第2節 第10話 八雲 遼生
EVEの空が燃え上がるような深紅の色に染まっている。
システム内の色情報が劣化してきたのか、立体再現されたすべての風景の解像度が荒くなり、時間を経るごとに色褪せてゆく。
全域を空襲警報のようなサイレンが鳴り響き、危険を悟ったEVEの住民たちは歩むたびに立体画像の解像度を落としながら、思い思いの場所に避難をはじめた。
生物階では天国として知られる仮想空間EVEのシステムダウンまで、残すところ15分をきった。
そんな彼らを遥か眼下に、仮想空間の中の女神はたった一柱で現実に敢然と立ち向かっている。
長く黒いローブを身に纏ったその細身のシルエットは、高潔な女賢者だ。
“バイタル転送プログラム・発動”
“転送元 #2s%E%gED55g9”
“転送先 #000000000001”
ファティナが手元の操作パネルにコマンドを入力すると、パネルはすぐさま天空に可視化されたプログラムの赤い矢を射た。
放たれたそれは、起死回生の一矢となるのか。
彼女の正確な狙いに射抜かれた監視用センサーは鈍い反応をみせ、情報を解析している。
主を失ってまさに役目を終えようとしているのか、今にも機能を停止してしまいそうだ。
EVEの空を覆い尽くしている機巧の、魚眼レンズのような巨大なセンサーが怪訝そうに赤い明滅を繰り返しながら ファティナを捕捉し凝視している。
トレードマークの桃色のボーダーのマフラーをたなびかせながら、彼女はその時を待っていた。
そして欲してもいた。崩れ落ちようとするEVEが最後の最後まで、織図に忠実であったという証拠を。
「言う事を聞いてね……。お願いだから」
異様な静寂ののち、雲霞の奥に見えた空のレンズの装甲が解かれてゆく。
彼女の遥か頭上に、幾重にもその花弁を重ねた白い機巧の花が咲く。
EVEの外部センサーがバイタル受信モードに入ったのだと、彼女の前に浮かぶ操作パネルが静かに報告をした。
彼女は両手を組み、祈るような姿勢をとる。
EVEがファティナの命令を受け付け、どんな反応を見せるのか……従順な神の僕であるのか、それとも無機質で無感傷な機械そのものでしかないのか。
それはファティナには決められない事だ。
白い金属で覆われた花弁の中心が白く発光し、バイタル転送されたエネルギーが中枢部に集められている。
ぼんやりと定まらなかった光源がはっきりとした光塊を映じたとき、彼女の視界はホワイトアウトした。
耳を劈く爆音に、視覚と聴覚を失う。
気付いたときには、彼女は人工衛星のように巨大かつ機械的な浮遊花弁の光源より織図めがけて撃ち落とされた白い光に吹き飛ばされていた。
引き続き地を割るような轟音があたりに響き渡る。
EVEの住民達は恐れおののき、落雷を受けた高い断崖を見上げているが、その頂上を見る事は能わなかった。
レーザー砲のような光条から爆風に煽られたファティナは空中で体勢を立て直し、一緒に飛ばされていた女の手を取って軽快にとんぼ返りを打つと、足場を確かめつつ元の場所に着地する。おそらく逃げることもかなわず直撃を受けたであろう織図の身は無傷なのか……ファティナの白い顔に焦りの色が滲む。
土煙が去り、光線に射抜かれた織図は息を吹き返していた。
特務省職員の栄誉ある白い制服こそひどく泥をかぶっていたが、無事のようだ。
転送装置から放たれたバイタルが織図に注ぎ込まれた。
むろんそれはEVE内部においてはグラフィック的な情報でしかないのだが、現実空間において彼の神体にはEVEのマザーコンピューターから転送されたバイタルが注ぎ込まれたという一つの指標にはなる。
ファティナは綻びかけた顔を、隣で腕組みをして佇む黒い女に気付いて引っ込める。
「うまくいったようね」
どこか寂しげな女の声に、ファティナはどんな言葉を返してよいのか分からなかった。
「ええ……」
蟻の子のように逃げ惑う住民を鳥瞰する送還ゲートの建設された断崖の上で、数学神は一人の魔女と対峙していた。
世界の果てのような寂寞としたその場所にはただ、砂を孕んだ乾いた風が吹いていた。
「メファイストフェレス=メリー、それがあなたの名ですね」
ファティナの手帳には、彼女についての情報が呼び出されてくる。
魔女は黒い帽子を取り、長い髪をかきあげて風に散らした。
「そのつもりだったけれど」
「……?」
「もう違うわ。ブラインド・ウォッチメイカーの依代になってしまってね」
父を手にかけ、大切な繋がりを忘れ、望まない姿になったから……生きていても仕方ないでしょ。ねえ?
「いいの、もうたくさん生きたのよ」
彼女はさっぱりとした口調で呟いた。
ABYSSでの出来事を知らないファティナには、彼女の話を半分以上把握できない。
だがメファイストフェレスを襲った悲劇は、ファティナの手帳が自動的に打ち出して記録している。
二年半前、生物階が大規模な解階の住民からの侵略を受けたとき、解階の特権階級の貴女 メファイストフェレスと知り合いだった織図は、彼女の記憶を記憶回収ツールで回収した。
死神が丁重にバックアップを取って迎えたその記憶は審査も経ずEVEに入り、織図の専用のフォルダに保管されていた。
それ以来メファイストフェレスの記憶の一部はEVEにあったが、織図のロックにより動作していなかった。
織図が崩れたことによりEVEのセキュリティが脆弱化し、メファイストフェレスの記憶はEVEのサーバーに自動的にアップロードされてしまった。
彼女の意識がEVEで再構築されたという偶然は、すべては織図の気まぐれによる。
ファイルが解凍され彼女の意識がEVEの地を踏んだとき、神の気配と存在感を知るメファイストフェレスが織図とファティナの所在を感じ追跡するのは簡単だった。
ファティナを見つけ、織図の死を目の当たりにし、ABYSSに残してきた自身の肉体に何が起こっているかを知っていた彼女は、 ファティナに生前の状態でのバイタル転送を提案した。
ファティナは断固拒否した、いや、そうしたかった。
しかし……現実世界に残してきた彼女の肉体が彼女の意に反し現在どんな有様であるか。
それを彼女の口から聞いてしまっては、ファティナも彼女の命を奪う事を妥当だと判断せざるをえなかった。
彼女の肉体はもはや彼女のものではなく醜悪な怪物へと化していたのだ。
彼女の証言が真実であると確認したファティナは、EVEの非常演算用領域を用い、一度EVEにバイタル転送を行い、ストックされたバイタルを織図に再転送したという経緯だ。
追い詰められ遂に底力を出し切ったファティナが、EVEのシステムチュートリアルに従ってバイタル転送をかけることは、それほど難しいことではなかった。
ファティナを束縛していたのは陽階神としての倫理観に他ならない。
「あなたのおかげで、バイタル転送は成功したようです」
「さて、目にものを見せてやれたかしら。少しは吠え面をかいてくれればいいのだけれど」
メファイストフェレスはどこか晴れやかな表情で、仮想の空に清々しそうに深呼吸する。
そして息を吹き返したばかりの織図を支え助け起こした。
彼らの間はどんな間柄だったのか。
彼女のすべての時間を織図に託してもよいと思えるような、強い信頼関係を結んでいたのだろうか。
彼女の行為はとてつもなく重く取り返しのつかないものだが、彼女があまりに淡々としているのでファティナはどんな顔をすればよいのかと困惑する。
「ですが、よかったのですか?」
「いいのよ、せめて最期ぐらいはね」
それで本当によいのかと、生きたかったのではないかなどと、ファティナは重ねては訊けなかった。
そしてここにまたひとりの犠牲者が、静かにその生を費えた。
「バ、バイタル転送なんかやりやがって。禁忌中の禁忌だぞ」
メファイストフェレスとファティナの間に流れていた微妙な空気を、覚醒した織図が破った。
「織図様!」
「おはよう、織図。何を寝呆けていたのかしら」
すぐ目の前で悪態をつくメファイストフェレスに、織図は複雑な表情を向けた。
バイタル転送によって織図が目覚めたとすれば、 メファイストフェレスが死んだことを意味する。
織図が何か言葉をかける前に、遮られる。
「それよりも、のんびりとしている時間はないのでしょう?」
「ああ、すまねえ。EVEのシステムダウンを防がねぇと」
織図はふらつく脚で立ち上がり、制服についていた泥を簡単にはらうと、メタリックグローブをはめ、EVEの空に高々と両手をかざす。
吹きすさぶ、風の音を聞き流しながら。
システムダウンまでの残り時間5分。
逼迫した状況を織図も心得ている。
織図は思い出して、ファティナに声をかけた。
「ファティナ、お前は先に戻れ!」
「ですが……」
「戻れ、それと……世話になったな」
ここから先は、織図の独壇場だ。
彼以外のアーキテクトの存在はかえって邪魔になる。
ファティナは暗に足手まといだと言われているのだと察し、織図とメファイストフェレスに手を振ると、自ら送還ゲートに消えていった。
「残り時間はあと僅か……間に合うものかしら」
メファイストフェレスは細い腰に手をあてがい、楽しそうに悪態をつく。
普段通りの口調で、彼を挑発するように。
織図は立体再現された彼女の姿をしみじみと見つめた後、ひとつ、大きく頷いた。
お前はここで会うなんて、柄じゃないだろ?
そんな事を思いながら――。
隠されていた透明な幕を織図の指先が引っ張る。
彼が空を引っ掻くとそれまで巧妙に大気に偽装されていた配線盤が透明色を纏って出現した。
彼はその中に手を差し入れると、的確に線を抜いて配線を組み替え、緊急停止のコマンドを直接入力する。
その織図を急かすかのように地を揺るがす轟音がして、天空から六つの巨塔が降りてくる。
システムダウンの前のEVEはこの巨塔から放射される雷によって一度徹底的に破壊される。
それらは織図を中心に数キロ間隔で並び、天から差し込まれていた。
ほとばしった緋色の雷で塔の頂上が六角形に結ばれ、まさにその時を待っている。
あの雷がEVEの地表に落下をはじめると、それはもう手遅れだという事だ。
こうなってしまうと織図でももうEVEのシステムダウンを止められない。
「間に合わせるさ」
そんな織図を、メファイストフェレスは信頼していた。
仮想世界の終末の光景をまのあたりにしながら、彼らは怖気づく様子もなかった。
*
「バイタル転送だ。それができるのは織図だけだ、だが、何が起こった」
仰向けにひっくり返った荻号の言葉にアルシエルは興味深そうに耳を傾けながら、しかし彼女の全身状態はますます悪化してゆくばかり。
朱音は代えのタオルを用意して次々と取り替えるが、彼女の腹部からの出血はいっこうにおさまる気配はない。
あまりの痛々しさに、朱音はざっくりと切り込まれた彼女の傷口を直視することができなかった。
しかし何という我慢強い女だ、呻き声のひとつすら上げようともしない。
重傷に放心しているというよりは、怪我をすることに慣れている、そんな印象。
少女のような容貌でありながら、落ち着いた雰囲気を醸していて魅惑的だ。
「荻号さん! それどころじゃ……それにこの方は! 出血が止まりません」
「ああ。俺はいいが、こいつはまずいだろうな」
「上島先生を呼びますよ!?」
ふたりともが怪我をしているのだから、絶対に上島の応援がいる。
荻号が彼女の処置をしている間に荻号が倒れてしまっては、彼女も助からない。
そう考える朱音は何故彼が無意味に119番通報をやめさせたがるのか、理解できなかった。
彼はプライドが高いのか偏屈なのか、何でも自分でできると思い込んでいる。
それは少しも立派なことではないと、それがいつか命取りになると朱音は言ってやりたいくらいだ。
朱音が眉を吊り上げて口を開きかけたところで、彼の言葉が遮ってくる。
荻号はヒトの出鼻をくじくのが得意だ。
「血が出たぐらいで大騒ぎするな。たいしたことじゃない」
「大したことです!」
荻号の薄墨色の聖衣は、荻号の血をたっぷりと吸い赤黒くなっている。
見るたびに心臓が口から飛び出しそうになるのだから、そんな姿を性懲りもなく見せないでほしい……朱音のささやかな希望はきっと届かない。
「そうか? じゃ、大したことないから見てろ」
荻号は重い腰をあげると、彼の腹部から溢れ出している血液を指先で拭い、そのまま彼女の胸腹部に差し入れる。
荻号の手を彼女の腹部に差し込んだその瞬間から、瞬間接着剤のように彼女の体内組織は会合をはじめた。
体奥から徐々にふさがってゆく再生面に、荻号の手が挟み込まれそうだ。
このように荻号の治癒血は、人体とほぼ同じ性質を持つアルシエルの身体の怪我をいとも簡単に癒すことができる。
だが荻号自身の怪我はそう簡単には癒せない、何とも皮肉なものだった。
彼は自身と、そして他者のために常備している道具箱の中から体内でやがて溶けてなくなる吸収系縫合糸を取り出し、手早く彼女の筋膜を縫い込む。
今度は非吸収系の針を取り、表皮に針を走らせる。
あっという間の処置で、彼女の傷は朱音の目には見えなくなった。
傷口が塞がったので改めて縫う必要はないが、何かの拍子に傷が開いてはならないので仮止め的な意味で縫っているのだという。
彼の主張するよう、確かに彼女の治癒は彼にとって大したことではなかった。
「すごい。こんなことができたなんて」
彼の“神らしい”一面を久しぶりに見る朱音は、素直に賞賛する。
彼は格好もそれらしくなければそれらしい言動もしないのだから、アトモスフィアを給されるまでは毎月のように、彼が神であるという事を忘れていた。
「俺の為には何の役にも立たん能力だがね」
荻号はようやく自らの処置をはじめたが、おぼつかない手で薬草を調合して傷薬をこしらえている様子など、先ほどの治療法とは1世紀ほど遅れた治療をしている。
朱音はそんな様子を見るとはがゆくなる。
「どうして荻号さんの血は、自分を治さないのですか?」
「さあね、俺が聞きたいよ」
彼は覗きにくそうに身体を折り曲げて腹部を縫いながら、心底呆れたようにそう述べた。
「治癒血……というやつか」
荻号の治療により回復し意識の戻ったアルシエルが興味深そうに口を開く。
荻号は彼女にちらりと目をくれ、また黙々と自らの処置にあけくれていた。
「喋らん方がいいぞ」
「支障ない」
「あなたは人、ですよね? あなたは荻号さんと同じにはいきませんから、動かないで下さい! 人は体液の1/3を失うと死ぬんですって……もう、それに近いほど外に出てます」
身をもたげようとする女の腹部にしがみついて傷口を押さえながら、朱音は無茶をしようとする怪我人をなだめる。
彼女が人間であるなら大量の失血をしたこととなり、輸血もせずに動くのは命取りだ。
さきほどから取り換えているタオルはぐっしょりと重くなり、彼女の血液を存分に吸っている。
そして彼女の体重はかなり軽そうだ、それほど多くの失血は許されない。
荻号が傷口を閉じているが、これまでに失った量がいくらともしれないのだから微動だにさせてはならない。
人間は多量の失血をすると血圧を維持できなくなり循環系が働かなくなるものだ、朱音にもそのぐらいの知識はあった。
「人体に近い構造をしているのには違いないが、分類上は地球外生命体になるぞ」
「え……!!! でもどうみても人間ですし、それに普通に日本語で……? どこにそんな日本語を話す星が」
朱音は荻号の言葉に耳を疑ってしまう。
まさか人間と同じ姿をした宇宙人がいるとは、姿だけではなく、言語まで同じだとは……朱音の理解を超えていた。
しかしそれに言及すればきりがない、神々や使徒も立派な地球外生命体だそうだ。
だが荻号と朱音は人間と殆ど変らない姿をして、今のところうまく人間社会の中に溶け込んでいる。
「広い宇宙には共通語として日本語を話す星が、1000年前ぐらいからあってだな……」
そんな、馬鹿な!
朱音は開いた口が塞がらなかったが、これは事実でありまったくの偶然だった。
神語の置換言語方式が執られるようになってからおよそ1000年間隔で、神階は生物階の言語をその文化の中に取り入れてきた。
現在神階の置換言語として選ばれているのは偶然にも日本語で、神々はよほどの老神でない限り置換言語を用いるか、あるいは近代になって国際語として認知されてきた英語で会話をしている。何故か置換言語に日本語が選ばれてしまったのは、日本語が表音、表意文字を有するうえに、日本という島国そのものが他国の侵略を受けにくい地形であり、次代の置換言語の選定までの1000年の長きに耐えうるであろうという見込みがあったからだ。
ちなみに、置換言語は置換言語に選ばれた国家および文化が滅んだ時点で新たな言語にシフトする。
神々や使徒の利便性の面を考慮し人々の生活に根付かない言語を用いても、それは生物階の文化を反映しない精彩を欠く言語でしかない。
神階が言語文化そのものを生物階に依存するという妙な構造は、女皇として即位したばかりのアルシエルの興味を引いた。
多民族国家であるABYSSには共通語というものが存在せず、好戦的で誇り高い解階の住民はABYSSのいずれか一つの言語に支配される事を屈辱と感じる気質だ。
そこで、完全に第三者的な由来を持ち、言語として成り立つ構造を持つ共通語が必要となった。
アルシエルが解階における共通語の選定方式を神階に倣ったのは、そんな事情があってのことである。
数奇な偶然が重なって、朱音にはアルシエルの会話が日本語のように聞こえるのだった。
「生物階……か」
ABYSSを棄て、どこまで生き恥を晒せばよいのか……。
臣民の為にと走り続けてきたが、もうABYSSには彼女の帰還を待つ者はない。
曾孫 メファイストフェレスを葬り、ABYSSの地が消え果てても、INVISIBLEに刻まれた呪詛はまだ消えてはくれない。
もっと早くにこの腕と力を獲ていれば、全てを失わずに済んだかもしれないというのに。
力なきことは罪だ、アルシエルが彼女の臣民達に幾度となく述べた言葉を、自らに突き返された気分だ。何もかもが、全てが遅きに失した。ABYSSは滅んだのだ、この事実はまだ受け入れられそうにもない。
“もう、如何様にでもなれ”
亡国の女皇は虚脱感のために死んでしまいそうだった。
何を守ろうとして戦おうとしたのか。
全てがどうでもよくなった。民を見捨てひとり生き残ったところでそれが何になるだろう。
民を失った国家の王に存在価値などない。
アルシエルは、彼女を心配そうに見下している少女のあどけなく優しいまなざしから逃れることができたら、その命を閉じるべきだと痛切に感じていた。
「人間にしか見えないのに……」
朱音は興味深そうに、いつまでもアルシエルから目を離そうとしない。
彼女の立場を知らない朱音には遠慮というものがないようで、上からのしかかるような体勢でじろじろと見つめている。
「あんたが何を考えているのか、俺には手に取る様に分るんだがね。あんたがそうするのは勝手だ。だが、時期を見誤らん方がいいぞ」
ようやく自らの処置を終えた荻号は、自殺を決意しかけていた廃女皇の決意を踏みにじった。何を考えているかなど推測すらできない朱音は、きつい事を言わなければいいのにと、眉根を寄せて荻号を振り返っただけだ。
「やっと役者が揃ったってのに、劇の途中で退場するもんじゃない。結末を見届けたいとは思わんかね? 金を払ったわけでもなし、見るだけは無料だろうぜ」
荻号はアルシエルにいたずらっぽく微笑んだ。
ハッピーエンドなど想像も出来ないという酷いシナリオを、まだ最後まで見届けるというのだから、彼の決意も並大抵のものではない。その暢気で気負わない一言に、負けた。
「…………それもそうだな」
死期はもう少しだけ、保留されることになった。
ABYSSが滅び世界がどうなってゆくのか、その先に希望があるのか、あるいはないのか。
ABYSSの民に代わってそれを見届けるという大切な仕事をアルシエルは忘れていた。
「ABYSSはやはり、滅びたのか? メファイストフェレスは……」
「ABYSSが生物階に入っていることをうまく利用して、時計職人にバイタル転送をかけた奴がいる。生殺与奪を可能とするEVEの秘技だ」
ABYSSの内部を覆い尽くすように膨張を続けていたメファイストフェレスは、バイタル転送と思われる何者かの介入によって自滅し、なおもゾンビのように蘇ろうとしていたところを荻号とアルシエルの多重攻撃によって木端微塵に破壊され、急速に収縮を始めた。
メファイストフェレスの肉体を見捨て、時計職人の憑依が解けたのだ。
したがって内部構造を欠いたABYSSは空洞化し、表層は重力に耐えられず星そのものごと大爆発を起こしてしまった。
荻号はアルシエルと共に形而上学的転移を繰り返し、爆発の直前に生物階に戻ってきた。間一髪のことだった。
「バイタル転送とやらが、奴に効いたというのか?」
時計職人に対して、正攻法ではなく裏をかくような戦術が有効であるとは信じがたい。
「効くさ、理論的にはな。少しでも考えのある創世者なら、見境なく依代を選ぶような愚かしいことはしない。だからINVISIBLEやノーボディは不死身の器を選ぶわけだが、ノーボディが早々に実体を捨てたことで、時計職人は神階側が時計職人のバイタルに干渉してくる事はないと完全に侮っていたんだろう」
「では何故、汝はそれをしなかった」
バイタル転送がブラインド・ウォッチメイカーに対して有効なら、荻号は何度もバカの一つ覚えのように正面から戦いを仕掛ける必要はなかったというのに……何を迂遠な事をしていたのだろうか。
アルシエルの鋭い指摘に、荻号は釈明する。
「一度ぐらいは考えたさ。だが、バイタル転送をするにはその個体がEVEに管理されている必要がある。つまり生物階住民にしかきかんのが常識だった。転送コードが判明せんからな、転送コードを割るなんざ死神の織図にそんな芸当ができるとは考えられんし、俺にも無理だ。だが……もしそのバイタル転送コードを何らかの方法で織図が割り出したなら、理論的にはABYSSの個体でもEVEの支配下に入りうる。時計職人も言ってみれば解階の女の依代に憑依したバイタルの塊だろ? なら女のバイタルを削れば、あのデカブツを仕留める事ができるのさ。そして織図が実際にそれをやりやがった。時計職人の依代を奪って、鼻をあかしたってわけだ」
荻号が早口で一気に説明というか推測をしてしまったので、朱音はどうして彼は難しい事ほど早口でしゃべるのだろうと憎たらしい。
結果荻号の言う事は、朱音には1/10も理解できない。
「生物階の全住民のバイタルコードは割られている。ABYSS居住者ももうあんた以外にはおらん。神々や使徒のバイタルコードもEVEは記録している、今後時計職人がどの依代を選んだとしても、今と全く同じ方法で依代を奪う事ができる」
「神階には、不死身の神はおらんのか」
賢明な彼女は不死身の神体を持つ神々の存在を真っ先に疑う。
荻号は彼女のカンの鋭さに脱帽だ。
「レイア=メーテールという少女神がいるがね。こいつはINVISIBLEが聖痕を刻んでしっかりと囲っている、こいつに収束するのは無理だ」
「逆に言うと、INVISIBLEは必ずその女神に収束するということか。絶対不及者へと変容し、三階を滅ぼすやもしれんと」
朱音は彼女の名前を聞いて、古い心の傷がいたんだ。
レイア=メーテール、恒がINVISIBLEから守ろうとしている女神のことだ。
二年半前、朱音の両腕の中にいた、手を伸ばしても届かないほどの美貌と神々しさを秘めたあの金色の女神。
恒が毎日のように神階に上がるのも、今週ずっと学校を欠席しているのも彼女のためだ。
神々にとって不死身の彼女がどれほどの価値を持っているのか知らない、そして恒が彼女にとって、あるいは彼女が恒にとってどれほど必要な存在であるかを知らない。
だがいつからか恒にとって彼女は、恒の全てになっていた。
恒は彼女の事を朱音の前では一言も口にしないが、彼女を好きなのかもしれないと朱音には漠然と分る。
生来の器用な性格で全てをそつなくこなし、あらゆることを上手に手を抜いてきた恒が、彼女の為には何一つ手を抜いたり怠ったりしない。
その彼女に危機が迫っているのだとしたら、恒はどんな手段を以てしても、彼女を守ろうとするだろう。
ああ、これだったのか……。
朱音はようやく気付いた。
荻号が慌ただしく動き回る訳、恒がここ最近、忙しない様子であること、危機に瀕しているレイアが三階の命運を一身に負っている、かけがえのないただひとりということ。
朱音はもう、恒への想いはとっくに断ち切ったと思っていた。
学校で彼を見かけても、以前のように好きだという気持ちが前面に出てくる事もない。
だが古傷のように今でも、時折恒の夢を見ることがある。
平凡な人生でいい、世界を変えるほどの力を持った特別なひとりでありたいと思ったことなどない。
だがほんの少しだけ朱音は彼女を羨ましい、と思ってしまった。
そう、ほんの少しだけだ。
今はいつも隣にいてくれる青年神が、朱音の心身の拠所になっていることは間違いない。
それは恒に対する朱音の気持ちを、裏切っているだろうか?
そうではないと、今はこのひとが好きなんだと、朱音は彼女自身に言い聞かせるように唇をかみしめた。
「レイア=メーテールへと収束し、破壊の限りを尽くすこと。INVISIBLE自身がそれを望んでいるかね……少なくとも俺は、そうは思わんよ」
荻号はINVISIBLEを擁護するような立場に立った。
荻号の腕のスティグマに、荻号の精神が影響されているのだろうか?
それとも、今もおそらく アルシエルと荻号の命運を掌握するINVISIBLEに媚びるのだとしたら。
「この期に及んで、INVISIBLEの肩を持ちたいか」
荻号はあまりの言われように青銅色の瞳を丸くして口をつぐむと、朱音に、バスルームの外に出ていろと促した。
ついでに隣のアパートに住む吉川 皐月に服を借りてくるよう言いつける。
吉川 皐月と荻号は朱音の仲介もあって、それなりに交流がある。
植物好きの皐月に、荻号は苗を分けたり、そのお返しにと皐月は生活に役立つ日用品などを無償でくれたりもした。
服の一着ぐらい、貸してくれそうなものだ。
アルシエルの大柄な体格だと皐月の服でも窮屈かもしれないがなにしろ荻号の家には他人に貸し出せる服が一着もない。
聖衣一枚を着たきりでいるからだ。
朱音が玄関を出ていった物音を確認すると、彼はアルシエルの上に覆いかぶさり、纏っていた血染めの襤褸のワンピースを指で縦に裂き彼女を全裸にさせる。
彼女が口を開けて無礼者、と言う前にその、口を塞ぐかのように温水シャワーを顔面に浴びせた。
解階の女皇アルシエルを全裸にひん剥いたとあらば、本来なら荻号の命はないものだが、あっという間の芸当に彼女は抵抗する気力も体力も殺がれて、ただその完璧な肢体を荻号の前に晒すばかり。
荻号もドアの隙間から脱衣所に聖衣を脱ぎすて、全裸になってアルシエルを洗うついでに自らも身を清める。
「神と致すつもりはないぞ」
とりあえず荻号の股間を見てげんなりすると、ぽつりと呟いた。
すっかり短くなった髪の毛をシャンプーで犬のようにわしゃわしゃと洗われながら、彼女は神の手にその肌を許すとは何と惨めなものだと心底なさけなくなった。
彼女は荻号の肩に刻まれた金色の御璽に気付き、その御璽の形状から推測して、彼が解階の住民をして神皇と呼ばしめた陰階神 荻号 要だったのだと知ったが、それを特に彼に確認する事もしなかった。
「何の話だ」
荻号は彼女のはちきれそうに豊かな白いバストも邪念なく泡で洗い流しながら、何の感傷もこもらない口調でそう言って捨てた。
互いに欲情できない。
普通は全裸の男女がバスルームでふたりきり、となると何かは起こるものだが、この場合は何も起こらなかったし、永遠にこのままふたりきりここに閉じ込めていても、恐らく何も起こらないだろう。
荻号は彼女のヒップに手を伸ばしながつつ、間の悪さもあって、先ほどの話の続きをはじめた。
「INVISIBLEが何を望んでいるか、何も望んでいないのか。俺はずっと、そんな事を考えていたんだ。するとどうしても、INVISIBLEに自我はあるのかという点に帰結する。さて、自我ってやつはどこにあるものだと思う?」
「脳だろう」
彼女は迷わず答えた。
こんな禅問答のような戯事に付き合わされるのも、体力を奪われあられもない格好にされた彼女は億劫だ。
「本当にそうかね」
自己とはどこから始まり、どこで終わるのか。
肉体が母体で鼓動を始めた瞬間からなのか、そして肉体が呼吸を止めた瞬間なのか。
荻号の問いは、不毛な循環論法へと入ってゆくだろう。
彼女は長い睫のついたまっ黒な瞳で、ぐっと荻号を覗き込んだ。不意に間合いを詰められ、荻号はのけぞる。
「何故、そんな事を訊く……」
「俺はどうも数学や物理学で物事に説明をつけたがるタチでね……。意識や自我は個体間を移動しないものだと思い込んでいる。その思い込みこそが、認識的に閉鎖されているんだ。俺たちは、創世者の造った認識の檻の中に閉じ込められているんだよ。内側にいる俺たちに特異点を突破することは、不可能なんだ」
それは猿が決して宇宙の成り立ちを考えたりはしないように、あるいは物理学の解法を求めたりなどしないように、人間も神々もINVISIBLEの姿を理解できないように、認識が創世者によって閉鎖されている。
どれだけ考えても、考え尽くしても、あるいはINVISIBLE収束を妨げようとしても無駄だと、荻号は言っているのだ。
だとしたらもう、創世者に対して神々が出来る事は皆無だということになってくる。
それは戦わずして敗北しているのと同じだ、それだけは認めてはならない。
「たとえばもっと単純な現象だとしたら……。波動関数が収縮するときに自我が生じるとしたら、俺とあんたの間のボーダーラインは限りなく曖昧だ。INVISIBLEとはそんな奴だ。認識の檻を抜けた、自我の亡霊だよ」
シャワーの蛇口を止めた荻号は脱衣所から二枚バスタオルを取ると、アルシエルに差し出す。
彼女の身体は久しぶりにすっかりと清められ、ボディソープの香りが心地よい。
しかしこの、はらわたを掻き乱されるように不快な荻号の言葉は何だ。
「つまりあんたは、あんたが思っているよりずっと……」
彼女はバスタオルを受け取りながら、今温かなシャワーを浴びたばかりのほかほかと湯気の立つ肌の全面に、いつの間にか鳥肌が立ってゆくのを感じた。
「ずっと昔から始まっていたんだ。それも連続的に」
*
使徒階第1層の研究施設、立ち入り禁止区域内の照明すら灯らない長い廊下を歩んできた八雲は、一番奥の重い扉に手をかける。
厳重に施錠された中には、彼女の最愛の息子が眠っている……その筈だった。
「遼生?」
ベッドの上は、もぬけの殻だ。
点滴はすべて抜かれ、コードがベッドの上に散乱している。
ベッドに結わえつけられた拘束具も引きちぎられ、鎖が床に投げ捨てられていた。閑散とした明るい病室はやけに無機的だ。
八雲はいましがた盆に盛ってやってきたおしぼりと体温計を盆から落として、体温計を割ってしまった。
「遼生!! どこにいるの?」
7年間の間遼生を幽閉してきたこの部屋は、神の転移術(瞬間移動)を不可能とせしめる特殊な壁に囲まれている。
仮に目が覚めたとて、逃亡など出来ようはずもない。
それにそれだけの体力があるとも思えない。
さらに、藤堂 恒と並ぶもう一柱の抗体、八雲 遼生の存在は岡崎以外には恒しか知らない。
文脈から考えるに、岡崎か恒が強引に連れてゆくとも考え難い。遼生は目が覚めたのだ、確かに彼の力で。
想像をはるかに上回る回復力だった。
いや、恒の抗体の効果が凄まじかったというべきなのだろうが……。
顔面を蒼白にしながら部屋の隅々まで彼の姿を捜していた八雲の背後でガタン、と物音がした。
今しがた八雲が空けたばかりの扉が、わずかに揺れている。
不可視を可能とする連続的瞬間移動……遼生が得意とした業が八雲の脳裏に浮かんだ。
まさか……もう、それだけの体力が?
転移を連続でかけ続ける限り、遼生の姿はどのモニターにも映らない。
そしてこの業はただ姿が見えないだけの業ではなく、完全に気配を断ちながら行われる。
一度これをやられると、母親ですらそう簡単に見つける事はできないのだ。臆病な性格の遼生が、自己防衛の為にいつの間にか身につけていた悲しい業だ。
「遼生……どこへ行くの!!!」
八雲は誰もいない暗い廊下に向かって、声を引き攣らせ叫んでいた。
「だめよ!! 行かないで!」
今度こそは、手放さないつもりだったのに。
ずっとふたりで、穏やかな日常を取り戻す筈だったのに……。
八雲の思いはまたしても、彼女の息子には届かなかった。