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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第18話 Silent

 存在確率の鍵を失ったレイアのスティグマを目のあたりにし、荻号はその膝の上にレイアを乗せ、借家の縁側で考え込んでいた。

 彼女がスティグマの一部を失い、その剥落した部分が荻号とアルシエルの腕に深く刻まれている意味。そして、荻号の心層看破能力をもってして彼女の心の片鱗も浮かび上がってこない不自然を。

 その様子を傍から見れば真冬の空の下、その様子はあたかも膝の上で眠ってしまった娘を前に、途方にくれる年若い父親のようでもある。


「とにかく、叩き起こすか」


 アルシエルは彼女の肩を揺さぶろうとした荻号の手首を掴んだ。


「そう急くな。少し休ませてやれ」


 彼女は荻号からレイアを奪い抱え上げると、彼女のお気に入りのソファーを譲り、毛布を肩にかけ寝かしつける。

 レイアは誰の手とも知らず夢心地でアルシエルの腕に縋りつくように甘え、毛布にくるまってくるりと小さく身体を折りたたんだ。

 その愛らしくもいじらしい様子に、険しい顔つきをしていたアルシエルから微笑がこぼれる。


「赤子のようだ」

「赤子なんだよ、実際。比企が無理矢理こんな姿にした」


 アルシエルは所在なさげに、だが愛おしそうに彼女の頭を撫でてやる。

 アルシエルはこれまでに98子もの子孫をもうけたが、3歳になるまでは乳母にも任せず自らの手元に置いて愛情深く育てたものだ。

 親に愛されなかった子供の愛情への渇望は、成長しても簡単に埋められるものではない。

 アルシエルに対して何か感じるものがあったのだろうか、怯える小動物が僅かなぬくもりを求めるように、レイアはアルシエルの温かな腕を放そうとはしなかった。

 レイアの幼児然とした行動は、忘れかけていたアルシエルの母性本能を呼び覚ます。


「確かに、並み居る神とは毛色が違う」


 毛布の下のレイア=メーテールの肌は瑞々しく、生気に満ち満ちている。

 静謐な佇まいでいて、彼女がそこにあるだけで周囲の空気を浄される。

 息を呑むほどの秀麗さの中に、柔らかな曲線の甘さと触れがたさがある。

 また、彼女の神体を戒めるとも装飾するとも知れない無数の純金の装身具が、彼女の生まれながらの無垢を彩っていた。


「救世者であり、恐るべき怪物のどちらにもなりうる。こいつはそういう存在だ」


 彼女は神階最後の児としてノーボディに愛され、しかし同時にINVISIBLEにも欲された。

 彼女が必要としたものは創世者たちからの寵愛よりも純粋で血の通った周囲との繋がりであり、打算の無い愛情だったというのに。


「彼女はどうなるのだろう」

「二年間も狭い檻の中に監禁され、触れたことも無い世界の為にだと言われ……果たして誰かを守りたいと思うだろうか」


 荻号は縁側の先ほどとまったく同じ場所で胡坐をかいたまま、遠い視線で呟いた。

 アルシエルは彼が何を言いはじめたものか、無言で耳を傾ける。


「……」

「俺なら思えんよ、不出来なものでね。だが、こいつは決してそう思わない。どんな境遇に育っても道を違えないのがプライマリだ。奴らは自らを犠牲にして、名も知らぬ者のために歓んで傷つこうとする。何をあがなわっているんだろうな」


 荻号の語調には妙に力が入っていて、次第に熱を帯びる彼の言葉にアルシエルは無言で応じた。

 ノーボディに愛された者は悲運の宿命を辿ることになる。

 荻号は彼女に同情を寄せている、というより、自身では何一つままならない身の上に強い憤りを覚えるのだろう。

 創世者たちの張り巡らせた糸になすすべなく手繰り寄せられている、感情をあらわにすることのない彼が、珍しく憤慨しているようだった。


「生まれてこなければよかったんだ、こいつら、そして俺のような奴は」


 彼は一方的に結論を述べた。


「俺たちは、あまりに世界の根源に干渉しすぎたんだ」


 呪うように呻いた言葉は、自身にかけられた呪縛でもある。

 彼はノーボディが世界の導き手にと選んだであろうプライマリや荻号という存在は、三階のそこにある生命の平等と主体性を奪うものだと考えていた。

 たったひとりの行動が、世界の命運を握ってよい筈がない。

 こうやってレイアが彼女の独断で、彼女の価値基準に基づいて神階を離脱しその意思を明らかにすることもないことは、三階の総意を踏みにじるものだ。

 正しいまではいかなくとも、少なくとも彼女の選ぶ道はあらゆる観点から“公平”でなければならない。

 その公平性を、荻号は取り戻したかった。


 聞くに堪えかねアルシエルがふと視線を落とすと、レイアは細く目を開き身を竦めていた。

 “生まれてこなければよかった”、荻号の心無い言葉は彼女の耳に入っていた。

 彼女は俯いたまま冷たい雨をやり過ごすかのように身をこわばらせ、息を止め硬直している。よく見ると先ほど以上に、小刻みに震えていた。

 涙の気配はないが、泣いているのだとアルシエルには分かる。

 どこにも預けることのできない遣る瀬無い思いを受け止める。彼女は幾度、こんな思いをしてきたのだろう。


“ピンポーン”


 膠着しそうな空気を破って絶妙のタイミングで、室内にインターホンの音が鳴り響いた。

 この家には大家が月に何度か訪ねてくる以外に、インターホンを鳴らす客は滅多に来ない。


「誰だ? こんなときに」


 荻号が来客に応じて玄関に出て行ったので、レイアは僅かながらの安堵を与えられた。


「なに、気にするな。あれは偏屈だ」


 アルシエルは妙な切り口で荻号を貶して囁き、取り残されたレイアを慰めた。

 彼女はぎゅっと目をつぶると、思い余ったように身をもたげ、母親に助けを求めるようにアルシエルに擦り寄った。

 言葉を喋らないながらに、数多くの子供達を育て上げたアルシエルには彼女の不安と孤独がよく理解できる。

アルシエルはレイアを抱き寄せ彼女の頭を撫でた。

 暫く胸を貸してやってもいい、彼女はいつになく大らかな心境になった。



 渋りながらも玄関扉を開けると、玄関先には大きなスーツケースを持った吉川 皐月が旅支度をして佇んでいる。

 ダッフルコートを着込んで帽子を被り、皮手袋をつけ、いつもの薄着の彼女らしくもなく、もこもこと着膨れている。

 これからの避難生活に備えてなのか、縁厚の赤い眼鏡などかけていた。


「ああ、あんたか。吉川さん」

「お世話になりました、私はこれから避難します。あなたはまだ避難されないんですか?」


 皐月は、ひょっとするとこれが最後となるかもしれない別れの挨拶に来たようだった。


「避難はともかく、移動はするよ」


 生物階は、もう風前の灯火といったところ。

 だからといって生物階と隣接する神階もどこまで持ち堪えられるか分からない。

 生物階からの避難民を受け入れるといっても、神階は決して安全なシェルターではなかった。

 はっきり言ってどこに逃げても無駄なのだが、荻号はそうは言わない。


「風岳村の人々は今日、大半の世帯が避難をするそうです。この便を逃せば、次はいつになるかわかりませんからね」

「残る奴もいるのか?」


 率先して避難をしようとしないくせに、皐月は他人の心配などしている。

 皐月は視線を伏せ、言い淀む。


「ええ、やはりお年を召した方は、環境が変わる事に抵抗があるようで。田や畑、家畜もいます。それに宇宙ステーションでの避難生活だなんて私たちにも想像つきませんし、お年寄りには過酷ですから」

「なるほどね……残る奴が出るとは想像していたよ」


 荻号の想定したとおりだった。

 いくら比企が生物階の具体的な救済策を発表しても、様々な事情で神階に入れない者はいる。

 富にしがみつく者、捨てられない荷物がある者、そしてやむを得ぬ事情で残らざるをえない者。

 避難したくてもできない、寝たきりの病人だっているだろう。

 比企はある意味、神階への門へ招かれざる者を、予めふるいにかけているのだ。


「まあ、同郷のよしみだ。この村のやつらは全員助けてやるよ」

「助ける? どうやって全員を!」


 皐月は思わず表情を輝かせた。また、彼がいつもの大口を叩いたからだ。彼は今回に限らず時々大風呂敷を広げる。彼がふとした拍子に何気なく口にする、とてつもなく衝撃的な、それでいて彼の身の丈にあった一言が好きだった。

 荻号は出来そうもない事を言うが、必ず口先だけには終わらせなかった。


「避難したい気にさせてやるのさ」

「?」


 荻号はやおら人差し指を上に向けて天井を指すと、そのまま頭上でくるりと円を描いた。

 皐月には何のジェスチャーなのかさっぱりだが、皐月が口を開けている間に彼が仕掛けたのは、広帯域の強制MCFだ。

 まだ、荻号のアトモスフィアは生きており、マインドコントロールは有効だった。

 むしろ今展開しておかなければ、この先どこまで荻号のアトモスフィアが維持できるか分からない。

 彼のアトモスフィアは風岳村全域を被覆し、強烈なマインドコントロールの作用場が立ち上がった。

 神具を介して行うMCFとは異なりかなり強制的ではあるが、リスク云々を論じている場合ではない。

 これで風岳村の全村民は避難に向かうだろう。

 幸いなことに、荻号が把握している限り村に寝たきりの病人はいなかったはずだ。


「この村には誰も残らんと思うぜ」

「え? ……?」


 彼女は愛想笑いを浮かべつつ、別段変わった様子がないので首を傾げた。


「外に出てみな」


 村を離れる皐月の荷物は少ない。

 神階への入階者は30kg以上の荷物の持ち込みを禁じられていたからだ。

 銀行の預金通帳や証券、印鑑や権利書関連は持って出たが、それは紙屑同然となる心配もあった。

 風岳小学校の同僚の職員たちは大慌てで、混乱後も資産として使えるであろう金(Gold)を買いあさろうとしたが、需要過剰で購入できなかったという。

 証券取引市場は全世界同時休場、取引再開のめどもたっていない。

 日本政府は混乱の収拾後も銀行預金と土地権利は全額保護すると発表したが、避難生活が終わった頃には全世界的な社会主義化は避けられない様相を呈してきた。

 嵐のあとの濁流に押し流されるように、人々は主権を失ってゆくのだろう。


 日本政府は米政府に続き政府機能の移動を発表し、暫定的にすべての権限を国連執行部に委譲するとした。

 世界は今、唐突に訪れた民主主義の終わりを目の当たりにしている。

 避難中の食糧供給も円滑に行われるかどうか疑問だった。

 国連は当面、充分な食糧を備蓄しているとしているが、いつ生物階に戻ってくることができるのかわからない以上、食糧が底を尽きることは明らかだ。

 そんな思いから、皐月のスーツケースの中身のほとんどは食糧が詰まっていた。

 先行きは見えない、だが命は惜しい。


「あんたも早く逃げたほうがいい」


 避難生活に気持ちが少しも乗ってこないというのに、彼は早くここから出て行けというのだろう。

 突き放したような物言いをする。


「また……ここに戻ってくることができるのでしょうか。何か納得ができないうちに、どんどん話が進んでしまって。大きな隕石が落ちてくるなんて、やっぱり嘘だと思うんです。それほど危険な隕石なら、たった今からでも核弾頭で撃ち落としませんか? 半世紀前ならともかく、突然現れるなんて現在の科学力では考えられませんし……でも誰も、怖くて訊けないんです。これは全世界規模の選民政策なのではないですかって。人々から土地や限られた資源を取り上げて、政府の管理下に置くための。そして、」

「吉川さん」


 荻号はもどかしさを吐露する皐月の言葉を遮った。吐き出せばすっきりするのかもしれないが、こんな時には彼女の不安を更に増長させるだけだ。

 皐月はあまり楽観的な性格ではない。繊細で感受性が強い。

 ひとたび思い悩めば、いつも煮詰まっている。荻号は彼女の性分をよく知っていた。


「あんま深く考えん方がいい。先のことは先のことだ、ぐずぐずせずに早く逃げなよ」


 皐月はしぶしぶ、といったように口を閉ざした。


「では、そろそろ行きますね。本当に、お世話になりました」

「荻号さん!」 


 けたたましく叫びながら、玄関に駆け込んできたのは石沢 朱音だった。

 朱音は外開きの玄関扉を勢いよく開け放ったものだから、扉に背をもたせかけていた皐月は反動でしりもちをついた。

 彼女は絶妙なタイミングで小学校時代の恩師を転倒させてしまって、慌てふためきながら助け起こす。


「あ! さ、皐月先生、何で? ご、ごめんなさい!」

「い、石沢さん?」

「あー……そうか」


 荻号は間抜けな顔をして額を押さえた。

 そうか、たった今荻号が仕掛けたMCFに、朱音もそして彼女の母親も引っ掛かってしまったのだった。どうも見通しが足りなかったと荻号は反省したが、他でもない荻号のかけたマインドコントロールの威力は絶大だ。

 今更、消しゴムで取り除くように取り消せるものではない。

 Mind Controlを重ねがけすることもできるが、それでは記憶を混乱させてしまう。 

 ともあれ朱音もまた、この村には残りたくないという気持ちを強くした筈だ。こうなっては荻号も、彼女を手放さざるをえなかった。


「石沢さん、あなたもそろそろ避難するでしょう?」

「……はい、避難します。荻号さん。お母さんがやっぱり、残っちゃ駄目だって。危ないし……だから」

「それは仕方がないな。親のいう事は聞き分けるもんだ」

「え? で、でも!」


 まさか、嘘だろうと朱音は食い下がる。

 朱音と荻号の関係は簡単に引き裂かれるようなものではない。

 朱音は荻号なしには生きてゆけないのだ。

 朱音の母親は、朱音が荻号とともに村に残るのではなく、荻号が朱音と一緒に避難するよう何とか説得してこいと言った。

 彼と別れる事は間接的に、朱音の死を意味している。彼は朱音に死ねと宣告したも同然だった。


「一緒に逃げましょう。離れ離れになるなんて……考えられません! それに私にはあなたがいないと」


 朱音には荻号が必要なのだ、どうしても。皐月は彼らのやり取りを聞いて、直ぐにぴんときた。

 朱音が絶対的に依存しなければならない、彼女の生死を決する存在といえば……それは、神だ。


「石沢さん?」

「私、あなたがいないと生きていけないのに」


 朱音は荻号の手を取ると、彼女は祈るように両手を重ねて、力強く握り締めていた。

 その姿は彼に祈っているようでもあった。皐月はすぐにぴんときた。


「え? 石沢さん? それどういうこと? ひょっとして荻号さんが……神様ってこと?」


 皐月はいよいよ別れ際になって明かされた事実に、また腰が抜けそうになった。


「ああ、そういえばあんたには言ってなかったんだ」


 木で鼻をくくったように冷淡な態度で、荻号は今更のように大事な情報を出す。

 近所づきあいをしている隣人が唐突に神だと明かされて畏れ多い気持ちになるかというと、それほどではなかった。

 恒が神だったと知ったときのショックほどではない。

 こうやって彼らという宇宙人は、人々の間にひっそりと息づいてきたのだと改めて実証されただけだ。

 そして荻号が神であると信じるということと、手を合わせたい気持ちになることは別だった。

 皐月はさして彼を敬う気持ちにもなれず、ひとまずは苦情を述べることにした。


「もう、どうして教えてくれなかったんです! 水くさいじゃないですか。結構、親しくしていたと思っていたのに」

「別に、宣伝して回ることでもないしな」


 だろ? などと言って朱音と顔を見合わせているのが憎らしい。

 しかも彼が本当にそうなのだとすると、当然彼はマインドブレイクも心得ているだろうし、皐月が神と使徒という存在を、恒を通じて知っているという事も見透かしているのだ。

 神の存在を知る皐月に、ここまで彼の正体を隠し通してきた意味が分からない。

 しかし荻号は荻号で言い分があった。

 長瀬と築地との一連の遣り取りから、あまり目立つ事をしないほうが日本では暮しやすいと気付いたのだ。

 現にこの二年半という間、彼はフィンランド人の薬剤師という偽の肩書きに見合った程度の干渉はされたが、村人達から必要以上に詮索される事も付き合いを求められる事もなかった。

 そうやって気ままにやってきたのに、皐月に正体を知られたものなら下らない事から重大なことまで、思う存分当てにされるに決まっている。それは面倒だ。


「それにしても……」


 皐月は荻号の事情はそこそこに、今度は朱音の心境を気にかける。

 神。すなわち、朱音の魂を繋ぎ止める彼女にとっての無二の存在。

 それは恒ではなかったのか。荻号でなく恒であってほしかった。

 恒というものが身近にありながら、何故敢えて荻号を選んだのか。皐月は朱音の本心を疑った。ただショックだった。

 頬を緩めて嬉しそうに、密やかな恒への思いを恥らいながら語っていたあの頃の少女は、変わってしまったのか。

 朱音は恒への思いを断ち切れるものだろうか。違うはずだ。

 朱音の心変わりは、皐月にとって煮えきらないものだった。

 恒と朱音の関係は決して両想いではなかったという事は知っている。

 そう、恒は誰かを好きになるという感情を生まれつき持てないのだ。

 だが、彼らの間に絆というものはあっただろう。

 荻号の使徒となった朱音を、恒はどんな思いで見つめていたのか。そう思うと辛かった。


「あなたと離れたら私、1ヶ月と生きられないんですよ!?」

「お前なあ……誰のアトモスフィアを貰ってたと思うんだ。確かにアトモスフィアは減衰する

が、1年は死にやしねえよ」


 荻号は中指から枢環を抜き取ると、握り締めて力を込め、彼女の指を一本ずつ剥がして代わりに指輪を握らせる。

 その指輪は朱音の手の中でずっしりと重く、リングに埋め込まれた黒い石には精細な図柄の紋章が刻んである。


「肌身離すな。向こうで何か困ったら、荻号 正鵠の眷属だと言え。それで大抵、何とかなるだろ。あとはアンプルだ。これで1、2、3と……4年はもつ。大切に使え、飢えたら無理すんな。万が一使い切ったら……神階には腐るほど神がいるから、誰かに分けてもらえ」


 彼は念のためにと彼のアトモスフィアをアンプルに充填しておいたものを3本、朱音のポケットの中に突っ込んだ。

 彼女は大切そうに受け取り、顔を熱らせてせつなげに彼を見上げた。

 朱音の命を繋ぐ大切な液体は、彼女のポケットの中でじんわりと温かかった。


「……4年だなんて、嘘ですよね。私が最初のアンプルを使う前にまた、会えますよね?」

「ああ」


 彼は珍しく空返事ではなく、少し視線を落とし、彼女と固く約束をした。


「私、これ。使いませんから。それに他の神様にアトモスフィアをもらうなんて、考えられません。待っていますから、あなたが迎えに来てくれるのを」


 それは、愛情なのだろうか。

 恋人というのも違った。もっと根源的かつ一方的な依存と、一方的な寄与。

 皐月はこれほど根底から結ばれた他者との関係というものを、見たことがない。

 それほどまでに信頼できる他者が、皐月には現れるだろうかと考えた。

 彼女は恥じ入りながら首を小さく振った。

 誰と結ばれたとしても、彼らより深い関係にはなれないだろうと。



 皐月と朱音、かつての担任と教え子は久々に、霜枯れの畦道の中を連れ立って歩いていた。

 村を去るという時になって、どこを見渡しても込み上げて来る思い出が交錯する。

 彼らは不思議と無言のまま、通学路に面した駄菓子屋のある四つ角を曲がる。

 この駄菓子屋を女手ひとつできりもりしてきた88歳の女主人が首をかしげながら、荷物を詰め込んだ風呂敷を背負って店のシャッターを締めていたところだ。


「あれ、ミネばあちゃん。結局避難することにしたの?」

「朱音ちゃんに、吉川先生ね。そう思ったんじゃけどなんだか急に、気が変わっての」


 背の低い痩せた老婆はごつごつと皺の刻まれた手に息を吹きかけ、摺り合わせた。

 白い息が湯気となって立ち上る。


「その方がいいと思うよ、よかったあ。じゃ、またバスで会おうねおばあちゃん」


 朱音は嬉しそうに老婆の肩をぽんぽんと叩いた。

 ミネが店に残ると言い張って今朝まで避難を頑なに拒んでいた事を、皐月は知っていた。

 急に気が変わったというのは、荻号のかけたマインドコントロールのおかげだ。

 よかった、これで彼女は助かる。皐月はほっと胸をなでおろした。

 奥の集落を見ると、村に残ると主張していた村人がぱらぱらと、荷物をまとめて赤煉瓦の家をそれぞれ出て、指定されたバス停に向かっているのが見えた。

 その顔ぶれは高齢者ばかりだ。

 彼らもすんでのところで、命を取りとめる。


「あ、もうこんな時間」


 朱音は腕時計を気にして、唐突に駆け出すと皐月に手を振った。

 風岳村を離れるバスは12時に発車する。

 荻号に挨拶をしてくるからと言って家族を待たせているのだ。

 早くバスに向かわなければ、村を出る最後の便に間に合わなくなる。


「じゃ、そろそろ時間ないですし。一緒のバスに乗りますよね? またあとで」

「待って」


 皐月は、マツが向こうに歩いていったのを見届けてから朱音を引き止めた。

 傍を流れる小川の音が妙にやかましく聞こえていたが、辺りは静かだ。不気味なくらいに。


「?」

「ねえ。どういうこと?」


 皐月は真剣に朱音の顔を見つめて尋ねた。

 急ぎなのは分かっている、だが、どうしても訊いておきたかった。


「何の事ですか?」

「どうして、藤堂君じゃないの? あなたの命を預ける大切なヒトでしょう。どうして荻号さんを選んで、藤堂君を選ばなかったの。私が口を挟むことではないかもしれないけど、藤堂君のこと好きだったあなたが、どうして?」

「皐月先生」


 朱音は胸を締め付けられるように感じた。

 恒という名を聞くたび、塞がりかけていた古傷が熱をもって疼く。

 皐月の言葉に瘡蓋を剥がされるようだった。

 時間がないこんなときだから、皐月も前置きなしに単刀直入に踏み込んでくるのだ。


「ごめんなさい……どうしても私には、納得いかなくて」


 皐月は少なからず悪びれたが、答えを容赦しようとはしない。

 朱音はぽかんと開いていた口をぎゅっと結んだあと、無理な笑顔をつくって微笑んだ。


「先生はもしかして、私が恒君を選ばなかったと思ってるんですね。……違いますよ、全然違います。どうしてそんな事を聞くかな。意地悪ですよ、先生」


 朱音は一段高くなっている用水路の縁に上り、両手をぴんと広げて平均台の上を歩くようにバランスを取りながら打ち明けた。


「選ばれなかったのは恒くんじゃなくて、私の方なんですよ」


 独り言のようにつぶやいたあと、彼女はもう一度はっきりと繰り返した。


「恒君は私を、選んでくれなかったんですよ」


 朱音は微笑みながら顔を崩し、皐月にその顔を見せないよう刈り取られた田んぼに体をむけ、皐月には背を見せた。

 彼女の肩から白いニットのマフラーが二本、ぶら下がっていた。

 目を細めるとまるで白い翼を持った天使のように見える。

 使徒って、立場が弱いんですよね。と、彼女は寂しそうに付け加えた。


「使徒にしてくれと言えば、もしかしてそうなったのかもしれません。でも恒君そゆとこ正直だから。分かっちゃうんですよね」


 幼馴染だから、分かっちゃうんです。

 彼女はかみ締めるように、その言葉を慈しむように幼馴染と発した。

 彼女は言葉を濁したが、皐月はいたたまれなくなった。

 彼女の失恋は、失恋以上の意味を持っていることだろう。


「……荻号さんのことはもしかすると、恒君の代償だったかもしれません。でも、荻号さんと向かい合って過ごしているうちに、今は何度生まれ変わっても荻号さんと一緒にいたいと思うようになりました。だからこうやって別れられるんです。あのヒトは本当に強い神様なんですよ。誰にも負けないと信じています。今の私には荻号さんが必要です。恒くんではなくて」

「そう、だったの……」


 皐月はかける言葉が見つからなかった。

 どうフォローしても、不適切のように思えた。


「私は荻号さんのこと、大切なただ一人だと思っています。……そう信じたいんです。でも、いつもそれとは真逆の疑いと戦っています。もしかしたらそんなのは全部間違いで……使徒は神様なら誰でも、好きになるようにできてるのかなって。だとしたら私、動物と同じなんですね。本能に支配されて恒君や荻号さんのこと好きなんだって思い込んでしっぽ振って。それを荻号さんは絶対、馬鹿な子だなって思ってる。恥ずかしくて泣きたくなるんです。いつも」


 皐月は思い悩む朱音を見て、本音を打ち明けはじめた。


「あのね、あなたは怒るかもしれないけど……さっき、少しだけ羨ましかったの」

「うらやましい?」


 思いがけない言葉に、朱音は赤らめた顔をあげた。


「神様と使徒の関係ってね。お互いを思う心ってきっと、恋愛よりもっと深くて。そう感じたのよ、あなた達を見てね……ああ、無理だなって。私はあなたが彼を思う気持ちの百分の一も、人を愛したことはなかったんだな、ってね」


 自嘲しているのではなく、皐月は深く恥じていた。

 自らの愛ばかりか命をも預ける事のできる相手が、皐月の生涯のうちにひとりでも現れるのだろうかと考えを巡らせたとき、自信を持ってそうは言えないと思ったからだ。

 これからまさに夫婦になろうとする男女が、いくら教会の祭壇の前で永遠の愛を誓ったとしても、その愛が不変のものであると断言できるなら。

 だが現実には伴侶に対する背徳行為も、それほど罪の意識を感じることなく日常的に行われている。

 悲しいまでに、人間は弱い。

 そして、その裏切りが白日のもとに暴かれない限り、彼らは裏切り続けることだってできる。

 使徒は人間とは違う。

 神に対する誓いは真に永遠のものであって、その裏切りは神に見透かされる。

 また神は肉体的に潔白であって、使徒を裏切ることができない。

 使徒が神に寄せる愛情や思慕は人々のそれよりずっと純粋で、丁寧にこし取られた上澄みのようだった。


 そんな彼女の立場を皐月は、不遜にも羨ましいと感じてしまったのである。

 たったひとりだけを見失わずに、永遠に愛すると誓えたなら……。


「皐月先生、そういえば彼氏は?」


 感傷に浸っていると、朱音に話題をはぐらかされた。

 どう返事をしてよいものか、困った挙句のことだ。


「んー、そうね。そのうちね」


 皐月はそう述べるにとどまる。確認するまでもない空返事だ。


「ね、皐月先生。私たち今から神階に行くんですよ、世界中の人々が避難するんです。もしかしたら、いい出会いがあるかもしれませんね。合コンみたいになっちゃって」


 避難生活が楽しい筈がないのに、朱音はわざと明るい話題をふってみせた。

 少しでも後ろ向きになってしまえば気分が滅入ってしまいそうだったからだ。


「そうなの!?」


 皐月は目を丸くしてぐっと身を乗り出す。

 予想以上の反応の大きさに、朱音も若干引いてしまう。

 皐月は村に青年会のファンクラブがあるほど異性にモテる魅力的な女性なので、それほど男性に飢えているとは思えなかったのだが、実際のところはこれほどの世界危機に瀕しても合コンという言葉に反応するほど異性に困っていたのだろうか。


「合コン、楽しみですか?」


 朱音はまじめにそんな事を尋ねている。

 合コンという言葉に喰いついたみたいで、恥ずかしいじゃないと皐月が頬を赤らめたのはいうまでもなかった。


「そうじゃなくて! 私たちはこれから、神階に避難するの? それって恒君のいる場所でしょう?」

「そうです。だって、ニュースみたいに国際宇宙ステーションが本当にあると思わないでしょ? あれ、神階のことなんですよ」

「そうだったの……!!」


 これからの先行きは五里霧中だったが、ようやく皐月はほっとした。

 神階の科学力は進んでいて、地球まるごと1つ分ほどもある巨大要塞が建造され宇宙に浮かんでいる、恒がそう言っていたからだ。

 そこは空気も地球と同じ濃度、重力も地上の1/4あるし、水も植物もあり農業や牧畜も営まれている。

 彼は人間ではないので分からないが、人が暮らすことも充分にできそうだと。


「私も荻号さんと神階に行ったことあるけど、地球とそれほど環境は変わりませんでしたよ」


 朱音の見た神階の比企の空中庭園では、植物が豊かに生い茂っていた。

 息苦しくもなかったし、地球と何も変わらない様子だった。


「よかったぁ」


 皐月は朱音の手を取った。


「でも、私達は神様たちからどういう待遇を受けるんでしょう。神様が皆、荻号さんや恒くんみたいに親切なわけじゃないと思いますし」


 朱音は荻号の家を訪れた比企の、刃物のような触れがたさと威圧感を思い出す。

 神々にとって人々、そして使徒は対等な立場ではないだろう。

 人々にとって畏怖と信仰の対象だった神を前にして凄んだり反論のできる人間が存在するとは思えない。

 人々は神々の奴隷のようになってしまうのだろうか、そして使徒としての待遇は?

 彼女は嫌な予感を振り払うように、用水路の縁から軽やかに飛び降りた。


「不安ですけど、頑張りましょうね。何もかもうまくいけばいいと思います。皐月先生。じゃ、またあとで」


 朱音は走って去っていった。

 皐月も腕時計を確認した。あと20分少々でバスが発車する。


“ところで藤堂君のお母さんは、もうバスに乗ったのかしら”


 皐月はふと、志帆梨のことが気になった。荻号のマインドコントロールにより村に残ることはありえないと分かってはいても、村を出る前に藤堂 志帆梨が避難をしたかを確認しようと決めた。

 時間はもうぎりぎりだが、彼女の行方が分からなければ恒が心配する。

 その程度のことはしなければならないと思った。

 荷物が邪魔になるのでバス停で既に待っている、ミネにスーツケースを見ておいてもらうことにした。

 皐月は何気なく杜の奥を見つめていた。

 バス停の奥は砂利道で、神社への参道になっている。

 風岳神社前停留所、風岳神社の前にあるこのバス停を利用するたび、皐月は奇妙な感覚を覚える。


“またここ……いつも神社。どうして?”


 この場所を通るたび、皐月の胸は締め付けられるようだ。

 彼女は通勤途中にいつもこの場所、風岳神社前のバス停で無意識的に立ち止まり、鬱蒼と木々の生い茂る杜を習慣的に見渡す。

 いつもそうなのだが、普段と比べて何も変わったところはない。

 だが決まって、胸苦しさを覚えるのだ。

 冬枯れの杜の景色は虚しさを加速させる。

 これは何の郷愁なのだろか。理由も知らないまま、皐月は今日この村を去る。

 風岳神社の隣には、無人のプレハブ社務所がある。

 社務所のガラス戸から中を覗き込んでも誰もいない。しかし皐月はこう思ってやまない。


 見えない誰かがいるような気がする――。



「目が覚めたのか。生物階は寒いだろ、何か温かいものでも飲むか?」


 皐月と朱音を送り出した荻号はリビングに戻り、すっかり目を覚ましてしまったレイアにさり

げなく声をかけた。

 彼を怯えているのからか、あるいは萎縮しているのか、それとも薄着のためにこごえているのか、レイアは肩をすぼめながら頷く。アルシエルの娘のように彼女に寄り添っていた。


「玄関先で朱音の声がしたが。手放してよかったのか?」


 アルシエルは地獄耳だ。


「親が反対したんだ。引き止められんよ」

「彼女には一度、時計職人が降りたと言ったが……」


 レイアはその時、弾かれたようにアルシエルを見た。

 ブラインド・ウォッチメイカーという言葉……恒とノーボディの双方から聞いたことのある響き。とくにアルティメイト・オブ・ノーボディとは対極にある、解階を支配する創世者だと理解している。

 生物階は一度、ブラインド・ウォッチメイカーの差し向けた解階の感染者から襲来を受けたと、恒は言っていた。

 レイアが生まれた直後の話だ。その時に感染し奇跡的に死を免れた人々の中には、ブラインド・ウォッチメイカーの息のかかった人々がいると聞いた。

 だからレイアが恒と廻った生物階の各地は、感染者の襲撃を受けておらず恒が安全だと判断した場所を選んでいた。

 荻号の身近に、ブラインド・ウォッチメイカーと接触した人物がいたのか……その人物は玄関先まで迫っていた。

 レイアは途端に恐ろしくなった。鉢合わせをしていたら、どうなったものか。


「なにも朱音だけじゃない。解階の奴らは全員解階に帰したし、生物階でブラインド・ウォッチメイカーの足がかりにされた人間は俺が定期的にフラーレンを介したMCFで感染時の記憶を抑え込んできた」

「汝にとって朱音はその他大勢、ではない。ブラインド・ウォッチメイカーの幻影を見た朱音を依代とされぬよう監視し手元に置いていたのは……彼女が使徒だからか」


 荻号はアルシエルの勘のよさに、思わず口を緩めた。

 利口者は好きだよ、彼は口の中でそう呟いた。


「ノーボディの創造物である使徒にブラインド・ウォッチメイカーが干渉したことを、汝は脅威と考えておるのだろう。だから手元に置いておかねば安心できなかった」


アルシエルは荻号を攻め立てるように追及を続ける。


「鋭いな。そう……俺は朱音の体が受け入れられる上限のアトモスフィアを常に含ませてきた。ブラインド・ウォッチメイカーの幻影はまだ、朱音の中にあるんだ。潜伏感染中とでも言うべきか。俺のアトモスフィアが朱音の身体から枯れた時、どうなるかは分からん」

「分かっていて、手放したのだな?」


 監視を打ち切って支障はないものか。

 またブラインド・ウォッチメイカーの思惑通りに事を運ばれてしまってはもう取り返しがつかない。

 しかしもう、ブラインド・ウォッチメイカーとやり合うつもりはないのだろうなと、アルシエルは覇気をなくした荻号を失望したように見つめた。


「臆病者。何故、挑む前から負けを認める」

「そう言うな。どうしようもなかった」


 彼はアルシエルの視線から逃れるように庭先に出て行った。

 暫くすると薬草畑から薬草を摘んできてそれらをすり潰し、素手で湯を沸かして緑色の塊をポットに突っ込んだ。

 透明な耐熱ガラスポットの中の液体は、じわじわと怪しい紫色の発色をしている。


「たしか庭に生えているものは、毒草ばかりだが」


 アルシエルは、ポットに毒を盛っているのではないだろうなと穿っておいた。


「失敬な。これは正真正銘の薬草だ、体が温まる」


 荻号は苦笑してレモンを絞り、淹れたてのハーブティーをレイアに渡すと、両手で受け取った彼女は目を丸くしてそれを真上から覗き込んだ。

 先ほどまで紫だったハーブティーが、もうシアン化物のように青くなっている。

 これは本当に飲めるものかしらと躊躇したが、意を決して口をつけると、見た目からは想像のできないほど芳しく深い味わいがした。


「ほら。旨いだろ」


 彼女はほうっと白い息を吐き出しながら、異論もなかったので素直に頷いた。

 響 寧々が午後三時きっちりに作ってくれるホットレモンティーが大好きだったが、あの懐かしい味、そして寧々の優しい笑顔を思い出す。

 今頃は寧々が心配しているかしらと、後ろめたさが込み上げてくる。


 それに……寧々もだが、より鮮明に思い出すのは恒の顔だ。

 数日前、レイアが恒とともに彼の実家を訪れた時、レイアは恒の実家からかなりの近距離に、忘れもしない荻号のアトモスフィアを感じていた。

 恒はその時、近所に強大なアトモスフィアを持つ神が住んでいるからと説明していたが、ひるがえって考えるとこの場所が恒の実家に近いことを裏付けていた。

 そしてきわめつけに、織図も恒の家と荻号の住まいが近距離にあると言っていた。


 恒に会いたい、だが彼との再会はひどく怖かった。

 恒とはもうこれまでと同じ関係ではいられないような気がする。

 合わせる顔もなければ、彼を深く失望させたという自覚と後悔がある。

 恒から向けられる視線は間違いなく変容する。

 責めないでくれとは言わないが、とても耐えられるものではない。


 思い悩む彼女のひざの上にぽんと何か軽いものが不意に乗せられて、レイアは現実に引き戻された。

 金色の頭の上に、くしゃっと大きな手を置かれた。


「で、そろそろ質問をしていいか? 手話の心得もないんだろうし、返事はそこに書いて。神語でも何語でも構わんから」


 膝の上の軽いものは、荻号が雑記帳とボールペンを彼女の膝の上に載せたのだった。

 真空中で育った彼女が喋れないということは織り込み済みだ。

 比企は彼女に手話も教えていないと聞いている。


 彼女はペンを取るべきか迷った。

 織図は荻号に全てを話せと言ったが、どうもこの人物は信用がおけそうにない。

 そんなレイアの気も知らず、荻号はもうあけすけな質問を投げかけている。


「まずは、何でここにきた?」


 レイアはペンを取ったが、黙して俯いた。


「どうした。俺に用があるんだろ?」


 ペンは動かなかった。

 彼女は返事を拒んでいる。というより、荻号に萎縮しているのか、その微動だにしないさまは人形のようだ。


「ふん、嫌われたな。口もききたくないそうだ」


 生まれてこなければよかったなどと暴言を吐く相手と、どうして会話をしたいと思うだろう。  

 彼女の反応は至極当然でその権利もあると、アルシエルはレイアに同情を寄せた。


「こいつは口がきけないんだ」

「生まれつきの障害が?」

「いいや。困った事に障害ではない。誰でも無音の世界で育つとこうなる」

「……なるほど」

「そういうことだ。おい、不貞腐れるのもいいが、お前とINVISIBLEとの間のことは、もはやお前だけの問題じゃないんだぞ。答えやすい質問に変えようか、ここに来る前……直前だ。誰と会った」


 彼女はようやくペンをとり、織図と会ったと雑記帳に神語で白状した。


「いい子だ。織図がここにお前を寄こしたということでいいんだな。次。ここに来る前、誰かに見慣れないものを貰わなかったか? 特に織図からだ」


 彼女の手が止まった。

 織図と物品の授受は行っていないし、心当たりもなかった。

 問い詰められても困る。本当に貰っていない場合はどうすればいいのかしらと、彼女は思い悩んだ。

 彼は無回答を許してくれそうにない。


「なんでもいい、思い出せ。何か貰った筈だ。ゴミみたいなものでもいい」


 だが、そういえばと彼女は右手の指先で、左手の手首をちょいちょいと掻いて、何かをつまみあげる仕草をした。

 つまんだものを掲げ、自信がなさそうに荻号の手に乗せた。

 これが荻号の求めているものだとは到底思えなかったからだ。


「? どこに、何がある」


 荻号は何もない掌に目を凝らすと、ごく細い透明な糸に辛うじて焦点が合った。

 一方人間と同程度の視力を持つ、アルシエルの目には見えなかった。


「織図から貰ったものか?」


 頷く彼女を見遣った荻号は、すぐさま彼女に起こった変化に気付いた。

 さきほどまで何も見えなかった彼女の薄い心層が浮かび上がり、マインドギャップが彼女の脳の中で鮮明にその存在を主張していた。

 その糸が、彼女の思考を外部の脅威から守っていたのだ。

 もはや彼女の盾は取り除かれていた。


「もういい」


 彼は彼女の深奥に目を見張りながら、優しく労った。


「ペンを置いてもう、何も言わなくていい」


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