第2節 第9話 Parallel Concurrent Design
「遼生……?」
金縛りを解かれた八雲は、おそるおそる彼女の息子の顔を覗き込んだ。
彼は眩しそうに目を細めているように見えるが、それは光に対する単なる反射で意識はないようだ。
逸る気持ちをおさえつけ、彼女自身を諫めるように深呼吸した。そして
「藤堂様!」
そして彼女は床に蹲った恒に視線を戻す。正気に戻った八雲は、恒を気遣い助け起こした。
陽階使徒として遼生より先に恒に気を回さなければならなかった。
優先順位を間違えずに遵守しなければ……それが非常時であっても。
「なんと無茶を! お体に異変は」
恒は八雲に心配をさせまいと平然とした顔をしているが、呼吸の粗さは隠せない。
彼の体内で起こったことは、本当の意味で恒にしか分からないことだ。
八雲は彼の脈にふれ、額を合わせる。脈がはやい、それに微熱もある。
そんな状態であっても、八雲 青華に凛とした眼差しを向けている、その瞳の強さに彼女はたじろぐ。
何と強い子供だろうか、いや、彼がそうあろうとしているだけだ。
八雲は痛々しく思った。
「何とかなりました、彼のおかげです」
八雲は頬の筋肉が緊張し唇が震えて、言葉が出てこなかった。
何故か彼が彼女の息子のようにみえたからだ。
八雲は恒の両手を取り、膝をついた。
「遼生のために、ご無理を」
「違います、多少は彼のためですが、完全に彼のためにというのではありません。段階的に抗体活性を上げていけばいつかは抗原に勝ります。俺は彼の神体をその一つのステップに使わせてもらいました」
彼は素直ではないが気遣いができ、思いやりのある少年だと八雲は思い知った。
八雲の罪悪感を取り除くために、自身を貶す。
彼は決して“よい神”でも“よい人間”でもあろうとはしない、だが彼のアトモスフィアは誰よりも優しく、そして決意を秘めた人間は強い。
「それと同じことが、遼生にはできませんでした」
八雲は遼生が恒に劣っているとは思わない。
ヴィブレ=スミスと八雲の発想は、恒がしたことと同じだ。
だが、遼生には恒がやってのけたことができなかった。
恒は彼女を責めないように慮りながら、浅く首を振って頷いた。
「では兄は抗原を打たれることを望みましたか? Anti-AAA抗体を含め……免疫とはそういうものでしょう」
精神力は自己免疫を高め、ABNT抗原に勝る。
一つ一つの分子運動を緻密に計算していた八雲は、最後の最後に単純かつ絶対的なバイアスを理解していなかった。
ひとつの生体装置として創られた遼生も恒も、完全な機械にはなれないのだから。
言葉を詰まらせた八雲から視線を外し、恒は無抵抗の遼生に看破を試みる。
もともと遼生が何層の心層を持っていたのか。
定かではないにしろ、意識が落ちている間にはどんな神でもマインドギャップは生じないものだ。
それは避けられない脆弱性であり、どんな神でも他神に睡眠時の姿を見られるのを避ける。
恒はこの好機を利用して、彼の脆弱な活動電位をはらはらと読み解いてゆく。
彼の意識が戻れば、マインドブレイクは途端に難しくなる。
恒と同じ肉体の設計図を持つ神体だ、マインドギャップの層も厚いだろう。
「彼は知っていたそうです、あなたが彼に絶対不及者抗原を打ったことを。それでも彼はあなたを疑いたくなかったのです」
神であった遼生は使徒である母親をいとも簡単に看破し、彼は母親の裏切りを知っていた。
看破の方法など教えなくても、遼生は自然に看破法を身につけていた。
「兄さん。もう一度、こっちに戻ってきてくれないか」
むなしく見開かれた遼生の瞳に影をつくるように恒が手を翳すと、睫毛の先を湿らせていた彼の涙にふれた。
脳の障害も徐々に回復しつつある、引き裂かれ千切れた脳細胞は手を伸ばし、芽吹く若枝のように互いに繋がり合って一つの精神系を再構築してゆく。
恒には遼生の精一杯の努力が、生への渇望がはっきりと見える。
生きたい、そう願う意思を――だから
「大丈夫……彼の意識は戻ります」
八雲は恒を仰ぎ、しかし直視することができなかった。
「私はこの子に会わせる顔がありません」
「彼は七年間この場から動くことができませんでした。でも耳は聞こえていたようですよ。あなたが毎日彼に寄り添い、声をかけていたこと、彼は忘れず覚えています。記憶の深い場所にあなたとの思い出は大切にしまわれています」
八雲の記憶は鍵をかけられて、遼生の記憶の中にしまい込まれている。
使徒階の研究施設の一室に幽閉されていた彼にとって、母親の存在は彼の全てだった。
愛情深く接してくれた八雲との思い出だけを選りとって、辛い生体実験の記憶は薄められている。
彼は母親らの手によって数々の生体実験の犠牲者となった、だが八雲は彼を愛していた。
冷酷な技術者としての彼女の表情の影に隠された彼女の本心を、彼は忘れていない。
「それから……」
恒は踵を返そうとしたが足を止め、付け加えた。
「彼が起きても、俺の事は話さないでください。彼もまた、抗-ABNT抗体を持っています。彼を俺の身代わりにするために、俺は彼を起こしたのではありません。すべてが終わったら……また会いに来ます。それだけは約束してください、八雲さん」
遼生はいつでも恒の身代わりになることができただろう。
だからこそこの約束だけ。それだけは譲れなかった。八雲は二度と息子を裏切らないこと、遼生が二度と八雲に裏切られない為に誓ってほしかった。
八雲は首を縦に振ることも、横に振ることもできずにうろたえている。
「実験体としての彼は一度死にました。今度は彼自身の生を、穏やかに歩ませてあげてほしいんです」
「藤堂様……しかしあなたは……」
「俺は死にません。また笑顔で再会できます、そうできるようにしますから」
柄にもないカラ元気で微笑む恒の姿が、八雲には痛々しい。恒は遼生を助けようとするのか。決着がついた後。
恒の命があるのか、世界は存続し続けることができるのかすら、恒には分からないというのに。
ヴィブレ=スミスは大きなトラウマを至る所に残してきた。
こんな歪な親子関係は、もうたくさんだ。
恒はそんな言葉を胸の内に押し込め、遼生と八雲の手を片方ずつとり握手をして別れを告げると、彼らを残して消えた。
*
織図が最果ての谷に飛び降りてから、早くも180秒が経過しようとしていた。
ファティナの手元にある平面のモニターの明滅だけが、彼の危機を告げている。
彼を助けようにも、手を貸そうにもファティナには手も足も出ない。
EVEについての知識はないが、手を貸せない理由もあった。
織図は頚部にDIVE用のジャックポッドをあけ、そこにコードを接続してDIVEしているためよりEVEとのシンクロ率が高く、感覚的に、そして自在に行動することができる。
その一方でファティナはヘクス・カリキュレーションフィールド(Hex Calculation Field)で、暗闇に緑のグリッドと流れる数字、関数、コマンド、グラフ群というようなシンプルな階層の中で感覚的に情報を操っていた。
数列を指先で弾き、ループ状に束ね弧を描き、踊るようにデータを操る神具なのだ。
しかしEVEは勝手が違い、その操作の殆どを視覚認識に頼らざるをえず、神体とデータの一体感が存在しない。
これでは何をするにも不利だ。
そんな言い訳をしている間にも時間が過ぎてゆく。
織図の意識が落ち、EVEのファイアウォールが作動して織図が崩御するまであと100秒……、それ以前に織図が戻らなければ破滅だ。
バイタルのカウントはみるみる減ってゆく。
織図があとどれだけのバイタルを残しているのか、織図にも分らない。
100秒もたないかもしれない。何か手伝えることはないのだろうか、彼女はパネル全体を見渡して細心の注意を払ったが、どの情報を見ても手伝えそうな部分は残念ながらなさそうだった。
最果ての谷は、侵入する者の勇気や度量をはかるための一種の試練だ。
彼女が手を貸す事はできない。
そろそろプロテクトは解いたはずだ、彼が欲しがっていたデータも手にした頃だろう。
ファティナは織図が今何をしているのかというイメージを膨らませる。
信じたい、そうでなければ復路が間に合わないのだから。
『ファティナ!』
それはファティナのイメージ通りのタイミングで、彼女を呼ぶ声とともに織図が地底から飛び上がってきた。
織図は纏わりつく死の影を振りきるように全速飛翔で戻ったようだ、彼はファティナのいる崖上に着地するとようやく安心したのか、バランスを失ってまた最果ての谷に落ち込みそうになった。
ファティナは彼の神体が傾いて奈落に放り出される前に、しっかりと両手で彼の腰のあたりを受け止める。
……間に合った!
『織図様! ご無事で』
『ああ……なんとかな』
成功したとは信じがたい、実際に実現できるかどうかという点で、有言実行の難しさというものがある。
彼は冷静沈着ではないが、ここぞという場面に強い。
それも、特務省職員となってから積み重ねた精神鍛練の賜物なのだろうか。彼はファティナのトレードマークのボーダーのマフラーも拾って、持ち帰っていた。
ファティナは嬉しそうにマフラーを受け取って、シマシマ柄のそれを愛蛇のように首にまきつけた。
やはり彼女は、立体映像であろうともこれがないと落ち着かないのだ。
『しかし……、あなたは相当なバイタルを削られました。既に総計2220年以上のバイタルを消費……』
織図は彼女の言葉に上乗せして遮った。
『それと+480年だ。昔、480年削っちまったことがある』
織図は昔、エア(Hyy)という死神に引導を渡す為、彼が当時所持していたリビング・クリッパー(生命の刈鎌)という神具に480年をくれてやったことがある。
あの時の480年が、ボディブローのように効いている。
『……! 2700年に……』
単純計算すると織図に残された時間はもう、300年ほどしかないということだ。
『気にするようなことか。寿命3000年ってのは平均寿命であって、なにも3000年ぴったりに寿命が尽きるってもんでもないだろ。それ以上生きる奴もいる。俺は信じてやりたいね、自分の運ってやつをよ……』
即死の位階と呼ばれた死神でここまで生きながらえてきたのだから、運はよいのだろうと自負している。
そして今回も生還できた。
まったく、ついていると彼は運の強さを誇る。
彼は持ち帰った黒い小箱の中身をちらりと確認して、その蓋をファティナにも見せず大切そうにパタンと閉じた。
『ひとまず現実空間に戻ろう。このデータをEVEから出して別の端末に入れて、EVEから切り離さなないと』
『ええ、その方がよさそうです』
ここにいる限りいつまたデータが奪われるとも、紛失するとも限らない。ファティナもそれには賛成だった。
『近道で戻ろうか』
織図はオーロラ色のメタリックグローブをはめ、彼の周囲に大きな正円を描いた。
往路はそれなりに体力があったので長距離の飛翔が出来たが、復路は体力がもたない。
織図が範囲指定した空間は切り取られ、ぽっかりと黒い穴が空に開いた。
織図ははやくもその中に頭をつっこんでいる。織図がEVEに自在に穿つこのワープゾーンを介して、EVEのエントランスにワープできる。
転送後、ファティナと織図は切り立った高い崖の上に無造作に置かれたリング状の巨大モニュメントの前に放り出された。
リングの内部はシャボン液のような色をした膜が張ってゆらめいている。EVEの疑似陽光にその鏡面がキラキラと反射して虹色に輝き、幻想的だ。
『よし、EVEを出るぞ。送還ゲートをくぐって意識を神体に戻せ』
織図とファティナは手を取り、シャボン玉のような光沢を持つゲート表面に立体再現された自身のホログラムをねじ込み、通過させようとした。
このゲートを通ることによって、デジタル化した精神回路はアナログな神経回路に返還される。
ファティナは足を差し入れたが、織図がふいに彼女の手を強く握った。
現実空間に戻るのに何か躊躇することがあるのかと、ファティナは織図を振り向く。
『どうされました?』
『ダメか……俺は通れねえ』
織図の足はファティナのようにゲートを通ることができず、シャボン色のバリアに弾かれる。
ゴム膜につつまれるように、織図の足は膜を通り抜けることができない。
EVEの主である織図が、システムに拒絶されている。
そう、織図だけが!
『ど、どうしたのですか?』
彼は顎鬚に手をやり暫く考え込んだのち、どこかすがすがしそうにきっぱりとこう言った。
『神体が死んだんだろう、それもたった今だ』
『え!?』
あまりにも明るくはっきりとそう言うので、ファティナは声を裏返してしまった。
『死んだんだ、最果ての谷から戻るには戻ったが、現実空間でたった今バイタルが尽きた。少し時間を残して戻ったと思ったが……タイムアップだったんだ』
楽観的な織図をあざ笑うかのように、今度という今度は見過してもらえなかったようだ。
運と、そしてバイタルはもう、尽きていたのか……。
『ちくしょう!』
織図は憎らしそうに叫び、EVEの空を仰いだ。
手にしたデータを修復することなく、この世を去らなければならないのだから。
ほんの少しの助平心が、織図の命を無駄にした。
こんなことの為に、死ぬことになるとは彼は思わなかった。
だが結果は結果として受け止める、それが彼の性分だ。
『ファティナ……頼みがある。これを持って現実空間に戻れ。俺が崩れたらEVEは30分以内にシステムダウンする。閉じ込められて出られなくなる、行け、早く!』
織図は懐に入れていた黒い小箱をファティナに手渡した。
彼女が中を見ると、ハードディスクのジャンクのようなものが詰め込まれている。
この中に、 ユージーンのデータの破片やアルティメイト・オブ・ノーボディの真意がある。
織図はデータの持ち帰りに成功し、彼は期待を裏切らなかった、だが代償はあまりにも大きすぎた。
死神 織図 継嗣 死す―――。
『織図様も戻りましょう! 戻るんです!』
彼女は感情的になって織図の手をぐいぐいと引っ張った。
どんなに引っ張っても彼の手はやはり、送還ゲートをくぐれない。
EVEの審査は無情で厳密だ、彼はもはや生者ではないと判断され、彼の精神はEVEに閉じ込められている。
EVEのマザーコンピューターは何人たりとも、死者の逃亡を許さない。
『通れねえって言ってるだろ。この世界は単純なルールで成り立っている。バイタルが尽きたら、死ぬ。誰も逃れられん……どこに逃げてもな。そして、死んだ神体に精神は戻れん。分ったら、行けよ』
『でも……っ!』
『でもじゃねえ! 行け!!』
織図は怒鳴りつけると、最後にゲートの内に彼女を押し出すようにして、崖の上にばったりと倒れて動かなくなった。
精神的にはかなりに強靭だと知られている織図もこうなると脆いものだ、バイタルという生命の通貨を失った者は死ぬ。
それが神でも、人でも、動植物でも……。
バイタルがなくなっても織図だけは大丈夫だと、ファティナには妙な安心感があった。
だがそれもどうやら勘違いだったようだ。
根本的な問題だが、神々の記憶は本当の意味ではEVEには入れない。
あくまでもDIVEは異物を受け入れているという状態であって、その記憶は完全にEVEの言語に変換できず、システマティックなプログラムに変換できないのだ。
神の記憶を完全にデジタル変換出来るのはノーボディだけ。
つまり織図は、人々の記憶がEVEで永遠を生きるように、仮想現実の中で生きてゆくことはできない。
現実空間で崩御すれば仮想空間でも死ぬ。逆もしかり……皮肉なものだ。
『織図様が……崩御なされた』
何かの間違いではないのかとファティナが開いていた手帳の自動筆記ペンは駄目押しをするように、織図の死を告げている。
すぐさま退避行動をとらなければ、まだ生きているファティナも織図の意識とともにEVEの中に閉じ込められて出られなくなる。
次代の死神が再びEVEを立ち上げるまでどれほどの時間を要するのか知れない。
いくら神体が生きているとはいえ、システムダウンしたEVEの中で、EVEの環境に適応し特化した死神でもないファティナが生き延びる確率など皆無にも等しい。
どうあっても30分以内に織図を残し、戻らなければならなかった。
だが、彼女は彼を見捨ててゲートをくぐることができない。
一柱の陽階神として、それより彼女の慕った愛すべき先輩としての彼を見捨てることができないでいる。
そして、彼の復活の可能性を捨てきれない。
彼女が窮していると、落ち着いた女の声が彼女を呼んでいた。
「何をやっているの?」
EVEの住民のひとりが織図の異変に気付いたのだろうか、どこからともなく現れ、近づいてきた。
「倒れているのは死神と見受けるけど……?」
EVE住民のことを構っている間など、彼女には悪いがファティナにはなかった。
一刻も早く戻らなければ、取り返しのつかないことになる。織図と一緒に戻るのだ。
『ええ、そうです。連れて帰らなくては、現実に! EVEでは助からなくても紺上様ならまだ……』
ファティナは織図に肩を貸し、担ぎあげた。
仮想空間で織図の質量は感じない、既に魂が抜けてしまった抜け殻のようでそれがまた、ファティナの焦燥感を掻き立てた。
医神 紺上 壱見ならば24時間以内の神の蘇生の実績がある。
だが、それはまだ神体にバイタルが残っていた場合のみだ。
完全にバイタルが尽きた神を誰も蘇生できはしない。
いかに彼女が名医であろうとも。分っている、分りきっている。
それでも、ファティナは紺上のもとに連れてゆこうと思った。
そうでなければ納得などいかない。
くすり、とファティナの努力を嘲うかのように女が微笑んだ。
「バイタルが尽きているんでしょう? 助からないわ」
女の冷静な指摘は、ファティナの胸を引き裂くように。
核心をついてくる。そう言うからには、女はEVEのシステムに精通しているとみえる。
そういえば、彼女はどうやってここまで来たのか?
この崖の上は、地上から500mはある。周囲は断崖絶壁で孤立しており、飛翔能力がなければ辿り着けるような場所ではない、そしてEVEの住民にそんな能力はない。
移動手段は徒歩か自家用車、自転車、EVE内の公共交通機関だけ、あとは趣味で飛行機やハンググライダーなんかをやっている者もいるが、とてもランディングできるような平地ではない。
だいたい、テーブル状になっているこの崖上は、20平方メートルほどしかないのだから。
『……でも』
「だから、助けたければバイタルを与えればいいの」
悪魔の誘惑を平然と持ちかける。
「それもまだ、生きている者からね」
振り向くと、蠱惑的なまなざしで女はファティナを見下している。
あたかも彼女の本心を引きだすかのように、その口元は綻んでいた。
しかしファティナ は彼女の誘惑に打ち勝つ自信はある。
それだけはできない、やってはならないことだ。
神の名のもとに誰かの生命を奪う事は出来ない。誰も織図の身代わりにしてはならない。
ファティナは試されている。
『生きている者から……? 生きている者から無理やり命を削ること、それは神階の倫理に反します。それが人であっても、小動物や昆虫であっても、許すわけにまいりません。彼らだって生きたいと切望しています』
「そうね、お前の言い分は分っているつもりよ。では死を望んでいる生者がいるとしたら? そうね」
彼女はすっと自らの胸に手を当てた。
「たとえばここに」
死を望んでいる生者、その単語はファティナの思考回路に張り付いただけで、思考領域に浸透してゆかなかった。
その言葉は彼女の脳裏をただ滑っただけだ。
右から左に抜けそうになったその言葉を、彼女は引きとめて咀嚼する。
彼女の理解を待つように、女は口を閉ざしていた。
『死を望んで……ということは、生きている? あなたが? EVEの住民だというのにですか?』
「……おめでとう。織図を助けられるわ」
不敵にもファティナにそう言い放った女はレースをあしらった黒いドレスを纏い、ビロードの帽子を目深にかぶっていた。
その悪魔崇拝者的ないでたちと彼女のもの言いの違和感が、ファティナには強く印象に残った。
神は二度、断崖のふちで悪魔に試されていた。
*
恒はまた、この場所に、グラウンド・ゼロに舞い戻ってきた。そこにレイア・メーテールが戻った気配はない。
フェンスに指をかけ、握りしめた。
「レイア、どこにいるんだ……」
手がかじかむ。
彼女をどこまででも捜しに行きたい。
彼女は今どこにいて、そして無事なのだろうか。
悲惨な想像に及ばないように、思考にブレーキをかける。
恒は昔から彼の本心を誤魔化して蔑ろにすることが得意だ。
「俺はそんなに頼りないかよ!」
恒はレイアの消えたグラウンド・ゼロの中心に叫ぶ。
声の掠れた問い掛けはむなしく反響して消えた。
山際を掠める朝陽に当てられ、闇に紛れていたフェンスの輪郭が消えてゆく。
恒のその手に強く落ちる影に焼き付けられそうだ。レイアの存在したその名残は急速に、朝の気配に書き換えられて蒸発しつつあった。
「INVISIBLEに何を云われた!」
何故INVISIBLEがレイアに執心するのか。
INVISIBLEにとって絶対不及者とは何なのか、大切なINVISIBLEの器、それ以上に絶対不及者であることに何の意味があるのか。彼女はそれを知ってしまったのだ。
彼女をINVISIBLEから取り戻す為に恒が何をしなければならないのか。
恒にはわからなかった。
彼女がそれまでどんな些細なことでも恒を頼りにしていたように、肝心なことをこそ打ち明けてほしかった。
彼女はひとりでは何も出来ないと思っていた、そして彼女は恒なしでは事実何もできなかった。
そんな臆病で繊細な彼女を動かしたINVISIBLEの言葉だ。
何か致命的なことを言われたのかもしれない、たとえば彼女の弱みに付け込むような、そんなことを――。
そして恒と彼女の信頼関係はINVISIBLEからの語りかけで揺らぐほどの、それほどのものでしかなかったと思いたくない。
彼は悔しさのあまり、いまにも胸が張り裂けそうだ。
「……こんなじゃ、だめだ……」
恒は魂を失った亡霊のように立ち上がった。立ち上がるしかなかった。
どんな苦難に見舞われようと、レイアだけは見失わないつもりだった。
彼女となら一緒に乗り越えて行けると思っていたから。
レイアは戻ってくる、きっとまた、この始まりの場所へと。
その時彼女はまだ、彼女を守りきれなかった恒を信頼してくれるのだろうか。
足を半歩ほど引いたとき、ぐしょ、とスニーカーに何かが触れた。
山中では違和感のある感触に、反射的に目を落とす。足元には湿気をたっぷりと含んだ、4つ折りのメモが落ちていた。ゴミではなく、便せんのようにみえた。
『恒さんへ』
表書にはレイアの字。彼女は筆圧が弱く細い線の、小さな字を書く。
普段の勉強には英語を使うが、恒に手紙を書く場合は気を遣って日本語で、そんなときには特に小さくなる。
フェンスの内側にではなく外側に残されたメモ、恒に読ませるために残したものだ。
必ず恒がここに追ってくると信じて。
遺書じみていて嫌な予感がした。
恒は一字一句読み飛ばさずに、速読術を使わずしっかりと読んだ。
一行読むごとに、体力と気力を奪われてゆく。
わずか20行ほどのメモを読み切ったとき、力が抜けてフェンスに縋りながら、疲れ果てた顔をくしゃくしゃにしながら無言で首を振った。
――もう、何が正しいのか、わからない。
*
「ティナちゃんとオリちゃんてば、遅いのー」
有為はバグ取りをしながらも、彼らの身を案じていた。
有為の隣には棟永が張りついている。棟永はもう半泣きだ。
彼は織図の計画を聞いていなかったし、虎視耽々とその機会を狙っていたわけでもないだろう。
ただ今日突然思いついて彼は行動に出た。
何事にも興味のない素振りを見せておいて行動力だけはあるのに腹が立つ。
「2時間って言ってたけどー、もう2時間過ぎてるしー? ちょっとー、ムネちゃん気がきかないのー? コーヒー出してくれるー? カフェラテがいいなー」
有為が棟永にコーヒーを要求した時、オペレーションルームの照明がガタン、と落ちて真っ暗になった。
もともと窓のないオペレーションルームは、明かりが落ちると視界はゼロだ。
停電か? 予備用のバッテリーに切り替わるまで慌てず待てばよいと棟永が煙草のライターを取り出して火をつけようとした次の瞬間、耳を劈くようなブザーが鳴り響き、真赤なパネルが有為の手元に浮かび上がった。
それに目を通す間もなく次次と、赤いパネルが目の前に整然と積層化して並んでゆく。
棟永は前に身を乗り出し、ライターを床に落とした。
「そんな……馬鹿な……!」
「なーにー、またエラー?」
“No,2 DIVER, Duglass Niever. Disconnected. Error code 001“
(第二ダイバー、ダグラス・ニーヴァー、アクセス切断。エラーコード001)
“001Error is beyond restoration…We cannot recover from 001 Error“
(001エラーは 修復不能です。001エラーから回復できません)
“We put Emergency Escape Protocol into motion”
(緊急プロトコルを適用します)
“Shutting down the EVE System…counting down ”
(EVEをシャットダウンしています…カウントダウンします)
“There are 1800sec remaining”
(残り時間はあと1800秒です)
「なーにー、このエラー? 1800秒以内に戻れってことでしょー?」
赤地に黒字の情報は、1800秒後のEVEの強制終了を告げている!
何度もこの画面を目にした事のある棟永だけは知っていた。
冥王。
死神が、織図が崩御したという意味だ。
彼は有為に背を向け、顔を覆い、声を殺し泣きに泣いた。
しかし彼は泣いている場合ではなかった、ファティナを現実世界に戻さなければ、織図もろとも EVEの中に閉じ込められてしまう。
泣いている場合ではない、非常事態行動を取らなければならなかった。
「ティナちゃん……何をしているの?」
有為の言葉で、棟永はわれにかえった。
シャットダウン目前のEVEの内部から、ファティナはEVEのマザーコンピューターに接触している。
カウントダウンが続く中、連鎖反応的にEVEが機能を閉ざしてゆくそのさなかで、一部のエリアはまだ抜け道的に非常用演算を受け付けている。
ファティナはその隙をついて、内部からできるだけの事をしようとしているのだろうか。
棟永はリアルタイムで送られてくるログに目を走らせた。
ファティナは内部モニタとナビゲーションを使って、次々とコマンドを打ち込んでいる。
さすがは仮想空間に常駐する数学神……その処理情報は膨大だ、棟永の目も追いつかない。
ログは風のように流れてゆく。
「このアクセスはバイタル転送だ……ファティナ様、一体何を! 違法だ、こんなの、認められない! やめてくれ、ファティナ様! こっちに戻ってくれ!!」
織図を蘇らせようとしているのは分る、そうしたい気持ちも分る、だがそれだけはやってはならない!
外部から棟永が叫べど、どうしようもない。有為も驚いて、手こずっている棟永を押しのけてログを追う。
棟永にはできなくとも、有為のスピードならファティナの速さについてゆける。
有為は一時停止コマンドを打ち込もうとするも、ファティナにロックをかけられている。
「バイタル転送って生身の生物から、命を奪うってやつでしょ? ティナちゃんてば、何やってんのー!」
「人間のバイタルを奪ったところでたかだかしれている。無駄です! 戻ってくれ! ファティナ様……あなたも、戻れなくなるんだぞ!」
崩れゆくEVEの中で、何が起こっている……。
ファティナはどこからバイタル転送をかけている? 織図の死に際し、血迷ったのだろうか。
「え……でも何からバイタルを奪ってるのー? +350年…+360年…まだ? こんなにバイタルを持つ生物、生物階にはいなくないー?」
有為はしっかりと捉えていた。
ファティナは織図に、どこからか数百年以上のバイタルを引っ張ってきた。
神に数百年単位のバイタルを供給できる者……それはもはや、人間ではない。
ファティナは一体何からバイタルを奪っているのか? 見当もつかない。
「もーティナちゃんてばー! 一体何をやってるのー!!!」
赤と黒のコントラストに閉ざされたオペレーションルームに、有為の絶叫が響き渡った。
*
半ば期待していなかったことだが、やはり家主はいなかった。
朱音はいつものように決まったコースで荻号の家の中を捜索して回り、水炊き鍋の夕食の下ごしらえをしながら夕方のアニメを見て時間を潰し、宿題も一問だけ残してあとは手早く終わらせる。
いつも宿題を一問だけ解かずに残しておくのは、解らないのではなく、彼に教えてもらうことにしているからだ。
彼は恒と並び学年一位の成績をおさめる朱音が未だに宿題の質問をすることを、渋々といった顔をしながらも、今のところ許してくれていた。
彼女は彼の帰りを楽しみにしていたのだが、それでも彼は帰ってこなかった。
そもそも、彼は朱音が待っている事を知っているので心配をかけないよう早く帰ってくるのが常だったが、今日はいやに遅い。
このまま大切な存在が帰ってこないのではないかという不安を、いつも朱音は経験している。
荻号は朱音にアトモスフィアという不思議で大切な糧をくれる、だが荻号からもらっているのはそればかりではない。
それは未来に対する揺るぎない安心感だ。
安心感というと妙かもしれない、彼は家にこそ住んでいるが根無し草のようだし、世界中のあらゆる場所に一瞬にして行ける。
ある日突然帰ってこなくなる可能性も限りなく高いのだが、彼は朱音を簡単には見捨てないような、そんな気がした。
「遅いなぁ? ……どこに行ってるんだろ」
朱音は風呂場に湯を沸かしに行った。
押し戸になっているガラス扉を開けようとして、何かがつっかえている。
荻号が戻ってきたのだ。
そしてドアを一枚隔てた向こうにいるのはどうやら、彼だけではなかった。
荻号の上に乗りかかるようにして、誰かが倒れている。
「荻号さん、と誰?」
「ここ、開けて! そこに倒れてたらドアが開かないじゃないのー!」
すりガラスの向こうに、嫌な赤い色彩が見えた。血だ。
怪我をしている……ふたりともだ。
朱音は勝手知ったる工具箱の中から取ってきたドライバーを使ってレールからガラス扉を外し、浴室内に踏み込んだ。
中には血まみれのふたりが倒れている。
荻号もそうだが、荻号の連れ……不揃いなショートカットの白いドレスの女の方が重傷のようだ。
「ど、ど、どうすればいいの?」
朱音は携帯電話で119番通報しようとしたところ、荻号に携帯を持つ手を押さえられた。
その荻号の腕を見て、朱音は今までの彼になかったものを発見した。
彼の腕一面が、マグマに覆われたように金色に眩く輝いていた。
「荻号さん……何があったの?」
「いいんだ、通報するな」
「でも! ふたりとも大けがじゃない! ふたりとも死んじゃう!」
朱音が大きな声を出したので浴室に思いがけず声が大きく反響して、女が気付いた。
「何が起こっていた」
うつ伏せに倒れたままの女が、誰にともなく呟いた。
朱音には彼女の細く美しい肢体が印象的だったが、その白いワンピースを深紅に染め上げるように腹部から大量の血を流してその血液はただ排水溝に注ぎ込まれている。
荻号の赤透明な神血と、女の少し黒ずんだ血液が混じり合って流れてゆく。
この血の色……静脈血。
彼女は人間なのだと、朱音は察した。
その手掛かりによってどちらを先に手当すべきなのか分った。
緋牡丹の咲いたドレスを身に纏っているよう、喘ぐ息が白く立ち上って艶っぽく見える。
きれいな女性だな……。朱音は瀕死のようにも見える彼女に素直にそう感じた。
朱音はバスタオルを持ってきて、女を助け起こし、それで寒々しい肩をくるんでやった。
新しいハンドタオルで、傷口をそっと抑える。
きついまなざしをしていた女は表情を和らげ、朱音に微笑みかけたようだ。
この顔立ち、どこかで見たことがあるような気がする……。
女の腕にもやはり、荻号と同じ黄金の徴があった。
「バイタル転送だ。それができるのは織図だけだ、だが、何が起こった」
荻号は仰向けに倒れ込んで目を閉ざしたまま、寝言のようにそう呟いていた。