第2節 第16話 The fall of mathematics
結局、久遠柩の発動時間は予定より大幅に遅れ、神階時間にして14時と決まった。
特務省内の広いホールに厳重立ち入り禁止区域が設けられ、織図を含めた全ての関係職員が黙々と術式の準備をしている。レイアは対神の鎮静効果のある薬剤を投与された。苦痛を大幅に軽減されたうえ祭壇上に拘束される。久遠柩が彼女に与える苦痛は誰も経験できないが、筆舌に尽くしがたいものだという。無慈悲を得意とする特務省といえど、少女神にそのような虐待を加えるのは気が咎めたのかもしれない。
鎮静剤で意識の朦朧とした彼女を中央の祭壇に縛り付けてゆくのは、織図だ。
無抵抗の彼女は、織図にその無防備な肢体を預けている。柔らかな腹部を冷えきった金色の鎖できつく戒め、幾何学紋様の彫り込まれた祭壇に結わえ付ける織図の手を、彼女は物憂げな表情で眺めていた。恨み言のひとつも言いたいだろう、と織図は慮る。彼女をここから逃がすと言いながら、真逆の仕打ちを彼自身の手で施しているのだから。
彼が加害者側に属していることは明白だ。それをレイアは見せ付けられている。
「裏切られたと思うか? それはすまなかったな」
“……”
彼は他の職員に聞えよがしに呟く。
翠色の瞳に失望と困惑がないまぜになった、寂しげな色が浮かんだのを彼は見逃さなかった。周囲から趣味の悪い奴だと顰蹙をかっても構わない。
悪役は悪役に徹すべし、と織図は更に彼女を言葉で甚振る。
「恨み言ぐらい言えよ。そんなにできた子だと馬鹿をみるぜ」
「織図」
配慮に欠いた言葉責めを、そこそこ良識的な他の職員にたしなめられた。
彼女は織図を誹るでもなく依然として、少し視線を逸らすように沈黙を貫いている。
沈黙は金で雄弁は銀か、と織図は溜息をついた。
些細な振舞いのなかにも、彼女が生まれながらに持つ聖性を見せ付けられる。
他者を憎むことを知らない、無垢な心を持った彼女は創世者の完璧な器だ。
そして、ユージーンとレイアには多くの性格上の共通点がある。
織図はそっと彼女の手に双繋糸を繋いだ。
『いい顔だ、その表情でいい。そのまま話を聞け。俺はお前を逃がすから。今しかないぞ、久遠柩が発動される前に逃げろ』
逃げろと云いながら、織図の手はさらに彼女を鎖で戒め、微動だにできないほどに縛りあげている。
彼の言動は明らかに矛盾していた。
彼がそれを引き絞るたび、権衣を着せつけられた彼女の肌に食い込む。
鎖が軋む無機質な音が続いている。現実は残酷だ。
“わたしを逃がしてくださるのですか?”
おどおどと、レイアは織図の言葉にこたえた。
どうやって、という言葉も言い添えたかったに違いない。
『共存在を発動すると同時に生物階に転移をかけろ。ひとまず、恒の家を目印に転移すればいい』
“それは……できません”
瞳を閉じたまま、彼女は悲しげに拒絶している。
理由はすぐに思い当たった。恒にあわせる顔がない。
彼女がそんなことで悩んでいるのなら、さほどの問題ではなかった。
織図は彼女の反応を意に介さず説明を続ける。
『で、恒の家を中継してな。そこから感じる強大なアトモスフィアを辿れ。荻号 正鵠という神に会うだろう。少し遅れて、ファティナって女神が来る。そいつらに、全てを打ち明けろ。大丈夫、そいつらは味方になってくれる。……多分な』
話は聞こえているようだが、彼女から返事はない。
荻号にしてもファティナにしても、面識がないのだ。
レイアと”面識がある”程度の仲でしかない織図に“彼らは味方だ”と言われたところで、本音を言えるわけがない。
そのうえ荻号はファティナによってレイアのバイタルコードを知らされる。
彼女を殺すことのできる人物に、包み隠さず話せと強いることは、実際脅迫以外のなにものでもなかった。
荻号は彼女に“話せ、さもなければ殺す”と脅すことだってできるのだ。
彼女が口を割らない場合、あるいは彼女のマインドギャップが何らかの事情で看破できなかった場合、荻号なら躊躇なくその手段を執るだろう。
彼は策士だ。大の青年神が2歳の幼女神を脅迫するという体裁の悪さも一向に気にせず、その程度のことはやってのける。
『何を考えてる。お前も逃げたいだろ? 80日も我慢するのか?』
”これから、何がはじまるのですか?”
『痛くて辛いことだ。泣き叫んだって、誰も助けてはくれんぞ』
”……そうですか”
その様子から転移を拒絶し、ここで80日間を耐え抜くつもりがあるのだと織図は察した。
“逃がしていただけるのなら、逃げたいです。けれど、共存在はもう使えません”
『!? できなくなったってことか』
“そうではないのですが……”
彼女は先ほどから、共存在の発動を避けたがる。
何が彼女を束縛しているのだろうか。
確かに共存在は難易度も高くハイリスクな技術だが、それは有限の寿命を持つものへのリスクであって、不死身の彼女には危険な業ではない。
様々なしがらみに縛られてのことか。
彼女が本当の意味で自由になれる日は、まだまだ先になりそうだ。
“共存在を使うと、あのひとが止まれません”
『止まる? 誰がだ? INVISIBLEはもういないんだろ?』
止まるという意味が、曖昧模糊として分からない。
ストップさせるという意味なのか、他に意味があるのか。
織図には通じない。
歯に衣を着せず、真実を述べてほしい、時間もないのだ。
“INVISIBLEではありません。わたしが最後なのです、だから……”
歯切れが悪い返答だ。彼女は何か重大なことを隠している。
『それだ。お前のいうそれこそがまさかユージーンなのか?』
織図は真意を確かめるようにレイアの瞳の奥を覗き込んだ。
彼女は逡巡したが、唇を軽くかみ締めて誤魔化す。
織図からすれば核心をついたつもりでいたのに、レイアは肯定も否定もしない。
“誰ですか?”
『ノーボディを殺した奴だよ』
煮え切らない思いを押し殺すように、織図はそう云った。
どちらの肩を持ってよいのか分からないが、少なくとも織図にとって両者とも敵ではないのだ。彼女は困惑したような表情を浮かべる。
彼女が答えるまでには、しばし時間を要した。
“わたしはその方を存じません。姿も見えませんし。聞こえるのは声だけです”
織図のもどかしさは、腹の辺りに走る痒みにも似ている。
彼女に呼びかけているのはINVISIBLEではなくユージーンだということ、織図は確信を得つつあった。
そう確信したところで、いくつもの疑問は何一つ解消されない。
第一に、彼に何故そんなことができる。
また、どうやって彼はINVISIBLEと同等の力を手に入れたのか?
何故彼が彼女にスティグマを刻んで、レイアと通じなければならないのか。
それ以前に、ユージーンにスティグマを刻んでいたのは誰だ、自分自身なのか?
何故彼はINVISIBLEの真似事をしているのか、あるいはそうせざるをえないのか。
ようやく見えはじめた答えを、更なる謎が暗雲となって覆い尽くしてゆく。
肝心なパズルのピースが、繋がらない。
彼女の記憶に首を突っ込んで事実を確認したいが、それは無理だ。
どの瞬間もバンダルに厳しく監視されている。
その視線を織図のすぐ背後から感じている。
『くそっ、詳しい話は後だ。まずいな。お前を早く逃がさにゃならん。共存在以外に逃げる方法はないんだぞ。転移で逃げるのは無理だ』
レイアの神体には織図の手によって無数の鎖が巻きつけられて、しっかりと固定されていた。転移防止のためだ。鎖ごと転移を強行すれば、彼女が結えつけられている床も転移に巻き込む。つまり特務省全体と共に転移をせざるをえない。
ユージーンや荻号、バンダルになら難なくできそうなものだが、彼女にはそれだけの技量はない。よって、共存在を使わなければならない。
織図は愛娘に言ってきかせるように、辛抱強く説得する。
『例えその鎖を引きちぎって転移で逃げたとしても、あるいは俺が今すぐ解いてやったとしてもだ。特務省は宇宙の果てまでお前を追う。そうならないために、お前が共存在で意識のない身代わりを置き、目を眩ませて逃げるしかない』
実際、特務省は宇宙の果てまで追ってきたのだから説得力には申し分ない。
今なら大柄な織図が彼女に覆いかぶさるような体勢で、いくらでも死角は作れる。一時的にレイアが共存在で二柱になったとしても、バレないように上手くやれる。
それに、久遠柩の柱となる職員達はまだ配置についておらず、フロアは騒然としていた。さらに、織図の動きを監視しているのはバンダルだけ。逃走のための条件は揃っている、あとは織図がバンダルの視界を遮っている隙に彼女が共存在を発動すればいい。
“でも、共存在を使ったら……”
彼女はまだ躊躇していた。
『レイア、お前はこれまで訓練で何度共存在を使ったってんだ』
“……”
その回数が今更一度増えたところで、それが何になるだろう。レイアも渋々と諦めた。
今は“その時”、ではないと言い聞かせて。
『冷静になれ、今は奴と約束した“その時”じゃないだろ?』
“わかりました。スティグマはわたしが持ってゆきます”
彼女は最低限の譲歩をみせ、遂には同意した。
織図はいたたまれない。レイアの肉体に INVISIBLEを収束させることは、神階の誰ひとり望んでいない。避けられるならそれが一番よいに決まっている。
INVISIBLEを受け入れることを義務と感じる必要はないというのに、彼女は“彼”と約束をしてしまっている。敵とも味方とも、素性の知れない存在と約束してしまったのだ。
『スティグマはこっちに棄てちまえよ。お前は助かるんだぞ』
“できません。約束したのです。この目印はいつも、わたしが持っていると”
後生大事に持っていたいものではないだろうに。彼女の頑ななまでの主張は、洗脳をされた結果なのだろうか。はたまた彼女の強い意志によるものなのだろうか。真相は闇の中。
『それは、誰と約束したんだよ。……まあいい、その件は後ほどだ。ここは任せて早く行け。できるな?』
”ええ”
自信を持って頷いただけあって、彼女の共存在は完璧だった。
幽体離脱をするように存在確率を歪曲し、共存在による分身を生じると、織図の体内に吸い込まれるように超空間転移で消滅する。
自我を引き抜かれ抜け殻となったレイアは先ほどと同じ体勢で台の上に横たわっていた。
織図は落ち着いて半身を起こすだけでよく、平然とレイアの拘束を終えて持ち場に戻る。
彼の去ったあとには深い眠りに落ちた少女が、祭壇の上に保定されているだけだった。
バンダルは徹頭徹尾、油断なく彼女を注視していたようだ。
「織図」
不意なタイミングで、バンダルが織図を呼んだ。
平静を装って彼はゆったりと振り向く。いつもと何一つ変わらない所作でだ。
じわり、と織図の首筋に汗が滲んだ。
バンダルはホールの一段高い場所から黒々しい瞳を眇めて、見透かすように腕組みをしている。
織図は緊張感のない声色で呼びかけに応じた。
「はい」
彼はまだ固く双繋糸を握っていた。
バンダルからの看破は不可能だ、ただ“何も考えていない”ということが看破されているだけだ。
とはいえこの不自然な状態が継続するのはあまり芳しい状況ではない。
「彼女の様子はどうだ」
真綿で首を締めるように、粘つくような語調で彼の上司は尋問する。
「よく、眠ってますよ。御覧のとおりです」
その言葉には何も、相違なかった。
「そうか。ならばよい」
バンダルの注意がようやくレイアから逸れ、無言でホールを去ってゆく。
織図は深く安堵の息をついた。
*
「何を、仰ってるんですか……」
朱音は耳を疑った。
荻号は自信家ではないが、だからといって謙遜もしなかった。
彼の言葉はいつも正しかったし、有言を実行するだけの力を持っていた。
その彼がお手上げだと言ったのだ。
荻号は台所に向かうと、やかんに水を入れ、好物の紅茶を淹れるために湯を沸かそうとして舌打ちをした。
コンロの火が、点火しなくなっていたのだ。火が点かなくなったと言ってしまうと味も素っ気もないものだが、点火に至る過程を阻む複雑な事象に変化が起こったと言い換えると、事態は深刻だった。
ガスの着火装置、つまり圧電素子が着火に至る電圧を生じなくなった、または着火点が変化したのだ。
燃焼温度が変わる、これだけでも現代文明を麻痺させるに十分なインパクトとなりうる。生物階住民は可及的速やかに、避難をはじめなくてはならなくなったことだろう。
彼は何気なく電源の入ったままのテレビを見遣った。先ほどまでニュースを映じていたその画面にはノイズどころか、もはや映像を結んでいない。
全てを白日のもとに晒しながら、日常は確実に侵食されていた。
変化に気付かない朱音は荻号の周りをまとわりついている。
「お手上げって? 覆水を盆にかえしたり海を干上がらせたり、天地を覆したり、そんな感じのお手上げなんですか? それ以前に神様って、神具がないと何もできないものなの?」
彼には神具が壊れたぐらいで弱音を吐いてほしくない。
修理をするなり何なり、できないことはないだろうに。
現実が見えていない彼女には、彼が何故早々にさじを投げるのか理解できなかった。
彼は降伏しろと言われてもいないのに自ら進み出て白旗を振る、臆病な兵士のようだ。
「……その程度のことなら神具があろうがなかろうができる」
軽く受け流して、荻号はぽんと朱音の手に空のカップを乗せた。
「言っただろう。世界はより単純になってゆくと。有形事象に対しては対処のしようがある。だが無形事象には神といえど介入できんのだ。殊、局所的ではない物理法則に関してはな」
アルシエルは冷蔵庫を開けて賞味期限の切れた牛乳に手を伸ばしながら、淡々と補足した。
彼女は荻号とは対照的に、まだ音をあげてはいないようだ。
火事場に女が強いというのは本当だな、と朱音は頼もしく思う。
彼女はコップに牛乳を注ぎ、電子レンジの中に放り込んだ。
要するに荻号もアルシエルも、何か温まるものを飲んで気分を落ち着かせたいのだろう。
彼女がパチンとスイッチを押しても、電子レンジは沈黙していた。
彼女はこれを見ろと、荻号に目配せをする。分かってる、と彼もため息混じりに頷く。
電子レンジが、マイクロウエーブを生じない。
コンセントに電流が流れていない、レンジそのものが所定の電圧に達しない……電源が入らない原因なら、荻号にはざっと1ダースほど思いつく。
荻号はコンロの上に乗っていたヤカンの側面に手をあて、彼が両手の中で発熱させた熱量で瞬時に湯を沸かすと、予定どおり紅茶のポットに湯を注いだ。
まだ、湯は100度で沸く。熱力学法則は部分的に生きている。
彼は些細なことからも、現象を確かめているようだった。
アルシエルのミルクも、ついでに彼の手の中で温めてホットミルクになった。
「世も末とは、このことだ」
朱音がまた、理解できず置いていけぼりをくらっている。
「どういう意味なんですか?」
「つまりお前がせっせと解いてたこの問題は、今日から全部不正解だってことだよ」
朱音がリビングテーブルに広げていたノートを見下ろしながら、彼はそう言った。
そこにあったのは、学校が一斉休校となった後、出されてもいない数学や物理学の難問を解き続けた彼女の努力の跡だ。
彼女は使徒であるという事実を知らされた時から、それまでにもまして勉強に励むようになった。
頭脳だけでも神々に近づきたいという願望によるものなのかもしれない。
朱音はまさにこの世の終わりだというような表情になった。
とりわけ数学を得意とする彼女は全問不正解になどされたためしがないのだから、そのショックは相当のものだ。
折角の努力が水の泡、とはまさにこのことだった。
「今日から間違いなんですか? せっかく勉強したのに」
「多分な」
「そんな、数学は不変のものですし。ありえません!」
彼女がそう抗議するのももっともだ。
ある日を境に答えが変わってしまうような、そんな不安定な学問だったのかとうったえたくなる。
数学の神様とやらに文句を言えばいいのだろうかと彼女は責任の転嫁先を考えたが、釈然としない。
「どうする、荻号。侵食は進むぞ」
「もう、俺にできることもなさそうだ」
彼は無責任にも、そんな事を言っている。
「見損ないました。そんな簡単に放り投げるなんて。できない事はないって言ってたじゃないですか! 荻号さんの甲斐性なし!」
あの言葉は口先だけだったのかと、彼女は言ってやりたくもなる。
彼女は荻号を全知全能の存在だと思い込んでいたし、彼も言葉の端々にそれを匂わせていた。
「俺は大抵のことはできると言ったが、できない事はないなんて言ってねーぞ。おまけに、今は神具も使えねえしな」
「ほらぁ、神具がないとやっぱり何もできないー!」
痴話げんかのようになってしまったどこかコミカルなやり取りを、アルシエルは賞味期限の切れたホットミルク片手に、大して面白くもなさそうに眺めている。
騒々しいな、彼女はそんな淡白な感想を述べるにとどまった。
「たとえそうでも……言わないでください。できないとか、無理だなんて。だって、あなたが諦めたらもう、終わりだって意味なんでしょう?」
朱音は紅茶に砂糖を入れながら真剣に涙ぐんでいた。
彼女は荻号ができなければもう、誰にもできないものだと信じている。
彼に弱音を吐かれては困るのだ。
ただ実質的なところ、朱音の思い込みはそれほど見当外れというわけでもなかった。
「悪かったよ」
荻号は、適当なところで詫びをいれておくことにしたようだ。朱音を泣かせると厄介だ。
水入らずのふたりに、アルシエルが空気など読まず水をさす。
空気を読んでいる場合ではなかった。
「終わりか否かを決めるのは荻号ではなかろう。試みるほかあるまい、INVISIBLEとの直接対話を」
「INVISIBLEそのものがイカレてんのにか? 侵食のスピードが尋常じゃない。何をしようと、くびり殺されるだけだ」
荻号の反応はつれない。
彼女は白いニットに包まれた袖をたくり細い腕を見せ付けながら、すかさず反論した。
結局彼女と荻号の腕にある光の刺青、それは何なのだろうと、朱音は目じりに涙をぶらさげながら彼女の腕を見つめている。
「それは違う。我々の腕に聖痕はまだある。まだINVISIBLEは正気だ。そうでなければスティグマのパターンが依然として、カオスの淵にぶら下がっていることはない。まだINVISIBLEは、門戸を開いている。そうは考えられんか」
彼女は理性的で、なおかつ建設的だった。
前向きな彼女に、後ろ向きになりつつあった荻号も救われる。
「レイア=メーテールだったか。一度ぐらい、会ってみるか」
そういえば、神階と距離を置いていた荻号は一度もレイアに会ったことがなかった。
彼女の様子は比企より事細かに聞いている。
比企があまりにも非人道的な手段で、彼女の成長を促したということも知っている。
ただ、会ったからといって何か得るものがあるとは思わなかった。
彼女と会うことはむしろ、荻号にとってリスクが多かったというだけだ。
「そうだ、お前も一緒に来るか? ここに居ても退屈だろ」
「え、私?」
アルシエルに呼びかけているのかと思いきや、彼は朱音に話しかけていた。
思いがけない誘いに、朱音はしどろもどろになった。
「来いよ」
何気なく誘っているようであり強要こそしないが、その言葉は重い。
そもそも伝統的に、使徒は神の意思に叛いてはならないことになっている。
もし神の言葉に随う事ができないときには自害などしなくてもよいが、その神に仕えることをやめなければならなかった。
主をかえなければならない、ということだ。
朱音はそんな歴史的背景を知らないが、いつも彼女の意思を尊重して自由にさせてきた彼が命令口調で誘ったことなどなかったものだから当惑する。
あまり面倒なことには巻き込まれたくない、そう考えたがよい言い訳も思いつかない。
「わ? 私、でも、学校がありますから」
「退避勧告が出てるのに?」
その指摘は的確だ。このまま風岳村に居残るという選択肢は、どちらにしてもありえない。
「……」
「お、お母さんに訊いてきます」
彼女の判断は妥当だった。
荻号は朱音の保護者でもなければ、後見人でもない。
母親という言葉を出されては、荻号に出る幕もなかった。
朱音が帰宅するなり、アルシエルは口火をきった。
「いやに強引だな」
「仕方ないさ。あいつは俺から離れては生きられん、それにこんな時だ」
「それだけか? こんな時だからこそ、合理的ではない。足手まといになるだけだ、彼女を危険に晒すことにもなろう。それでいて、何故連れてゆくのだ? 彼女の安全を思うなら彼女の家族とともに、国連とやらの誘導に従って神階に避難させるべきだ」
アルシエルは荻号の弁解を台無しにする。
国連は生物階の具体的な救済措置を発表している。
明日より、国連に加盟している192の国と地域に神階の分門が転送される。
非加盟国は加盟国へ移動してゲートに入るよう指示されている。
実質的には比企の指揮下にある国連の誘導にしたがって、順次避難をしてゆく段取りだ。
今日を境にテレビもつかなくなったが、先日、荻号の家のポストには回覧板が入っており、避難方法についての説明が詳細に記載されていた。
朱音を彼女の家族から引き離して、無理にでも荻号と同行させなければならない理由はない。ましてや未曾有の非常事態だ。
一度離れ離れになってしまったら、何十億という避難民の中から再び家族と巡り合える可能性もきわめて低くなるだろう。
使徒が生理現象として神のアトモスフィアを欲するというのなら、彼女にアトモスフィアを濃縮したアンプルなり錠剤なり、当座ぶんを渡しておけばよいだけだ。
荻号の気紛れというにしては、度を過ぎている。
「何か言いたそうだな。はっきり言えばいい」
「次に汝は彼女に課する疑いと同じ疑いを以って、我に同行を強いるだろう」
彼女の言葉はいつにもまして文語的で、どこか予言じみている。
「ああ。心外か?」
にやりと、彼は意味ありげにほくそえんだ。
やはりそうかと、アルシエルはだらしない姿勢で頬杖をついて彼を眺める。
その遣り取りは疲弊しきった倦怠期の夫婦のようだ。
一見奔放に見えながら、打算あってこその言動だ。彼は意味もなく、無意味なことを言わない。彼と数日ともに過ごしたアルシエルはしだいに、荻号の性格というものを掴みはじめていた。
何故彼が必要なこと以外をしないのか。
それは合理的ではないからだ。
彼の生き様そのものが省エネであり、無駄な労力を無駄に使おうとしない。
性格に裏表などない、直球を体現して生きているような彼女がもっとも苦手とするタイプだった。
「いや、汝は正しい」
「あるいは、俺も同じ嫌疑をかけられるべきだ。粘菌がシャーレ上に作り出したパターンは、あんたのとは同じだが、俺のとは違っていた」
「どちらかが偽物か。では、我が汝を監視する必要もあるというわけだ?」
少しだけ勝ち誇ったように彼女は顎を上に向けた。
「そう。俺らは行動を共にする必要がある」
この先どれだけの時間行動を共にしようと、彼らが仲間とはなることは決して無い。
常に互いに警戒し、信頼とは無縁の関係で結ばれている。
その関係を深めてゆくことはあるだろうが……。
「互いに監視し、殺しあう為にか……レイアと会うのは、彼女を危険に晒さぬだろうか」
そう、もし荻号とアルシエルのスティグマのどちらか片方が偽物だったとしたら……。
レイアと会う事は、“スティグマを刻んだ者”にとって好都合なのではないか。
アルシエルは最悪の事態をも想定している。もし荻号とアルシエルのスティグマのどちらかが、“INVISIBLEと敵対する者”から贈られたものであったなら。
意思とは無関係に、レイアを加害してしまうのではないか。
そう思えてならない。
アルシエルはINVISIBLEの肩を持っているのではない。
ただ、レイアと会うという行為自体が創世者との衝突の火種となりうることを認識している。
「INVISIBLEが彼女を庇護しているのならば、そんな心配はいらんよ」
こちらが危害を及ぼすどころか下手をすれば、荻号かアルシエルのどちらかが即死だ。
荻号は言葉には出さないまでもそう思った。
レイアと会う前に共存在でリスクを分散する必要があるのかもしれない、周到な彼はそう考えることも忘れなかった。
彼は朱音を待つ間にと、サンダルを履いて庭に出て最後になるかもしれない薬草の手入れをはじめた。
手塩にかけて育てた彼の怪しげな植物たちも、もういくばくとない命なのだろう。
彼はサッシを開けっ放しにして外に出て行ったので室内には木枯らしが吹き込んでくるが、ストーブも焚けないというなら室内も室外も大して変わらない。
「これなんて、咲かせるのに随分苦労したんだぜ」
どんな愛着があるのか、名残惜しそうにけばけばしい紫色の花弁を手に取り、苦笑している。
どう贔屓目に見ても、毒を含む植物にしか見えなかったのだが。
「ほう……これは珍しい」
アルシエルは荻号の話を右から左に聞き流し、空を振り仰いで一点を凝視し、目を眇めた。
荻号は薬草に気をとられて視線を伏せており、彼女の視線の先に気付かなかった。
「だろ?」
荻号は勘違いをしたが、彼女は相槌を打ったのではない。
「いや、上だ荻号」
「?」
「こちらを目掛けて一直線に落ちてくるな。あれは何だ? 人か?」
彼女の視力は猛禽類なみだ。荻号は促されて振り向き、彼女の捉えていた人影の詳細を判別した。
荻号はアルシエルに環をかけて視力がよい。
落下物がはっきりと、金髪をした少女と見破った。
そして周囲にほんのりと黄金色のアトモスフィアを持つ彼女が、プライマリの神であるということも。
「何でそっちから出向いてくる。レイアだ」
彼は恐怖の大王でも落ちてきたような、絶望的な顔で見上げる。
これほど急な来訪だと共存在を使う暇も、あったものではない。
彼女は意識を失っているようではあったが、荻号は救助を躊躇した。
助けるつもりでこちらが即死なんて事になったら、貧乏くじもいいところだ。
それこそ、死んでも死に切れない。彼女と会わねばならないとは思えど、先手を打たれるとたじろぐ。
死の一撃を与えられた瞬間に共存在を発動することはできるが、分身にも同様にインパクトを与えられたら終了だ。
彼女が荻号を認識しているなら、とっくに射程に入っている。
もはやこの距離では手遅れだ。
「そら、何をしておる。受け止めぬか。崖下に落ちるぞ」
アルシエルは外に出てこようともせずリビングのソファーに居座って茶化すが、腰を上げるつもりはないらしい。
「落ちたって死にやしねーよ、レイア=メーテールなら」
「違ったらどうするのだ? 少女がひとり、高所より落ちて死ぬ。大事件ではないのか。我はいっこうに構わんが、神が人を見殺しにしてよいのか」
解階の女皇に、神としての心構えを説かれるのだから耳が痛い。
「じゃああんたが助けてやれよ」
「助けろもなにも、自翔できん」
「自翔性能のついたツールがあるだろ?」
荻号は反論を試みたが、一蹴されてしまった。
アルシエル自身は自翔できないが、ツールの力を借りれば容易にレイアを助けることができるというのに。
「それとあいにく、ツールを屋根でムシボシしておってな」
彼女は余裕綽々で、人差し指を上にくいっと向けた。
彼女のツール、不可侵の聖典は湿度をきらう。久しくメンテナンスをしていなかったので、天気のよい今日を見はからって屋根のソーラーパネルの横に干していたのだ。
「何で都合よく虫干しなんかしてる!」
「書籍型だ、黴が生えぬようムシボシぐらいする」
さえずるように答える彼女は、立っている者をこき使うことが生まれながらにして得意だ。
「くそっ!」
荻号はアルシエルに救助を押し付けられて文句をたれながらも、諦めたのか庭を蹴って飛翔した。
「いかん、重い!」
荻号は飛び上がるなり、そんなことを口走った。
重いのだ、そう、体が“いつもより重いために”、うまく飛翔できない。
斥力中枢が、地上との反作用を生じなくなっている。
もしくは、荻号の神体を構成している質量数が変化した、だ。
荻号は不自由を覚えながらも手を伸ばしかろうじて、崖下に転落する前に空中で少女を受け止めた。
ひとまず彼女が即死、ではなく荻号が即死を免れた事に安堵しながら、彼女がレイアであることを改めて確認する。
正統なプライマリの特徴を持つ女神は、神階にはたった一柱しか存在しない。
転移で生物階にやってきたものの、うまく飛べずに力つきたか……。
どう見てもそれだけとはいえない彼女の消耗ぶりから、荻号は共存在と超空間転移の重ねがけをしたのだと推測する。
どちらも修得している彼であればこそ気付いたことだ。
そして彼女の状態は荻号にとって絶好のチャンスでもあった。
やることといえばひとつ、マインドブレイクだ。
彼の青銅色の瞳が、勝利を確信して鋭く輝いた。
「恨むなよ、意識を飛ばしたお前が悪い。洗いざらい犯らせてもらう」
1秒もしないうちに、彼女は荻号に看破され尽くされ丸裸にされる……筈だった。
しかし、何度看破を試みても彼女の心層は空っぽだ。
何も見えない。
そう、彼女はまだ双繋糸を手首に巻きつけており、このとき荻号は双繋糸の存在を知らなかった。
「何だと?」
こちらが、共存在の抜け殻のほうなのか?
そうも疑ったが、その可能性が低いことは彼女に残されたバイタル量から簡単に判別がつく。
それに、より確実な証拠として彼女の背のスティグマがあり、したがって彼女は抜け殻ではない。
外堀を埋められた気分だ。年端もいかぬ小娘のマインドギャップも破れないとは。
或いは、マインドブレイクというスキルを荻号が失ってしまったのかもしれないとすら考えた。
「どうだ? レイア=メーテールだったか」
彼女を抱えて着地した荻号は縁側に腰掛けると、ひざの上にうつ伏せに寝かせた。
まずは分かることから明らかにしてゆかなければと、気をとりなおす。
レイアは創世者からの干渉を阻む権衣を着せられて、背のスティグマは透けて見える。
そのモチーフは存在確率の鍵と鍵穴の一対だ。
荻号とアルシエルは彼女の背にある鍵のモチーフを、各々の腕にあるものと比較しようとして目を見張った。
一瞬にして彼らの腕にあるスティグマの真贋が明らかとなる、そのつもりだった。
「これは、何を意味している……」
ふたりは息を止めた。
答えあわせをしようとしたのに、回答がついていなかった問題集を見るかのよう。
アルシエルの腕が粟立つ。
存在確率の鍵がない。
彼女の背にあったのは、鍵穴のモチーフだけだった。
鍵が、鍵穴からすっぽりと抜けていた。
「不完全なスティグマが三つ……何が、起こってやがるんだ!」
彼の疑問に、答えるものはなかった。
*
陽階に戻らずそのまま陰階のゲートから極秘裏に生物階に入ったファティナ マセマティカはさきほどから自由落下を続けている。
彼女の意思で落ちているのではない。
入階衛星で生物階に出て、衛星を蹴って飛翔体勢をとろうとした瞬間から、大きく体勢を崩し地上に吸い寄せられている。
「な、何故?」
重力速度を計算しようと手帳型の準神具、P is not NP(P≠NP)を起動しようにも、風圧にもっていかれてページが空しくたなびくばかり。
神が落下死するなど考えたこともないが、俄かに現実味を帯びてきた。
生物階で飛翔できなくなっている。物理法則が狂い始めているのだ。
ユージーンは彼女を死に至らしめるためにこの罠を仕掛け、その様子をどこかで観察しているのだろうか。
”随分と不名誉な死を賜りますのね。ユージーン様。信頼しておりましたのに”
彼がどのようなつもりであれ、これが三階に下した彼の答えなのだと、ファティナは彼女に襲い来る死の危機とともに突きつけられた。
彼女は聞こえるはずも無い彼からの返事を待って更に10秒という、地表激突までの貴重な時間を費やした。
「あなたの御心はよく存じました」
彼女は下から吹き上げる激しい風に打たれながら、穏やかに地上という天を仰いでその瞳を見開いた。
「しかし!」
「こんなことでは殺せませんよ。バイタルロックもありますしそれに……」
彼女の聖衣のポケットから、キャッシュカードサイズの黒いカードを取り出した。
それはヘクス・カリキュレーションフィールドとリンクさせた携帯端末だ。
そもそも六方魔方陣演算空間はノーボディが開発した巨大な計算機だ。
限られたフィールドではあるがその計算結果を、限定された空間に反映させることもできた。これまではただ、必要がなかっただけだ。
ファティナの計算結果は周囲の、彼女が規定した空間の物理法則を取り戻す。
迫り来る地上に激突するまでに、計算が間に合えば、だが。
彼女は落ち着いて、端末を見ることもなく爪先で数式の入力をはじめた。
「私を誰だかお忘れですか? この数学神ファティナ・マセマティカが何度でも」
そう。
変化をしただけ、再計算をして修正すればよいのだ。
それは実に数学神らしい、単純な発想だった。
「再計算して差し上げますよ」
彼女が地上に落下するまで残すところ、18秒もあった。