第2節 第17話 Under the apple tree
比企が特務省に登省しバンダルとの接見を申し入れ、バンダルのもとに案内されたのは、久遠柩が発動されて2時間後のことだった。バンダルの部下数名に、付き添われている。
付き添いというよりは、囚人連行に近い。
バンダルはバルコニーで鋭い視線で腕組みをして階下を見下ろしていた。
突っ立っているのではなく、久遠柩の展開が始まった楕円形のホールを見渡せる高い場所から全体の統制を行っている。
彼は比企が足労したからといって興味を示すこともなく、僅かに首を向けて寄越しただけだった。
その横柄な態度は、特務省と陰陽階の実質的な立場を端的に象徴している。
特務省は陰陽階に小指の先ほども敬意を払ってはいない。
至極位不在の今、神階の最上位機関は間違いなく特務省なのだということを比企は直接的に思い知らされる。
「誰だ」
「比企 寛三郎と申す。陽階主神の名ぐらい覚えておいて損はないと思うがの」
生物階の大統領や総理大臣ほど頻繁には代替わりをしない権威ある位階であるというのに、バンダルは主神の名も覚えない。
比企には心底興味がなさそうにまた、階下を見下ろす。下らない、といった表情だ。
「位神風情が。ここに立ち入る事を誰に許可され、何の用がある」
バンダルには横柄に接するだけの実力がある。比企はその点を争わない。
「生憎だが、レイア=メーテールは己が所有しておる。庇護者として見届ける権利はあろう。久遠柩が適切に施術されておるかを監視できねば、即刻陽階への引き渡しを求める」
比企は淀みなく言い放った。
陰陽階神法はまだ生きているからだ。
立法神であった比企は法を熟知していた。
治外法権を持つ特務省管下にあるレイアも陽階神で比企の支配下にあって、彼女の処遇は比企の意思に基づき、彼がレイアを連れて帰ると圧せば引き留めることはバンダルにはできない。
バンダルは忌々しそうに欠伸をすると、バルコニーに比企を通した。
「まあよい。見よ、久遠柩発動から2時間が経過した。術式は安定しておる」
比企が視線を向けると、中央の大きな石造りの祭壇に少女が拘束されている。
彼女を同心円状に取り囲むように白い制服を着た十二柱の神々が起立したまま、無数の黄金色の稲妻らしき光条を彼女に向けて伸ばしていた。
蜘蛛の巣にかかった小さな黄色い蝶のよう。
彼女は微動だにせず、ホール内を静寂が満たしている。
「レイアの状態は」
「事前に鎮静剤を投与し、現在は昏睡状態にある。意識は混濁しておる」
人道的見地からの処置というより、レイアに暴れられるとバンダルにとっても不都合だったからだ。
比企は彼女が目を開かないように願った。
もしバンダルの隣にいる比企と目が合おうものなら、彼女は失意のあまり泣き出してしまうに違いない。
彼女は比企を怯えこそすれ、彼を庇護者だと信じていたというのにだ。
「何故だ」
バンダルは唐突に比企に質問をぶつけた。
前後の脈絡もない問いかけに、比企は眉を顰める。
「何のことだ」
「何故、“思考が停止しておる”」
「己を看破できぬと?」
比企はバンダルを憐れみ蔑むような視線を向けた。
厭味を含み勝利者然とした視線が、バンダルの癇に障ったのは言うまでもない。
「……」
「“看破されうる”状態で、愚かしくも特務省に顔を出すと?」
何を当然のこと、と比企は薄笑いを浮かべた。
彼の実力はともかく隙のなさに、只の小僧ではないなとバンダルは一目置く。
昔、荻号 要と師弟関係を結んだ神が一柱だけいたそうだが、確か比企という名だったか。
荻号の弟子ともなれば、それなりの立ち回りをする。
特務省に丸腰で登省などするものか。看破されることが火を見るより明らかな状況で、顔を見せに来るようなことも。
成程、とバンダルは得心した。
「汝も少しは機転がきくようだ。だが感心はせん」
比企はそう言ったバンダルの言葉尻が引っかかった。
比企“も”、とはどういうことだ? 比企の他に何をした、誰がいるというのだ。
つまりバンダルは双繋糸によるマインドブレイク無効作用を言っているのか。
新調した比企の聖衣に双繋糸が縫いこまれているのは、比企しか知りえないことだ。
双繋糸――それは荻号 要が開発した意識撹乱性準神具。かの存在は神階には一切公表されておらず、比企が荻号から与えられたものでもない。
比企は双繋糸を荻号の書斎から発見し、その材質を分析して真似て作っただけだ。
双繋糸を所持している者が比企の他にいるとバンダルが暴露しているも同然だ。
何度も特務省からの徴用命令を受けながら、徴用を拒否しつづけた荻号は特務省と接点はなかった。
荻号が双繋糸を特務省に伝えたという仮説は成り立たない。
比企はバルコニーから見下ろせる12柱の特務省職員の表情を注意深く観察する。
比企が看破できる職員がこの場にいるのかどうか。
比企の心層は10層に対して、久遠柩の要となっている職員全員が5層以上のギャップを備えていた。
ここで簡単に看破できる程度だと、そも特務省への抜擢はないか、と比企は考えを改める。
だが、何らかの役割を担って彼らの背後に控えている神々のギャップは、全員が全員5層以上ではない。
比企はそのうちの一柱に目を留めた。
マインドギャップ 5層の若い女神が緊張して、大柄な職員の背後に屹立している。
比企はすぐさま遠隔心層看破術(RMB)をかけ、糸を手繰り寄せるように彼女の過去の記憶を暴く。
そう、久遠柩発動の前後にバンダルに訝しまれた者が、たった一柱でも存在しなかったのかどうかを。
“織図か!”
比企は彼女の記憶から洗い出した。
そういえば荻号と織図は師弟関係こそ結んではいないが、荻号の唯一の親友ともいえる間柄だった。双繋糸を知っていて不思議はない。
まして視覚障害を生まれながらにして負い神階の社会的弱者であった織図には、双繋糸はより重宝するだろう。
荻号 要は比企に双繋糸を与えなかったが、織図には双繋糸を与えたようだ。
双繋糸ひとつにとどまらず一事が万事、彼の技術を比企には盗ませ、織図には与えた。
ともあれ、織図は双繋糸を帯びている。
何故織図が双繋糸を帯びたか、それはバンダルに看破されてはまずい事を隠しているからだ。
比企はかなり離れた距離からレイアを凝視した。
発信装置は、まだ彼女の足首にある。
「レイアはずっと、昏睡状態にあるのか?」
「鎮静剤は強力だ、暫く意識は戻るまい」
比企はバンダルの答えに灰色の瞳を眇め、何か確信したように軽く頷いた。
つまり彼女は眠りについて久しいということだ。
「安堵した。少女の態をしておるが中身は赤子だ。貴公の配慮に感謝する。邪魔だてを致した」
「早い帰りだな。監視させろと言いながら?」
バンダルは引き止めこそしないが、比企の言動を明らかに不可解と感じたようだ。彼女を心配して様子を見にきたのではないのか。
五分も経たず立ち去るものだろうか。
特務省の中枢に来るまでの手間と暇を考えれば、もう暫し滞在しそうなものだが。
「こう見えて多忙での。生物階住民の神階への受け入れも迫っておるのだ」
比企は時計を気にする素振りだ。
バンダルがそれ以上追及しなかったので、比企は会釈をして踵を返した。
“随分と大胆なことをしてくれたな、織図”
比企はバンダルに背を向けながら、心中で織図に呼びかけた。
織図はバンダルの目を盗んでレイア=メーテールを逃がした。
遠目には分からずとも、階下に見える彼女は共存在の抜け殻だ。
“何故だ”
その手間と労力にほとほと嫌気がさしつつも、彼はレイアを捜索しなければならなくなった。
「織図」
比企は無意識に足を止めた。
背後でバンダルがよく通る声で織図の名を呼んだからだ。
階下では織図に視線が集まっている。
「術を維持しつつ抜けろ。三上、代われ」
織図はバンダルの一声によって久遠柩の柱の任を降ろされ、補欠の三上という神との交代を迫られた。
バンダルは比企とのやり取りで、織図への疑いを強めたのだ。
不安要素を久遠柩の柱にしておくことは危険だと看做されたうえのこと。
“悪くは思うな。自業自得だ”
比企との遣り取りによってバンダルの嫌疑をかけられた織図はこれから厳しく尋問されるだろう。
しかし、比企にはそれを止めることもできなかった。
また、何らかの法規的措置を講じて彼を救おうともしなかった。
*
「やはり、まだいたな」
特務省から陽階の執務室に戻った比企は恒には目もくれず、冷ややかに遼生を一瞥した。
悪意のある視線ではないが、決して許容はしていない。
「つもる話もありまして。足止めをしたのは俺です」
恒は遼生を庇う。
遼生は潮時とみて比企に深々と頭を下げると、すごすごと出てゆこうとした。
恒とはまだ話したいことがあるが、叩けば埃の出る身だ。
比企と衝突する危険を冒してまで長居をする理由もない。
「長々と、失礼いたしました。早々に退出いたします。さようなら。少しだったけど、君に会えてよかったよ」
「こちらこそ」
恒は別れの握手をしながら、薄型携帯をそっと遼生の手に握らせた。
「これ、餞別に。ミュージックプレイヤーです、俺がいつも聴いている曲が入っています」
「ありがとう、大切にするよ」
遼生との連絡手段を確保しておくことは重要だった。
遼生は恒の目を覗き込むと、軽く頷きそれをポケットにおさめた。
恒の瞳を見た瞬間に、これがミュージックプレイヤーではなく携帯だと気付く。
いつでも連絡が取れるようにとの意図だ。
「汝は」
ドアに手をかけ、遼生がいよいよ出て行こうとしたとき、タイミングを見計らったかのように比企が声をかけた。
何を言われるものかと遼生も身構える。
この部屋で、これだけの至近状態から仕掛けてくることは考えにくいが、呼び止められるだけの用事があるとも思えない。
恒が携帯を渡したことを、比企に見破られていたのか?
遼生は低頭姿勢のまま、高まる鼓動を悟らせず平然と向き直る。
「はい」
「調べたところ神籍がないが。一体、どこに戻るつもりなのだ」
「私はもともと先代極陽に実験体として生み出され、使徒階に収容されていた身です。使徒階に戻ります」
「それでよいのか」
遼生は返事に窮し口をつぐんだ。
母親のもとに戻るつもりはない。しかし戻る居場所もなかった。
使徒階では八雲 青華の指示で遼生の大規模な捜索が行われている。
戻るなり重犯罪者として捕えられ、再び監獄に押し込められるのは目に見えていた。
逃げようにも、出生記録がないため神階から外には生涯出られない身だ。
戸籍のない私生児の境遇は厳しい。
閉鎖された神階では居場所も、逃げ場もなかった。
「己は汝が何者なのかは知らぬ。汝が神か否かということすらも疑わしい。だが、まことに汝が先代極陽によって創出された実験体であり、その歳を経るまで家畜以下の扱いを受けていたのだとすれば、汝を保護する責任がある。名は何という」
比企は心なしか、遼生に目配せをしたようにうかがえた。
「八雲 遼生と申します」
「本置一致の神か。日本由来でもなさそうだが」
「いえ、通名はアイザック=スミス(Isaac Smith)と申しますが……」
遺伝子を調べるまでもなかった。
彼は欧州由来の神であり、日本由来ではないことは外見的にも一目瞭然。
通名を拒む理由はただひとつ、父親と同じ姓を名乗りたくないからだ。
比企は彼の複雑な心情を汲み取ってやる。
「藤堂も新未 恒とは名乗っておらん。如何様にでも名乗れ」
「日本由来でなければ、置換名を名乗れないのでは?」
日本由来でない神は、置換名を通名として名乗ってはならないという慣例があり、わざわざ破る者もなかった。
比企は執務机につき、羽ペンを取り上げ数枚の書類をしたためると、極陽の御璽印を捺印した。
「慣習は所詮、慣習だ」
「ありがとうございます。ではこれからも、八雲 遼生と名乗ります」
「響」
「ここに」
静かに控えていた寧々が、絶妙のタイミングで返事をする。
比企は書きあげたばかりの書類をぺらぺらと振ってインクを乾かすと、封筒に入れ厳封し寧々に手渡す。
「令状だ。この者、八雲 遼生に神籍を与え、藤堂と同じく陽階アカデミーの特待生として己のもとに所属させよ」
温情をかけたようでありながら、手元に置き行動を監視する。
遼生はMind Response Imaging(心層応答結像法)で比企の本音を看破し、その抜け目のなさに感服した。
勝手な行動を取らせないよう事実上の軟禁と変わりない。
「ご高配を賜りまして、光栄の至りです。以後、宜しくお願いいたします」
遼生は困惑したような顔をしかけたが、空気を読み愛想よく礼を述べた。
もっともこのような折に、極陽に召抱えられたとて何になろう。
それでも、身元を確かにしておくことは、謂れなき疑いや追われ続ける不安定な立場を解消してくれる。
また、恒も比企の思惑に勘付いたが口を挟まなかった。
遼生に本当に居場所がないというのなら、使徒階で放浪しながら暮らすより遥かにここは居心地がいいだろう。
比企の庇護があるというだけで、少年神ながら成神と同等に扱われる。
大抵の知識はここで得られるし、設備や情報も整っている。
遼生はすぐさま寧々に連れられて、神籍登録の手続きに向かった。
二年前に恒が体験した登録の手続きと同じ手順で、彼の登録が行われるのだろう。
フィジカルレベル 7万を超える実力を持つ彼は神体検査で位神達を驚愕させるに価する、衝撃的な数値を叩き出す。
彼の神体情報が暴かれる事は彼にとって有難くないことではあるだろうが……。
遼生が去ったあとに残された恒は、端末を立ち上げ、書類に目を通していた比企に核心をつく質問をぶつけた。
「今しがた、どこにお出かけに?」
恒はレイアの様子を聞こうと畳み掛けた。
遼生の言うように久遠柩が発動されてレイアの拘束があったとすれば、いくら何でも比企が戻ってくるのが早すぎる。
予定通りに事が運ばなかったのだろうかと疑ったのだ。
「取るに足らぬ雑事だ。藤堂、己は数日ここを空ける。兄に適当な部屋をやり、水入らずで過ごすといい。何か用があれば連絡を」
比企は恒の追及を避けた。恒は深追いをしない、何事も頃合が大切で、比企は一度喋らないと決めたら強情だ。
ここは一度罪悪感を押し付け、彼から譲歩を勝ち取るほうが賢明だ。
恒はここぞとばかりに切り出した。
「その間に生物階に降下してもよろしいでしょうか」
「何の用がある」
比企の眼光が鋭い。
不在の間にレイアを捜しに行くものだと疑っているのだ。
一度出たら最後、脱兎のごとく逃走すると踏んでいる。
「生物階にひとり残してきた母の様子が気になります。半日だけでも」
肉親と会いたいという願いをむげに却下することはできない。
「塚本と望月を連れてゆけ」
「……」
比企はその場で塚本と望月という人物にメールを打とうとした。
第二使徒 塚本 祀と第三使徒 望月 沙苗というと比企の腹心中の腹心だ。
恒は単独行動を許されていない。
「あの、塚本さんと望月さんはとても有能な方ですが、使徒の方です。今の生物階へ同行いただくのは不安です」
「だからといって共もつけずに降下することは許さん」
「その代わり、兄についてきてもらってもいいですか? 彼はきっと頼りになります。もし兄に断られたら、その時は塚本さんと望月さんにお願いしますので」
比企の最初の提案をたてるために、一言添えておいた。
「……まあよい。戻らなんだら、己が連れ戻るからそのつもりでおれ」
「わかりました」
恒はおとなしく聞き分けた。
*
遼生が部屋を出て二時間後、GL-ネットワークの新規登録者の欄に八雲 遼生の名が掲載され、詳細な神体情報が明らかにされた。
恒は今や遅しと待っていたので、更新直後の情報が目に飛び込んでくる。
興味がないように振る舞いながら、血をわけた兄弟の真価はいかほどのものか。
食い入るように画面を見つめる姿がデスクトップに映ってふと冷静になり、深呼吸してのけぞる。
遼生をかなり意識していることに気付かされて、それを不本意と感じたからだ。
本名/置換名 八雲 遼生
経年: 17
マインドギャップ: 7層
フィジカルギャップ: 49層
標準偏差: 72
フィジカルレベル: 60015
体組成: 異常/使徒に酷似する
血液組成: 正常
アトモスフィア放散量: 2400mg/sec
アトモスフィア組成: 中間体
使徒に酷似するなど、余計な事を書かなければいいのにな、と恒は総務省の表記方法の配慮のなさに不満を唱えつつ、別のことで目を見張り、感心して思わず唸った。
枢軸に忌憚なく解説するとすれば、遼生の実力は彼らを軽く上回っている。
植物状態だったという7年間のブランクが嘘のようだ。
鍛えれば鍛えただけ、彼は要領を得て伸びるタイプだろう。
しかも彼は、たった今もかなりの余力を残している。
目ざとい恒はフィジカルギャップの層数が示す意味をよく理解していた。
当の本人、遼生は寧々とともに予想外に早く戻ってきた。
恒は神籍登録に半日を要したものだが、極陽の第一使徒が同伴とあって手続きはかなりスムーズに進められたのだろう。
結局、遼生は比企の令状が功を奏したのか、何のお咎めもなく本置一致の陽階神として認められ、そのまま八雲 遼生と名乗る事が許された。
アトモスフィアの組成は神階でも珍しく、中間体。
陰階神とも陽階神ともつかない不安定な組成だったが、陽階に入れられたのは総務局の事務方の配慮だという。
「ただいま、戻りました。案外早く終わりましたよ。令状がありましたからね」
寧々はそう言いながら両手にどっさりとかかえていた書類をどっこいしょと執務机に載せると、くたびれた顔をしてみせた。
白兎のように艶やで清楚な印象の自慢の髪の毛も手続きの間に乱れたらしく、ブラシで撫で付けてピンで束ねていた。
「どうもお世話になりました。今後ともよろしくお願いします。居候ですが自分のことは自分でやりますし、何かお役に立てることがあればいつでもお手伝いします」
「まあ、何とできた方なのでしょう。こちらこそ歓んでお仕えさせていただきます」
遼生は寧々に礼など述べている。
年のわりに礼儀正しい少年だ。
寧々はひとりで三柱の神々の身の回りの世話をしなければならなくなって重荷に感じていたところを優しくねぎらわれて、遼生にかなり好感を持ったようだ。
兄の振る舞いに感心しつつ、
「おかえりなさい、お疲れ様でした」
晴れて戸籍を得て、野良猫が飼い猫になった気分だよ、と遼生は笑う。
少し居心地が悪いね、と照れ笑いをする彼に、猫なんて見たこともないだろうと恒は内心つっこんでおいた。
遼生の知識のほとんどは、書物と他者の記憶に基づいている。
彼に足りないものは現実の体験だ。夢の中で生きているような覚束なさが、彼の儚げな雰囲気を演出しているのだろう。
「測定の際、故意にフィジカルレベルを低く出しましたね」
「買いかぶりすぎだよ」
遼生は屈託の無い笑顔をむける。
その表情の裏に隠された素顔を、恒は見ることができない。
ただひとつ、彼は嘘をつかないということだけは知っている。
嘘をつかないと固定観念を植え付けておいて敢えて裏をかくという手もあるが、そこまで打算を打っているとは思えなかった。しかし、不自然な現象が起こっている。
「フィジカルレベルとフィジカルギャップがつりあっていませんよ」
フィジカルギャップの層数は、フィジカルレベルにほぼ正比例する。
フィジカルギャップだけ極位並みに突出していてフィジカルレベルが枢軸中堅程度というのは無理のある話だ。
遼生が故意にフィジカルレベルを抑えたのは、明白な戦略的な意図あってのこと。
彼は笑って誤魔化すと、懐に手をつっこんだ。
彼は恒が神籍登録をした日と同じく、丈の長い清潔な白衣を着ている。
勿論、彼の神体からは陽階神として身を清めたことを示す、陽階指定のハーブの香りがふわりとした。
「よろしく。成り行きでここにお世話になるみたいだ。これは、どうしようかな?」
遼生は懐から取り出したさきほどのiPodを恒に返そうとした。
ひとつ処に居住するというのなら、携帯電話など必要のないものだ。
恒は手を出さず、それと全く同じものをポケットから取り出した。
「差し上げますよ。ここにもうひとつありますし」
「そう。ありがとう! これ、いい曲ばかりだね。センスがいいよ」
「俺が集めたものではありません」
中身は主に、ムジカのチョイスだ。
彼は幅広い趣向を持っており、音楽ショップの店員のように音楽愛好家の神々や使徒たちに洗練されたプレイリストを配信していた。
恒自身は音楽に造詣が深いということもない。
「んー。そんなに他人行儀にしないでくれ。兄弟なのに冷たいな」
遼生はさも遺憾だ、という声を出す。
「正確には、義兄弟です」
恒は丁寧語を保ちつつも、ぴしゃりと遼生を疎外した。
その素っ気のなさに遼生は閉口し、何か機嫌を損ねるような事をしたかと思いを巡らす。
そして彼はたった一つだけ、恒に釈明をしなければならない事に気付いた。
つまり、レイアの居場所についてだ。
恒は遼生に不信感を抱いていて、それが恒の言葉の端々にあからさまに出ている。
感情の起伏に乏しいようなので一見しては分かりにくいが、恒は怒っているのだ。
「どうも信用がないみたいだね。けれど嘘は言っていない。久遠柩が発動されたのは本当だ」
恒は嘘と見透かしたような、そんな敵意をたっぷりと含んだ視線を隠そうともしない。
「では何故、比企様がこれほど早々に戻られたんですか」
「久遠柩は発動したけれど、レイアという少女はそこにいなかったそうだ」
「レイアがいないのに久遠柩が発動する筈もないでしょう」
恒はすぐに切り返すが、遼生は慌てない。
取り繕う必要もなかった。
冷静な遣り取りの応酬は、黒を貴重として落ち着いたデザインの無機質な室内の温度をぐっと下げるかのようだ。
寧々は恒が苛立つ様子を見て何か口を開きかけたが、結局首をすくめて出て行った。
あとで、暖かい茶を淹れて茶菓子とともに持ってくるつもりだ。大抵の場合、それでまるくおさまった。
「比企様が戻ったとき、君は僕と比企様を同時に疑った。何か不都合が起こって、久遠柩が予定通りに発動しなかったのではないかとね。君の思考回路はどうも、性悪説に基づいている。誰かを疑い続けなければ、生きづらい人生だったのかな?」
愛想よく微笑みながら、鋭く抉ってくる。
恒は不快感を露にすることはなかったが、眉根を寄せた。
「余計なお世話です」
「別に非難している訳じゃない。そのせいかとても勘がいい。だから君には、MRIは必要ないんだ」
「あなたは、特殊な看破法を身につけていますね。マインドブレイクより鮮明に物事を見通している。そのあなたが何故整合性のない事を言うんです。そのことに気付いていますか?」
恒も表面上は穏やかな物言いだが、苛立ちが言葉の端々に出てしまっている。
挑発は逆効果だったか、と遼生はまた反省をした。
どうも遼生が恒に何かを言うたびに、恒の神経を逆撫でしてしまっているようだ。
「物事がクリアに見えすぎるというのも困ったものだけどね。君のほしい情報は何だろう。そうそう、織図様を知っている?」
「ええ」
神階で織図といえば、わざわざ名前を尋ねなくともあの織図 継嗣しかいない。
以前、渡鬼DVDを制覇して暇を持て余した織図が、Google検索で暇つぶしに“織図”という姓を検索して、織図姓がないと残念がっていたから、生物階には存在しないか、かなり希少な名前だ。
余談だが、“比企”という苗字は5000位台にランクされていて、そのことが織図には余計に悔しかったようだ。
ちなみに“藤堂”姓は2000位台だったが、当然だ。
神々の当て字のような姓とは違って、真っ当な日本人姓なのだから。
そんなくだらないことはともかく、織図と言われれば織図 継嗣しかいなかった。
「レイアという少女を逃がしたのは織図様だ。彼女には影武者のようなものがいるのかい? 身代わりをおいて逃げたと、比企様は推測している」
彼は曖昧な表現を用いたが、どう考えても共存在を示している。
「……共存在! 織図さんが、彼女に共存在を使わせたということですか」
「事実は知らないよ。共存在が何かということもね。ただ、比企様がそう応答しただけだ。彼女はどこへ逃げたのかな。君の推理を聞かせてくれ」
遼生は今回は断定を控えた。
またあやふやなことを言って、恒に不信感を植え付けたくはなかったからだ。
「その前に教えてください。彼女は特務省に、どこで保護されたと?」
「宇宙の果てともいえる場所だそうだよ」
比企の情報を基にしているため、具体的なことは分からない。
実際に保護をしたのは比企だった、というわけでもないし、それがどこかということは特務省からは明らかにされていない。
恒は両手ですっぽりと顔を覆い、暫く考え込んでいるようだった。
遼生はせかさず、じっと義弟の様子を見守っている。
傍目から見ると食堂のお絞りで顔を拭いている、ただの少年のようだ。
「わかりました。レイアは今、生物階にいます」
長い沈黙ののち、恒はきっぱりと断定した。
その推理力が確かなものかどうかは分からないがとにかく、彼はそれ以外の可能性を疑ってすらいないようだった。
「あなたもついてきてくれませんか、生物階に」
「どうしようかな」
拒絶はしないが、誘いに乗りもしない。
遼生の受け答えは柳のようで、依存されることを望んでいるようでもあった。
「もし彼女が荻号さんのもとにいるのなら、俺ひとりでは立ち打ちできません」
織図が手引きをして共存在で彼女を逃がすとしたら、神階の織図の執務室か、生物階しかない。
織図は用心深い神なので、自室に逃がすことはしないだろう。
彼女が途方にくれるだけだ。
彼は荻号のもとに身を寄せろと言った筈だ。
荻号は神階と距離を置き、中立を保っている。
特務省が追っ手を差し向けたとしても、彼女に危険が及ぶことがあれば、止むを得ずか、否応なしにしてもレイアを守ってくれよう。
生物階は危険だが、荻号のもとであれば多少は安全だ。
「少し落ち着いて。疑問なのだけれど、君は彼女をどうしたいの。だって……彼女は逃げたのだろう、君から。その意志は尊重しないのかい」
追いすがっては彼女に迷惑なのではないか。
恒が彼女を追うことで、彼女は息苦しさや閉塞感を味わうのではないか。
遼生はそこまでは言わないが、行間には充分に読んでとれる。
「もう、俺の声は届かないのかもしれません。彼女を苦しめるだけなのかもしれない。それでも」
恒はそこで言葉を区切り、何かを確かめるように瞳を閉ざした。
「会って、彼女に何が起こったのかを直接聞きたいんです。最後のその時まで、俺は彼女の味方でいたいから」
彼女を失ってはじめて、一番の理解者であり味方でありたいと思っていた恒が彼女の逃げ道を塞いだり無言の重圧を強いていたのかもしれないと思い知らされている。
彼女に訊ねたい。
まだレイアにとって恒は必要な存在であるのか否か。
はっきりさせたい一方で、躊躇いもある。
結論を押し付けられるのが怖い。
そう、恒が彼女にとって、必要のないものだとはっきり告げられる事を、できることならば回避し続けていたかった。
恒が逃げれば逃げるほど、彼女の心もまた遠ざかってゆく。
訊かなくてはならない、そしてどんな答えでも受け止めるという覚悟を、心に決めなくてはならなかった。
「彼女のこと、そんなに好きなんだ?!」
「守りたいと思うだけです」
遼生は感歎のため、目を丸くして叫んだ。
からかわれているのかと恒は感じたが、他意もなさそうだ。
「好きだとか、そんなこと思ったりできるんだ」
そう言った遼生の声に少しだけ羨望の色が混じっていたように聞こえたので、恒は反応に困った。
あたかも彼が持たなかったものを、羨むかのようだ。
「……」
「ごめん、困らせるつもりはなかった。ところで君のいう荻号という神は陰階4位の、あの荻号 要様のことだね? 生物階にいらっしゃるって、堕天されたわけ?」
看破能力に長けているとはいえ、遼生の知識は7年前のままだ。
7年前の荻号といえば荻号 要を指し、荻号 正鵠ではない。
ヴィブレ=スミスの訃報ほどではないが、彼は驚いていた。
荻号の失脚は、当時ならばトップニュースもいいところだ。
そして、荻号を堕天させるほどの出来事とは相当のものだ。
謀略か、追放かの二択が濃厚だった。
「大雑把に言うと、間違いではありません」
恒は細かい訂正をしなかった。
もともと彼らは同一人物ではないが、荻号 要の神体は確かに共存在で別たれた荻号 正鵠のものだったからだ。
荻号 正鵠はINVISIBLEに対する絶対不及者と同じような目的でノーボディによって創出された、いわばノーボディの依代だ。
荻号 要という神が荻号 正鵠が憑き物に憑かれた状態だったといえば、同一人物といっても差し支えはない。
厳密に細かいことをいえば、少し違うようではあった。
何と言うか、荻号 正鵠は変神であることにはかわりはなかったとはいえ、荻号 要より随分と親しみやすい雰囲気を持っている。
そこで朱音が彼の家に入り浸ってしまって、うまくやっているのだ。
荻号 要であれば、それが朱音でなくとも、意思疎通すらもままならなかったことだろう。
「よく分からないけれど、君は彼女が荻号様のもとに身を寄せたと仮定している。彼女が君に会いたくないと言った場合、その荻号様と争ってでも彼女に会うつもりがあるのかい」
「最悪の事態ですね。勝算はまず0です」
恒は即答した。
荻号に何が起こっていても、彼を出し抜いたり、負かす手段があるとは考えられなかった。
彼がレイアを庇おうとするかどうかもよく分からないものだ。
彼が誰かの肩を持ったり、誰かとつるむなどとは考えられない。
基本的に荻号は孤高の神であり、誰とも迎合しようとはしなかった。
朱音の言うには、何でもひとりでできてしまうところが彼の魅力なのだというが……悪く言ってしまえば悉く協調性に欠ける人物だ。
知り合いだからといって便宜を図ってもらえると考えるのは甚だ甘く、彼の場合手が滑っただけで致命的な一撃を与えうる。
くしゃみをして目をつぶっただけでうっかり殺してしまったなどという不幸な話が、彼に限ってはあり得るのだ。
荻号 要はあの偉神ジーザスを、それがうっかりかどうかはともかく、現に殺してしまっている。
「レイアという子に会う事に拘らなければ、僕がMRIで彼女を看破してもいいけど」
「会わずに看破を? 相手の顔も見ずにですか?」
あたかもそれが最も困難なことだといわんばかりに、恒は耳を疑っている。
遼生は恒が表情を崩したのでニヤニヤと、愉快そうだ。
親に相手にされなかったものを必死で気を引いてようやく構ってもらえた、幼児のようでもある。
「Mind Response Imaging(心層応答結像法)とは、アトモスフィアを範囲内の対象にぶつけて、跳ね返ってくる心理反応を見ている。対象の顔を見る必要などないんだ」
「範囲……ということはレイアのみならず、荻号さんの看破も? まさか!」
「範囲を限局するけども、彼女と荻号様が密着していた場合には仕方ないだろうね。たとえついでに荻号様を看破したとしても、勘付かれることはない。マインドブレイクの体感侵襲度を100とするとMRIの侵襲度は」
彼はそっと人差し指をこめかみに突き当てた。衣擦れの音ひとつさせない、静かな動作でだ。水面から静かに魚を狙い済ます、穏やかな水鳥のような雰囲気を持っている。
水中の魚からは見えない死角から、電光石火の速さで狩られてしまいそうだった。
「たった1だ。この1に気付く神ははっきり言って存在しない」
恒は荻号 正鵠という人物をよく知らない。
彼にまつわるデータはタブーとして、神階には存在しないからだ。
ここ二年間の実戦データもなければ、過去のデータも存在しない。
が、彼を出し抜けるなどとは夢にも思わなかった。
まず彼と敵対するという発想にすら至らない。恒が荻号の前に立つときは、ひたすら看破されないよう防戦一方になるだけだ。
攻撃は最大の防御だと、常々身に刻み込んでいるセオリーが彼の前でだけは通用しない。
別格なのだ、彼は。
「それでももし、荻号様が仕掛けてきたら……」
彼は詩を朗読するように声色を落とし、恒の反応を観察している。
「応戦してもいいんだね?」
恒は自分とよく似た遼生の顔を驚愕をもって見つめ返したものの、即座に反論も否定もできなかった。
大人しく清潔感のある彼の瞳の奥に滾る、彼の生来の闘争心というものが垣間見えたからかもしれない。
それは恒が持ち得なかったものであり、ヴィブレ=スミスが彼に与えたものだった。
そう。
鋭い牙を持ちながら決して噛まない事を飼い主と約束した飼い犬が、例外的に相手を噛んでもよいかと伺うような……そんな雰囲気で、遼生は恒に念押しをしていた。
彼は自らに危害が及んでも牙を剥かないが、飼い主に危険が及ぶ場合にのみ躊躇いなく相手を噛む忠犬なのだ。
彼はどんな存在なのか。
ヴィブレ=スミスは如何なる理念を持って、彼という神を創り上げたのか。
彼は恒と似ているようでありながら、恒とは真逆のコンセプトに基づいて設計された検体なのだ。
恒が静ならば彼は動。
恒が陽であれば、恒の真上から更なる影を落とす。
恒が浄であれば、不浄の烙印を突きつけるものだ。
彼の全てが、恒の持ちうるあらゆる武器に勝っていた。
そしてその刃を研いだのは他の誰でもない、彼の父親だ。
「どんなに強く賢明でも、だからといって完璧ではない」
駄目押しをするようにそう言った、遼生の表情に恒は竦んだ。
何故なら、彼は荻号 正鵠ではなく、荻号 要を想定しているからだ。
あの荻号 要と何の用意もなく戦える自信が、遼生にはあるのだ。
少しでも保身を考えるなら、冗談でもはったりでも、そんな事は噯にも出さない。
つまり彼は、本気なのだ。
「荻号さんと、戦闘行為を!? まさか……無謀です」
「無謀? そうかな」
心外だ、と付け加えたかったに違いない。
*
別室に連行された織図は、差し向かいでバンダルの前に立たされている。
20平方メートルほどの、内装にも気遣いのない、打ちっぱなしのコンクリート質の素材がむき出しとなった殺風景な部屋だ。
壁は厚く、足音は硬質に反響するが外部の音は一切といって聞こえない。
織図はこの部屋を覆いつくす、鬱屈した空気を感じ取る。
足元には、石畳に赤褐色の血染みがこびり付いている。織図の前には石碑のようなものがあって、金属環があった。
この部屋が過去どんな目的で使われたものか、それほど考え込む必要はなかった。
特務省の意図に叛いた者を私刑にかける拷問室。
バンダルだけがここで私刑を執り行っているとは思わないが、彼に断罪された者も一柱や二柱ではないだろう。
彼らがその後どうなったのかは知らない。
織図は身の危険を感じたが、もはやどうすることもできない。
直立不動の織図にバンダルが尋問する。
「何故、この状況下で“無心でいられる”」
「……」
織図は弁明できない。
「服を脱いで、手をそこにつけ」
織図はその命令に従うべきか悩んだが、観念して制服の上着を脱ぎ、上半身をあらわにした。
「全部だ」
バンダルの語調は容赦する雰囲気ではない。
織図は抵抗するのも無意味と心得て、潔白を示すように一糸纏わぬ、いや実際は一糸だけ纏った褐色の肌をバンダルの前に晒す。
双繋糸は織図の腕の皮下に縫いこんできた、バンダルからは絶対に見えはしない。
織図が黒い石碑の上に手をつくと、バンダルは織図の手首を金属環で戒めた。
不快な冷感が、彼の背筋にぞわりと走る。
バンダルは織図の鍛え上げられた神体の隅々に、たっぷりと屈辱を押しつけつつ、何の感想を述べることもなく目を配った。
怪しいものは持っていない。
バンダルは直接的な意味で織図の全てを見ているというのに、依然として織図を看破できない。
「比企と同じ手口だな。何を、どこに隠している」
彼は立ち上がり、吐き棄てるように呟いた。
身長193cmの織図に対しても195cmのバンダルの視線は威圧的だが、身長差はさして問題ではない。
バンダルの纏うアトモスフィアに織図のそれが消され、場がすっかり均されてしまっている。この状態は神々の間で“埋没”といって、極度の実力差が発生した場合にのみ起こりうる。
そして二神間が“埋没”の状態にあるとき、マインドイレースやマインドコントロール、フィジカルギャップの形成など、アトモスフィアを介して行使する一切のスキルが、相手に通用しなくなる。
事実、抵抗は不可能だった。
「何のこと……」
言い終えないうちに、織図はしたたかに脇腹を蹴られ、床に叩きつけられた。
“埋没”状態にあることでフィジカルギャップを無効化されたうえバンダルの鉄鎚を容易に穿ちこまれ、織図の脇腹に鈍痛が走る。
ここ数百年も味わうことのなかった彼の血の味が、苦い屈辱とともに口の中に広がってゆく。
手首を拘束されているので、のけぞることも避けることもできない。
バンダルの攻撃は必ず織図に命中し、急所をずらすこともかなわなかった。
「喋る気がないのならその気にさせるまでだ。そこに直れ」
織図がわけもわからぬまま立ち上がるとまた、ハンマーのような重い蹴撃をくらう。
残念ながらバンダルは手加減をしたり飽きる、ということを知らない。
織図が立ち上がれなくなり骨を一本残らず折られるまで、この一方的かつ残虐な暴行は続くのだろう。
レイアの様子を監視していればいいものを……織図がそう願っても仕方がない。
バンダルが久遠柩発動中のレイアの監視を怠って直々に手を下しにくるのだから、織図を危険因子と見なしてのこと。その疑いは、簡単には晴らせそうにない。
特に織図がこのまま黙秘を続ける場合には。
しかし織図にも意地というものがある。
苦痛に耐えかねて口を割るということは、彼に限ってはあり得なかった。
彼は無言で立ち上がり、幾度となく攻撃を受けた。
どうせ殴られるのならと、ガードもせず無防備の状態になる。
無駄な体力を使うだけ損だ。好きなだけ殴ればよい、それで彼の気が済むのならば。
保険はたったひとつだけかかっている。
バイタルロックをかけている限り、織図を殺すことはバンダルにも出来ない。
たとえ致命傷を被ったとしても織図の死は保留される。
ゾンビのよう、というよりはまさにゾンビそのものだ。
織図はバンダルのバイタルコードをも掌握しているが、身の危険を感じたぐらいで軽々しくバイタル切断は使わない。
たとえその判断ミスによって、かなりの重症を被ったとしても。
「なかなかしぶとい奴だ。だが、感心はせん」
感心をしないというのはバンダルの口癖だ。
機嫌の悪いときに、この口癖をよく聞いたような気がした。
彼は極度の二面性を持っている。
人望の厚い信の置ける人物である一方で、一度彼の逆鱗に触れると手のつけようがない。
「これしきのことであなたに潔白が証せるのであれば」
織図は口から溢れた血をその場に吐き捨てた。
「甘んじて受けますよ」
その言葉に二言はない。
織図はそう言いながら、身体罰に黙して耐えたユージーンを思い出していた。
彼は、バイタルを残しながら死亡した豊迫 巧という少年の死を見咎め、織図の許可もなく蘇生させた罪で身体罰を受けた。
あの数週間もの間に彼が受けた苦痛は、織図の苦痛の比にもならない。
この責め苦が理不尽ではあるがこれしきのこと。
彼はそう彼自身に言い聞かせた。バンダルは精密な機械のように、あたかもそれが彼の仕事だというように黙々と無抵抗の青年神に暴行を続けている。
この暴行を生きて切り抜けたとしても、最悪で特務省を解雇されるだろうな。
彼はそう覚悟した。
肉体的な刑罰より、社会的処罰の方がこたえる。
バンダルは疑わしきものは悉く罰するタイプだ。容赦などしないだろう。
打ちのめされた回数を数えながら時間をつぶしているうちに、暴行が始められてからおよそ2時間が経過しようとしていた。
さすがの織図も意識が朦朧として、立ち上がる足取りもおぼつかない。
織図の腕に縫いこんでいる双繋糸は、まだ思考回路をバンダルから遮断している。
幾筋もの神血が執拗に刻まれた傷口から溢れだし、彼の身体を真っ赤に被覆していたが、バンダルは手加減する様子もない。
バンダルの制服も織図の返り血をたっぷりと吸って重くなっていた。
織図はまた立ち上がり、歯を食いしばった。
「きりがない……。織図。私は寛容だがあまり、気の長いほうではない。述べよ。さもなくば私刑ではなく極刑に処す」
「!……極刑、ですか」
織図はまるで他人事のように反芻した。
織図にとって他者から与えられる死というものは、もっとも縁遠いものだった。
「遺憾です。が、上官に死を命じられれば従うのが筋かもしれません」
打ちひしがれながら織図は危うく……苦笑してしまうところだった。
何故ならバンダルには織図を殺せない。
殺されたふりをして特務省から逃れ生物階でレイアと落ち合うほうが、よほど自由がきいて好都合だ。
しかし、バンダルの言葉は終わっていなかった。
「死神を殺す事は、能わぬとでも?」
バンダルは織図の安堵を、見透かしていたのかもしれない。
「……!」
「汝の首を刎ねた後3日は、首と胴を繋げることはせん。汝の遺体は3日目に火葬し、骨は手元においておく。されこうべとなっては、死神の秘術も及ぶまい」
バイタルロックは2日おきにかけなおさなければならない事を、すっかり看破されていた。
今朝バイタルロックをかけなおし、2日後、その効力は切れる。
以後2日間は不死身だが、3日目にはどう足掻いても死ぬのだ。
織図がこれに抵抗するすべは唯一つ、バンダルのバイタルを切断することだけだった。
バンダルは織図がファティナの知識により神階全神のバイタルコードを掌握していることを知らないし、つけいる隙はいくらでもある。
最悪、織図の首が飛んでからでもバイタル切断は実行できる。
織図は刎ね飛ばされた首を落ち着いて繋げればいいだけだ。
だが、これをやってしまうと犯人は容易に断定できる。
織図がバンダルに別室に連れて行かれたのは周知のことだ。
その直後、バンダルが失踪したとなれば……おのずと織図に嫌疑はかかる。
バンダルは部下である織図を殺す権限を持っているが、織図にはバンダルを殺す権限はない。織図は逮捕され、社会的制裁が待っている。
「10分待つ。よく考えるのだな。全てを明かせば、元通りの信用を取り戻すことにもなる」
バンダルを殺すか、織図が殺されるか。
肉体的な死と、社会的な死のどちらを選択するか。
その肉体を完膚なきまでに血染めにされたまま、正真正銘、彼は究極の選択を迫られていた。
*
比企が手頃な部屋を与えろといったので、恒に宛がわれている二部屋のうち一室を遼生の部屋として通した。
一室でもかなり広い間取りだったので、いつもだぶつかせていたところだ。
恒は薄いTシャツをクローゼットに押し込めて着替えると、黒い厚手の上着を着込んだ。
風岳村の寒さは尋常ではないから着込んだ方がいいとアドバイスをすると、遼生も備え付けのクローゼットから適当な服を選んだ。
小洒落た細身のレザージャケットを着て、帽子などかぶっている。
彼のセンスは田舎の少年といったいでたちの、垢抜けない恒とはどうやら違う。
ずっと寝たきりにあった彼が、どこでそのセンスを身に着けたのか疑問だ。
「生物階に入って、結局レイアという子に会うの? 用事はそれだけ?」
「あとは、母親にも」
恒は忘れていない。
比企から生物階降下の許可を得たときには、こちらの用事がメインだった。
「そこは、僕は付き合わないほうがいいのかな?」
恒の母親はどんな人物なのだろうという興味はあったが、遼生は気を遣った。
「構いません。生物階は午前中です。朝食か、昼食でもいいですけど、うちでご飯食べますか」
「朝食と昼食って、生物階ではそんなに頻繁に食事をするもの?」
遼生は興味深そうに訊ねてくる。
「朝、昼、晩と三回食べますね」
「そんなに食べなきゃならないんだ。時間もかかるし、人間って大変だね。といっても、君も半分は人間なんだっけ。お母さんとはうまくいってる?」
遼生が靴紐を結ぶ間恒は母親に、今から帰省する旨のメールを送った。
連絡もせず突然帰宅しても、外出していては張り合いがない。
もしどこか外出先にいるのなら、そこに転移をかければよい。
レイアと会うのは後にしようと思った。先にレイアに会おうとすれば荻号と衝突して面倒なことになり、母親と会う時間がなくなってしまっては困る。
「そうですね、母とはうまくやってます」
「いいね。友達はたくさんいる?」
「ええ、最近は遊べませんけど、大切な友達です」
恒からしてみれば何気ない返事だった。
「そうか……うらやましいな。君にはたくさんの繋がりがあるみたいだ。でも僕はそうじゃない。君が誰かを大切に思うように、僕も君をそう思いたいんだ。大切にしたい。だからわざと距離を置こうとしたり、心にもない事を言わないでくれ。そうされると……どうしていいのか分からなくなる」
寂しげに顔を上げた遼生の声は澄みわたっていて、恒の心に重く訴えかけるものがあった。
友達と遊ぶこともできず、孤独感を募らせていた恒以上に遼生は孤独なのだ。
身近な者たちの誰ひとりも信用できなかった彼の環境にあって、恒は彼が初めて獲た支えであり生きがいだった。
「……」
「ね」
「……ごめんなさい」
「俺が、間違ってました。ごめんなさい」
恒は真摯に謝罪をした。恒が彼に無事であってほしいと彼を遠ざけようとすることは、彼をな
おさら孤独にすると気付いたからだ。
「ありがとう。君が助けてくれるまで、僕は生きていなかったんだ。今ようやく、生きていると思える」
遼生は恒の手を取り、顔を綻ばせて喜んだ。
「兄さん……俺」
そう言い掛けて、恒の背筋に悪寒が走った。
擦りガラスの向こうに、朧げに映し出されたインスピレーション。
大切な記憶だったような気がする。だが、イメージが回帰しない。
箍がかけられているのだ、恒の記憶に重い箍がかかって、取り除かれる気配はない。
「どうしたの」
「俺も、そんなヒトがいた気がするんだ。なにもかももうダメだって思って、全部終わりにしたくなって。でも生きていくしかなかったときに、そのヒトは助けてくれて。ずっと灰色に見えてた空が、初めて青く見えたんだ」
何故そんなことがつらつらと口をついて出てきたのか。
口が勝手に喋っている、何かにとりつかれたかのように。
恒の意思とは無関係にだ。しかし、全く無関係というものでもなかったような気がする。この体験は誰のものか、他人のものではない。
紛れもなく恒自身のものだ。どこかできちんと、理解できている。
「俺、何かそのひとに悪いことして……思い出せないけど。今はきっと、もういない」
一語一語、途切れ途切れに、搾り出すように恒は遼生に打ち明けた。
遼生が何かを、失われた何かを思い出させてくれたのかもしれない。
吐き出すうちに確信する、これは恒の記憶だ。
「君の空はまだ青く見えるの?」
遼生は暗示にかけるカウンセラーのように、穏やかに恒の深層心理を引き出す。
「今はすごく遠い。でも、厚い雲を吹き飛ばして光を取り戻すあのひとみたいに……そうならないと。今度は俺が、そうなるんだ」
「そう。でもね……」
遼生は紅茶色の瞳を細め、首を傾けて優しくこう言った。
「思い出せないといってもそのユージーンってひとは、まだ君の記憶のなかにいるじゃない。いいな、そんな風に僕も誰かの救いになりたいよ」
恒は反射的に遼生の肩を強く掴んで大きく目を見開いた。
手加減などする余裕もない。
その衝撃の大きさに全身の震えが、音を立てているかのようだ。
悪寒は耳鳴りへと変わってゆく。恒の指先が、彼の肩へ食い込んでゆく。
彼はその指を拒むことはしなかった。
「今……」
遼生は。何と言った。
いや、断じて聞き逃してなどいない。
彼の発した言葉をしっかりとつなぎとめていなければ、また煙のように失ってしまいそうだった。
イメージは押し流されて、また灰色の日常の中へ溶けてゆくだけだ。
彼がその箍を外したのだ。
恒の胸の底のほうから、焼けつく胃酸のような、あるいは混濁した思いが逆流するように熱いものが漲ってきた。
「ああ……うあああああああ!!!!!」
恒は彼の両肩を握り締めたまま、呻くように絶叫した。
彼の口から漏れ出す音は言葉にすらもならずにただ室内に反響して消える。
自らの絶叫を冷やかに遠くに聞きながら、嗚咽する。
遼生の言葉は、恒の記憶の全てのスイッチを揺さぶった。
どうして彼を忘れることができたのだろう。
この二年半もの間、彼がいない事に気付きすらもしなかったのだろう。
レイア=メーテール、彼女に抱く既視感はユージーンからきたものだったと、何故気付かなかったのだろう。
恒に青空を見せたあの青年がどこに消えてしまったのか。
かき消えた幻影に、恒はしがみつくことすらしなかった。
恒は彼の恩に報いる事もせず、あまりにも自分にかまけて薄情すぎた。
存在を忘れられる事ほど惨いことはない。
恒の心の根源というものに、知らぬ間に深く差し込まれて彼にまつわる記憶を燻し続けていた焼け火箸。
何故、気づかなかったのか。
後悔は身を引き裂くばかりの自責へと沸騰する。
彼にまつわるありとあらゆる記憶がその色彩を強めて、鮮明にフラッシュバックする。
夏草の緑が眩しい、あの日の電車の音が聞こえた。
閉ざされていた運命の踏み切りが上がる。
イメージの向こうに、彼の姿を見た気がする。
大きな林檎の木(Giving Tree)の下で、彼はものも言わず佇んでいる。
そして彼の傍らにいるのは少女だ。ユージーンの手に、レイアが繋がれている。
彼は彼女を、どこへ連れてゆこうとしている。
恒が離した二つの手。彼らは誰の罪を贖っている。
遅すぎた、しかし再び手を伸ばすことを諦めてはならない。
「ユージーンさん……」
長い回顧の末、恒はようやく一言だけ彼の名を呼んだ。