神階を結ぶ180基のゲートがある。
これは生物階に降下している神々と使徒たちを迅速に帰還させるための設備で、3基の正門で対応しきれないほどの稼働率が見込まれる時に使われる。
正門のあるフロアのひとつ下の階にある分門から、生物階の人々の受け入れが始まっていた。受け入れた人々はひとまず使徒階の第4~8層に、それぞれの国と地域ごとに収容されるそうだ。先ほど確認してもらったところによると、日本人の受け入れは使徒階5層、エリア17~18だそうだ。
広岡県の人々はエリア17q となっている。
そこまで分かっていれば、志帆梨を捜し出せる。
ただしそれは志帆梨が神階に避難してくれていれば、の話だ。
彼女はまだ生物階に残って恒を待っているような、そんな不吉な予感がした。
「ゲートが到着しましたよ」
「ありがとうございます」
恒は遼生を残して着いたばかりの第三ゲートの中に踏み込み、感覚を研ぎ澄ませる。
自らのアトモスフィアの放散を断ち両手を拡げ、残留アトモスフィアのプロファイリングをはじめた。
感じるのは明るく軽やかな、これは陽階神のものだ。
恒はこの気配を知っている。
いつ感じたものか、記憶を慎重に、順に辿ってゆく。
天奥の玉座に座る比企にデータファイルを納入するために参内した数学神ファティナ、恒は彼女とすれ違っている。その記憶とすぐに合致した。
「わかりました。誰がゲートを使って生物階に出たのか」
遼生は頼もしそうに義弟を見つめると、無言で第三ゲートに入っていった。
*
執拗に繰り返された暴行により遂に意識を落としかけた織図を蹴りつけながら、バンダル=ワラカは再三マインドブレイクをかけたが、頑として彼の思考回路は看破不能だった。
血だまりに浸ったサンダルを床になすりつけ、優位な視線から織図を見下ろしていたが、 彼は決して優位な立場に立っていたわけではない。
織図は黙秘を貫き、一つの意味でバンダルとの駆け引きに勝ったといえる。
その代償はあまりにも彼に痛み、それどころか生命の危険を強いた。
「……何が起こっている」
バンダルはどう考えても、勿体をつけず織図を殺しておくべきだという判断に至った。
織図は特務省に対して背任ともいえる行為を行ったが、どのようなトリックを用いたのか、その思惑を知ることはできない。
それであれば不安要素は消しておくのが定石だ。
織図は荻号 要の動向を探るために重宝していたが、荻号 要を失った今となっては他の職員と比して処刑を強く躊躇する理由もなかった。
少しの手がかりの見逃さないために織図の所持品をあらためているうち、静かな室内に不意にバイブ音が鳴り響いた。
織図の白衣の下に、蠕動する物体がある。
バンダルは無言で手を伸ばし、他人の携帯をわがもののように取り上げた。
携帯を耳にあてがうと、聞こえてきたのは少年の声だ。
『織図さん、聞こえてますか? お話したいことがあるんです……』
少年が電話を切るまでバンダルは無言で彼の話を聞いた。
少年にあれこれ尋問する必要などなかった、彼はこちらが話しかけずともぺらぺらと喋ってくれたからだ。
その結果彼は織図がレイアを極秘裏に逃していたことを、それほど労せずして知ることになった。
通話が終わったあとの着信履歴を見ると、電話の相手は藤堂 恒というようだ。
名前が暗号化されていなかったのが仇となった。
思わぬ情報を得たバンダルは、忌々しそうに舌打ちをした。
織図が彼の全てを賭して守り抜こうとしたものは何ら悪意もない少年の、タイミングの悪い一本の電話によって簡単に崩れ去った。
バンダルは織図に謀られていたと知り苦々しそうに床に唾を吐き捨てはしたが、織図に気を遣うこともなく彼を残して部屋を出ると、扉の外に直立不動で待機していた専属の秘書官に命じた。
「藤堂 恒という者を洗え。使徒か神かは知らん」
「織図様の処遇はいかがなさいます」
扉の奥の暗闇の中、血だまりの中に沈んで動けなくなっている織図を気にしながら、彼は恐る恐る尋ねた。
密室の中では長時間にわたり、織図への粛清が行われていた。
それを邪魔立てすることなど、誰にできただろう。
「まだ使えそうだ。今は生かしておけ」
バンダルは織図を振り返ることもせずに命じた。
秘書官は黙礼し、部下に指示を飛ばしていた。
有能な彼の秘書官は五分としないうち、藤堂 恒に関わるデータを収集し整理してきた。
比企がその権限においてひた隠しにしてきた藤堂 恒のデータは、特務省の独自のネットワークによって少しずつ採集されていたのだ。
彼の神体は人体に酷似している。神体検査の際に正式発表された、珍しい特徴を持っている。藤堂の正体が割られることはなかったが、さすがに極陽が擁する少年神だ。
使えないただの鼻たれ小僧ではないと、目のきく彼はすぐに見抜いた。
彼のデータに執拗なまでに目を通し証拠固めをしながら、レイアと藤堂 恒がかなり親密な関係にあったことを裏付けていった。
そして藤堂が生物階に向かうとしたら、真っ先にどこに行くべきかということも。
「必ず、燻り出す」
彼は虚仮と知った階下のレイアを見下ろしながら、彼女に対する妄執とも取れる言葉を浴びせかけた。
*
「へえ! 広いな、生物階の空は。使徒階の空よりずっと青いし、雲もある!」
ゲートから入階衛星に降り立った遼生は、初めて見る生物階の空に触れはしゃいでいる。
そう、使徒階には雲がない。
遼生は雲をはじめて目にして浮かれているのだ。
このひとはどうしてそんなに暢気でいられるのだろうと、彼よりは多少慎重なものの考え方をする恒は理解できない。
これからまさに三階が本格的な危機に見舞われるというときにいい気なものだ。
入階衛星の形状は生物階でいうところの、海の上に浮かぶ灯浮標に似ている。
衛星の下部にはジャイロがついていて常に下を向くようになっているので、宇宙に向かって伸びる塔のような姿勢をいつも維持している。
神階の第三ゲートから入階衛星のタラップに転送されたふたりは下を見下ろしているところだった。
恒は義兄の楽観的な性格に救われながら遼生の腕を握った。
「いくよ」
「転移かい? まずは君の家だったね」
恒は実家にイメージを繋いだ。彼にとっては何ということもない三つの動作だ。
場所を思い浮かべトンネル効果を利用して基空間に出て、座標を捜しその場所に降り立つ。
たったそれだけの、幾度となく繰り返した動作だ。しかしこのとき、恒の直感が告げていた。
基空間への抜け道を見失っている、転移は不可能だと。
「え!?」
「どうした?」
「転移が使えない。待って」
恒はその場でジャンプして、血相を変えた。
瞬時に感じた違和感、神階の何倍かの重力を有する地球上ではあるが、それは直接の原因ではない、体が異常に重い。鉄でできているかのようだ。これではまるで……。
「何か変だ、俺だけ?」
飛翔態勢に入ろうとして失敗をする恒を見て、遼生は含み笑いをしていた。
恒はしゃくにさわるので、遼生にも振ってみた。
「笑ってるけど、兄さんはできるの?」
「別に君を馬鹿にしてたわけじゃない。だって、ははは、こりゃいい。高いところから降りられなくなるなんて、一度も考えたことなかったからさ」
「何がおかしいんだよ……」
こんな時に笑っていられるほど、恒は頭が足りないわけではない。
「君と一緒にいると、何でも楽しく感じるんだ。申し訳ない」
「いくら何でも、この高さから落ちたら死ぬんだぞ。フィジカルギャップだって足りない、下は海だ。海って、落下物にとってはコンクリート以上に硬くなる。ここから落ちた場合の落下衝撃力なんて、簡単に計算できるだろ?」
少しは真剣に事の重大さを論じてほしい。
頭のきれる彼の事だから、まったく楽観視しているわけではないとは分かっていても。
「そんなの、分からないね。君のいうコンクリートってのが、どの程度の弾性を持つか知らないから立式できない」
「転移が使えなくて、飛び降りたら死ぬとしたら?」
「飛び降りるよ、僕は」
遼生はさらりとそう言った。
「死ぬって!」
ひとの話を聞いていたのかと怒鳴りつけたい。
義兄だからといって構うものかと恒が口を開きかけたところで、遼生も彼の持論をぶつけてきた。
「死なないよ。どうして死ぬの? 斥力中枢での飛翔の原理において考えてみなよ。なら、反発力を生じる現象を利用すればいい。幸い下は海だし、アトモスフィアは磁気を帯びる。もっと説明しないと分からないのかな?」
その先を言わせるほど恒は愚鈍ではないが、それにしてもひどい発想だ。
いくら計算上では当たっていても現実味がないのなら、それは妄想と変わらない。
「まさか……アトモスフィアで海面を磁性化するとか?」
海水は純水と違って、磁気を帯びやすい。確かにそうだが……海面を磁性化し、同じ極性を持たせたアトモスフィアを反発力として用いれば、衝撃を和らげられる。
遼生はそう言いたいのだろうか、そうは言わないでほしいと思った。頼むから。
「ほらね、できそうだ。君は後から来るといい。でもあまり遅れないようにね」
遼生は言い残すと怖じることもなく、真剣な面持ちで頭から空に飛び込んでいった。
ひゅうっ、と遼生の落下音が聞こえてきて、恒は肝を冷やした。
彼は何をしている、冗談じゃない!
「兄さん! 馬鹿すぎる!!」
勇敢と無謀は違うのだと、言ってやりたい。
しかし、恒も続いて遼生を追うはめになった。
彼ひとりをみすみす死なせるわけにはいかない。
恒はFC2- メタフィジカルキューブを手にし、ロックを外しながら入階衛星の縁を蹴った。
神具の中に反発力を生じるコマンドはいくつかある、それを相乗させれば……少なくとも遼生の発想よりは現実的だ。
それに、海水を磁性化させるために必要な量のエネルギーをほぼ瞬間的に海水に叩きつける、それは海面衝突ぎりぎりでなければ不可能だ。
彼の鼻先が水面についてからでは遅い。
彼が海の藻屑となる前に遼生に追いつかなければ!
奈落へと落ちて行くかとも思われるような風切音が、恒の耳を吹き飛ばすかのようだ。
遮ることもできない風圧は、時折下から打ち付けてくる埃をともなって角膜の水分を蒸発させひりつかせる。
それでも目を閉じる事はできなかった。
数十秒後、ちょうどエクマン境界層から落下を続けていた恒は、接地層に滞空して上を見上げている少年をみとめた。
遼生は恒が想定したよりずっと上空で、海面の磁性化を行って反発力を生じ浮遊していた。
遼生は大きく手を振ると、恒が上空からすれ違う瞬間、示し合わせていたように恒の手を鷲掴みにした。
「すごい! 信じられない」
「うん、馬鹿じゃないからね」
恒は神具も持たず生身でのりきった遼生の適応力に素直に感動したが、遼生はおざなりな返事をすると、恒の手を掴んだまま海面に降り立ち上空を見上げた。
そういえば僅かに、日が翳ったような気がした。
「見て、恒。あれは何だろう」
遼生は逆光に手をかざし目を細めながら、一点を注視している。
彼の顔はもう笑ってなどいない。あの自信家の遼生が、凍り付いている。
「あれは!!」
恒は遼生が指をさしたものを見て、ひとまず叫んでみた。が、見当もつかない。
「何なの?」
「何?」
遼生が恒に訊ねているのに、恒も遼生に自信なさげに訊ね返す。
それが紛れも無く人工的に造られたものだということはわかる、だが恒はこれほどの大きさと質量を持った建造物が重力に引かれて地面に衝突せずに宙に浮く動力源に思い至らない。
飛行船を馬鹿でかくしたような、ラグビーボール状でありながら、硬質の外壁を持つ要塞のようでもあった。
その全長は見渡す限り何kmあるのだろう。
要塞の側面には窓ひとつないばかりか、ライトも灯っていない。
飛行するための翼もエンジンもない、ただの巨大な飛行物体。
その得体の知れない不穏な姿に、恒は恐々とした。
あたかも海中に巨大な魚でも潜んでいるかのように海上に大きな影を映じていた。
「知らない。でも」
あまり、よいものではない。
空中要塞の腹の部分には紋章が刻まれていた。遼生はじっと目を凝らす。
「特務省かもしれない」
遼生は僅かな濃淡によって見分けることのできた絶対不及者への“聖櫃”を暗示する、特務省の紋章をみとめた。
「特務省って? 織図さんがいる特務省?」
「そうだよ。特務省は確か、移動要塞なんだ。普段は神階に係留されてあたかも動かない施設のように振るまっているけれど、戦艦として機動性を持っている。 INVISIBLEが来るかって時だから、特務省も動くよ。それも神階とは独立した独自の判断でね。ほら、よく見ると周囲に四隻の小さな衛星が周回しているだろう。あれがおそらく、転移層を生じる膜を張り簡易ゲートを発生させる高エネルギー相転移装置だ。特務省はそれを通って生物階に来たんだよ」
「すごい……何でそんな事まで知っているの?」
恒は尊敬をこめたまなざしを向けているが、遼生にとってそれは決して誇りに思うようなことではなかった。
「父のおかげだよ」
そこにはヴィブレ=スミスからの多大なる影響があった。
口述で教わったのではない。むしろ、無理矢理刷り込まれたというべきだった。
人格の認められなかった遼生は現実の世界に触れることが許されず、拘束されたまま一方的かつ膨大な知識が与えられた。
神経に接続端子を刺し込まれ、情報の取捨選択はおろかその流入を拒む事すらできなかった苦痛に満ちた辛い日々を振り返る。
彼の脳をあたかも生体ハードディスクのように見做したがゆえに、父は遼生の感情や自我を司る脳領域は必要のないものとして容赦なく削り込んだ。
父は実験体が心を持つことを、許さなかったのだ。
しかし、八雲 青華は親心として遼生の心を完全に消すことはできず、一部を残したため遼生は生殺しにされ、自我を持って苦しみ続けた。
心なんてなければ楽になれるのにと、遼生が何度思ったか、彼女に乞うたか知れない。
そして母親が遼生に絶対不及者の体液を投与したあの日から七年という長い長い時間をかけ、遼生は少しずつ記憶を整理し自我と感情を取り戻してきた。
それは壊されかけた心を再び取り戻すための長い旅路だったのだ。
刷り込まれた知識はまだ彼の記憶から削除されてはいない。
それが今となっては肥やしとなり、彼の武器となっている。
「特務省は、グラウンド0を目指しているのかな」
そう言った恒はこのとき、一つの事実に思い当たる。
「そうだね。君の推測は、正しいのかもしれないよ。特務省はレイアって子を追ってきたんだ」
「織図さん、どうして!?」
恒は織図に事実を確認しようと、携帯電話を取ろうとした。
先ほどの返事もまだかかってはこない。電話口には出ていたはずなのに何か変だ。
「ダメだ!」
遼生は素早く携帯を持つ恒の手を押さえた。
「!?」
「逆探知される!」
「何で俺が特務省にマークされるんだよ」
「君はレイアの居場所を、直感的に推測したにすぎないかもしれない。でも、特務省はレイアの居場所を掴みあぐねていて……」
「俺がさっきかけた電話がってこと?! 織図さんはリークなんてしない」
「というかさっき君、“電波がわるい”って、言ってなかったっけ?」
遼生は盗聴されたと言いたいのだろう。
レイアに近い恒からの情報は、彼らにとって信憑性のあるものだ。
行き先を見失っていたというのなら、手持ち無沙汰にかどうかは知らないが、生物階を目指しもする。
「急ごう。特務省より早くレイアって子を見つけないと。とりあえず、陸地まで走るよ」
「……ここ、沖縄本島あたりだよ。転移も使えない、まわりは死ぬほど海だ! ずっと走って行くの!? 特務省の艦はそんなに速くはなさそうだけど、とても追い付けないよ」
遼生と恒は海上を走りながら、怒鳴るように会話している。
大声を出さなければ海風にもっていかれて、声がかき消えてしまうのだ。
遼生が先導して海面を磁性化し、磁力が消えないうちに恒も遼生の拓いた海上の道を駆け抜けるという連携で、彼らは海上を疾走していた。
幸い、船の一隻にもお目にかかっていない。
漁師も避難するので精一杯なのだろう。
「その沖縄本島てのは、死ぬほど海に囲まれているのかい」
地理を知らない遼生でなければ、真面目に答えるのもバカバカしい質問だが、恒は律儀に答えてやった。
「そうだよ」
「死ぬほど海に囲まれてるなら飛行機があるだろうね。小さいのでいい、使わせてもらおう。贅沢はいわないけど、戦闘機があればいいな」
遼生はぶつぶつとつぶやいている。
「米軍の戦闘機を使うってこと!? フェンスをまたいだだけで空軍に射殺されるよ」
射殺されるまでは言いすぎだが、即身柄を確保されることは分かりきっている。
そして一度拘束されたら、事情聴取などに時間がかかってなかなか釈放してもらえそうにもない。
遼生はわざわざ後ろを振り向いて、薄く笑いながら恒に尋ねた。
「さっき門番が、生物階から殆どの人間は避難するって言ってなかった? 空港に残ってるのは誰?」
「無茶苦茶だ……兄さん、過激すぎる!!」
彼の思考回路は容赦ないまでに合理的だ。
だから理論的にそれが正解であれば、現実ではどうかなど考慮もしない。
恒ならば飛行機をジャックするなど思い至りもしないような犯罪まがいのことを、何の罪悪感を感じることもなく、平気でするのだ。
遼生はまだ、夢の中で生きているような心地でいるのではないか。
恒はそんな錯覚を覚えた。
やっとのことで沖縄本島に上陸した頃には、特務省の艦の尾部が過ぎ去ってゆくところだった。
そういえば、何故特務省は広岡県に転移をせず、入階衛星のある沖縄のあたりに現れたのだろうとちらりと思ったが、恒が第一ゲートを使ったという事がリークされているのかもしれなかった。
特務省は海上を走っていた恒と遼生を視認しているのだろうか、いないのだろうか。
どちらにしても、彼らより先に村に着かなければならなかった。
恒と遼生は看板を頼りに沖縄自動車道を北上し、嘉手納基地をさがし、ひらりとフェンスを乗り越え滑走路に侵入する。
遼生の予想通り、滑走路はおろか格納庫にも誰もいなかった。
ぴかぴかに磨き上げられた戦闘機が、機首を一様の方向に向けてスタンバイしている。
遼生は一番手前に準備されていた戦闘機の操縦席のドアを無理矢理こじ開け、操縦桿を握った。恒が記憶する限り、これは沖縄にはほんの数基しか配備されていない、最新鋭ステルス戦闘機のF-22Aラプターだ……と思う。
恒は機体に乗り込みながら、やっぱりこれだけは聞いておいたほうがよいと思い、恐る恐る尋ねた。
「ところで兄さん、戦闘機操縦できるの? これってステルス戦闘機だと思うんだけど」
「任せて、知識はあるよ」
恒はぎょっとしながら、しかしそれ以上尋ねるのも不毛だった。