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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第6話 Noise of something

 小雨のそぼ降る中、十重二十重にも閉ざされ

 悠久の歴史の狭間に隠され続けてきた、真理の扉が開かれていた。


 そこは彼女の為に聖別された領域であり、招かれざる者にとっては生と死の境界でもある。枯れ果てた叢の上に、動物の死骸が思い思いの場所にまちまちの方向を向いて、横たわっていた。日本の自衛官の制服を着た遺体も白骨化して、雨ざらしになりながら、その中のひとつに加わっている。

 グラウンド・ゼロ。

 そして生と死を分かつ場所。


 渦巻く狂気の風が、彼女以外の生の存在を阻んでいる。

 目に映るのは高いフェンスに周囲を囲まれた何の変哲もないただの野原であり空き地だが、漂うのは牢獄のような異様な雰囲気。

 この上なく残酷な彼女の為の舞台、そこは供犠の祭壇であるのかもしれない。


 やがて雨の上がった冬空の雲間から、スポットライトのように彼女を照らす光が差し込み、彼女の柔らかな毛を透明にする。風はますます唸り上げて、吹き荒ぶ。

 ひりつくような、乾いた空気が肌に刺さる。傍に近づくだけで耳鳴りがする。

 彼女を置いては他に、頑として何も語りかけてこない場所――。

 そこに恒とレイア、一対の抗体と抗原。


 恒は彼女を包む異様な空気に呑まれそうだ。彼女のマインドギャップは極度の緊張からか、消えうせている。


「……何か、感じるか?」


 レイアは軽く両手を拡げ、グラウンド・ゼロに向けて神経を研ぎ澄ませた。

 恒は彼女を繋ぎ止める為にその手を握りしめている、スティグマが昂った時に彼女が帯びる独特の熱にふれた。


“呼んでいます……“


 彼女は吸いつけられ、駆られるように高いフェンスの内側を見つめている。

 魅入られた彼女の小さな足がまさに歩みを進めようとした時、恒はその手を強く引き戻した。ぐん、と柔らかな肢体がバネのようにしなって恒のもとに戻ってくる。


「行くな! だめだ」

“でも……”


 彼女はそれきり言葉に詰まった。そこに行ってはならないと、理性では分っている、それでも、彼女はその誘惑に勝てそうにない。

 創世者INVISIBLEからの、遥かな、そしてこの世界の一切の法則を支配するその呼び声には、それが偽りのものであろうと、彼女は勝てそうになかった。

 恒は背後から彼女をきつく抱きしめ、彼女を行かせまいと身に添わせた。


「遠くから見るだけって約束だ」


 恒と目を合わせず真っ直ぐフェンスの向こうを見据えたまま、重い沈黙が続く。レイアはどこかうわのそらだ。

 いつもは素直で聞き分けのよい彼女が、今日に限って意固地になって首を縦に振らない。

 この因縁深い場所が、スティグマを通して彼女の肉体や精神に強く作用していた。

 それはどんな時にも逃れる事のできない、INVISIBLEからの誘いかけだ――。


「レイア! 聞こえてるのか!」


 ノーボディが懸念していた通りの事態が起こってしまいそうだ。

 レイアに呼びかけが届かなくなってしまったのだとノーボディが恒にぼやいたのは、つい数時間前のことだ。

 スティグマから働きかけられる強烈な作用によってノーボディからの精神的な干渉が阻まれ、生物階・神階を掌握する彼をもってしてもレイアの意識と通じる事ができなくなってしまったのだという。


 アルティメイト・オブ・ノーボディがレイアを庇護することができなくなり、代わりにINVISIBLEがレイアを包み込むように強く影響を及ぼしているということは、ここ数日の彼女の様子を見れば明らかだった。

 そのうえアルティメイト・オブ・ノーボディは夢の中で恒と通じることすらも、これが最後となるかもしれないと云っていた。

 INVISIBLEの生物階における支配力はそれほどに強まって、アルティメイト・オブ・ノーボディの力を徐々に殺いできているのだそうだ。

 恒はそれを聞いて、彼からの援護は最悪の場合完全に、なくなってしまうかもしれないと予測した。


 レイアが正気を失うようなことになれば必然的に、他の誰に頼ることなく恒が止めなくてはならないというわけだ。

 それは、孤立無援の戦い――逃げ出したくなるような恐怖だった。

 彼女をINVISIBLEから直接的に守ることができる存在が事実上、恒しかいなくなってしまったのだとしたら、遅かれ早かれ、 INVISIBLEは邪魔な恒を殺しにかかる。見通しと対策が甘すぎたと悔いる時間すら、恒には与えられていない。

 INVISIBLE収束は残すところあと半年にまで迫っている。

 INVISIBLEは直前まで手の内を見せなかったことで一度恒や一部の神々に“幾分の勝機はある”という何ら根拠のない自信をつけさせ、すんでになって奈落へと突き落とした。それこそがINVISIBLEの思惑だったのだとしたら……策はとうに尽きている。


 不可視の創世者、INVISIBLEの含むエネルギーは不可逆的に増大する一方だとノーボディは云う。

 他の創世者のように時間の経過による劣化や弱体化を期待することができない。

 力を殺がれ、所持エネルギーを目減りさせ続けているアルティメイト・オブ・ノーボディ、そして未だ抗体を満足に制御できない藤堂 恒、わずか2歳と半月しか生きていない絶対不及者の体現者、レイア……INVISIBLEにとってこの三者は、取るに足らない塵芥のようなものだろう。

 恒は手のうちにじっとりと嫌な汗をかきながらも、彼女の前で少しでも弱音を吐くわけにはいかなかった。そんな恒より誰より不安を感じているのは、いつもINVISIBLEと無関係ではいられない彼女自身なのだから……。


「しっかりしろ、目をさませ!」


 恒は魅入られた彼女にことわりもなくそのコートの下に手を差し入れてその背に触れ、早くも彼の唯一の武器である抗体を発動させた。

 スティグマは恒の手を焼き付ける。

 いつもは恒の手によってすぐに躾けられるはずの、熱がおさまらない。


“……フェンスの外側からでも……これじゃ、”


 強すぎる。

 これでは、こんな有様ではINVISIBLEに勝てるわけがない! 

 すぐ間近に差し迫っていた危険を察した恒は彼女を瞬間移動に巻き込み、恒がよく利用する入階衛星を目標に転移をかけた。


 恒の腕時計と一体化しているGPSで座標を確認すると、南米アルゼンチン上空8000mと表示されている。INVISIBLEが逃がしてくれないかもしれないと思ったが、ひとまずの転移は成功したようだ。

 恒の腕は彼女を連れてきている。

 ほぼ地球の裏側のこの場所ならグラウンド・ゼロの影響力を排除することができる。

 恒は深呼吸をしてレイアを放し、彼女を自翔させて対流圏の-50度を下回る厳寒の風に当たらせた。

 人の身でもある恒にはかなり肌寒く感じるが、プライマリの女神である彼女にはなんということもない気温だ。

 ふわりと、女神の神体が闇の色がいっそう濃くなった大気中に浮かび上がる。

 支えがなくとも落下しない、彼女はさほど訓練せずとも自翔できた。

 彼女の放つ淡いカナリア色のアトモスフィアが、恒の樗色のアトモスフィアと混和され、白藍色となって溶け合う。


「頭を冷やそう」

“……はい”

「俺もだ」


 本当に頭を冷やさなくてはならないのは、こちらの方だと恒は猛省した。

 迂闊で、無計画、無防備すぎた。

 INVISIBLEがスティグマを介して、ここまで彼女を蝕んでくるとは……敵の強さは恒の想像を凌駕していた。

 彼女の希望を叶えるために、いささか彼女に自由を与えすぎた。

 グラウンド・ゼロになど行かせてはならなかった。

 恒はかつてない危機を感じていた。その日、その時のためにヴィブレ=スミスが用意し恒が鍛えてきたABNT抗体はもはや、役になど立たないかもしれないと。

 そもそもヴィブレ=スミスは、恒に仕込まれた抗体の能力がINVISIBLEの浸食を完全に抑え込めるという公算など、どうやって立てたものか……。


 仮に計算が正しかったとしてもヴィブレ=スミスは先代絶対不及者の所持エネルギー量をもとに算出している筈で、それでは相手を過小評価しすぎている。

 この十万年間にINVISIBLEがどれだけ強大化しているか、どのような手段で神々に推し量る事ができるだろう。

 ましてや恒は自身の抗体の活性を高めるだけで、その命を代償とせずに INVISIBLEを押さえ込もうとしている。

 そんな生ぬるい対価では、INVISIBLEを制御できるわけがない……恒はようやく気付かされた。


“……ご、ごめんなさい”


 レイアは恒がレイアの事についてあれこれと悩んでいるようなので謝罪をする。

 恒は力なく首を振った。


「いや、お前がINVISIBLEに引きずられたのは……止められなかったのは、お前のせいじゃない。俺のせいだ」

“こ、恒さん……”

「……止められない、のかな……俺には」


 恒が全力を以てして、それでも足りないというなら、ヴィブレ=スミスの当初の予定通り命をもって購うほかない。

 全身全霊で、恒の命と引き換えにINVISIBLEを抑え込む、迷っている時間などない。

 レイアを助けるために、そして世界を破滅から救うためにそれだけしか方法がないというのなら……命を燃やし、レイアに灼かれその身を溶かし尽さなければならない ――。


 INVISIBLEには理屈など通用しない、姑息な手段が通用するような相手ではないのだ。

 思惑通りになってくれるような相手なら、神々が太古の昔より現代に至るまで徹頭徹尾、INVISIBLEに翻弄されることも、神階が幾度となく破滅に瀕することもなかった。

 狡猾なブラインド・ウォッチメイカーが簡単にINVISIBLEに吸収されはしなかった、

 成熟した深慮ある創世者であるアルティメイト・オブ・ノーボディがINVISIBLEに完全敗北し白旗を上げることもなかっただろう。


 至極単純なこの事実を受け入れなければ、その瞬間に敗北を喫することとなってしまう。

 過去幾十億、幾百億年の間に、たった一度でもINVISIBLEを止められた者は誰もいない――。

 そう、誰ひとりだって――。

 できないことを、しようとしている。

 

“恒さん……何を考えているの”


 レイアは不安そうに彼の名を呼ぶ。

 レイアの目から見た恒はどこか、思いつめているように見える。

 恒がどうしなければならないと感じているのか、レイアには何となく予想がついた。

 レイアは表情を硬くこわばらせた恒をただじっと見つめて、ぷるっと肩を震わせる。

 彼女の心には、小さな決意の灯火が揺れていた。


 それは彼女にとって一か八かの、捨て身の賭けでもあった。



「手柔らかにの」

「今上(当代)主神の名に恥じぬ実力を持っているなら、そう及び腰になることもあるまいて?」


 神階の最果てともいえる場所、特務省の最下階で対峙する二柱の神々は、先ほどから微動だにしない。

 大柄の特務省特務従事者は比企を小馬鹿にして、慇懃無礼に挑発する。


「あの梶が一撃で沈められたのでな……」


 くどいようだが、梶はここ二百年にわたり積極的に極陰に位申戦を仕掛け、極位神の玉座を脅かしていた神だ。

 その梶が、バロックダイス(BAROQUE DICE)の性能も発揮できずまるでいいところなしに叩きのめされ、今もまだ意識を飛ばしている。

 そして恐るべきことに、比企と梶との間の実力差は雲泥の差というものではなかった。 

 油断でもしようものなら、比企もすぐに梶と同じ目をみる。

 比企は戦闘行為を望んでいない、一つの諍いが、更なる争いの火種となる。

 神階と特務省が協力関係を結ばねばならないという時に、何という失態だろうと彼は困惑していた。


「なに、そちらの青髪を伸したのはわしではない、織図だよ。儂を警戒する必要はなかろう」


 割舌の悪い、低い濁声で話す男神だ。すっぽりと頭から純白のフードをかぶっていてその容貌は見えないが、すじばった手や頬のこけた様子から、比企より随分年上、数千年を経た壮年神と窺える。

 不満そうに弁解する織図の声が、広いホールに反響した。


「よく言うぜ……こっちはあんたらが焚き付けるから止むを得ず、だったんだがね。おい極陽、分かってると思うが、局長代理は俺なんかよりずっとタチ悪いぞ」


 男神の手に携えられた古い木製の杖は、その性能も詳細も未知のものだ。比企は未知のものながら、彼の攻撃パターンを物理打撃メインの中距離型と見切った。

 というのは、彼にとってこの場所がアウェーではなく、特務省内部ホームだからだ。

 彼がよほどの上役でない限り彼の独断で施設を破壊することはできないし、それは誰も得をしない愚行とみる。

 しかしひるがえってみるとその状況は比企にとって何らかわりはなかった。

 彼が幅広い戦略の選択ができないのと同じく、比企も懐柔扇の得意とする物理学的攻撃の殆どを封じ込められている。


 比企は刃物のように冴えた頭脳で、芸術的なまでに緻密なセオリーを瞬時にして組み立てる神だが、戦術の構築にこれといった決め手を欠いたまま、腰を低く落として攻防一体の構えをとった。

 懐柔扇の柄をいつもとは違う取り方で逆手に握る。

 懐柔扇を脇差しのように使い、未知の得物とのリーチの差を利用して切り込んでゆく為にだ。


 それにしても、比企は久遠柩発動の要請をする為に訪問したので、戦闘行為を想定しておらず、機動性という点ではお世辞にも合理的とはいえない装束で訪問してしまったものだ。

 襷の一本でも持ってくればよかったと悔いる。

 長い袖をたくり上げ、仕方なく腰紐を解いて襷がけをするように袖口を縛ると、日頃から苛め抜いてきた強靭な筋肉が現れる。

 いかに不意をつかれようと、予想外の事態に直面しようと、鍛えてきたその肉体は裏切らない。


 いつになく戸惑いの表情を見せる比企を、織図は更に落ち着きのない様子で見下ろしている。位神が極位の身の危険を、本気で案じなければならないという異常事態。

 単身挑む比企は、臆してはいない。


 しばし睨み合った両者、張り詰めた緊張と静寂に呑みこまれることなく、先に仕掛けたのは比企の方だった。

 音もなく敵の間合いに踏み込み、変則的な脚さばきと超越的移動スピードでアトモスフィアの分布に流動性を持たせ、爆発的に拡散させる。

 ある一定以上の強さを持つ神どうしの戦闘の場面では、気配を完全に断つより気配を分散して撒き散らす方が座標を絞り込まれないものだ。

 いわゆる木を隠すなら森、気配を断つならアトモスフィアの海に、というものである。

 比企がアトモスフィアを放散したとみると、織図が局長代理と呼んだ男神はふっと気配を断ち、それと共に比企の視界から消えた。

 見失ったのではなく、彼はその場から消えてしまった。

 彼は比企の出方を見極めた上で気配を断つという、比企とは真逆の戦術を採った。

 比企は少しも慌てず、懐柔扇の要の部分を指先でつまんで投扇興のような構えで翻した。


「抜かったの……」


 比企が呟いてわずかに口角を上げたのは、彼がこの状況を勝機とみたからだ。たとえ彼の姿は見えずとも、この場は比企のアトモスフィアの領域中にあって、局長代理の存在が比企のアトモスフィアの布陣にぽっかりと穴を開けた。

 それは均一に絵の具で塗られたキャンバスの中に塗り忘れた手付かずの白紙部分が、そこに何もないにもかかわらず強く存在を主張しているさまに似ている。


 つまり、いくら姿を隠そうと頭隠して尻隠さずというもので、隠れても意味がない。

 少し考えれば子供でも分かることだ、藤堂 恒でもこのような無謀な戦法は取らないだろう。

 神体はアトモスフィアを遮るため、その一柱の体積ぶんのスペースを浮き彫りにしている。

 この場合、気配を断つのは愚の骨頂。比企が優位と勝機を確信したとき、ふっと背後から予期せぬ気配が現れた。


 歪んだ幻聴と風圧に、比企の長い白髪がほんの僅かに触れて気付いた。背後から繰り出されてきた一撃に、いまにも腰骨をへし折られそうになっている! 


 間一髪のところで比企は左脚を跳ね上げて体躯をねじり、ちょうど背面高跳びをするような形で攻撃をかわし、跳び下がると共に手の内にあった懐柔扇を繰り、数万度を超える熱波の爆風で迎撃する。

 耐熱、耐衝撃性の石畳が熱によって変形し、剥落するほどの攻撃を浴びせかけてもなお、特務省 公務統監局長代理、グイード=バルケロは比企の前に姿を見せない。


「気配が……」


 比企は背後を中心に全方位に集中したが、彼の気配を察する事ができなかった、逆にいうと比企は比企自身のアトモスフィアを遮られることなく感じ続けていたということだ。

 先ほど比企がアトモスフィアを遮られていたと感じたのは、あからさまな罠だ。

 仕掛けられていた釣り針を見破れずに、あやうく命を落とすところだったかもしれない。


 先刻の攻撃から判断するに、バルケロの所持する神具の性能は、荻号 要の所持していた第二の神具、“慎刀しんとう”と性能が酷似している。その射程距離は、無限大。その攻撃形態は如意――。

 一撃も喰らわずあらゆる場所から繰り出される攻撃を、避け続けることは不可能だ。


「そなた……なかなかの手練てだれと見受ける」


 比企は他人事のようにそんなコメントを述べた。

 戦闘中は絶対に己を客観視していなければならない。


「だからそう言ってるだろ! 油断してんじゃねえぞ、死にてーのか!」


 織図が離れた外野で口角泡を飛ばしながら叫ぶのは、織図がバルケロの手強さをよく知っているからだろう。

 ふざけたキャラクターの織図が必死の形相で警告するところをみると、主神をすら殺しかねないという意味なのかもしれない。

 バルケロにとってこれは余興でも、ただの手合わせや試練でもない、明確な殺意を持った殺戮行動だ。

 

 そして比企にとって不利なことに、神階からは独立した省庁である特務省には捜査当局である神階法務局の手が及ばず殺戮に対する抑止力がない。

 たとえバルケロが比企を殺害してしまったところで、避けられない事故だった、あるいは正当防衛だったと主張されれば、治外法権を持つ彼がそれ以上追及されることも、ましてや逮捕されることもなかった。


「織図、少し口を慎んでおれ」


 比企に肩入れをする態度を局長に注意され、織図はもどかしそうに口をつぐむ。


「力の出し惜しみなどせぬ方がいい、当方も手を抜いてやるつもりはない。ここで起こった事は全て事故として処理される、くだらぬ打算などせぬように」


 挑発ともとれるバルケロの言葉を聞いた、比企の灰色の瞳が鋭く輝く。


「全て事故か……。その言葉に、二言はなかろうの」


 姿なきままどこからともなく聞こえてきたバルケロの忠告に従ったのか、比企はパチンと大きな音を立てて懐柔扇を閉ざした。

 手遊びをするように、柄の端についていた長い金属繊維の飾り紐を、扇の骨の部分に幾重にも巻きつけてゆく。

 一見戦闘を放棄したかに思われる行動だが、白旗を揚げたのではない。

 折りたたまれ飾り紐を糸巻きのように巻きつけた懐柔扇は、やがてあるものを髣髴とさせる。そう、その形状はまさしく。


 電磁石コイルに似ていた。


“零式 超臨界磁気単極子ちょうりんかいじきたんきょくし


 比企はアトモスフィアを電磁石様の回路に通じ、最大出力を乗せた強大な磁場様の作用フィールドを立ち上げた。

 超伝導体物性を持つ神銀で作られた懐柔扇の骨から轟々と、彼のアトモスフィアを増幅してゆく禍禍しい共鳴音が聞こえる。

 暴れ狂う強い磁気を帯び重みを増した懐柔扇をぐっと頭上に押し上げ掲げると、紫電の磁気嵐がスパークを起こし竜巻を生じる。


筐内振動きょうないしんどうを寄与”


 元素崩壊と同じく、これだけは使うことがあってはならないと比企が自重していた禁断の機能……アトモスフィアによって増幅された単極子力をもって、対象の脳内で磁気振動を起こす“筐内振動”。


 悪趣味なことに筐というのは、脳の隠喩である。


 それは、ヴィブレ=スミスの奥義PSYCO-LOGICase(精神分解酵素)よりなおおぞましい業だといえた。

 なにしろ筐内振動は、対象の神経ネットワークを溶かしてゆく PSYCO-LOGICaseより圧倒的に速い時間で神経回路を物理的に破壊し、対処や反撃行動のための猶予を与えない。


 神々の模範となるべき極位神が敢えて下劣な手段を選ぶのは、それだけ余裕のなさを感じているからだ。

 隠し玉を隠しておけない、特務省職員グイード=バルケロは比企をそんな切迫した状況に追い詰めた。

 彼は厳霊いかづちを落とすように単極子振動をグイードの脳に転移させる。

 パシッとショートを起こし、無味乾燥な破裂音がして、脳内に落雷を受けた哀れな犠牲者は不可視化状態から姿を露にした。

 何が起こったか把握できず、比企に指一本触れられないまま、冷えきった床上に落下してゆく。

 比企は瞬殺した彼の亡骸の傍にひざまづくと、哀悼の意を示し、聖印を切り送った。

 結局、比企はフードに隠された彼の素顔を見ることもなかった。


「“事故”ではいささか、しのびないがの。其を望んだとあらば、応えるが誠意」


 もう、彼からの返事はない。

 

 パチ、パチ、パチと大袈裟な拍手が聞こえてくる。

 傍観を決め込んでいた局長が、比企を勝者と認めたのだ。

 織図は初めて間近で見た比企の手段を選ばぬ鬼畜ぶりについ喉元まで出かけた、こいつはとんだ二重神格野郎だという言葉を、やっとのことで心の中にしまっておいた。

 正義を重んじ悪を憎む、そんな馬鹿正直で愚直な思考回路では極位など獲得できなかっただろう。

 織図はグイード=バルケロに世話になったし、彼はよい上司だった。

 実力も人望もあった。その彼を一撃で葬り去った比企のポテンシャルは、いかほどのものか。局長はバルケロのフードを取り、見開かれた瞳のまぶたを優しく撫でて閉ざす。


「極陽という立場からは想像できぬ戦術だな。汝の性根はまだ、陰階神のようだ」

「左様だな、否定はせぬ」


 殺さなければ、確実に比企が殺されていた。

 だが一柱の神の命を奪った以上、弁明はできない。


「ともあれ、彼が事故と遺言を残した以上、事故は事故だ。中枢部へ案内しよう。ついてこられよ」


 部下を殺された怒りも悲しみも、彼女からは微塵も感じられなかった。

 比企は織図のすぐ隣で台座に寄りかかるように寝ていた梶を揺さぶり起こして立たせ、重い足どりで彼女の後に続いた。



「レイア……?」


 恒は薄暗がりの中で、繋いでいたはずの彼女の手をまさぐる。

 彼女を離さないよう互いの手に手錠をかけていたのだが、ある筈の手に触れられない。

 はっとして目を覚ますと、恒の身長にはいささか広すぎる、ダブルベッドの上には誰もいなかった。

 手錠の鍵は間違いなく恒が持っていた。

 やられた……共存在で逃げられたか、あるいはさらわれたか。

 後者の可能性はほぼ0だ。さらわれたというのなら、哨戒モードにしておいたFC2-メタフィジカルキューブのアラームが必ず反応する。

 そう考えると、彼女は共存在を使って逃げた。か。


 いつだ? 彼女はいつからいなくなった? 

 反射的に壁掛けの時計を見ると、現地時間にして午前2時、ここはカリフォルニアのビーチ近くのホテルだ。恒はレイアと生物階での滞在場所を、毎日転々と変えていた。万が一にも彼女や恒に追っ手がついては大変だ。

 できるだけ居場所を特定されたくないので、比企に適当な身元を用意してもらい、偽名を使って宿泊していた。


 恒は防寒のため白衣を羽織ると、思考停止した頭のまま窓を開け放ち、裸足のまま海風の吹きこむテラスに出る。

 よく磨かれたガラス窓のサッシには確かに内側から、厳重に鍵がかかっていた。

 恒は穏やかな潮騒音を聞きながら、重要なことを失念していたなと額を押さえた。

 彼女はつい今朝がた、グラウンド・ゼロの場所を覚えてしまった、一度でもグラウンド・ゼロに行ったということは彼女がいつでも、彼女が望む時に瞬間移動をかけられるということだ。

 恒は三度、彼の計画性のなさを悔いた。


 柄の悪い男達が車でたむろするこの危険なホテルの周囲を暢気に散歩しているとも思えないし、先ほど浜辺で存分に遊んだ彼女の興味を引き付けるものがあるとは思えないから、彼女は瞬間移動をかけてグラウンド・ゼロに行ったと推測しても無理な話ではない。

 そして、いや十中八九だが、そこに行ったレイアがただフェンスの外側から指をくわえてグラウンド・ゼロのあたりに見とれているとも考えられないから、フェンスの内側に入ってしまっただろう。


 となるともう、有限の命を持つ恒はフェンスの内側に入れず、彼女を助けられない。

 なお、改めて確認するまでもなく、恒の持つ神具FC2-メタフィジカルキューブには遠隔から対象を救うことのできるような機能はついていなかった。

 

 いや、待てよ。


 恒にはできなくとも……比企ならば懐柔扇を持っている。

 懐柔扇を使えば彼女が グラウンド・ゼロに降り立っていても、彼女をフェンスの外から凄まじい風圧で吹き飛ばしてグラウンド・ゼロの圏外に出すことができる。

 先にレイアを助けに行くか、比企を呼ぶか……。


 比企を呼ぶ方が先だ、恒はそう判断した。

 たとえ極位神である比企が玉座から動けなくとも、全神具適合性を持つ恒なら、最大出力ではなくとも懐柔扇の最低限の機能は扱える、何らかの対処はできる。

 恒は両手を併せ、超空間転移を行うためにアトモスフィアを収斂し、集中力を研ぎ澄ませてゆく。

 まだ未熟な恒が超空間転移を行うまでには、調子のよいときでも3分ほどの時間を要した。

 このわずかな時間が、命取りにならなければよいが……。


 彼はできる限りそちらに集中しながらも、頭の片隅では別のことを憂慮していた。

 ……恒が“眠っていた”、つまりいつでも彼と通じ合える状況だったのに アルティメイト・オブ・ノーボディは、恒にレイアが行方不明になったと、彼女が危機に陥っているとは教えてくれなかった。

 教えてくれなかったのか、それとも、教えることができない状況になったのか。

 難しくあれこれと捻って考えずとも、後者だということは明白だった。


「アルティメイト・オブ・ノーボディ、まさか……INVISIBLEに……?」


 恒にとって、四面楚歌の苦境は加速している。アルティメイト・オブ・ノーボディが恒を、そしてレイアを助けられない状況に陥っているとしか思えない。

 あるいはもう、アルティメイト・オブ・ノーボディも消されてしまったのか? 


 INVISIBLEがさらに恒を消すようなことになれば、レイアはたった一柱でINVISIBLEに立ち向かわなければならない。

 が、立ち向かうといっても篭絡されるのがオチだ。

 今後の戦況は不利を極める、恒がどこまで彼女を守ることができるものか――。

 アトモスフィアの熱量が励起状態にまで高められると、恒は迷わず神階最上層の天奥の間に超空間転移をかけた。



 日本時間にして19時をまわった頃。


 日が落ちて急速に明度を失ってゆく山間の片隅で、虚空に捧げられた幼い生贄は誰に導かれることもなく彼女の意志で、ただ彼女の勇気だけを支えにひらりとフェンスを乗り越えた。

 裸足で柔らかな土を一歩ずつ踏み固めながら、ゆっくりと災厄の起点に近づく。


 竦んで固まる足を前に押し出し、萎える心を奮い立たせ、創世者INVISIBLEと契った聖域に踏み込んでゆく。

 舞台には、誰も上がる事ができない。

 命あるもの、命に限りあるものは近づくことすら出来ない場所。

 グラウンド・ゼロに近づくにつれ、真っ暗な視界のなかで彼女の瞼の奥に強い光が射しこみ、しだいに全身が熱くなってきて、INVISIBLEの手の中に包み込まれるのを感じていた。五感は痺れて薄れ、足を運ぶたび頭痛がひどくなる。


 彼女は耐えられなくなって痛む頭を抱えながらよろよろとへたり座り込み、スティグマから湧き上がってくる熱に全てを委ねるしかなかった。彼女は溶かされそうな熱の中で、喘ぎながら、悲壮な決意のもとに創世者と通じようとした。


“INVISIBLE……望みどおり、話を聞きにきました。あなたはわたしから、たくさんのものを奪ってゆく。もうやめてください、誰も連れて行かないで。あなたがわたしを必要とするように、みんな、みんな……わたしには必要なのです”


 レイアは小さなお守り、未来みきからもらった桜色と白のボーダーの手袋をきつく握りしめていた。彼女は彼女にとって大切な者達の顔を思い浮かべる。

 幸福なひとときを過ごした、生まれてはじめてできた友達、未来の笑顔が鮮やかに浮かぶ。彼女の存在はレイアに勇気をくれた。二年半の間、親がわりをしてくれた恒の優しさと温かさを忘れない。

 彼は レイアの不安と恐怖を振り払ってくれる。そして彼女が出会った人々、神々、動物達……この先どんな事があっても決してひとりではないのだと、レイアはそう信じたかった。 


 身をこわばらせて変化を待っていた彼女に、予感は唐突に降り注いできた。

 よく耳を澄ませていなければかき消えてしまいそうな、錆付いたドアを開くような、ほんの僅かな雑音でしかなかったが、無音と静寂に慣れた彼女の鋭敏な聴覚によって、しっかりと捕捉することができた。


《……っと あえ た……》


 声は確か、そう云ったと彼女は思う。だがそうだという自信がないのは、声というにはあまりにも機械じみて、無機質すぎたからだ。声ではない、これは予感だ。


”そこに、いるの?“


 ゴッ、と声を押し流すように上空から強い風が吹いて木々をざわめかせる。

 レイアの目には見えないが、INVISIBLEはその存在を控えめに、だが強烈に主張していた。

 その存在に気付いてくれと云っている、レイアはそんな気がした。

 彼女は頭痛と背中の熱さをこらえながら周囲を見渡す、祭壇には先ほどと変わりなく誰もいない。

 だが、どことはいえないがすぐ間近に煙のように定まらない気配を感じる。それはレイアを見おろしている、どこか、遥かな高みから。


“……あなたが、INVISIBLE?”


 レイアは勇気を振り絞って、どこへともなく問いかける。

 レイアは肉声を出せないが、INVISIBLEにはきっと届いているのだろう。


《……ま、だ……トおい》


 アルティメイト・オブ・ノーボディと直接通じたことのあるレイアだが、アルティメイト・オブ・ノーボディのようにはっきりとした意思を感じられなかった。

 意識が朦朧として、うわごとを吐き出している……いつまでも無機的で耳障りな音を絞り出しているかのような、感情や意思の篭らない雑音でしかなかったが、それを仮に機械ではなく誰かの声だと捉えるなら、苦しそうだ、とレイアは感じた。


《せカ イガ、で キル マェ………ズット、あなタ ト、カれ ヲ…》

”彼? 彼って……?”

《ジかんが…ナ…ィ》


 やはり聞こえてきたのは機械的な、抑揚のない呼びかけだった。

 こんな雑音が最大にして最強の創世者の、崇高なる意思なのだろうか? 


 それともレイア は、創世者との因縁深い場所で自己暗示にかかって、幻聴を聞いているにすぎないのだろうか。これがINVISIBLEの声だというならまさに息も絶え絶え、なんと頼りなく、稚拙で、そして貧弱なものなのだろう。

 レイアは恒や神々、アルティメイト・オブ・ノーボディが彼の残忍さを恐れているほどには、彼は何も考えていないのではないかと思った。


 いや、こうは考えられないか。INVISIBLEは意思なき創世者ではなくかつてはアルティメイト・オブ・ノーボディやブラインド・ウォッチメイカーと同じように意思を持っていたが、何らかの事情で思考能力を失ったのではないか。

 そう考えると不思議と辻褄が合うような気がする。

 この状態がINVISIBLEにとって正常だとは、とても考えられない。


 例えば、“病気”、だとか……彼は創世者として健康ではない、どこかが、致命的に壊れている。

 レイアは彼女の直感に導かれるように、彼が“病気“なのだろうと推定した。


”彼って……もしかして恒さんのことですか? 恒さんはあなたにとって必要ではないのでしょう? どうして? 分かりません“


 INVISIBLEが何か、レイアと恒に頼らなければならないことがあるのだろうか?

 無限のエネルギーを持し、アルティメイト・オブ・ノーボディやブラインド・ウォッチメイカーのみならず数多くの創世者達を造作なく吸収しては肥大化し、その身の肥やしとしてきた恐るべき創世者INVISIBLEが……。

 これでは、いくら何でもお粗末すぎる。分別のない赤子かそれ以下だ。


《………そレ…は…》

”苦しそうですね。病気なのですか?”


 レイアは彼をいたわるように手を伸べた。

 彼女の手にはむろん、山間部の冷え切った大気が触れているだけだ。

 彼を憐れんでも、大きすぎるその存在に触れる事も、撫でてやることもできなかった。


《……》


 それを聞いたレイアは差し伸べていた手を緩慢な動作で下ろし、彼の意図を理解するまでに、かなりの時間を要した。

 彼が何を云っているのか、その言語は聞き取りにくいながらに全て理解できる。

 だが、到底受け入れられない。

 これは、受け入れてはならない事実だ。

 長い時間の果てに、レイアの脳は情報を処理することができず、ただ受け取った情報を反復した。


 目が覚めた、そんな表現が適当か分からないが、彼女を苦しめていた頭痛は更なる衝撃に書き換えられて、いつの間にか嘘のように消えていた。


”……INVISIBLEのあなたが――するって……まさか……”

《……メをカ シテ…ナィ…か》


 彼女の両の瞳にほうっと禁視の光が宿る。

 レイアは抵抗するすべもない。彼女が望んでここに来てしまった以上、 INVISIBLEにされるがままだ。

 レイアはこうなることを少しも予測せずに、生贄の祭壇にのこのこと出向いて来たわけではない。

 だが恒や比企に守られていて本当の意味では生命の危機など感じたことのない彼女が、彼女の不死の生命をすら掌中におさめるINVISIBLEと対等に駆け引きをするなど、どだい無理な話だった。

 彼女は悔恨に押しつぶされそうになりながら、INVISIBLEに縋るように尋ねた。


”わたしの身体を、乗っ取るの?”


 彼女は命乞いなどしないと決めていたが、身体の震えはひどくなるばかりだ。


《ちガ……う》


 怯えて歯の音の合わないレイアにどこか困惑したように、雑音は否定する。


《モ、ゥ……こトバ……ハなせ ナィ》


 途切れ途切れに聞こえる雑音は彼のいうよう、もはや声としての最低限の構成を満たしてすらいなかった。

 雑音はやがて吹きすさぶ風にさらわれて、かき消えてしまうものなのだろう。

 INVISIBLEがレイアに語りかけることができる時間は、もうさほど長くはなさそうだ。


 INVISIBLEがレイアに訴えかける、彼の声を、彼の願いを聞きださなければ彼はまた無慈悲な創世者として三階にとっての最大の脅威と成り果ててしまう。

 これまでと何も変わらない、 INVISIBLEの意思を知らなければ、絶対不及者となったレイアがまた同じ悲劇を繰り返すだけだ。

 そして今度は――それだけでは済まない。

 何かを変えなくてはならない、それをINVISIBLE自身が、願っているのだとしたら――。


《…………、スベテ ヲ……》


 レイアが恐怖のあまり目を閉ざした直後、彼女の瞼は石のように固く重くなって持ち上がらなくなった。彼女の意識はその瞬間から拡散し、じわじわと彼女の身体から溶け出して、INVISIBLEの意思と交わり同化してゆく。

 自己が薄く薄く異物と混ざり溶かされてゆく、自らが失われてゆく絶望的な感覚だった。


 INVISIBLEと意識を共有し抜け殻となったレイアを取り巻く環境は、刻一刻と変化し続けている。

 やがて月が東へと傾き、満天の夜空の下の木々が草地に影を落としている。

 昏く深い、いつまでも明けない夜のようなのっぺりとした深淵が、色を失った木々が、無感傷にレイアを見下ろしている。冷え切った大地に熱を奪われてゆく。 

 身体の芯まで、骨の髄まで凍えている……レイアにとっては懐かしい筈の、無音の静寂にすら身を切り刻まれてゆくようだ。

 全ての意図を受け止めた彼女に、どこからくるとも知れない激痛が襲う。

 彼女が感じた痛みは、身体的なものではない。


”……それが本当なら、わたしは一体どうすればよいのでしょう……”


 独り舞台で独白しながら、彼女は夜露に濡れた金色の頭をかかえて蹲った。

 彼の云うことが本当なら、レイアは共存在を使ってはならない。

 運命のいかなる回避も逃亡も許されず、レイアはレイアのままINVISIBLEをその身に受け入れ、絶対不及者とならなくてはならない。


 しかしINVISIBLEが方便を云っているのなら、それはすなわち、彼女と三階の破滅を意味した。  

 恒はきっと、INVISIBLEの妄言など信じるなと云うだろう。

 恒の行動を予測しているからこそ、アルティメイト・オブ・ノーボディとの連絡を遮断し、彼女に外野の声が入らない状態にして、INVISIBLEはレイアだけをここに呼んだのかもしれない。

 INVISIBLEに洗脳されたと恒に言われても、レイアは反論できない有様だ。


”皆を傷つけて、恒さんをずっと苦しめて……わたしにもいっぱい、酷いことをして……どうして、助けて欲しいだなんて云うの? 大嫌いです、あなたから自由になりたい。でも”


 彼女の頬を一筋の涙が伝っていった。

 やり場のない悲しみが、レイアの心の奥のほうを掻き混ぜて滅茶苦茶にする。


“あなたを助けなくては……。INVISIBLE……あなたはどうして、自分を失ってしまったの”


 声が遠く去り、レイアが気が付くと、柔らかな土の上にうつ伏せに倒れこんでいた。

 流星のように舞い降りてきてレイアを打ちのめした INVISIBLEからの天啓はもう、聞こえなくなっていた。


 彼女はかじかむ両手に力を入れ、やっとのことで細い身体を起こす。

 それまで INVISIBLEによってシャットダウンされていた現実が津波となって、彼女の五感に襲いかかってきた。


「レイアァ――――!」


 背後から、レイアを引き戻そうとする恒の絶叫が聞こえる。

 心細さのあまり聞こえた空耳ではない、恒は生と死を別つグラウンド・ゼロを仕切ったフェンスの瀬戸際まで迎えにきていた。

 ああ、そこに恒がいたのだ。


 何度レイアを呼んだものか、恒の声はひどく掠れていたが、INVISIBLEが彼女に押し付けるノイズのような儚いものではない、力強い肉声。

 彼女の耳にはなんと頼もしく聞こえることだろう、レイアは子犬のように震えながら、じわっと涙がこみ上げてきたのを感じていた。


 彼女の大好きな声の呼ぶ方に駆け出して、どれほど恒に飛びつきたいと思ったか分からない。だが、彼女はそうすることができなかった。

 恒のもとに戻れば、恒は二度とレイアを離さないだろう。

 彼はどんな手段を使ってでも、レイアをそこにある脅威から守ってくれようとする。


「戻って来い! 早く!」


 レイアは涙まじりの茫然とした顔で恒を振り返り、地を蹴って透き通った厳寒の空に舞った。黄金の女神と、銀色の月がコントラストを成している。

 恒には触れる事もできない、荘厳で不可侵の光景だった。

 彼女の純然とした美しさを、冷たい月が引き立たたせている。


“ごめんなさい。わたしは……INVISIBLEを助けます”


 間に合わなかった。

 恒が夜空にいくら彼女を呼ぼうとも、彼女は戻らない。

 恒が彼女の姿を見たのは、それきりだった。

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