第2節 第2話 Vacuum cage
「また……こんなところで」
夕飯の材料の入った大きなレジ袋を提げて、合い鍵を使って勝手知ったる他人の家に入ってきた朱音はいつものように呆れ、もう……と微笑みながら溜息をつく。
息が白くなるような厳寒の浴室で、彼は薄い聖衣一枚で干物のようにバスタブに引っ掛かったまま寝ていた。
荻号の家に寄って、彼に夕飯を作り世話をやいて家に帰ること。
それは荻号が望んでもいないのに、学校帰りのちょっとした朱音の日課のようになっていた。朱音は食材を冷蔵庫に整理して入れると、眠りこけた荻号の肩にそっと触れる。
以前には肩を覆いつくしていた銅色の長髪がすっきりと切り落とされて小ぎれいになっているのは、外見など気にしない荻号のために、彼が寝ている隙を狙って伸びた髪を時々カットしているからだ。
朱音は雑誌を見ながら、人気の芸能人やモデルの髪型を見よう見真似で再現して自己満足していた。
奇妙奇天烈な彼の性格とは正反対の秀麗な顔立ちに、どんな髪型もよく似合った。
髪型について文句を言われたことは一度もない。彼はほとんど鏡を見ていないからだ。
朱音は鋏を持ちだし、少し不揃いになった毛束に鋏を入れ、ちょきちょきと切って整える。
一通り好きにして満足すると、ゆさゆさ揺さぶり起こす。
「起きて下さい、荻号さん。こんなところで寝てると風邪ひきますよ」
「何で俺がお前に寝る場所まで指図されるんだ……? 疲れてるんだ、放っといてくれ」
荻号はうだうだ言いながら朱音の手を払いのけた。
大陸側から急に降りてきた今年一番の寒気で浴室のタイルには、薄氷が張っている。
冷え切った浴室で気持ちよさそうに寝られる根性は大したものだが、見ているこちらが寒くなるので場所を移動してほしい。
「それから……実は私、ちょっとおなかすいてて」
彼女が気恥ずかしそうに言う、“おなかがすいた“とは、アトモスフィアに飢えたという意味だ。
まだ成長期の使徒である朱音は体内にアトモスフィアを蓄積する能力に乏しく、荻号のアトモスフィアを頻繁に受け取らなければ空腹を抑えられなかった。
彼女はもう、アトモスフィアに飢えたという状態がどういうものか自覚できるようになっていた。
飢えた日には、顔を真っ赤にして荻号にアトモスフィアをねだらなければならなかった。
荻号はそうだったのかと理解すると眠たい目をこすりこすり、冬眠を妨げられた熊のようにのっしと立ち上がる。
朱音を片手で悠々と担ぎ上げ寝室のベッドにぽんと彼女を横たえると、彼女ごと布団の中にもぞもぞ入った。
彼はベッドの中で毛布にくるまり、朱音を無意識にきつく抱きしめながら深い眠りにつく。
室内は冷たいのに、荻号といる毛布の中はうそのように暖かい。
高エネルギーを持つ神の体温の温かさは驚異的だ。
荻号は県内有数の豪雪地帯の風岳村の深雪で冷え切った、朱音の体を温めてくれる。
朱音は荻号に触れているだけで、特に何をしなくともアトモスフィアを吸収できるのだと聞かされている。
使徒が神を必要としている証、朱音が荻号によって生かされている証。神との契約を更新するこの瞬間……彼女は心まで満たされるような気がする。
彼は朱音の魂の糧だと、今ではよく分かっている。
彼の生命力を食らうという、この行為は甘美で背徳的だ。
まじまじと見つめていると、彼は視線を感じたのか目を覚ましたので、朱音は慌てて取り繕う。
「荻号さん、今日は寒いからシチュー作って帰ります。温まりますよ」
朱音が通い妻のような事をはじめたことを、荻号がどう見ているか分からない。
だが荻号はいつも、朱音が作ったものを残さず食べて味を誉めた。
神は食物を食べなくても生きてゆけるのだと何度も聞いたが、朱音なりの感謝の気持ちを表したかった。
アトモスフィアを奪うことは彼の力の源を朱音が奪うということで、朱音が荻号から奪ったのと同じだけ彼に返してあげたかった。
それに最近家を訪ねるたびに朱音の心臓が止まりそうになるのだが、荻号はよく怪我をしている。
血まみれで冷水に浸ったままバスタブの中にいたという事も珍しくなかった。
ある意味、この家に来るのはホラーだ。
怪我したままで水に浸かっていたら出血多量で死ぬし!
そんな朱音の説教もどこふく風だ。
朱音が風岳中学校に登校している時間に荻号がこの家で何をしているのか、普通に生活していて怪我はすまい。
彼は家から一歩も外に出ないまま、どこかで何かをしている。
誰かと戦っている様子はなかったので、苦行をしているだけなのかもしれない。
それにしても……行者ではあるまいし、一体何の為にそんな自虐まがいの荒行を続けるのかと、朱音は訊けなかった。
彼の生き方は危ない橋を歩み続けているようなものだ。
荻号は朱音と随分うちとけた今でも本心を見せないし、もともとあまり多くを語らない性格のようだ。
怪我をするのが日常だというならせめて体力だけでもつけて欲しくて、朱音は栄養たっぷりの料理を作る。
荻号はそんな朱音の思いを酌み取ったのか、今日に限ってこんな事を言う。
「お前……いいんだぞ。俺に構うな。お前はアトモスフィアが欲しくなった時だけここに来ればいい」
「来たら、め、迷惑ですか?」
「迷惑じゃねぇよ……ただ、お前が俺に気を遣ってそうしているなら必要ない。使徒が神に返礼をしようと思うな。それよりもっと人間らしく生きろ、お前は人として生きたいんだろ? 外が天気で明るいうちはここに来るより友達と遊んでこい」
「でも、外は雪ですし……」
使徒として生まれながら、人として人生を全うすること。
それが朱音の選んだ人生だった。
朱音が100歳になったら、荻号の手で朱音の命を閉じてほしいと願った。
人間らしく生き、人間として寿命を終える頃に人間らしく死にたいのだ。
荻号は朱音の切なる願いを適当に受け流して、100歳になったらまた考えればいいじゃないかと暢気に言った。
朱音は二年半前、母親に朱音の真実を打ち明けている。
自分が人間ではなく、使徒という存在であること。
背中にできた骨から翼が生えるのだということ、そして生涯にわたって神という存在を必要とし、神は偶然にも風岳村に住んでいるということ――。
母親はそこで荻号の存在の重さを認識したらしく、意を決して荻号に現金持参で挨拶に行ったそうだ。
分かっていたことだが、荻号は現金を受け取らなかった。
それでも娘を一生涯よろしくお願いしますと、涙ながらに頼む母親の姿に胸をうたれたと彼は言っていたが、彼が何か心を動かされることがあるのかどうか疑問だ。
ともあれ、それ以来、荻号の家に行くのは母親も公認の日課となっていた。
母親は手料理を朱音に仕込んだり土産を持たせたりと、色々と気をつかっていたようだ。
そう、それほどに荻号は朱音にとって、いわば彼女の命を繋いでいるかけがえのない存在だった。
最初は“面倒をみてもらっている”お礼を返さなければという義務感から半ば渋々荻号の家に通っていたのだが、そのうち自発的に会いに行くようになっていた。
朱音がどんなに忙しくても、毎日彼の家に通い続けるうち、これは好きなのかもしれない、と感じるようになっていった。
朱音が彼を必要とするように、彼にもいつか朱音を必要とされたいと思ったが、残念ながら彼はひとりで生きてゆけたし、いつもひとりで生きてきたのだと言った。
気ままな生活を送っていた彼が、13歳の少女に毎日のように纏わりつかれて、疎ましく思わなければいいと朱音は心配だ。
今日の訪問は“おなかがへったから”、という理由がある。
これが彼と会うには一番気兼ねしない理由だった。
「あ、そうそう! 昨日、羽根の先っちょがガビガビになってるって母に言われたんですけど、何か病気になっちゃったんでしょうか」
「見せてみ」
朱音の背にはもう小さな翼が生えている。
朱音の翼は淡いクリーム色をしていて、付け根の部分に紅茶色の斑紋がチャームポイントのようにあり、朱音はそのシンプルなデザインが気に入っている。
まだ立派な羽ではなく、幼鳥のような柔らかな羽毛が多い。
そのうち立派な風切羽へと生え変わってゆくのだそうだ。
荻号の不可視化装置により巧妙に隠されて見えないし触れられないので、日常生活に支障はなく学校でもバレていない。
脱分化薬を使わず翼を残すことは、荻号と相談して決めたことだ。
“いらないと思った時にもげばいい、そしてそのための手術は責任をもってやる”と丸め込まれた。
荻号は朱音がいつか神階に上がることを望むものだと思っている。
朱音は現段階では、神階に行きたいとは考えていない。
彼女はエアコンをつけて部屋を暖めると、腕時計型の不可視化装置を外し、頬を赤らめながら服を脱いで荻号に背を向ける。
荻号には何度も、全裸を含めて裸の姿を見られているが、今更のように恥ずかしくなる。
だが彼はあくまでも医師として診察をするだけで、成長期の彼女の身体には興味を示さなかった。
彼は朱音にとって、どんな男性よりも安全で無害だった。
それで彼女は荻号に全幅の信頼を寄せている。
荻号は無言で翼に触れ、一本ずつ丁寧に羽づくろいをする。
使徒の羽根はどんなに傷んでいても、アトモスフィアを持つ神に触れられると艶やかにうまれかわる。
傷んだ翼が彼の指によって補修されているのが背中越しによくわかった。
それは心地よくてけだるくて、全身が弛緩する。
使徒の翼には多くの神経や血管が集まっているのだというから、揉み解されてはたまらない。朱音の翼は荻号の膝の上にぺろりと乗りかかった。
「しっかし、傷んでるな。お前、翼を界面活性剤かなんかで念入りに洗っただろ」
「界面活性剤って?」
「洗剤だ」
「はい、シャンプーしてトリートメントもしました」
朱音が真面目にそう言うと、ぽん、と背後から軽く頭をたたかれた。
手加減されているので、叩かれても痛くはない。
朱音はこんな他愛もない遣り取りが好きだ。
荻号はぶっきらぼうだが、肉体的にも精神的にも朱音を傷つけたことはなかった。
彼は優しい。もろ手を挙げて優しいとは言えないが、優しい部類に入ると思う。
あくまでも、同じクラスの男子や朱音の周囲の人間と比べて、の話だ。
「髪の毛じゃねーんだぞ、常識的に考えろ」
“常識的に考えて……“、というのは自称常識神の荻号の口癖のようだが、彼がその言葉を添える時には大抵、常識的ではない事の方が多い。
彼は朱音に何故笑われているのかわからないまま、憮然としている。
「常識的っても……鳥が体洗ってるの、見たことないですし。何で洗ってよいかわからなくて、でもやっぱり洗いたいし」
「シャンプー剤にかぶれたんだよ。神階には羽根専用のトリートメントがあるんだ。明日にでも恒に持って帰ってもらえ」
「恒くんは、忙しいんですよ。最近、学校は来てるけど授業終わったら速攻で神階に上がってしまうんです……超空間転移とかいうので」
「そうなのか。お前ら、幼馴染なんだろ? もっとコミュニケーションとれよ」
余計なお世話だった。
恋人どころか、友達など一人もいない荻号にそれを言われると、朱音はげんなりだ。
恒と疎遠になったのではなく、恒が忙しすぎるのだ。
恒は朱音とともに風岳中学校に進学し、感心な事に学校もほとんど休まず授業も出ているようだ。
体操部にレギュラーとして在籍している割にはクラブ活動もほとんどしない幽霊部員で、放課後になると本物の幽霊のように煙となって消えてしまう。
それでも彼は、たまに行われる大会には体操部員として顧問から呼ばれて、練習もしないのにちゃっかり県大会個人の部で1位を取って全校集会で表彰されて周囲を驚かせている。
彼が器用で何でもそつなくこなせるのは神だからだと分っていても、朱音は少しぐらい部活動をして学校に残ってほしいと思う。
そうでなければ、1組の朱音が4組の恒に話しかける時間は殆どないといってよかった。
ちなみに朱音はジャズダンス部に入り、毎日朝に夕方にと部活動に明け暮れるかたわら、習い事のバレエも続けている。
運動をするとアトモスフィアを頻繁に摂取しないといけなくなると聞いたが、毎日通っているぶんには何も問題はなかった。
「みんな、色々と忙しいみたいです。荻号さんもそうですし……。これから何か、起こるんですか?」
「何も起こらねーよ」
あからさまな嘘をつかれて、朱音はかわいらしく頬をふくらませる。
荻号の怪我は日増しにひどくなっている。彼はそうやって彼自身を痛めつけて、何かに備えているのだろうと朱音は確信している。
「何か悪いことが起こるんですか?」
日本の国政はまさに、開店休業状態だった。
通常国会の予算案がなかなか通らないのとは対照的に、有事法案はコンスタントに通過していた。
予算案に優先して有事関連法案が通されるのが祇園首相の責任だというなら、与野党超党派でこれらの有事法案に臨んでいた。政府ぐるみで何か来るべき災厄に備えているようだ。
「まあな……。そんな顔すんな、何が起こっても守ってやるよ」
荻号は時々こういう意味深な言葉を無神経に発する。
朱音からしてみれば告白ともとれる言葉だが、彼はそのニュアンスの罪深さに気付いていない。
いや、鈍感なふりをしているだけなのだろうが、彼はこうやって朱音をからかって遊ぶ。
そして荻号はいつも、朱音を護ってやると自信を持って宣言した。
朱音は荻号の実力や社会的立場を知らないし、なぜ神でありながら神階を追放されて隠居生活を送っているのか、何か悪いことをしたから憂き目をみているのか、訊ねたこともない。
だが、どうやらそうではないと分かったのは、比企が荻号の助言を求めて訪ねてきたときだ。比企といえば執務室の裏に空中庭園を持っていた白髪の神だが、彼はこのたび、神々の長である極陽として即位したそうだ。
つまり荻号は主神が伺いをたてにくるほどの実力者だということだろう。
そんな彼の唯一の使徒であることを朱音は少しだけ誇らしく思うと同時に、緊張感も常にある。
心理学的な単純接触仮説に基づくと、ほとんど会えない恒のことより、年中無休で朱音の会いたい時にいつでも会える荻号の方に親しみを感じ、好意を持つのは合理的だった。
ただ荻号に寄せる朱音の想いはまたしても一方的で、進展などありそうにもない。
そこで彼女は毎日、同じ幸せを少しずつ繰り返すしかなかった。
荻号は翼の手入れを終えると、また朱音を抱いてうとうととはじめる。
彼女の翼を彼の体温に預けながら、朱音の生ぬるい幸福は今日も満たされてゆく。
*
彼女は水底から水上を見上げる魚のように、無音の世界で生きている。
……音も空気もない小さな函の中で、24時間、365日……かたときも休まず監視されながら。
彼女を取り巻く環境はいつも同じだ。
同じ室温、同じ湿度、同じ気圧、同じ重力、そして、同じ景色……それが少しでも変わってはならない。
彼女はいつものようにアトモスフィアを相殺する権衣という、美麗な装飾を施された薄い装束を身に纏い、アトモスフィア抑制具を兼ねた金色のあでやかな装身具によって神体はいつも美しく飾られ、聖性をたたえている。
また足首は瞬間移動などで逃亡を防ぐためと足枷で函の底にしっかりと繋がれている。
ショウケースに入れられた見世物のようだ。
一見虐待ともとれる待遇を2年以上も受け続けた彼女だが、彼女はよく研磨された宝石のように眩かった。
ガラスの中に閉じ込められた彼女と見えた神々はそのあまりの美しさに彼女の虜となり、比企はその美貌を独占したいが為に彼女を監禁して飼育しているのだという不名誉な噂も立っているほどだ。勿論比企は、そんな下らない理由で彼女を狭い函の中に閉じ込めているわけではない。
身も心も成長を遂げた彼女は、確固たるアイデンティティと共に多くの理を解していた。
彼女自身が三階にとってどういう存在で、何故このような待遇に処されているのか。
彼女の背中にあって、これから彼女を、そして三階を苦しめるものが何なのか――。
INVISIBLEに憑依されれば、無差別に人々と神々を殺してしまうかもしれない。
そうなるぐらいなら死んでしまいたいと、わずか2歳半の彼女はそう考えている。
だがINVISIBLEによって不死身とされてしまった身体をどうやって殺せばよいのか分からなかった。
彼女ができる事はただ、INVISIBLEに負けないほど、精神的にも肉体的にも強く逞しく成長する事だけだ。
彼女は精神力を鍛えるため、膨大な量の書物を読み、恒がほぼ8年をかけて得た知識を2年半の間に吸収した。
世界を知り、己を識ること、それが彼女に与えられた唯一の仕事のようなものだ。
しかしそうやって備えながらも、彼女は決して強くはない。
レイアは独りになるたび、INVISIBLEに身体を奪われるという恐怖心に押しつぶされそうになる。
今日は部屋に誰もいないので、誰かと話して気を紛らわせることもできない。
いつも様子を見に来る寧々は比企の極陽就任の手続きで大わらわだし、比企も寧々とともに法務局を訪れている。
恒はまだこの時間は学校にいる。彼女は身震いをし、何も考えないようにして読書に集中した。
彼女がぽとりと書籍に視線を落とすと、コンコンと僅かな振動がガラス越しに伝わった。
はっとして顔を上げると、恒が学校から戻ってきて、中学校の制服のブレザーを脱いで白衣に着替えている。
彼女は嬉しさを隠し切れない。
『いらっしゃい、恒さん』
四方がガラス張りのショウケースの隅に、彼女は今日も細い金色の身体をすぼめて、小さくなって読書をしていた。
こうやって隅のほうで小動物のように小さくなっているのは、今すぐにでも消えてなくなりたいという悲しい願望の表われだと、恒は知っていた。
金色に覆われた身体を外からまじまじと一方的に観察されるその様子は、水槽の中の金魚のようだ。
恒は早く彼女をこの閉鎖空間の中から解放してやりたいと思う。
あと半年の辛抱で彼女は自由になれる。それがどのような結果を齎そうとも……。
彼女の名は陽階神レイア=メーテール(Rhia Mater)、まだ2歳半の女神だ。
だがその外見と精神力は、人間でいう9歳程度に相当する、驚くべき成長をみせている。
真空環境で育った神は成長を早めるという比企の仮説は正しかった。
彼女は真空中で育つことにより成長と老化を著しく早め、推測通りに常神の4倍の速さで成長している。
成長を促進する事と引き換えに、犠牲にしたものもある。それは彼女の肉声だ。音波が伝播しない真空では声が届かないので、彼女はすぐに声を忘れ、声の代替として解離性意思伝播法を身につけた。
彼女はもう、正常環境では肉声で話すことができなくなっているだろう。
恒は、彼女がまだ赤子だった頃の泣き声しか記憶にない。
彼女がこの世界に生まれて残した声が、言葉でも何でもない泣き声だけだったとは――。
そう思うとやりきれない。
彼女がガラスの中から見た世界は、恒にとってもそうであったように辛く苦しいものだった。彼女は恒と同じ道を……いや、恒よりなお酷い道を歩んでいるだろう。恒はどんなに辛くとも自然に囲まれた環境で自由に育ったし、3m四方の箱の中に閉じ込められた事はなかったのだから。
恒はまず、箱入り娘が恒の心の中にくれた言葉を訂正しなければならなかった。
『いらっしゃいじゃなくて、おかえりだろ』
『ごめんなさい』
恒も彼女と会話するために、真空中でも対話できる方法を身につけていた。
恒が戻ってきた時に彼女は必ず、“おかえりなさい”ではなく、“いらっしゃい”と云う。
実際にはいらっしゃいというよりははるかに長い時間を、恒は彼女と共に過ごしている。
それでも彼女がいらっしゃいと云い続けるのは、彼女が恒を拘束したくないと思っているからだ。
恒は実際のところレイア=メーテールにかかりきりになって、彼女はそれを偲びないと思っていた。
彼女はこのような酷烈な環境の中でも他者に遠慮をし、他者の心を酌む事のできる少女に育った。
他者から監視される生活が続いたため、少しばかり内気になってしまったのだが……彼女は素直でよい子だ。
『恒さん……やっぱり、最近何だか悲しそうです』
恒はいつもと同じ表情を彼女に向けたつもりでいたが、彼女はそんな事を云う。
『気のせいだよ』
『あなたは三日前、あるものをなくしたと仰いました。それを失ってから悲しそうです』
恒がレイアの変化を見逃さないように、レイアも恒の感情の変化をつぶさに見ている。
彼女はここ数日、恒が目に見えて力を落とす様子を気にしていた。
何か悲しい事があったのだろうかと彼女は思いを巡らせるが、情操面の発育に乏しい彼女は、恒が何故悲しんでいるかが分からないのだ。
恒は三日前確かに、父を亡くしたと言っていた。
だが彼のいう父が恒にとってどんなものであるのか、それを失うと何故悲しくなるのか、彼女には理解できない。
彼女に分かるのは、恒のマインドギャップが精神面での脆弱性を隠しきれなくなっているという表面上のことだけだ。
『あなたがなくした、父、とは何ですか? わたしも持っているものですか? もしもわたしのものでよければ、あなたに差し上げます』
レイア=メーテールに与えられた知識は不完全であり、偏っている。
数学、自然科学など、世界の姿を知るための教育が優先され、家族、友達、愛情……彼女にとって必要のない知識や、彼女を不安にさせるような知識は与えられていない。
彼女は愛されることを知らないし、肉親もない天涯孤独の身だ。
彼女は父親を持ったり、なくすこともできない……。
『ごめんな……』
恒にはつい三日前までヴィブレ=スミスという父親がいた。
母親の藤堂 志帆梨はまだ生物階で元気に暮らしている。
彼女があどけなく恒に尋ねた、彼女が決して知ることのない言葉の意味を、恒は知っている。恒は純粋に恒を元気づけてくれようとする彼女の優しさに罪悪感を感じ、さりげなく話題をすり変えた。
『体調はどう? スティグマは? 朝にはおさまっていたけど』
『……』
今度はレイアが言葉に詰まった。
いくら辛抱強く待っても彼女から返事がないので、恒は10cmほどのスティック型の酸素ボンベを口に咥え、瞬間移動をかけて函の中に入ると、隅に小さくなってちょこんと蹲っている彼女の隣によいしょと腰を下ろす。
レイアは恒の存在と彼のアトモスフィアを直ぐ傍に感じて、切なげに首をすくめた。
恒はレイアにとってかけがえのない、彼女に最も身近な唯一の存在だった。
それは比企でも、他の誰でもなく、恒でなくてはならなかった。
彼女には恒が必要だったが、外界を自由に往来する恒を彼女が独占する事はできないと分かっていた。
恒はぴったりと壁に背をつけてそこから動こうとしないレイアを少し強引に起こして、スティグマの発現を確認するため、彼女の背に躊躇なく触れる。
『熱くなってる……』
恒が心配した通り、スティグマは恒が学校に行っていたほんの少しの間に活性化していた。
INVISIBLEの収束まであと残すところあとわずか……ここにきて、スティグマが発熱する頻度が高くなってきていることは明らかだった。
INVISIBLEはやはり半年後に、必ず来る――!
恒はこの二年半、たえず彼女の傍に寄り添い続け、ABNT抗体の発動までの閾値を極限にまで下げて、スティグマに少し触れるだけで抗体が強く発現できるように鍛えてきた。
しかし、活性増強された抗体でスティグマを封じても半日も抑えておけなくなってきている。INVISIBLE収束を前に、抗体の活性が追いつかなくなってきている。
それは比企にも指摘されていたことだ。
彼女は恒がスティグマに触れるたび、恒がいかに鍛えたといっても今だにスティグマの熱に灼かれていることを知っていた。
恒に痛い思いをさせたくない、彼女はそんな思いから彼の手を拒絶する。
『わたし、まだ我慢できます』
『我慢するなよ……、熱いだろ』
恒は遠慮するレイア=メーテールの背に権衣の下から右手を当て、意図的に掌にスティグマの熱を感じさせながら、抗-絶対不及者抗体(Anti-ABNT Antibody)を合成してゆく。
彼の掌からはアトモスフィアが紫煙となって立ち上る。
面の皮とともに手の皮も厚くなってしまったのか、今ではスティグマに触れても、熱さは感じるが殆ど火傷をしない。心頭滅却すれば火もまた涼しという諺もあるが、要するに、こういうものは慣れなのだと恒は思っている。スティグマは恒の抗体に活性を阻害され、一時的におとなしく躾けられる。彼女は瞳を閉じて恒の手の感触を感じながら、そっと彼に寄り添う。
『どうして、スティグマが熱くなっていたのに俺を呼ばなかった?』
授業中でも何でも熱くなったら構わず呼べと、レイアには言い聞かせているが、彼女はなかなか約束を守ってくれない。
恒が“学校”に行って“授業”を受けている間は、邪魔をしてはいけないものだと思っているのだ。恒は彼女が遠慮しているのだと考えたが、彼女の答えは意外なものだった。
『それは……とてもスティグマが熱くなって、本当に痛くて疼く時、頭の中に“声”が聞こえるのです』
『……なんだって?』
それは、唐突な話だった。
『わたし……声を最後まで聞いてみてもよいですか』
レイア=メーテールは飼い主の許可を乞う甘えた子犬のように、翡翠色の大きな瞳で恒の顔をいっしんに見つめて反応を窺っている。
彼女は何をするにも、恒の同意を求めなければ不安だった。
恒はそんな彼女に驚いた。
彼女が自発的に何かをしたいと自己主張したことなど、一度もなかったものだから。
『いけませんか』
『いけないも何も……それはノーボディの声じゃないの?』
恒は慎重に確認する。
脳内に直接語りかけを行ってくる声……それはアルティメイト・オブ・ノーボディとの対話方式だ。
恒は睡眠を媒介としなければ彼と会話をすることはできないが、プライマリであり、よりアルティメイト・オブ・ノーボディに対する感受性の強い彼女なら、直接声を聞くことができても不思議ではなかった。
『違います』
彼女は艶やかな金糸のような髪の毛をふわりと散らせながら、きっぱりと、首を横に振る。
ノーボディは恒のみならず彼女とも接触を図ることができるらしく、彼女は黄金の草原とそこに佇む者を夢でなら見たことがあると云っていた。
彼女がノーボディからの語りかけではない声を聞いているというのは、初耳だった。
そしてその声というのは、あまり好ましくない者からの語りかけであろう。
恒は真剣に彼女に向き直って、彼女の真正面から彼女を真剣に諭す。
『聞いちゃだめだ。それはきっとINVISIBLEかブラインド・ウォッチメイカーからの声だから。絶対に耳を貸すな。お前の身体を器にして乗っ取ろうとしているんだぞ』
『でも……声を聞いてはならないのでしょうか』
もし声が“あんな事”を云わなかったら、レイアだって恐ろしくて、聞く耳を持たなかったに違いない。
レイア=メーテールの背の黄金のスティグマが最も熱くなって彼女の身体がバラバラに引き裂かれそうになる時、彼女の中にどこからともなく幻聴のような声が侵入して彼女に語りかける。彼女は声の語りかけに最後まで耳を傾けることはできなかった。彼女が苦痛を覚えるとすぐに、異変を察したレイア=メーテールの監視係の使徒が恒を呼び、恒が瞬間移動で駆けつけてすぐにスティグマを癒してくれたからだ。それはレイアにとって心強く、大きな救いであった。
だが彼女がその声を最後まで聞かなければならないと思ったのは、いつも微かに聞こえるそれが、地獄の苦痛に悶絶するレイアにこう云っていると分かったからだ。
助けてくれと。
声は、途切れ途切れに、聞こえなくなるほどか細く、そう云っているような気がした。
恒が彼女を癒すたびにレイアはその声は恒の抗体に封じられて消えてしまった。
それがINVISIBLEやブラインド・ウォッチメイカーからの語りかけかもしれないと恒に諭されると、恒に随わなければと彼女は思う。
しかし……こんな身の上にあるレイアを選んで何故助けを求めなくてはならなかったのだろう?
そう思った彼女は、声が聞こえた時、激痛に意識を飛ばしそうになりながらも声に尋ねてみたことがある。
“あ、あなたが……INVISIBLEなの? あなたがわたしをわたしでなくさせるの?”
声は何かを云いかけたが、まだ何も言葉を成さないうちに遮られた。
駆けつけた恒が抗体を発動し、スティグマを押さえ付けて苦痛から解放してくれたからだ。
レイアは助けてくれた恒に感謝をしているが、恒が声の呼びかけをかき消してしまっていた。
『声は何かを望んでいるようでした……私に何か話しかけようとして』
『そりゃ、望むとしたら俺を殺すことだろ。俺はINVISIBLEにとって邪魔だろうから』
彼女は力が抜けて、膝の上に重い書物を取り落とした。
嫌だ、嫌だ、と彼女は恒の白衣にしがみついてかぶりを振る。
恒を失えば彼女はどうしてよいのか分からない、恒がいなければ何もできない。
世界の法則に関わるあらゆる事象を解しながら、彼女の心はまだ飛び立つ事のできない雛鳥のようなものだ。
『……もう“声”に何を云われても耳を貸しません』
レイアはそう云って俯く。
恒だけがレイアを助けてくれた……彼女の味方は恒しかいないのだ。
彼女にとって恒は世界そのものであり、彼女が失った大気だった。
恒は自由な世界から、まだ見ぬ太陽や、空の気配を、木々や花、土の香りを、彼女の知らない歓びを運んできてくれた。
恒が全てを教えてくれた。
恒を失ってしまったら、何に縋って生きてゆけばよいのか分からない。
彼女はそんな思いでいる。
『あなたを失いたくないのです』
恒が止めなければ、悪魔からの囁き声に心を奪われてしまうところだった。
彼女はただ恒に縋りついたまま、背中一面覆われた黄金のスティグマを恒の前でだけはあらわにしたまま、頼りなげな細い身体を震わせていた。