第2節 第13話 Transgenic
特務省管下のハイネット中継基地の最前線では、久遠柩の支柱となる特務従事者の神々にブリーフィングが行われていた。
「レイア=メーテールはGM14エリアに在り、コンタクトと共に封術を展開する。術式は久遠柩、反時計周りに術径250で各時方向に配置。カウントは80days。各自アシスタントとよく打ち合わせをしておくように」
ブリーフィングモニターに表示された術式図を入念に確認する神々に混じって、召集を受けた織図 継嗣もその一団にいる。
「俺は8時か」
久遠柩の発動自体が初めてのことなので、術が成立するのかどうか、誰にも想像がつかない。
なんなら成立しない方がよいと願うのは私的な感情であって、特務従事者としての立場からいえば失敗などそもそもあってはならなかった。
久遠柩成立のチャンスはたった一度きり、レイアとのコンタクトの瞬間だけだ。
織図の持ち場は8時方向のようだ。
久遠柩のベースラインはレイア=メーテールの頭部方向を12時と定めるので、レイアから見て右斜め下というポジションになる。
が、表向きは特務省の方針に従うそぶりを見せながら、彼は密やかな叛逆を企てていた。
織図はポケットの中に、双繋糸という直径1μmの準神具を用意している。
双繋糸は荻号 要の開発した準神具で、その知名度は皆無。
双繋糸には二者間を細い糸で結んだ状態で解離性意思伝播法を行うと、糸で繋がれた者のみが通じ合う事ができ、外部からの傍聴がかなわないという便利な特性がある。
レイアの神体のどこかに双繋糸を引っ掛けるだけで、その糸の端を持つ彼は独占的に意思疎通を図ることができた。
逆にレイアに干渉しているINVISIBLEからの精神的攻撃を受ける可能性も危ぶまれるが、対策は一つだけ講じている。
ジャックポットから精神隔壁用プログラムをインストールしたのだ。それもどこまで信頼できるか分からないが、急場のファイアーウォールぐらいにはなるだろう。
そもそもINVISIBLEがその気にさえなれば、久遠柩など成立しえない術ではあった。
怖気づいていても無駄だ、なら思い切った方がいい。
久遠柩の術形は72本のラインによって12柱の術者とレイアの間を結ばれ、レイアはその中央に蜘蛛の巣のようにトラップされる。
つまり織図がレイアと結ぶラインの下に双繋糸を潜り込ませれば、ラインが目くらましとなって、そうそう見破られる事はない。
織図は彼女に訊ねたい。
INVISIBLEはレイアに何を伝えたのか。
そしてレイアは何故、INVISIBLEに与したのか。
さらに、 INVISIBLEと通じた彼女ならばユージーンがINVISIBLEに何をしたのか、それすらも知っているような気がした。
80日間という長い時間の間に彼女を説き伏せ、真相を探りだせるという自信はある。
ただし、その間に一度も邪魔が入らなければ、の話だ。
最前線の中継地には副大臣が待機するのだという。
術を邪魔する者が現れようものならただちに、そして秘密裏に抹殺されるだろう。
副大臣に匹敵する神といえば神階にはまず存在しない。
荻号 正鵠をぶつけてようやくか、そのレベルだ。
その意味では頼もしい守りだ。
が、何事にも万全というものはない。
「織図様、準備はよろしうございますか」
ところで久遠柩の支柱となる神々には、一柱ずつ特務省職員のアシスタントが宛がわれる。
織図の担当のアシスタントの若い女神が、何か必要なものはないかと尋ねてきた。
何しろ以後80日間、織図は不眠不休で支柱となって久遠柩を維持しなければならないのだ。
織図は彼のアシスタントに、まだ経験の浅く若い新米女神を指名した。
双繋糸を久遠柩の下に潜り込ませるという細工を見破られるとすれば、織図を背後から監視し続ける彼女からだ。
彼女は特務省内では中堅の織図から指名を受けて、舞い上がっているようだった。油断をしてくれればいい、それは有難いことだ。
「ご指名をいただきまして恐縮でございます。至らないかとは存じますが、精一杯つとめさせていただきます。何か事前に用意すべきものがありますか?」
「いや、何もいらんよ。80日の断食は腹減るだろうな」
織図はそんな冗談でお茶を濁して彼女の緊張をときほぐしつつ、彼女には何一つ怪しいそぶりを見せなかった。マインドギャップが5層の彼女を選んだのも織図の計算だ。彼女は初々しい笑顔で爽やかに微笑むと、織図に深々とお辞儀をした。
「1030を以って決行とのことです。それでは、お気をつけて」
「ああ、まあ、ちゃちゃっと片付けてやんよ。サポートたのむわ」
織図は最大の被害者、レイア=メーテールに多分に同情を寄せつつ、腰をあげ他の特務従事者と共にハッチの開いた中継基地を後にした。
レイアへの同情心をアシスタントの女神に知られる事は危険だった。
織図はあくまでも上層部の決定に従う、しがない職員としての立場に基づいた振る舞いを貫徹した。
それが吉と出るか凶と出るかはまだ、わからない。
*
レイア=メーテール発見の一報が神階上層部に伝えられた頃、生物階はアメリカ合衆国、ニューヨーク・マンハッタンの国際連合本部ビルでは、国連総会が開催されていた。
各国有識者と要人は国連本部に張り付きっぱなしのマスコミをシャットアウトし、厳戒態勢のなか連日連夜の対策会議に明け暮れている。
生物階における最高意思決定機関である国連安全保障理事会の形骸化により、その意思決定権を事実上放棄し国連総会が緊急特別会期という区分で開かれたのは既に28回を数え、今年に入っては実に12回にのぼる。
国際社会で強引なまでにリーダーシップを発揮してきた合衆国も、神階の存在が明らかとなったその日から完全に萎縮し、沈黙していた。
交渉の為の言語を奪われた合衆国は、小さくなって怯える鼠と何ら変わらない。
この席には神階の代表として、一柱の女神が招かれていた。陽階神第二位 智神 リジー=ノーチェス(彌月 天鴎)である。
彼女はもう8時間もの間、加盟各国代表者や有識者達に質問攻めにされていた。
悲観的な空気の総会場の中でウエディングドレスのようなドレスを纏って、彼女のドレスアップされた華やかな姿はある意味で場違いだ。
リジー=ノーチェスは当座の生物階への広報役であり、比企に任じられた。
比企が生物階にかまけていては、神階全体の統率が取れなくなるからだ。
生物階への説明も怠ってはならないが、何よりも適材を適所に配置するべきだ。
比企の頼みとあらば誠心誠意対応したいところだが、数百名を相手に打ち切られることもなく続くこの一方的な質問に多少辟易してはいる。
そんな彼女の心境をよそに、質疑と応答はエンドレスで続いていた。
『各国の大天文台からの問い合わせに、どう答えればよいでしょうか。それ以前に神階とはどこにあるのでしょう。彼らは巨大宇宙ステーションなどかげかたちも観測できないと主張しています。太陽系にもどこにも、見当たらないと。あると言い張るなら場所を示せと言っています』
こう切り出したのはロシアの代表で、その指摘はもっともだった。
独裁国家内部でのことか、科学技術を国家が独占していた時代ならいざ知らず、今や大学レベルで高度な天体観測が可能だ。
地球の総人口を収容可能なほど巨大宇宙ステーションが地球の周囲を周回しているというだけでも無理な話だった。各方面から合理的かつ理性的な反論が起こってくる。
『こちらもです。NASAに問い合わせが殺到しています、一部では暴動も……。しかしNASAは宇宙ステーションを造った覚えなどないですし、NASAのマイクロ波観測衛星WMAPを用いてもそのようなものは観測できません。たった数名が月に行くのでさえ難しいのです、現代の科学力では……そのようなものは、絵に描いた餅です』
続いたのは合衆国の有識者だ。
『つつみ隠さず説明をすべきなのではないでしょうか?』
畳み掛けられた質問に答えるべく、リジーは長いドレスの裾をつまみながら壇上に進み出た。ミルクティー色の長く艶やかな髪の毛のひと束が、はらりと演台に落ちる。
彼女の白い肩のなだらかな曲線と、恥らうこともなく見せ付けられる豊かなバストの谷間は、それと意識せずとも多くの男性の目をひいた。
彼女の左肩に緻密に掘り込まれた金色の刺青が、全体的に醸し出す甘い印象を打ち消していた。
壇上に上がる彼女が二十歳そこらにしか見えない。
彼女は好奇の目に晒されながらも、流麗なブリティッシュ英語でマイクを通しいっそう淡々と応答する。
『神階は地球とは約15800 Mpc離れた距離に存在するのだ。場所を示せと言われても困難だな』
しんと、場内は静まり返った。
リジーは親切にも生物階の距離に換算してそう述べたのだが、その単位が示す実際の距離を理解した者はそれほど多くはなかった。
ちなみに、1Mpcは326万光年なのだが、各国の代表者たちは具体的な数字にも困惑して顔を見合わせるばかりだ。
いや、メガパーセクは分かるにしても、15800というと何と比較すればいいのか。途方もない距離の隔たりがあるということだけは、その場にいた誰もが理解していた。
『少しお待ち下さい。それではどのようにして、あなたはそこからやって来られたのですか?』
『そうか。まず、座標の転移という概念と技術を説明せねばならんか』
彼女はひとつひとつに適当な理由をつけて誤魔化すのも段々と億劫になって、根本的な原理から説明をはじめた。ここを理解できていないから、無意味な質問が延々とループしている。
『転移?』
もともとざわついていた場内はさらにざわめいた。そんな彼らに片手を軽く挙げて注意をむけさせると、女神は壇上から忽然と消え、次の瞬間には10mほど離れた下の通路にいた。
神出鬼没を自在とする彼女は亡霊さながらだ。
『え……?』
『なんだ……これは』
『見えていたか? 先に言っておくが、私は高速で移動したわけではない」
彼女は最前列の席の面々に説明した。
『ではどうやって!』
リジーはホワイトボードマーカーを取り、傍らに用意されたホワイトボード上に簡潔な数式をしたためはじめた。
『物体がある一定以上の特殊なエネルギーを有しているとき、時間とエネルギー間の不確定性原理に基づいて通り抜ける事ができないものの向こう側へ超えることができる、トンネル効果という概念は既にあるだろう。たとえばこれもそう』
リジーは真正面に座っていた老研究者の胸ポケットにあったフラッシュメモリに手を伸ばすと拝借し、細く白い指先で摘み上げて掲げた。
彼は緊張のあまり顔を真っ赤にして汗をかき、ハンカチを取り出してしきりに汗をぬぐいながら返答した。
『ええ、トンネル効果理論は工業や医学など、地球上でも様々な技術分野に応用されています』
『我々の用いる転移術はトンネル効果の究極の応用だ。今の瞬間も我々の周囲にある基空間、高次元的空間はあらゆる場所と隣接している。したがって、トンネル効果を用いて基空間に脱出し、転移先の座標さえはっきりと記憶していれば既知の場所に通じることができる。奇術でもいかさまでも何でもない。単純なスキルだよ。原理をよく理解し装置を作り出せばどんな場所にでも一瞬のうちに行けるようにもなるだろう。神階と地球の間には15800Mpcの距離があるが、私は転送装置を介して次の瞬間には神階に戻る事ができる。転移術はあまり得意ではないが、短距離ならば私自身のエネルギーで転移可能だ』
文型神のリジーでも、短距離での転移は易々とできる。
が、空間を歪める程のエネルギーを、生体が所持できるものなのか。
その荒唐無稽ともとれるデタラメなポテンシャルを前に、各国首脳、専門家らは押し黙った。
彼らはまだ、手の内をあかしていない。
『人間にも応用できる技術、ということですか?』
『そう。内部に一定量のポテンシャルエネルギーを発生する密閉型の装置と、転移先の座標を結ぶ機器が必要となるだろうがな。神階が天体望遠鏡では決して観測できないという説明にはなったか?』
今はテクノロジー云々を論じている時間はない。
一刻も早く生物階住民に避難を促さなければ。
ようやく、彼らは彼女に地球上の常識で質問を重ねることを無意味と心得た。従うしかないのだ、神階の決定と彼らが与える未来へのシナリオに。
異論を唱えるものは、自滅するだけだ。
『さて、諸君にはこう説明するが、一般の人々への説明としては適当ではない。神階の存在を明らかにするか否か。それは重要な問題だ。だが可能な限り、我らの存在とそのテクノロジーを生物階に明かしたくはない。混乱と、不安を増長させるだけだ。我等は神であり、有史以来幾度となく崇められ、相互に作用しあいながらも、実質的には宗教とは無縁の存在である。そのことは最初にはっきりと言っておく』
これは、比企の最終的な決断を反映していた。
ヴィブレ=スミスの執った生物階不可侵政策は、最後の最後に継承された。
*
「で、奴は誰だ?」
陽階最上部、極陽の執務階である天奥階の第一堰の警備を取り仕切る第二種公務員の武型神パトリック=ルースターは天奥階の通路を歩いてくる少年を視認し、詰所の使徒に尋ねていた。
単身乗り込んできた少年の無謀さには感心しつつも、詰所に配備されていた十柱の第二種公務員達は彼の外見から彼の実力を侮っていた。
彼は見た目にも華奢で非力そうだし、いかにも気の弱そうな雰囲気だ。
だが、いくら失笑ものの貧弱な体格だといっても侵入者であることには変わりない。
仕方なくパトリックは拡声器のマイクを握ると、マニュアルにしたがって第一レベルの警告を行った。
「止まれ。ここは立ち入り禁止だ」
少年はパトリックの警告を無視してゆっくりと近づいてくる。
拡声器での警告は、少年の耳に届いている筈だ。
「おい、奴は誰なんだ?」
彼は念のため、詰所の使徒に再度訊ねてみた。
「分かりません。データ照合不能です。信じがたいことですが、神階在籍者ではありません」
「神か使徒かそれ以外かどうかも分からないのか?」
侵入者の顔をカメラで撮影すれば神階在籍者認証システムに転送され、ただちに照合されて割り出される。
その検索網に引っかからないということは、極端な整形を行ったか出生届を出さなかったか、の二択しかない。
だがこの可能性はきわめて低く、普通に考えれば神階在籍者ではないとの結論に至る。
しかし、それであればなおさら不自然だった。
神階在籍者ではない者がどうやって神階上層部まで上ってきたというのか。
侵入者の身元を特定できないのは初めてのことなので、ナビゲーターの使徒も顔にじっとりと汗を浮かべている。
「いえ、それも不明です」
「仕方ない。ならず者を捕らえれば、武勲のひとつにでもなるだろう。まだ子供のようだし、命までは取らん」
彼は腰に帯びていた銃型神具を抜き、実弾ではなく麻酔弾をマガジンに詰めて少年に照準を合わせた。
フィジカルギャップ貫通型の弾丸だ、鉛の弾丸とは違ってフィジカルギャップの守りなど期待はできない。
彼はマニュアルに則って第二レベルの警告を発した。少年との距離は、およそ50m。
「止まれ。さもなければ発砲する」
銃口が向けられ狙われていることに気付いた少年は立ち止まると、パトリックがトリガーを引くより早く両手の親指と人差し指を直角にあわせ、フレームを作るようなしぐさを向けた。
「何だ?」
この動作を不審に感じたパトリックは、あまり猶予を与えない方がいいと察し迷わずトリガーを引いた。静かな発射音がして、二発の麻酔弾は一直線に放たれた。
麻酔弾の狙いは寸部もたがわず少年の胸部と頭部に放たれたが、少年の体に着弾することはなかった。
雑談をしながら傍観していた詰所の神々は目を見張った。
パトリックが放った弾は二発とも、少年が指で作った空のフレームにトラップされて指と指の間で宙に浮いて静止していたからだ。
彼は指一本触れることなく銃弾を止めていた。
この少年を侮ってはならないと気付いた神々が各々の神具に手をかけたとき、少年がすみやかに反撃に出た。
直角に組んで閉じていた指先の角度を維持したまま、それをゆっくりと開放していった。
彼が指先で作った「」でフレームを切り取る事によって、選択範囲を拡大しているように……彼らにはそんな風に見えた。
何が起こるものかと彼らが訝っていると、ピイン、とワイヤーが張り巡らされたような振動がそれぞれの神々の四肢に響き、少年のフレームの中に映りこんだ彼ら10柱は一度に一切の行動を封じられてしまった。
彼が指先で指定する領域に映りこんだものは、トラップされる……!
神々はようやく彼の特異な能力に気付いたが、身動きも取れなくなった状態ではもはやどうすることもできなかった。
二名の使徒たちも同じように動きを封じられ、詰所は無人状態も同然だ。
「なっ……! これは、何だ!」
「う、動かん」
罠にかかった神々はもがこうとするが、見えないワイヤーで固定されてしまったかのように身体の自由がきかない。
威勢よく吼えようがわめこうが、彼らが動けないという状況に変わりはなかった。
「何故だ、素手で!? 奴は何も持っていないぞ」
そう、彼の手には何もなかった。
*
少年、八雲 遼生は構えていた両手を下ろした。
彼らに危害を加えるつもりはなかったが、天奥階に侵入した瞬間から神階への反逆者として掃討されるべき存在であるとは心得ている。
言い訳などできないし、聞き届けてももらえない。
とうに覚悟のうえだ。
遼生は神々と使徒をその場に縫いとめたまま、彼らを尻目にとぼとぼと歩みを進めた。
天奥階のエントランスまでの空間は擬似空間の青空の中に、通称SKYLINEと呼ばれるハイウェイのような道路が一本、どこまでものびている構造だ。
途中、SKYLINEには堰と呼ばれる警備員詰め所が何箇所から設置されている。
天奥階上層に近くなるほど警備員も高位階級の神々が配備され、警備は厳重だ。
しかも侵入者に備えてこの一帯は、陽階にありがちな飛翔不能領域となっており、遼生も歩いて進むしかない。
進むべき道はたった一本、前後から挟み撃ちにされればそのまま御用だ。
が、正面突破しかできない状況ではあった。
連続的瞬間移動は体力を使う。
警備員との遭遇に備えて少しでも体力を温存しておきたかった。
第一堰を突破して五分ほど歩むと、さきほどは快晴だった天奥階の空に霧が立ち込めてきた。
霧深く見通しが悪くなることは、天奥階の詳しい構造を知らない遼生にとってあまり有難いことではない。
そのうえ、アトモスフィアは霧と混ざりあうと水分子と融合して遼生が感知しにくくなり、警備員の接近を把握しづらくなってくる。
方向感覚も狂ってきて、SKYLINEから足を踏み外して真っ逆さまに転落してしまいかねない。
神々の長、主神は十重二十重の守りの中にいた。
そして彼に庇護されている恒と会うためには、どうしても比企のもとに近づいてゆく必要がある。
比企に近づけば近づくほど、最大のリスクを負い、疑いの目を向けさせる。
比企には用もないというのに、皮肉なものだ。
遼生は紫檀夫妻から天奥階の内部構造と、警備が2時間ごとに配置交代となる旨を聞いていた。
残り1時間あまりの間に、エントランスである大門まで辿り着けなければもう破滅だ。
彼は紫檀から餞別にともらった時計に目を配りながら歩調を早めていた。
そのときだ。
ふっと冷たいものが真横から遼生の首すじに触れ、振り払おうとした瞬間、そのまま遼生は喉を握られた。
遼生は驚いて身をよじったが、見えない握力から逃れる事はできなかった。
それは誰かの手だということは分かったが、咄嗟に手首を掴んでもがいてもびくともしない。ここまで接近されてもいまだ気配すら感じさせないまま、霧の間から静かに白髪の男が現れた。
それも遼生の真正面から、隠れることもなく堂々と。
不覚だった。
霧がカモフラージュとなって彼の接近を察する事ができなかったのだ。
遼生が目を見開いたのは、天奥階の主、極陽 比企 寛三郎がすぐ目前にいたからだ。
思考回路が強大なアトモスフィアに焼かれてショートした。
「侵入者にしては、大胆不敵よの。見たところ丸腰のようだが?」
機械のように冷たい、感情のこもらない声だ。
無愛想な神だったとは記憶にあるが、こんな場面での感情的の欠陥は恐怖以外のなにものでもない。
「比企……さま」
何故、比企がここに? 考えても分からない、何も失敗はしていない。
堰にいた神々はまだ誰も通報していない、誰が比企に通じた?
それとも偶然、比企がここを通りかかったのか。……偶然にしては出来すぎている。
比企は天奥階の最上階に居て、各施設間での移動方法はおそらく転移術で行っている。
移動のためだけにこの通路を通ることはない、つまり通りすがりという線はない。
ここは一般使徒や神々が通る通路なのだから。
状況が飲み込めず口をぱくぱくしている遼生に同情を寄せたのか、比企はあっさりと種明かしをした。
「SKYLINEの快晴を維持するためには、警備の者が十分毎にスイッチを押さねばならんのだよ」
そこまで言われて、遼生はようやく気づいた。
遼生が先ほど警備員の動きを止めたために、警備員は詰所のスイッチを押せなかった。
異変がなければ十分ごとに押され続ける断線警報スイッチなのだろう、それで天奥階の天気が変わった。
霧という天気こそが侵入者ありという暗号だ。
比企に連絡が入り、監視カメラか何かで遼生の業を見た比企が不審に思って直々に出てきた。そんなところだ。
アラームが鳴らなかったので遼生もすっかり油断していた。
裏をかいたつもりが、裏をかかれた。
「先刻の業は、何によるものか? 道具はどこに隠し持っておる」
比企が出張ってきたのは、一秒も争うことなく十柱もの神々の動きを瞬時に止めた遼生の存在を脅威と感じたからだ。
厳戒態勢の神階で、明らかに不審者と分かる者を見逃すわけにはいかなかったのだろう。
戦闘行為は目立つので避けたいと思ったが、余計に目立つことをしてしまったようだな、と遼生は後悔した。
妙な行動をとらなければ比企も他の警備の神々に任せて直々に出てくるようなことはなかっただろうに。
無血進入に拘りすぎたのが裏目に出た。
改めて言うまでもないが、遼生はヴィブレ=スミスによって生み出された遺伝子改変体だ。
ヴィブレ=スミスは遼生の遺伝子にALMという遺伝子領域を余剰に挿入し、生体神具と類似したコードを埋め込んだ。
その結果遼生は、生体神具の原理を応用して遺伝子制御だけで様々な能力を発現する。
彼は素手で一般的な神具から超神具と呼ばれる神具の能力も模す事もできる。
彼に神具の所持など必要ない。
彼の存在そのものが生体神具であり、兵器のようなものだったのだから。
当然比企は事情を知らないだろうし、遼生も口軽く話したくない。
あらゆる神具の能力を生身で操る遼生の存在を、比企は脅威と感じるだろう。
釈明が上手くいかなければ、命まで奪われかねない。
それに、遼生の喉を握っていないほうの比企の手には、鉄扇のようなものが握られている。
現物を見たこともないが、比企の所持神具は懐柔扇しかないのだからそれなのだろう。
この体勢から ALM遺伝子を発現させ、空間操作系の能力を用い至近距離で撃ち合うこともできるが、懐柔扇を相手にするほど遼生も愚かではない。
ここは素直に投降する方が賢明だ。
遼生はそこまで見通して、真実を省略して述べた。
「……何も、持っていません」
神具を持っていないのは本当だ、嘘ではない。
遼生は口がカラカラに渇いてゆくのを感じていた。
いや、比企の刺すような冷たい アトモスフィアにあてられて声が出ないのだ。
足は宙に浮かされている。比企がその片手に少し力を入れるだけで、簡単に殺されてしまうという絶望的な立場。
蛇に睨まれた蛙も同じだ。
じっとりと汗ばんだ遼生の喉の感触は、比企の手に伝わっているだろう。
比企は腑に落ちないのか、首をかしげた。
「汝からはアトモスフィアを感ずるが、汝なる神は神階所属者として記憶しておらぬ。天奥階に何の用がある? 己に会いに来たのであれば、話はじっくりと聞いてやろう」
遼生は無言を貫きたかったのではないが、声が出なかった。
「さようか……」
十分な猶予を与えたのち、比企は彼の頚を支えていたその人差し指に力を込めた。
くきり、と彼の頚が鳴って関節が外れた。
*
比企によって囚われた遼生は駆けつけた第二堰の第二種公務員の神々の手によって、天奥階下層のだだっ広い多目的ホールに運ばれ、懲戒台とよばれる アトモスフィアを失効させ神の体力を奪う特殊な石の台座の上に仰向けに拘束された。
身動きの取れない状態で、周囲を監視の六柱の第二種公務員の神々に取り囲まれている。
主神も何かと多忙なのだろう、比企はすぐに尋問に来なかったので遼生はしばしの間放置された。
見張りの神々は時折、彼が呼吸をしていることを確認するために近づいてきたが、比企に的確に頚椎を脱臼させられ全身不随となった状態で、怪しい動きができよう筈もなかった。
遼生が拘束されて何事もなく30分が経過しようとした頃だった。
動けるはずがない、見張りの神々にとってのそんな安心感と油断は、一瞬にして吹き飛んだ。バタバタと五柱の第二種公務員の神々がドミノのように床の上に倒れはじめたのだ。
最後に取り残された一柱はようやく、少年が彼らに何をしたのか気付いた。
「ま、マインドイレース(Mind Erase)!?」
マインドイレース(意識消失術)は、アトモスフィアを対象の脳にぶつける事によって意識を飛ばすマインドコントロールの高等術だ。
体の自由もままならない子供がたった30分という短い時間に、成熟した神々のマインドギャップを赤裸にし、それも一柱のみならず五柱同時に手玉にとったのだ。
彼は恐怖のあまり足をもつらせながら戸口に設置されている非常用無線に手をかけようとしたが、その手が決して受話器に触れる事はなかった。
彼は誰に引っ張られているでもないのに、凄まじい力で少年のもとにたぐり寄せられていた、……違う、足を向けているのは他ならぬ彼自身なのだ。
彼は強烈なマインドコントロールをかけられて鍵束を取ると、手錠を外し、脱臼した遼生の関節を順々にはめ込んでいった。
無論、彼の意思とはなんら関係のない力によってだ。
“治療”をしてもらって自由を取りもどした遼生は、頚部の感触を確かめると、懲戒台から難なく起き上がった。
「ありがとうございます。もうひとつお願いがあります。藤堂 恒という神の居場所に案内をしてください」
「……」
恐怖に顔を歪めた第二種公務員は顔面蒼白になって全身が震え、返事どころではない。
遼生は口頭で訊きだすことを諦め、マインドブレイクをかけて恒の居場所を探り当てると、マインドイレースで彼の意識をとばし、ベージュの制服を剥ぎ取って纏った。
その行動に迷いも躊躇いもなかった。
天奥階の廊下を行く途中、遼生は誰にも声をかけられず、怪しまれる事もなかった。
何故なら彼は鉢合わせになった職員全員に出会いがしらにFC2-マインドキューブの能力を相乗させたマインドコントロールをかけ、彼らが見る遼生の顔とは違う顔を彼らの脳内にインプリントしていったからだ。
遼生の顔を見たものは本当の意味で誰もいない。
彼はいくつもの廊下の角を曲がり、迷わず恒のいる部屋に近づくと室内のアトモスフィアの配置を探り、恒しかいないことを確認して慎重に扉を開いた。
*
遼生が重い扉を開くと、恒とおぼしき少年が書斎のような薄暗い部屋の中央の黒いデスクに座り、立体パソコンを開いてなにやら緑色光のベルトを捏ね繰り回していた。
一見して遺伝子解析の為の専用パソコンと分かる。
立体パソコンは遼生もヴィブレ=スミスが起動していたのを見たことがある、たしか緑色のグリッドに映りこんでいるのはゲノム走査モードと、ボーダーラインと呼ばれる解析網だ。
遼生は静かにドアを閉めて後手に鍵をかけると、おもむろに第二種公務員のベージュのローブを脱いだ。何を解析していたのだろうな、と遼生がタスクを覗き込もうとした時、恒とおぼしき少年はぴたりと手を止め、データが遼生の目に触れるのを避けるようにボーダーラインを圧縮してたたみ、タスクを終了した。
こういう解析作業には一にも二にも保存だ、恒は反射的にそれができてしまう。
「……」
タスクに集中していた恒は振り返ってはじめて、入室してきた人物を遼生と認識した。
あまりに作業に集中していたので、普段とは違うアトモスフィアの接近にも気付かなかった。
遼生はもう、回復していたのか――。
遼生の驚異的な回復は、恒にとって完全に誤算だった。
やや動揺しつつもマインドギャップを張り巡らせ、遼生との駆け引きに備える。
遼生のマインドギャップは7層、恒は10層で両者ともに看破不能な層数だ。
マインドギャップの厚い恒がやや有利に事を運べるが、双方のマインドギャップが互角だった場合には心理戦の様相を呈する。
恒は顔色ひとつ変えず見当外れの話題から切り出した。
「はじめまして。どなたとは存じ上げませんが第二種公務員の方ですね。私に何か御用ですか」
そう、遼生は恒と直接的に面識がないのだ。
本当の意味で遼生が恒の容姿を知らないということを、恒は忘れていなかった。
遼生は肩透かしをくらって、返事に詰まる。
「っ……八雲 遼生だ。知っているだろう?」
恒はさも初耳だというような顔で席を立つと、社交辞令とばかりに作法に則ったお辞儀をし、尋ねられてもいないのに堂々と偽名を名乗った。
「存じ上げず、失礼をいたしました。本置一致の方ですね。かくいう私も本置一致で、赤坂 晴義と申します」
遼生の入室に最初に驚いたのは恒だが、この切り返しに、逆に動揺したのは遼生の方だ。
「え……君は、藤堂 恒ではないのか」
「どなたか別の方とお間違えのようですね」
彼がそう断言した途端に、遼生は目の前の少年が藤堂 恒であるという証明をしなければならなくなった。
彼の面影はどことなくヴィブレ=スミスに似ている。
アトモスフィアの質感も、夢の中で感じたものと全く同じだ。
遼生と多くの外見的な共通点もある。
明確であるのに、証拠とならない。
彼に認めさせることができない。
遼生は堂々と嘘をつく義弟を前に、次第に胸が苦しくなってきた。
分かっているのに……、彼が藤堂 恒であること。
死を待つばかりだった遼生を救った大切な、かけがえのない存在であること。
こんな……空々しい騙し合いをする為に、遼生はここに辿り着いたのではない。
遼生は拳に力を込めて、呻くように呟いた。
「すごいな……兄弟なのに。僕はそんな上手に嘘をつけない」
それがどんなに辛くとも正直であろうとした遼生の言葉は、嘘ばかりつきながら生きてきた恒にはひどく重かった。
それでも恒は眉ひとつ動かさない。
情にほだされて、認めてはならなかった。
恒は無感傷にいとまごいをした。
「私はアカデミーの日課がありますので、失礼いたします」
遼生は背を向けようとした彼の腕を必死に掴んだ。
握り締めていなければ、もう二度と彼には会えない、遼生は確信していた。
諦められなかった。
「やめてくれ……。やっと会えたんだ」
真意は、伝わらないのだろうか。
遼生は引き止めの言葉の代わりに恒の腕を握る手にただ力を込めた。
恒は痛いのだろう、顔をしかめる。
遼生の握力はかなり強いのだ。
この痛みで真実を認めてくれればいいと願えど、相手はどうも一筋縄ではいかないようだ。
もっと本音でぶつかって、腹を割って話がしたかった。
同じ境遇に生まれたもの同士、彼と苦痛を分かつ為に、そして過去を未来へ繋ぐためにここまでやってきたのに。
「痛いです。手を離していただけませんか? 私は藤堂なる人物ではありませんし、急いでおります」
「どうして……」
「頚椎脱臼の状態から懲戒台を抜け出すとは見事なものだ。だが、二度はない」
遼生が恒の瞳の奥を覗きこんでいたとき、義弟との再会の時間は最悪の人物の登場によって阻まれた。
比企だ。遼生は比企の出現を認めると間髪いれず恒の背後から腕を回し、恒の首を絞めるような体勢をとった。
じりじりと恒を人質にとったまま、少しずつ後ずさる。
その反応のよさに、比企は感心した。
「何の真似だ」
遼生は恒の頚を左腕できつく締めたまま、比企と睨み合った。
「これから尋ねる質問に答えていただけなければこの子を殺します」
「申せ」
比企は一見して彼が本気で恒を殺すと言っているのではないと気付いたが、ひとまず彼の話を聞いてやってもよいかと思い直した。
少し話せば天奥階への侵入の目的を探り出す手間が省けるというものだ。
「この子は誰ですか?」
遼生は恒を盾に、比企に問いただす。
比企は、天奥階に侵入した彼の目的が比企ではなく恒だったのだと知り、下手に恒の名を明かす事は危険だと判断して回答を拒んだ。
「己の庇護下にあるアカデミーの特待生だが、誰かも知らずに人質としたのか」
「彼は藤堂 恒とはいいませ……」
最後まで言い終えぬうちに、遼生はガクンと脱力して床に伸びてしまった。
恒がマインドイレースをかけたからだ。
遼生に余計な事を喋らせるわけにはならなかった。
どうしても比企には知られてはならないことだ。
恒以外に抗ABNT抗体が存在するということは。
比企は彼を利用するかもしれない、そうしないかもしれない。
どちらでもよい。
だが、恒と遼生との関係を知られることは、遼生の為にはならない。
恒はそう判断してマインドイレースの施術を急いだ。
比企は恒がマインドイレースをかけたタイミングを不審に感じた。
恒の本来の戦略は肉を切らせて骨を断つ、といったもので、口を割ろうとしている者の口を自ら閉ざさせるような真似はしないものだが……さしもの抗ABNT抗体の藤堂 恒も所詮は子供か、と比企は恒に対する過大評価を自戒した。
「マインドイレースか。上出来と言いたいが、発動がいま少し早かったの。大事ないか?」
「ええ、大丈夫です」
「これは処分しておく」
比企は遼生の手首を取り、ずるずると引きずっていこうとした。
マインドイレースをかけられて一度意識を落とした状態から目覚めるまでには、一般的には少なくとも数時間を要すると言われている。
その間、いかなるショックにも反応することができず、神経麻痺のような状態に陥っている。
完全に意識が落ちている、先ほどのように遼生からの小細工は無用だ。
彼は完全に無抵抗の状態、遼生が自力でこの危機を切り抜ける事はできない。
「彼をどうなさるのですか」
恒は表面上できるだけ無関心を装いながら、さり気なく尋ねた。
当然のことを改めて訊くな、比企はそんな雰囲気だ。
「生かしておくわけにもいかぬだろう。お前を殺すところだったんだぞ」
比企は本気だ。
そもそも冗談などろくすっぽ言ったためしがないのだから、やると言ったら必ずやる。
そして手心を加えることもない。遼生は必ず殺される。
比企に疑われずに遼生を助けるにはどうすればよいものかと、恒は思案をめぐらせた。
「……殺さないで下さい」
「憐れみか。それはかような場面には相応しくない。汝の命を狙っておったのだぞ。この者はそもそも神階には存在せぬ、断じてよきものではない。恐らくは時計職人の……」
「そうかもしれません。ですが、ただ依代とされているだけで彼は無実です」
恒はミスリード(誤誘導)によって、遼生の正体をあやふやにしてゆく。
比企は遼生をブラインド・ウォッチメイカーの尖兵だと勘違いしている、その誤解を逆手に取る。
「彼が無実であるならば、一柱でも多く後世に神を残すべきではないでしょうか。神階に神が誕生しなくなったのであればなおさらです。彼は貴重な存在のはずです」
「神であれば節操なく受け入れるものではない。神かどうかも疑わしい者を、神階に受け入れるわけにはいかん。汝の目の届かぬところで屠る。なに、苦しませはせん」
これは……大変だ。恒は血の気が引いてしまった。
どうやら、恒のミスリードは比企の疑いを深めただけのようだ。
口先で誤魔化せる相手ではなかった。
比企を止めなければ、万事休すだ。
何とかならないものか、恒はわざと口ごもって時間を稼ぎながら、何か手立てはないかと悩んだ。
「……いけません。彼は」
「?」
「正直に申し上げます。彼は抗ABNT抗体の……ヘテロ個体で、俺の義理の兄です。殺さないでください」
ようやく思いついた方便はこれだった。
ヘテロ個体であれば染色体上の抗ABNT抗体の遺伝子数は半分であり、ホモ個体は完全だ。
だから比企が諦めてくれそうなネタはそれだった。
嘘も半分、真実も半分であるがあまり歯切れのよいものではない。
「ヘテロ、だと?」
「俺がホモで、彼がアリル(対立遺伝子)に抗ABNT抗体の一方にのみ断片をもつヘテロ個体です。彼の抗体は不完全で、俺のように抗体活性は出せません。ですが……俺を訪ねてきたのです。俺は先ほど、彼に別神だと嘘をつきました。だから彼はあのような行動をとってあなたから俺の名を聞きだそうとしたのでしょう。どうかお見逃しください」
あの創造神ヴィブレ=スミスが、失敗作と分かっているコードを埋め込むだろうか?
比企の脳裏にはそんな真っ当な疑問がよぎったに違いない。
しかしそこは誤魔化し通すほかなかった。
「……さようか」
比企は疑いの目を向けながらも、用件が終わったら遼生をすぐ帰らせるという条件でそれ以上は追及せず部屋を出て行った。
比企は不完全な抗体であると知った遼生に興味を示さなかった。
助かった、と恒はため息をついた。
彼らしくもない、かなり見苦しい必死の足掻きだった。
「ヘテロ個体、ね。僕がホモ個体だということは、君もよく知っているじゃないか」
物音が聞こえて恒が振り返ると、遼生はとっくに覚醒して恒を睨んでいた。
マインドイレースは深く入ったという手ごたえはあったが、遼生の意識修復が圧倒的に早かった。7年間の植物状態からたった1日で回復したタフな少年神だ、 マインドイレースからの回復速度も然りというわけだ。
遼生は正真正銘のホモ個体で、抗ABNT抗体も完全だ。ヘテロではない。
しかも、恒よりよほど生理機能が強化されているようだ。
肉体も頑強で、アトモスフィアも潤沢、精神力もある。
精神力と知力に特化した恒と違い、バランスのよい構成だといえる。
「もう起きたんですか」
恒はつきまとわれるのが迷惑だというように、遼生には冷たいトーンの声を投げかける。
「君ひとりで何とかしようと思うな。僕も完全な抗体を持ってるんだ。僕のを合わせれば二倍になるだろう?」
「では、1+1=2であることを証明してください」
恒は素っ気無い。
そして遼生も知っていた、1+1=2であるという事を数学的に証明するには、1+1という概念を定義づけなければ成立しないということを。つまり、この世界には1の次の数、という概念が存在するということと1+1=2である、という前提が必要なのだ。
恒が何を言わんとしているのか、それほど勘の良いといえない遼生にも痛いほどに分かった。
恒は遼生を全くあてにしていない、ということだ。
それも無理はないな、と遼生も思う。
だって、どうして7年間もの間、ABNT抗原に耐えられずただ植物状態となっていたような間抜けをあてにできる。
逆の立場なら、遼生も到底戦力にはできないと思うだろう。
何ができるものか、と言いたくもなる。
今更登場されても目障りだ、という彼の気持ちも理解できる。
「はっきりと言いましょうか。1+1=2ではありません。あなたが1足り得ないからです。あなたの抗体の活性は俺の10分の1にも及びません」
恒はわざと遼生を落として、彼のプライドを粉砕した。
いくら温和な性格の遼生だとはいっても、いくら恒の心境を理解しようと努めても、そこまで虚仮にされては黙ってもいられない。
遼生の紅茶色のおとなしい瞳が眇められた。
「随分はっきり言ってくれるね」
「手助けなど必要ありません。あなたに妙な事をされると台無しです。折角極陽に見逃していただいたのですから、極陽のお気が変わられないうちに早々にお引取り下さい」
自分は、本当に嫌な奴だ……恒は客観的に、至って冷静に恒自身の姿を見つめていた。
神階ではこのうえなく会うことが困難な場所に危険を冒してわざわざ訪ねてきた義兄に、こんな口の利き方しかできないだなんて最低だ。
遼生の気持ちは勿論嬉しい、手を貸して欲しいとも心のどこかでは思っている。
しかし遼生の為を思えば、それはできなかった。
嫌味な奴だと嫌ってくれればよい、母親 八雲 青華とともに静かに暮らしてくれればなおさらよい。
義務感に突き動かされて破滅への一本道に、戻ってくる必要はもうない。
彼の抗体の活性は絶望的に足りない、そして活性を鍛えるための時間も、抗体の活性を高めてくれる抗原であるレイア=メーテールもいない。
いくら遼生が力になろうと思ってくれようとも、彼の抗体では戦力にならないのだ。
そんなのだったら、遼生の助けはいっそいらない。
力不足を目の当たりにしたとき、何も出来ない遼生が辛くなるだけだ。
恒はそう思っていた。
「では何故、比企さまは僕を見逃したと思う?」
話を一切聞くつもりがない義弟に、遼生は切り口を180度変えてきた。
「?」
「ヘテロだホモだの、比企さまは君の虚言を見破っていたよ。追求しなかったのは何故だと思う? 見逃したんだ。僕のことなんかより、もっと気になる事があったから。……あるものが発動されたと、比企様の精神系は応答したよ」
恒はまずその前提を否定しにかかった。
比企を看破するなど、不可能だ。
恒も何度か密かに比企へのマインドブレイクを試みたことがあるが、やはり無理なものは無理だった。
先ほどのわずかな時間、比企のマインドギャップに乱れも亀裂もなかった。
比企のマインドギャップは完全だった。看破できる特殊な状況も揃ってはいない。
「10層のマインドギャップを、どうやって看破を!?」
「さあ、どうやってだろうね。これでもまだ侮るかい」
恒は遼生があの比企を看破したのだと信じられない。
比企を看破するには最低でも15層のマインドギャップが必要で、それは遼生のおよそ二倍に相当する。
はったりだとしか思えない。
踊らされてはならないと、恒は釣られてざわつく心を落ち着かせる。
「……それは詭弁ですね」
「神階時間の午前10時30分に、久遠柩が発動されたそうだよ」
その言葉で決着がついた。
はったりではなく、遼生の比企への看破は本当だ。
遼生は久遠柩の存在そのものを知っていて、さらに比企のマインドギャップを看破して発動を知った。
遼生はあの一瞬の間に、誰にも気付かれずに比企を出し抜いていたのだ。
更にその情報が、恒との対話のカードになるということも知っていた。
「どこで発動されたか、知りたくはないの?」
遼生はにこりと、少しだけ得意げな笑顔を向けた。