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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第11話  Found by the couple

「ここにいたのか」


 抑揚のない落ち着いた声とともに、周囲がいちだんと眩く照らされる。

 振り返るまでもなく、恒は聞き慣れた声の主を知っている。

 比企が玉座を離れ神階から恒を追ってきたのだ。

 比企がグラウンド・ゼロの地を踏むのは何度目になるものか、彼のフットワークは歴代主神のなかでも最も軽い。


 極位神の強大なアトモスフィアはよい意味でも悪い意味でも生物階を騒がせる。

 寝静まっていた鳥を驚かせ、小動物を怯えさせ、木々は啼いている。

 比企の代となって主神の降下は珍しい事ではなくなっていたが、比企は生物階への影響を懸念して、生物階降下の直後アトモスフィアの放散を絶った。


 恒は比企の目を避けるように、レイアの手紙をポケットにおさめる。

 何故と問われればなんとなく見せたくない、としか形容できない。


 比企はいつも正しすぎる、比企の中では善と悪の間には何もないのだ……レイアの手紙は善と悪の中間にある揺らぎに引き摺られた、非常に曖昧な内容。

 比企には理解できまい、いや、彼は理解しようとはしてくれないだろう。

 恒はある意味、比企にすら頼る事ができなかった。


「レイアを見失ったか」


 絶対領域たるフェンスの外側から、彼らという観客たちはからっぽの劇場を見つめている。

 滑稽なものだと比企は感じたが、恒を責める気は毛頭なかった。荷が重すぎるのだ。


「申し訳ありません」


 恒は項垂れるように比企に頭を下げ、フェンスに背をもたせたまま、そのついでにずるりと座り込んだ。

 先手を打って謝罪をされてしまうと、比企もかける言葉が見つからない。


「汝の責任ではない」

「……彼女を目の前で失いました。どうすることもできませんでした」


 懐柔扇を持つ比企ならばレイアを救う事ができたのかもしれない。

 だが比企が傍にいたらどうだった、など考えるだけ無駄だった。

 比企は偶然にか必然にか、そこにいなかった。そしてレイアを救えなかった。

 結果が全てだ。

 その因果は既にINVISIBLEによって導き出されていた。

 どうすれば万全だったかなど……考えても無駄だ。


「まだ自暴自棄にはなるな」

「自暴自棄?」


 恒は不満そうな表情で比企の言葉を反芻する。

 そして勘の鋭い恒は、比企の意図を察しつつあった。

 しかしまた、比企も恒が『何の話をしているのか理解している』、という事に気付いている。その結果、比企は断定した。


「絶対不及者の体液は己の手のうちにある。汝の思うようにはさせん」

「……」

「死ぬるのだぞ。確実に」


 無表情のまま沈黙する恒に、比企は畳み掛ける。

 両者の間に痛いほどの緊張が高まったとき、恒はその糸を故意に断ったのだった。


「極陽……何のお話ですか? お話を理解しかねます」


 恒はさも失望したように比企を見上げた。

 その乾ききった視線に比企は背筋に薄寒いものを感じながら、恒の言葉を繰り返す。


「理解しかねる、のう」


 比企は目を細めながら、次の決め手を用意している。

 岡崎から比企に返された腕時計を恒に押し付けるように渡す。

 それを見た恒は一瞬にして岡崎と比企との間に交わされたであろう遣り取りを想像することができたが、彼の表情には疾しさなどおくびにも出さなかった。

 比企は厳しく問い質す。


「これを岡崎のもとに忘れたな。肌身離さず持ち歩けと申しつけた筈だ」

「失念しておりました……何しろ気が動転しておりまして。どこで落としたものか」

「気が動転して岡崎に何の用がある」


 比企の追及は容赦ないが、彼と二年半を過ごした恒も彼との遣り取りは慣れたものだ。


「気の迷いです。何故岡崎様のもとを訪ねたのかも記憶にありません」


 辛辣な言葉と感情を殺しつつも刺々しさを剥き出しにしたまま、両者は表面上の言葉の応酬を続ける。

 比企と恒のマインドギャップはまったくの互角、そして心理戦は恒の得意とするところだ。

 恒が知らないと言えば、話はもうそれで終わりだった。

 比企はそれ以上追及できない、それは両者の信頼関係を損ねるだけで、疑心暗鬼になるのは互いの利とはならない。

 比企は一旦、話題を打ち切った。


「さようか、どうやら詮索が過ぎたようだ。汝を信じねば何もはじまらぬ」

「いいえ、非は俺にあります」


 恒はあたかも無力で愚かな少年神を演じるかのように覇気のない声でそう言うと、力なく首を振った。

 そんな弱気な様子ですらも演技なのだと、比企は見破っている。

 誰の助けも必要としない孤独な少年を見守りながらふと、比企は彼に訊ねたくなった。


「藤堂、ひとつ訊いてもよいか」

「はい」


 傍目には感情が存在しないのかと受け取れるほど、恒は完全に感情をコントロールする。

 看破という技術がお互いに通用しない以上、表情やしぐさ、口調から感情や思考を読み取るしかない。

 恒の精神力は鉄壁だ。

 その隙のなさが、比企には恐ろしくすら感じられた。


「……いや、何でもない。とにかく、拙速なことを致すな」


 淡々と演技を続ける少年に、比企は訊けなかった。

 比企を、そして神々を――それほどまでに信用できないのか、とは。

 ひたすらに情けなかった。

 少年ひとりをすら救えないのだと、自らはそれだけの価値しかない主神なのだと比企は深く失望した。

 彼を勇気付けられるのは、今は彼だけだ。

 彼自身の行動だけが彼の不安をぬぐってゆく。

 彼はそうして生きてきたのだ。誰にも頼らずひとりだけで傷ついて……。

 比企の葛藤に気付いたのだろうか、恒は少しだけ比企に水をむけた。


「焦ってはいません。自暴自棄になってもいません。ですが、彼女の身を案じています。INVISIBLEはレイアをただ攫ったばかりでなく、感覚遮断に近い状態を作り出しているでしょうから」


 比企は嫌悪感のする言葉を聞いて眉をひそめた。

 心理学実験において現代は禁忌とされる実験……それは感覚遮断の実験だ。

 つまり人間は外界との接触が遮断されたとき……目も見えず、何も触れられず、会話もできず、何も聞こえなくなったとき……人格がどうなるのか。

 恒はとても子供とは思えないほど冷静で落ち着いた口調で続ける。


「最初は耐えられます、彼女は強い。そういう訓練もしていますから。ですが……五感の刺激を断たれてそれが長期間になると、マインドコントロールにかからなくともやがてINVISIBLEの語りかけが全てであるかのように思われてきます。絶対的依存関係が成立するのです。その頃にはもう、俺のこともあなたの事も、彼女自身が誰であるのかすらも全てを忘れてしまっている。そうなっては遅い」


 彼女は人間ではない、だがわずか二歳半の女神の精神力が人間と比べてどれだけ頑強であるものか。

 比企は恒に重大な問題を突きつけられていた。

 そして恒が、絶対不及者抗体として最悪の選択を躊躇しないまでに焦る理由も同時にだ――。


「俺は彼女との信頼関係を築いてきました。そしてそれは不変のものと信じてきました。ですが彼女が俺を忘れてしまったら、もう意味がないのです」


 彼女は帰ってくる、必ず、その日、その刻、その場所へと。

 だがその時の彼女はもう、恒や比企の知るレイア=メーテールではない。

 そういうことだ。



 比企に“あとを任された”梶 奎吾は局長の案内で特務省中枢の審議室に通されていた。

 広い法廷のようなつくりの審議室のど真ん中に、椅子も用意されず茶も出されずただ立たされる羽目になっている。

 静まり返った室内は廊下と同じように明かりひとつ灯されず、暗闇だ。

 ただ、等間隔に配座された席に座する神々の放つアトモスフィアが薄暗い室内でほどよい照明の代わりとなっている。

 周囲は一様に白い特務省の制服を着、フードを深くかぶった18名の局長クラスの神々が観察するように梶を見下ろしていた。

 梶が仰角45度の角度で見上げざるをえない、中央の最上段の席に座し袖口と襟元に金色のラインが入っている制服を着ているのが特務大臣と見受けられる。

 梶は彼の名前すらも知らないが、特務省は神階唯一の省庁であり、したがって彼は神階唯一の大臣だ。

 この化物じみた特務省職員の長を務める神――。

 化物のリーダーといったところだろうなと梶は心中で皮肉ってやるが、あまり効果もない。 


 梶が報告や要請などしなくとも、梶の心層は看破されているに違いない。

 それなのに用件は何だ、などと訊きやがる。

 梶が不満を訴えるよりは早々に用事を済ませて帰った方がよさそうだ。

 梶は不満を覚えつつ、INVISIBLEの器となるべき少女神レイアに対して特務省に伝わる秘儀である極戒厳綬縛“久遠柩”の発動を比企が求めていると、かいつまんで話したところだ。


「――そういうわけで久遠柩の発動を請いに来たはいいが……レイア=メーテールが消えちまって何の為に来たかわかんねぇ。つまり現状報告になっちまったわけだ」


 本当に、何のために来たのかわからなかった。

 失踪したレイアに対し久遠柩を発動してくれと頼んだところで、それが何の意味を持つというのか。

 わざわざお偉い方に集合してもらって申し訳ないところだが、梶もこんな間抜けな報告をしなければならないとは夢にも思わなかったのだから勘弁してもらいたい。

 帰れと言われれば憎まれ口のひとつでも叩いて、回れ右をして帰るだけだ。


 しかし局長衆の矛先は当然といえば当然だが、あらぬ方向に向かった。

 特務大臣に面会を申し入れたのはあくまでも比企なのだ。

 その当事者が顔を出さず、代理の者がヒトを小ばかにしたような態度と身なりでそんな話をしているのだから、彼らも我慢がならなかったのかもしれない。


「それより主神が顔を出さぬとはどういう事だ? 腑抜けにもほどがある」

「部下を遣わせて自らは逃亡とは、神階の長も落ちぶれたものよ。上司がかような者で恥ずかしくはないのか」

「つくづく、昨今の神階は堕落しきっておるの。同じ神とは信じがたい」


 一柱が声をあげれば、次々と比企の主神としての資質を問う声が上がった。

 要するに、比企ですらも見下しているのだから、第二位神である梶では話にならないという意味だ。

 彼らの自信は実力からくるものだろうが、ことさら自尊心と自己主張の強い奴らは苦手だ、と梶は額を押さえた。織図はいい、謙虚で力をひけらかさない。

 先ほどの一件を見る限り、織図は圧倒的に梶より実力がある。

 しかし梶に気を遣っているのか、彼は位申戦を挑んで梶を第二位神の座から引き摺り下ろさない。

 そんな気遣いをされて不甲斐ないといえば不甲斐ないが、梶は織図のそういうさりげない部分を好ましく思う。


「別にあの野郎は腑抜けて逃げ出した訳じゃないし、欠席裁判で貶されるのは腹が立つな」


 梶は比企の名誉の為に言い返した。何故彼を庇ったのか梶にもよくわからない。

 いけすかない神だと思っていたのに、そんな言葉が咄嗟に口から出たのが不思議だ。

 梶はどこかで比企を格上だと認めていたのかもしれないなと、今更のように気付かされたところだ。


「久遠柩か、よかろう」


 それまで沈黙を貫いていた特務大臣は軽く手を上げて外野の雑音を制止した。

 彼の挙動に注意が注がれ、室内がしんと静まりかえる。


「? 聞いてなかったのか? そのレイアが蒸発したって話だ」


 梶は敬語を知らないし彼に敬意を払わなければならないということすら知らないが、そのあたりの粗相は見過ごしてもらえるようだ。


「蒸発した。それが?」


 しわがれた声の特務大臣と思われる老神は梶の言葉を繰り返した。


「だから、できねぇだろ」


 まさか、ボケてるんじゃないだろうな、これだから、爺さん神は……と、梶がうんざりしたところで老神はもったいぶって答えた。


「これは異な事を云う。神体がいかにして蒸発するのだ、物性的に有り得ん」


 カラカラと、老神は乾いた嘲笑を浴びせた。この野郎、と喧嘩っ早い彼は眉を吊り上げながら声を荒げる。血の気の多い梶を、彼はどこか侮蔑したようにすまして見下ろしている。


「あぁ?」

「レイア=メーテールは逃げられぬよ」


 確信を持って彼はそう言い放つ。

 その意味を知らない梶を馬鹿にしたような局長達の含み笑いがまた、癇に障る。


 腰巾着どもが、いい加減にしろよと怒鳴りたい気持ちをぐっと抑え、梶は尋ね返した。

 短気な梶といえど、少しは保身を考えもした。


「そりゃまた、どういう意味だ?」

「わが省には転移術に特化した者達がおってな」

「で?」


 梶はわざと目を剥き、挑発するように唇を突き出す。

 そんな梶の態度が、局長衆たちにはコミカルに映るらしい。

 相変わらず彼らは互いに梶の陰口を叩いていた。


「わが省は高精度望遠鏡、空間探査機を用い、超空間転移に形而上学的転移、考えうる限りの転移術を駆使しHi-NET(超広域転移網)を形成しておる。転移可能領域の開拓は何十万年も以前から行われていたが、その内容は神階には明かされておらん。Hi-NETはINVISIBLEの胎内を網羅していると断言して差し支えない。各ステーション(転移中継地)にはエネルギー集積自動観測装置が備え付けられている。INVISIBLEが彼女をいかな場所に隠したとて、速やかに発見されるだろう、という意味だ」

「あ? INVISIBLEの胎内ならばどこにでも行けるって事かよ」


 なんとあっさりとしたものだった。

 こいつらは一体、何なんだと梶は呆然としていた。

 そして絶望してもいた。

 神の限界を超えている。

 気が遠くなるほど昔から、神階など及びもつかないような技術力であらゆることを可能としてきたのだ。


「左様。……久遠柩発動の時期は、神階に指図される覚えはない」

「ああ、そう。じゃ、口出しせんからとっとと仕事してくれ」


 そんなことが可能なのか? にわかには信じがたいが、認めざるを得なかった。

 神階は特務省の動向にあまりにも無関心すぎたということ。

 生物階にばかりかまけてきた神階と異なり、何十万年も昔からそれだけの年月をかけてその全組織力をINVISIBLEを破壊することだけに捧げてきた謎の組織だ。

 INVISIBLE収束の前に無力であってよい筈がなかった。


「で?」


 今度は老神が仕返しとばかりに顎を突き出した。


「まだ何か用があるのか」


 肩透かしをくらって、梶はふてくされた。


「ねえよ」

「それでは引き取り願おう。目ざわりなのでな」


 梶は審議室を出るとそのまま確率神の執務室へと瞬間移動をかけ、腹立たしげに椅子にどっかりと腰を下ろす。

 その手で固定電話を取り、比企に報告のため電話をかける。

 十コールを過ぎても、比企は電話を取らなかった。

 まだ腹のおさまらない梶は舌打ちをし、誰もいない電話口に呟いた。


「どうすんだ、比企。用事が済んじまったぞ」


 特務省にいっぱい喰わされたのは、どうやら比企も同じだ。

 “滅多なことでもない限り特務省になんざ助けを求めない方がいい”と織図は以前、冗談めかして梶にそう言ったが。

 “ヤバイ奴等が多くてね”と、彼は付け加えて煙管をふかした。

 その時の言葉の意味を、ようやく梶は理解したのだ。


 特務省特務従事者。

 彼らはその気になれば何だってする――。



 草原の中に開かれた一直線の道を一騎の駿馬が風のように駆けてゆく。

 馬上には仲むつまじく同じ馬に騎乗する夫婦の姿があった。

 彼らの名は紫檀 葡萄と川模 廿日。軍神下第五使徒と旧第二使徒である。

 彼らは二歳になる双子の子供たちを保育園に預け、使徒階居住区から神階へ入る第一層ゲートを目指していた。


 このとき軍神は空位であり、彼らは神不在のため一度解雇されていたが、武型神の女神が今年中に軍神として即位するということで、使徒の登用試験を受けに神階へ入階せねばならなかったからだ。

 軍神即位前の人事の刷新は当然のように行われた。

 以前十大使徒を務めていた彼らであっても、実力不足と見極められればすぐに降格されてしまう厳しい社会だ。

 紫檀と廿日は三日以内に、十大使徒登用試験を受けなければならなかった。

 二年前、何者かの襲撃により生死の挟間を彷徨った紫檀は、一時は両腕を失ったかに思えたが、切りおとされていた腕も無事生物階から発見され、紺上の迅速かつ的確な処置により五体満足に戻り、翼を失ったこと以外は以前と何一つ不自由のない生活を取り戻すことができた。

 難を言えば腕の感覚が時々麻痺することがある、というぐらいだ。


「ねえ、あなた。神階へのゲートが開くまで、まだだいぶあるわ。少し早く着き過ぎてしまうわね」


 出産を経てもまったくプロポーションの変化しない美女妻の廿日は、水筒に入れてきたハーブティーを夫に勧めながらさえずるように呟いた。

 彼女は馬に乗ると、つい癖で歌を歌う。

 その透き通るような美声はいつも紫檀の心を癒していた。

 また鳥のように歌い始めた妻の腰に、紫檀はそっと腕を絡めつける。


「早いぶんにはいくら早くてもいいさ。君が歌ってくれるだろうからね」

「私は今回十大使徒として復職できる自信がないわ。ブランクの間にすっかり身体が鈍ってしまって、出産して体の調子も変わってしまった気がするの」


 川模は育児休暇に三年をもらっていたが、新たな軍神が即位するということで復職を早める決意を固めた。

 というのは十大使徒が再編成された直後に復職しようとしても、以後は20年ごとに催される使徒再編成の機を逃せば位階への復帰は難しい。

 この時期を逃すわけにはいかなかった。

 子供たちの事ならば託児所や保育園などの設備は整っていて使徒の母親は安心して子供を預けることができる、使徒の母親の専業主婦が許されない以上、廿日ものんびりと子育てをしているわけにはいかなくなった。

 次代軍神に“使えない”と見切られれば、とても紫檀ひとりに家族を養うことはできない。


「たった二年がなんだっていうんだ、君は第二使徒だったんだぞ。自信を持つんだ」


 紫檀は弱気になる妻を励ましつつ、馬を走らせていた。

 かつて最下層の馬番役であった経歴を持つ紫檀は馬術に長け、予定より随分と馬を速く走らせてしまった。

 早く着いたら、妻をカフェに連れて行ってやろう、そんな事を考えつつもう数キロも走れば神階へ入るゲートが見えるというときに、またしても紫檀は見てしまった。

 紫檀たちの行く手をさえぎるように何やら赤い布で覆われた塊が転がっているのが見えたのだ。

 何だろう、そう思いながら紫檀は馬のスピードを緩め、馬に乗ったまま妙な物体に近づいた。

 よく見ると泥濘の中に、赤い衣を纏った少年が泥だらけになって横たわっていた。

 意識はないとみえる。


 またこのパターンか、と紫檀は独白する。

 その次にどこかで見た光景だな、と紫檀は思った。

 あれはいつのことだったか、使徒階8層で見つけた白衣を着た青年も同じように倒れていて、紫檀が捨て身で介抱したものだ。

 あれは誰だったか……とても重要な人物だったような気がするのに、霞がかかったように思い出せない。

 ありえない既視感に疑問を抱きつつ、紫檀は用心深く彼の周囲に目を配った。

 不自然だ……そう、不自然だった。

 少年の周囲の泥濘には足跡がひとつもない。

 彼は歩いてきたのではない、飛んできたのだ。

 どこかから。

 紫檀は空を見上げる。いやいや、有り得ない。使徒階での飛翔は禁じられている。

 使徒の飛翔が許されるのは生物階だけだった。


「これは……」

「見て、あなた。怪我をしているわ」


 紫檀があまりの不自然さに訝しがっている間に、廿日は馬を飛び降りて少年を揺さぶっていた。

 案の定の展開だ、と紫檀は額を押さえた。

 世話好きでおひとよし、正義感の強い彼女が彼をほうっておく筈がない。


「そりゃそうだ……この服、囚人服じゃないか。しかもこの赤色の服、かなり罪が重いぞ。この様子だと警邏隊けいらたいに追われてたんだろう」

「身長はあるけれど顔はまだ子供よ? どうして? 子供の使徒は社会的に罪を犯さないわ。どうして捕囚者の服を着て追われてるの。連れて帰りましょう、放っておけないわ」


 使徒の平均身長は高く、彼も170cmを超えているように見えるが顔つきはまだあどけなさを残している。

 20年も生きていない子供の使徒なのだろう。

 そうだとすればなおさら放っておけないというのが、廿日の正直な気持ちだった。

 廿日は昔から戦場でも人々の救命を最優先に考え、ひとりだけ撤退が遅れる損なタイプだ。

 妻の気持ちを尊重する為にも彼を何とかしたいと紫檀も思う、だが彼の身に纏っている服がそれを躊躇させる。

 だめだ。彼を助けることは極端な話、神階を敵に回すことになるのだ。

 紫檀は廿日をなだめるように首を振った。


「だから、それは囚人服だろう。助けたら共犯になるんだぞ」

「警邏隊に見つかったら殺されるのよ!? この子は何か悪い事をしたのかもしれない、でも未成年を犯罪者として処罰するなんて変よ。何か事情があるの、きっとそう」


 しばしふたりの間を沈黙が流れた。

 紫檀はここで立ち止まって無駄に時間を費やすわけにもいかなかった、何故なら神階のゲートは目と鼻の先だ。

 ゲートの周囲には監視用の塔が建てられていて、容赦ない監視が入っている。

 立ち止まって不審な行動を取れば監視の目を釘づけにする。

 そうなれば一巻の終わり、彼を警邏隊に突き出せば紫檀たちは済むものの、彼は絶体絶命だ。それならばまだ、ここに彼を放置して何くわぬ顔をしてゲートに向かう方が賢明だと紫檀は思う。

 夜になれば監視も甘くなる、それまで彼はここで倒れていて夜になって動いた方がよい。

 ここで下手にちょっかいを出すと、彼にとってもよくない。


 しかし、廿日は彼にしがみついたまま梃子でも動かない。

 紫檀は彼女の根性に根負けした。


「……まったく、仕方がないな。君はそう言いだしたら聞かないんだから。いつまでもは匿わないぞ」


 紫檀は妻の主張を受け入れて、泥に汚れるのも厭わず手早く彼を抱き上げ、馬上に積み上げると廿日とともに栗毛色の愛馬、ラプタに跨った。

 生物階の馬ならば重い荷物に悲鳴を上げるかもしれないが、神階の模造生物である天馬は三人分の体重ぐらいではびくともしない。

 ちなみに廿日の愛馬だったテスラは鏑 二岐が騎乗しているが、二岐は今回の登用試験を受ける意思がないということなのでまた新たな神に仕えるのかもしれない。

 そういう噂も聞こえていた。

 二岐はその神の職種に仕えるというより、個神に仕えるタイプの使徒だということだ。


 その意味では、紫檀と廿日は職種に仕える使徒なのかもしれない。

 軍神下使徒として生涯をささげようと考えていたし、実際それ以外の選択肢を知らなかった。

 何度主を代えても、彼らは軍神に忠誠をささげる覚悟だった。

 人間社会でいうと二岐は信頼する社長に仕える部下であり、紫檀と廿日は会社に忠誠を捧げる部下ということになる。

 新たな軍神が任命されるという頃に、違法行為を働くということは彼らにとって何のメリットもない、むしろこの時期だからこそ違法行為は避けねばならなかった。

 だが彼らは主に従順であるのと同じように、いつも彼らの本心にも従順であろうとした。


「馬場の管理室に連れて行こう。寮に連れて帰ると目立つ」

「そうしましょう」



「そこに寝かせて」


 馬場の管理室にはベッドがあった。

 外から見えないようカーテンを閉め切り、厳重に鍵をかける。

 廿日は紫檀がそうしている間も、どこに銃創があるのかくまなく調べている。

 彼の腕を調べていた廿日は驚きのあまり目を見開いた。

 細い腕をゆっくりとさする。そこには無数の針の痕があった。


「見て……この痕。薬物投与の痕跡だわ……違法薬物で捕まったのかしら」

「悲しくなるな。まだ若いのに薬物に溺れるなんて」


 二児の父親でもある紫檀は、彼の腕を見てやるせなくなった。

 必殺の紫檀との異名を持つ彼も、息子の八朔が非行に走ってしまったらどうしようなどと考えてしまうところが、すっかり所帯じみてしまっている。


「とにかく手当が先」


 廿日は管理室の救急箱から救急セットを取り出し、彼の脇腹や脚を貫通している銃創を洗浄し、止血しては丁寧に閉じていった。

 軍医の免許こそ持っていないが軍神下使徒としてそれと同等の能力を求められてきた廿日は、こういう創傷の手当に長けている。

 被弾した銃創は4箇所、致命傷はなかった。


「服を脱がせて! 背中に貫通してるわ」


 廿日がそう言うので、紫檀は重罪人を意味する赤い囚人服を脱がせて彼を自らにもたせかけ、廿日に背面を見せる。

 背を見た途端に廿日が息をのんだ。


「えっ……」

「何?」


 紫檀の側からは彼の背中は見えない。

 彼女は先ほど確認したばかりの彼の腕にまた目を落とした。

 彼は使徒ならば誰でもつけている、腕輪型の不可視化装置をつけていない。


「翼がないわ……不可視化装置もつけてない。でも翼の痕跡はあるの」

「ない?」


 紫檀も首を伸ばして彼の背を見て絶句した。

 惨たらしい古い傷跡が、ざっくりと背に大きく入っている。

 彼の翼は根元からもがれていた。廿日は彼の背をいたわるように、ひたりと手を重ねた。


「翼をもがれたみたい。なんて酷い事!」


 廿日は涙ぐみながらも、まずは銃創を丁寧に閉じてやった。

 いつもは不可視化装置で見えないとはいえ使徒が翼をもがれることは四肢をもがれること以上に辛く、精神的にも肉体的にもかなりの後遺症をのこすものだ。

 根元からではないが両翼を切断された紫檀は、今も激しい疼痛に苦しんでいる。

 神経発達の著しい成長期の一番大切な時期に、若くして翼をもがれた彼の苦痛はどれほどのものだっただろう。

 紫檀はどこか彼と共通するものを感じ深い同情をよせつつ、どこか違和感を覚える。

 彼に対する処遇への怒りからくるのだろうか、この胸の昂ぶりは何だ? 彼に触れていると、力が体の奥底から溢れて滾ってくる。

 この体のほてりは何だ? それは決して錯覚ではない。


「廿日?」

「何?」

「さっきから身体の中を電気みたいなのが走って、変だ。君はどうだ?」

「まさか、またあの時の疼痛がぶり返したんですの?」

「電気を消して真っ暗にしてくれないか。そこの左のスイッチを消して」


 廿日はとんちんかんな事を言いだした夫に首をかしげたが、彼の納得するようにしてやった。

 パチンと電気を落とすと、カーテンを閉めた部屋は昼間でも真っ暗だ。


「見ろ!!」


 手探りで夫のもとに戻ろうとした廿日は、突然叫んだ紫檀の声に驚いて飛び上がった。

 廿日は目を疑った。少年の身体の周りを、うっすらと碧い光が取り巻いている。

 廿日は懐かしい波動を知っていた。感動のあまり、涙が止まらない。


「……なんてこと。これはアトモスフィアだわ」

「ああ、この御方は神様だ」


 紫檀は彼をベッドの上に丁重に横たえると、夫婦は膝を折り、発掘された宝石の原石を見つめるように少年を見つめた。

 暗闇に目が慣れてくると、彼の頭上にははっきりと光冠が見える。

 その神秘的な姿に、夫妻はうっとりと魅入った。

 神を間近で見るのはいつ以来だろう、もう久しく見ていないような気がする。

 レイアを最後に一柱も神が誕生しなくなった神階において神は、これまで以上に貴重で尊い存在になりつつあった。

 生身の神の姿は、彼らを純然たる信仰心に立ち返らせる。


「だが、どういうことだ? 翼を持つ神様だなんて。それに、神様に銃弾が当たるか。フィジカルギャップに銃弾が弾かれるだろうに」


 よほど弱っているか、間抜けな神でない限り神体の周囲には無意識的に強固なフィジカルギャップが張り巡らされている。

 速度と質量を持ったあらゆる攻撃を粉砕し、それはどんな銃弾といえど例外ではない。

 いかなるものにも穢されず、冒されないといわれる神の絶対圏内、フィジカルギャップを形成できない理由でもあるというのか。

 そういう事もひっくるめて、彼は異常だ、夫妻はそう思った。

 だがそのことが虐待の正当な理由にはならない、夫妻はなおさらのこと彼の境遇に疑問を持つ。


「何か事情がおありなのよ。私たちで、ここに匿って差し上げましょう」

「登用試験は?」


 紫檀はそちらのことも心配だ。三日以内に登用試験を受けなければ、十大使徒として働く意思なしと見做されてしまう。

 彼に構うのもいいが、そのために失職してしまえば元も子もない。


「ひとりずつ受験すればいいでしょう、まだあと二日もあるんですもの」

檸檬れもん八朔はっさくを保育園に迎えにいくのは?」


 保育園は泊まり保育もできるが、2歳という甘えたいざかりの子供たちを保育園に置いておくことは、親の心情的にできないものだ。

 子供たちのことに触れられて、少年神にばかりかまけていた廿日もさすがに冷静になった。


「そうね……夜になったらこの神様を連れて一度寮に戻りましょう。大丈夫、裏口から入れば見つからないわ」

「……藤堂様以外にこのぐらいの年齢の神様がいただろうか」


 神が誕生したという報告は使徒階にも届いている。

 生物階から藤堂 恒が見つかった時には驚いたものだが、基本的に神は神階で生まれるものだ。最近20年のうちに誕生した神といえば、レイア以前は2、3柱しかいない。

 ちょうどこの年頃になる神がいないのだ。

 紫檀が断言してもいいが、神階はこの少年神の誕生を隠している。

 その証拠に、彼の肩には神籍登録を済ませたという根拠であるIDが刻まれていない。

 彼は神階に、神として認められていないのだ。

 使徒としての特徴を持つから神として認められないのか、だから殺されなければならないのか――こんなにも美しく清らかなアトモスフィアを持っているというのに。

 夫妻は彼を心底憐れに思った。


「誕生されて、神階は発表していないんでしょう」

「何故? やましいことでもあるのか? アカデミーにも入らず? 神様に薬物は効かない、だから薬物濫用で捕まったという事はありえない。では、この無数の針の跡は?」

「ご自分で打ったのでなければ、虐待にあたるわ。ねえ、あなた。私たちにとって神様はやはり神様でしょう。陽階神でなくとも位神でなくとも、お守りしなければならないお方よ。たとえ神階の決定で虐待を受けていたとしても、追われていたとしても、神階に突き出すことはできない。あなたもそう思うでしょう? あなたの正義に正直に答えて」

「ああ……そう思うよ」


 長い時間をかけて悩み、紫檀が答えたそのとき、ベッドの上から忽然と彼が消えた。

 たった今意識が戻り、おそらく紫檀と廿日を見て反射的に敵と認識し瞬間移動をかけたのだ。


「!?」


 紫檀は彼が消える瞬間に、右手で彼の囚人服をつかんでいた。

 紫檀はこういうことにかけては、天才的に反応が速い。

 紫檀の質量を転移に巻き込むことができず、瞬間移動に失敗した彼をそのまま亜空間から引きずり出す。

 空間が歪んで、透明な皮膜のようなものに覆われて出てくる。

 紫檀は彼を受け止めると、今度は手首を掴んだままベッドに横たえた。


「あなたっ!」

「どこに行かれるんです。瞬間移動は消耗しますし傷が開きます。外は警邏隊が貴方を捜しています、ここにいらしてください。ここは安全です」


 紫檀は早口にそう言うと、彼はやはり怯えたようなまなざしを向けた。

 紫檀は彼の顔を正面から見て感じたのだが、彼はどことなく面立ちが藤堂 恒に似ている。

 だが兄弟という係累そのものが神階に存在しない以上、紫檀の感覚はただの気のせい、でしかない。

 一方の廿日は紫檀が彼を見下ろすような態度になってしまって怯えさせていることに気づくと、もう、と呟き彼の前に跪き礼を尽くした。


「手荒な事を致しまして申し訳ありません、神様。私は川模 廿日で、彼は私の夫で紫檀と申します。貴方の敵ではありません。御名をお聞かせいただけますか」


 彼は見ず知らずの夫妻に名を教えることを躊躇したが、廿日と紫檀の言葉が嘘ではないとマインドブレイクで確信していた。

 嘘をつけない性格だった彼は、素直に本名を名乗った。


八雲やくも 遼生はるおです」


 遼生が置換名を名乗ったことから、陰階神だと推測した廿日はさらに核心に踏み込んだ。


「貴方は陰階神でいらっしゃいますか? 何故アカデミーにいらっしゃらないのです」

「僕は……神ではありません」


 これはまた露骨な嘘をついたものだな、と紫檀は彼の言葉に猜疑心を抱く。


「そう仰られましても、使徒には瞬間移動はできませんよ。それに貴方の周囲にはっきりと見える、アトモスフィアも持ちません」

「神として生まれついたのかもしれませんが、もう違います」


 そう主張したまま、彼は口を一直線に結んだ。

 何かがあったのだ、彼が自らを神ではないと卑下しなければならないような出来事が。

 トラウマめいたものを感じた紫檀は質問を摩り替えた。


「では質問を変えましょう。何故あそこに倒れていらしたのです? 倒れていた方向からして、ゲートを使おうとしていたのではないですか?」


 これでは質問というより尋問だなと紫檀は申し訳なく思った。

 彼を追いつめたいわけではないのに。

 彼は紫檀の言葉に、何かを思い出したようにベッドから起き上がった。

 それを夫妻ふたりがかりで寝かせつける。

 彼は観念して、ベッドの上に平たく伸びた。

 無理に腹筋を使うと傷が開く。それでも、彼は痛いの一言も漏らさない我慢強い少年だ。

 廿日の手に触れている彼の腹部はぺたんこだ。

 ガリガリに痩せている訳ではないが、もう何年も、何も食べていないのだとわかった。

 神は食物摂取をする必要はないが、絶食状態のまま何年も過ごすという事は有り得ない。

 ましてや成長期にある少年神が、これほどの扱いを受ける事は絶対にないと言ってもいい。

 不遇の少年神は白状した。


「弟を捜していたのです」

「弟? そんな、神様に弟なんているわけありませんよ」


 紫檀のもっともな答えに、彼は自信なさげにしゅんとなって肩をすくめた。

 廿日はそんな夫をたしなめる。


「あなた……そんな言い方をなさらなくても。それで、弟君の御名前は? 私たちにお手伝いできればよいのですが」

「……名前、思い出せません。夢の中で聞いたのですが」

「もしかして、藤堂 恒様のことですか?」


 彼より年下の少年神など一柱しかいない。

 廿日はなんとなくそう返事すると、きらり、と彼の瞳が輝いた。

 聞き覚えのある名前だったのだろう。


「そうです。彼はどこにいますか?」


 恒に何の用だろう、廿日は彼と恒との間の奇妙な関係に疑問を覚えつつも、傷が癒えたら恒のもとに案内すると約束してしまった。

 恒は極陽、比企のもとにいる。

 それは紫檀夫妻にとって、決して届かない至聖所を意味していた。

 彼は夫妻の言葉を信じきって、ほっとしたように眠りについた。

 いつもマインドブレイクをかけながら会話をしているのではないらしい。

 恒ならば油断なく看破をかけつづけるだろうに……。

 どうやら遼生は一度信用した相手を疑わない性格のようだった。


「本当に藤堂様のお兄様なのだろうか?」

「うーん、どうなのかしら」


 廿日も悩ましげに唸っている。


「ちょっと、正直すぎやしないか? 藤堂様ならもっと慎重だぞ」


 二人は顔を見合わせて頷いた。


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