第2節 第7話 I will be your Perch
夜の森はいつになくざわめいて、木々の残響に浴す。見上げた月がやけに明るくみえる。
彼女のアトモスフィアによって浄化された透明な空気。
レイアを失い、グラウンド・ゼロへと取り残された恒はアトモスフィアを探知するため集中力を研ぎ澄ませる。
レイアのアトモスフィアの気配は感じられない。絶対に許されない場面で、判断を誤った……。
恒は懐柔扇を求めて神階に寄り道をしていたが、最悪なことに比企には会えなかった。
ロスをした時間は往復でおよそ七分弱、だが彼女が例のホテルからグラウンド・ゼロに向かってから、既にどれほど時間が経っていたのかは分からない。
振り返れば彼女はここのところ、INVISIBLEと思しき呼び声から強い影響を受けているようだった。
それを踏まえて不測の事態に万全を期していた筈が、レイアから目を離してしまったことが悔やまれる。彼は悔恨のあまり握りしめた拳を強く地に叩き付けた。
しかしフィジカルギャップを備える彼の拳は傷つかない。
人間ならば痛みで気を鎮めることもできるが、彼の場合そうもいかない。
生物階の地理にも詳しくなければ、彼女が行きたいという場所すら分からない彼女のことである。
共存在を使いこなす彼女のアトモスフィアであるが、まだほんの幼い少女神であるため、吹けば吹き飛ばされてしまいそうに脆弱で、少し遠くに逃げれば探知などできそうになかった。INVISIBLEは恒の手の及ばない場所から、レイアの逃亡の手引きをした。
大胆不敵、そのやり口は堂々としたものだった。
瞳を閉じ、手がかりを求めてアルティメイト・オブ・ノーボディに呼びかけるが、もはや彼からの反応はない。
ノーボディの沈黙は、恒を絶望させるに十分だった。
恒が頼りにしたものは悉く失われてゆくものだ。
レイアがINVISIBLEに連れていかれたとばかり考えるのは都合がよすぎる、と恒は考え直す。彼女は“逃げたくない、INVISIBLE と立ち向かいたい”との決意を口にし、彼女のマインドブレイクの結果からはその後ろ向きな気持ちの片鱗は見えなかったが、もし僅かばかりにでもその恐怖から逃れる術があるとしたら、彼女は逃げたいと思うだろう。
彼女が逃げ出したいと願うこと、臆病になる心を、誰も謗ることはできない。
命を惜しんではならないと、誰がいえようか。
ひるがえってみれば、監禁を解かれて生物階降下中の状況は、彼女にとって辛い現実から逃れるための唯一のチャンスでもあった。
彼女は逃げる権利も隙もあったのに、恒が共に戦おうという言葉で彼女を縛りつけ、図らずとも彼女の逃げ場を奪っていた。
優しい言葉で励ましながら、彼女を雁字搦めにしてしまっていた。
だから、彼女が自由になることができるのなら、これでよいのかもしれない。
恒は闇の深くなりゆく夜空を仰ぐ。
風が頬に冷たく当たる。
しかし、彼女が自由になることができるなら、だ――。
恒の抗体は、まだ収束すらしていないINVISIBLEを一時的にでも抑えておけなかった。
それは彼女を不安にさせただろうか。もっと抗体が強ければ……彼女に信頼してもらうことが、彼女を安心させることができただろうか……。
どうしようもなかったと分かってはいても、悔恨の念は尽きない。
彼女の身体という居場所を失ったINVISIBLEは半年後、どうするのだろう。
収束を諦めてくれるわけでもあるまい。
今頃、彼女の行方を追っているのだろうか?
彼女は帰ってくるのだろうか?
そしてそれまでの間に恒ができることといえば、ただ抗体の活性を高めることだけ。
しかしそれはレイアを失った途端に最も困難な課題となった。
彼女と恒の関係は、片依存している。恒という制御を失った レイアは、ますますINVISIBLEからの影響が強くなるのだろう。
恒はレイアがいたからこそ、抗体の活性を高め続けることができた。
鍛えなければ、抗体は弱体化してゆく。
レイアがいなければ、恒の抗体もそのうち使い物にならなくなるかもしれない。
抗体を強くしてくれる、抗原がいないからだ……。
岡崎 宿耀の助力を請わねばなるまい。
比企に状況を報告しなければならないが、今は連絡が取れない。
ならば今すぐ岡崎に連絡を取るべきだ、そう思ったが早いか、彼は迷わず岡崎の第一使徒に電話をかけ、予定がいっぱいだというのにごりを押して当日中の面会の予約を入れた。
何もせずにはいられなかった。
*
特務省中枢へと続く細く長い通路。
局長を先頭に、比企、織図、梶と四柱の神々が歩みを進める。
特務省中枢への通路は通風口に偽装してあり、一見して通路とは判別できない。
彼らが歩むたび、ベコン、ベコンと足元が軋む。
トタン板で造られているのかと思われるほどちゃちな足音がして、足場の素材の安っぽさを強調していた。
本当にこの道でいいのかと比企は織図に訊いたが、織図はひとつ、しっかりと頷いただけだった。
比企は織図を信用することにする。
二度も騙すメリットはない。
「おい継嗣、さっきはよくもやらかしてくれたな。今度の位申戦で後悔させてやる」
梶は怨みがましく、多少は冗談めかして織図に絡んでいた。
陰階2位の梶が下位の織図に敗北したという事実。
上位の神が、彼の専門分野、つまりAAの分野で下位神に敗れるなどということは――。
しかしどうやら、これまで神階にその実力を隠し続けてきたらしい織図のポテンシャルは、一度も正当に評価された事がなく、そして誰も本当の意味での織図 継嗣という神を知らなかった。今後どうしても、それが位申戦であってもなくとも、織図を倒さなければならない、梶はそう思う。そうでなければ、梶は自信を取り戻せそうになかった。
「何いってんすか。位申戦で降格試合ができるかって」
「何いってんすかじゃねーよ、再戦を申し込まざるをえんぞ。こっちにも一応、枢軸のメンツってもんがある」
「そんなもんすかね」
織図はつっかかってくる梶を適当に受け流し、ぷかぷかと煙管をふかして、まるで聞く耳持たずだ。
織図はこの期に及んで枢軸がどうだとか、てんで興味はなかった。
世界の終末。
INVISIBLE収束はもう目前に迫っている。
そして三階を縦横無尽に駆け、創世者の力の一部を受け継ぎ、最後の救世主ともいえた存在を失い、三階は彼の記憶を失った。
その結果わずか2歳と半年のプライマリの少女神に縋らなければならない。
惨憺たる状況に、神階は気付いていないのだから……。
位神だの特務省だの、神階の些事に構っている場合ではないのだ。
彼が戻ってきてくれれば、何かが変わるような気がする。
織図はいまだに、彼の名を口にすることが出来ない。
彼、ユージーンの名を――。
織図はそんな事を考えながら、うっかりとこんな事を口走ってしまった。
「それを言っちゃ、特務省の特務従事者が枢軸に負けたらメンツ丸潰れだ」
「あ」
そこで梶と織図の二柱は青ざめて、顔を見合わせた。
彼らが気にしたのは、局長の顔色だ。
「いや、何でも」
織図は口が滑ってそんな事を言ってしまったが、事実として、比企は特務従事者であるグイードを最悪の戦闘内容で、つまり殺害することにより破った。
織図と梶は失言だったと局長の顔色を伺ったが、局長は耳をぴくりと欹てることも振り向くこともしなかった。
彼女にとっての部下は、どうやらその程度のものでしかなかったらしい。
彼女の後に続いて無言で通路を歩いていた比企は、罪悪感にかられてのことか他に思うところあってか、部下を失った彼女よりよほど深刻な面持ちだ。
さらに、彼の携帯からアラームが聞こえはじめた頃には、その表情はいっそう険しさを増した。
比企は赤いボディの携帯を取り出して、神経質そうに軽く額を押さえると、アラーム音を切った。
「織図」
比企は凍りついていた二柱を振り向いて足を止め、織図に呼びかける。
「レイアが、行方不明になったようだ」
比企はレイアの足首に取り外しのきかないアンクレットを付けて、恒の場合は愛用の時計に仕込んで、そこに強力な発信機を埋め込んでいた。
いつでも彼らの居場所を把握しておけるようにだ。
神階、生物階を問わず彼らの居場所はわかる。
比企は携帯に仕込んでいるレーダーで彼女の辿った軌跡を洗い出す。
レイアの足どりはグラウンド・ゼロのあたりでばったりと跡絶えていた。
携帯のアラームが鳴ったのは、彼女のアンクレットからの通信不着シグナルだ。
「藤堂がレイアから目を離すとも、思えんのだが」
比企は恒の臨機応変な対応と判断力を信用していた。
位神と比べても遜色のない高い状況分析能力と、優れた頭脳、そして超空間転移を習得していること、更に彼は子供でありながら特に用心深い。
そんな彼の虚を突いて、レイアが行方不明になっているのだとしたら……何か、彼らに大事が起こったのだ。
「レイア=メーテールが行方不明だと?!」
織図が比企に食ってかかる。
恒のことを織図が比企に任せたのは、彼の融通のきかなさや頑固さが、大きな守りの力となると踏んでいたからだ。
比企は一度も不手際を犯したことがない、その性格はあまり好きにはなれないが、悔しいことに信用がおけた。
ミスをしないという取り柄すらなければ、織図は全面的に比企が嫌いだ。
「レイア=メーテールと恒はあんたの権限と責任において、厳重に保護されていた筈だろう」
「おいおい。そりゃねーよ。レイアっていやぁ、神階最後の女神だろうがよ。何でそんな簡単に行方不明にするわけよ」
梶もぎらぎらとした非難の眼差しを向けた。
「転移先ぐらい、把握してるんだろ?」
「特定できん」
彼女は超空間転移が出来ないので、彼女が単独行動をしているのなら必ず生物階のどこかということになる。
一方、恒の居場所はグラウンド・ゼロに留まっているが、そのことは恒が肌身離さず身につけている腕時計に仕込まれた発信機によって裏付けられている。
微動だにしないレーダー上の点は、恒が途方にくれている様子を示している。
誘拐でもされたのだろうか? 恒の目を盗んで? 考え難かった。
「窮したな。梶、先に行ってくれ、すぐに戻る」
「ちょ……比企!」
比企は梶を残し、超空間転移で生物階へと消えてしまった。
遠くで懸念しているよりは直接確認。
比企が中枢へ行かなければ特務省の連中とは話し合いになどならないのだが、特務省に久遠柩の発動を請う比企にとっては、肝心のレイアがいなければ話し合い以前の問題となる。
比企が去った後、気まずい空気が流れる中、織図だけは腕組みをして何かを真剣に考えているようだった。
「局長。俺も少し用事を思い出しましたわ。なに、すぐに戻りますよ」
織図は取ってつけたように言うと、比企と同じく、局長の許可を待たずに消えてしまった。
彼が向かったのは生物階ではなく、自身の執務室だ。
彼はEVEにダイヴし、EVEの聖域にしてブラックボックス、“最果ての谷”に進入しようと考えたのだ。
そこに何があり、レイアの失踪とどう関係があるのかは織図しか知らないことだ。
”見てるんだろ……なら少しは、力を貸せよ”
織図は懐かしい者へと語りかけた。
*
ゴウン、ゴウンと様々な実験機器から奏でられるモーターの駆動音が部屋中に響き渡る。
無造作に投げ散らかされたマイクロチューブやマイクロピペット、毒々しい色をした液体に、干からびた何がしかの残渣、ゼリー状の破片。
異空間を思わせる研究室の一角に、超高度ゲノム解析フィールドがある。
ホログラム表示のゲノムデータが翠色の光の柱となって天井まで駆け上がっている。
解析フィールドの境界を示しつつ高速回転する無数の翠色の環状のグリッドは、複雑な魔方陣のようにも見えた。
ノイズに纏わりつかれながら、電子の海に浸る青年は光の円柱の中に胎児のように身体を縮めて浮揚している。
文字列化された光のデータを指先で引っ掛けドラッグすると、巻物を開くように遺伝子地図が表示され、薄暗い研究室のライトの下に、忙しなくデータを駆る青年神の姿が浮かび上がる。
彼の脳には情報処理のためのインタラクティブポートが埋め込まれており、脳領域の一部が電脳化を果たしている。
彼のこめかみに穿たれたポートをネットワークケーブルと接続すると、彼の脳内の神経回路に直接、遺伝子情報がオーバーラップし利用できる。
これは織図やファティナのように、神経系をクローズドな仮想空間内で再構築する仮想空間ダイヴとは異なり、現実空間において生身の頭脳に情報をたたき込むという方法であり、オープンデータベースと脳の間でリアルタイムに遣り取りする、まさに遺伝子解析の為の電脳ネットワーク技術だ。
その為、彼は解析中だというのにデータを目視する事もなくずっと目を閉じているが、意識は深層ではなく表層にあって、データを操る指先は忙しなく動いている。
すべて彼の脳内で行われている情報処理なので、恒はその情報を共有する事ができないが、彼が糸紡ぎのようにデータの糸を繰り、投げては束ね、驚異的なスピードでデータが解析されてゆくその様子だけは窺えた。
「レイア=メーテールが行方不明、ねぇ……」
機械のように正確無比な解析作業を行いながらも、傍にいた恒の存在を忘れていなかったらしい。
作業フィールドの中で瞳を閉じたまま、うわごとのように呟いた。
思いがけず話しかけられた恒は小声で話す彼の言葉を聞こうと前につんのめるが、一歩でも足を前に進めようとする前に、釘をさされた。
「そっから一歩でも動くと、切り刻まれるんだよ」
「は、はい」
碧色の草木のような毛髪と同じ色の瞳を持つ、一風変わった風貌のこの神は、陰階神第8位、遺伝子を司る神、通名 アマデュ=パズトーリ(Amadew Paztori)、置換名を岡崎 宿耀といった。
彼は310歳と比較的若手の部類に入る神で、遺伝子解析や遺伝子工学のエキスパートだ。
恒は彼とは初対面ではないが、その独特の雰囲気に呑まれるというか、会うたびに新たな発見があって緊張する。
「レイアの失踪のことは……俺の責任です」
「どっちかっていうと比企、じゃなかった……極陽の責任じゃないのかな?」
責任の所在をどうこう言っている場合ではないと、彼は口にしながら気付いたようだ。
それきり、だんまりを決め込む。
岡崎は、言葉遣いは比較的丁寧ではあるが、機嫌が悪いのか体調がすぐれないのか、などと恒がいらぬ気を回さなければならないほど、むっつりと寡黙な神だ。
二重がデフォルトの大多数をしめる神々の中では珍しく一重で三白眼なせいか、目つきも悪く見える。
そんな風貌で黙り込むと、恒は背筋をのばさずにはいられなかった。
こうしている間にも、優に一分は間があいている。
「当然、彼女を捜すだろう?」
岡崎は思い出したように、ぽつりと尋ねた。
会話が途絶するのは、情報処理中だからだ。
彼は全てのデータを解析し終わり、必要な遺伝子のみの情報を集めたファイルを作っていた。
岡崎の手の中に、オレンジ色の細かな光の粒子と細やかな光線が集まってゆくのが見える。
それら一つ一つが階層化され、丁寧に折りたたまれて本のような形状になる。
集められた情報は全て、藤堂 恒の遺伝子情報だ。
岡崎がこのデータに最初に触れて紐解いてから、既に3年近くが過ぎようとしていた。
「彼女のアトモスフィアは弱いんです、一度行方不明になってしまえば……もう……」
「それよりまず、比企、じゃなかった極陽には連絡をしたのかい?」
彼の指摘はもっともだった。
恒は形式上アカデミーの特待生であり、もっと平たく言うと比企の所有物だ。
未成年であるから比企の許可もなく勝手な行動を取ってはならない。
恒のすべての行動は比企の監視下にあって、比企は神階に藤堂 恒という少年神が成神と同等の権利を以て神階で神として行動する事を、ある意味保証している必要があった。
だから本来、恒が枢軸神に自発的にコンタクトを取ってはいけないのだ。
しかし恒にも正当な言い分があった。
「連絡が取れないんです。携帯にも出て下さいませんし、遠くへお出かけなのか、気配も感じられないので転移もかけられません」
「確かに神階には気配がないな。どこに行っているんだろうね、こんな時に」
彼の口調の端々には、比企への反発心が見え隠れする。
荻号の弟子という立場を棄てて陽階に寝返った元陰階神である比企は、陰階ではすこぶる評判が悪い。
その思想の危険性と、急進的かつ強引なやり方に、憚らず批判を唱える者も多かった。
そして陰階神はあまりよくない意味で、荻号という存在から親離れできていなかった。
「でも、捜さないといけないだろう? 待っていて戻ってくるわけでもなし。極陽が動かないなら、私が部下を出すよ」
岡崎が部屋の隅に目配せすると、脇に控えていた枡島という若い第一使徒が上品なしぐさで、恒に会釈をした。
岡崎が少し顎をしゃくれば、彼女は風岳村に部下を遣わせ、捜索に全力を尽くしてくれるだろう。
だが、恒は生物階のどこを捜しても見つかりはしないと、既に確信していた。
「捜して見つかるところには、いないと思います。ですが……いつか戻ってくるのではないかと、思います。彼女はどこに逃げても、INVISIBLEの呪縛から逃れられない。必ずグラウンド・ゼロに戻ります」
「そうだろうか? ところでそんな時に君は何故ここにきた」
次に恒の口から飛び出した言葉は、岡崎の想像の斜め上を飛び越していた。
「岡崎様、あなたが保管していらっしゃる先代絶対不及者の体液を、分与していただきたいのです」
岡崎はその言葉を聞いた瞬間、噎せかえるような吐気とともに、嫌な記憶が遡上してくるのを感じた。
この少年は何故、そんな事をしようと思い立ったのだろう?
これでは、あの時と同じではないのか、あの、忌々しいプロジェクトで、先代極陽、ヴィブレ=スミスが彼らに対して行った残虐無比なあの実験と――。
集中力を殺がれたことにより岡崎の演算が狂ったことを、恒は目ざとく見つけていた。
岡崎がその事項に関して、何か重大な事を秘めているという証拠を。
岡崎は何か、絶対不及者の体液と聞いただけで動揺するような、そんな疾しい事を隠しているのだろうか?
絶対不及者の体液を分けてくれという恒の申請は別段、岡崎を動揺させるものではない筈だ。岡崎が、それの使い方について、何か心当たりがあるというのならば、別だが。
「何に使いたいの?」
「投与したいのです」
「ばかな! 投与したいって……君の神体にか?」
岡崎は戦慄し、ただちに電脳を停止させた。
バックアップを取り、それまで恒には目もくれずに店をひろげていた解析フィールドをたたむと、ようやく閉ざしていた瞳を見開く。
その瞳もやはり、彼の毛髪と同じ奇抜な色をしていた。
その瞳は恒の言葉を聞いて明らかに狼狽しているらしく、ふらふらと、焦点が落ち着かない。
「そうです」
岡崎は一段高くなっていた解析フィールドから降りてくる。
彼の聖衣は革素材の灰色のフード付きジャンパーで、フードには一体何の動物のものなのか、翠色の毛皮が付いている。
パンツもタイトな黒の革素材で、そのまま生物階に降下しても違和感のないものだった。
彼は恒にゆっくりと歩み寄り、中指を恒の鎖骨のあたりに強く当てて脅迫する。
「何が起こるか、分っているのか? 免疫反応が暴走するってことだぞ、君が死ぬまで」
それでも、恒は頷いた。
「ええ」
恒は必死で止めようとする岡崎に、どこか覚束ない眼差しを向けている。
そして岡崎は恒に、岡崎の犯した過去の罪を暴かれているように感じた。
「感心できないな。比企が許さない。君は大切な切り札だ、無茶をするな」
「やってみる価値はあるのではないでしょうか」
「自惚れない方がいい。君だけが特別だと思っているのかい? 同じ失敗を繰り返したくない」
「どういう意味ですか?」
岡崎は解析室の薄暗い室内に置かれた華奢な作りのガラス細工でできたような透明な椅子を引きずってきて、浮遊する透明なガラステーブルの前に置き、恒を座らせた。
冷蔵庫から出した青い、ジュースのような飲み物をグラスに注ぎ、すすめる。
岡崎は暗い机の端に、そっぽを向いて腰かけている。
彼のバックでは、巨大なプロペラの羽根を持つ何がしかの装置が、ゆっくりと回転している。
潤滑油を欠いた、重機が軋む音がした。
その隣では赤い液体培地の入ったフラスコや小さなチューブが数百本以上、整然と陳列され、振とう培養されている。
岡崎は一柱で実験室に引きこもるタイプの研究者らしく、実験室には部屋の片隅に控える第一使徒以外に、気配はなかった。
「抗ABNT抗体をコードされた模造生命は君だけではないと、知っているだろう」
恒が飲み物を飲んで一息つくと、唐突に岡崎は話を進める。
岡崎の声は緊張をしているからか動揺をしているからか、先ほどより乾いて聞こえる。
「はい、俺が唯一の生き残りだと」
「では、他の者はどれぐらいいて何をされ、どうなったと思う?」
恒は息をのんだ。
考えてもみなかったからだ。
抗体を備える個体は正常な発生により誕生する前に、遺伝的不安定性により、全て死産となったものとばかり思っていた、いや、恒が勝手にそう決めつけていた。
抗ABNT抗体を持つ子供が、恒の他に誕生していたというのか――。
岡崎の一言により、またひとつの事実が明らかとなった。
岡崎 宿耀は平素より各方面からの要請での様々なプロジェクトに関与しており、クライアントの依頼内容を決して表には出さない。
ヴィブレ=スミスから岡崎に協力を要請し、遺伝子技術に長けた岡崎が、抗ABNT抗体をコードした模造生命を創り出すそのプロジェクト(IVAAA: In Vivo AAAproject)の一部に加担した。
恒はこれまでにも岡崎にIVAAAについての探りを入れるため、定期的にコンタクトを取っていた。
岡崎の技術協力なしには成り立たなかったプロジェクトだったと踏んでいたからだ。
岡崎はIVAAAプロジェクトへの関与を認めたが、ヴィブレ=スミスへの忠義立てと守秘義務を全うしているのか、なかなか口を割ろうとはしなかった。
だが、今日は話す用意があるらしい。
「君は25番目の検体だよ、藤堂君。残りの24の検体はどうなったと思う?」
「……!」
「抗体のキャリアの子供は極陽と使徒との遺伝子融合により創られ、すべて正常に発生し、誕生した。その答えの一つは、八雲君のもとにあるよ」
「八雲 青華さんのことですか?」
「そう、彼女には君とそっくりな、君より少し年上の息子がいた……いや、いる、だな。あれを生きているというのなら」
八雲はヴィブレ=スミスの死を区切りに、第二使徒を引退したと聞いた。
比企が極陽の位階である創造神へと昇格したことによりヴィブレ=スミスの位階は自動的に立法神へと降格、ヴィブレ=スミスの死によって今や空位となった立法神の位階には新たな位神が即位するであろうが、八雲は次代の立法神には第二使徒として仕えないそうだ。
八雲は、“生まれかわったら”恒のような神に仕えたいと言っていたが、現世ではもう引退を決意したとのこと。
八雲は今も、拭い去れない罪の意識と戦っている。
あのとき……恒が奇妙に感じた彼女の瞳。彼女は恒を見ていなかったのだろうか。
あるべき彼女の息子の姿を、恒に重ねていたのだろうか――?
「察しの通り、彼女は先代極陽に、彼女の息子たちの命を捧げたのさ」
「たち?」
岡崎は話を勢いで打ち明ける為に、恒にもすすめた怪しい青い飲み物をボトルごと持ってラッパ飲みで飲み干した。
「そう、24体すべての模造生命を受胎し出産したのは、八雲君ただひとりなんだよ。私もプロジェクトには立ち会ったが、それは悲惨で、見ていられなかったよ。彼女が産んだ抗体キャリアの子供たちに、ABNT抗原を投与し続けた……まさに君が今、自らの神体にしようとしていることを――どうなったか、私は見届けたよ」
そんな残忍な親が……いるのだろうか。
ただ殺されるためだけに、大切なわが子を産む親が――。
そして何度殺されても、それでも産み続ける母親が……。
恒は信じられない、総毛立つ。
母親とは無償の愛を与え続けてくれる、温かい存在だと思っていた。
志帆梨は望まない妊娠により授かった恒をいつも愛してくれた、少なくとも愛そうとしていたし、一度も裏切られた事などなかった。
不義の子供として後ろ指を指されながら……彼女の身に覚えにない子供を、愛せる筈などなかったのに……。
恒も志帆梨が与えてくれたものと同じだけ、それ以上に志帆梨を大切に思っている。
だから彼は言葉を失ってしまう、八雲の心境を理解できないからだ。志帆梨と八雲は同じ母親でも、根本的に違っている。何かが、決定的に間違っている。
「……」
「抗原は血流に乗り、脳を襲う。やがて彼らの脳機能は停止し、ゆっくりと朽ち果てていったよ。八雲君は彼女の息子たちを、そうやって徒に失ってゆかなくてはならなかった。全ては、彼女にとっての絶対者、極陽の命令だったからね……八雲君の息子のうちひとりは幸か不幸か死を免れて、それでも重篤な植物状態になっている」
生き残りが、いる――!?
同じ境遇の肉親がいる、というのか。
「彼女は懺悔をしながらずっと、たったひとりになった寝たきりの息子を育て続けているって話だよ。だから間違っても、君には同じ道を歩んでほしくはない。八雲君にとって、元気な君の姿というのは、彼女が息子達に与えられなかった希望なんだよ……」
岡崎は医療者、科学者であるが、医療倫理を忘れたわけではなかった。クライアントの依頼とはいえ、IVAAAプロジェクトに加担してしまったことを後悔していた。
断罪の刃が、少年の姿を借りてやってきたような、そんな思いがした。
恒はヴィブレ=スミスが24もの罪なき命を奪い尽くしたことに強く憤りを覚えた。
あるいは少し時期を間違えば、恒もその中のひとりになってしまっていたのかもしれない。
ヴィブレ=スミスは彼女の忠誠心に付け込み、道義的に許されないことを彼女に強いた。
八雲は何を思ったのだろう。
何も感じなかった訳ではあるまい、恒はそう信じたい。
「そうだったのですか……。その後……先代極陽は八雲さんの代わりに、母を選んだのでしょうか」
極陽の考えは分っていた。
抗原を投与することにより抗体を増強し、予め備えることができないならば、抗体の性能を最大限に発揮する為には、絶対不及者とともに生命を以て玉砕させ、全ての抗体を発動させればよいと考えたのだろう。
ただ殺されることが役目の抗体キャリアの子供が頑強な肉体を持っている必要はなくなった。むしろ、強靭な肉体を持っていてはならなかった。
そこで、今度は八雲の代わりに脆弱な肉体を持つ人間である志帆梨が選ばれ、恒が造られたのだ。
ヴィブレ=スミスの悪魔のような計略が明るみとなった。
「そうなんだろうね。私は、八雲君がもう子供を産めない身体になってしまった時、プロジェクトは失敗に終わったのだと思っていた。そしてもう、この鬼畜の所業は繰り返される事はないのだろうと。だから人間と神との間に生まれたという君の存在を素直に信じることができなかったし、君という存在が現われるまで、あのプロジェクトを思い出すこともしなかったよ。だから彼らを目の当たりにした私は君に問いたいんだ、君は実の父母の手によって無残に殺されていった彼らと、何が違って、何が特別だと思う? むしろ君の肉体のスペックは、彼らより遙かに劣る」
思い出したくもない、といったように両手で顔を覆っていた。
岡崎の言う通りだと思った、だが、恒はただ実験動物として扱われて抹殺された彼らとは違う、少なくとも恒は12年間、人生を生きた。
自分の意思で、人生を歩んできた。
それだけは誰にも否定できはしない。
しかしそのような根性論や精神論は、岡崎には通用しない。岡崎を納得させる為には、遺伝的に自らがどう優位性があるのかを、説得力ある方法で説明しなければならない。
「俺は……神と使徒の混血ではなく、神と人の混血です」
「人の身体は使徒の体躯より脆弱だよ?」
「人の身体は確かに使徒のそれと較べて格段に脆弱です、ですが血管系に支えられています。人間は使徒と違い、血液脳関門(blood brain barrier)を持っています。血漿成分は直接脳へは到達しません……人間の脳は、異物の侵襲から守られています。八雲さんの息子さんたちのようにはならない、灼かれるなら脳ではなく、それ以外の部分です。俺は無計画に、抗原を打ちたいと申し上げているのではありません」
岡崎はひとつ溜息をつくと、恒の提案をすげなく却下した。
「妄説は自重した方がいい。君はそう力説しながらも気づいているだろう? 血液脳関門は脳内への異物侵入を阻止はできない。一度侵入を許した後に、異物を汲みだすトランスポーターが存在するというだけだ」
人間の遺伝子をはじめありとあらゆる遺伝子とその生成物の構造を知り尽くした岡崎の学識を甘く見てはならない、と恒は思い知らされた。
口先で騙せる相手ではないのだ。
「諦めるんだね。私は絶対不及者の体液の在りかを教えるつもりはないよ。それは私が、まだ科学者であり、それ以前に一柱の神であるためにもね」
しかし、岡崎が教えるつもりがなくとも……恒はしっかりと彼自身から教えてもらっていた。
岡崎 宿耀のマインドギャップは4層、これに対し藤堂 恒のそれは10層だ。
5層以上の隔たりがあれば看破は可能。
先代絶対不及者の体液がどこに保管されているのか、恒は岡崎の心に何度も問いかけた。
何度尋ねても、同じ答えが返ってくる。
岡崎は恒のマインドギャップの層数を知らなかったらしい。
位神と違って非位神のデータは、目の届く場所に掲載されていないので、よほど調べようと思って調べなければ、岡崎が知りえない情報なのだ。
岡崎に侮られていたことが、恒にとっては好機となった。
「わかりました……極陽のもとに戻ります。貴重なお時間を頂戴し、申し訳ありませんでした」
「極陽に相談をしてみた方がいいんじゃないかな。私も彼女を捜させよう」
岡崎はそう言うと、第一使徒に命じて恒を実験室の外に送らせた。
BIOHAZARD(生物汚染地区)マークのついた三重ドアが重く閉ざされると同時に、岡崎からの助力は途絶えた。
”よし。場所はわかった”
恒は一度引き下がったふりをしながら、決して諦めてはいなかった。
*
”恒さん……恒さん……っ”
”わたしはやっぱり、あなたがいないと……っ”
だめだ。ひとりでは何もできない。
彼女は何度考えてもそう思った。
何も考えず、ただただ飛び出した。自らの名を呼ぶ恒の悲鳴を、もう聴きたくなかったから。
そこは光さえ届かない宇宙の闇の中、彼女の前を、何も通り過ぎない。
何もないということは、こういうことだ。
わずかな塵でさえも、漂うことは珍しい。
彼女の流した涙は真空の身を切るような冷気にあてられて氷滴となり、無重力の空に浮かんでいた。彼女はもう、彼のもとには戻れないと解っていた。
彼女の一番大切だった存在を、藤堂 恒を裏切った。
どれだけ本意ではなかったと否定しても、赦してくれと泣いてもこの事実からは逃げられない。
”大好きです……恒さん”
彼女は許しを請うように、遥か遠い場所から恒にそんな想いを打ち明けた。
もっとも、レイアにも彼女がどこにいるのか。
ということなど分からない。
地球から、神階からも遠く遠く離れたどこかの銀河系だろうか。
レイアは積極的にINVISIBLEの側についたのではない。ただ、そうする他に手立てがなかった。
INVISIBLEの真意をいくら恒や神々に説明しようと、彼らは INVISIBLEと通じ合うことが出来ない。そしてこれまで三階に甚大な犠牲を強いたINVISIBLEの狂気は、既に感情抜きに説明できるものではなくなっていた。
三階を内包する存在であるINVISIBLEは三階に対し、それが本意ではなかったといえ、あまりにも不寛容すぎた。
レイアは力を抜き、真っ暗な周囲を見渡す。
何かを目印にしていなければ、方向感覚を失ってしまいそうだ。
どこまで目を凝らしても、果ては見えない。
レイアは漠然と、INVISIBLEが過ごした時間の長さに思いを馳せる。
少しでも同情する気にはなれないが、彼女は彼のことを考えると胸を裂かれるように悲しくなった。
”あなたが孤独のうちに過ごした時間は、どんなものだったのでしょうか”
レイアはいづくともなく語りかけた。
レイアは数分だってここにいることが耐えられない。
幾百億年もの歳月……わずか二歳と半年を生きる彼女には、想像もつかない時間の長さだ。
……彼女の目の前に、光が現れた。
バスケットボールほどの大きさの、温かな星屑がレイアの周囲をふわふわと漂っていた。
手を伸ばして星を捕まえる、これはINVISIBLEからの差し入れだろうか。
”無限の苦しみの果てにあなたが守りたいと願った世界。あなたは傷つけたり壊したかったわけではない”
レイアは身をかがめて神体を小さく折りたたみ、星屑を抱え込んで暖を取る。
INVISIBLEから与えられたイメージがフラッシュバックする。
自分が自分であること、誰にでもできることが、それは彼にとって、とても難しい。
何度試みても失敗してきた、これが最後の試みとなるだろう。
最後のプライマリの個体である彼女にできなければもう、これを残してあとはなかった。
そしてその瞬間に、三階の歴史は終わる。
”千切れた心を小さないれものの中で繋ぎあわせて、あなたの心が戻り“
”その力を未来へとつなぐことができるのなら”
彼女は恐ろしさと寒さのあまり小鳥のように震えながら。
心は揺るがなかった。
”私はあなたの止まり木になるわ”