第1節 第6話 Disqualified as a human
「ま、待ってください! 自転車があるんです。このまま帰れませんからっ!」
皐月はまた社務所側の空間に戻してもらった。
そちら側に行ってしまったら、もう二度と戻ってくる事が出来ないような気がしたからだ。
ドアの外を見ると、まだ残像のように学校の女子トイレが見える。
蜃気楼のように非日常の断端が残っていた。
「何がどうなっているの?」
「ご自分でお分かりの筈です。あなたは賢明な女性だと主よりお伺いしております」
「あなたは天使で、ユージーン先生は神様だっていうのですか?」
「ありえない、そう思われるのも無理はありませんね」
廿日は穏やかな声で相槌をうった。
甘い声が皐月の耳元をくすぐるようだ、声質が柔らかく耳に心地よい。
皐月は気がつくと、また彼女の背中から生えている翼をじろじろ見てしまう。
廿日は彼女が興味を持っているのを知って翼の羽根を一本抜き、皐月に見せた。
まるで鷹の翼のような斑紋をした、しかし鷹の翼よりもっと巨大な羽根だ。
全長1mほどある。
どこかから羽根を拾ってきて背中につけたのだとしても、こんな大きな翼を持った鳥がいるだろうか?
皐月は羽根をもらって、裏返してみたり振ってみたりしたが模造品などではありえないリアルな感触だった。
根元には少し、引きちぎられたことで血がにじんでいたりする。
「ありえません。でもこれは本物みたいです。それにさっきの、学校に繋がる空間は……」
「時間と空間が歪められるということは、数学的に証明がついているかと思われますが」
皐月だってそんな事は知っている。
数学的に証明はつく。
だが数学的に証明できる現象を、必ずしもその目で目撃できるとは限らない。
「あなたのその質量で、空間を捻じ曲げるエネルギーが生まれる訳がないもの」
「この世界にはあなた達が知らない法則や概念も存在していて、私達はそれを理解し、扱っております。そこにあるけれど、気づかない事象がまだたくさんあるのです。もしくは単純に、人の世界と神階では科学や技術水準が違うといいましょうか」
相手が質量とエネルギーの話をはじめると、本来は皐月の得意分野だ。
だが皐月は反論の糸口を見出すことができなかった。
「……どうかしてしまいそう」
「そうですね。主に、お伺いしてみることです。あなたにふさわしい説明を下さるでしょう」
廿日はおっとりとそう話すと、社務所の壁際の花瓶に生けてあった花束を皐月に与える。
大ぶりの花束で、両腕で抱えてやっと持てる大きさだ。
天使そのままに、彼女は優しく佇んでいた。
「私が育てておりましたものです。形よく咲きましたので、是非、教壇に飾ってください」
彼女が皐月にプレゼントしたのは、虹色に偏光する見たこともない色彩を持つ花束だった。形は百合のようだが、花弁の質感がまるでガラスのようだ。
そして彼女の全身を包んでいる花の香りは、この花の香りだったのだとすぐに気付かされる。
この花だって、幻や造花などではありえない、そのつくり、花弁、がく、茎、それらを見ればこれが確かに生花だということはわかる。
あるのだろうか、皐月の知らなかった世界が。
それは決して気味の悪いことでも、いかさまでもないのだろうか。
「あなたは、天使さんなのですよね?」
「そう自認はしておりませんが、古来より、人にはそう呼ばれておりますね」
彼女はどことなく照れくさそうだ。
「そんな風に、なんとなく見えてきました。でも、ユージーン先生はとても神様のように見えません」
「主は人間に擬態しておられます、常人には見分けがつかないでしょうね」
そういえば、ユージーンの神らしい行動を見たことはない。
その姿も人間のようであり、話す内容も至って常識的だ。
教育論について一時間ばかり討論した時も、少しも人間として不自然ではなかった。
文部科学省がどうだのこうだの、現代教育における教師の役割がどうだの、不登校児童に対する接し方がどうだのこうだの、決して熱っぽくはないが、教育に対する堅実な考え方が覗えた。
それらは全て計算づくであったということなのだろうか。
そうだとしたら、皐月は最初から手玉に取られていたということになる。
恒だけが、彼の異常に気付いていた。
廿日は複雑な表情の皐月に、優しく声をかけた。
「本当に送って差し上げなくてよろしいのですか?」
「学校まで、10分もあれば着きますから」
「そうですか。お気をつけて」
「あの、ありがとうございます。私、あなたにお礼を言わなきゃ」
「花のことなら、よいのですよ。私が育てたものですから」
廿日という使徒は花をこよなく愛する女性で、どんな部屋にでも花を飾りたがった。
それで彼女がユージーンの留守の間ほんのひと時を過ごす社務所にも、無意識的に花束を持ってきたのだった。
それは元々皐月のために持ってきたのではなかったが、教壇に飾って生徒達に喜んでもらえるのならそれでよいと思ったらしかった。
「私、あなたにお会いできなかったら、ユージーン先生の事、ずっと信じられなかったんです。でもようやくわかりました。私の前にある現実が。あなたが教えてくださったんです。これから理解しようと努めます」
「ふふ、けれどもそれはよかった、あなたと主のお役にたてたようで」
皐月は名残惜しいと思いながらも、花束を自転車のかごいっぱいに積んで、腕時計を見た。
皐月の受け持ちの算数の始業開始まであと25分だ。
まっすぐ教室に帰らなければいけない。
皐月は久々に清々しい気分だ。
不登校の恒に悩まされていたのがようやく解決したかと思えば、今度はユージーンが来てからずっと彼の事が信じられず、不安だったからかもしれない。
皐月の頭を悩ませる心配事は何もなくなった。
砂利道の上で軽快に揺れる自転車に乗って、皐月は風のように駆け抜けながら、思わず鼻歌をうたっていた。
名も知らぬ古い童謡だ。
夏の太陽が、新緑の田畑にからからと明るく注いでいた。
*
翌日、ユージーンは出勤し職員室に入る。
火傷を負った右手はすっかりよくなっていた。
チョークも持てた。
何も不安はないはずなのに、皐月を直視できず伏し目がちになる。
皐月は彼の姿をみとめると、思いがけず先に挨拶をした。
「おはようございます」
皐月から挨拶をしてきたのは初めてだった。ユージーンはいつも先に挨拶をし、へこりと頭を下げてきた。もっとも最近は、皐月も少しずつ積極的に近づいてくれるようにはなったものの……。
今日の皐月はいつもと雰囲気が違う。
「おはようございます。吉川先生。先日は急におやすみをさせていただきましてご迷惑を」
「先日、川模さんにお会いしたんです」
「川模? えっ、社務所にいらしたのですか? 廿日が何か失礼を致しましたでしょうか」
ユージーンは皐月の心が読めるのだというから、迂闊に隠し事もできない。
ユージーンは彼女と皐月が鉢合わせしていた事に気付いていないし報告もいっていないようだが、黙っていてもいずれ分かる事だろうからと、皐月は考えたのだ。
一方のユージーンは、今日はやけに距離が近いな、と思いつつ、皐月のフィジカルギャップへの進入を許容した。
フィジカルギャップの圏内、つまり半径1メートルに入ってきた事などなかったので、職員室ではギャップを解くのを忘れていた。
「とても素敵な天使さんを部下にお持ちなんですね。それから私のこれまでの数々の無礼を許してください」
「吉川先生、どうしちゃったんですか? そういう類のものは、信じないのでは?」
皐月は照れ臭そうにそう呼んで、もじもじとしてうつむいた。
ユージーンは逆に心配になってしまう。
「これからは改めて、よろしくお願いしますね」
「……! ……?」
ユージーンはぽかんとして、廿日が余計な事を言って皐月を錯乱させたのでなければいい、とだけ頭の片隅で思ったが、それ以上に思うところはなかった。
素敵な、というが廿日はそれなりに年期もあり気品もあり、温厚かつ聡明な使徒だ。
わざわざ鉄砲玉のような(つまりそれは紫檀のことなのだが)無礼な使徒を遣わせていたわけではないから、印象は悪くなりようがなかっただろう。
だが廿日と出会って皐月の何が変わってしまったというのか、ユージーンにはさっぱりだ。
まあ、悪い方に転んだのではないし放っておくかと、彼は悩む事も廿日に報告を求める事も諦めた。
そんな事など、といっては申し訳ないが正直どうでもよかった。
そんな事情はおくびにも出さず、ユージーンははにかみながら握手を求める皐月に応じた。
「は、はあ、こちらこそよろしくお願いします」
ユージーンはよそ事を考えながらも、朗らかに皐月に手を差し出した。
皐月の指先は冷え切っていて、じっとりとしていた。
緊張しているなら握手なんてしなければいいのに。
とは思えど、和解の握手のつもりなのかもしれないな、と少々困惑しながら皐月を眺めていた。
*
そのユージーンの悩みの種、藤堂 恒は1時間目の体育の時間、何を気にするという様子もなく、他の子供に混じって課題のマット種目を黙々とこなしている。
今日の課題は倒立前転だ。
「合格。よく出来たね」
クラス名簿の藤堂 恒の欄の、倒立の項目には一番はじめに丸がついた。
子供たちはなかなかできず四苦八苦していたが、恒だけは練習をせず何の苦労もなくできる。
出来た子から、右端のマットで自主練習をしていなさいとユージーンは指示していたので、一度でできた恒は合格をもらってさっさと誰もいない新しいマットに引っ越すと、ロイター板を持ってきてマットの手前に据えた。
誰もいないマットで何をする気だろうかと、ユージーンは他の子供を指導しながら興味深く眺めていた。
「恒くん、何か大技をするの? あれやってよ、倒立開脚前転」
クラスメートの宝田が、期待しながら耳打ちする。
恒が授業に出たことなど数えるほどしかないので、自然と注目されてしまうのだろう。
倒立開脚前転などわざわざやらなくとも出来ることがわかりきっていた恒には、挑戦したい技があった。
「やった事はないけど、試してみたいのがあって。恥ずかしいから見ないでな」
宝田は頷いたが、クラスの大半の目がこちらに向いている。
恒はあとに引けず、仕方なく踏み出した。
ロイター板のちょうどど真ん中で右足で踏み切った。
ロンダート、後転とび、後方抱え込み宙返り、着地は体軸がややずれたが、成功といっていいだろう。わっと子供達から歓声が上がり、ユージーンはそれを見て、やはりそうなのかと目を疑った。
「なに今の! テレビでしか見た事ない!」
「何の必殺技!?」
「恒ってマットはじめてだよなぁ。学校きてなかったしさー。練習なんてしたことないだろ?」
「一回でできたってか? やっぱり出来る奴は何でもかんでもできるもんだよな。ありえね」
ユージーンはこれが普通の子供にできる範疇の限界かもしれない、と唇を噛み締めた。
幼少期から体操の教育を受けてきたなら、何とか今のような事ができる子供はいるだろう。
だが恒の場合経験もなくやってのけたのだ。
熱心に練習をすればするほど、そのうち天才などの言葉では片付けられなくなるし、本人も自らの能力に戸惑い始める。
希代の選手と見込んで教育を施すあらゆるトレーナーも彼の底知れない力に恐れを抱く事だろう。
恒には、彼を取り巻く環境の全てが窮屈そうだ。
十人並みの指導者、十人並みの友達、十人並みの生活。
恒は彼の才能を持て余す事しか知らない。
力を持て余し、道を踏み外せば……大変な事になってしまう。
「今の技、なんての?」
「何だろう?」
「ロンダート、後転とび、後方抱え込み宙返り、だよ。とてもきれいに決まった」
「ロンダート?」
「そうか、知らないでやってたんだな。後転系の導入技だよ。後転というのは、後ろ回りじゃないよ、後方転回といって」
「テレビで見たから、そのままやっただけ」
副担任の薀蓄を、一蹴してしまったのは豊迫だった。
「先生も大技やってくださいよ!」
「君達の授業であって、わたしの授業時間ではないからね。うーん、あ……そうだ、では恒君は次これを練習してみて。今の技の少し応用だから」
ユージーンはロイター板もマットも使わず軽く踏み切ると、体育館の床上でロンダート、後転とび、後方伸身宙返りをしてみせた。
子供達は驚いて顎が外れそうだ。
「国際大会でB難度の技だ。ちなみにこれがスーパーE難度の後方伸身宙返り二回ひねり、伸身の新月面という技だ。参考だからやってもいいね?」
ユージーンは恒の演技を見てうずうずしていたのか、言った通りの事をやってみせた。
しかも着地にも一切失敗などしない。
その身のこなしは、まるで映画のスーパーヒーローのようだ。
しかもそれを目の前で実演するのだから子供達にとっては刺激的だった。
「それができたらオリンピック?」
「出られるよ」
「何で先生出ないの。メダルとってよ」
「はは、考えてもみなかったな」
「じゃあ人間代表の恒がオリンピック行ってメダル取れよ! 俺達応援にいくから!」
恒は気分が乗ってきて練習したが、伸身は屈伸と比べても格段に難しい。
何度もバランスをくずしてはマットにのびてしまう。
こうやって難しい事など何も考えずに、他の子供達に混じって授業を受ける日が来ようとは、恒は夢にも思わなかった。
「俺もそれやってみたい!」
「恒すげえ!」
「では早く倒立前転を合格することだ。更に、バック転と宙返りができるようにならないとね。焦ると怪我をするから、着実にね」
恒は子供たちのやる気に火をつけたらしく、次々と倒立前転の項目に丸印がついた。
バック転を成功させる子も何人かいた。
一番乗りはスポーツ万能、勉強はからきしな豊迫 巧だ。
巧は成功したので調子に乗って、連続のバック転に挑戦しはじめた。
ユージーンは無茶をしはじめた子供達の為に厚いマットを敷き詰めて怪我のないように対策をうつと、一番左端のマットにやってきた。
「さて、わたしが見るのは君達だ」
「先生、できないのー!」
「すごいー、男子。いーなーあんなのできて」
「練習すれば男の子でも女の子でもできるよ。頑張ってやろう」
ユージーンは一人ずつ倒立を支えてやって、ゆっくりと前転へともっていった。
指導を待つ残りの生徒は壁で練習している。
こつさえ掴めば、うまくできるもので、ぱらぱらと合格した。
たまたま廊下から通りがけに体育館の中を見た皐月は、恒がまるで体操選手のようにきりきりと回転とびをしているのを見て興奮したが、中に入ってはいけないと思い、我慢して窓から見ていた。
ユージーンは時折恒のもとにやってきて、オリンピック選手レベルの技を実演して恒に教えている。
”あの二人は何をしているのかしら、人間わざとは思えない”
授業が終わって子供たちがぱらぱらと体育館から出てきたので、彼女は急いでその場から離れた。
これではストーカーと大差ない。
改めよう、と彼女は反省した。
「先生。もっと難しいの見せてよ」
恒は授業が終わっても残って、マットの片づけをしていたユージーンにせがむ。
少し授業が遅れて終わってしまったので、次の授業までに体操服の着替えが間に合わないだろうから、片付けないで先に帰ってよいと言ったのだ。
「いくつか見せただろう。早く帰らないと、次の時間遅刻だよ」
「さっきのは、本気じゃないんでしょう。まだまだ余裕がありました。もっと難しい技ができる筈です。俺はそれを見せてもらいたくて」
「恒君。ここは学校だ」
彼は恒をたしなめるように拒絶した。
彼は見事なまでに小学校教師としての一線を引いている。
「ちょっとぐらい、いいじゃないですか」
「できない。それが吉川先生や村の人との約束だから」
「そうですか……残念です。でも先生の授業、すごく楽しいです。先生は誰も教えてくれない事を教えてくれるから。もっと知りたいんです。もっともっと!」
「限度はあるよ」
ユージーンは聞き取れないほど小声で呟いた。
恒は小さすぎるその声が、よく聞き取れなかった。
何か疚しい話でもしているのだろうかと、身構えてしまう。
「え?」
「人にできる技はさっき見せた。これ以上できてしまうと、もう人間じゃなくなってしまう。それとも君は、人間じゃなくなってもいいのかい?」
「え、意味がわかりません。俺はどんな事ができても、あなたみたいになれる訳じゃありませんから。俺は学者になって薬の開発を……」
「たとえばの話だよ」
ユージーンは悲しげに恒を見つめていた。
何かを試されているようだ。
恒は何の打算も迷いもなかったので、何も捻らず素直に答えることにした。
例えばというあり得ない事柄を想定した話は、現実主義者の恒は苦手だった。
「いいえ。俺は学者になるんです」
「そう。それは安心だ。君は思う存分学者を目指すといい。その素質はあるし、君ならよい学者になれるだろう」
「ありがとうございます。なのでいろんなものを見ておきたいんです。いろんな事を知りたいし。もう俺はADAMには行けないから、あなたに色々教えてほしいんです」
「恒君は偉いな、感心したよ。なら今日、一緒にADAMに行ってみないかい? ゲストナンバーをあげるから」
恒にとっては一度はトラウマになってしまった忌々しい場所ではあったが、自由に出入りができ、自由に知識を引き出す事ができるというのなら再び行ってみたいような気もした。
一人では怖いが、彼と一緒なら安心だ。
「ゲストにしてくれるんですか?」
「そう。ADAMの本の読み方を教えてあげるよ。きちんとした読み方をね。学者になるなら、調べたい事や知りたい事もあるだろう。利用するといい」
「人間がログインしても大丈夫ですか?」
これまで散々ログインしてきて、寧ろ出られない事に迷惑していたのだが、そういえば人間が神々の図書館に入る事に違法性はないのだろうか、と恒は考えた。
違法なことは遠慮したい。
「わたしが認めた人間だから、咎められはしないだろう」
「ユージーンさんて、神様の中では偉いひとなんですか? なんかそんな感じがします」
「ただの若輩者だ。とにかく今日眠りについたらADAMにいるだろう。もう、怖くはないね?」
「大丈夫です」
「じゃあ、夢で会おう」
始業のチャイムが、遂に鳴ってしまった。
恒は約束を取り付けたことに満足すると、体操着の袖から腕を抜きながら、急いで教室に走っていった。




