第2節 第8話 Infiltration survival game
「急な話で悪いな……」
どうみてもギャル系女神、有為 枝折、そして模範的陽階神を絵に描いたような完全無欠の女神、ファティナ=マセマティカ……。
全くタイプの異なる二柱の女神を前にして、織図は申し訳なさそうに煙管の火を消す。
彼女らも暇を持て余してはおらず、生物階と神階の混乱に関連した業務で多忙を極めていた。
そんな折の呼び出しに彼女たちもさぞや迷惑をしているだろうと、EVEの巨大サーバーの安置された前室で織図は彼女らの事情を慮った。
「私は結構ですよ。織図様が頼みごとをするなど、滅多にございませんもの」
ファティナは屈託なく微笑み、織図を気遣う。
織図が特務省職員としての制服のまま二柱を呼ぶなど、異例のこと……。
上司として彼女らを呼んだということを意味した。
そもそも互いに干渉しあわない気質の陰階にあって、織図 継嗣は比較的付き合いのよい陽気な陰階神だ。
死神として即位した当初は偏見の目に晒される事も多かったとのことだが、在位し続けるだけでも困難な位階に驚異的な期間を在位し続けているという事実と、特務省特務従事者であるというミステリアスな肩書、また彼の生来のひとなつこい性格もあって神と使徒の別なく彼を慕うものが多く、陰階でも陽階でも一目おかれている。
織図と歳の近い彼女たち二柱も例外なく彼を慕って執務室を訪ねるし、逆に織図の権限を利用して彼女たちの生物階降下の便宜を図ったことも一度や二度ではなかった。
二柱にとって織図は兄貴分のような存在だ。
そういうわけでこの二柱は、普段から仲の良い織図の頼みとあれば二つ返事で応じるところだが、今回は事情が違う。
勘のよい有為が渋い顔をしているのは、話がEVE絡みだと気付いたからだ。
一般的な常識を持っている神ならば、よほどのことがない限りEVEには関与したがらない。
EVEの管理は織図にしかできない特殊任務に従事しており、そのシステムに精通しているのも織図のみだ。特に彼女らはその職業柄、EVEの危険性を熟知している。
EVEに精通することが織図以外の他神に能わないからこそ、織図の代以前の死神は代々夭逝するものと相場が決まっていた。
有為はファティナの素直な態度とは逆に珍しくサングラスを外し、徹底抗戦の構えだ。
「で? 何でその格好で呼ぶのかな? いつもの喪服で来なよ断れないじゃん。EVEがらみのことはムリだってば、絶対やらないからね」
ちなみに織図が普段着る聖衣である黒衣は、陽階神の間では喪服と呼ばれていた。
ご機嫌ななめの有為に、織図はそれでもと言って無理強いをしようとはしない。
EVEにDIVEすると意識はプログラムへと変換され、精神の揺らぎはプログラムの脆弱性を生む。
少しでも迷いや不安を持ったままEVEにDIVEをすれば二度と現実空間には戻れない。
二柱ともに辞退をするようなら、織図一柱ででも往く覚悟だった。
「そう言うな、俺だけじゃとても手におえなくてな。お前の意思は分った、ファティナはどうだ」
「オリちゃんに手におえないものを一体どーしろっての。ティナちゃんだって無理よねー?」
有為はファティナが返答する前に、ティナと勝手にあだ名をつけた彼女に水を向ける。
ファティナはいつも、厄介ごとから逃げ遅れてしまう損なタイプだ。
「有為様が固辞なされるなら、僭越ながら私が……。あなたと仕事をするのは初めてですが、どうぞよろしくお願いします」
「さすがファティナは話がわかる」
「ティナちゃんってば断ればいいのにバカ正直なんだから」
有為が彼女を馬鹿正直だと揶揄するのは間違いではなかった。
ファティナに限っていえばどんな無茶な依頼でも断ったためしがない。
彼女は働いていなければ生きている価値がないと考えているふしのある石頭な陽階神だ。
あまりに無茶な依頼を受け、身を粉にして働きすぎたため身体を壊し、入院した経験も一度や二度ではない。
ムジカより手ほどきをうけたという趣味のピアノをたまに弾くのが息抜きで、肩の力を抜いて気楽に……といった類のことは一切知らない。
「私は貴方ほどの処理速度は出せませんが、何かお力になれますでしょうか」
「速度はいらんさ。難しいことは頼まないよ」
「あなたにとっての難しい、と私にとっての難しいはレベルが違います」
謙遜しながらも、彼女にはどことなく自信があるようだ。
「ティナちゃんてば、それでいいのー? 下手すりゃ死んじゃうのよ? EVEっていったらオリちゃんにしか扱えないシロモノっしょ、そのオリちゃんが四苦八苦してるのに一般神がどうすんの?」
ファティナの危険を心配した有為が説得にまわる。
歴代死神のうち最長在位期間を誇る織図はたった一柱で彼の庭でもあるEVEを縦横無尽に駆け、EVEのどこに行くにも誰の助けもいらない。
それどころか織図以外のファクターの介入は、芸術的なまでに完璧に統御されたEVEの調律にとってあまり好ましくないものだといえた。
それを承知のうえで織図が二柱の助力を請うとあれば、この仕事は相当なヤマなのだ。
ことさらEVEへのアクセスは厳密で、EVEが自衛のために実装された攻撃的セキュリティによって神経系を侵食され、命を落とした死神も一柱や二柱ではなかった。
うっかり織図の手伝いのために、EVEの露と消える可能性も否定できない。だが……
「私はそれがどんな依頼でも、クライアントの依頼を断ったことはありませんもの。力量不足は実感しますが、粛々と任務にあたるだけです」
ファティナは強がって健気に微笑んだが、少し手元を見れば織図は彼女の指先が震えていることに気付く。
ファティナはGLネットワークにスケジュールを公開しており、目下のところ多忙ではあるが大きな依頼がないのを織図は知っていた。
原則として極陽クラスの依頼がなければスケジュールは前後されないのだが、織図が特務省の制服を着て依頼をした為、織図からの依頼は最上位ランクに付される。
結果的に無理強いをさせてしまったのだろうか、と織図は柄にもなく悪びれた。
「EVEの鬼畜仕様なプロフラムに耐えられると思う? 自分の身体が大事でしょー?」
有為がファティナを思いとどまらせようとする前に、織図は話を打ち切った。
「悪いがよろしく頼む。有為はEVEのシステムの維持を頼んだ。俺の意識がEVEから離れる間、バグが頻発するだろうからな。EVEに潜りたくないなら外部監視で構わんよ、だがバグ取りはこまめにやっといてくれな」
EVEに入らない限り、エンジニアは安全だ。
有為は不貞腐れながらもようやく首を縦に振った。
「ところで、面倒くさがりのオリちゃんがそうまでして調べたいものって一体全体何?」
「何だろうな。俺にもよくわからないんだ、2時間ほどで戻る、頼んだ」
「もー!」
織図は具体的な事は何一つ明かさないまま、有為を外部監視用オペレーションルームに残し、ファティナを連れ端末のある部屋に入っていった。
織図を信用しきっているようだが、有為は一瞬垣間見せた織図の横顔が気になった、彼が真剣に悩む姿など見たことがなかったものだから……。
有為が思わず彼らを呼び止めようとした頃には、端末室に繋がる重く黒いドアは固く閉ざされていた。
*
薄暗く陰気な研究室で黙々と研究に取り組む岡崎は、またしても災難続きだ。
岡崎の実験ベンチの上から比企が降ってきたのだ。
インキュベーターに細胞の入ったシャーレを収納しようとしていた岡崎は集中を殺がれ、シャーレの中の赤い液体培地を床の上にぶちまけた。
彼は比企に聞かれないよう口の中で舌打ちをして、今日まで72日もかけて育ててきた大切なサンプルを無言で破棄する。
無菌環境を破られたサンプルは、惜しげもなく棄てられる。
彼はどんな些細なことにも妥協を許さない。
サンプルを失った苦情を述べる代わりに、訪問の不当を追及する事にした。
「これは、極陽。面会の予約は入っておりませんでしたが何用でしょうか?」
極位に就任したとはいえ、他神の部屋に断りもなく侵入とは比企も随分と偉くなったものだ。
岡崎の不満はくすぶる。
とはいえ、岡崎より随分先輩にもあたる比企を見下すこともできない。
「すまない、想定外の事故が起こっての。ここに藤堂が来た筈だ、どこにいる?」
「事故とは?」
「それはまだ明らかにできん」
”レイア=メーテールが行方不明になったことを、比企は隠匿したな”と、岡崎と比企との間に緊張が走った。
比企が岡崎のマインドギャップを看破できることは岡崎も知っていることだ、恒からレイア=メーテールが行方不明になったと聞いたと比企は看破して知っている。
その事実を隠すからには、この事実を神階に明らかにするなという牽制と受け止められる。
騒ぎ立てるなという比企からの警告だ。
岡崎は事を荒立てるつもりはなかったので、レイア=メーテールの件は探らない方が賢明だと悟った。
「私は守秘義務に基づいて、それを開示することはできません。もしここを誰が訪れてどんな会話がなされたかを神階の長に報告する義務があるときは、命じてください」
岡崎は形ばかり会釈する。
「ああ、命令だ」
「藤堂君はここに来ました。先ほど帰りましたよ」
「いや、帰っておらん」
岡崎の報告を否定した比企は研究室の隅々に目を配りはじめた。
岡崎は丁度山場を迎えていた実験を断腸の思いで中断し、比企が何か捜しているようなので仕方なく彼が捜しやすいよう明かりを灯す。
比企は探し物の合間に携帯の画面を見つめている。
岡崎自身が恒を研究室の外に見送ったのだから、ここには絶対にいないと断言できる。
だが比企は信じようとしない。
不法侵入のうえ濡れ衣をかけられ長居されても、岡崎としてはいい迷惑でしかない。
「藤堂君は帰りましたよ」
結果的に岡崎は二度目の報告をした。
比企が梃子でも信じようとしないので、岡崎は仕方なく根拠を問いただす。
「何故ここにいると思われますか?」
「藤堂の腕時計の中に発信機が仕込まれている。そして発信源はここだ」
「……はあ」
秘蔵っ子の行動を信用せず発信機を持たせるあたり、いかにも比企らしい。
岡崎はとにかくこのやり取りが億劫だった。
何か帰ってもらうためのいい方法はないものか……そう考えつつベンチの上に放り出していた指先に硬いものが触れた。
「腕時計ですか? それなら、忘れていきましたよ。預かっています」
岡崎は恒の忘れ物に気付いて預かっていた。
次に会ったときにでも渡せばよいとそんな程度に考えていた。
わざわざ恒に時計を届けるために研究室の外に出るのは彼にはとんでもなく億劫だ。
比企は腕時計を手に取り、してやられたのかと目を見張った。
「忘れた? だとしたら故意にだな」
恒は意図的に比企の監視を振り切った。
彼が完全にアトモスフィアの放散を絶てば、恒の追跡はどうやっても不可能だ、そしてアトモスフィアの放散を断つ方法を教えたのも比企だ。
小賢しい恒にはとことん裏をかかれる。
恒は何を企んでいるのかと、比企は考え込む。
一方、比企に長居されても困ると考えた岡崎は、比企が興味を持ちそうな話題をさっさと話してしまう事にした。
腹の探り合いなど面倒なだけだ。
「ああ……そういえば彼は絶対不及者の体液を欲しがっていました。取り合わず、追い返しましたよ」
「何……? 彼は引き下がったか」
「ええ、分かりましたと。聞き分けはよかったですよ」
比企は岡崎の告白によって恒の計略を知った。
比企は心理戦において岡崎をすら凌いだ恒の駆け引きの巧さに感服し、苦笑した。
「さようか……ブラフだ。彼は汝のマインドギャップを看破して体液の在りかを知ったのだろう、納得した風を装いながら目的を達成する。それが藤堂という少年だ」
岡崎は何を言い出すのかと苦笑する。
5層の心層を持つ岡崎を看破するなど……不可能だ、成神した枢軸神でなければ。
恒の年齢だとマインドギャップは持ちえないか、あって1層がいいところ。
「12歳の少年が、私の心層を看破したと仰せですか? それはいささか無理が……」
「無理などない。彼には10層のマインドギャップが備わっている」
冗談を言わない比企が真面目くさってそう言うのだから、岡崎は半信半疑ながら引き下がる。
「侮りました、体液の保管場所を変えます」
「彼はまた汝を訪ね、何度でも在りかを看破するだろう。己が預かる。彼と同じ層数を持つ己ならば藤堂に看破されることはない」
「なるほど恐ろしい少年ですね……」
「IVAAAプロジェクトに関わった汝ならば、彼のポテンシャルを知っていただろうに」
岡崎は一本だけでも手もとに保管しておきたかったが、仕方なくポットに液体窒素を充填し、中に例のストックチューブを5本放り投げて蓋を閉め、比企につきだした。
岡崎が保管しているものは、これですべてだ。
「私は10歳をこえてまともに成長した検体を、見たことがありませんから」
岡崎はばつが悪そうに、そんな言葉を申し添えた。
藤堂 恒をたかが子供と侮っていると、裏をかかれる。
*
「怯えるな、EVEはいわば俺の半身だ。死なせやせんよ」
冷たい端末室に入って背筋を伸ばすファティナに、織図は一語一語をかみ締めるようにそう言った。
「ええ、あなたを信頼しておりますから」
信頼にこたえられればいいがねと、そう言いながら織図は端末に接続可能な二台のコンソールシートに彼女を座らせDIVE用のグローブとゴーグルを装着させる。
彼の場合はゴーグルと頚のジャックポッドを介してケーブルとコネクタを固く接続し、ヘッドギアの中に茶色のドレッド頭を沈める。
EVEとのシンクロ率は織図の方がファティナより高く、逆にEVEから浸食があった場合はその浸食度は深い。
ファティナの接続はローリスク、ローリターン(低シンクロ)、織図はハイリスク、ハイリターン(高シンクロ)の接続法だ。
マザーコンピューターの前に並列に横たわったファティナと織図の神体の上を全く同じ動きで神体スキャン用の青いレーザーが走り、加工音声が彼らのダイヴ前の定常状態を調べ上げる。
わずかな痛覚とともに採血用の針がファティナと織図の指先に刺し込まれ血液採取された。
六方魔方陣演算空間に潜入するより格段に入念なチェック体制だ。結果を吐きだす合成音声が狭い室内に反響する。
端末の部屋は、肌寒いを通り越して凍えるほどにキンと冷却されていた。
ファティナと織図。
双方にとって、普段通りの気温。
“No,1 Fatina Mathematica, 体温:正常、酸素濃度:正常、脳波:正常、脊髄反射:正常、血中DLT:適性値、Atmosphere:潤沢”
“No,2 Duglass Niever, 体温:正常、酸素濃度:正常、脳波:正常、脊髄反射:正常、血中DLT:適性値、Atmosphere:潤沢”
ほどなく、マザーコンピューターは二柱のEVEへのダイヴ許可を下した。
ケーブルを介し二柱の意識が神体から引き抜かれ、小さな窓に押し込まれるような圧迫感とともにファティナと織図はEVEの空に放り出された。
仮想空間で瞳を見開いた織図は頼りなげに漂っているファティナのデータを見つけると、彼女の周囲にシールドを作りグラフィックを安定化させる。
そして立体再現されて間もなく体勢の定まらない彼女の手を取ってEVEの空を飛翔するという感覚に慣れさせる。
立体再現されたファティナの神体は織図よりずっと透けている、シンクロ率が低いのだ。
ファティナは彼女の意識の半分を神体に残してきた、織図が彼女の安全を優先してEVEに押し込む意識比率を上げなかった。
『さすが、業種が同じだけあってダイヴに問題はなかったみたいだな。ちなみに俺が初めてここに入った時には盛大に吐いた』
『ここが……仮想死後世界EVEですか……! 美しい世界ですね、まさに人々の夢見た天国や極楽浄土のイメージそのままです』
『死者の注文通りにしてやってたら、いつの間にかメルヘンな世界になってね』
幾重にも連なる虹の橋をくぐり空に浮かぶ滝を見下しながら、ファティナは織図にガイドされるままに目標の地点を目指している。
湖畔には花々が咲き乱れ、豊かな土壌に作物が実っていた。
広大なEVEの敷地の上を飛ぶ二柱を、住民たちが見上げて手を振っている。
一年に一度の慰霊祭に3D画像転送でEVE に降臨する陽階枢軸神の一柱である、ファティナを知る者も多いようだ。
ファティナの名を呼んでいる者も見受けられる。
彼女は愛相よく微笑んで手を振りながら、ふと真面目な顔つきに戻り前を翔ぶ織図を呼びとめた。
『織図様』
『ん? さすがに酔ったか?』
織図はぴたりと減速する。
『いいえ。少しお尋ねしたいこともありました。ここならば、会話は外部から聞こえませんね。あなたにしか知りえないことです』
今こそ織図に問いただすべきだと、そのタイミングは今しかないのだと彼女は感じていた。
二年半分の思いに急かされる、あの時から腹の内に燻り続けた火種。
消せない違和感。誰にも明かす事の出来なかったたった一つの疑問を。
『奇遇だな、そう言われると俺もあんたに訊きたい事がある』
織図はファティナの間合いの取り方から質問の内容を確信し、やはりそうだったのかと感動すら覚えている。
もし生身の神体でこの話を耳にしていれば、手の内は興奮のあまりじっとりと汗ばんでくる頃だろう。
『ええ……それは、恐らく同じことではないでしょうか』
立体再現されたファティナの薄い桃色の唇は震えていた。
織図も2年前より一つの事実を何度ファティナに確認しようかと迷ったが、その衝動を今日まで抑え込んできた。
ここならば誰の目も耳も気にする必要はない。
EVE内部での会話は複雑に暗号化され、有為には届かないようになっていた。
『……一昨年まで、陽階7位の位階は本当に空位だったのでしょうか?』
織図は期待通りの質問に、拳を固く握りしめた。
『いや、違うね。7位はちゃんと健在だったぜ』
二柱は互いの顔を見合わせて絶句し、次にファティナは身震いした。
符丁を合せる前に一致したようなものだ。
『では……やはりあなたも。そうではないかと思いました!』
『よかった。奴を覚えている可能性があるとしたら俺と同じく仮想空間に入っていたであろう、あんただけだからな』
『ユージーン様に……何が起こったのでしょう』
織図には心当たりがある。
あの時、EVEの少女ゾラが魅入られた光……最果ての谷に降り注いだ黄金の稲妻。
すべての謎は、そこへ繋がっている。
『2年前……奴が消えたとき、誰もアクセスできない筈のEVEのブラックボックスにアクセスが入った』
『EVEへのトラフィックは制限されています。EVEのファイアウォールを破ってですか?』
彼女は交茶色の瞳を丸くし、両手で口元を覆った。
彼女はクラッカーではないが、まかり間違ってEVEにクラッキングをかけろという命令が来たら、流石の彼女も熨斗をつけて返したいほど厄介なのだ。
生物階の死者の記憶は神階の共有財産であり、1バイトでも書き換えられてはならない。
その記憶は代々の死神によりセキュリティ強化が繰り返され、厳重に保管されてきた歴史と伝統のあるものだ。
その情報に触れたものは、悉く焼き尽くされる。
その機密を誰にも破る事はできない。神階に在籍する誰もが、EVEを破ることは無謀だと知っている。
『セキュリティは破られてないんだ。むしろ逆……EVEはその不審なアクセスをすんなり受け入れたんだよ。履歴からの追跡は不可能だった。どこからきたんだろうな……“最果ての谷”に、何かを投げ込んだ奴がいる』
『ユージーン様が消えたと同時に……?』
ファティナは腹部に焼け火箸をねじ込まれるような、ぎりぎりとした不安と恐怖を感じる。
『恒が言うにはな、神々の記憶もここEVEと同じように、上層のサーバーにリアルタイムで保管されているらしいんだ。誰かが上層のユージーンの記憶のバックアップを消したんだろうよ。それで、奴の記憶が現実空間から消えた』
『ど、どういう意味ですか?』
理解が追いつかない。織図の説明はとても“文系”的だ。
理数的ではない。いつ、誰が何の為に……神々の記憶を保管しているというのか?
それにファティナは一度だって、死神の持つ記憶メモリスティックのような記憶回収ツールをこめかみに突きつけられた覚えもない。
リアルタイムで回収しているとなるとなおさら不可能だ、どうやってデータを採取しているというのか――。
『このこととの前後関係を考えると、上層の管理者はユージーンの記憶の消されたハードディスクのジャンクをEVEに投げ込んだ……』
『上層からのジャンクデータが廃棄される場所……それが、最果ての谷? あなたは、まさか……ユージーン様の記憶を復元しようと?!』
『データってのはそう簡単に修復不能になるもんじゃないさ。よっぽどの壊れ方をしてなきゃな。そしてあわよくば、他のジャンクデータも回収したいと思ってる。真実を見せてくれるぜ……ゴミ箱ってのは、棄てた奴の本性を暴くにはいい場所だ』
織図はすっと指を伸ばして下を差す。
クレバスの間に、ぽっかりと底なしの暗黒が潜んでいた。
『……そら、ここが“最果ての谷”だよ』
*
崖に囲まれた深い谷に闇がぽっかりと口をあけていた。
縦に吹き抜けた洞窟の底には、光が届かない。
谷底からは何ものもの進入を拒むように強い風が吹きあげている。
織図はファティナの手を取り、足場を見つけてゆっくりと降り立った。
足場は直径3mほど。吹き上げる風に今にも吹き飛ばされそうだ。
彼女はポケットからピンク色の手帳型ナビゲーターを取り出し、しおりを挟んでいたページを開き、プロトコル階層の解析をはじめた。
二本の自動筆記ペンが手帳の上を縦横無尽に駆け巡って情報を書きだし、正確な情報を教えてくれる。
彼女はノートのページを次々に繰りながら最果ての谷の構成を把握していった。
織図はといえば彼女の行動を見ながら、彼女がこの場所から何を感じ取るかを興味深く見守っていた。
結論としては、侵入を躊躇するような大した場所ではないということだ。この場にかけられたセキュリティを破って侵入するにも困難ではない……少なくともファティナにはそのように感じられた。
『この場所が本当にタブー視されてきたのですか? プログラムの構成を見ると持て余すほど難解というわけでもないかと。ましてやあなたほどのアーキテクトが……』
『ああ、たっぷり時間をかけてやればなんてことない。だがそれができないんだ……制限時間を超えるとファイアウォールに圧殺される。だから鉄壁なんだ』
ファティナはノートから視線を戻す。
織図が侵入するのを躊躇した、その本当の理由を知ったからだ。
『時間とは、どのくらいです?』
『俺だと5分、あんただと30秒ってところだな。だが、これは予測であって実際にはどのくらい残り時間があるか分らんのだよ……そう、誰にも分らんことだ』
『お待ち下さい。何故、私とあなたの間に時間差があるのですか?』
織図のアーキテクトとしての能力は驚異的だが、彼と同じように、いやそれ以上の時間を電脳空間で過ごすファティナが、生物階での業務もなくましてや演算に特化した彼女が織図にそれほど劣っているとは思わない。
織図とファティナの間の6倍もの時間のひらきが何を意味するのか、このときの彼女にはまだ理解できなかった。
『これは俺にしかできんことでな……あんたについてきてもらったのは、演算を手伝ってもらうためじゃない。一度俺の意識をEVEから完全に引き抜いてメモリを全部こっちに集中したいからだ。5分間、あんたにEVEのシステムを維持してもらいたい』
死神の抜けたEVEは、鉄骨の抜けた高層ビルと同じだ。
そよ風が吹いただけでも倒壊する、それだけ脆くなる。
だから死神が崩御するごとに、EVEはシステムダウンせざるをえなかった。
そしてシステムダウンを起こしている間人々の記憶はEVEに入れなくなる。
天国の門を閉ざされる……それはあってはならないこと。だがここでおいてきぼりは無体だ。
『何故、私も共に行けないのですか? 演算は分担すればそれだけ速く……』
ここまできて足手まといとはあんまりだ。
手伝うつもりで来たのだから、彼女は少しでも役に立ちたい。織図はその気持ちを、気持ちだけ受取っておくことにして優しく諭す。
『俺にしかできんってのは、あんたの演算能力が俺に勝ってるとか劣ってるとかそういう類の話じゃないんだ』
『死神にしかできない、理由があるということですか』
確かに、EVEの主は織図でありファティナではない。
相当な山場だというのなら猫の手も借りたいだろうに、織図は助けを欲しない。
何か理由があるのだ、織図でなくてはならない理由が。
それを感じたファティナは織図に縋りつくように絡めていた腕をほどいた。
『ご明察。サポートを頼むぜ』
織図は爪先で大きな正方形を描くと、EVEの内部モニターが起動して青いパネル状となって織図の前に浮かんだ。
これで頼むと言いながらファティナによこす。
『織図様……お気をつけて』
織図は薄く笑うと、真っ暗な谷の中に跳び込んでいった。
ファティナはパネルの操作法を理解し、EVE全体のシステム構成を把握する。
バグ取りは有為が行ってくれているというが、DIVEをしていない有為は表面的なバグしか発見する事ができない。
根本的な異常は内部からでなければ……EVEは気持ち悪いぐらい安定して、凪ぎの状態でいる。
ずるり……織図によって確保されていた演算領域が返還され、EVEのメモリが一時的に増加する。
織図の意識が完全にEVEから離れた。
ファティナは完全に死神の手を離れたEVEを静かに監視し続けていた。
パネルを繰りながら、EVEが異常な動きをしていないか目を光らせている。
ベタ凪ぎのEVEのプログラムの中で彼女が変動する数値に気付いたのは、織図が最果ての谷に飛び降りてから1分後のことだった。
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みるみる減ってゆく数字に、ファティナは慌てた。
これは秒数のカウントではない。
赤字でモニターに表示されているその数字に目を奪われる……なんだろう、とてつもなく悪い予感がする。
『待って……このカウントは何……? 減っているわ、これは何?』
疑問に答えてくれるものもない。
ファティナは織図によって暗号化されたカウントダウンのパスワードを解読する。
『織図様……いけない、このカウントはまさか……! あなたのバイタルです……5分ということは、1秒に7.8年のバイタルが……』
彼女は即座に計算する。
常神ならば1秒につき82年分のバイタルが吹き飛んでゆく。
織図とファティナの違い、それは死神の秘儀である バイタルロック(生命力施錠)をかけられるか、かけられないかという違いだったのだ。
バイタルロックをかけている織図は常神よりずっとバイタルの奪われる速度が緩やかだが、それでも削られてゆくことには変わりがない。
そして織図のバイタルが尽き果てた時……織図の自我はEVEのファイアウォールの藻屑となる。
織図の神体は現実空間で二度と目覚めない。
『何です、このプログラムは』
改めてファティナは谷底を覗き込んだ。
仮想空間EVEにおいて現実空間の神体からバイタルを略取する悪魔のようなプログラム。
このプログラムの作者はこの世のものではない。彼女は総毛立った。
『急いで下さい、織図様。あなたにどれだけのバイタルが残っているかは誰にも。死神のあなたにすらも分らないのです』
織図はDA-インディケータにより人や生物階の生命の寿命を一か月単位で正確に弾きだせるが、神のバイタルは“揺らぎ”が大きいため残り寿命が計算できない。
寿命を正確に計算する事ができたのは、荻号 要だけだ。
織図は最大5分と見積もっているが、織図にすらも彼の寿命があと何年あるかなど把握できてはいない。一秒一秒はまさに織図の命の重みを持っている。
『180秒が経過……』
ファティナは恐ろしさのあまり、岩場にへたり込む。
彼女のトレードマークのボーダーのマフラーが風にさらわれて谷底に落ちて行った。
*
あるいは死体のように穏やかに、少年は機材の山に取り囲まれたベッドの上に横たわっていた。
死のイメージを厭うかのようにやけに明るく、そして無機的な室内光の下で規則正しく滴下する種々の点滴に繋がれた、彼とよく似た顔立ちの鳶色の髪を持つ少年の枕元の前で恒は膝を折る。
恒より5歳ばかり年上のこの少年は、腹違いの義兄だ。
まるで恒自身が眠っているかのようにその容姿は恒と酷似しているが、よく見ると義兄の方が極陽の性質が濃く出ているのか、恒よりずっと色素が薄く髪の毛も紅茶色をしている。
それでも恒には何となくわかる、彼と血がつながっているのだということ。
口をついて出たのは、恒が今まで一度も口にした事のない言葉だった。
「兄さん……?」
恒を少年のもとに案内した八雲 青華は恒の呼びかけを聞き、ほろりと涙ぐんだ。
彼が健在ならば兄弟同士の付き合いもできただろう。彼らは互いに何を語るのか?
それを聞いて微笑むことも、今となってはかなわない。
「私の勝手かもしれませんが。長生きをしてほしくて……遼生と名づけたのです。生きてくれているのは嬉しいけれど……酷い親です、私は」
遣る瀬の無い悲しみと自己嫌悪を押し殺した八雲には答えず、恒は痩せ衰えた遼生の手に触れた。
10歳の時にABNT抗体を打たれ、もう7年間も寝たきりなのだという。
脳死ではないが重篤な植物状態。
八雲は先代極陽の第二使徒であった彼女の社会的な立場を利用して、全力で意識すら戻らない遼生の生命維持を行っていた。
「彼の中にはまだ……」
「ええ……ABNTの体液がいまだ体内に蓄積して体外に出てきません。細胞の一つ一つに浸透し、彼の細胞を今も焼き続けているのです」
それはまさに、遼生が生きている限り続く地獄の業火というものなのかもしれなかった。
彼女は生命維持を行いながらも、どこかで息子の死を切実に望んでいる。夢の中でまで続く苦しみから彼を解き放ってやりたかったのだ。
研究者の常識から考えれば、実験を終えた実験動物は苦痛のないようすみやかに安楽死されるべきだ。
だが、彼女にはそれが出来ない。
彼女の親心という躊躇が、遼生に7年間もの間生き地獄をみせることになった。
「あの日……私は遼生を欺きました。ワクチンの予防接種だといってABNTの体液を……」
「八雲さん……」
「この子は私を疑いませんでした。……苦しみ悶えながら瞳を閉ざす、その最後の瞬間まで」
「……いいです、八雲さんやめてください……もういいんです」
話を遮って八雲を諫める。どんな過去も、思い出も聞きたくなかった。
彼がどのようにして実の母親に裏切られなければならなかったのかということなど。
「投与が失敗に終わったとき……この子は、世を去るべきでした」
「生きていてはいけない命なんて、あるのでしょうか。もしそう判断されるのなら、俺なんてとっくにここにはいません」
恒はぽつねんと呟きながら、八雲に気付かれないようポケットからあるものをとり出した。
「生きていても可哀想だとか、それは彼が決めてゆくことです。あなたが決めてはいけないと思うんです」
恒がポケットの中に忍ばせてきたのは輸液セットだ。
恒は遼生に寄り添う風を装いながら八雲の目を盗み、輸液用の翼状針をカテーテルに繋ぎ、遼生の動脈に手早く突き立てた。
もう一方の先端にも付けられた針は、恒の静脈に刺し込む。
その瞬間、カテーテルの中で血液が溢れて、中央に取り付けられた逆流防止弁とポンプにより遼生の血圧が恒の血圧に勝り、恒の神体に遼生の血液が流れ込んでくる。
恒は更に恒の動脈に針を穿ち、遼生の静脈に同じカテーテルを逆方向に注射した。
恒の動脈血が、遼生の静脈に流出してゆく。
二本のカテーテルの間で血流が繋がり、恒と遼生の二神の間で血液の交換が行われている。
異なる神々の間で血液を交わすとショック症状が出るのは神々の間での常識だが、兄弟間での遣り取りは理論的に問題ない。
恒は緊張感と平常心を保ちながら、遼生の血液をゆっくりと受け入れていた。
しかし観察眼に優れた八雲が恒の不審な行動に気付かないわけもない。
八雲は二神の間に繋げられたルートを見てすぐに状況を把握し、パニックに陥った。
「と、藤堂様! おやめ下さい! あ、あぁ、あなたの中にABNTの抗原が……っ!」
恒に飛びついて針を抜こうとした八雲を、金縛りでその場に縫いとめた。
これは荻号 正鵠に学んだ技術で、対象の運動神経のコントロールを恒のアトモスフィアで書きかえて麻痺させ、八雲の自由を奪う。
特に神がアトモスフィアによる支配に無力な使徒に施術する場合、その効果は顕著だった。
八雲はその場から一歩も動けず指一本すらも動かせなくなった。
「黙って見ていて下さい。あなたが俺に二年半前に提示していた、その答えを」
恒の血液が、活性増強された抗体が遼生を癒す……癒してゆく。
それと同時に恒にのしかかる、壮絶なABNT抗原の負荷。
遼生の中で封じられていた悪魔が牙を剥き、恒の体内に押し寄せて駆け巡る。
体内で爆弾が破裂し続けるような、そんな絶え間ない衝撃と経験したこともない苦痛が恒を襲う。
抗ABNT抗体の担体として何も特別ではないと言った、むしろはるかに脆弱なのだと言った岡崎の言葉が遠くに聞こえた気がした。
恒は顔を歪め、身を焼き尽くされるかのような鈍痛に喘ぐ。
異物の侵入に四肢が痙攣を起こして拒絶する。
生命の危険を感じた恒のアトモスフィアが俄かに紫電となってそこかしこでスパークする。
一度体内に入ったABNT抗原はすみやかに体液を通じて浸透してゆく。
たとえ針を抜いたとしても後には引けない。
恒の体内に棲みついた魔物は、もう二度と外に出て行ってはくれない。
恒は岡崎の口から真相を聞いたとき、原液のままの抗原を打つことは危険だと容易に想像がついた。
しかし岡崎が不用意に口を割った、遼生の存在によって急性障害への対処の突破口が見えた。ABNT抗原を投与された遼生の神体というひとつのクッションを経て抗原を受け入れるならば、生死を賭すまでのリスクを乗り越えることも出来るはずだ。
恒の神体は急激な変容を拒絶する、だが段階的にならば適応して抗体活性を上げてゆける。
完全な神ではなく不完全な人間の身体を持つ恒にこそできる、成長し続けるということ、肉体を変化させ適応してゆくということ、それが神と使徒との間に生まれた完全な神体を持つ遼生には出来なかった。
遼生を癒す事は恒の中の抗体の活性を飛躍的に上げることにも繋がる。
リスクとリターンは釣り合った。
二の足を踏む理由はなかった。
そしてそんな打算よりも何よりも遼生を助けたいと恒は願う。
遼生に一方的に負わされた重い荷を、ふたりで背負うことができるならば――。
恒はみるみる消耗して、力が抜けて床の上に這い蹲る。
崩れ落ちる恒と引き換えに、八雲は信じられない光景を見たのだ。
ベッドの上に横たわった、ただ横たわっていることしかできなかった彼の瞼が動いた。
動かない遼生に見慣れていた八雲が、断じて見間違えはしない。
「遼……生……?」
焦点の定まらない瞳で、機械的な動作で瞼をもたげた遼生は呆然と天井を見つめていた。
地獄の果てから誰も救う事のできなかった八雲 遼生を、
義弟 藤堂 恒が蘇らせた――。