第2節 第12話 Place of contract
紫檀と廿日のふたりに案内され、八雲 遼生が使徒階第一層にある上位使徒のための家族寮に辿り着いた頃には、使徒階はとっぷりと暮れて暗くなっていた。
挙動不審にならないよう足音を忍ばせて紫檀の伝馬のラプタを馬小屋に繋ぎ、寮の裏口から闇に紛れ通路に入る間、幸いにして誰にも会わなかった。
そうでなければ赤い囚人服を見たその瞬間、ここ最近相次ぐ不審者情報に過敏になっている寮の住民によって、彼は神階に通報されてしまっていただろう。
寮に戻り自宅の扉を閉めると、廿日と紫檀は顔を見合わせ安堵の息を吐く。手にはじっとりと嫌な汗をかいていた。
そして休む間もなく遼生のことを紫檀に任せ、廿日は保育園に預けていた子供達を迎えに行く。
重犯罪者を匿うと決めた以上、普段と何一つ変わったことをして周囲から疑いのまなざしを向けられてはならない。
紫檀が彼の傷口のガーゼをかえると、遼生の傷は早くも回復をはじめていた。
紫檀が苦戦しながら遼生の包帯を巻き終えたころ、廿日に連れられた子供達がくたびれて戻ってきた。
迎えが遅かったことに腹を立てて、ふたりとも不機嫌そうに眉毛を吊り上げている。子供達はいつものように帰宅して、いつもと違う人物が父親とともにソファーに座っているので驚いて立ち止まった。
廿日が間に入り、子供たちを遼生に紹介する。
「私たちの子供で、双子の檸檬と八朔です。ほーら、こちらが神様よ。こんばんは、は?」
「かみさまって?」
檸檬は不審そうに廿日の陰に隠れながら尋ねた。
「アトモスフィアを下さる方だよ」
遼生が気をつかって彼らに頭を下げかけたところで、少女が唐突にべーっ、と遼生に舌を出した。
ざあっと、夫妻の血の気がひいてゆく。
「えーやだ、きらい。お注射するんでしょ!」
そう言った瞬間にパコン、と檸檬は後ろから母親に頭をはたかれた。
「こら、なんてこと! 私たちは神様から直接アトモスフィアをいただくことができないから、お注射するんでしょう。それに私たちには神様がいなければ生きていけないの、失礼なことをしないで」
「もう何百年も、下手したら一生お会いできないかもしれない有難いお方なんだから、よーくお祈りしておき」
今度は紫檀が言い聞かせた。
「おいのりって?」
「もう、この子ったら……す、すみません。お見苦しいところを」
廿日は恥ずかしそうに息子の八朔の口を押さえた。神という存在が使徒にとってどれほど貴重な存在であるか、両親は子供達に一切の説明を怠っていたからだ。
多少の言い訳をするとすれば説明を怠っていたのではなく、神が何たるかということなど知っていても神に見える機会など皆無なのだから、説明する必要すらない……その程度に考えていた。まさか自室に神を招き入れる機会があろうとは、夢にも思わなかったわけである。
「はは、注射が嫌いなんですね」
遼生がお茶を濁してばつの悪そうな顔をしているので、彼の腕の無数の注射針の痕を思い出した廿日は慌てて謝罪だ。
「申し訳ありません、八朔は平気なのですが檸檬の方がアトモスフィアアレルギーで。バンクのアトモスフィアは合わないものがあるので、合うものを捜して何度も注射をしているうちに注射が怖くなったみたいなんです」
軍神のいない軍神下使徒階の使徒は、アトモスフィアバンクからのアトモスフィア供給に頼っていた。
それまで先代軍神のアトモスフィアで何も不都合のなかった檸檬は、他神のアトモスフィアのロットになって全身に蕁麻疹が出てしまったのだ。
あれでもないこれでもないとロットを変えて試すうち、どうやら彼女は老神のアトモスフィアを受け付けないようだと判明したが、それがはっきりとするまでに随分とテスト用の注射を打たなければならず、泣かせることになった。
遼生はそんな事情を聞いて、おずおずと申し出た。
「では今月はもう、注射しなくていいようにしてあげるよ。僕のが合えばいいけど」
遼生は手を差し伸べると、“気圧の差”を感じさせないようアトモスフィアの放散を抑えて手加減をしつつ、なにごとかとのけぞる檸檬を抱き上げる。
彼女はそれと分からなくとも使徒の本能として、潤沢なアトモスフィアをスポンジのように吸収する。
アトモスフィアを受け取った彼女の表情はとろんとして、心地よさそうに遼生にしがみついていた。
彼女が腕の中で眠ってしまいそうになったので、彼は今まで座していたソファーにそっと座らせた。
「どう、嫌じゃなかった?」
「……う、うん」
ぱちくりと、目を見開いたまま彼女は瞬きも忘れている。
「うんじゃなくて、はい、は?」
紫檀に言葉遣いを直されつつもうわのそらで、檸檬は不思議そうにいつまでも遼生を見つめていた。
双子の姉を見て何が羨ましいのかも分かっていないくせに羨ましくてたまらないのが、弟の八朔である。
「僕もー! 姉ちゃんだけずるいー!」
何でも同じでないと気がすまないのが双子というもの。
遼生は手間を惜しまず、手を伸ばしてくる弟を担ぎ上げた。
彼は抱き上げられると借りてきた猫のように硬直して、途端におとなしくなった。
「ありがとうございます、なんと畏れ多いことを」
「これくらいさせてください、僕もあなた方に助けていただいたのですから」
遼生が分けへだてなく姉弟にアトモスフィアを与えている様子を見て、廿日は感動すら覚えていた。
神階は何故彼のような温厚で細やかな気配りのできる神の存在をひた隠しにし、あまつさえ虐待を加えなくてはならなかったのかと思うと怒りがこみ上げてくる。
彼はよい神だ、廿日は心からそう思う。
たとえ彼がどんな秘密を隠していようとも。
「すみません、まだ本調子ではないのに」
「いいえ、これしきのこと」
「パパー、れもんねー、お兄ちゃんに抱っこしてもらって元気が出たの」
檸檬は一生懸命、彼女が経験した奇跡的な体験を紫檀に報告をしている。
廿日はパスタを茹でて簡単に夕食の準備をしながら、キッチンの向こうから盆に茶を載せて出した。
紫檀は席を立って妻の代わりに遼生に茶をすすめ、やかましい双子の子供たちにはジュースを握らせた。
「本当は神様に触れていただけるのは第一使徒だけなんだよ、とても特別な事をしていただいたんだ。よく御礼を言いなさい、ありがとうございます、は?」
「ありがとうございます~」
ふたりともジュースに夢中になって礼がおざなりなので、紫檀は渋い顔をしつつ改めて檸檬と八朔の頭をおさえてぺこりとやらせた。
「じゃ、だいいちちとにならなかったらずっと注射?」
「そうだ」
「やだー! お兄ちゃんずっとここにいてー!」
檸檬と八朔はジュースを放り出し遼生の両隣に陣取ると、赤い囚人服の裾を握って離さない。
檸檬などは遼生のひざの上に乗って動かない作戦のようだった。
「……そうだね」
遼生はゆるゆると檸檬の頭を撫でながら、曖昧な返事を返した。
家族、か……。
遼生は彼らのやりとりを微笑ましく見守りながら、彼らを少しだけ羨ましい、と思うのだった。
家族の温もりなど知らなかった。
彼らは最初から家族ではなく、彼らにとって遼生は実験動物以外のなにものでもなかっただろうから……期待するのもばかげている。両親が自分を造ったその意味を考えると、遼生の表情に暗い影が差す。
神に家族という関係そのものが成立する筈はないのだと分かっている。どれだけ自らに言い聞かせて自らを欺いても、それが運命なのだと受け入れてさっぱりと飲み干せるほどには、彼は強くない。
実験体にもの思う権利などない。
まして心などあってはならない。
ならばいっそ思考回路も自我も破壊して抗体を生み出すだけの完璧な生体部品にしてくれと、青華に懇願したこともあった。だが母親は遼生に心を残した。それが彼女の慈悲だったのか残忍さだったのか、遼生には未だに分からない。ただ、彼はもう青華のもとに居てはならないと感じて、着の身着のまま、彼女のもとを飛び出した。
「神様?」
表情を曇らせた彼の顔を、テーブルの上に出したパスタを盛り付けていた廿日が覗き込むと、誤魔化すように愛想笑いを浮かべた。
辛い過去を乗り越えてきたのだろうな、と廿日は彼の短い生涯を慮る。
壮絶な過去を乗り越え、彼は優しくなれたのかもしれない。痛みを知っているからか、優しくされたことなどなかったのか。相手に優しく出来るのは傷つきたくないという防衛本能の裏返しだ。
「私の私服で申し訳ないのですが、よろしければこれをお召しください。その服は神階では目立ちます」
紫檀は廿日が食事の用意をしている間に、手頃な私服を遼生に持ってきた。
彼は申し訳なさそうに礼を述べ、ポンチョのような囚人服を脱ぎ袖を通す。
さきほどのみすぼらしい姿とは違い、年相応の少年のようないでたちになって立派に見える。
紫檀は囚人服を受け取り、片っ端から鋏を入れて長方形に切り刻んでいった。
雑巾を作って家事に活用した後、一枚ずつゴミの日に出して証拠を隠滅するのだ。
「しかし何故、このようなものをお召しになっていたのですか? 重罪を犯されたのでしょうか?」
「僕は実験体として拘束されていたので……逃亡を防ぐ為です。重犯罪者の囚人服では逃げられませんから」
遼生は詳細を伏せたまま、白状した。
重犯罪者だと誤解されたまま釈明ができなければ、紫檀と廿日はいかに好意的に接してくれるとはいえ、警戒心を強める。ましてや彼らは子連れだ、子供を危険な目に晒してまで犯罪者と行動をともにできる道理もなかった。
「じ、実験体? あなたが? なんてことをっ……い、違法行為ではないですか! 神体実験は法で禁止されています! 誰にそんなことをされたのですか! その者の名を明かしてください、これは告発せざるをえません!! 法のもとにその者の悪事を……!」
廿日が予想通りの反応をみせたので、遼生は視線をますます伏せた。
「自ら望んでそうなったのです。同意のうえでのことならば、法には触れません」
「同意……未成年からは同意を取れません。あなたは……正気ですか! どんな実験をされたのです」
廿日は喉の奥から、苦いものが上がってきた。
せっかく作ったパスタを前にしても食欲がそがれる、何の故あって虐待に耐えられる? 望んで実験体になったというのか? 彼にとって何かメリットがあるというのか? 自ら望んでそうならざるをえなかった……彼は何を代償にとられていたのか。
その代わりに彼は何を得たのか。廿日がそれ以上踏み込んで真相に迫るのを、彼は無言で拒んだ。
優しく穏やかな表情でいて、彼ははっきりと拒絶の意思を示している。
「思い出せません。ですが覚えていることもあります。もう駄目だと諦めて、遠い死までの時間を待っていたとき――暗闇の中に弟の気配を感じました。彼は僕を救ってくれました」
恒が遼生に看破をかけたときには恒のマインドギャップは解放されており、遼生は朦朧とする意識に侵入してくる恒の精神波に晒されつつ、彼の混濁した思いを読み取った。
恒が死地に赴く前に遼生を癒そうとしたのは、もうこれで最期だと悟っていたからだ。せめて最期に、何か出来る事をしよう。助からないものなら、助かるもののために……そう考えた末の行動だった。彼はもはや生還しないと、覚悟を決めていた。
地平線の向こうからやってくる死をただ待つより、全力で死に往こうとする行為。
そっちの方がずっと怖いだろう、辛いだろう? 遼生の問いかけに、恒は答えなかった。
彼を止めなくては。
遼生はその思いに引き摺られ、顔も姿も知らぬ彼のために身をもたげ立ち上がったのだ。
遼生にとって守らなければならない存在がいるとしたら、父親でも母親でもなく、今は間違いなく恒だと思う。
まだ間に合うかもしれない、どうか、彼の鼓動が続くうちに――。
「そうだったのですか。申し訳ありませんが、私たちの身分では極陽の庇護下にある藤堂様へアポイントを取る事は難しいのです。今すぐ申請しても審査まで少なくとも数日を要します、よろしいですね」
それでは駄目なのだと、遼生は首を横に振る。
紫檀夫妻が恒のもとに案内する意思がなければ、すぐにでもここを出てゆくつもりだった。
「急ぎます。あなた方に無理は申し上げられません。自力で会いに行きます」
腰を上げた途端に紫檀が彼の腕を引っ張り、また着座を強制された。遼生は強いまなざしで紫檀を見つめる。
邪魔をするというのなら、紫檀を振り払ってでも恒を追う。
「危険です! 極陽の周囲は破格の警備体制が敷かれています。不審者と認識されれば、たとえ神様でもお命はありません」
遼生もめげずに、穏やかに反論する。
「連続転移術で目くらましぐらいはできると思います」
今度は廿日が彼をひきとめた。
「確かに連続的瞬間移動を繰り返せばモニターには映りません。並の使徒なら欺けるでしょう。ですが、天奥階の警備を甘くみてはなりません。見つかったら最期です! 失礼ですが、武芸の心得はありますか? その華奢な御体、とても訓練を受けたようには覗えません。天奥階ではフィジカルレベル 5000を超える第二種公務員の神々が、極陽を守っておいでなのですよ。私達はあなたに無駄死にをしていただきたくない、正規の手続きを取れば時間はかかりますが確実に藤堂様にお会いできます。そうしてください、後生ですから」
そう言えば怖気づいて、思いとどまってくれると廿日は思った。少年神からみた成神は強大なアトモスフィアを備える、威圧感の塊。
ましていざ戦闘となると足が竦んで動けるものではない。泣いて土下座をするのがせいぜいのところだ。
ひょっとすると釈明も聞いてもらえず瞬殺されてしまうかもしれないし、そうであっても文句一つ言える雰囲気ではない。
天奥階への侵入者はテロリストと同義と定義づけられ、ただちに抹殺されるべきだった。
遼生は廿日の必死の説得を聞いても少しも怯まず、控えめにこう述べた。
「何も問題はありません。フィジカルレベルなら7年前に6万を出しています。多少衰えているとしても5万は確実にあります。行かせてください」
「6万?」
あまりに突飛な数字を出されて、夫妻は唖然となってあやうく思考停止をしかけた。
桁が一つ二つ多いんじゃないか?
そんな事も考えた。第二種公務員のフィジカルレベルとは一つ桁が違う、枢軸武型神の出すそれと同等の――。
紫檀はそこまで言われて、彼の言葉を信じないではなかった。彼に触れて感じたあの感覚……電流を喰らったように手足が痺れる、それでいて力が漲るような……あれは極端に強い神と極端に脆弱な者が接触した時に感じる”気圧の差”、だったのかもしれないと気づいたからだ。
少年神が枢軸並みの強さを備えているとはどうしても信じられなかったために身体が素直に反応できず、それだけの判断もつかなかっただけであって……。
フィジカルレベル6万といえば、2万を備える藤堂 恒の純粋に3倍ということになる。
アカデミーの中でも傑出している学生であるという、アカデミー特待生として優遇されている恒を軽く上回る実力だ。
彼が第二種公務員を危ぶまず、単身で天奥階に侵入できると言い張るのにも説得力がある。
紫檀は以御に連絡して、彼の為に恒との面会のアポイントを取ってもらおうかとすら考えた。
旧第一使徒の以御の名義ならば面会まで一日は確実に短縮できるし、一番確実な線ではある。
何しろ彼の姉は比企の第一使徒そのひとなのだから、事情を話せば必ず会わせてくれるだろう。ひょっとすると明日にも面会が叶うかもしれない。
だが遼生は一刻の猶予もないといわんばかりに浮き足立っている。恒に会って何をするのか分からないが、彼はもう待てないのだ。
彼を危険な目に合わせたくはない、そういう安易な気遣いは彼にとって、迷惑なものでしかないのだろう。紫檀は苦しそうに諾した。
「分かりました。私はあなたを藤堂様の御前にまでは、ご案内することはできません。私も命は惜しい、守るべき妻子もいます。私達にできるのは神階のゲートの外までお連れし、その後の順路を説明することぐらいです。くれぐれもお気をつけて。確かにあなたは第二種公務員の神々より格上かもしれません、ですが万が一にも比企様、今上極陽に見つかったら……お分かりですね」
遼生はなかなか返事をせず、表情をこわばらせた。
「7年前には第二位神であらせられた、比企様が今上極陽ですか?」
遼生は記憶の隅で溺れそうになっていたうろおぼえの記憶を引っ張ってきた、覚える必要すらもないと思っていた神々の世界の序列。
記憶はかなり曖昧なものだが、比企の名ぐらいは知っている。
紫檀はあまりに遼生が的を射ない顔をしているので補足した。
「え? ええ。ヴィブレ=スミス殿が崩御されて……」
「……! ……そ、そうですか」
父はもう、崩じていたのだな。
遼生は肉親の死を、客観的な事実として認識するにとどまった。
父親に指一本でも触れられたことのない遼生には、彼に対して何の感情も、込み上げてきてはくれなかった。
弟は彼の死を、悼んだのだろうか? 少しでも悲しいと思ったのだろうか? むしろそんな事が気になった。
「まさか、ご存知なかったのですか」
紫檀は申し訳なさそうに口元を押さえた。紫檀は何も知らないのだ。
「ええ」
遼生は返事のかわりに小さく頷いてみせ、今度こそソファーから立ち上がった。
*
ファティナ=マセマティカと織図 継嗣が崩壊寸前のEVEから生還して、それから早くも数日が経とうとしていた。
二柱はあの日以来一睡もすることなくデータを修復し続けて、コンピュータールームに缶詰になっている。
演算処理能力から考えても本当はヘクス・カリキュレーション・フィールド内で行いたい作業だが、電脳空間での作業では精神が無防備になることを懸念して避けるしかなかった。
特に今回のデータを扱うにあたって、精神的に侵食されないよう細心の注意を払わねばならないからだ。
静かな室内にこだまする、二柱の弾くキーの音だけが無機質な印象を強調している。
織図から見たファティナの指先は疲れを知らない精密機械のようだ。
一方の彼は現実空間での端末操作はそれほど得意ではない。データは二柱x数日分の作業量でようやく30%ほどが回収されてきている。
そのうち殆どが、ユージーンの過去の記憶を占めていた。織図とファティナが必要としているのは彼が INVISIBLEに抹殺されるほんの寸前、極論を言ってしまえばたった数日の記憶でよいというのに、その周辺のピースがごっそりと見つからない。
破壊された彼の記憶を繋ぎ合わせ、順を追って垣間見てゆくのは決して心地のよい作業ではなかった。
心情的には、安らかに眠っていた死者の墓を暴くのとあまり大差ないからだ。
彼の記憶は一言で言うと、乾いていた。
何故、よりによって彼が? ファティナは信じたくない。温和な微笑みの仮面の裏に虚無感を抱えて生きていたなどという、そんなことは。知りたくもなかった、気が滅入ってくる。
静かな室内には似つかわしくないけたたましい雑音がどこからともなく聞こえてきたかと思うと、それを合図にふらふらと織図が立ち上がった。
徹夜続きでふらふらになるのは珍しいことでもなんでもないが、さすがに彼も扱うデータの種類が種類だけに、まいっていた。
携帯の着信があり、彼はため息ついでに舌打ちも添える。肩まで伸びたドレッドヘアを後ろ手で束ね、深く被った黒いルーズワッチの中に突っ込みターバン風に整えると、息を吸って深呼吸をする。
着信音の種類から、特務省からの連絡だとわかっていたからだ。
「やべぇ、マジか!」
彼はメールを確認し、うるさい着信音のうえにもうひとつ騒ぎ立てた。
「どうされました?」
携帯の画面を見て織図の表情が硬直する様子はおのずと伝わってくるので、顔だけ遣して熱心にキーボードを叩いていた彼女もようやくその手を止めた。
「特務省に呼ばれた。レイアが見つかったんだ……。もっともつかと思ってたが、見つかるの早すぎだろ。INVISIBLEの野郎も、もっと時間稼げよ」
最後の一言はさすがに不謹慎だったか、と彼は口をつぐむ。
織図はレイア=メーテールが失踪したという情報が入ってから、じきに特務省から召集がかかることを予測していたが、まさかこれほど早いとは。
それだからこそ最果ての谷に向かい、ジャンクデータを回収して解析を急いでいたというのに……あと少しのところで間に合わなかった。ここで打ち切りだ、続きは帰ってやるしかない。
織図は入念にバックアップを取りながら制服に袖を通し、特務省に向かう支度を始めた。
「お出かけになるのですか」
「ボイコットしたいのはやまやまだが、そういう選択肢が許されないんでな……サンキュ、もうここまででいい。後は自分で何とかするさ」
織図は手を伸ばしてファティナが解析したデータをハードディスク内に統合しようとしたが、その手を彼女にしっかりと押さえられた。
「データ、くれよ。できたとこまででいいから」
「すぐにお戻りになられるのでしょう?」
「いや、暫くは戻れん。久遠柩を発動させるとすれば、俺も封術の支柱になるからな」
織図はファティナに特務省の動向を隠す気もなかったが、ただ単に説明を省略した。
そしてファティナも特に興味を示さなかった。そもそも位神が上位組織である特務省の動向や用務を職員にしつこく尋ねるという行為自体、許されていない。
「クオンキュウ、とは何ですか? 暫くとは、どのくらいでしょう? では織図様が不在の間も進めておきます、お任せください。あなたがお戻りになられる頃には、データを修復してみせます」
彼女は愛想よくそう言ったが、織図は頑なに秘匿した。
「ファティナ。手伝ってくれる好意に甘えちまったが、これ以上は正直手をひいてほしい。ここらへんが潮時だ、ご苦労だった」
「そんな……ここまできて部外者扱いだなんて、あんまりですよ!」
彼女は唖然としたのち、恨めしそうに織図を睨みつけた。どうして睨まれているのか、織図にも分かっている。
これは織図一柱で取ってきたデータではない。
ファティナの好奇心を掻き立てるだけ掻き立てておいて生きるか死ぬるかの瀬戸際まで追い詰めておきながら、ここまできて蚊帳の外は酷い、そんな論駁には一理も二理もある。だがわかってくれ、と織図は言い訳に思案を巡らせつつよく馴染んだデスクの上に腰をかけた。
「悪く思うな。ユージーンがINVISIBLEに消された時、俺は奴が何かINVISIBLEの気に障るような事をしたんだろうと思った。そうでなくて、存在そのものをなかったことにされた奴が他にいたか? いや、実際にそういう方法で消されちまった奴はいたのかもしれないが、とにかく俺らが知る限り奴しかいないんだ。ユージーンは何かを知ってしまったか、何かをしてしまったんだ。それもINVISIBLEに相当に都合の悪い事をな……だからファティナ。そいつを暴き出せばきっと、INVISIBLEの真実が見える。あわよくば弱点もな……だが、知識を得る事が何を意味するか分かるだろう? 俺のバイタルロックもINVISIBLEの前には効かんかもしれん、だがそれさえできないあんたよりましだ。ここから先は俺ひとりでやらせてくれ」
織図は口にこそしなかったが、真実に辿り着いた織図の身がどうなっているか、ファティナにも察する事ができた。
彼女は両手で顔を覆って暫く考え込んでいたが、諦められなかったようだ。
「ずるいですよ……織図様。そんなのずるいです。私も真相を知りたいのです」
「スケベだな、お前も」
織図は呆れたように、多少の苛立ちを抑えながらばりばりと頭をかく。
「ええ、おかげさまで」
賢者のローブの下に隠された華奢な神体は頼りないが、彼女の意気は頼もしい。
織図は実直で誠実な彼女を巻き込んでしまったことに、謝罪をしたい気持ちでいっぱいになった。
「よいのですよ、気に病まないでください。織図様。INVISIBLEの謎に近づくことができるというのなら、何を怖じる事がありましょう。何を引きかえにしたとて、全てを知りたいのです。復旧、進めておきます。進めさせてください。私たちの命運すらINVISIBLEの掌中に握られているというときに優等生を気取って保身を図っていても」
彼女は景気をつけるように作業を再開し、パン、と軽快にキーボードを弾いて微笑んだ。
「そんなの、つまらないでしょう?」
織図は強がってみせたファティナを、それ以上引きとどめることができなかった。
困惑した表情を不器用に隠しながら鼻を鳴らす。ずっと無難で安全な道を歩み続けてきた彼女が、敢えて道を踏み外すと言っているのだから、織図が面食らったのも無理はない。かける言葉が見つからず、口をついて出たのはこんな一言だ。
「ハッ……こりゃ驚いた。まさか数学神ファティナ=マセマティカが “つまらん” なんて言葉を知っているとは思わなかったからな」
「まあ、失礼しますわ」
女神は上品に笑う。
無骨な織図とは正反対の、陽階神らしい美声でだ。
「好奇心に命を持って行かれなければいいがね。せめてバイタルロックでもかけてやれればいいんだろうが、生憎自分以外への適用を知らなくてね……あんたも覚えるか?」
織図が禁を犯して秘儀を明かせば、ファティナにもバイタルロック(生命力施錠)の習得ができない理由はない。
織図は別に死神として生まれついたわけでもないし、バイタルロックもEVEの職務上必要な技術として即位してから習得したものだ。織図だけにしかできないとはいえ、言い換えれば死神として即位をすれば誰でも習得をすることができた。ただし、どんな物事にも向き不向きというものはある。織図はたまたま向いていたようで、簡単に習得したものだ。
「そんな大変な秘術を、おいそれと一般神に明かしてもよいのですか? あなたにしか出来ないからこそ価値があるのです。必要ありませんよ。もしも真実の探求に命を捧げることができるなら、それは数学神としての本懐です」
こういう融通のきかないところは、いかにもファティナらしい。彼はすっかり白衣に着替えて特務省職員の顔つきになると、茶目っけたっぷりにこう言い残した。
「そっか。だったら、俺が戻るまで袋とじを切るなよ」
「袋とじ、とは?」
ファティナに言っても通じない冗談だったな、と織図は多少反省する。
「パズルの最後のピースは、とっておいてくれということだ」
織図は薄く微笑んで、コンピュータールームから出て行った。
*
室内で栽培する薬草の一株一株に、荻号はたっぷりと水を与えている。
アルシエルはその光景を半ば呆れながら眺めていた。
INVISIBLEの収束を目前にして、グラウンド・ゼロからいくらも離れないこの土地に居座ってこの落ち着きようだ。
生物階に迫る危機を感じていないのか、それとも知っていて敢えて何も対処をしないのか、 アルシエルには分かりかねる。
「暢気なものだな。汝に悩みはないのか」
荻号は他人事のように面倒くさそうにカラ返事をした。
「悩んでどうにかなるものなら、いくらでも悩むがね」
「生物階もABYSSと同じ道を辿ると分かっていても、か?」
窓を開けてすぐ外の薬草を何枚か摘み、無造作にすり鉢に入れるとゴリゴリと薬を調合しはじめた。
小瓶に入った青く怪しい液体を加え、それらはしだいに青緑色となって粘度を増す。
これが何の気休めになるものか、アルシエルにはますますもって理解できない。
リビングにいる朱音のちょうど真後ろの椅子に腰掛けて荻号と話しているアルシエルは、皐月から白いミニ丈のカットソーワンピースを借りて、ざっくりと着こなしている。
朱音の趣味に任せて髪型をエアリーボブにカットされ、ラフに椅子に腰掛けている様子など、まるで雑誌モデルのような存在感を醸し出していてクールだ。
ふたりとも迂闊な事を喋らなければ、映画の主役を張ってもおかしくない美男美女なのにと、朱音が彼らを見るたび残念に思うのは今のところ内緒だ。
「まあ……比企がそろそろ行動を起こすだろうな」
「行動?」
アルシエルが荻号の言葉を反芻したとき、テレビから聞き慣れない電子音が鳴って、荻号は手を休めて口角を引き締めた。
「……言った端からきやがったな。朱音、少し音量を上げてくれ」
ゴールデンタイムのお笑い番組が中断され、ニュース速報でなにやら海外の中継映像が映し出される。
朱音のお気に入りの芸人のネタがすっかり潰されてしまったが、荻号が真剣に見入っているので不満を訴えるわけにもいかない。
振り向いてあやうくアルシエルと目が合いそうになったところで、朱音は逃げるようについと視線を逸らした。
困ったことに、朱音はいまだに彼女と正面から目を合わせられないのだ。
アルシエルはあまりにも美しく魅惑的すぎて隙がなく、胸も大きくて目のやり場に困る。
むろん、彼女の女皇や貴族のような物言いに威圧されてもいた。そして一方のアルシエルは、朱音に避けられているのだろうと誤解をしていた。
つまり彼女らは互いに遠慮をしあっていたというわけだ、いがみ合っているのではないのだが……荻号はそんな彼女たちの関係をとりもつこともしなかった。
「あ、はい。あ、どの局も臨時ニュースですね」
朱音が慌ててボリュームを上げると、近頃はすっかり見慣れた国連事務総長が、各国メディアの記者団に囲まれて会見を開くところだった。
事務総長は蒼白な顔で言葉を詰まらせながら演説をし、たどたどしい同時通訳と共に放映されている。
その概要は、地球の周回軌道内に巨大隕石群が突如として観測されたので、全人類的に緊急避難を行わなければならないという、不自然きわまりない説明だった。
こんな内容の映画、いくらでもタイトルを挙げられる。
映画のワンシーン、にしても陳腐にすぎる。
まだエイリアンが攻めてきたと言わないだけましか、などと辟易しながら、何気なく宇宙人だらけの部屋を見渡して閉口する。そうだった。すっかり忘れていたが、朱音も含めこの部屋にいる全員が全員、人間ではないんだっけ、と朱音は思い直す。
「……生物階の首脳陣は有能だな。国際宇宙ステーションを極秘裏に建設しておったか」
アルシエルは国連の対応に驚嘆している。
人類は有事の際にいつでも地球を見捨てる事ができるよう、そのような大規模かつ効果的な対策を講じていたというのだから。
宇宙ステーションがあればABYSSの滅亡を防ぐことができたかというとそれは全く別の話であり、不可能だったであろうといわざるをえない。
ブラインド・ウォッチメイカーの襲撃は突発的なものだった、避難が間に合ったとも思えない。
だが、どうすれば彼女の臣民を救えたのか、いまだに答えを求めている。
ABYSSは本当に、滅びなければならなかったのか。
荻号は事務総長の説明を真っ向から否定した。
「スペースシャトルで物資の打ち上げをちまちまやって、しかも打ち上げた端から人工衛星が落ちてくるようなお粗末な科学力で、生物階の人間全員を避難させられるほどの巨大宇宙ステーションが建設できるもんかね」
朱音もそれは荻号に同意だ。
アルシエルは生物階の実情と科学技術水準を知らないので実現可能だと思っているのかもしれないが、人工衛星の打ち上げが成功しただ失敗しただと新聞をにぎわせているようなレベルで、いつ巨大宇宙ステーションが完成する余地があったのか、甚だ疑問だ。
宇宙ステーションと曖昧にぼかされた謎の宇宙建造物は、つまり神階のことなのだろう。
「では、神階の関与か」
「どうせ、比企が裏で指図してるんだろ。生物階の首脳部は比企と通じている。それに、どの生物種が滅んでも復元が可能なよう、比企は生物階の全ての生物の遺伝的バックアップを、長い時間をかけて執拗に取ってきたからな。あとはINVISIBLEの収束の前に生物階に住む人々をどうするかってことだ。こっからは人道的な話になっちまう。比企は人々を見捨てはせん、その決意の表れがこの三文芝居なんだろうさ」
荻号は水面下で繰り広げられているであろう事の顛末を、とても推理とは思えないほど確信を持った歯切れのよい切り口で解き明かしてゆく。
「生物階の総人口と神階の面積の関係を考えると、人類を一人残らず神階に上げる事も不可能ではない。だが全ての動植物を神階に上げる事は不可能だ。ノアの箱舟も、そうは大きくないんでな。さて、そこで何を切り捨てればいい? 人間を救って動植物を見殺しにすることが公平か? 違うはずだ。比企は動植物を一定数保護するだろう。そして、奴は人々にこう呼びかける」
荻号は一人語りのようにすらすらと今後のシナリオを予想しながら、結論付けた。
「助かりたい者は乗れと。ただし、こうも言い添える。神階に入った者は富める者も貧しき者も全て公平に扱われ、一切の財産の持ち込みは許されん」
テレビ画面の中では、避難をする意思のある者はいつまでにどこに集合しろとアナウンスをしたその直後、世紀の大ニュースの報道という大役を任され興奮が頂点に達していた同時通訳は、あろうことか荻号と全く同じ意を繰り返した。
『宇宙ステーションはその収容定員が既に限界に達しているため、荷物を持ち込む事ができません。また、ステーションへ避難後は如何なる指示にも従っていただきます。なお、避難は強制ではありません』
「でも、みんな避難しますよね?」
そんなの、誰だって助かりたいに決まっている。
何を馬鹿なことを、と朱音が口にしかけたとき、荻号はさも愉快そうに机に頬杖をついて、怪しい薬を練っていた。青緑色だったそれはしだいに黒っぽい艶を帯び始めた。
「そんなもんじゃないぜ。人間てのは複雑でな。様々な理由で、様々な人間が残るだろう。住み慣れた土地を離れるぐらいならその土地で死にたいっていう殊勝な奴、家畜やペットを見捨ててはいけんという奴、財産に執着して地上を離れん奴、話を信じない奴もいるだろう。それに神階に入る人間はどんな人間でも平等になる、たったそれだけのことに我慢できん奴もいるのさ。比企はそいつらを切り捨てる」
「でも、そんな線引きのしかたって……」
不公平だ、朱音はそんな言葉を喉の奥に飲み込んだ。
助けてもらえるだけでも、有難いというべきだった。
同族でもない異星人を彼らの社会に迎え入れてくれるというのだから。
朱音は比企と言われてすぐさま、その顔を思い浮かべることができる。
荻号の家を定期的に訪ねる彼と何度か会ったことがある、頭の先から足先まで純白の装いをした、美しい青年神だ。神々の長という割には、随分若く見えた。
荻号が外出をして家をあけていてたとえ朱音とふたりきりになったとしても、比企が挨拶以外に朱音とまともに口をきいてくれたことはなかった。
荻号いわく、彼はただ真面目で無愛想なだけだということだが、どうもとっつきがたくて馴染めない。
偉い神様だから気軽に声をかけてはならないと思い、こちらから率先して話しかけなかったのがいけないのか、何度会っても氷のように冷たい印象が拭えない神だった。
あまりに色白な肌から血の気すらもないように見えた比企が、人類救済の為に随分と血の通った決断をしてくれたものだな、と朱音は思う。
「自然淘汰ってのは無情なもんだ。それにジーザスって奴がはっきり言ってただろ? “子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入る事はできない”(マルコ福音書 10章 13-16)、ってな」
「あるいは、“富める者が神の国に入るより駱駝が針の穴を通る方が易しい”、か。いずれにせよ」
彼女は気まぐれにもうひとつ聖句を引用すると、ちょうど体育座りのような格好で椅子の上に丸まって、いじけたように顔を膝の間に埋めた。
彼女は猫のようでかわいらしい、うっかりと口に上りそうになった朱音の感想は心の中にとどめておく。
「恵まれておる、生物階は」
アルシエルはABYSSには齎されなかった救いというものを、目の当たりにしていた。
荻号は何の効能があるとも知れない怪しい薬を完成させ、誰に飲ませるのかと思えば、自ら服用していた。
その黒い粘液を見るだけで、朱音は荻号の胃腸が心配になってくる。
あんな得体の知れない液体を飲んで、果たして大丈夫なものだろうかと。彼は黒い液体を飲み干したが、まだけろりとしている。
「それだけ人間が長い間、神を信仰してきたって経緯もあるからな。あれだけ神の国が来るっていっておきながら、いざって時に来ませんでしたってのも、それはそれで一種の詐欺だろ?」
ABYSSまでは救えなかったが、神階は人々を見捨てない。
比企は報われないかとも思われていたであろう、人々の信仰に応えたのだ。
それは長い歴史の中で培われてきた神々と人々との絆。
そして何度も交わした契約の証が、現代において結実したものなのかもしれなかった。