第2節 第15話 Failure of self-organization
バンダルらとともに特務省に戻った織図は、同行を求める新米アシスタントの女神の干渉を転移術で振り切り、開かずの物置のような小部屋に内側から立てこもっていた。
これからレイアの簡単な健康診断が行われ、久遠柩を発動するのはその後だ。
織図に小一時間の休憩時間ができた。
定時に顔を出せば、その間にどこで何をしていようと、上役から咎められることはない。
全館禁煙の特務省において、ここは喫煙嗜好のある織図の秘密の喫煙所だった。
一服したい気はあれど、今日はあいにく煙草の持ち合わせがない。
織図は決してニコチン中毒はないのだが、こころなしか口寂しく感じる。
はじまりはたったひとり、か。
なぞかけのような言葉は織図の意識の裏側に、へばりついていた。
ひとり、という言葉は必ず“実体”を持っている何者かである、という意味だ。
レイアは創世者をひとり、と数えるだろうか。
実体のないものをひとりと数えるものか。そのあたりを、言葉尻から推測することはできないが……恒と比企が彼女に施した教育が常識的である保障などないが、少なくとも織図がレイアと逆の立場なら、数えない。
実体のないものは数えられないからだ。
レイアは創世者の姿を見たのだろうか?
子供が寝言のように呟いたうわごとを基にあれこれと考察するのは不毛だ、だが、不毛なこともつつかなければならない。彼は繰り返す。
「ひとりって、何のことだ」
彼が腰を下ろす目の前には特務省の壁面、つまり鏡面のように無愛想な黒い壁がある。
返事はなく、声は壁に染み入ってゆく。
呆然として時間を無駄にしたくもないので、手持ち無沙汰にファティナに電話をかける。
こんな時でも携帯だけは手放していない。
特務省職員の持つ携帯電話は機密維持のため盗聴不能電波を発する。
会話を傍聴されるという心配はなかったので、遠慮なくコールだ。
2コール目で、 ファティナは部屋に備え付けてあった内線電話を取った。
デスクと電話まではそれなりに距離があるから、少しは走ったに違いない。
棟永が出ないところをみると、部屋にいるのはファティナ一柱か。
『レイア=メーテールは無事でしたか?』
彼女の声が弾んでいたのは、決して走って息があがったからではない。
連絡がつかないと思っていた織図からのコールに、驚いて興奮している。
そういう調子でもなかった。
彼女は何か新情報を得たのだ。
それも、彼女の気を昂ぶらせるほど重要な何か。
織図は小さな覚悟を決めつつ、素っ気無く尋ねた。
「何とかな。そっちはどうだった」
『大変なのです!』
間髪入れずに答えたファティナに織図は息を止め、ファティナには聞かれないように静かに息を吐いた。やはりそうか、そうだろうな。
少し伸びた、文字通りの無精髭をゆっくりとさする。
「大変なのもお互いさまだな。で、何がどう大変なんだ?」
『名も姿もなきものが、ユージーン様に消されました』
電話越しのファティナは凛として、背筋をぴんと伸ばし、少し声を震わせながらそう報告したのだろう。
頬を紅潮させ、いつものように逆手で受話器を握っているだろう。
織図には彼女の様子が手に取るようにわかる。
「待てよ、落ち着け。全っ然意味がわからん。ユージーンはもう、死んでるだろ」
冷たい気配が、織図の項のあたりを通り過ぎた気がする。
この狭い無人部屋の中で視線を感じるのだ。
ちょうど恒の家で、ブラインド・ウォッチメイカーからメールで挑発を受けたあの日の、あの粘つくような視線。
同じものを感じる。死者が死者を消す、だと?
死を司る織図は誰よりも、死という現象を知っているつもりでいた。
ありきたりなイメージで申し訳ないと悪びれてすらいるのだが、生命という現象はまさに生まれた瞬間から限られた長さの蝋燭を炎で燃やして使い切ってゆくことに他ならない。
何も間違ってはいない、単純なことだと、織図は思う。
燃え尽きたはずの炎が、蝋燭を離れて鬼火となって漂っている……そんな怪談じみた、あまり有意義ではないイメージが喚起されてきた。
胸騒ぎを抑えるため、ファティナに直接会って話したいと思ったが、時間が気になる。
特務省内のホールを借り切ってレイアに久遠柩をかけるまで、つまり職員召集まであと48分しかない。だが48分でもできることはあろう。
織図は背任覚悟で特務省から陰階の自室に転移をかけた。
特務省内から出るなと言われてはいないが、この危急の折に単独で身勝手な行動を取った事が明るみに出れば、それなりの処分が下されるだろう。
特務省の処分といえば、厳しい体罰が課せられる。
神階の神体罰なんて痒いぐらいだぞ。
……不満をぶつくさと垂らしながら、彼は既に転移をかけていた。
「織図様!」
開口一番、織図の名を呼んだファティナは見るからに嬉しそうだった。
心細かったのだな、と織図は彼女の胸中を慮る。
透き通るような白い肌の上に、打算のない感情を素直に表現する彼女は可憐だった。
織図はことあるごとに、彼が盲目であった頃から、彼女の女神としての正当な美しさに敬意を払い、襟を正す。
織図自身は彼女とは対極をなす泥臭く不精な神だと、どこかで引け目に思っているからだ。
死神が死の穢れを引き受ける限り、死を呼び寄せるのは真理だ。
ときに死の災禍が彼の命を奪うこともある。
潜在的な死への恐怖から未だに織図を避ける者は多く、織図も最小限の交友関係を築くようにしていた。
織図に近づくだけで寿命を縮めると、根拠のない偏見を持つ者も神や使徒にかかわらず、神階には数多くいる。
だがこの女神からは過去から現在に至るまで一度も、差別の視線を向けられたことは無い。
彼は昔から、彼女を厚く信頼している。
「ご苦労さん。で、何がわかった」
「……ユージーン様は二年前、創世者となったかもしれません」
「!?」
彼は絶句した。
数学神 ファティナ マセマティカは常に確証を求め、見つからなければきっぱりと否定する。彼女の考察は竹を割ったような正しさで、矛盾する物言いを嫌った。
彼女が断定するときには、必ず証拠を掴んでいるという証明だった。
だから織図は、彼女の報告にこんな言葉で茶々を入れることしかできなかった。
「冗談だろ!」
「名も姿もなきものと意識を共有していた彼は、創世者となるにはどうすればよいかを知っていました」
ストーリーテラーのように迷いのない口調で、ファティナは淀むことなく語る。
「ノーボディと喧嘩でもしたのか」
茶化しながらちくりと、織図の胸は痛んだ。
それは言い換えれば、ユージーンが荻号 要を殺したという話にもなるからだ。
特に、荻号 要とは長い時間を共にした織図にとって、何とも生々しい話だった。
織図は荻号に育てられたと言って間違いない。
父親のような存在であると同時に無二の親友だった。
盲目であるが故に一度は神階より切り捨てられ安楽死を宣告された織図を救い、心身ともに自立を促したのは間違いなく荻号だ。感謝してもし尽くせない。
一方で、ユージーンは昨今では珍しい、清清しいほどの好青年だった。
誰に尋ねても、彼を悪く言う者などいない。
それは彼の生前の支持率によく現れている。
だからどちらの肩をもって話を聞いてよいものか、わからなくなる。
ファティナも同じだ。彼女は荻号を尊敬し、ユージーンを好ましく思っていた。
世話好きのファティナは彼女よりずっと年下のユージーンを、弟のように思っていたふしがある。
「わかりません。ですが、決定的に相入れない部分があったのです。彼は何を意図してか、名もなきものを滅ぼしました。ですから必然的に現在神階と生物階を支配しているのはアルティメイト・オブ・ノーボディではなくユージーン様ということになります。レイアはそれについて何か言っていましたか?」
彼は創世者となることによって彼の生涯を否定した。
それも全否定だ。
彼には壮絶なまでの覚悟と、永遠の孤独に耐える勇気があった。
暮れない夕暮れに支配された幻想的な湖のほとりで、声とも悲鳴ともつかない絶叫を発していたユージーンの姿を、彼女はありありと瞼の裏に蘇らせる。
彼があれほど悲惨な様子で決心したことなのだから、全ての行動に意味があると思いたい。
彼は今もどこかで、彼の信念を貫いているのだと、信じてやりたかった。
その信念に基づいた結果が、親殺しともいえる裏切り行為だったのだろうか。ファティナは理解に苦しむ。
「レイアはこう言ったよ。INVISIBLEはもういない……最初から、いなかったんだと」
「え、」
ファティナはさも面食らった、という表情だ。当然の反応だった。
同様に織図も、レイアにそんな顔を向けていただろうと思う。何かを言いかけては言葉を呑む、ファティナは混乱している。
それは聞きようによれば、単なるレイアの現実逃避のようにも聞こえるからだ。
レイアを苦しめるINVISIBLEがもともと存在しなかったと信じることによって、彼女は絶え間なく襲い来る恐怖からある意味逃れている。そんな解釈も考えられないではなかった。単純に、ストレスに対する心身の適応だ。ファティナは織図がレイアの言葉を真に受けていることに、否定こそしないが困惑しているのかもしれない。
「意味、わかんねーだろ」
「最初から、ですか? いいえ、INVISIBLEは存在します。INVISIBLEの存在を、神階は何度も観測しています。あなたもご存知のとおりです。それらはブラインド・ウォッチメイカーやアルティメイト・オブ・ノーボディとは違います。INVISIBLEは格が違うのです、エネルギーの質も桁も違うというべきでしょうか。この二者が束になっても、 INVISIBLEに成り代わることはできません」
彼女は冷静に、場合によっては冷酷に分析を行う。
彼女の言葉は客観的な事実の総合だ。憶測を口にすることはない。
「またレイアはこうも言った。“でも、誰かがINVISIBLEにならなければ”、と」
「INVISIBLEが存在せず、誰かがINVISIBLEにならねばならず、アルティメイト・オブ・ノーボディは消滅し、つまり、創世者はブラインド・ウォッチメイカーとユージーン様しかいないということですか? ユージーン様はわずか二年前に創世者となり、ブラインド・ウォッチメイカーとアルティメイト・オブ・ノーボディは絶対不及者にはなれません。質量不足です。つまり、絶対不及者であった創世者はINVISIBLE以外にはないのです」
落ち着いた声色で、一つ一つの要素を指を折って数え、彼女は状況を整理してゆく。
「じゃ、絶対不及者の中には何が収束していたんだ?」
「……絶対不及者の中には何がいて、何をしようとしたのでしょう」
ファティナの推理は早くも頓挫した。
この謎を解いたものはいないのだ、有史以来、だれひとりとして。
彼女が推理を繰り広げたとしても正解など誰にもわかりはしない。
見えざるもの、創世者たちは遥か高みからこの様子を呆れながら見下ろしているのだろうか。つくづく不毛だ、彼はそう思った。
報われない議論を積み重ねるのは、もともと存在しないパズルのピースを捜し続ける行為にも似ている。
絶対不及者が何をしたがっていたのかなど、絶対不及者に訊かなければ分からない。それが可能であるならば、だ。
「そういや、“はじまりはたったひとり”なんだそうだ」
織図は思い出し、竹に木を接いだように唐突に、レイアの言葉をそのまま反芻した。
忘れないうちに、ファティナに伝えておくべきだ。
彼女は断片的に、アルティメイト・オブ・ノーボディの記憶に触れている。
彼女のイメージから、何かが繋がらないか。
一つ一つのアルファベットが寄り集まって単語を作るように、何か、少しでも手がかりを得れば。
ファティナは気を引き締めるようにぎりっと、唇を結んだ。不自然に赤みをおびた唇には、わずかに血が混じっている。織図のパズルのピースは形を成さないが、腸を掻き回されるように不安を呼ぶ。
「織図様、嫌な予感がします。私たちはとんでもない思い違いをしているのかもしれません。INVISIBLEに関する我々の知識を、リアルタイムで覆されています。やはりこれをあなたにお預けしておきましょう。今ここでです」
ファティナは織図にメモリスティックを握らせる。
織図が彼女に握られた手を開こうとすると、彼女は両手で織図の大きな褐色の手を包み込み、また同じようにきつく握らせた。早く安全な場所に移せというのだ。
「何だ?」
「アルティメイト・オブ・ノーボディの記憶から、神階に在籍する全神のバイタルコードを割り出しました」
「そりゃ、すげえ! 神のコードなんざ割れるもんじゃないからな」
彼女は少しも誇らしげではなかったが、その手柄は絶賛に値した。
このぐらいで驚いてもらっては困る、とファティナは更にまくしたてる。
こんなものを誰かに見られていたら破滅だというのに、彼女は生き生きとしている。
彼女の本来の頭脳の冴えが、こんな時にこそ生かされる。
「その中にはユージーン様とレイアのコードも入っています。とても特殊なコードで、変数です。1日おきにある数列に基づいて変化します。数列の解を出すのに苦心しましたが、解は 120日後まで解いてファイルに添付しています。つまり、彼らは根本的な意味で不死身ではなかったのです。肉体的には不死身でも、バイタル切断という方法を用いればアルティメイト・オブ・ノーボディのみが彼らの生命を奪う事ができました。ノーボディは切り札を持っていました。前回、前々回と絶対不及者を葬った時にはその方法を用いたのでしょう。逆に考えますとアルティメイト・オブ・ノーボディは奥の手を持っていたからこそ、彼らを世に生み出すことを断念しなかったのです」
安全装置がなければどんな兵器も造られることはないように、アルティメイト・オブ・ノーボディはいつでもINVISIBLEの目的を挫くことができた。そうでなければINVISIBLEに利用されることが明確でありながら、彼らを生み出すことはなかっただろう。
「不死身のレイアを殺すカード、ってとこか」
織図はファティナがせかすので、早々にDA-インディケータにメモリスティックを突き刺しデータをコピーした。同時に織図の脳にもしっかりと刻み込む。
これまで……生物階の全てのコードを掌握してきた織図は、人々と会うだけで彼らのコードを見破ることができた。
彼が瞬時に人々の概算寿命を言い当てるのはそのためだ。
全く同じことが、神にも適用される。彼はファティナのバイタルコードを直接的に覗き見ていた。彼女の余命とバイタルコードが視覚的に見える。
たとえば織図が死を宣告するだけでファティナのバイタルを断つことも可能だ。
「使っていただきたくはないのですが……バイタル切断権を有しているのはあなただけです」
「何か勘違いしてるようだが、俺がアルティメイト・オブ・ノーボディから預かってるのは人を殺す権利だけだ。それにそんな切り札を俺が持ってたんじゃ」
織図はこのデータを保管するための、安全な場所というものを知らない。
彼女が絶対不及者となってわれを失ったとき、レイアの死を以ってその暴走を止めるための切り札。絶対不及者抗体よりもっと単純で合理的で、最悪に卑劣で、そして最も確実な切り札だ。
「彼女のコードはレイアに教えるのが安全ですが……」
「そりゃねえだろ」
そこまで織図は、堕ちてはいないつもりだった。ファティナも同じ意見だ。
「あなたはそう仰ると、信じていましたよ」
織図を試していたファティナが嬉しそうにそう言う。
「ですから、あの方にもコードをお教えしてはいかがでしょう」
「は?」
尋ねながらも、織図はファティナが誰に期待をしているのか知っている。
「なかったのです」
「何が」
ファティナは茶目っ気たっぷりにそう言って、もったいぶる。
彼女はまた興奮している様子だった。
彼女の感情の変化は手に取るように分かる。
「荻号 正鵠様にはもともとバイタルコードがありません。驚きましたよ」
「何でまた!」
「彼は“アルティメイト・オブ・ノーボディの依代”として創られています。ノーボディはそのくらいの用心はしていたでしょう。彼は有限の寿命を持ちますが、彼のバイタルには何者も干渉できないようになっています」
つまり、彼は“バイタル切断では殺せない”、ファティナはまた断言した。
ただし、彼が致死的な外傷を受ければ別だ。
彼は肉体的に不死身というわけではない、彼のバイタルに干渉できないというだけだ。
「例外なく、誰にも殺せないのか? それは創世者にも太刀打ちできるレベルで?」
「そうです、アルティメイト・オブ・ノーボディにも彼のバイタル切断はできません」
「荻号さんはそれ、知ってるのか?」
「いいえ。荻号様がご存知であれば、ノーボディにとって不都合なこともありましょう」
それを彼に教えていれば、ノーボディにすら荻号を服従させることができなかった。
荻号を殺す方法は二つだ。
ひとつは、致命傷を負わせること。
これは困難を極める。何故なら彼は、共存在を使うからだ。
致死的ダメージを被った瞬間に、分身に肩代わりさせることができる。
彼が死を悟ったとしても、その直前に共存在を発動すれば無傷でやり過ごせる。
もう一つは、共存在を連発せざるをえない状況に荻号を追い込むことだ。
荻号は過去に四度共存在を使い、残り寿命は200年を切っているそうだ。
単純計算すると彼は、あと七度共存在を使えば半年以内に死ぬ。
もっとも、荻号は馬鹿のひとつ覚えのように不用意に共存在を使わない。
彼の戦術は柔軟だ、共存在だけが能ではない。
言い換えれば、彼はあと七度死ねる。
レイアのバイタルコードの最適な保管場所があるとしたら、それは荻号の脳だ。
かくして絶対不及者を葬る手段は当事者の苦痛をよそに、着々と準備を整えつつあった。
ひとつは、抗-ABNT抗体。
ひとつは、久遠柩。
そしてレイアのバイタルコード。
久遠柩は絶対不及者を一時的に拘束したという実績がある。抗-ABNT抗体は未知数だ。
そして、最後の手段は決定的で、最も革命的であった。
しかしこれは、あくまで最後の手段だ。
「ファティナ。ひとつ頼んでもいいか?」
「何なりと」
「今から31分でバイタルロックを覚えろ。意味は分かるだろ」
ファティナはきょとんとした。
「誰に消されるのですか? INVISIBLEが存在せず、ブラインド・ウォッチメイカーの支配領域でもないのなら、私は誰にも消されません」
「お前が言ったんだろうがよ、アルティメイト・オブ・ノーボディがユージーンに消されたって。もうユージーンは俺らの事を何とも思ってねーんだろ」
「そ、そんな! そんなことは、ないと思います」
威勢よく反論してすぐに、彼女の語気はしぼんだ。
彼女はまだ、ユージーンに対する情を引きずっている。
ファティナはユージーンに対する警戒心を持っていない。
ここでユージーンを少しでも悪く言えば、彼女は向きになって反論する。
とにかく、言い合う時間が惜しかった。
「まずバイタルロックを覚えろ。全てはそれからだ」
織図はわずか30分で、ファティナにバイタルロックの術式を教え尽くした。
ものになるかならないかは彼女の努力とセンス次第だが、早く習得しなければならないと何度も念を押す。
できなければ、命に関わるんだぞと怒鳴るたび、彼女は悲しげな顔になった。
つまりそれは、ユージーンを信じないという明確な意思表明になるからだ。
バイタルロックは神具を用いて行えばなお容易だが、神具がなければできないというものでもない。
原理的には死神でなくても、神具を持っていなくともできる。
自らのバイタルというものを、つまり生命そのものを掌中に捉え完全に理解し、消滅させるということだ。
一言で言うと、バイタルを消す。
織図は、バイタルという蝋燭に灯された生命の炎を、吹き消してしまうことだと形容した。
蝋燭から敢えて火を消し、火は種火にして隠し持っておくのだと。
種火はいくら吹き消そうとしても消せないが、種火は長時間燃やし続ける事はできない。
炭もいつかは燃え尽きる。
バイタルロックをかけられるのは、せいぜい2日が限度だということだ。
期限が切れたらバイタルロックをかけなおす、つまり新しい炭火をつくるしかない。
織図はバイタルロックも完全ではないと釘をさした。
盾の継ぎ目を矛で一突きされるようなもので、バイタルロックをかけなおす間にやられたら、防ぎようがないだろ? そう言って。
ファティナはただちに織図の言葉を完璧に理解するに至ったが、織図が彼女の習得を見届ける事はできなかった。
約束の時間がきたのだ。
織図は名残惜しそうにファティナをしみじみ見つめた。
「なあ、ファティナ」
荻号にレイアのバイタルコードを伝えるという用事を、ファティナに託すほかなかった。
織図の電話で連絡という手もなきにしもあらずだが、荻号はあいにく電話を持っておらず、そしてその内容の機密性を重視するなら直接伝える必要がある。
織図は風岳村に幾度となく降下したことがあるので、神階の門を出たらわずか一回の転移で荻号の家までたどり着くだろうが、ファティナはそうはいかない。
荻号との距離がとてつもなく遠いような気がする。
彼の家を捜している間に何者かにやられてしまわないだろうか?
文型神の彼女は見ての通りだが、非力だ。そしてバイタルロックも付け焼刃といっていい。
彼女を生物階に送るのは無謀だと彼も思わないではなかった。
それでも、織図は定刻に特務省に戻らなくてはならない。
隙を見てレイアを逃がす。
その必要性を、織図はひしひしと感じていた。
レイアを解放し真相を語らせなくては、いまに取り返しのつかないことになる。
「俺ら、一体何と戦っているんだろうな」
彼はファティナに、答えを求める気はなさそうだった。
ただ、うんざりとしていた。
*
荻号 正鵠の借家には、ひとり暮らしの彼が持て余している部屋はひとつもなかった。
ある部屋は封鎖されていたり、またある部屋のドアを開けると荷崩れが起こって結局開けることができなかったり、薬びんが無数に保管されていたり、ある部屋のドアを開くと部屋の中が迷宮や砂漠だったりする。
家の外見は何の変哲もない家なのに、とにかくそんな異次元な調子だ。
こんなにやらかしてしまって敷金と礼金はどうなるんだろうか、などと思いながらも朱音は迂闊に彼の部屋に入れない。
何百平方メートルもある大豪邸で遭難というのではなく、民家で遭難だなんていくらなんでも不名誉だ。
朱音にとって安全な部屋はリビングとダイニング、そしてバスとキッチンだけだ。
そこがジャングルの中のベースキャンプのように思えてくるから不思議だ。
リビングに面した小部屋にも、荻号の作業スペースがある。
彼はそこで暖房もつけず薬草を調合して何やら怪しい薬を作ったり、ペットを飼って熱心に世話をしている。
そう! 荻号はペットを飼っている。
だからといって散歩をさせることもトリミングをすることも、ペットショップにフードを買いに行くこともないのだが、彼は毎日手をかけてよく観察し、何か変わったことがないかをこまめに確認しているようだ。
彼なりにかわいがっているつもりなのだろう。
とにかく、薬草栽培と同じくらい、ペットの世話にも時間をかけた。
逆に言うと、それ以外殆ど何もしなかった。
朱音は動物全般が好きなので犬や猫なら朱音も一緒に可愛がりたい、金魚や熱帯魚でも大丈夫だ、インコでもコミュニケーションはとれるし、爬虫類系も苦手だがまあいける。どんな名前をつけたのか、まだ名づけていないのなら一緒に考えてかわいい名前をつけよう。
そう思って、彼の自慢のペットを見せてもらった……そこまではよかった。
彼女は荻号のペットを見た途端に、ひどく落胆したものだ。
名前をつけようとしたことすら、無謀だったのかと気付く。何というか、小動物といえば小動物の分類になるのかもしれない。彼は今日も、彼のペットのハウスを……いや、シャーレを引っ張り出している。そう、彼が飼っているペットは、細菌だ。
いや、それはペットといわない事ぐらい、朱音にも分かっている。だが、ペットの定義が愛玩を目的として日常生活で飼育している動物、というものであるかぎり、それは家畜ではなくペットの定義にあてはまった。彼は飼っているだけだ。食べるでもなく、研究するでも殺すでもなく、飼っているだけ。
世にも珍しい菌なのかと訊いたこともあるが、どこにでもいる普通の菌、とのこと。
じゃ、どうして飼うのかと尋ねると、こいつらは成長が早いから、という。
すぐ育つし、小さすぎて見えないのにどこがかわいいのかと皮肉を込めて問い詰めると、別に愛玩用じゃないよと困惑したように微笑んだ。
いっそ、理由があったほうが有難かった。
今まで見つかった事のない細菌が見つかった、とか、この細菌のエキスが病気の特効薬なんだ、とか……そんな具合に。
彼が“細菌の神様”なら多少は納得しただろうが、そうでもないとなると、朱音からすればその趣味は、理解したくない部類に入る。
そこで朱音は、彼の全てを理解しようとしてはならないという結論にいたったわけだ。
この点を母親に言わせると、“どんな人とも、完璧には合わないわ。だから、合うなあと思う部分で付き合っていけばうまくいくの。いくら荻号さんが変だっていっても、全部が全部変、じゃないでしょ?”、だそうだ。
彼は変な部分で成り立っているような神なので、それもなかなか難しい。
しかも朱音が、好きだと思ってしまっているのでなおさらだ。
もう、どこが好きなのかもよくわからない。
細菌のシャーレを手に取る荻号の顔つきが、いつになく険しい。
真性粘菌という細菌らしいのだが、様子がおかしいのか。
たとえば全滅していたからといって、彼がペットの死を悼むとも思えない。
朱音もつられて、険しい顔をした。
「どうしましたか?」
どのみち理解できないけれども、そう思いながらも朱音は念のため、訊いてみることにした。
「いかん……」
「死んじゃったんですか?」
マジックペンで英語とも記号ともつかない文字の書かれたシャーレを机の上に六枚並べ、彼は腕組みをして眺めていた。
次に、手にしていたマジックペンを床にわざと落とした。
彼はまた拾い、落とした。何度も、繰り返す……拾い、落とす。
細菌の死が、荻号をパニックにさせているのだろうか。
あまりにもくだらない。それは、新たな玩具を手にした赤ん坊がその未熟な好奇心を満足させるために何度も同じ動作を繰り返す様子に似ていた。
荻号は狂ったのかもしれない。朱音の目にはそうとしか思えなかった。
「下がってろ」
気がつくと、荻号はまさに神速でシザーケースから相転星を取り出していた。
「や、やめてください! それ、家の中がぐちゃぐちゃになります。お願いですから外でやってください!」
朱音は相転星の威力を知っている。起動するだけで家じゅうの家具が吹き飛ぶ。
それを片付けるのは……朱音と荻号だ。
荻号はわかったよ、と舌打ちをつけて同意すると、裸足で庭に出ていった。
朱音は荻号が外に出た瞬間に、まるで彼を締め出したかったかのように雨戸まで締め切った。すぐに独特の波動というか振動が伝わってくる。
ドスン、と人か何かが墜落したような生々しい音がした。
「なにごとだ」
地響きがするので、ソファーでうたた寝をしていたアルシエルがとび起きてきた。
「荻号さん、どうしちゃったんでしょう。荻号さんのペットの細菌を見て、それからペンを落としたり拾ったり、様子がおかしいんです」
「細菌?」
アルシエルはあからさまに、当てが外れたという顔をする。
端正な顔だが、どこか困惑しているようにも見える。
それはそうだろうなと、朱音も思う。
だって、いくら居候といえど、精神を病んだ神に厄介になりたくない。疫病神だった場合にはなおさらだ。
「これです……真性粘菌っていって、荻号さんのペットなんです」
説明しながら、朱音は情けなくなった。
彼女は首をすくめた。
「なるほどな」
アルシエルはシャーレを遠ざけたり近づけたりして、荻号と同じ類の表情をした。
このヒトは、この細菌のシャーレの意味が分かっているのだろうか。
確信もないのに、朱音が感じたのは劣等感と疎外感だ。
苦笑されるものと思っていただけに、納得されると肩透かしをくらってしまう。
「どうしてなるほど、ですか?」
「汝にはまだ難しかろう」
アルシエルが理解の追いつかない朱音に向けた表情は、蔑みではなかった。
むしろ分からなくて当然だ、と優しく諭すような、悪意のあるものではなかった。
口をつぐんだ朱音を気の毒に思ったのか、アルシエルは噛みくだいて解説をはじめた。
「細菌はな、単純な法則にしたがって分裂してゆくものだ。したがって単純かつ、複雑なコロニーパターンをつくる。この細菌は全て種類こそ違うが、互いに情報を交換しあいながら増殖するものだろう。したがって、シャーレ上にフラクタル次元ができる。荻号はそのパターンを分析しているのだ。細菌が、荻号の予想したパターンを作ることができなかったとき……それが何を意味するかわかるか?」
質問されても、全くわからない。訊きたいのはこっちのほうだ。
「というか……フラクタル次元ってなんですか?」
まずはそのレベルだ。アルシエルは彼女に理解させることを、諦めはしなかった。
子供の理解を育む母親のようだ、と朱音は彼女の心遣いをありがたく感じた。
「そうだな……生物階の例を引っ張ってくるとすれば、樹木だ。あれは幹が一定の長さになったときに、決まった角度θで枝分かれする。至極単純な法則に支配されておる。だが、木が木の形をとることができなくなったら? 遺伝子に何も欠陥がなかった場合だ」
「環境が、変化した?」
アルシエルはよくできたじゃないか、といわんばかりに朱音の頭を撫でまわした。
言葉遣いが古典的で勇ましく聞こえるだけで、このヒトは基本的に面倒見がよいのだろうなと気付く。
まるきり子供としてあしらわれていることには、違いないのだが。
「そうだ。細菌はきわめて増殖がはやく、荻号はほぼリアルタイムに環境の変化を把握している。この六枚のシャーレは、どの物理学的法則が変化したかを示しているようだ。荻号はペンを落としていたのか?」
「そうです」
「重力か。三階における重力にまつわる法則が変化したというべきだな。荻号は詳細を調べている。すべて理にかなった行動だ」
賛辞を送る様子はないが、アルシエルは荻号を認めているようだった。
そして荻号もアルシエルに一目置いている。
実力も伯仲、互いに頭脳もさえて、 アルシエルは荻号の話についていける。
ひょっとして、似合いのふたりなんじゃないか?
うっかりすると朱音は負けを認めそうになる。
荻号はアルシエルを必要としているだろう、だが朱音は一度でも、荻号に必要とされただろうか?
……神と使徒は特別な相利共生の関係にあり、アルシエルと荻号はそんな関係を結べない。
朱音は4000年以上も年上の女に、少しだけ張り合っている自分を見つけた。
ともあれようやく荻号の行動に意味があったのだと分かって、彼が正気だったことに朱音が安堵したのは言うまでもない。
「しかしこれではまるで……」
アルシエルは順繰りにシャーレを掲げていたが、意味深げに最後のシャーレを取り、散らかった机の上に置いた。
「“カオス(クラスIII)”がない」
「あ、この3番目のシャーレ、アルシエルさんと荻号さんの腕にある模様と同じですよ」
朱音はやや興奮気味にアルシエルに報告した。
「カオスの淵(クラスIV)が揺らいでいる」
彼女はぶつぶつと呟いている。
独り言が得意なところと、周囲を置いてけぼりにする点では、アルシエルもどこか荻号と共通するものがあるのかもしれない。
アルシエルが腕にひっつけている模様と、真性粘菌がシャーレ上に描き出した模様……これらは何をどうすれば、一致するのだろう。
荻号は腕の模様と同じ模様を、シャーレ上に描いたのだろうか。
そうとしか思えないほど、二つは見事に一致していた。
そうなる確率って……計算できないが、「計算できない」が正しい答えだと朱音は思う。
ありえない。アルシエルは神妙な顔つきをして、付け加えた。
「自己組織化ができなくなるということだ」
それの何が悪いのか、朱音には分からなかった。
しかし彼女の腕にへばりつく黄金の模様が何かを暗示する暗号らしいという事だけは、アルシエルにわざわざ確認するまでもなかった。
「つまりどういう意味ですか?」
アルシエルは憔悴しきった、そんな顔をしていた。
年齢など感じたこともないのに、心なしかこのときの彼女は普段より老いてみえた。
「世界は、より単純になってゆく」
その手に相転星を携えて、荻号が庭から戻ってきた。
鄙びた三つのリングが、無造作に束ねられている。演算中枢の月と星は無残にもばらばらになり、荻号の手の上にただの金平糖のような格好で横たわっていた。
壊れていた。
荻号は壊したくて壊したのではなく、一つの事実として時空間操作系神具 相間転移星相装置が、その機能を失った。
無敵の神具の末期は実に、あっけないものだった。
荻号の命じたたった一つのコマンドも受け付けられなかった。
何故か。
相転星の原動力ともいえる物理法則が狂っていたからだ。
物理学は相対性に基づくが、前提から覆されてしまってはどうしようもない。
荻号はそれを見せ付けられた。この調子だと、Fullerene C60(フラーレン・カーボンシクスティ)も起動した瞬間に壊れる。
荻号は同じ過ちを繰り返さなかった。
神具ばかりではない。
人が、神が、そしてあらゆるものが生きていられるのも、今のうちだ――。
朱音を不安にさせないために彼が言葉を口に出す事を自重しても、現実は変わらない。
やがて全ての有形事象が、形を成さなくなってしまう。断じて絵空事ではない。
「これはもう、絶対不及者云々の話ではない。INVISIBLEは、創世者としての最低限の仕事を放棄したのだ」
アルシエルはゆっくりと、首を横に振りながら述べた。
荻号が開けたサッシから、冬の木枯らしが吹き込んでくる。
朱音が猛烈な悪寒を感じるのは、木枯らしのせいだけではない。
「奴《INVISIBLE》は……いかれてやがる」
荻号は短く言い切り、その瞳を死体のように閉ざした。
もうすぐだ。
荻号は世界の終わりの始まりというものを、ひしひしと感じていた。
何か手はないか、できる事はないのか。
ちょうどあの日も、こんな凍てつくような冬の朝だった。
1万年前、アルティメイト・オブ・ノーボディが荻号を凍結した日だ。
その頃の彼は命を脅かされる危機感に飢えていた。
不可能というものを知らなかったし、望めばそれほど努力を重ねずとも、無尽蔵に力が湧いてきた。
勝てないものがいるなど、想像したこともなかったし、一度も敗北を喫したことがなかった。ノーボディが残した言葉を、今更のように一語一語噛み締める。
《汝に真に勝るものは、あとにも先にも存在しない。わたくしが汝以上のものを、生み出すつもりがないからだ》
『そりゃ、どうも。おかげさまで糞みたいに退屈な日々だった』
当時、文字通り天賦の才を与えられた闇神に、挑むものはなかった。
平穏な時代に生まれつき、彼は真の実力を一度として発揮できぬまま、ノーボディに飼い殺しにされていた。
全てを悲観して、彼が自殺を試みたのは一度や二度ではない。
彼の力を必要とし、彼の助けを必要とする者たちのために、持てる力の全てを捧げたい。
――そんな願いは、叶えられることも無かった。
廃神のように荒んだ闇神を見かねて、アルティメイト・オブ・ノーボディは彼を未来に送ることを決め、彼を哀れんだ。
《わたくしは汝の願いを、ひとつの意味で叶えることになる。が、次に目覚めるとき、汝にできる事は何もないのかもしれん》
そう云った。
荻号は裏の裏までを考え、ありとあらゆる可能性を信じたかった。
アルティメイト・オブ・ノーボディの予言どおりに、一万年の時を越え、彼の無能を証明することになる。
何のために、ここに来たのか? 指をくわえて見ていることしかできないのか。
こう結論付けた。
「お手上げだ」