第1節 第7話 ADAM, the MINDlibrary
「改めて、ADAMへようこそ。恒くん」
恒との約束の時間丁度に、極彩色のノイズの果ての図書館で、ユージーンは待っていた。
教師としての普段の姿とは違う、神としてのユージーンの姿でだ。
恒が地上で見た姿とも違う、凝った装飾の純白の装束を着て、眩い光を纏っていた。
頭上にはうっすらと環状の光も見える。
夢の世界だからだろうが、恒はそのあまりの美しさに見とれてしまいそうになりながら、立ち上がった。
”ん? 立てる”
恒はすぐに、これまで見ていた夢の状態とは違う事に気がついた。
恒の身体は可視化されている。
これまでは意識だけで漂っているような状態で、透明人間だった。
恒は自分の手や足を見回して不思議がったが、今日はユージーンが正式な客として招いてくれたから姿が見えるのだろうと疑問を自己消化した。
「お迎えに来てくれたんですか! この図書館に誰かがいたの、初めてだから……すごく新鮮です」
「ここは確かに、閲覧者が少ない場所なんだよ。限られた神しか入れない制限区域だ。そして……」
ユージーンは懐から取り出したネックレスのような身分証を、恒の首にかけた。
カードは銅版のような金属でできていて、しっかりとした固いものだ。
そこに刻印された小さな文字はどの言語とも違って、恒には読めない。
「わたしのゲストだという証。これをなくさないでね」
「なくしたらどうなりますか?」
「多分投獄される」
ユージーンは恒がついてきているのを確認すると、歩きはじめた。
見渡すかぎりの本棚、以前は絶望の象徴でしかなかったそれは少しずつ希望に変わってゆくのだろうか。
ユージーンは暫く歩くと、ある書棚の前で止まった。
その書棚には本が陳列されていないかわりに、書棚の上にはカードと同じ文字が書かれている。
「この図書館の利用のしかたを教えよう。まず、欲しい本を探すところから。とはいえ、表紙は君が見ても読めないんだろ?」
「全然です」
何も書かれていないとばかり思っていた表紙は、ミミズの這ったような字というより複雑な紋様で埋め尽くされていた。
これが文字であり、当然ながらタイトルが書いてあるのだそうだ。
恒は表題の自力での解読を諦めて、検索機能に頼る事にした。
「では、検索のクエリを入力するんだ。ここで発した言葉は全て司書の監視下にあるから、音声入力が可能なんだよ。実際にやってみよう。恒君の欲しい本は?」
「え、じゃあ、日本の鎌倉時代の文化について書いてある歴史書です」
「え、渋いね」
「ちょっと興味があって」
どうして小学生がそんな時代の文献を調べようとするのだろう、ユージーンは訝ったが、意外と歴史マニアなのかもしれないと思い直す。
「まず、君のゲストナンバー、そして欲しい本のキーワードを言うんだ。PAA-07-GT1、これが君の番号だ。繰り返して」
「PAA-07-GT1」
「日本、鎌倉時代」
「日本、鎌倉時代」
すると、ユージーンが指定した空っぽの本棚に、ずらりと赤い表紙のついた本が並べられた。
どれだけ並んでも、書棚がいっぱいになることはないのだろう、圧縮されて全ての本が並びきっていた。
延髄に響くような音声案内が、どこからともなく聞こえてきた。
”123895冊の該当があります”
「該当する書籍は赤いブックカバーを付けられて陳列される。ここが君の書棚だよ。今並べられたもの全てが、君の欲しい本だ。とはいえ、膨大な量になってしまったな。更に絞りたい時は、キーワードを続けるといい」
「後鳥羽上皇」
「えっ、渋っ」
「すみませんなんか」
”294件の該当があります”
300の書籍に絞られ、随分と少なくなった。
誰が並べてくれるのか、整頓されて一瞬のうちに並べられる。
恒は驚きのあまり、目を見張ってジャンプした。
書棚が高すぎて、手が届かない。
ユージーンがはしごを寄越してくれたので、上って一番上の本を取った。
「すごい、こんな事ができるなんて! 手にした本は、読むしかないと思っていました。好きな本を選べるなんて!」
「好きな本を選べない図書館なんてないよ。システムを理解すれば、どんな情報でも手に入る。もう数万年前からこのシステムが導入されている。さあ、欲しい本が見つかったね。でも、これでもまだ膨大だ。ここからは、本の読み方を教えよう」
ユージーンは適当に一冊の本を手に取った。
棚から取り出すと、10cmほどの厚みの本になる。
こればっかりは以前と変わらない。
この内容を全部読まなければならないとなると、恒では数時間を要する。
「速読術を身につけよう。漠然と、ページを見るだけで、内容が理解できるようになる。だから……」
ユージーンはぱらぱらと全てのページを繰りながら、最後のページまでめくっただけだった。
およそ10秒ぐらいの時間でしかない。
「今の本には、後鳥羽上皇時代の町民の生活の歴史の変遷が書いてあった」
「嘘! 読めたんですか!」
「君にもできるようになるよ」
「そんなの、できませんよ! からかわないでくださいよ」
「まあいきなりは、無理だろうね。でも冗談なんかじゃないよ。人にだって、速読ができる人はいるじゃない。というか鎌倉時代の歴史なんて興味あるの? 渋い小学生だね」
恒は小学生にはミスマッチな検索を指摘されたからか、少し視線をはぐらかしたかのように思われた。ついでに話題もすりかえる。
「こんなに速く、読めるわけありませんよ。しかも見てないページもあったと思うし」
「いや、全ページ覚えているよ」
「写真記憶ってやつですか?」
「だから、ちゃんと読んだってば」
恒は本を貸してもらってパラパラめくると、ほとんど読んでいないようにも思えた後半部分、1194ページ目を見た。
ユージーンは本を恒に取り上げられても、どこか余裕を感じさせる。
「じゃあ、1194ページ目は何ですか?」
「定 今堀地下掟の事 合 延徳元年十一月四日 ひとつ、惣より屋敷請候て、村人にてなき者 置くへからざる事。ひとつ、よその人を地下に請人候はて置くへからさる事。ひとつ、」
「え! 何で分かるんですか!」
「この図書館の本は読んだら忘れないよ。君もゆっくりなら全てを覚えておけるって言っていただろう」
「すごく時間をかけてならできますけど、すっごくですよ? でもあんな、読んだか読んでないかわからないようなめくり方で」
まったく、かなわないな、と恒は思う。
こんな事ができるのだから、やはり神と名乗るのは伊達ではないのだろう。
恒は何度かユージーンとともに検索方法を練習して、思い通りの本が手に入るようになった。
恒の自主性を尊重して、ユージーンは最大限の便宜をはかってくれたようだ。
そうやって検索している間、通路から見える人影もなく、誰にも会わなかったので遠慮がなかった。
「上手に探せるようになったね。もう、一人で来ても大丈夫だよ。わたしに見られたくない検索もしたいだろう。言っておくけど、不適切な本にはロックをかけているからね」
あるのかどうかは分からないが、エロ本は読めないということなのだろう。
「ありがとうございます」
「恒くん」
「はい?」
「勉強もいいけど、ほどほどにね」
「はいっ」
ユージーンは恒を信頼しているようだ。
それにしても、どうして急にADAMにアクセスさせてくれるようになったのだろう?
勘ぐってはならないと思うが、恒はどうも腑に落ちなかった。
*
「なんであんな速さで読めるんだよ! 信じられねー!」
恒はひとりごちながら、連日のようにADAMにログインして検索を続けていた。
ユージーンがなぜ速読を推すのか分からなかったが、これほど膨大な資料の中から、本当に欲しい本を手にするためには、その分厚い本の内容を一瞬にして理解する能力が確かに必要不可欠だ。
恒は自分の読解のペースというものを掴みながら、少しずつ無理をせずに本を読んでいた。
自分の興味ある本がある程度絞り込めるようになったおかげで、恒はADAMにすっかり夢中となってしまった。
随意にログインできるようになったことで、睡眠時間が邪魔をされず学校でも眠たくならない。
安眠できるようになった。
「あれ、この本ないぞ」
検索にはヒットするのに、肝心の本が手に入らない事も多々あった。
ユージーンも言っていたが、ADAMの書籍は帯出もできるのだという。
だが帯出ができるのは、ごく限られた神々だけだ。
どうしても欲しい本が、その書棚から抜けていた。
恒は諦められずに司書に問い合わせた。
「PAA-07-GT1.問い合わせです。コードAB2295の書籍は帯出中ですか?」
”帯出中です。本日中に返却となります”
神々の文字が満足に読めない恒は、他の利用の仕方も教わって、検索クエリを使いこなしていた。
それによると、誰かが帯出しているが、延滞手続きがないので今日中には戻ってくる予定だという。
また明日出直してきたら手に入るだろうな、などと思いながら、今日は切り上げることにした。
ログアウトの手続きを踏もうとしたそのとき、恒の真横に誰かがふっと煙のように現われた。
これがADAMのログインの瞬間だ。
恒もこうやってふっと現われて、ログアウトの瞬間には煙のようにかき消えているに違いない。
現われた人物が神なのか何なのかというのは、正直よく分からなかった。
彼は白衣を着ていなかったし、黒いTシャツに、白いパンツ、頭にはゆるめの帽子を被って、どこかで見たようなファッションだがいまいちよく分からない、妙な格好をしていた。
民族衣装のようでもあり、ダンサーのようにも見える。
よく見ると、帽子の上にかすかに後光があったから、辛うじて神だと気づいたぐらいだ。
書籍を何十冊も抱えていた。
書籍を革のベルトで束ねて、圧縮して持っているようだ。
一礼し、すぐに顔をそむけて遠ざかろうとしたが、運悪く呼び止められた。
恒はこの制限区域内で、ユージーン以外の神と出あったことがなかったので、呼び止められでもしたら緊張してしまう。
「おい。子供が、何故ここに?」
「は、はじめまして」
恒は緊張してお辞儀をした。
彼は恒の身元を確かめるため無言で恒の首にぶらさがっているプレートを取り上げると、プレートの文字を読んだ。
彼の手がにゅっと伸びてきたので、心臓が止まりそうになった。
神がみなユージーンのように親切で温厚だとは限らない。
プレートをチェックすると、彼は手を離した。
「ユージーンの客か。……ふーん」
彼は納得したように唸った。
このたった一枚のプレートによって、恒は不要なトラブルを避けられたのかもしれない。
「ごめんなさい。人間がここにいては、いけないのでしょうか」
「人間?」
彼は眉をしかめて、何か不満そうに唇を突き出した。
変なことを言ったのだろうか。
それとも、恒が人間だという事実に気づいていなかったのだろうか?
彼は銅色の髪を肩まで伸ばし、空色の瞳をした欧米人風の容姿をした神だった。
どこか人形のように、端正だが無機質な容貌だ。にこりともしないのでどう思われているのかわからない。
「なるほど……ユージーンはいい奴だからな。法的には誰を招待しようが問題ない。さ、学べよ、少年」
彼は恒に一冊の本を渡す。
それは恒がまさに探していた本だ。
この辺りで検索をしていたから、それが漏れたのだろうか。
「どうしてこの本を?」
「顔に書いてある。この本が欲しかったってね」
「あなたも、人の心が読めるのですね」
恒は若干腰が引けながらも納得した。
しかしどうやって心を読んでいるのだろう、本当に顔に書いてあるのだろうか。
一度でいいから、人の心の中を読んでみたいものだな、と恒は読心術に憧れる。
「誰だってできることさ。俺やユージーンだけじゃない。ここで会ったのも何かの縁だな。俺は荻号 要 というんだ。お前は藤堂 恒、だろ」
欧米風の顔立ちをしているが、日本由来の神だったのかと思うと、何となく親近感が湧く。
「え? 日本の神様ですか? 荻号 要って日本の名前……」
「いやいや、そうじゃない。ウィズ=ウォルター(Wiz Walter)ともいうが、神には置換名という名の二つがある。置換名というのは発音不可能な本名を表意文字である漢字に置き換えた名前で、1000年ぐらい前から始まったシステムだ。それ以前は違う表意文字を使っていた。ユージーンにだってあるんだぜ。流矢 布輝ってのがな」
「知りませんでした」
名前なんて、一つでいいじゃないかと恒は思ったが、そうすると神には三つの名前があるということだ。本名、通り名、そして置換名。
ややこしいなあ。
どうしてこんなにややこしい世界なんだろう、などと思いながら、目の前の神にすっかりそれが読まれてしまっていることに気づき、愛想笑いを浮かべた。
しまった、余計な事を考えて失敗だった。
冷や汗が出てきたような気がする。
「俺も、統一すればいいと思うぜ。そうだ、これから茶でも飲まないか」
「お茶、ですか!」
恒でなくとも心の躍る響きだ。
「カフェに連れてってやるよ。行ったことないだろ」
「で、でも」
「信用ならない?」
彼には悪いが正直、そうだ。
名前を名乗ってくれたとはいえ、見ず知らずの者についていってはいけないという事は、小学生でも習う。
ユージーンからすれば、図書館の外に出るのは想定もしていないことだろう。
もし何か悪いことに巻き込まれてしまったら、ADAMにすらログインさせてくれなくなるかもしれない。
天国の喫茶店に行ってみたいような気もするし、そこのコーヒーだか何かを飲んでみたいとは思う。
けれど、この得体の知れない神についてゆくのは危険だ。
ついて行くとしたら、この荻号という神が何の神で、そして安全なのかを一度戻ってユージーンに聞いてからだ、恒は子供ながらに用心深くそう思った。
「今日はもう戻ります。明日また来るかもしれません」
彼の気を悪くさせないように、刺激しないようにと気をつける。
「そうか、残念だな」
「明日もいらっしゃいますか?」
「明日はいないよ」
「じゃあ、もうお会いできないんですね」
「そうだな」
それ以上引き止めることを諦めた荻号は、あっさりと踵を返して去って行こうとした。
これからどこへ向かうのだろう、一人でカフェに向かうのだろうか、それとも仕事に戻るのだろうか。
恒は何も考えず呼び止めた。名残惜しい気がしたからだ。
「待ってください! 行ってみたいです、カフェ。でも……」
「ユージーンに怒られるかもしれない、そう考えているんだろ」
既に恒の考えはお見通しだ。
話が早くていいが、会話のテンポに慣れない。
「そうです」
「じゃ、聞いてやろう」
荻号はそう言うと、美容師が腰からぶらさげているようなシザーケースの中から、ごそごそと携帯電話を取り出した。
ユージーンはフォーマルな格好をしているが、この神はお世辞にもちゃんとしているとはいえないし、服装だってどことなくだらしなく見える。
サンダルをペタペタいわせて歩いているのだから、権威もなにもあったもんじゃない、と恒は思う。
そしてそういう格好で歩いているのは、ユージーンよりよほど格下だからだろうと決め付けて納得した。
「よう、ユージーン。俺だ俺」
オレオレ詐欺のような口調で荻号は電話を切り出す。
本当にユージーンに繋がっているのだろうか。
怪しいな、と思っていると、ちらりと荻号は恒を見下ろした。
あとで代わってやるから、そんなアイコンタクトのように思えた。
「図書館に藤堂という子を送り込んでただろ。ちょっと茶をしてきてもいいかな。何故って? 子供をこんな場所に一人で放置したお前が悪いんだろ。ああ? ああ、分かってる、言わないよ。ほら、いいってよ」
荻号は恒に通話中の携帯を恒に寄越した。
人の使うそれより薄くて、持っても殆ど重さなど感じない。
洗練されたデザインは、ユージーンの持っている携帯とは違う、まさに神の持ち物だ。
それにしても、何を言わないといっていたのだろう?
何かユージーンと約束をしているかのような最後の言葉は気になる。
電話を代わると、やあ、という軽いユージーンの声があってほっとした。
恒はユージーンの優しい声色が好きだ。
「ユージーンさん、せっかくなので行ってきてもいいですか?」
『まあ、今日は連れていってもらったらどう? あと、失礼のないようにね。その方は神として最高の智と力を持つお方だ』
「え、お偉い方だったんですか! どうしましょう、俺言葉遣いとかマナーとかなってなくて」
『少々言葉遣いぐらいは大丈夫だよ。余計なことを言わなければいい。じゃあ、よろしくお伝えしてね』
ユージーンのお墨付きをもらったので恒はすっかり安心して、荻号のあとをついていった。
図書館から出るには、ログインとログアウトの形式しか知らなかった恒だが、出口は存在した。
荻号はどこをどう歩いたのか分からないが、いつの間にか貸し出しカウンターを横目に見て、大きな門をくぐって図書館から出ていた。
図書館の外には、白く壮大な建造物がいくつも立ち並んでいた。
それらは見たこともないつくりで、立体的で複雑な構造をとっていた。
空中に浮かんだ回廊などが、幾重にも折り重なって見える。
装飾品も洗練されていて、ごてごてとはしていないが特徴があり、存在感がある。
広場には巨大な魚をかたどった噴水が涼しげな音を立てて水しぶきを散らし、さらさらと流れてゆく。恒は首が折れるほどに見上げるばかりだ。
「ここ、天国ですよね」
「そうだよ」
荻号は適当に相槌をうつ。
「人間なのに天国に来ちゃったなんて、信じられなくて」
「なあ、お前それギャグじゃなくて本気で言ってるんだろ?」
「何をですか?」
「マジで知らないみたいだな。まあそれは俺が喋ることでもないか、ユージーンに任せよう」
「?」
「何食べたい? 俺の一押しは紅茶の専門店。あと、コーヒーの専門店もあるし、ジェラート屋やケーキ屋もある」
恒は頭の片隅に嫌な影が落ちるのを感じたが、すぐに忘れてしまった。
荻号は口調のせいか俗っぽく、親しみやすい雰囲気を持っていた。
最高の智と力を持つ神というユージーンの説明がいまいちわからなかったが、要するにユージーンよりよほど偉いのだろう。
口のきき方には重々気をつけなければならない。
「天国って実際、どこにあるんですか? 夢の中の世界なんですか?」
「まさか。こりゃ現実だ。お前のいる生物階から見ると、全く違う時空にあるのがこの世界だよ。ログインとログアウトは時空間操作能を持つ限られた神に許された特権であって、本来は正面玄関から行儀よく入るもんだ」
荻号の話は抽象的で何を言っているのかわからない。
正常なログインは姿かたちをとることができ、違法なログインは透明人間のようになる、恒はそう解釈した。
恒は気分的にはコーヒーが飲みたかったが、彼が一押しというので、ケーキセットのある紅茶の専門店に連れて行ってもらった。
中に入ると、座席がガラス張りの板のようになって、しかも吹き抜けの店内に規則正しく宙に浮いている。通路から足を踏み外すと奈落まで落ちてしまう構造で、恒は荻号に支えてもらって何とか席につくことができた。
メニューは神語で書いてあり読めないので、荻号がかわりに注文する。
注文の品が来るまで時間があったので何気なく尋ねてみる。
「ユージーンさんって、結構有名な神様なんですか。特権階級って」
「まあ有名っちゃ有名だな。何せ若い。軍神としては異例の出世だ」
「ぐ、軍神てなんですか?」
恒はあまりの驚きに、最初に運ばれてきた水を思わず噴き出しそうになった。
荻号は頬杖をつきながら携帯をいじっている。
「戦争を司る神だよ」
「ええっ! ええっ? ユージーンさんが戦争を? そんな、いい神様だと思っていたのに! 嘘です! 嘘だといってください!」
恒はよほどショックだったのか、目を白黒させている。
神は神なのだと、恒は勝手にそう思っていた。
だが山の神、海の神、土の神など、~の神という概念は確かに古来あって、軍神という単語も確かに存在しない訳ではない。
それでも温厚そうな彼がよりによって、軍神だとは思ってもみなかった。
恒は彼の職業を嘆かずにはいられなかった。
「おいおい、軍神の仕事はさしずめ平和維持ってとこだぞ」
「今世紀の戦争は、短くできたんですか? たくさんの人が犠牲になって、とても長い戦争だったと」
「こんな事いわれちゃ、ユージーンも報われないな。人類は滅亡する予定だったんだから」
「人類滅亡? そんな、そんな事ありえません!」
「神はことあるごとに人の歴史に介入してきた。滅亡を防ぐために、幾度となく策を講じたよ。そうして、今のお前達がある。誰も気づいてないんだろうがね」
「原爆を落としたのは」
まさか、違うと言って欲しい。
だが荻号はようやく運ばれてきた紅茶を恒に勧めながら、否定などしてはくれなかった。
「ユージーンだな、当時の科学者に原子爆弾作製の知識を授けた事で、歴史を動かした」
ああ、聞きたくなかった。
「……ひどい。何も罪のない人たちを」
「そう思うかもしれないけどな……滅亡を避けるため、何としてでも戦争を終わらせなければならなかった。核の力を使ってでもな」
「だからって、命をあんなに犠牲にするなんて……」
「お前ならどうする? 全人類滅亡のシナリオを、指をくわえて看過するのか? ユージーンの選択があったからこそ、お前達は生きている。それをどう考えるのかは、お前達次第だ」
恒は安易な考えで彼を心の中で責めた自分を恥じた。
だが同時に、やはり生まれたばかりの乳飲み子や、何の罪もない一般市民だって巻き添えになっている。核は全ての人々に無差別攻撃をしかける。
それが神の粛清だというのか、ユージーンは決して望んでそれを選択したわけではないだろうが、もう少しうまくできなかったのだろうか。
”できなかったんだろうな”
神にできないことなのだから、人である自分が考えたってそれ以上の結果を得たとは到底思えない。
だが、神の正義は必ずしも正しくはないのだということを、恒は荻号の言葉により、まざまざと知ってしまった。
「それは、誰が導いても同じ結果となったのでしょうか?」
恒の問いかけは、ある危険な可能性を示していた。
荻号はその風体に似合わず、紅茶にミルクと砂糖をたっぷりと入れて匙でかき混ぜていた。
恒は砂糖は入れずにいただく主義だ。
「方法がないことはないな」
「ユージーンさん、あなたのことを最高の智と力を持つ神様だって仰っていました。あなたなら避けられましたか?」
「ああ」
あっさりとよくも、言ってくれたよ、と恒は彼の人格を疑ってしまう。
ならどうしてユージーンに知恵を貸さなかった。
助言を惜しんだというのか、何十万名もの犠牲者を見殺しにして……。
ユージーンと荻号には何らかの敵対関係があるのか?
「あなたが軍神だったら、どうしますか」
「基本、人間のすることはほっとくよ。それが歴史ってもんだ」
「戦争をやめさせようと思ったらどうしますか」
「なぜ戦争を辞めさせる? 歴史も文化も進歩も何も生まれない、何も新しくならない。そんな世界線で生きたいのか? 戦争を全て止めていたなら、人類はまだ古代文明をやっていただろう。直近では、まだお前は大日本帝国にいる」
「……そう、ですね」
正論ではあった。数えきれないほどの悲劇や騒乱があって、人類は歴史を紡いできた。
「戦争を止めたければ、何十億の人間全員を洗脳すればいい」
「……!」
「でもだな、そうやって人間を思い通りに動かしたって、何の意味がある?」
彼の考えていることは、スケールが違う。
「できはするが、意味がないことはやらない。俺は陰階神だからな。生物階、つまり人の世界には関らない。陽階神が導いた結果、それがお前達の未来となる。だがユージーンの導いた結果も、間違いじゃないんだぜ?」
「俺が神様として生まれついたなら、もっとよく考えたと思います」
「お前が神なら、ねえ……わざとか?」
荻号は先ほどから、妙な独り言を繰り返している。
恒はつくづく荻号と話がかみあっていないと思った。