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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第14話 Spindle

 朝昼晩の三食とおやつ付き。


 棟永 雷鳥の心づくしの差し入れを受けながらも、織図の執務室の一角にあるコンピュータールームから一歩たりとも外に出てはいないファティナは、ディスプレイ画面と睨めっこを続けたため眼精疲労で乾ききった瞳に愛用の目薬を差す。

 殆ど瞬きもせず解析にいそしんでいたためか、瞼が目に張り付いて不快。アウトプットが仮想空間ではなく現実空間のディスプレイ上での解析は苦手だ。


 やはりダイヴした状態で解析ができるヘクス・カリキュレーションフィールドにデータを持ち帰りたいとは思えど、いつもは慎重に事を運ぶというのに肝心な時にヘマをしてしまっては悔しいし、今回ばかりは、データの紛失やコピーなど許されない。

 結局、データがデータであるだけに軽率な行動は慎むことにする。


 織図を見送ってからファティナ一柱で成果を上げたかというと、そうだといえる。

 ファティナは織図の帰りを待たずうっかりと、織図のいうところの“袋とじ”を切っていたのだ。織図に申し訳ないが一言言い訳を付け加えるとすれば、織図の帰りを待っている場合ではなかった。

 断片化されていたユージーンの記憶を最後のひとピースまで、彼女が想像していたよりずっと早く、順繰りに繋ぐ事ができた。


 だが、遂にたどり着いた最後のピースがファティナをひどく悩ませている。

 紅茶色のボブの頭を抱えたまま動けない。


 彼の最後の記憶は、広大無辺な墓地の中に佇む墓標に収められたユージーンのメモリを折るところで途切れていた。

 彼自身の手によって、彼の存在そのものを“無に”帰したのだ。

 創世者となるためには完全なる匿名性を得なければならない、よって“ユージーンという個神である”ことが許されなかったからだ。


 ユージーンは新たな創世者になろうと決意を決めていた。

 願いが叶ったのかどうかを確かめるすべはなく、以降の足跡は消えている。

 ともあれ彼は肉体を失い自己を棄てた、そこまでは記録にある。

 ユージーンがアルティメイト・オブ・ノーボディの力を受け継ぎ、しかし確固たる相違を認識しながら分岐し、創世者になれたのだとしたら……? 


 ユージーンはINVISIBLEの齎す三階の終末を回避すべく、自らが予測不能な変数となってINVISIBLE収束の必然性を狂わせようとしたに違いない。

 その手段は驚異的だが、それは他の誰でもではなく、彼にしかできなかった。

 第四の創世者というファクターを知らなかった神階は、この要素を全く想定していない。

 再計算やシミュレーションは不可能だ。

 彼からの連絡が途絶えた今となっては、彼がどう行動するのかも依然として不明だ。


  ユージーンはどこにいて、まさにINVISIBLEが収束しようとしているこの瞬間に、何をしている? 


 ファティナの悩みはそれだけに尽きなかった。

 織図がEVEの最果ての谷から拾ってきたデータの中から、身の毛もよだつほどおぞましいデータを発掘したのだ。

 それはアルティメイト・オブ・ノーボディの記憶のバックアップコピーだ。

 生物階と神階の守護者にして神々の父であり母である、名も姿もなきものと称される創世者にまつわるデータ。

 誰の目にも触れることの許されない禁断の記録であると知ってはいても、宝箱を紐解かないでいられるほどには理性的でも、老いさらばえてもいなかった。


 アルティメイト・オブ・ノーボディはEVEが創設された当初から、日記のように彼が体験した出来事の記録をつけていたようだ。

 それはノーボディの意識とは無関係にEVEの片隅に自動的に記録されるようで、自動筆記に似たプログラムだ。

 EVEの一部は彼の日記帳として機能していたのだろう。

 それが、ある日を境にぱったりと記録が止まっている。つい最近のことだ。

 アルティメイト・オブ・ノーボディはもういない。


  アルティメイト・オブ・ノーボディは誰に消されたのだろう?

 犯人は誰だ? その謎の解明は、何よりも優先されるべき問題だと、彼女はユージーンの記憶の復元を中断してデータを参照した。

 こちらは壊れていたユージーンの記憶とは違い、順番に並べさえすれば最後のページを見るのは容易かった。ノーボディの最後の日、何者かの来訪を受けていた。彼は来訪者に、こう呼びかけたと記録がある。


『随分と、変わり果てたものだ』


 一言だけだ。

 そこで記録は途切れ、ノーボディが次の言葉を投げかける事はなかった。

 この来訪者に、彼は消されてしまったようだ。

 アルティメイト・オブ・ノーボディの前に何がいて、随分と変わり果てていたのか。

 来訪者はINVISIBLEではないと、ファティナは確信している。

 INVISIBLEは意思なき創世者だ、変わり果てることはない。

 また、ブラインド・ウォッチメイカーはもともとこれといった姿を持たないと、アルティメイト・オブ・ノーボディの記憶の一部を覗いたファティナは知っていた。

 変わり果てていても、わざわざそう言及するのは妙だ。

 とすると、そこにいたのは ユージーンなのではないか、そんな直感がファティナの絶望を加速させる。

 彼が生みの親を、何がしかの目的のために破壊したのだとしたら?


 現実は時々刻々と変化している。

 持てる情報を更新し続けなければ、三階の存亡に関わる。

 一刻も早く知る必要がある、創世者となったユージーンが何をしようとしているのかを。

 そうでなければ神階は永遠に、彼の意に沿う行動をとることはない。

 また、彼がまだ三階の守護者でいてくれるのか、それを確かめるすべもない。

 三階の庇護者であったアルティメイト・オブ・ノーボディを、ユージーンが葬ったのだとしたら……もう、彼が何を目指しているのか、アルティメイト・オブ・ノーボディの何が間違っているのか、あるいはユージーンが間違ってるのか、想像もつかないのだ。

 やはり、頼みの綱はレイアだけだ。創世者と通じることのできる彼女だけは、ユージーンの声を聞くことができるのではないか。

 期待し、縋らざるを得ない。

 たった二歳半の少女神の双肩に、三階の命運が重くのしかかっている。


 創世者の声をきく巫女、か。まるで神がかりだな……。

 まったくもってこれは、非科学的だ。

 ファティナはそう思えど、正直、それ以外の手立ては見つかりそうにも無かった。



 十二柱の特務省 特務従事者と十二柱のアシスタントがナビゲートされた地点に到着すると、コンタクトの瞬間、彼らは綿密に重ねられてきたシミュレーション通りに彼女を包囲した。

 赤いコートを着た少女は、星くずにもたれかかるようにして眠っている。

 心なしか穏やかな表情と見受けられた。

 神々の接近にすらも気付かない様子だ。


 薄手のローブのような制服を纏ってはいるもののそれ以外は全くといって無防備な職員達は、素肌のままで真空に曝されている。

 だからこそ感じるのだ、氷点下の宇宙に在る彼女の周囲がほんのりと熱を持っているということ。

 これは決して彼女の纏うアトモスフィアの熱量ではない。

 彼女が身を寄せている星屑は、明らかに熱量を持っている。


 どんなぬくもりもすみやかに冷却されるこの環境下にあって、周囲に熱を放散させるだけのポテンシャルを生み出すこの塊は、この世のものではないだろう。

 INVISIBLEが防寒のために、彼女に与えたのだろうか。

 彼らは薄気味悪そうに彼女を遠目に見ていた。


 12時方向に配備した指揮官も僅かな違和感を訝って、GOサインを出さない。

 彼がカウントを取って右手を振り上げたなら、それが術式展開の合図だ。

 彼はINVISIBLEがレイアを起こさないことを、不審に思ったかしれない。

 INVISIBLEは神々の接近を知りながら、彼女を逃がそうともしないのだろうか、と。

 罠、なのか? 指揮官はその可能性を疑っているのだろうと、織図は推察した。


『眠っているな』


 指揮官は解離性意思伝播法でつぶやく。

 乖離され放散された彼の意志はその場の23名の特務従事者に聞こえている。

 無論、意識があるというのなら彼女にもだ。

 解離性意思伝播法は伝播させる相手を選べない。しかし……彼女は目覚めない。

 死んでいるのではなくて。

 論拠は彼女のアトモスフィアが健在だということだ。


『いかがします?』


 支柱となる神々もこの状況に困惑気味だ。こうやって時間を無駄にしているのは惜しい、だが一度展開してしまえば80日間もやめられないとなると、いくらかは事を慎重に運ぶ必要がある。指揮官が迷っているのなら、尚更だ。


『実行せんわけにもいかんだろう。だがどうも、引っかかる』


 指揮官の躊躇をチャンスと見た織図がある提案をした。


『このまま神階につれて帰って、仕切りなおしてはどうです? ここはINVISIBLEの胎だ。術が成立した瞬間に一網打尽にされるかもしれません。普通に考えれば、これは罠です』


 彼の指摘は的を射ていた。


『確かに神階の方が我々に地の利がある』


 織図の提案に同意する声も多かった。ここは敵地だ。80日間を耐えうるかと言われれば、不安要素は一つでも排除したい。


『……』


 指揮官は織図の意見にある部分では同意をしているようだが、まだ判断を迷っている。織図は決定的かつ合理的な理由を添えてダメ押しをした。


『無重力下での久遠柩は出力が落ちますぜ。シミュレーション不十分でしょう』

『それもそうだ……。副大臣に伝達しろ』


 指揮官が指先で指示すると、彼の背後に控えていた指揮官のアシスタントが瞬間移動で副大臣に伺いをたてに行った。

 ここから先の判断は、誰に委ねるにも心もとない。

 だからこそ、彼は確かな人物の指示を仰ぎたいと考えたのだろう。

 INVISIBLEの手に落ちたレイア=メーテールを前に極度の緊張が続く中、ほどなく、彼は戻ってきた。


『副大臣からのご許可を賜りました』

『して……誰が彼女を運ぶのか』

『では、僭越ながら俺が』


 幸か不幸か、誰もその役回りを引き受けたがる者はなく、織図はしぶしぶといった風を装いつつ手をあげた。

 彼は躊躇なく暗闇に漂流するレイアに手を伸ばし彼女に触れ、星くずから引き剥がしそのまま優しく抱き寄せる。

 少女神の神体は小さく華奢で、柔らかい。

 迷子の娘を見つけた親の気分ってのは、こんなものかなと織図は思う。

 凍えてはいない様子で、頬は薔薇色に染まっている。

 不死身の体と知っていても、丁寧に扱わなければ壊れてしまいそうだと思った。

 彼女に触れても、懸念されていたINVISIBLEの干渉は入らないようだ。


 こんな世界の果てのような場所まで逃げて……さぞ心細かっただろうに。

 織図はたまらなくなって彼女にそう呼びかけたが、返事はない。

 接触しても彼女はまだ目覚めない。

 織図は至近距離から手早く彼女の足首に、直径1μmの双繋糸を巻きつけた。

 幸いにして彼女はまだ意識を取り戻さない。


『帰投するぞ』


 指揮官からの号令が飛んだ。

 織図は腕時計に目を落とす。

 織図が彼女と話すことができる時間は、それほど長くはない。

 Hi-NET(超広域転移網)の最寄りの転移中継地ステーションから、14回の転移で神階に戻れてしまうからだ。


 というのは、副大臣をはじめ数名の特務省職員は超空間転移術を使えるが、三階の外部領域でかなりの距離があるこの場所からでは、あまりにも遠すぎて直接神階には戻れない。

 転移術が失敗すれば基空間との狭間で迷子になってしまうだけだ。

 距離が遠ければ遠いほど、その危険性も増す。

 そこで、安全に神階と各中継地を結べるように、Hi-NETは網羅的に構築されている。


 Hi-NETのステーションにはフロンティア・ナビゲータと呼ばれる転移術に特化した特務省職員が配備されている。

 宇宙空間では地形を覚えることができないので、ステーションの周囲の星位を完璧に覚えて通常の瞬間移動を可能とするフロンティア・ナビゲーターがまず各々の担当のステーションの配置につき、Hi-NETを移動する際は彼らのアトモスフィアを辿って追跡転移を行うという方法を採る。


 そして他の特務省内の任務を兼任するナビゲーターが召集され、全てのステーションに配備されるまで、急いでも30分は要するのだ。

 織図は他の職員らとともに、最前線のステーションに最初の転移をかけてフロンティア・ナビゲーターのスタンバイを待つことになった。

 織図以外の職員は別室で待機し、転移中継基地の一室にレイアをかかえた織図と副大臣が差し向かいで座っている。

 彼女には当然のように、副大臣からの容赦なく厳しい視線が注がれることとなった。


 副大臣バンダル=ワラカ=ガリーブ(Bandar Waraqah Ghalib)は彫の深いアラブ系の顔立ちをした大柄な男神で、1340歳の大先輩だ。

 口数も少なく無愛想な男だが、その実直な性格と他の追随を許さない圧倒的な実力ゆえか、人望は厚い。

 もし織図がマッチメイカーだったとしたら、このバンダルと荻号 正鵠あるいはアルシエル=ジャンセンとのドリームマッチを組みたいと思うほどに、彼の力は傑出している。

 バンダルのマインドギャップが特務大臣に勝ってさえいれば、とっくに大臣の椅子に座っていたであろうとされる器量だ。


 織図はレイアを抱き上げるときに意図的に、彼女の顔が織図の側を向いてバンダルに見えないような体勢を取らせた。

 織図はそっと彼女を揺さぶり起こす。彼女が目を開ける様子は、どの角度からもバンダルの目に触れてはいないが、双繋糸を通して彼女に語りかける言葉は彼女の脳髄に優先的に響いている。

 糸電話のように彼女の精神にのみ伝達されてゆくはずだ。


 バンダルのマインドギャップは金鋸で肉を削ぎ落とすように鈍い切り口で対象のマインドギャップをこじ開け侵入してくる。

 たった今もそうだ。

 レイアを看破すると同時に、織図も彼から看破されマインドギャップが赤裸にされているのを感じていた。

 マインドギャップを破られていても、まだバンダルが織図の小細工に気付いている様子はない。


『レイア=メーテール。おい起きろ。そのままで聞いていてくれ』


 レイアは意識の侵入に驚き、ぼんやりと目を開いた。

 彼女からすれば、睡眠を妨げられたように感じるだろう。

 断じて心地よい感覚ではない。

 織図は彼女の頭を腕で固定して動かさないようにする。

 レイアはすぐに先ほどとは違う状態、それも誰かに抱かれているのだと気付く。

 緊張したのか、織図の制服をぎゅっと握り締めた。

 彼女がこう尋ねるのはもっともだ。


“誰ですか? ここはどこ?”

『死神の織図 継嗣だ』


 困惑したように沈黙したかと思えば。


“……あなたのお名前、聞いたことがあります”


 織図はレイアと一度も面識がないのだが、彼女は確かにそう言うのだ。


『なるほど、恒から聞いたか。ここは特務省管区の基地だ』


 好都合だった。彼女が相手を信用できる、できないの基準はそのまま恒の価値観に基づいている。彼女は恒の意見に忠実だ。

 しかしそうであればこそ、織図は疑問に思う。

 そんな彼女が何故恒を裏切らねばならなかったのかと。


“はい、恒さんが”


 従順にそう答える彼女は夢うつつだ。

 のぼせたように上気した顔を見て、彼女はまだ、正気なのだろうかと一抹の不安が過ぎる。双繋糸から感じる精神的な手ごたえは正常だ。

 正気でいてくれればよいが、それを確かめるすべは残念ながら存在しない。


『お利口さんだ。あまり時間もないもんで単刀直入に訊くが、何でこんな遠くまで逃げたんだ』

“……”


 彼女の沈黙は、織図の焦燥を掻き立てた。


『だよなぁ、話せねーよなぁ。INVISIBLEに何か云われたんだろ? 例えば脅迫まがいの事をだ』

“いいえ”


 彼女は少し身を乗り出すようにして、間髪いれず否定した。

 その反応が反射的であればあるほど、織図は疑いを持つ。


『ああ、分ってるよ。恒を裏切ってまで逃げたんだ。言える訳ねーよな。答えたくない事は答えなくていい。お前からみて、INVISIBLEは敵じゃないのか?』

“……違うと思います”


 洗脳か。

 織図はバンダルに気取られぬよう軽く口の裏をかみ締めた。

 手遅れだったのかもしれない。しかし次にレイアが紡いだのは、にわかには信じがたい言葉だった。


“いいえ。もう、彼はいません”

『!? どういうことだ』


 彼女は呻くように、あるいは魘されるように織図に伝えた。


“INVISIBLEとは、本当はどこにもいなかったのです”

『お前……なんつった。じゃ、お前は誰の声を聞いたんだ!』


 もしバンダルからの監視の目がなければ織図は瞳を見開き、呆然として首をふっただろう。

 織図は動揺を押し隠すのに苦心した。

 興奮のあまり昂ぶった頭を押さえつけ、彼女の言葉をもう一度反芻する。

 INVISIBLEが、もともと存在しなかったと。

 では、ユージーンとレイアにスティグマの呪縛を刻んだのは、有史以来二度も神階を滅ぼしかけたのは。

 彼女を攫ったのは……誰だ。レイアの言葉はまだ続いていた。


“……でも、誰かがINVISIBLEにならなくては”

 

 もはや、彼女の話は織図の理解を超えている。

 このままバンダルの目を盗んで会話を続けることは無理だ。

 精神的動揺はバンダルからのマインドブレイクを無効化しているといっても隠し通せるものではない。

 呼吸、体温、血色など、それらの微妙な変化でバンダルは織図の動揺を覚るだろう。

 心なしか、制服のフードを直すバンダルの眼光が鋭くなったようにも思う。

 それが根拠のないもので、思いすごしであってくれればありがたい。


“だから……はじまりは、たったひとりです”


 織図は息を止め、導かれるように尋ねた。


『お前、ユージーン=マズローに会ったのか?』


 あと1秒もすれば彼に届いていたであろう彼女からの返事は、彼が最も警戒していた目の前の人物によって無情にも遮られた。


「織図!」


 バンダルは厳しく織図の名を呼ぶ。

 織図は一呼吸おいて、精一杯の平静を装ってから応える。

 水面下での遣り取りが、バンダルに全て筒抜けではなかったということを祈るだけだ。


「はい」

「何を腑抜けておるか! 気が抜けておる」


 最悪の事態は免れたものの、迂闊だった、と織図は固唾を呑む。

 バンダルのマインドギャップは26層。対して織図のマインドギャップは8層。

 双繋糸でレイアと通じている間は、織図とレイアの精神系は双繋糸の効力によって外部には見えないため、バンダルから見ると織図は何も考えていないように見える。

 織図はもともと雑念の多い神だと、バンダルから認識されている。

 5分以上も無我の境地にいるという状況は普段の彼からすれば起こりえない。

 その点を鋭く指摘された。

 部下と何度も顔を合わせている彼ならば、各職員の平常の状態というものをよく知っている。


「は、無心の境地で臨んでおりました」


 苦し紛れの言い訳は、ばっさりと切って捨てられる。


「緊張感を持て。INVISIBLEに干渉されておるのではと疑ったぞ」


 疑いを晴らすというならば、織図はただちにレイアと織図自身から双繋糸を手放し、バンダルのマインドブレイクの前に晒されねばならなかった。

 だが、ダメだ。

 その内容をバンダルに看破されてはならない……! 


「代われ。それとも続けるか?」

「申し訳ございません、代わっていただけますか」

「たるんでおる」


 窮した織図はレイアを敢えてバンダルに引き渡すことに決めた。

 とにかくこの場から、離れなくては!


 彼女をバンダルに引き渡すその瞬間に、織図は双繋糸を切り、一本は彼女の足首にきつく結わえつけた。

 これで、双繋糸から外部に繋がることのないレイアの思考回路は彼女の頭の中に閉じ込められ、誰からも看破されずに済む。

 バンダルは双繋糸の存在を知らないので、レイアがまだ目覚めていないと考えるだけだ。

 そして、残りの双繋糸を織図の手にしっかりと握っている限り、バンダルは織図を看破できない。

 織図は危ういところで絶体絶命の窮地を切り抜けた。

 そして糸を切る直前、織図はレイアにこう言い残すことを忘れなかった。


『俺が次に合図をしたら、共存在で逃げろ。その為の隙は必ず作ってやる』



「どこで発動されたか、知りたくはないの?」


 遼生はにこりと、屈託の無い得意げな笑顔を向けている。

 その情報が恒の足を止めるだけの価値を持つと分かっているからだ。

 不遇を絵に描いたような身の上でありながら、何故彼はこうも純粋に笑えるものかな、と恒は思う。

 知りたくないと答えると恒はまた嘘をつくことになる。


 遼生の生命を無駄にしないために、遼生と関わりを持ってはならない。

 嘘をつくことにはもう慣れた、それで彼を傷つけたとは思わない。

 真実を貫き通して彼が傷つくというなら、恒は何度でも彼を騙す。

 巻き添えにしたくない、自分だけでいい、そんな思いは彼にとって迷惑なのだろう。


「気になりますが、知ったところでレイアの拘束は神階の決定です。俺の一存でどうにかなる問題ではありません」


 釣られてしまいたい気持ちはやまやまだが、こんな餌に釣られてはならない。

 恒が後ろ髪を引かれる思いを押し殺して遼生の前を通り過ぎようとしたとき、視界の端に褐色のきらめきが見えた。

 恒は弾かれたように振り返り、それが遼生の手の中に納まっていることに驚く。

 そう、彼が所在なさげに持っていたものは、恒が欲していながら、決して手に入れることができなかった代物だった。


「それは!?」

「ああ、これ? 比企さまが大切そうに持っていらしたから失敬したけれどこれ、何だろうね」


 遼生は手ごたえあったなといわんばかりの表情で微笑みながら、恒に一本のアンプル瓶をかざして見せた。


 恒は目を見張った、わざわざ手にとって確認しなくとも知っている。

 比企が隠していたABNTの体液のアンプルだ。

 何だろうね、と遼生は白々しいが、彼はその内容を比企のマインドギャップを看破し把握したうえで掠めたのだ。

 あの比企の虚をついてごく短時間に泥棒のような真似ができるのだから、彼を侮ってはならない事を痛切に感じる。

 恒が感じるこの感覚は何だろう、焦燥感と……そう、危機感だ。


 全く体を動かすことすらも許されなかった7年間のブランクをものともしない、八雲 遼生の機転と適応力。

 とても同年代の神とは思えない。

 彼は出来すぎている。

 高をくくっていた相手に鼻をあかされた気分だ。

 そして、驚愕はある疑問へと収斂されてゆく。彼が持つそのアンプルを当初の予定通りに恒に打っていたら、どうなったものか。

 7年の植物状態へと暗転した彼と全く同じ状態になってしまったのではないか、と。


 それは恐怖だった。

 恒のAnti ABNT Antibodyを絶対だと、恒は信じてはいなかった、だが、レイア=メーテールに接し続けることをやめなかった、目の前の敵に立ち向かい続けた日々は無駄ではないと心の片隅で信じていたかった。

 遼生に負けるはずはないとだけは思っていたのかもしれない。

 それは驕慢、だったというのだろうか。

 忘れてはいけない。ヴィブレ=スミスをしてABNT抗原の投与に耐えうると判断された優秀な検体なのだ、遼生は。

 その彼を以ってしても不可能だったこと、彼をどうして、侮ってよかっただろうか。


「それを、どうするつもりですか」


 恒が喉から手がでるほどに、欲しがっているものだと遼生は知っている。

 茶色のアンプルはじらすように、恒の目の前を悠々と横切っていった。

 アンプルの動きを、自然と恒の目は追っている。


「余程思いつめているんだね。これを直接打とうとしたんだろ?」

「……」

「これにすがっていては駄目だ。これを僕に打ったのは父の愚だ。同じ過ちを繰り返してはならない」

「そうですね、諦めます」


 恒はもっともらしい顔をしているが、それはから返事だと遼生は見破っていた。

 遼生はマインドブレイク(心層看破法)を用いない代わりに、マインドレスポンス・イメージング(心層応答結像法)という方法で相手の精神系を看破する。

 マインドブレイクからの防御法として一般的に神々が心得ているマインドギャップを透視しない、特殊な方法だ。


 常神には習得不可能な看破法であり、ヴィブレ=スミスによって開発され彼に付与された。

 特殊な単一波長パルス波のアトモスフィアを相手に浴びせたとき、活動電位が起こっている部位とそうでない神経回路では振動の速度が異なっている。

 その応答の差分をイメージングし、精神系の活動領域を特定するというものだ。


 また、このパルス波はごく微弱でも充分に、マインドギャップを貫通する。

 遼生の本来のアトモスフィアと区別がつかず、相手は看破されているという自覚がない。

 どれだけマインドギャップで脳を固めていようと遼生の看破法の前には何も意味をなさない、という事にすら気づかない。

 彼だけが持つこの特殊な能力は、恒には授けられなかった。

 来るべき時までの時間を生物階で過ごす予定だった恒には、高度な看破能力を授ける必要がなかったからだ。


「いや、君はまだ諦めてないな」

「何故、そう思うのですか?」 


 恒は嫌な予感がした。遼生は看破をかけてこないが、確実に感じる。

 彼は恒をどんな方法を以ってか、看破していると。

 10層という極位クラスのマインドギャップを備えたがために、久しく看破されるという感覚を味わう事のなかった恒にとって、ごく至近距離からの看破に、身の危険をすら感じている。

 この緊迫感……たまらない。

 遼生の物腰は威圧感を全く感じさせないのに、空気や水のように浸透しながら、いつの間にか恒の精神系へと確実に浸入している。


「見えるからだよ」


 余裕綽々で、爽やかな笑顔も忘れずにそうのたまう義兄が憎たらしい。

 彼のペースに持っていかれている、恒は重々承知していた。

 だが、問いたださずにはいられなかった。


「どうやって!」

「そも、君はマインドギャップに頼りすぎだ」


 遼生は恒に憐れむような視線を向けると、彼の7層のマインドギャップを解放した。

 恒は不審に思いつつも、反射的に看破を試みる。

 その直後、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

 ……マインドギャップがないのに、遼生の心が読めない。

 そう、そこには何もなかった。

 彼はマインドギャップとは異なる方法で彼の脳と思考回路を保護している。

 そんな情報、彼が寝ていた時には読み取れなかったのに。


「読めませんね……でしたら何故、マインドギャップを形成するんです」

「僕のマインドギャップはフェイクさ。なんていうかな、別になくてもいいけど、あった方が安心するだろ? 特に君のように……マインドギャップが万能だと信じているような相手には、ね?」


 恒はぞくぞくと、彼に対する混濁した気持ちが湧き起こってくるのを感じた。

 これは何というのだろう、彼に対する強いライバル意識というものなのだろうか。

 彼のトリックスターのような振る舞いに、恒は翻弄されている。

 恒とは全く違うタイプのAnti ABNT Antibodyの個体。

 彼の存在意義を、思い知らされている。


「それで……このアンプルに固執するところをみると、君はAnti ABNT Antibodyがどうやって成熟するかを知らないようだね」

「成熟?」


 恒は遼生の言葉を、反芻するしかできないでいる。


「やっぱり知らないか。抗体は体内にある時は不活性化されているんだ、アトモスフィアになって外に出なければ機能しないんだよ」

「え?」

「まさか知らなかったの?」


 誰も教えてはくれなかったし、調べようもなかった。

 Anti ABNT Antibodyが成熟したものであるかそうでないかは、遺伝情報だけではわからない。とすると、八雲 青華すらも知りえない情報だったのかもしれない。

 青華は、抗体を鍛えろとしか言わなかった。ヴィブレ=スミスのみが知りえた情報だとしたら……彼が恒に真実を教えなかった理由は容易に推測できる。


「父は俺を殺そうとしていたから……。教える必要もなかったんでしょう」

「殺すことによって、抗体を身体の“外に”出して活性化させるためだろうね」


 遼生は考察を述べつつ、ふっとアンプルを空中に放り、両手の間に浮かせてかざした。

 彼の両手の間には見えない線が張られているかのように、ゆっくりと回転しながらアンプルは宙に浮いている。

 その機巧は恒には分からない。

 少なくとも恒は、神具FC2-メタフィジカルキューブ以外の物質を手に触れていない状態で浮かせるのは困難だ。


 彼は檻の中の救世主となるために、ヴィブレ=スミスからどれほどの贈り物を授けられたのだろう? 

 創造者からうち棄てられ、見捨てられた実験体は、まだ挫かれてはいない。

 恒がつい数日前にベッドの上から哀れみを込めて見下ろした、光を映さず濁っていたその瞳は、今はきらきらと透き通っている。


「いくら体内の抗体を鍛えても、発現させる術を知らなければそれは無駄にすぎない。どれだけ強い電流を流しても、その通り道を絶縁体で遮っているようにね」


 恒はざわざわと鳥肌が立つのを感じていた。恒の抗体はまだ、その持てる力を発揮できていない。

 遼生に指摘されなければ、全く意味を為さない結果を齎す、捨て身の行動に出ていた。


「活性強化されている君の抗体を全てアトモスフィアとして放散できれば、それはこのアンプルを打つことに匹敵するだろうよ。そして君と血液を交換した僕は君の抗体の活性を継承しながら、それを最大限放散するすべを知っている。僕たちが互いの特性を生かしあえば、君ひとりが尊い命を投げ出すよりよほど強い活性を発揮する、ここまでは僕の意見と今後の見通しだが」


 そのときの遼生は、恒を逃さず真正面から見つめていた。


「それで、君はどう思う?」


 すがすがしいほどに完敗だった。

 遼生の提案は、恒に一切の反駁の余地を与えなかったからだ。


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