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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
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第2節 第4話 Special States revealed

 年の暮れも押し迫る、凍てつくような土曜日の朝。

 吉川 皐月は霜を踏みしめながら、雪の舞いはじめた明海大附属中学校のグラウンドを訪れた。

 そこには、ランニングを終えて仲間たちとベンチに腰を下ろしている豊迫 巧の姿がある。

 巧は皐月の懸命な受験指導によって難関、明海大附属中学校に見事合格を果たし、現在は念願であったソフトボール部に入部し、既にレギュラーとして活躍している。

 ソフトボール部伝統の、いがぐり頭になっていた。


 何もかもよいこと尽くし、という訳ではなかった。


 転勤族の巧の父親は大阪に転勤が決まってしまい、巧はひとりで下宿生活を送ることとなって寂しい思いをしている。皐月は一人暮しの巧が心配で、時々様子を見に行っている。

 中学生になって皐月の受け持ちではなくなってしまったとはいえ、彼は今でも皐月の大切な教え子だ。

 今日も彼女はソフトボール部の全員にホットミルクティーとクッキーの差し入れを持ってきた。

 部員たちの息が朝のグラウンドに白く立ち上っている。


「皐月っちゃん、いつもありがと。あれ、髪切ってパーマかけたー?」


 皐月はふわりと緩やかなウェーブを散らせた。彼女はカーキ色のセーターを着こんで白いマフラーを巻いている。行きつけの市内の美容院に行って、ロングにしていた髪の毛をセミロングにして大きなロットのパーマをかけた。それを巧に指摘され、照れくさそうだ。


「うん、昨日ね。雪が降るのに頑張ってるのね。元気そうじゃない」

「頑張ってんよー、来年も明海は全国行くかんね」

「まだ、来年なのに……」


 気が早いな、と皐月は苦笑する。


「来年焦ってたんじゃ、間に合わないかんね」


 巧は雪空の灰色に負けないほど、明るく朗らかに笑う。

 明海はソフトボールの名門校で、毎年のように全国大会に出場している、そして来年も出場する予定だ。

 彼は一人暮らしであることを除けば、好きなソフトボールに打ち込める環境にあって、最高に充実していた。


「風岳の皆、どうしてる?」

「相変わらずよー」

「そういえば先生、恒と会った?」


 彼は恒を気遣う事を忘れていなかった。

 巧は無二の親友と自覚する恒と、携帯メールで連絡を取り合って近況を報告しあっていた。恒は返事を返したが、彼の話題はいつも淡白だった。

 特に何もないといつも彼が言う割に、巧が大した出来事だと思ったのは今年の夏に体操の大会で県一位になった事だ。


 彼とメールをやり取りしていても何の出来事もないらしく、部活に打ち込んでいる様子もなく、母親の話題もなく、友達と遊んでいる様子もなく、とにかく生活感がなかった。

 小学生のときにあれほど仲の良かった友達の話なども、ほとんど話題にのぼらなくなってしまった。最近は遊んでいないのだろうな、と巧は寂しく思う。

 恒はまた、以前そうだったように大切な何かを隠している。巧はそう確信している。


「うーん、しばらく会ってないわ。石沢さんはよく遊びにきてくれるんだけどね」


 それは皐月も同じで、寂しいものだった。

 恒が殆どの彼の生活を犠牲にして、何をしているのかは知っていた。

 恒は神としての修行を優先するあまり、人々と接する機会が極端に少なくなった。

 石沢は荻号の家に寄るそのついでに、近所の皐月の家に寄ってくれることもあった。

 だが恒はすぐに神階に戻ってしまって、あまりゆっくり話をしている時間はないようだ。


「そっか……恒は大丈夫かな」

「……大丈夫、って?」

「この前、風岳村にしばらくぶりに行って、皆には会えたんだけど恒だけいなくて。で、恒のカアチャンの店に行ったら森にいるかもしれないって言われて、森を捜してたんだ」

「森?」

「そう、風岳神社の裏のね。そしたら真冬なのに森の泉の中に恒がいて……。お祈りするみたいに手を組んでじっとしてんだ。俺、何かちょっとひいちゃって……。でも、声をかけようとしたらもういなかったんだ。何してたんだろ? あいつ変な奴だったけど、何てかあそこまで変じゃなかったし。どんどん変になってるような……」


 恒は風岳村の深い森の奥で、ひとり瞑想をしていることがある。

 それも修行の一環なのだろうが、真冬の雪の中で修練をする恒の姿を初めて見た巧は驚いたのだろう。

 確かに、修行僧ではあるまいし、まだ中学生がそんな事をしていたら驚きもする。

 巧の心配ももっともだった。恒は何か怪しい宗教に入ってしまったのではないかと。


 しかしそうやって修行を積むからには、皐月の目にも分かるほど彼の能力は高まっているようにも見えた。

 三か月前の夜、偶然に志帆梨の店の前で恒に会ったとき、彼の周囲にはうっすらと紫色の後光が見えてはっとした。

 彼と言葉を交わすと、その物言いも語調も、何というか同じ年ごろの少年とは違って落ち着いて優しかった。


 彼は少しずつしかし着実に、少年神から青年神へと成長しつつある。


 彼が大人となる頃には、彼に向って自然と手を合わせたい気持ちになるかもしれない。

 皐月には変わらず親しく話しかけてくれたが、その時、彼はもう人間ではなく神なのだと、はっきりと分った。

 そして皐月が感じるその思いは、恒が成長してゆくにつれ強まってゆくだろう。

 恒が神だと知らない巧は、恒の変化に気付かず、恒との距離に取り残されて戸惑っている。


「何か悩んでるんなら、言ってくれたらいいのに。あいつ、いつも隠すんだもんな」


 巧は心底、彼を気遣っているようだった。


「大丈夫よ……藤堂君は、帰ってきてくれるわ。もうすぐ……」

「え? 今はどこに行ってんの?」

「近くて遠いところかな」


 ロケットを月や木星まで飛ばせる人類が手を伸ばせば届きそうで、人類には決して届かない場所。

 神階、神々の世界。

 恒ははるか高みと地上の世界を往来しながら、人々の未来を守りたいと願っている。

 

 恒の優しさに応えられない。

 小さな人間として生きるしかない皐月。

 だから少しでも、彼の力になりたい、辛い事は吐き出して欲しいと思う。

 しかし、もう皐月は相談相手としても不適格なのだろう。


「皐月っちゃん、何いっちゃってんの?」


 恒は計り知れない重みを小さな背に負って、半年後の大災厄に向け着々と自身を鍛え備えつつあるのだと思う。

 皐月はそんな時だからこそ、恒に会いたかった。

 皐月は二年半前に、何か大切なものを失ってしまったように感じている、それ以来心にぽっかりと穴が空いて、空しくて、苦しいのだ。


 恒もまた、埋められない同じ穴を持っているのではないか。

 それが何か分からないまま、満たされない心を何かで埋めるために、彼はがむしゃらに修行を続けているのではないだろうか。


 皐月はそんな気がしてならなかった。



 恒はしばらく旅に出るので学校を休むと、志帆梨に連絡しておいた。

 彼女の為に一ヶ月間欠席するつもりで、既に中学校の担任には事情を話していた。

 家庭の事情ではない都合で休むというので、教科書を自分で予習し、100ページのレポートを提出するという条件で許可を得ている。

 彼は中学生になってから一日も学校を休んだことがなく、出席は足りている。


 一か月ばかり休んだところでどうということもない。

 どうということもない、わけではないが、即留年という出席日数ではない。

 内申点は既に上限に達して不動のものとなっているし中間、期末テストも100点以外取ったことがない。

 よい成績を取ることにこだわりなどないが、恒の身を案じる志帆梨を安心させる為に必要だった。

 せめて義務教育期間ぐらいはまともな成績で、まともに卒業をしたいと考えていた。


 もっとも、卒業まで命があるかどうかわからないという時に、卒業できるかなど分ったものではないが……。

 恒はレイアの為に生物階における全ての段取りを整えて、レイアの元に戻った。


『頑張ってたんだな……』


 恒は頑強なガラス函の中に転移し、くたびれて眠っていた彼女を見下ろした。

 繊細な彼女は恒の気配に気付き、ぼんやりと目を覚ます。身体を起こそうとして恒に押さえられる。

 彼女の神体はいつも柔らかく、温かい。

 そのわずかな体温と肌ざわりで、恒は彼女の体調を知る。

 白金色の長い睫毛のついた、とろんとした目をこすり、彼女は寝言のようになりながらもいつもの挨拶を忘れない。


『い、いらっしゃい……恒さん』

『おかえりだろ。今日はいいニュースがあるんだ』


 彼女がぐったりとガラスにもたれ掛かって眠っていたのは察するに、共存在の練習を行ったからだ。


 彼女は比企の指導のもと、数週間前に共存在を完成させていた。

 遂にここまでになったか、という思いがある。

 恒は共存在発動後の彼女の消耗を分かってやれないが、想像を絶するほどのエネルギーがアトモスフィアから奪われるそうだ。

 覚醒すれば無尽蔵ともいわれるプライマリの彼女のアトモスフィアも、まだ精神力の伴わない少女であるため覚醒しておらず、決して満足とはいえない。


 ともあれ、彼女は比企が半世紀を費やして習得できなかった業をあっさりとモノにし、結果的に彼女の血統のよさを証明した形となった。

 やはり彼女、プライマリの個体はアルティメイト・オブ・ノーボディの予言したように、一般の神々と比較して潜在能力がそもそも違った。

 しかも不死身の神体を持つので、共存在を発動しても寿命を削られる事に怯える必要もない。彼女は有限の寿命を持つ比企や荻号とは違い、失敗を恐れずに何度も練習ができるというのが強みだ。

 彼女が共存在を習得したのは潜在能力に頼るところも大きいが、毎日のように繰り返された練習の賜物だ。

 習得した後も身体を術に慣らしてゆく為に、隔日での練習を欠かさない。


 さて、共存在を発動させて二柱となったレイアのスティグマがどうなっていたかというと、そのうち一柱の背からスティグマは消えていた。

 レイアの血のにじむような努力と修練の末、INVISIBLE収束の予言書ともいえるスティグマ、“存在確率の鍵”は同時に彼女の身体に二つもは刻まれる事はないのだと分った。

 ここまで恒の目論見通りだ。


 したがって、レイアの自我の大半をスティグマのない方のレイアに配分する事ができれば……彼女は助かり、INVISIBLEを煙に巻くことが出来る。

 残ったもう一柱に収束するであろうINVISIBLEは恒とアルティメイト・オブ・ノーボディに任せる。チャンスは一度きりしかない。

 どうあっても失敗するわけにはいかないという、その思いが彼女を焦らせている。

 彼女は彼女の役割をよく理解しているからこそ、疲れ果てて動けなくなるまで何度も共存在を練習して、へとへとになっては恒に心配されている。

 彼女はそんなとき、赤子の頃からそうだったように、ただ優しく頭を撫でてもらうのが好きだった。


 恒は彼女が喜ぶ事は、出来るだけ彼女にしてあげたいと思っている。

 恒はくたびれて彼に寄りかかる彼女の頭を撫でながら、比企が函の外に出ることを許可してくれたと説明した。

 彼女は驚く。

 恒は何故比企がレイアに自由をくれるのか、とうとう説明できなかった。


 極戒厳綬縛、“久遠柩”の話を切り出せば、彼女は不安にとりつかれ、比企がせっかく気分転換にと与えた束の間の自由を満喫できない。

 比企もレイアにその話を伝えろとは言っていないわけだし……。

 だからといって、隠せとも言われていないが……。

 ひとまずその話は保留にしておくことにした。


 彼女の練習の賜物であるのだが、レイアの共存在は安定している。


 これから半年をかけて反復練習を繰り返せばほぼ間違いなく、とは言えないが本番でもミスはないだろう。

 だが予想より早くINVISIBLEからの語り掛けが始まってしまった以上、比企は何重にも保険をかけておかなければ不安なのだろう。

 例えば彼女がINVISIBLEにそそのかされて共存在を発動できなかったら? 

 収束が予定されている時期より以前にブラインド・ウォッチメイカーやINVISIBLEからの邪魔が入ってしまったら? 


 いくら精神力を鍛えたとはいえ、彼女は精密機械ではない、生身の女神であり子供だ。

 練習でうまくいっているので絶対に安心、などということはない。

 比企は予め極戒厳綬縛、“久遠柩”で拘束する事で、それらの不安を取り除いておきたいのかもしれない。

 恒は比企の思考回路もよくわかる。


『と、いう訳なんだ。ここを出て、自由にしていいって仰って』

『あの……恒さん』


 レイアは恒の笑顔につられて嬉しそうにはしてみるものの、よく分らないといった顔で首を傾けておずおずと尋ねる。


『“自由に”って、何ですか? どんなものですか? 楽しいもの? 怖いもの? 大きいもの? それとも……』

『ちょ……』


 恒の顔色を窺うように首を竦めながら、レイアは思いつく限りの形容詞を並べ立てている。

 恒はそれを聞いてもう少しで、ふざけているのかと尋ねてしまうところだった。

 恒が彼女にかける言葉が見つからず唖然としているので、彼女はもう耳まで真っ赤にして恥じ入り、何ら悪いことをしている訳でもないのにぺこぺこと謝った。


『は、はい……ごめんなさい。お、お勉強が足りないみたいです。もっとお勉強します』


 そう言いながら、脇にあった分厚い本を取って恥ずかしそうに顔を隠す。

 自由という言葉を知らない無知を、咎められていると思っているのだ。


 そんな本を読んでも、自由という本当の意味など分らないのに……恒はその様子を見て、胸が痛くなった。彼女の置かれている惨い境遇を改めて思い知らされたからだ。恒には彼女に呆れた顔を向ける権利など、ひとかけらもない。


『いや、違うんだ。びっくりしたから。そっか……誰もお前にそんな言葉を教えなかったからな……本を置けよ、そんなところには書いてないから』


 まだ赤子だった頃から囚われの身であるレイアはこの函の外に出た事がなく、自由という概念を知らない。確かに数学的な、物理学的な自由という意味ならば知っているがニュアンスは違う。だからその言葉は彼女にとって全く身近ではないものであり、理解できないもの。

 そんな彼女に、一瞬でも呆れた表情を見せてしまった恒は彼女への配慮の足りなさを恥じた。


 彼女にとって、恒がすべてだ。


 彼女の世話は恒だけでなく、勿論多くの使徒がやいている。彼女の一番のファンと公言して憚らない寧々も毎日彼女の傍にいる。だが肉声で言葉を話せない彼女と直接的に乖離性意思伝播法で会話が出来るのは恒と比企だけ。彼女にとってかけがえのないたった二柱の身近な神々、そのうち比企は非道にも意図的に、レイアに優しく接しはしなかった。

 比企はレイアを短期間で成熟した少女神へと育て上げるため、恒とよく話し合って恒と厳密な役割分担を図っていた。


 それは父性と母性の徹底した差異化である。

 比企は彼女に厳しく接し、甘えを許さない父親的な役割を演じ、彼女の逃げを許さなかった。しかしいつもそれでは彼女の逃げ場がない。そこで恒は決して彼女を叱らず、いつも彼女の味方であるようにと比企に言われていた。彼女が挫けそうになった時、恒はいつも彼女の傍にいて励まし、慰めた。


 比企が父性を担い、恒が母性を担う。

 子供などひとりも育てたこともない比企の計算が正しかったのか、彼女の生来の性格なのか、彼女は誰もが認める、素直で聞き分けのよい子となった。そんな状況の中で、母性を担う恒は今後ますます不安定化してゆくと考えられる彼女の心に、少しでも不信感を与えてはならなかった。


『よ、よろしければ、どのようなものか、教えていただけますか?』

『教えるっても、ここにいたらどうやっても分からないもんだよ。まずは外に出ようか。空気を吸って……』

『そ、外に出るのですか? わたし、ちゃんと息できるでしょうか』


 彼女は驚いた時の癖で、きゅっと小さく身を窄める。この小さな函の外、酸素のある環境はもう、彼女にとって未知の恐ろしい場所となってしまっていた。


『出来るよ。前は出来ていたんだから、身体が思い出す。音も聴こえるだろうし。声は……どうかな、出せたらいいけど』


 恒は比企からもらった鍵で、レイアの細い足首に填められた金色の足枷を解く。彼女は解放された足をゆっくりと曲げ伸ばし、パタパタと静かにバタ足をして微笑んでいる。恒がその足首をよく見ると、足枷に拘束されていた事によって赤く痛々しい痕がついてしまっていた。


 恒があまりまじまじと足を見ているので、彼女は恥ずかしそうにペタンと正座をして隠す。彼女の動作のひとつひとつに、彼女の自信のなさが滲み出ている。彼女が本当の意味で自信を得るのは、いつのことか……。彼女には様々な経験と、書物に頼らない見識が必要だ。


『折角だから、好きなところに行こう。どこ行きたい?』

『その、』

『遠慮するなよ』


 そうは言っても、外の世界を見たことのない彼女にどこに行きたいもなにもない。何も知らないのだから。恒は無茶な振りをしていることに気づいてすぐに謝った。


『ごめん、行きたいとこなんて分らないよな』

『あなたの生まれた、生物階に行ってみたいのです……。そらや、うみや、もりを見てみたい。そして、ひとびとにも会ってみたい。あなたは、生物階はきれいな場所だと教えてくれました。あなたが楽しそうにお話しして下さるたび、いつもどんな場所だろうと想像して……でもわたしには想像できません。だから恒さんいいなぁ、行ってみたいなぁ、って』


 彼女が羨ましそうにそんな事を言うのを宥めながら、恒は彼女の鬱積した思いを酌み取った。

 外の世界など少しも関心がないように振舞いながら、彼女は外の世界を渇望していた。


『そっか。じゃ、生物階に行こう。許可は極陽から下りてる』

『本当に?』

『海も、山も森も、人々や動物たち、街や村、太陽に月、俺が見せられるものは全部見せてあげられる』

『わあ……』


 彼女は恍惚として、よだれがたれそうだ。

 彼女は素直に信じ切って、恒や比企を少しも疑わないのだろうか。何故あれほどレイアに厳しく接してきた比企が突然性格が変わったように自由をくれると言ったのか、その意味を詮索しないのだろうか。彼女に全てを話してしまうことができない事を後ろめたく思うが、彼女がこんなに嬉しそうな顔をしたのを一度も見たことがない恒はやはり、告げることができなかった。


 しかしそれでよいのだろうか。


 結局、彼女を騙して裏切ってしまうことになるかもしれない。彼女に嫌われたくないのではない、彼女を騙す事が一番、彼女を傷つけるのではないか。やはり、話しておかなければならないのではないか、恒はそう思い直した。


『あのな、レイア。やっぱり、話しておかなきゃいけないと思うんだ』

『はい?』

『1ヶ月後、お前が神階に戻ってきたら……』

『何ですか?』


 振り返った彼女の大きな翡翠色の瞳に、涙が浮かんでいてはっとした。憧れの生物階に行くことができると思うと、彼女は喜びを隠しきれないようだ。恒は完璧にその瞳にノックアウトされてしまった。


『あ……、ん、何でもない』


 教えないのは卑怯だ、そう思いながらも恒は遂に言えなかった。彼女のマインドギャップはたった2層しかなく、恒のマインドギャップを看破できないのだ。彼女はいつも恒から心の中を観察されるだけで、彼女は恒の本心を窺い知ることはできない。


 彼女の心の中は、恒がこれまで目にした事のない明るい色彩で満ち溢れている。これは幸福を意味する色彩だ。こんな彼女の内面を目の当たりにして、恒の心は揺らいでしまった。教えるのは、なにも今ではなくてもいいかもしれない。そんな言い訳も脳裏に浮かぶ。


『じゃ、早速、ここを出ようか。権衣じゃ捕まるから、これに着替えて』


 比企の話があってから、恒は彼女がいつでも生物階に降りられるように、街で予め彼女の服を買ってきていた。彼女がこの格好のまま生物階に降りる事ができないのは、彼女の身に纏っている権衣が半透明の素材だからだ。こんな格好で街中を歩こうものなら日本をはじめほとんどの国で捕まってしまうか、保護されてしまう。また、彼女が権衣の他に身につけている封印具は装飾性が高く、ほとんどの人々の目には官能的ですらある。

 権衣や封印具にはそれなりにスティグマや絶対不及者の力を抑制する効果があるのだが、それらと同じ役割を果たす恒が片時も離れずに付いておく分には、権衣も封印具もいらない。


『何に捕まるんですか?』

『まずは警察。あと、変態とか』


 こんな格好で生物階に降りたら、変態の餌食だ。

 ただでさえ彼女は神階に何百、何千といる女神の中でも傾世の美貌と称賛されるほど美しく、生物階ではそれは目立つ容姿をしているのだから、少しでも肌を露出させてはならない。


『権衣以外の服を着るの、はじめてです。わあ、素敵な服……温かそう』

『いつも権衣で寒そうだもんな。あったかくしてろよ、生物階は寒いからな』


 彼女ははにかんだように微笑んで、恒の選んだ服に袖を通している。

 生物階の北半球では冬なので、長そでの白いニットと、どこにいてもはぐれず目立つように赤いコート、動きやすいジーンズを買ってきた。

 なんなら、彼女を連れて服を買いに行ってもよいかもしれない。彼女の精神年齢がもし外見通り9歳かそこらの少女であるというのなら、オシャレもしたいことだろう。


 外の世界を見ることで、少しは彼女の個性も育ってくれればよいのだが……。

 何にしても比企が折角くれたチャンスだ。

 井の中の蛙である彼女に世界を、見せなければ……彼女にとってあまりにも、世界は狭すぎた。


 彼女は狭い鳥かごの中から、羽ばたく時が来たのだ。



「で? 特務省は話に応じてくれたわけ?」


 陰陽階と中枢階を結ぶエレベーターに乗り、比企 寛三郎と梶 奎吾は揃って特務省に出向く。

 主神が、特務省の特務従事者を呼び付けられなかった。

 仕方なく比企はアトモスフィア吸収環を極陰に押し付けて陽階を離れ、極陰の代理として遣わされた梶と共に特務省を訪問する事となった。


「先方はひとまず詳細を聞きたいそうだ。現段階では応じられないと」

「ダセッ! たいした主神の権限だな。恐れ入るぜ。こんなに時間を費やしてだ、特務省にお伺いを立てなきゃならんとはね」


 梶は比企を皮肉るが、比企は梶お得意の挑発には乗らない。ただ静かに、比企と梶の乗る、宙に浮遊する一枚のガラス板の傍を、壁際に刻まれた階数表示の数字とボーダーラインが下へ下へと通り過ぎ、31445階、31446階、31447階……彼らの顔の上にそれらの青い蛍光が、無神経に映りこむ。


 もう一時間はこのエレベーターに乗っている。

 かといって、一度も行ったことのない場所には瞬間移動をかけられない。


「特務省は我らの配下にはない。たとえ極位神とて彼等に命ずる権限は持たぬ」


 比企の負け惜しみではなく、事実そうだった。

 特務省とは、常に空位とされる至極位直轄の省であり、陰陽階より更に上層機関である。

 つまり生物階においては極陽が最高の権限を持つが、神階においては極陽より発言権を持っているというわけだ。至極位が空位である限り、実質の神階の最上位組織だといえる。


 そこには特殊任務従事者と呼ばれる特殊能力を持った神々が召集されているが、何名より成るどの程度の規模の組織なのかすら、陰陽階には明らかにされていない。

 ほとんどの特務従事者はアカデミー卒業後ではなくアカデミー在籍中に特務省から引き抜かれるため、特務省の構成員の名も顔もいまだ明かされていない。


 彼らは神階の最上位組織でありながら神階と交わらず、言うまでもなく生物階とも交わらない。

 織図のような特例を除いて、使徒も持たず、神としての一切の義務もなく、だからといって権利すらない。

 彼らは特務省から生涯外に出る事はできないし、特務省を辞職して位神となる事も出来ない。


 神々の隠者とも言える者たちの集うそこは神階において、一度入った者は二度と出られない修道院のような場所だった。彼らは彼ら自身が神であるという自覚にすら欠けており、他者と力比べをする必要はなく、彼らにとって必要のない無駄な知識を詰め込むこともなく、だからこそ封術に関して他の追随を許さない、極度の専門性を誇っている。


 1000の能力を犠牲にして、1の専門性に賭けた神々だ。


 アカデミー在籍当時、特務省に目をつけられることも、引き抜かれることもなかった比企はある意味彼らに畏怖の念すら覚える。

 彼らは比企を特務省の構成員として使えない、と切り捨てたのであろうから。


 勿論、必ずしも“神として優れた”者ばかりが選抜される訳ではない。

 ある一点に関して、飛び抜けて才能があれば引き抜かれると言われているのだが……比企は極位となった今でも、彼らに劣等感を押し付けられたままだ。

 しかし梶はそんな比企の鬱屈した思いも知らず、大して多忙でもなかった時間を割かれた事への腹いせなのか、彼らを思う存分罵倒している。


「俺は特務省の奴らの顔など知らんがな。素性も知れん陰気で薄気味悪い奴らだ、寝暗すぎて巣穴から出ても来れんのだろ」

「それは違う。唯一の目的のために選ばれ、隠者となった神々だ。そして特務従事者として選抜される事は、我等には与えられなんだ栄誉でもある、尊敬に値すると思うがの……。それにそのうち一柱は汝の部下でもあろう。無論、我等の上司でもあるが」


 彼らを挑発する梶の言葉を聞き逃すことなく、比企は珍しく反論した。

 梶と織図は懇意にしているそうだが、梶は織図が特務従事者であることをすっかり忘れているようだ。

 織図の名を暗に示唆されて陰気だと罵ってしまっていた梶は急に語勢を失ったが、空色の瞳だけは涼やかだ。


「継嗣のことか?」

「汝の言う、“陰気で薄気味悪い“奴のことだ」

「そりゃ他の奴らの事だ。俺らが知る特務従事者は継嗣だけだが、あいつはまともだ。陰階一まともかもしれん、他の奴らは知ったこっちゃねえよ」

「だが特務省、特務従事者としての織図 継嗣には誰も干渉することはできん。彼は陰階神、織図 継嗣とはまた違う顔を見せるだろう」


 織図はアカデミー在籍中には引き抜かれなかったが、特務省特殊任務従事者に欠員が出たため、死神となってから引き抜かれた。

 織図は特務省に移籍することを拒否したのだが、死神との兼任を認めるという条件を出されて渋々飲んだそうだ。

 本来、特務省からの命令は、断ることのできない命令でもあった。そういう事情で神階では唯一、特殊任務従事者として織図の顔だけは知られているが、依然として彼らは神秘のベールに包まれている。


 彼らが神階において特別視され神階の干渉を受けないでいられるのは、極秘裏にINVISIBLEへの対抗策を開発してきたいにしえの神々の技術を継承し続ける者たちだとされているからだ。詳細は分からないが、特務従事者のうち封術に特に長けた12柱が極戒厳綬縛の技術を継承し続けていると聞く。

 織図がその12柱のスペシャリストの中に名を連ねているのかは分らない、欠員が出てわざわざ呼ばれるぐらいだからメンバーに入っているとみて妥当だが、比企はそれすらも把握していなかった。


 そういえば織図はここ二年半というもの、比企をあからさまに避け続けていた。何か個神的に疾しいことがあってのことなのか、比企と接触するなというその行動そのものが特務省の一員としての行動なのか、比企はまず織図に探りを入れておけばよかったと悔やむ。彼らは時に極陽の権限すら停止する事ができる、彼らが不穏な動きをしていると推察される時は、織図の動向を見ておかなければならなかった。

 

 上昇を続けていたエレベーターはようやく薄暗い無人のポートに着いて、彼らの前には厚い壁に覆われた巨大な宇宙要塞が聳え立つ。堅固な大門の前に立つと、ゴウン、と大きな音を立てて自動扉が左右に開く。到着だ。


 比企と梶は躊躇しつつも、慎重に中に踏み込んだ。カツーン、カツーンと二柱の靴音が不気味に響き渡り、奥ゆきは果ても見えない無人のホールの広さを際立たせている。真っ暗な石造りのホールにはぽつんとライトが一つ灯っているだけで、飾り気も何もない。

 この組織には使徒がひとりもいないと言われているので受付に割く人員などいないのだろうが、ここまでひと気がないとさすがに気味が悪い。


 比企はライトの下の台座の上に刻まれた案内板を見て、特務省中枢部への通路を確認した。ともかく、中枢部に行かなければ話を聞いてもらえない。出迎えもないのだから、あまり歓迎はされていないようだ。


「まずは案内役の神を捜すことから始めなければな」


 比企は小さくため息を吐くと、奥に続く非常口のような小さな扉を開いた。中に足を踏み入れようとしたところで、二柱の背後から低い声が聞こえてきた。


「あーあ、おふたりさん。そっちは出口のない巨大迷路だぜ」


 振り返ると、先ほどのライトの点った台座の上にあぐらをかいて座る大柄な神がいる。

 その特徴的なシルエットは織図 継嗣。

 特務省特務従事者の制服、銀の刻印の入った白いローブを着て、今は陰階神ではない事を明示するように右肩の黒百合紋の御璽は隠されている。

 織図は顔を覆うようにかぶっていたフードをするりと取った。


「それは残念だ。迷路は嫌いではないんだがな」


 出口のない巨大迷路だなど……聞いただけで懐かしく、比企はぞくぞくする。

 かつてのように、荻号の部屋に向かう為の試練を受けている気分にさせられたからだ。

 荻号と会う為だけに毎回何十ものトラップに迷路を抜けて疲労困憊にさせられていた日々も、今は懐かしい記憶だ。

 そんな経験があったためか、比企は難解なパズルを解くこともそれほど苦ではなくなっていた。


「上層部からは迎えには行くなって言われたんだけどよ、おたくら絶対迷うと思ってね? そしたら案の定だろ? 極陽と陰階第二位神が何やってんだ。ここはよそ者にはすこぶる冷たくてな、正しい案内なんざ書いてねえんだ。まんまと騙される奴があるか」


 梶はその物言いに、腹を据えかねたようだ。

 梶は水色の髪でホストのような落ち着きのない格好をしているが、これでいて織図より二倍近くも年上だ、後輩になめられた口をきかれては気分を害しもする。

 特に梶はギャンブラーらしく、喧嘩っ早い事で有名な神でもある。

 そんな梶に駄目押しをするように、織図は挑発的な言葉をぶつけた。


「帰んな、進むだけ無駄だ」

「おいおい、黙って聞いてりゃ随分と調子いいじゃないの……」


 苛立たしげに舌打ちをした梶の前に比企が手を差し込み、織図との間に立って彼を制した。

 織図はその様子を冷ややかに見下している。

 スポットライトの当たる台座の上に座っているからか、その静かな佇まいは愚者に審判を下す彫像のようだ。

 彼らをじっと値踏みする織図のこの表情は、陰階では目にした事のないものだ。

 梶はまたそれが気に入らない。


「よせ、梶。特務省の刻印のある聖衣を着た彼は我々の上司だという事を忘れるな」

「こんな安い挑発にいちいち乗ってるようじゃ、ここにいる奴らとは話にならんぞ」


 織図は煙管に火を入れ、それをふかしながら溜息をついでに煙を吐きだす。


 特務省の連中は曲者ばかりだ、交渉中に頭に血が上って逆上してしまってはならないと思い、織図は二柱を試していた。

 彼らを特務省の中枢に連れてゆくことに不安を感じたからだ。

 何しろ特務省を外部の神が訪問するのは実に1万3千年ぶりだと言われている。

 神階と隔絶して久しい彼らがまともに話を聞いてくれるのかどうか、織図には保障できない。だが、織図はまた神階の一員として、彼らとこの二柱を引き合わせなければならないと思っていた。


「ついてきな、おたくらじゃ中枢部には着かん」

「いくら顔なじみだからといって手引きをするとは感心できんな、織図よ」


 織図が軽やかに台座から飛び降りた時、低い声と共に、更に二柱の白いローブを纏った神々が彼の背後に霧のように現れた。

 細身のシルエットの一柱と、いま一柱は大柄な男神のようだ。

 どうやら、織図が比企と梶を案内しようとした事が気に入らなかったようだ。

 特務省は伝統的に、たとえ極位神といえど実力で中枢部にたどり着いた神々の話しか聞いてはならないという決まり事がある。

 織図はその伝統を破ろうとした為、黙っていられなくなった彼らが、織図と訪問者に制裁を加えに来たのだろう。

 フードで顔が隠されているせいかひどく無機的な印象を受ける二柱の出現に、彼らと面識のある織図はまずいことになったなと額を押さえた。


「ここを訪れる者にはすべて、平等なる試練を課さねばならん。だが、正しい案内は織図が教えてしまったようだ」

「まだ教えてねーぞ」


 織図は反論する。

 鉄のように冷たい声の主の一柱は男神で、もう一柱は女神のようだが姿が見えないのでよく分らない。

 得体は知れずとも一見して分るのは、彼らが比企と梶に向けるものが、紛う事なき純粋な敵意だという事だ。

 それも、無視できないほどの深刻な……。


「では……我等が直々に試練を課すほかあるまいな」


 彼は基空間中から黒い六角柱の杖状の神具を抜く。

 その性能も形状も未知のもので、おそらくはいにしえの神々の創作物であり神階に明らかとなっていない危険なもの。

 性能の分らない神具とやり合うことほど無謀なものはない。


「何だそりゃ、俺らとやるってのか?」


 売り言葉に買い言葉というもので梶も身構え、バロックダイスを握るが、あくまでも争うつもりはない比企は梶の手の上からダイスを押さえ付ける。

 こんなところで戦っていては時間と労力の無駄だ、それに会談前にわざわざ悪い印象を与えることとなってしまう。そして……


『よせ、梶! 気づけ。我らでは彼らには敵わん』


 比企は梶だけに分るよう乖離性意思伝播法で語りかける。

 梶は驚いて、いつになく弱腰の比企に目を丸くした。

 比企は過大評価も過小評価もしない神だ。

 冷静に彼我との力の差をはかって、敵わないと言っている。

 梶の目には、彼らがそれほどの実力の持ち主のように見えない。


 というより、比企は即位したばかりで経験不足とはいえ仮にも極陽だ、そして梶もまた極位に最も近いとされる陰階神……その二柱が束になっても敵わないという相手、そんな実力者がまだ神階に存在するとでもいうのか……? 梶は信じられない。


『無理だ、梶。我等は生物階、神階における実質の二極だ、だが……彼らは三階に責任を負う者たちだ。器が違う』

「何だと?!」

「我々は争いに来た訳ではない、会談をしに来ただけだ……礼を失したとあらば謝罪する」


 比企は早々に折れた。


「いやにもの分かりのよい極陽だな……失望したよ」


 彼女は泣きを入れた比企を心底侮蔑するように、小首を傾げる。

 それと共に彼女の方は落胆して、比企と梶に対して急速に興味を失ってしまったようだった。


「つまらない奴らだな」

「何と言われようと結構だ、中枢に通してくれ」

「局長は失望したそうだ。織図、ではそっちの青い頭の方はお前が始末をつけろ。こちらは俺がやる」


 興醒めした女神とは対照的に、もう一柱の連れの男神はまだ気がおさまらないようだ。

 突然、織図を梶の相手に指名した。


「何で俺が……奎吾さんと俺がダチだって、知ってるだろ?」


 織図は上役と思われる男の命令にぐちぐち言っている。

 特務省職員としての立場と、陰階神としての立場に板挟みになっている。

 それを見かねた女神が織図にせっつくように大剣型の神具を抜いた。

 三者の遣り取りから、どうやらこの三者の中で立場、実力共に格上なのは彼女のようだ。


「お前がやらないなら、私がやるが? 神具も錆付いていたところだ」

「……そりゃマズい」


 ぐだぐだ言っていた織図もさすがに強ばった顔をして煙管の火を消した。

 織図のわかりやすいオーバーリアクションによって彼女が抜いた神具はどうやらかなり危険なのだという情報を比企と梶は受け取る。

 織図は指をローブに隠すようにして彼女の死角から彼女を指し、局長と呼ばれた彼女が一番危険だとヒントを与えてくれている。

 織図は敵でありながら、比企と梶の味方もしてくれるようだ。


「継嗣、どういうつもりだ?」

「俺でよかったな……奎吾さん、あのヒトと当たってたら……」


 そう言いかけた織図の姿が忽然と消える。


 次の瞬間、梶の背後からとてつもない衝撃が後頭部に叩き込まれる。

 梶は頭から床の上に深々とめり込んで一瞬で意識を飛ばした。

 延髄への上段蹴り一発で梶を地に沈めた織図は、油断せず気をつけろといわんばかり、比企に小声で囁いた。


「今頃、火葬場行きだぜ」


 成程、手柄だ。と比企は軽く頷く。

 織図はこうする事によって、殺されても不思議ではなかった状況にあった梶を”救った”のだと合点したからだ。

 陰階には隠され続けていた織図の実力を目の当たりにし、比企は一瞬にして彼らの実力を測る事が出来た。織図は比企と梶を中枢部に行かせてやりたいと思っているのだろう、ところが最悪のタイミングで予期せぬ邪魔立てが入った。


 そこで織図は仕方なく二柱とも潰されないために比企に彼らの実力を知らしめ、会談に欠席してはならない比企、ではなく梶のみを倒した。

 油断をしていて二柱とも倒されてしまったら、いや、下手をすれば殺されてしまいかねない状況だ、そうなったら何の為に来たのか分らなくなる。

 織図は咄嗟の判断で梶を犠牲にし、比企に間接的にヒントをくれたのだ。

 比企は親友の梶をすらダシに使った彼の配慮に、素直に感謝をしておくことにした。


『織図、揉め事には巻き込まれたくないのだが、こやつらは何を望んでいる? 己の実力を測りたいだけか』


 織図は彼らに気付かれないよう目で頷く。

 たったそれだけの目的だとしたら随分とご挨拶なものだが、彼ら、いや少なくとも彼は本気だ。

 やり過ごす事はできそうにもない。比企は仕方なく、今回ばかりは全く用無しと思って、それでも一応持ってきていた懐柔扇に手をかけリミッターを外しておく。


『マインドギャップの層数はかなりあるな』


 織図は彼の死角から人差し指と中指の指先でクロスを作っている。

 クロスはギリシャ数字でも漢字でも十を示すものだろう。

 織図は比企が小さく頷いたのを見ると、次にピースサインを示した。


”12層か……”


 マインドギャップの層数は単純に強さには比例しない。

 だが、力を得ずしてマインドギャップを増やした神は遺伝子改変操作を受けた藤堂 恒以外には存在しない。


 となると、フィジカルレベルもフィジカルギャップも極位格以上と見て間違いない……。

 さてどうしたものか、と思案しながらも比企の無表情な顔に不覚にも笑みが漏れたのは、今更のように重大な事に気付かされたからだ。


 比企が極陽となり、神階の頂は制したつもりでいた。

 だが未だ、世界の高みには触れてすらいなかった。

 彼らこそが真にINVISIBLEに牙をむく者たちであり、裸の王である比企には、その資格すらなかったのかもしれない――と。


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