第2節 第5話 The friend of Rhia Mater
彼女の大きな翡翠色の双眸は、飽くことなくいつまでも雲の群れを追いかけている。
しんしんと冷えきった冬空の下、赤いコートの少女は静かに、深まりゆく冬の音を聴いていた。
視界に入る公園は、解放感に満ちている。
ふかふかの茶色い芝生の上で子供達の歓声が聞こえる、東京都心の少しはずれにある広い公園のベンチに、二柱の神々は人々を眺めてひっそりと腰を下ろしていた。
白昼堂々神が普通に人々の生活の中に紛れていたが、違和感を覚えた人間は誰一人いない。
ほんの僅かな違いを見抜くことができる、ある意味特殊な感性を持った人間は。
ごく稀にアトモスフィアを察知できる特異体質を持つ人がいるが、神々が傍らを通り過ぎると大抵の場合「寒気がする」、「風邪をひいた」、そんな具合に感じるようだ。
たまに「霊がいる」と騒ぎ立てる自称霊能者もいるにはいるが、神々や使徒は殆どの場合誰にも気付かれないままこっそりと人々の中に紛れ込み、人々に手を差し伸べてきた。
陽階神である恒とレイアは、陰階神のようにODFを使わずとも生物階に滞在する事が許される。
偵察衛星を介して監査されているが、今のところ神法に抵触する行動は取っていないし、禁止されている場所にも行っていない。
全てが合法のうちの生物階滞在だ。
『恒さん、たくさんの人々がいます』
レイアは先ほどから人々を観察していつまでも飽きない。
なかでも彼女は彼女との共通点を感じるのか、同じ背格好の女の子というものに夢中だった。無性別の他の神々とは異なり完全な女性であるレイアは神々よりも、どちらかというと人間と交流を持った方がよいのだろうと、恒は彼女の様子を見てそう思う。
たとえ種族が違っても、彼女が親近感を覚えるのは何百年も生きた性別のない神々より、小さな人間の子供なのだろうから。
だが、彼女の持つ膨大な知識と感性とは対照的に、人の子はあまりにも幼すぎる――。
「まあね。正体なんてバレっこないから、一緒に遊んできたら? きっと仲良くしてくれるよ」
『遊ぶって、何ですか? 難しそうです』
恒は真面目にそんなことを言っている彼女に苦笑する。
確かに他の子供たちとコミュニケーションを図り、仲よく一緒に遊ぶことは彼女にとって難しいことなのかもしれない。
声の出せない彼女はまず、他の子供と意思疎通をすることができないからだ。
『恒さん、何かが来ましたよ』
レイアがそう言うので指さす方を見遣ると、芝生の向こうから、気のよさそうな父親と小さな娘に連れられた、散歩途中の黒いラブラドールレトリバーがフンフン、スンスンと鼻を鳴らし地面を嗅ぎまわりながら、恒とレイアの座るベンチに近づいてきた。
黄色と白のボーダーのニットの温かそうな腹巻きを腹に巻かれた犬だ。さも不審そうに恒とレイアの匂いを嗅いでいるのは、人間との違いを匂いで嗅ぎ分けているからだ。
ラブラドールは恒とレイアの顔を見ていよいよ何かを察したのか、こいつらは不審者だと飼い主に知らせるために歯を剥いて唸ろうとしている。
それに気付いた恒は一瞬早く犬の傍らに寄り沿い、犬の頭を撫でるふりをしながらマインドコントロールをかけた。
犬に吼えられるのはいっこうに構わないが、レイアが怯える。
それに噛みつかれでもして血を流せば容易に、彼女が人間ではないと明るみに出てしまうからだ。
……犬にかけるマインドコントロールは人や神々にかけるそれより簡単だ。敵意をむき出しにしていたラブラドールもすぐにとろんと眠たくなったようで、けだるそうにベンチの下に伏せ大人しくなった。
「やあこんにちは」
父親は恒が犬に触れたので、恒に声をかけてきた。
彼の娘は丁度レイアと同じ背格好の少女。
つややかな長い黒髪がピンクのマフラーでくるりとまとめられ、細身の身体を暖かそうな白いダウンジャケットでもこもこさせている。
二人の人間の急接近に、レイアの緊張が背後から恒に伝わってきた。
そう、彼女は面識のない人間と接して緊張している。
初対面の相手との遣り取りは、彼女にとってはよい刺激となるだろう。
「こんにちは、かわいい犬ですね。名前なんていうんですか?」
「ありがとう、君達もお似合いのカップルだよ」
どうやら父親は恒とレイアをカップルだと思っているようだ。恒が愛想笑いをしていると、犬を褒められたのが嬉しいらしい少女が、父親を押しのけてしゃしゃり出てきた。
「あのねー、シェリーちゃんっていうの。みきが名前つけたんだよ。かーいーでしょー」
どうやらこの犬の飼い主らしい、みきという娘が自慢げに教えてくれる。
恒は思いついて、腰が引けているレイアを振り返り目配せすると、彼女は一生懸命首を横に振っていた。
神と使徒以外の生物の存在しない神階で育った彼女にとって、初めて見る人型以外の生物は怖いのだ。
「犬だよ、大丈夫噛まないから。触らせてもらってごらん」
恒は折角だからと、彼女の手を無理やり取ってレトリバーの背の辺りを一緒に撫でさせてもらった。
彼女は怖気づいていたが、ふわふわとした縫いぐるみのようなその感触が気に入って、おずおずと犬に寄り添い、犬の鼓動を感じるように頬を寄せている。
恒のマインドコントロールで深い催眠に落とされているのだから、暴れたりかみついたりしない。
そんなレイアの顔をじっと見守っていた少女は、驚いて目を丸くした。
「わー! 目、みどり色! かーいーねー。お人形さんみたいー!」
「おや、外国のお嬢ちゃんだね。こんにちは! ハローの方がいいかな?」
レイアはびくっと肩をこわばらせた。
レイアは彼女と父親にそう言われて初めて、彼女の姿の異色さに気付かされたからだ。彼女は普段鏡を見る機会がないし、神階には様々な髪と瞳を持つ神々や使徒がいたので気にならなかったが、この公園にいるのは皆、同じ外見的特徴を持った人々だ。
日本由来の神である恒もすっかり彼らの中に同化して、余計にレイアの特徴を際立たせている。恒はずるいと、彼女は思った。
「みき、英語少しできるよー。マイネーミズ、ミキ・アイダ、ホワット、イズユア、ネーム?」
人懐っこい少女が、どこかで習ったらしい英語で話しかけてくれる。
でもレイアは何も答えられないまま助けを求めるように、恒の後ろに引っ込んでしまう。
むろん、英語が分からないのではない。
みきは必要以上におどおどとしたレイアの態度に、不思議そうな視線を向けている。レイアが欧米人の子供だと思われているのであれば、一般的にコミュニケーション能力が高いと思われている欧米人でありながら引っ込み思案な少女は珍しく映るだろう。
「ああ、この子ちょっと言葉を話すのが難しくて。名前はレイアというんです」
緊張のあまりフリーズしそうになったレイアを見かねて、恒はよい頃合いで助け舟を出した。
父親はしまった、とばつが悪そうな顔をした。
「そうか、お嬢ちゃん、喋れないのか」
レイアは事情を説明することも乖離性意思伝達法を用いることも出来ず、ただ顔を真っ赤にして恥ずかしそうに、こくりと頷くしかなかった。
恒と普段の会話をするように、この二人に対して乖離性意思伝播法を使ってはだめだ。
彼らを怯えさせてしまうと、それほど社会性のない彼女にも推測できたからだ。
「そう……」
みきはそれを聞いて気の毒そうに俯いていたが、やがて何かを思いついて、彼女が無意識にずっと手に握りしめていたものをレイアに向けて優しく差し出した。
「れいあちゃん、みきと一緒に遊ぶ? 公園でバドミントンしようと思って持ってきたんだけど、一緒にどうかな。お父さんはいっつもやる気ないから」
みきはかわいらしい両えくぼを作りながら微笑んで、ラケットをレイアの手に握らせ同意を求めて首を傾げた。
レイアは見慣れないものを握らされ、きょとんとして長い金色のまつげをしばたかせている。
「それはいい、遊んでおいで」
父親もみきの機転に乗っかるかたちで、そう言ってちょろりと手を振った。
『恒さん、わたし、どうすれば……』
レイアはどうしてよいものか困惑して恒に尋ねる。恒は二人に悟られないよう、視線を泳がせないように気をつけながら、レイアにのみ通じるようアドバイスを送る。
無経験であってもバドミントンのラリーは簡単だ、レイアもすぐに出来るようになる、出来ないものではないと恒はそう思った。
『その子が羽根を持ってるだろ? それをそのラケットでシャトルを落とさずに打ち返せばいいんだ。難しくはないよ、ただそれだけ。他に何かルールがあれば、その子が何か言うだろう。頷いていればいい』
レイアは理解できているのか理解できないのか、ラケットを呆然と見つめるだけだ。
「行こっ! れいあちゃん」
みきは困惑しているレイアの手を引いて、嬉しそうに跳ねながら、寒々しい噴水近くの芝生の向こうに行ってしまった。あっという間のことだった。
「未来が友達を勝手に連れていって、ごめんね。君はシェリーとフリスビーでもするかい?」
間が悪くなった父親は寝ている犬を起こそうとしたので、恒は結構ですと首を振った。
「いえ、シェリー君も疲れているようですし、ここから彼女達を見ています」
「おや、シェリーが男の子だって分ったんだね」
父親は犬の雄雌の区別がつけられる恒に、少しばかり驚いているようだ。
「ええ、何となく顔つきで。レイアを誘ってもらってありがとうございます。とても内気な子なので」
「こっちこそ、付き合わせて悪いね。未来は、最近親友が転校してしまったんだ。その子とはよくバドミントンをしていたんだが……もう相手がいなくて、寂しがってね。レイアちゃんにその子を重ねてるんだろう」
やがて恒と父親の見守るなかで、ふたりの間をぽーん、ぽーんとシャトルが往復し、ラリーが始まった。
レイアはすぐに要領を掴んで、一度も落とすことなく、未来の打ちやすいよう優しく打ち返す。
レイアは嬉しそうに笑顔を見せた。
遠目に彼女の姿を見守る恒は、レイアのこんな楽しげな表情を目にしたことがない。
たった今の今までは……。
恒がいかに彼女を理解しているつもりではあっても、恒では担えない繊細な部分もある。
生物階で女の子として普通の暮らし、させてあげたいな――。
恒は痛切にそう思った。
*
「わー、れいあちゃん上手だねー。みきの方が落としてばっかりで全然下手くそだぁ。楽しいねえ、れいあちゃんも楽しい?」
レイアはそう訊ねられて慌てて、楽しいという意味も分らないままにこくこくと首を縦に振る。
未来に気を遣っているのではなく、言葉も知らないのに“楽しい”ような気がしたからだ。
「れいあちゃん、明日も遊べる?」
未来は、何気なくレイアを誘う。レイアは恒に許可を求める為に後ろを振り向いたが、恒が父親と話し込んでいるのを見ると、彼の同意を待たずこっそりと頷いた。
恒が何か明日の予定を決めてしまっているかもしれないし、レイアに見せたいものがたくさんあると言って日本のみならず海外のガイドマップも見ているようだったが、一日ぐらいは融通してくれるだろう。
そう思ったからだ。
「明日は、スケート行かない? お父さんがスケート連れて行ってくれるんだー。そっちのお兄ちゃんも一緒に」
彼女はスケートが何なのかも分らないまま、ついでにしっかりと頷いた。
勉強以外のことであろうから、なおさら大歓迎だ。
未来はレイアには分からない言葉を連発しているが、レイアはその一つ一つを興味深く思う。
もう少し未来と一緒にいたいと、彼女は自然にそう感じた。明日という約束でいつまでも心の奥の方を握られて、彼女に繋ぎ止められたかった。
生まれて初めて、それが必然ではなく必要でもない、大切な他者との繋がり。
断ち切りたくなかった。
「れいあちゃん、みきの友達になってくれる? 今あったばかりじゃちょっと、友達は早いかな」
レイアには友達という言葉の意味が分らない。
それでも、恒は“友達”を持っていると言っていたのを思い出す。
未来の口から紡がれたそれを、温かい言葉だと思った。
誰もが持っているものならば欲しいと思う、それを持つことが許されて、未来がそれをくれるというなら。
彼女は未来に差し出された宙ぶらりんの手を、大切そうに下から支えて握り返してみた。
凍てつくような寒さの中、未来のほんのりとした体温だけが温かく特別なもののように感じる。
トモダチ……。
それはレイアの心の中に、どこまでも深く深く浸透する不思議な魔力を持った言葉。
レイアの凍えそうな指先が、彼女の温かな掌で温もりを取り戻すように、未来はそんな魔法をかけてくれた。
未来はレイアと共に恒と父親の待つベンチに戻ると、寝起きのシェリーのハーネスを取って、父親に、明日もレイアと遊ぶ約束をしたがよいだろうかと尋ねていた。
父親は快諾した。
「じゃ、また明日ね。明日の朝10時にここね」
レイアは恒の隣で、はにかみながら愛想よくふたりに手を振る。レイアは未来と父親の姿を、いつまでも見送っていた。彼女らが視界から見えなくなってしまうと、レイアは恒に平謝りだ。
『ご、ごめんなさい。わたし勝手に、明日も“遊ぶ”約束をしてしまいました』
「いいじゃないか。初めてできた友達だ、大切にしなきゃ」
どちらにしても、恒は明日の予定を決めていなかった。
レイアに生物階のあらゆる場所を見せてやりたいとは思えど、受動的にではなく能動的に彼女がしたいことをし、行きたい場所に行くのが一番だった。
彼女が自ら意思決定をしたり望むなら、それはとても尊いこと。
公園の隅に石焼きイモ屋が店を出していたので、恒はレイアにイモをおごってあげた。
はふはふと白い息を立てながら猫舌の小さな口で、彼女は少しずつイモをかじっている。
生物階に降りた彼女は、何でもおいしいといってよく食べた。
恒は志帆梨の店に連れて行って彼女を母親に紹介したが、そこで志帆梨が作った和食も、刺身や寿司も含め、レイアは器用に箸をつかってぺろりと食べた。
神階では殆どといっていいほど食事をしなかった彼女にとって、食事という行為そのものが楽しくてたまらない様子だ。自宅に何泊かしたが、特に共存在の練習を行った後はよく食べた。気持ちいいほどの食欲に、恒はついつい彼女を甘やかして、色々なものを食べさせてしまう。
こんな時だからこそ何でも、彼女に好きなことをさせてあげたかった。
『友達って、何ですか? とても優しい言葉だと思いました。みきさんは、わたしと友達になろうって言ってくれて……嬉しくなりました、でも、何故だか分かりません』
彼女は興奮気味に息を弾ませながら、恒に一生懸命報告する。
そういえば恒は最近、親友と呼べる者達との距離を自ら遠ざけていた。ちくり、と後ろめたさが背中の奥から針となって突き刺さる。
唯一無二の親友であった豊迫 巧や石沢 朱音、村の遊び仲間達と、最近まともに話をしていない。
それでも、私立の名門中学校に進学した巧からは頻繁にメールをもらうし、朱音も学校で手紙を渡してくれる。
恒は不運な人生を生きてきたが、友達には恵まれていたと改めて実感する。
だが、彼らが恒を心配して恒に与えてくれたものと同じだけ、恒が彼らに何かをしてあげられたかというと、何もしてあげられていないと思う。
いつか全てが終わったら、いつもどおりの日常を取り戻したい。
友達とふざけあって、何気ない話に花をさかせて。
それは恒のささやかな願いだ。
「彼女といて、楽しかっただろ? 友達ってのは一緒に楽しさや辛いことを分かち合う存在だよ」
『恒さん……お願いです。声の出しかた、教えて下さい。わたしも本当は頷いているばかりではなくて、恒さんみたいに、みんなと上手におはなししたいんです……』
恒は半分驚いて、そして半分は嬉しくなって目を見開いた。
「そっか。それはいいことだ」
『み、みきさんとも、たくさんおはなししたいです……ですから』
彼女は神語のみならず、日本語や英語、数ヶ国語を解している。未来が話す日本語は理解できるのに、声が出せず答えられないのがもどかしい様子だ。語学を学ぶ上では動機づけ、つまり通じ合いたいと思う気持ちが何より大切だ。
レイアをその気にさせてくれた未来に、恒は密かに感謝をした。
「声の出しかた、もう忘れちゃったか。あーっ、て言ってごらんよ、思い出すから」
「――――――ぁ……、っ」
彼女が一生懸命絞り出した息は白く広がって、それから僅かな音となった。彼女の願いは、失われた彼女の身体機能を取り戻させるだろう。
すぐにではないかもしれない、すぐにである必要はない。だが、いつか必ず出来る日はやってくる。
彼女が未来と心を通わせたいと願い続け、諦めないで努力し続ける限り――。
「おっ、少し音が出たな」
恒は甘く見た判定で、自信のない彼女を勇気づけた。
「――、っ、!」
彼女は声を振り絞ろうとして、すぐにコホコホと咳こんでしまう。
発声法を間違えると、喉をいためてしまうので恒はそのあたりでやめさせたが、彼女はまだ続けたいという顔をしていた。彼女のこういう顔を見ることができるのなら、ずっと生物階にいさせてやりたいと思う。
INVISIBLEからの語りかけがなくなり、彼女が安定した状態が続くというのなら……。
「すぐには無理かもな。でも、それが出来る日も、それほど遠くなさそうだ」
『……こうしていると、忘れていられます。INVISIBLEのことも、怖い事も、痛くて苦しいことも……。わたしは今、自由でしょうか』
「……きっとね」
恒は割舌悪く、そんな相槌を打った。彼女は自由だったが、今は恒が監視をしているようなものだ。
超空間転移を身につけた恒は、レイアを連れていつでも神階に戻れる。レイアの傍からかたときも離れないという事を条件で、比企は生物階でふたりきりで行動してよいという約束だ。そして生物階に滞在する間の費用は、全て比企が生物階に持つ銀行口座から自由に引き出すことができた。
束の間の休息。
「神は神階にいる限り、利害関係や主従関係で結ばれている。本当は友達なんてできないんだ……。レイアに必要なのは、何の利害関係もないさっきのあの子みたいな存在だよ。一緒にお前と遊びたいと思って、それを楽しいことだと思ってくれる……それはとても純粋な気持ちなんだ」
レイアはそれを聞いて、ベンチに腰かけると、そっと恒に寄り添う。両手をおわん形にして口元にもってゆき、ホウッと息を吐いて手を温めている。
『わたしには恒さんも必要です。わたしはあなたと友達ではないかもしれない、でもあなたが必要です。……わたしは、よくばりでしょうか』
恒は複雑な気持ちで何も答えず微笑むと、彼女の頭の上にいつものように手を添える。妹のように、あるいは恋人のように……恒は目を閉じて、彼女をいとおしく思った。だが、こうして彼女に必要な存在だとされている間も、恒は彼女を裏切っている。
久遠柩の話を、レイアに切り出せない。
渇水、レイアは焼きイモをおいしいおいしいとたいらげて、差し出された熱いお茶を飲みほし、恒にこう云った。
『恒さん、近いうちにINVISIBLE収束前のグラウンドゼロに連れて行ってください。その場所を、目におさめておきたいのです。わたしは逃げません、いいえ、逃げたくありません!』
レイアは唐突に、きっぱりとそう云った。首刈峠、すなわちグラウンド 0立ち入りの違法性は、極陽 比企 寛三郎の名により解除されている。
INVISIBLE収束予測地点は念入りに、神階と生物階双方の調査団により立ち入り調査が行われていた。
レイアは今なら勇気を振り絞って、ずっと逃げたかったその場所、災厄の開始点に行けるような気がした。
『みきさん、シェリーちゃんを、そしてみきさんのお父さんも、そしてこの世界にいるみんなも! 絶対に守りたいんです』
――恒にたくさんの守るべきものがあるように、自分にも少しの守るべきものができそうだと、彼女はそう思った。
*
この刻印が消える前に……INVISIBLEの加護がなくなる前に、やらなくてはならない事がある。
アルシエルは右腕を押さえ付ける。
スティグマが彼女の右腕全体に根を張り黄金の光の浸食は強くなっているが、まだ自我は奪われていない。
変わり果てた解階を往けども往けども、あるのは瓦礫の山ばかりだ。アルシエルにとって、目を覆いたくなるような惨状を彼女は気丈にも踏み越えてゆく。心血を注いで築き上げた帝都の街なみ、雑然として活気のあった街はただの瓦礫と化して久しいようだ。
ルシファーの超兵器の熱線に灼かれた死体が、雨ざらしになってそこかしこに転がっている。
「アビスはもう、終わりかもしれん……」
彼女がふと視線を上げると、遠くの空にゼリー状の境界を示す赤黒いドームが屹立していた。
唖然としてしばらく立ちつくしていると、ドームは定期的に収縮を繰り返し、胎動しているようにも見える。
ドームを覆う赤黒い支脈状の血管のような造形。禍々しき物体が鎮座するは、かつてアルシエルの皇居があった場所。
そして首都全体を半円状に覆いつくしている。昏い、死の気配が帝都の空を覆い尽くしていた。
まだ……生存者はいるのだろうか。彼女が問いかけることも愚かしく感じる。
彼女はなおも一縷の望みを棄てられないまま、”不可侵の聖典”を脇に携え、アビスの暗い空を駆け上る。
空に光の気配がないのは、アルシエルにより整備されていた地下、空中送電線が切られ、帝都を照らす人工照明の補助バッテリーすら切れているからだ。
恒星光―アビス周回軌道上衛星で発電された高エネルギーレーザー伝送システムは遮断、そして沈黙。
ライフラインである電気が通っていないということは、臣民の生活は崩壊しているとみて間違いない。
これ以上の絶望があるというなら教えてほしいくらいだ。
アルシエルはその巨大な物体にあと数百メートというところまで近づいたところで、巨大な胎児を見下ろすように滞空している青年を見つけた。
解階の住民ではない。解階の住民ではないと断言できるのは、彼が手ぶらだから。解階の者はどんな例外もなく自翔出来ない、つまり必ずツールを持つか背負っていなければ飛べないものだが、彼はツールを身に帯びる事無く悠々と自翔している。
何者だろう、とアルシエルは訝しむ。
斥力中枢を持つ、神か――?
解階から生物階へと移転し物理的なゲートの封鎖されたアビスをわざわざ訪問するとはご苦労なことだし有り得ないことだが、それ以外に考えられない。
現在のアビスに転移できる神がいるとすれば、それは以前にアビスを訪問した経験のある神だ。
だが、アルシエルの記憶する限り、アビスを自ら訪れた神は存在しない。
彼女が不審者に口を開きかけたとき、アルシエルに気付いた彼の方から尋ねてきた。
「……お前、誰だ? 生存者か?」
「名乗るべくもない者だ」
彼女が名を名乗らなかったのは、アルシエルの誇りは虜囚となったときにもう、とっくに消えうせていたからだ。彼女は名乗るべき名を失った。今や彼女は解階の皇でもなんでもない、妄執に駆られたひとりの女。
アルシエルは視線を自らに落とし、彼女の身なりを客観的に見つめてみる。
ルシファーに与えられた、囚人服ともいえる簡素な白いワンピースを纏っていたが、ここに辿りつくまでに泥がついて薄汚れていたし、さきほどサーベルで切ったばかりのショートヘアも、切りっぱなしで整えられていない哀れでみすぼらしい姿。
彼にどう説明しても彼女がかつて解階の女皇だったなど信じられないだろうし、その貫禄も覇気もなければ、見る影もない。
だが彼も、アルシエルに負けないほど浮浪者然としているのだが……。彼はさも彼女には興味がないという雰囲気だったが、その反面、アルシエルの右腕は穴があくほど見つめていた。視線が纏わりつくというか、興味深く観察されている。
「……奇遇だなぁ、俺もそうだ。ところで珍しいものをつけているな、それは何だ?」
彼は予想通りアルシエルの細い右腕を指差すが、アルシエルは答えられなかった。
そこには炎のように眩い金色の光を放つ、幾何学的聖痕の片鱗がある。これを何だと言えばよいのだろう。
正直なところ、アルシエルにもよく分からないのだ。
「見ての通りのものだ」
「見ての通りと言われれば、”存在確率の鍵”か? だが鍵穴の部分がないな」
彼が断定したので、アルシエルも彼の正体の手がかりを得る。解階の住民が知らない、存在確率の鍵という言葉を知っている……それだけでもう、彼が神であるという証拠になった。彼女はプロファイリングを開始する。
彼は、鍵と鍵穴が対のモチーフであることを知っている。存在確率の鍵そのものの存在が神階の機密だ。それを知る彼は神のうちでも枢要なポストにある者か。そして何よりアルシエルの察するに、彼は神階主神であるヴィブレ=スミスより優に何十倍~何百倍オーダーのアトモスフィアを所持している。
神階の神々を馬鹿にするわけではないが、主神といえどアルシエルの実力に遠く及ばない無能者の集まりの中で、彼は突出した実力を持っている。
そして彼はそれ相応の年齢に見えるが、これほどの実力があれば神階がいくら遠い場所にあろうと、その気配を察していてもおかしくはないだろうが、アルシエルは彼を全く知らなかったし彼の気配を感じたこともなかった。
アルシエルが結論づけるに、彼は神階が秘匿してきた切り札的な存在なのだろう。
「神階では存在確率の鍵と呼ぶが……汝は神か?」
「そうさ。そう見えるだろ?」
彼はアピールするように軽く腕を広げたが、アルシエルは眉をひそめただけだ。
「いまひとつ神々しさに欠ける。ところでこのデカブツは何だ、知っていると有難い」
「これは創世者の依代だ……厄介なのはこの塊がアビスの内部にもぐり込みながら成長し、その一部が生物階、つまり地球の内部にワームホールかなんかで繋がっていて内側から地球を食い破ろうとしてやがることだ。このままだと、アビスも地球も同時に滅ぶだろう」
彼はそれほど危機感もなくさらっと、恐ろしいことを口にした。アルシエルは話が呑み込めない。彼……荻号 正鵠は、アルティメイト・オブ・ノーボディの知らせによりいちはやくアビスの異変を知り、生物階から転移してアビスに介入していた。
だが、彼一柱ではブラインド・ウォッチメイカーの思念の宿ったそれを始末できなかった。正確にいえば、始末できなかった理由があった。
「滅ぶ、だと?」
アビスは滅んだかもしれないと想像しておきながら、いざ滅ぶと言われるとアルシエルも動揺する。彼はアルシエルの動揺をおいていきぼりにして、駄目押しのようにこう言う。
「このバケモノの中は気体に近い構造をしているんだよ。そしてこいつの殻は柔らかいが、とんでもなく頑強だ」
「気体……? ではまさか」
彼は腕組みをして淡々と解説する。
アルシエルの身体を不穏な予感が、稲妻となって走った。彼は彼女の理解が追いついたことを確認しながら、真正面から見据えて断言する。
「そう、重力崩壊が起こる」
重力崩壊とは星の内部密度が低下する事により、星が重力を維持出来なくなることによって生じる。
簡単にいえばアビスという惑星の中枢部が空洞化し自身の重力によって形を維持できなくなって潰れ、大爆発を起こすということだ。
アルシエルは表情を険しくした。
「何だと!」
「今のうちに潰しとかないとアビスも地球も取りかえしのつかん事になる」
……かつてはアルシエルもよく知る一人の女性であり、今はおぞましい異形の物体と化したそれ――。
風船のように肥大化したメファイストフェレスの身体はもはや、原型をとどめてすらいなかった。
その巨大な物体がメファイストフェレスであろうと推測できるのは、解階の貴族が必ず脚に穿つ血筋の正当性、メファイストフェレス家の紋様がかろうじて体躯にこびりついているのが見えたからだ。
アルシエルの目にはしかしその由緒正しいレリーフが、受肉した悪魔の烙印にすら見える。
アルシエルが幽囚の身にあったとはいえ、これほどの惨い姿となるまで彼女を救ってやれなかった事を、アルシエルは心の中でメファイストフェレスに詫びた。
彼女の心は既に、死にたえて久しいのか。アルシエルは怒りにまかせて、我を忘れそうになった。
「余が二年前にルシファーに敗れたばかりに……すぐに楽にしてやる!」
「よく考えてから攻撃した方がいいぞ。何しろこいつに与えたダメージは悉く、自分自身に返ってきやがるからな……全力でやればやるほど、ズタズタだよ」
憤怒の修羅と化そうとした彼女に、彼は水を差す。与えた全ての攻撃が、そのままの力で反射され攻撃を仕掛けた対象に跳ね返ってくるのだ。
荻号はそのたびに負傷し自宅に帰っては浴室で傷を洗い流す、干物のようになっていつも石沢 朱音に発見され、彼女を心配させていた。
それでも懲りずに荻号はたった一柱でこの怪物に立ち向かい続けている。
「そうか……」
アルシエルは彼の忠告を聞いても怯むことなく対峙する。代償などくれてやる、構っていられるものではない。一刻の猶予もないのだということは、胎動する巨大な赤黒い体躯を見れば一目瞭然だった。
「ではもう、余力は残さん。一発で決めねば後はなさそうだからな」
「まあ早まるな。共闘といかないか? どうやらINVISIBLEにも、そうしろと言われているようだしな」
彼は、長そでを手繰り上げて、その下に隠されていた左腕を見せた。
彼の腕にもまた、存在確率の鍵のみが刻まれている。アルシエルと全く同じものだ。
INVISIBLEは一体どれほどの者たちに、力を与えたのだろう。何のために?
「存在確率の鍵ってのは、INVISIBLEが加護を与えた証らしい。INVISIBLEの力の一部が使えるようになる。授かったものをわざわざ分散させるより、戦略を練ってお互いの力を生かした方がいいだろ?」
「確かに、合理的だ。かような考え方は好ましい」
アルシエルは、同等の能力を持つ彼の存在を心強く感じた。どうやらこの神と目的を一にし、協力できそうだった。
そして INVISIBLEが暗に、ブラインド・ウォッチメイカーの討伐を指示しているという予測が、にわかに現実味を帯びてきた。アルシエルにはそうとしか思えなかった。INVISIBLEが間接的に、時計職人を潰しにかかっている。
意思なき創世者とされる不可視の創世者、INVISIBLE……今アルシエルは、その認識を根底から覆されているのだ。
歴史はこの場所で、劇的に変わりつつあった。おそらくアルシエルは、三階の再編成、更新ともいえる過程を目の当たりにしている。
まさにその現場に立ち会っている。
歴史が覆されてゆくその瞬間に。