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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第二節  A story that converges beyond the singularity
68/117

第2節 第1話 Destiny settled(枢軸叙階一覧あり)

第二節 開始いたします。前話から二年半が経過し、

西暦は2009年冬、藤堂 恒は12歳になっております。

挿絵(By みてみん)



 陽階主神を決するその極位位申戦も、いよいよ大詰めを迎えていた。


” The Induction of Obsessive-Compulsive Disorder Spectra”

(強迫障害喚起スペクトル誘導)


 彼の両手の間に幾重にも迸る、ヴィヴィッドな色彩を孕む電磁圏は虹色の精神干渉波を形成する。

 励起された状態からさらにコマンドを乗せる。


”Fundamental Contorl Double, Mind Cube.Co-existance”

(根元事象二重制御-心層立方体-共存在)


 共存在との倍がけにより、ヴィブレ=スミスの精神波攻撃は突如倍加した。

 触れれば精神を圧殺される真空の巨爪、そして精神干渉波が、360度の全方位から比企をめがけて襲い掛かってくる。懐柔扇を持つ比企でなければ、絶体絶命を悟っただろう。

 しかし比企は慌てず騒がず左手を一切使わないまま、懐柔扇でコンパスを回すように大きく円弧を描いて、錐形の紫電の緩衝壁を三層展開する。


“1128式丙種、積層装甲”


 魔法陣にも似た薄紫色の板状障壁が、積層化され明確な領域をなして可視化している。

 大電力を要する電磁シールドを、彼は出し惜しむことなく何度形成しているだろうか。比企のアトモスフィアは無尽蔵とも見受けられる。彼はヴィブレ=スミスの共存在に怯まず、歯牙にもかけなかった。


 彼は二年半前、極陽が荻号とともに一度だけ発動した共存在を録画で見て、抜かりなく対策を打ってこの場に臨んでいたからだ。

 神具を用いて行う共存在は本来の共存在と異なり、完全なる分身を生じない。

 どちらが共存在でどちらが本体なのかを見破ることさえ出来たなら本体を徹底的に叩きのめせばよい。

 ヴィブレ=スミスの付け焼刃の共存在は要するに、共存在の本来の持ち味を殺していた。


 荻号 要や荻号 正鵠らがバイタルと寿命を半分に削り込んで発動する本家の共存在の最大の強みといえば、本体と全く同等の能力を持った個体を複製するという点だ。

 このたった一点において後れをとり、比企は荻号 要の弟子として過ごした50年間、彼に一度も勝つことができなかった。

 目くらましに過ぎないまやかしの共存在など、相手にする必要はない。


 一大決戦の闘技場は球状の亜空間で、地球の4分の1の体積を持つ。

 重力、時間等の環境は生物階のそれとほぼ等質。

 球体の中央にはおよそ2000ヘクタールの舞台があり、基本的にはその舞台の中で試合が行われている。

 中継のカメラは異例の1600台が入って、GL-ネットワークでライブ放映されている。

 比企とヴィブレ=スミスはたった二柱だけで戦っているのではなく、その勝負の行方を神階全体が固唾をのんで見守っていた。

 主神の交代は神階の抜本改革を意味する。

 比企は何度共存在を繰り返されても間違いなく本体を選び、隙を見ながら精密機械のように正確に淡々と効果的な戦術を穿ちこむ。


”213式乙種亜展開。素粒子クォーク数、色荷カラー奪換”

”559式丁種、空間座標軸変換、二重解無効化 ”


 日本由来の神である比企は、流暢な日本語でコマンドを刻む。

 彼は扇の要を外し、骨の部分を両手に持って放てば、折り目正しくならされていた扇面が帯のように数十メートルも伸展し同心円状の軌跡を描いてヴィブレ=スミスを一周取り囲み、また比企の手元に戻ってきた。


 空間法則を歪める比企の一連の攻撃は、ヴィブレ=スミスには目視にてとらえることができなかった。彼の攻撃は観戦するには非常に地味だが、他のどんな派手な攻撃よりモノをいわせ、しまいには比企そのものが視界から消えている。

 巧妙に仕組まれたコマンドによって比企にしかわからないようになっているが、比企は普通の熱波撃の間に変則的に、熱によって時間と空間の同時性の崩れた座標を創り出し、ヴィブレ=スミスと比企との間の時間の流れをシフトさせていた。

 時空間座標をいわゆるローレンツ変換によって傾け、ヴィブレ=スミスの体感時間を一瞬遅くすることにより、その瞬間に起こった事象を比企は一瞬だけ早く体験することができる。


先天八爻せんてんはっこうかん


 八卦になぞらえた彼のコマンドを、解読するのは困難だ。

 またも空間軸の座標曲率が変わったが、その名の通り八卦図に対応していない。

 同じ時間の同じ出来事が、ヴィブレ=スミスには少し遅く訪れるのだ。

 言い換えれば、比企はヴィブレ=スミスより少し速い時間の流れの中にいる。


 比企は荻号との遣りとりに学び、この二年間で懐柔扇の局所時間軸介入性能を重点的に改良していた。

 比企と極陽との間の実力的な力の差もさることながら、局所的にとはいえ素粒子運動を司り局所時空軸をすら操る比企に、精神攻撃を得意とするヴィブレ=スミスが勝てる道理がなかった。また、比企は事前に、神体に精神攻撃無効化プログラムを処して臨んでいる。


 比企は悠々とヴィブレ=スミスの間合いに入り込み、限りなく時間の進み方が0に近づいた状態で急所に拳を打つ。

 その衝撃の一部は無防備な脳を襲い脳震盪を引き起こすが、そこはさすが主神というもの、易々と気絶などしない。

 時間の拘束を解かれ、跳び下がったヴィブレ=スミスとの間合いを詰めながら、やはりどれほど急所を攻めようと主神をノックアウトさせることは不可能だと比企は悟る。

 ヴィブレ=スミスの運動能力は、生体神具FC2-マインドキューブにより限界まで高められている。

 それはもう、病的な域に達している。

 FC2-マインドキューブは延髄に移植された生体神具であって、彼の神経系に深く根を下ろしており、衝撃に強く量子計算系疑似脳としての役割を果たし、ヴィブレ=スミスの両手で顕現される。


 神経を切られるか殺しでもしない限り、意識を落とす事はありえない。

 そう簡単には倒れないということは明白だった。

 比企は決着のつけ方に拘らない事を決め、戦闘の終結を宣言した。

 K.O.は無理だが、判定でなら確実に決着がついていた。


「ヴィブレ=スミス。もうよい。雌雄は決しておる、これ以上は詮無きことだ」


 比企は口腔に溜まった血液を手頃な場所に棄きながら、数時間ぶりにコマンドではなく言葉を発した。純白の球体闘技場に、赤い色彩が飛ぶ。

 パチンと懐柔扇を閉じ、戦闘を放棄する。

 一方的な決着だった。

 極陽が老い衰えたのではない、300年の間に比企があまりにも力をつけすぎたのだ。

 試合開始の合図が出されてから、既に41時間が過ぎようとしていた。

 神階の長を決する極位の位申戦に時間制限などない、どちらかが降参するか死傷者が出るまでエンドレスで行われる。

 何故これほどまでに長期決戦となったのかというと、極陽も比企も双方の実力が伯仲しており、なおかつ双方が腕のよい外科医だったからだ。


 負傷を被ればその場でたちどころに癒し、スタミナが切れれば神具の機能を駆使して補充してしまう。

 特に比企は懐柔扇にアトモスフィア充填機能を付加しており、無尽蔵のアトモスフィアを操ることができた。

 極陽は常に生体内でのアトモスフィア合成のシグナルカスケードをオンにして戦っていた。

 一般的な決着であるアトモスフィア切れもなく、極陽の場合ダウンもない。致命傷を与えない限り、勝負などつかなかった。

 K.Oを厭うなら、勝敗の判定を判定員に依頼することだ。

 先ほどから極陽はもう、手が出ておらず防戦一方の構えとなっている。

 比企は全神の見守る中でヴィブレ=スミスに醜態を晒させる前に、試合を打ち切った方がよいと考えた。極陽は明日から第二位神となる屈辱を味わうだろう。

 そして比企はこれから、INVISIBLEとの戦いに向けて貴重な戦力とブレインとして極陽の力を借りなければならない。

 片方に無様な負け方をさせると、双方にとって利益がない。


 比企が判定員の見守るカメラに目を向けて声をかけようとしたとき、ヴィブレ=スミスはそれを妨げた。


「比企よ……私は余力を残した戦いというものは嫌いだ。汝となら命果てるまでやり合う価値がある。禁則を解除してやりあわぬか」


 比企は果たし合いの申し込みを、老獪なヴィブレ=スミスから聞くことになるとは想定していなかった。

 だが彼も、名誉と誇りを尊ぶ陽階神だ、このまま黙って負ける事はできなかったというのだろう。

 禁則とはすなわち、極陽ならばFC2-マインドキューブの奥義PSYCHO-LOGICase(精神分解酵素)の合成、比企ならば懐柔扇の奥義、元素崩壊の発動を解除することを意味した。


 どちらかが必ず命を落とす事になる戦い、極陽はその勝負の末の破滅を望んでいたのかもしれない。

 一か八かの大きな賭け、先に奥義を発動した方が必ず勝つ。

 勝算は五分ではなく、時間軸を操る比企が圧倒的に有利だ。

 その結果で確実にK.O.を狙える、そして確実にヴィブレ=スミスの命を奪う。

 極位の位申戦では、判定勝ちなどではなく完膚なきまでに打ちのめした方が印象がよいものだ。

 そういう意味では比企の実力を内外に知らしめ、反対勢力を押さえ込む絶好のチャンスだったのだが、比企は憐みを込めたまなざしをかつての主神に向けただけで、その申し出に応じなかった。


「勝てぬと察したなら玉砕を潔い身の処し方だとは、己は思わぬ。潮時と知れ。長い間ご苦労だったのう」


 位申戦において命の駆け引きをすること……つまり神具に課せられた禁則を破ることは、両者の同意がなければ行われてはならなかった。

 原則、優れた神を登用する為にはじめられた位申戦は殺し合いが目的ではない。

 死者なき戦いでなければならなかったからだ。

 それでも殊に極位にある陽階神は、いかな恥辱を被ってでも強くあり続けようとする陰階神とは異なり、彼等のプライドに賭けて果たしあいを望むことがある。

 位申戦での果し合いは合法であったが、必ず両者の合意を必要とした。

 比企は極陽の提案を断り、命尽き果てるまで撃ち合う事を拒絶した。


 それは何より、比企が命を惜しんだというより、極陽の命を無駄に散らせたくはなかったからだ。

 藤堂 恒の実の父親を、その手にかけたくなかったという理由が大きい。

 目の前で父親を葬り去る、もっと言えば元素崩壊で遺体も残らぬまでに粉砕する光景を、恒に見せたくはなかった。

 比企は激闘の末にボロボロとなった着衣を脱ぎ捨て、極陽に背を向けて一方的に試合を打ち切る。


「汝は強かったぞ、ヴィブレ=スミス。もう決着としよう」


 比企は片手を上げ、モニターごしに極位決定戦を観戦していた20名の判定員に勝敗判定を委ねた。

 XX(文型)の試合では比企がヴィブレ=スミスを下し、AA(武型)の試合では15項目の能力において比企が極陽を上回っていた。

 そして41時間もの最終決戦を制したのは挑戦者の比企だった。


『20対0、全判定員の一致をみて、立法神 比企 寛三郎の極位叙階を認めるものとする!』


 比企が傷ついた右手を高らかにかざして勝利宣言をしたその瞬間、陰陽階の中央部に位置するスタジアムの大型モニターで観覧していた神々や使徒達の間から、歓声と悲鳴が上がった。


 ときは西暦2009年。

 史上最年少にして主神となった775歳の比企を頂点とする神階の新たな時代がここに、幕をあけたのだ。



「……ひとつの時代が終わったな」


 織図 継嗣は比企が位申戦を終えて新主神として華々しく大観衆に迎えられる様子を、同じスタジアムのはるか高みから見下ろしていた。

 閉塞した神階の体制に風穴を開ける、急進的な比企の完全勝利はいっそ清々しくすらあった。以後、比企は立法神を廃し、伝統的に神階の長、極陽アルティメイト・ポジティブの司職と定められてきた創造神としてその手腕を振るうだろう。

 この位申戦は事実、単純に神階の長を決するというより、比企とヴィブレ=スミスのどちらが三階を率いてINVISIBLEと戦う事になるのかを神々が見極める、そんな意味合いを持っていたと織図はレビューする。


 戦場に赴くことが出来るのは恒とレイア=メーテールだけだと分かった上でのこの時期の極位獲りは、比企の自己満足のためではなかっただろう。

 比企が体制を支配した状態で恒とレイア=メーテールを擁することにより、ヴィブレ=スミスの彼らへの影響力を最小限にとどめ、排除することができた。

 比企は利己のために極位を目指したのではなく、権威の盾で少年少女を守ろうとしたのかもしれない。

 比企は主神となり、恒とレイア=メーテールはその庇護のもとに置かれたこととなる。


「創世者との戦いに神階が出る幕はないかもしれないってのに、それでも立ち向かおうとするあんたは立派だ。特務省に任せとけばいいってのに」


 織図はそう呟いて、到底真似できないなと、彼の一途さに脱帽した。

 自身も、対INVISIBLE対策機関、特務省職員である織図は、これといった手段も力もなくINVISIBLEに挑みかかろうとする比企を真に勇敢だと認める。


 この戦いは、比企やヴィブレ=スミスとはおよそ関係のない場所で、もう既に始まっている……。

 そういえばこの二年あまりの間で、織図も位申戦を一度経験した。

 その結果、死神、織図 継嗣は前3位だった紺上 壱見を大差で破り、陰階3位の文武系(AX)神として即位して、それを機に大多数の枢軸神の推薦により、荻号 要が前任者であった陰階の参謀職に就いている。

 織図は僅かな間にマインドギャップを8層に、フィジカルギャップは46層にまで増やした。

 陰階きっての武闘派、梶 奎吾のポテンシャルに伯仲する数値を叩き出して梶をやきもきさせているが、織図は別段、これといった努力をしたり厳しい修行を積んだわけではない。


 視力の獲得とともに肉体の反射速度が高まっただけ、といえば味気ないものだが事実そうだった。

 マインドギャップは身体能力の成長に準ずるものだが、神々の成長は100歳で頭打ちとなると言われ、神々は100歳までに個々の神体感覚を身に付けて能力が固定化されてしまう。

 視覚を得ることができなかった織図は視力を補うように他の機能が発達していたが、ここにきて視力を得たことにより空間認識の在り方が劇的に変わった。

 予め高められていた他の能力に視覚的情報が加わる事で相乗効果を及ぼし、織図は二回目の成長期を経験し、他の神々より抜きん出て成長する機会を与えられた。

 つまりそれほど、盲目の状態で枢軸を務めていた織図の潜在能力がそもそも高かったということだ。

 織図はようやく、アルティメイト・オブ・ノーボディが織図と最初に出会った日に説き聞かされた、“望まれて生まれてきた完全な神だ”という、当時は気休めとも受け止められた言葉を今更のように思い出したものだ。

 ノーボディは何らかの意図あって織図から視力を奪っていた。


 織図はこの二年半、比企や荻号、それどころか恒にすら一度も会っていなかった。

 織図があからさまに接触を避けていたことに、比企も荻号も気付いていたかもしれない。

 だが荻号は来るもの拒まず去るものも追わずの性格で、また、陽階第二位神であった比企も陰陽階のしばりを越えて特務省特殊任務従事者であり参謀である織図を呼びつける権限などなかった。

 今後比企が極陽として即位すると、織図は比企となにかと遭遇する機会を増やすこととなる。

 極陽は特殊任務従事者の任命権者であるからだ。

 今となってはマインドギャップに5層以上の差のない、つまり看破不能な比企と会うのはまったく構わなかった。

 ただ、いくら織図のマインドギャップが増えたとはいっても、マインドギャップを何層持つとも知れない荻号と接触することは避けなくてはならなかった。


 織図はまだ、もしかするとこの世界で唯一の存在かもしれないが、ユージーン=マズローを覚えている。

 織図がそれをここまで一切他言しなかったので、何とか記憶を失わずにやっている。

 織図の思考を看破できる者達と接触したとき、記憶が失われてしまうような気がして、織図は荻号や比企と接触を避けてきた。

 二年半前、織図がEVEにダイブしていた間に脳死状態となりそのまま失踪してしまったユージーンはまだ帰らないが、織図は今でも、いつかユージーンがひょっこりと風岳村に帰ってきて力を貸してくれそうな気がする。

 脳死となったままどうやって帰ってくるのか、細かいことは言いっこなしだ。

 ただ、織図が彼を忘れさえしなければ、いつか必ず帰ってくると信じたかった。


 恒から何度か、織図と会いたいという旨の手紙が執務室に送られてきた。

 手紙には簡単な近況とともに、織図の昇進の祝い、そして恒のマインドギャップは10層にまで達していると書かれていた。

 だが織図は可哀想だと思いつつも、恒とは直接は会わず会話も電話だけで済ませた。

 恒がマインドギャップを10層だと言っているのは、あくまでも自己申告だ。

 一年に一度以上神体検査を行う必要はないため、自己申告より多くマインドギャップを身につけていてもおかしくなかった。

 そして恒は昔から、なかなか本音を見せない。

 半人半神の恒に、いい年をこいた枢軸神がマインドギャップを看破される危険を危惧しなければならないとは以前には考えてもみなかったことだが、恒はある意味人間不信なところがあり、生来駆け引きを得意とする子供で、心理戦が巧みだという性格は変わらない。

 かつてはマインドブレイクのイロハを教えた織図に対しても、今では油断のならない神へと成長しているだろう。

 どうやってか極位級のマインドギャップを備えた恒に対し、たかが子供と侮る事はできなかった。


 ところで恒はどういう立場に置かれているかというと、比企がその身柄を所有しているアカデミーの特待生として在籍している。

 恒は以前、ユージーンと合法的に師弟関係を結んでいたものだが、ユージーンの記憶がありとあらゆる者たちの中から消え去っているので、比企にその役割が継承されたようだ。

 ところが比企は極位を獲得するだけの実力がありながら、いかんせん人望がないというか、支持率の面で師となるための条件を満たしておらず、恒を弟子とすることができなかった。

 いわば比企の所有物として神階に留まることが許されている恒が、この二年半、どのような生活を送ってきたのか、織図は詳細を知らない。

 恒からしてみれば、親しくしていた織図が突然疎遠になってしまったように寂しく感じたことだろうが……。

 その理由を話してやることすらできず。


 織図はこれまでの態度を疚しく思っていたので、連絡を取るいい機会だと思い久しぶりに恒に電話をかけはじめた。

 恒は比企の部屋で極位戦の中継をくいいるように見ていたことだろう。

 比企の勝利を見届け、ヴィブレ=スミスの敗北を受け入れるしかない状況で息子の恒が何を思うか……彼の傍にいてはやれないが、せめて話し相手にはなってやりたかった。

 電話はすぐに繋がった。

 恒はいつも、依存症のように携帯を肌身離さず持っている。

 そう、ユージーンの携帯をだ。

 だが彼は、その持ち主が誰であったかという記憶を失っている。


「よう、久しぶりだな恒。見てたか」


 観戦していないとは思えないが、軽い口調で織図は話しかける。

 ややあって、言葉に詰まるように、声が返ってきた。


『はい、見ていました』


 恒は12歳となり、神としては少し早く、人としては十人並みに声変わりをはじめている。

 血は争えないもので、ヴィブレ=スミスの声とすっかり似てきた。

 そのせいか織図は、電話越しに恒の声を聞くとヴィブレ=スミスと話しているように錯覚することがある。


「お前、段々オヤジに声が似てきたよな。頼もしくなったもんだ」

『そうでしょうか』


 受話器越しに声を聞くだけでは、何もわからない、分かってやれない。

 抗-絶対不及者抗体の恒を襲う不断の恐怖、そして孤独を癒してやることなどできない。

 いつか全てを話して恒に謝らなくてはならないと、織図は恒に電話をかけるたび心が痛む。


「どうだ、元気にやってるか? たまには母ちゃんとこ、帰ってやれよ」


 織図はINVISIBLEの収束などというニュアンスを含まないような、あたりさわりのない話題を選ぶようになって久しかった。

 恒は織図と世間話をしたい訳ではないだろう、そんなことは織図にも分かっていた。

 また織図と以前のような信頼関係を結びたいと、恒はそう思っているだろうが、恒と会うわけにはいかないのだ。


『織図さん。そこに行ってもいいですか?』


 織図はその痛切な願いを聞き、じっとりと手の中に汗をかいた。

 情に流されて、頷いてしまいそうだった。


「……残念だが俺がいるとこは神階じゃねんだ」


 陰陽階の中央に位置するこのスタジアムは、恒のいる空間とは異なる亜空間にあったので、織図はそれを理由に断る。

 異なる空間へは、超空間追跡転移をマスターしていないかぎり追いつけない。

 比企の部屋から、恒が織図のアトモスフィアがどこにあるという詳細を察しているとも思えなかった。


『わかっています。行ってもいいですか?』

「いや、無理だろ。どうしたんだ? 切羽詰って。話してみろよ」


 振り返ると、恒はそこにいた。

 織図の気配の所在を異なる空間から特定し、超空間追跡転移を、難なく使いこなして――。

 恒はいつでも織図と会える状況にあった、織図が拒絶さえしなければいつだって飛んできただろうに。

 そう思うと、織図は彼にしたことの惨さを思い知った。

 恒のアトモスフィアは以前のようにあるかないか分らない程度のものではない、今やはっきりと可視化されるまでになった。

 測定すればフィジカルレベルは2万は超えているかもしれない。

 位神として即位するにも十分なポテンシャルだ。

 織図はその存在感をひしひしと感じている。彼は確かな成長をみせていた。


「恒!」

「……父の遺書が届きました、たった今……」


 恒は織図の様々なしがらみなど知らない。

 織図の懐かしい顔を見るなり今にも、飛びついて泣き出しそうだった。

 鳥肌が立って小刻みに震える腕を、差し出して織図に見せた。

 逞しく成長した腕に神語で、みみず腫れのような赤いメッセージが浮かび上がっている。

 恒は今や完全に神語を識字できるようになっていた。

 ヴィブレ=スミスが最期に恒に送ったメッセージはちんぷんかんぷんではなく、確かに恒の心に届いていた。


“私は舞台をしりぞく。苦しめてすまなかった”


  ヴィブレ=スミスは位申戦のさなかに敗北を悟ったとき、生涯の幕引きをする覚悟を決めていたのだろう。

 恒にしか分からない方法で密かに届けられたこの遺言を、彼は比企や比企の使徒に打ち明ける事ができなかった。

 恒はひとり比企の部屋にあって、どうしてよいのか分からなかったに違いない。

 そしてどうしようもなかった。

 マインドギャップが10層あるからといって、鋼のような心を獲たわけではない。

 織図は何も言わず抱き寄せ、恒を黒衣の中にしずめた。


「なあ、恒。親父は比企に引導を渡される事を、どこかで望んでいたのかもしれないぜ……? お前にとって、いい親父じゃなかっただろうが、最後は水に流してわだかまりなく、送り出してやれよ」

「はい……。俺、憎んでいたのに……」


 しかしどんなに憎んでも、ヴィブレ=スミスから縁を断ち切ることはできない。

 彼は恒をモノとして創造し、利用し、最後に彼の罪の深さを識った。


「ああ、分かってる。でもお前はきっと、悲しいんだ……」


 恒のマインドギャップは恒が申告した通り、10層だった。

 織図は恒を疑ったことを死にたくなるほど恥じながら、2年半も彼に手を差し伸べなかった事を猛烈に後悔した。

 万雷の拍手の中、噎せ返るような熱気の中で、12歳の少年は今はただ、声を殺し嗚咽していた。



 空間の断片をのみ糧とし、自己を極限へ解放し肥大化させてゆくこと。

 終わりなき極大のベクトルに向かって、突き進み続けること。


 空間の中に、溺れてゆくということ。


 彼が呑み込んだ空間の総和は、生物階のそれとほぼ同じ体積にまで達しようとしていた。

 彼はこの頃から、ひとつひとつの空間と融合する度に、耐え難い苦痛を感じるようになっていた。

 苦痛とはいっても、実体を失い痛みを感じる神経などないのだから何も感じる筈はないのだが、空間の断片と融合を続けた代償は確実に支払っていた。

 彼はINVISIBLEのように空間を咀嚼せず内容物を変えない、つまり融合方式での空間拡大を狙ったため、その胎内に同時に複数の物理学的法則を抱え込むこととなった。

 複数の物理学的法則は一度には成立できない。

 背反する法則の矛盾をいくつも内包すれば、胎を食い破られ引き裂かれそうな感覚に陥る。

 彼が空間融合を繰り返す行為は妄執にも似て、巨大なマクロファージのように見えない手を伸ばし周囲の空間を盲目的に手繰り込む。

 それはもはや、彼の意思とは連動しないものとなりつつあった。

 彼はただ暗闇の中で何万回、何千万回と単純な動作を繰り返すだけだ……。

 孤独な虚無の空間は、雨粒がやがて巨大な湖となるように次第に膨れ上がっていった。


 極大は極小へと転じる。


 有限の肉体を持つ者にはその意味を、思い知る機会などない。

 しかし彼は感じていた。

 体液の中にたゆたう細胞のたった一つが決してその全体と、その意思を知ることがないように、あるいはそれぞれの創世者たちの営むこれらの空間も、何か巨大な“全体”の中の一部に過ぎないのではないかと。

 だとしたら、もし巨大な全体の中の一つだとしたら、この空間は一体何に喩えられるだろう? 全体の調和を乱す、一つの個。

 もっと大きく、もっと強く、もっと永遠に……そう願う機械的な一つの個があるとしたら、何と喩えるだろう。

 強烈な一つのイメージが喚起され、思考系統に連結する。

 彼の意識は空間の体積に応じて、次第に希釈され、無機的に、機械的になってゆく。

 どこまでも広がる水の中では、一粒の水滴が一滴の水滴ではいられないように、そう、彼が彼である部分はいつの間にか端の方から溶けて蝕まれ、薄く薄くなっていった。

 感情や思考能力も殆ど残されてはいない、薄皮を剥ぐように失われてゆく自我。

 そしてやがては消滅するものなのだろう。彼の表層を滑り落ち、意識と自我が壊れてゆく静かな音楽だけが聞こえていた。

 彼は時折思い出したように再生される、壊れかけた記憶の中にかろうじてしがみ付いていた。

 彼は空間開闢の方法をINVISIBLEにではなく彼の父、アルティメイト・オブ・ノーボディに倣うべきだったのかもしれない。

 アルティメイト・オブ・ノーボディは幾度他の創世者から侵略の危機に見舞われても、拡散型の空間運営をせず彼が作り上げた箱庭の中にのみ留まる閉鎖型の空間運営を行っていた。

 今となっては、何故アルティメイト・オブ・ノーボディがそのような手段を取ったのか理解できた。

 拡散型の空間運営を行う事は、創世者の意思、自我をも希釈してゆく事だと分かっていれば。ノーボディはそれを畏れ、敢えて手ごろな大きさの空間を創り出し閉鎖型の空間運営を続けていたのだろうか――。


 そろそろ限界かもしれない。

 あとどれほど……正気を保っていられるだろうか……。


 彼の恐怖を置き去りにしたまま、彼の空間の断端は機械的に蠕動し、突起状の触手を伸ばし、周囲の顆粒状の空間の残渣を取り込んでゆく。手当たり次第に接合し、接着面から融合してゆく。彼の一部分の身勝手な行動を、彼は完全には自律できない。消えかけた自我にとって、徐々に自律が取れなってきているということは完全なる誤算だった。意識が侭ならなければ、INVISIBLEの収束を阻止し、三階に新たな導きを示すことができなくなる。

 

 そして朧げな意識の中で思惟する。


 彼と同じように貪食型の空間運営を行うINVISIBLEの自我は、どうなったのだろう。INVISIBLEは最初、はっきりとした独立自我を持っていたのではないかと思われる。同じ道を辿るのではないか、そう思った。いつか自我が消え、意思なき創世者、INVISIBLEと同じ道を……歩む事になるのではないか。それは、彼にとっておぞましい恐怖だった。


 このままでは……

 いや……止められない


 意識が分割され、思考回路が支離滅裂になっている。彼は断片的に思惟する傍らで、そう危ぶんでいるたった今の瞬間も自らの空間の端が彼の知らないうちに、異物ともいえる断片を飲み込みはじめている事に気がついた。空間の内容物が彼の内側に侵入してきた瞬間、彼はいつにない異変と危険を察した。



 これは、受け入れてはならないものだ。


 そうは思えど、自律がままならずどうすることも出来ない。彼にまだ肉体があったなら、猛毒を飲んでしまったらのた打ち回ってもがき苦しんだだろう。そしてただちに吐き出そうとしたに違いない。だが、ただの空間(胞)となった身体では、どれだけ拒絶したくても、異物を吐き出す事もできず受け入れることしかできない。

 その残骸は……彼の体積と比してあまりにも大きな質量を持っていた。INVISIBLEが何故この塊を噛み砕かずにカプセルのように未消化のまま食べ遺していたのかを、この空間に触れる前に訝ることも、躊躇するだけの理性も残っていなかった彼には判断することなどできなかった。彼の体腔の中で、毒物のような残渣と混じりあい浸透してゆく地獄の感触を味わううちに朦朧としてきて、昏い底へと墜ちてゆく。彼が異物として認識したその空間は時間の流れが著しく異なっており、均一ではない。熱いものが冷たいものの中に流し込まれるように、やがて時間は彼の体腔で均一となってゆき、それらはもとのように熱いものと冷たいものに分かれる事はない。



 数年と思っていた時間は、本当に数年なのだろうか。


 どれほどの時間が、経ったのだろう――。彼の意識が再び表層に浮かび上がったとき、彼は先ほどとは全く異なった時間の流れの中にいた。



 ここは……どこだ? 自分は誰だ?


 希釈されゆく自己を集めて、何か小さい、入れ物の中に入って固まりたい。

 小さな自己に還りたい。止まり木が欲しい、そう思った。


 そうでなければ、生命をありのままの姿で守りたいという願いまでも失くして、

 エンプティ(虚ろ)となってしまいそうだった。


 そして彼は、彼がもともと何者であったのかを思い出した。

 西暦、2007年。あの時代に生きた自らこそが、偽りのレコード(記憶)だったのだと。


 還るべきなのだろうか。

 彼らがまだ、――であったあの時代へ。



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挿絵(By みてみん)

■陽階■ 比企が極陽となり、Vible Smithは崩御。Eugene Mazrowが抜け、下位神繰上げ。初登場9位、10位。

□陰階□ 織図 継嗣が位申戦で紺上を破り、3位AX神として再登録をしました。炬菅 四基は2年前の解階の貴族との戦闘で崩御。 初登場は10位です。

【通名】 生物階での通り名のようなものです。

【置換名】 神語での本名を表意文字である漢字に置換して表意したものであって、漢字の名が本名というわけではありません。

神々は神語での本名を呼び合う事は滅多になく、多くは通名や置換名を使います。

公文書にのみ神語での本名が記載されています。

【S.D】 Standard Deviation(偏差値)です。陰陽を含む全位神(第一種公務員)の中央値を50とした場合の偏差値です。

【P.Lv】 Physical Levelです。特殊な装置により測定された純粋な力の潜在量であり、そのまま神そのものの強さを示します。

陽階7位 Eugene Mazrowは装置の測定許容量を超えたため、実際の測定数値ではありません。

【M.G】 Mind Gapの層数

【P.G】 Physical Gapの層数です。

【A.O】 Apostle Occupationで、使徒数です

【特記】 特殊身分。陰陽間が全面戦争になった場合を想定して置かれた役職です。

執権は全軍の指揮権を持ち、参謀は幕僚部を統監して戦術を立て、兵力を動かすのは司令です。目付は停戦監視役です。

【A.R.】 approval rateで支持率。Pは陽階神からの支持率、Nは陰階神からの支持率です。

↑は前年度と比較して5%以上の上昇

↓は前年度と比較して5%以上の下降

―は±5%内の横ばい状態です

【O.B】 official bird、光獣の種と名前です。


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