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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第64話 The name of Paradise

 錯体研の大学院生、築地 正孝と長瀬 くららは、国際学会ののち遠方まで足を運んで、スイス・ジュネーブ郊外のとある施設を訪れていた。

 稼働直前の、CERN(欧州原子核研究機構)の一大研究施設、世界最大のLHC(大型ハドロン衝突型加速器)の見学のためにだ。

 長瀬の持っていたパンフレットを見れば、のどかな田畑の中に横たわるように敷設されている。

 あまりに巨大なため、それはフランス国境にまたがっていた。

 大人気のLHC見学ツアーに参加していた二人は、野外でひとしきり写真を撮ったあと、その壮大さにため息を漏らした。


「大きすぎてもはや外周がわかんない、山手線の全周に匹敵する長さだって。向こうはフランスなんだよ」


 LHCは巨大なループを成しているのだが、外周27kmもあるのでその全体像は地上から眺めてもよくわからない。鳥瞰してのみ、その実体が明らかとなるが。


「微妙にカーブしとるんやな」


 カーブしているといっても、築地の目にはほぼ直線のように見える。


「地中にあるんだよ。だから外から見えるのは本体じゃないの」

「で、見どころは?」


 ループ状の施設は、言ってしまえばただのパイプであり直線。

 何時間もかけてやってきた割に、見所がないとなるとあまりに地味だ。世界最大の大型ハドロン衝突加速器。ループ内を加速させた7テラボルトの陽子ビーム同士を正面衝突させることにより、そのとき人類は14テラボルトという地球最大のエネルギーを、この場所で観測するだろう。


「まあ個人的な興味もあるんだけど、それは口実」


 二人は係員らによって10名程度のグループに振り分けられ、案内係の指示にしたがってヘルメットをかぶり、見学ツアーへと地下へと降りてゆく。

 夏場だが、地下はいやにひんやりと感じられた。

 排熱のために冷却されているのだろう。


「貴重な見学チケット、もらえてよかったねえ。ウツボカズラ先生に感謝しなきゃ」


 相模原教授の名が知れていたことで、見学チケットは教授のコネで簡単に入手できた。

 LHCの稼働が始まれば、放射能汚染などのため地下施設内へは原則立ち入りできなくなる。

 そして今後10年は、一般公開されないだろうと言われていた。

 そう思えばまたとない見学の機会だな、と築地は長瀬についてきてよかったと思い直す。


「しっかし錯体研がまさかCERNにコネがあるとは」

「比企さんの一件以来、教授はすぐにCERNとNASAをはじめ、各研究機関に書簡を送ったからね」


 また、各国研究機関から相模原教授に対しての問い合わせもひっきりなしだった。相模原研は欧米やアジアからのみならず国内からの9名の留学生、および客員研究員を受け入れたし、人数も一気に増えてうらぶれていた錯体研が今や、世界的な興味が注がれている研究室となった。

 また、学部3年生の間では、第一志望に相模原研の希望を出す学生が圧倒的だったという。

 このぶんだと、来年からの学生の確保も安泰だということで、そういえば相模原教授もほくほく顔だった。

 それにしても……築地はある言葉がひっかかる。


「なんやのそれ、教授が比企さんのこと内通してはんの?」

「してるよ。ただ、比企さんの詳細は明かしてないみたいだけど。比企さんは一応、彼にその気がなくても人類の脅威だから」


 比企に悪気や野心がなかったとしても、彼が危険な存在であるということには変わりない。

 相模原教授は、宇宙人が現れたとメディアに触れ回ることはなかったが、世界の脅威と判断した以上、比企の存在を各国機関に黙っておくつもりはさらさらなかった。

 という話を、長瀬は教授から聞いている。


「しかし教授、勇気あるなー。内通しとるゆーて、マインドブレイクで筒抜けやん」


 顔を合わせた瞬間に、教授は比企に看破される。

 そして教授の裏切りを知った比企は、教授をどうするだろうか。

 教授を殺して……とはいかないだろうが、少なくともマインドイレース(記憶削除術)という業があるらしいので、記憶をすっかり消されてしまうような気がする。

 そして比企は二度と、教授を信頼しない。

 しかし長瀬によると、そこは大丈夫のようで。

 あれ以降、教授は忙しいだの何だの言いながら、直接比企とは会っていないのだそうだ。

 比企も神階の掟で、そうそう地上には降りられないという話だった。

 だからマインドブレイクはされてない筈だと。

 教授は電話やメールで用事を済ますようにしている。

 それに万一内通してるのがバレて、例えば殺されたとしてもそれは本望だと、彼は覚悟を決めていたのだそうだ。

 男気あふれる相模原教授を、築地は人として誇らしく思う。

 しかし長瀬はそんな裏事情まで知っていたのか……。


「はー。どえらい人やで! ウツボカズラ教授は! 絶対ノーベル賞とらはるで」

「ノーベル賞って、評価されるのは数十年先だからね。まあ将来、楽しみにしておこうよ。そして相模原教授の意向を受けて、CERNの水面下では……とあるプロジェクトが加速してるよ」

「とあるプロジェクト?」


 相模原教授の情報を受け、世界中の科学者たちが水面下で活発な動きを見せている。


「2000年代前半からCERNが取り組んでいたのは、グリッド・コンピューティングというプロジェクトだよ。それを更に、急ピッチで強化してるんだ」

「わからへん」


 降参するのが早い築地である。長瀬の説明によると、グリッドコンピューティングシステムによって、世界中のコンピュータは並列に連結されるのだそうだ。

 以前はごく限られた科学者やボランティアの間で行われていたプロジェクトであり、その計算能力を以てビッグバンの謎を解明するという話だった。

 もともと科学的ストレージやネットワークのために構築されていたそのグリッド・コンピューティングを急遽神階対策に活用する。グリッドのためのソフト”EDENエデン”は、インターネットにアクセスする民間人の全コンピュータに、ウィンドウズやマッキントッシュなどのOSオペレーションシステムソフトアップデートの更新プログラムを装って自動インストールされるようになっている。

 個人の同意もなく、ほぼ強制的にだ。

 オフライン環境でなければ、ほとんど全台のコンピュータにインストールされ、世界中のコンピュータの一台一台が、並列化されたスーパーコンピュータの一端を担っている。

 それを、人々は知らない。

 情報処理に明るい人間の中には勘付いた者もいたが、それを公表しようとして悉く握りつぶされた。


 ひっそりと、だが確実に。

 長瀬のパソコンにも、築地のパソコンにも、至るにインターネットカフェのそれにまで、知らぬうちにEDENはインストールされているとのことだ。

 そして、並列化された大規模計算がバックグラウンドで行われている。

 その情報処理量は……有史以来最大、約600エクサバイト(EB)/年となっている。既にだ。

 それだけの計算能力を以って神へと高々と突きつける、楽園(EDEN)という名の、人類からの挑戦状。


 アダムとイブの子を。人類を見くびるにはまだ、早いと。

 プロパガンダを天へ衝きあげるための。

 世界は確実に、半デジタル世界へと移行しつつあった。


「それ、完璧にプライバシーの侵害やん。国際法に抵触しとらへんのん? そうまでして……そのバカでかいコンピュータに何の計算、させよん」

「それこそ私たちには教えられないでしょ。特に、比企さんと接触できる私たちはね。でもそれがLHCに関係あるっていうから、見に来たんだ。……私はね、ツッチー。楽しみなんだよ」

「何がよ?」

「神々に一矢報いようと、グリッドによってできる超巨大コンピューティング。その中を駆け巡る膨大な量の情報はミクロからマクロになる。そのとき、コンピュータに何が起こると思う?」


 きらきらと輝く長瀬の瞳がまぶしい。

 科学者がときに優れた哲学者であるように。

 あるいは現実の科学がSFを超える瞬間を、彼女は切望している。


「私たちは自我を持っているでしょ。でも、それは突き詰めるところ0と1に還元される、単純なシグナルのネットワークなんだ。でも超越的な計算能力を持っている」

「せやな」


 加速器のパイプがゆるりと弧を描き繋がる施設の奥へと歩みを進め、頷きながら、築地は凍りついてゆくのを感じていた。それはLHC施設内の冷気だけではない、総毛立つ。


「たとえばだよ、ツッチー。もっともっともっと、もーっと高性能なコンピュータができたとして。そのときって……コンピュータに、自我は芽生えるのかな?」

 

 ぴたりと、長瀬の足が止まる。彼女の瞳は、もはや笑ってなどいない。


「……わからへん。長瀬、でもそれ……そんなコンピュータの化け物が暴走したらえらいこっちゃで」


 一つだけ、それはあまりにテンプレすぎる懸念だった。




 アルシエル=ジャンセンは夢うつつで、水滴が規則正しく滴る音を聞いていた。

 体中に鉛が穿ちこまれたように重い、瞼を開きかけては閉ざす。


 彼女の睫毛の上に何かが覆っている。

 目隠しをされているのだろうか、目を開けていても無駄だと気付いた。

 彼女が意識を失ってからこうなるまで。

 彼女の身に何が起こったのか、思い出したくもなかった。

 アルシエルはじわじわと、両手の感触を確かめる。

 手首は金属質の環のようなもので束ねられ戒められ、高く吊られているようだ。金属を千切ることはわけもないが、どうやらアルシエルの怪力に耐える特殊鋼で出来ているようだ。

 もがこうとしても、びくともしない。

 苛立ちは綿のように募るなか、次第に全身の感覚が戻ってくる。

 腹部にも特殊鋼が一本、ご丁寧に填められてぴくりとも動かせない。

 ふと、彼女は身近に息遣いを感じた。

 彼女の意識が戻るまで、誰が傍で待っていたのだろうか。

 彼女にはわからない、いずれにしろ視界はゼロだ。


「いかがですかな、陛下。お気に召していただけましたでしょうか」

「……さすがに時と場合による」


 声質からルシファー=カエサルの存在を覚りつつ、そんな冗談を言っていてよいものか、彼女は苦笑した。

 楽観思考はしないが、悲観的にはならない性格だ。


「それは結構。いやはや何よりですな」


 アルシエルは彼の声を聞いて脳が何かの刺激を強めたのか、急速に正気と忌まわしい戦闘時の記憶を取り戻してくる。


 そうだ。

 あれから、アルシエルが放った攻撃は彼の身体に届いていたのだが、彼の体細胞は癌化しており致死的なものとならずすぐに回復し、スタミナも切れなかった。

 そんな不毛な戦いを何時間も続けているうち、遂にアルシエルは致命的な隙を生んでしまった……たしかそうだったと彼女は思い起こす。記憶は定かではない。


 彼女はルシファーが拳を振り下ろす光景を見て以来の意識がない。

 当然殺されたのだろうと思っていた、だがどういう訳か、再び目覚めることとなった。状況より察するにここは ルシファーの城で、アルシエルは俘囚とされたのだろう。戦闘で被った傷はまだ癒えていないが、傷口はすべて適切に処置をされているのが分かる。殺されず辱められ生かされ、晒し者にされているのだと察しがつく。彼女にとって許しがたい屈辱。

 アルシエルは目隠しをされたまま頬をほてらせながら、単刀直入に尋ねる。


「何故余を殺さぬのか」

「貴方を殺すのは惜しいからですよ。それにアビスの民は女皇 アルシエル=ジャンセンの死より、誇り高き女皇が命を惜しんで生き恥を晒し続ける方がよほど幻滅するでしょう?」


 何という見下げ果てた奴だ、とアルシエルは怒りのあまり歯軋りをする。

 それはメファイストフェレスの指示なのか、ブラインド・ウォッチメイカーの命令なのか、はたまたルシファーの趣味なのかは分からない。

 ただルシファーはアルシエルに対して、生殺与奪の権限を持たされていること変わりはなさそうだった。

アルシエルが囚われた様子を楽しんでいるのか、真っ暗な視界の外から彼が愉快そうに哂うのが聞こえた。

屈辱を甘んじて受けるほど、アルシエルは落ちぶれても老いさらばえてもいない。


「何を勝ち誇っておるか。汝が手を下さぬなら、余が自害するまでだ」


 彼女はまるで他人事ひとごとのように淡々と言い放つ。


「お心がけは立派だが、自害なんて出来ないようにしておきましたからね。貴方は囚われたまま充分な食事を与えられ、健康的に、天寿を全うされるまで飼育されるのです。愛玩動物として、私が最期まで看取って差し上げます。みじめな最期をねぇ……」


 自殺が出来ないようにというのがどのようにしてなのか分からないが、少なくとも彼の見ている前で自殺は出来そうにもなかった。

 心肺モニターも取り付けられているのかもしれない。

アルシエルが舌を噛み切ろうとしようものなら、彼は遠慮もなく彼女の口の中に手を突っ込んでくるだけだ。

それに、彼女自身、今更舌を噛んだぐらいで死ねるような気はしない。

 それほどまでに解階の医術は発達しているからだ。解階の住民の肉体は総じて遺伝的に強化されており、生物階の常識で考えてはならない。

 そう、多少のことでは死なないのだ。


「汝は……狂っておる」


 アルシエルは身の毛もよだつような言葉から彼女の身を守るように、彼の狂気を唾棄した。


「つれないですな。すぐに私なしでは生きられないようにして差し上げます」

「薬物に溺れおったのだの……」


 どうやら薬物濫用に加え、ブラインド・ウォッチメイカーに身も心も操られているといった方が正しそうだ。


「千の男の身体を知ったという貴方を、心ゆくまで貪らせていただきますよ。そのふくよかな唇、艶やかな毛、細い腕と脚の曲線など、堪えられない」


 その鬼畜じみた異常な言動全てがルシファーの本心からの言葉ではないと、アルシエルは気付いていた。

 たった今も何本か薬物を打ってきたのだろう。

 彼と拳を交えた時より強い興奮状態にあるような気がする。

 理性をどこかに置き去りにしたまま狂気に侵食された彼はアルシエルにとって蔑むべき、あるいは憐れむべき者でしかなかった。

 そしてアルシエルが千の男の身体を知ったというのは誇張でも何でもなかった。現にアルシエルは全て違う相手との間に98名の子孫を残しているし、彼女の長い生涯の中で性交渉を持った人数など敢えて覚えてもいない。

 最強の遺伝子を持つ彼女と交わり子孫に優れた血筋を残そうとする男など、掃いて捨てるほどいた。

 彼らはある時は解階の名だたる貴族の貴公子であったり、商人や男妾であったりもした。いつも彼らは女皇そのひとではなく、女皇の血筋を欲しがった。

 そんな彼らとは対照的に、彼女は一度たりとも、愛のない性交はしたことはなかった。


 解階最強の女皇に対して誰がレイプなどできよう。アルシエルは全ての子供達を認知していたが、ただのひとりにも王位継承権を与えた事はなかった。

 皇位は血ではなく力で奪えと、彼女の子供達には常々言い聞かせていた。

 欲深いルシファーは女皇アルシエルをこそ捩じ伏せて、喘ぎ声を上げさせたいと思っていたのだろうか。だがどうやら、彼の目的は性交そのものではなかったようだ。

 

「私はね、あなたの遺伝子が欲しいのではありませんよ……私はもう、生殖能力を失っていますからね。安心なさい、あなたは妊娠しない」

「全身の癌化が進んでいるようでは、快楽をすら忘れたのではないか?」

「ええ、確かに私は快楽を感じません。何も問題ありません。それはただの行為だ」

「では、何故?」

「あなたを絶望させておきたいと、思いましたので」


 アルシエルが男性型個体に対して、性交渉を迫られる恐怖を感じたのは初めてだった。

 彼はどうやらもう、完全に畜生以下の怪物と成り果ててしまっているようだ。

 既にこの男は屍となっているのではないか、とアルシエルは感じた。そして彼が主と仰ぐ、メファイストフェレスは……彼女はまだ彼女として、生きているのだろうか?

 既に生ける屍となってしまっているのではないか……アルシエルは彼女の子らの崩壊に、身を引き裂かれるような苦痛を感じた。


「もうよい……十分だ。汝はもはや、生きてはいない。その脳まで薬物と癌に侵されておるようだ。余は汝を憐れむ……そして今ようやく理解した……解階を、そして汝等を守れなかったのだと。我等解階の民は幾千年の時を超えて生きながらえる、だからこそ我等には長きを生きる権利と、神々をも凌ぐ力を持ってしまった事に対する重い責任があった」

「そうですな」


 もはや、アルシエルのうったえはルシファーの心には届いていない。

 ないのだ、心が。響くはずもない。


「我等は創世者を滅ぼすためにその肉体を日々高め、汝もそう努めてきた。汝の過ごした幾千年もの歳月の果てに、辿り着いたのが今の姿なのか。それで誰に顔向けできよう?」


 最高を目指して、辿りついた結果がこれなのか? かつて、生き生きと訓練に励んでいた逞しい青年の姿を、アルシエルは瞼の裏に覚えている。目隠しの外にいるこの男は、あの日アルシエルが拳を交えた彼ではない。

 いつから彼は、薬物に頼るようになった。それは彼の意思によるものだったか、何故と慮るにも空虚感を覚える。ブラインド・ウォッチメイカーが彼をこうしたのか。解階はいつから蝕まれていたのか。


 忍び寄る不穏な足音に、アルシエルは気づくことができなかった。

 彼女の愛し子らを、守ることができなかった。


「もう、言葉も届かぬのか……」


 希望は潰えたのか……。救いはないのか。彼女はそう思いたくなかった。

 アルシエルはここで朽ちるかもしれない。

 解階の守り主、その幹は切り倒され、葉を落とそうとも。


 新しい種は蒔いておいた。

 若芽は育っているだろうか。



 あれから紫檀はまだ意識が戻らないようで、恒は紫檀本人を見舞うより先に、以御と紫檀の妻である廿日に声をかけた。


 恒のせいで紫檀が怪我をしたのだと説明して、彼らに誠心誠意謝罪したが、廿日は恒が謝る必要はないと言った。ただ彼女の夫の軍神に対する忠誠心が強すぎたからだと、悲しげに言った。


 恒と一緒に集中治療室を訪れた朱音は初めて使徒と出会い、以御らと話をして、使徒がどういう存在なのかをありありと理解した。彼等は神の所有物ではないが、それは相利共生であると荻号が説明したように、実際に強く神に依存している。精神的にも肉体的にもだ。


 そしてそんな彼ら、使徒の生き方は、現代の小学生として生きてきた朱音の価値観を根本から否定するものだった。やはり神階ではやっていけない。神階で生きてゆきたくはない、と朱音は強く反発心を抱き、彼等と会ってみてその決意が固まってよかったと思った。そうでなければ、神階についていってまで恒の傍にいたいと、願ってしまったかもしれないから……。

 荻号のように使徒に従属を強要しない神のもとにいることが、一番幸せなのだと彼女は思うことにした。そうだ。彼のもとにいる限り、朱音の生活は何一つ変わらずにいられたのだから。

 彼女が石沢 朱音でいられる場所は、どう考えても生物階以外にない。


 荻号は例の部屋に残ってしばらくデータを洗うと言ったので、朱音はひとまず比企に預けられた。

 紫檀への見舞いを終えると、恒は比企に連れられ、朱音、 レイアと共に比企の執務室に戻ってきた。

 荻号が用を済ませたら朱音を迎えに来るそうだ。

 朱音は落ち着かない様子で、きょろきょろと比企の広大な執務室を見渡している。

 博物館のような間取りに、夥しい書物がところせましと、だが整然と並べられている。恒が一緒にいるので彼女は安心しているが、そうでなければ彼女は萎縮して一歩も動けなかっただろう。

 比企に呼び出された寧々は執務室の戻ってきた人数を数えると、手際良くティーセットを出した。ふたりはソファに座って一段落させてもらって、ありがたくいただく。

 朱音は恒の隣にぴったりと寄り添うと、ひそひそと耳打ちをした。比企の容貌がとっつきにくいので、彼女は普通の音量で会話ができなかったのだ。


「ここ、どこ?」

「神階……まあぶっちゃけ、天国だな」


 他に何と表現すればよいのか、言葉に困る。

 神階は生物階では天国だという説明に落ち着いている。

 実際は雲の上にあるわけでもないのだが……。恒とは初対面だった荻号 要とADAMでばったりと出くわしたとき、彼が神階を天国だと説明した気持ちが恒にはよく分かった。イメージとは違うだろうが、そうとしか言いようがなかった。


「天国には連れて行かないでって、言ったのに」


 朱音は眉を吊り上げて頬をふくらませ、恒を睨みつける。


「だから後で荻号さんが迎えにきてくれるって言っただろ? 大丈夫だって」


 朱音には保護者なんて必要ない。

 そんな、荻号がいないとダメだみたいな言い方をしないでほしい、と朱音は切なくなった。

 しかし神階とはどうやら、こういう世界なのだ。

 使徒は単独行動を取ることが出来ず、必ず神に従属していなくてはならない。

 同学年のほかの子供達より抜きん出て自主性が育っていた朱音のプライドは、深く傷ついた。

 生まれつき定められた身分差であって、朱音の努力ではどうにもならない事だった。

 まさか平成の世に生まれた朱音が、身分差別を受けなければならないとは、つい昨日には夢にも思わなかったものだが。


「恒くんはここにいるの?」

「今はね。いつまでここにいるのかは、わかんないけど」

「お前達、一服したら庭で遊んでいろ。恒はいいが、誰かが突然来るとお前は見咎められる。使徒の子供は特にな」


 レイアをあやしていた比企がまたしても雑談に割り込んできた。

 どうも彼は、恒と朱音の会話に割り込むくせがある。

 使徒の子供が第一層を歩いていてはいけないというのだ。

 比企は建前上は立法神であって、立法神が先頭を切って法律違反をしていては彼の使徒たちにも顔が立たない。

 比企はそういう意味で言ったのだが、しかしそんな事情を知らない朱音は比企の前ではハイと従順な返事をしながらも、内心はこんな事を思っていた。


“やな感じ。威張っちゃって”


 朱音が何か失言をする予定がないかと密かにマインドブレイクをしていた恒は、比企から朱音を庇うように慌てて朱音の前に飛び出した。

 当然マインドブレイクをかけていた比企は冷ややかな眼差しで朱音を見下ろしたが、それについて彼女に直接指摘をすることはなかった。

 恒は比企が冷静な対応をみせてくれてよかった、と心から感謝する。比企が本気で気分を害すれば、一介の少女使徒にすぎない朱音の身などどうとでもなってしまう。

 基本的に比企は、恒たちに善処してくれているような気がする。


「じゃ、じゃあ、俺達は空中庭園に行っています」


 恒は彼女がまだ飲みかけていたカップを無理やり下ろさせると、手を引いて執務室の裏の大温室に連れ出した。

 朱音が恒に手を取られてリードされ、どこかへ連れて行かれるのは今日で二回目だ。


 恒はいつからこんなに積極的になったのだろう、と朱音は、足場の悪い温室の中をつまづきそうになりながら恒に繋がれた手を見つめる。

 戸惑うばかりで、嬉しいとは思わなかった。

 恒はずんずんと茂みの中を分け入ったところで見えてきた白く古いベンチに朱音を座らせ、彼もへなへなと力が抜けたようにその隣に腰を落とした。

 朱音が天井を見上げるとどうやらここは大温室の中心で、白い梁が幾重にも天空に集まって、ガラス張りの天蓋の奥には全面に宇宙の星々が見える。最高のプラネタリウムだ。天井近くまで生い茂る未知の草花や木々、それらが覆いかぶさって、優しい木漏れ日をつくっている。

 朱音はその夢のような美しい光景をひととおり堪能してから、ふとここに朱音を強引に連れてきた恒に向き直った。


「どうしたの? あわてて。私まだ紅茶飲んでたのに」

「さっき、心の中で比企さんの悪口言ってただろ。神の前で悪口を考えるのは、やめたほうがいいよ。特に比企さん、偉い神様なんだから……」

「どうして? 何で恒くんがそんな事わかるの?」


 朱音は比企への不満を、口に出して言わなかった自信がある。恒は朱音の何を聞いていたのか?


「神は相手の心が読めるから。口に出してもアウトだけど、口に出さなくてもアウトなんだ。つまり、考えちゃいけないってこと」

「じゃあ、恒くんも読めるわけ?」

「少しね」


 恒は白状するしかなかった。彼女の今後のためだ。

 彼女は今後荻号と行動を共にする事になる、これを知らないと致命的だ。

 荻号は面倒だからといって格下の相手には看破をかけないこともあるようだが、神がマインドブレイクを使うという事を知っているのと知らないのでは心構えと対処方法が違う。

 朱音にも真っ向から悪口を思う事は控え、視線を外すぐらいの対策は取って欲しい。

 案の定、朱音の表情はこわばり、恒の言葉を聞いて鳥肌が立ったようだった。

 彼女はぱっと両手で顔を覆うようにして、ベンチの上でダンゴ虫のように丸くなった。


「やだぁ……。どうやったら読まれないようになる?」


 その姿が滑稽だったので、恒は、思わずふき出してしまった。


「もう! 笑い事じゃないのに」

「ごめん。対処法ちゃんと教えるって。ヘルメットみたいなものを、頭にかぶってるのが一番なんだけどな。そんな風に顔を覆ってもいいけど、手軽に出来るのは目をそらすことだよ。ほら、俺こっちむいてるから、そんな笑える格好すんなよ」


 恒は朱音を気遣ってそっぽを向いたが、朱音はそんなのは嫌だと思った。

 これからずっと、恒と面と向かって話すことが出来ないなど……こんなに苦しい思いをするぐらいなら――。


「心を読むのって、練習したら私にもできる? 私も出来るようになりたい」


 恒は織図に学んでマインドギャップを作ることができるようになったが、使徒である朱音はいつまでたっても神の看破からは無防備で、可哀想なものだ。

 朱音が神として生まれついたら、と考えると彼女の潜在能力は相当のものだ。

 知力も抜群、身体能力も他の子供達の追随を許さない。

 だが残念な事に、彼女は使徒だ。

 神の前では、人間も使徒の心も丸裸になる。

 それで神々は、自らの卑近に仕える部下らにマインドブレイクをかけることによって叛意なきことを確認し、信頼をおくことができた。

 使徒は神階において社会的弱者だ、恒は朱音のいだく真っ当な疑問に答えようとして改めて彼らの立場の弱さを認識せざるをえない。


「どうしてか、神にしかできないんだよ」


 もしそれが朱音に習得できうるものなら、朱音は恒の心を読みたいと願っただろう。

 恒の心の中にいるのは誰なのか、それをすっかり見破ってしまいたいと朱音は願ったが、すぐにそれは出来ないと否定されてしまった。


「恒くんが私の心を読めるんなら……、やっぱり、はっきり伝えておいた方がいいよね」

「……!?」


 恒は瓢箪からコマで、思いがけない展開になってしまって笑顔を引っ込め身構えた。

 いつかは来るかもしれないと思っていたが、こんな妙な間合いから遂に、来ることになるとは。 

 あらゆる手を打ってきたが、今度ばかりはもう避けられない。

 恒は緊張のあまり生唾をのんだ。

 背中越しに、朱音の緊張が高まってゆく様子がわかる。


「だって、そんな大切な気持ちを読まれるのなんて嫌だもん。恒くん、こっち向いて」


 朱音はゆっくりと、視線をはぐらかせていた恒の顔に手を添えて、彼女の方に向かせた。

 やはり言うつもりなのか、と恒は静かに覚悟を決める。

 朱音は恒が何か余計な事を言い出さないうちに、ベンチに腰掛けた恒の前に立って、少し躊躇いながら咳払いをする。

 彼女は頬を真っ赤に赤らめながら、緊張からか、瞳が自然に潤んでいる。

 澄んでよく通る声で切り出した。恒の呼吸が止まる。


「私ね、恒くんが好き。……ずっとね、ずっと前から」

「朱音……」


 春夏秋冬の様々な植物が色鮮かに生い茂るこの楽園のような場所で、夢のような最高のロケーションで、彼女は遂に長年の想いを打ち明けた。

 俺も、と言えたら恒はどんなにか楽だっただろう。

 だがそう言えないのが、恒は悔しかった。

 恒は朱音の向けてくれる恋愛感情が分からない、分からないというか根本的に理解できない。

 大切にしたいとは思っている。

 そしてもし正常な人間の心を持っていたなら、恒が好きだと思える異性、それは朱音以外にはいないだろうとも思う。


 だが神である恒は残念なことに、彼女に対して友達以上の感情に辿り着かない。

 朱音は恥ずかしそうに目を閉じて、どちらかというと怯えた様子で口を真一文字に結んで恒の返事を待っている。

 恒は、彼女のありったけの思いに、全く気のきかない言葉しか返せなかった。


「ありがとう」


 そう言いながら、朱音が好きになってしまった相手が間違っていたのだと、恒は申し訳ないながらにそう思う。

 そしてひょっとすると彼女が恒に対して抱く気持ちは、使徒が神を必要とする感覚と微妙にシンクロしているのではないかとすら思う。

 いっそ嫌いだと言ってしまった方がよいのかとも考えたが、恒自身の気持ちも欺いてはならないと思った。

 彼女の事は嫌いではない、どちらかというと好きなのだろうと思うが、その恋愛感情を理解できない。これが恒の正直な気持ちだった。


「それだけ?」


 朱音は失望したような、そんな口調で問い詰める。


「うん……。何て言ってあげたらいいのか、よく分からない。でも俺は、多分誰かを好きになるってことが出来ないんだと思う。俺がお前を思う好きと、お前が俺に対して思ってくれる好きは違っていて、いつまでたっても俺は、お前の気持ちに追いつけない」


 朱音は寂しそうに口元を手で覆うと、声を落とした。


「じゃあ恒くんはこれからずっと、誰かを好きになることはないの?」

「……そうだと思う」


 朱音は恒の歯切れの悪い返事を聞いて、じわりと目に涙をためた。

 分からないのは、恒の方だ……傷つけまいとして曖昧な態度を取られるぐらいなら、いっそはっきりと言って欲しいと彼女は思う。

 そうでなければ、朱音はいつまでも立ち止まっていて、前に進めないだろうから。


「ひどいよ、恒くん。好きじゃないって、はっきり言ってくれたらいいのに」

「……」


 恒は何かを言おうと口を開くが、答えられない。

 それを見限った朱音は、突き放すようにこう言った。


「もう、いいよ」


 朱音は決まらない棄て台詞を残すと、大温室の敷地の奥に駆け出していってしまった。

 温室の中は有限の空間ではなく、比企が幾重にもセキュリティを強化して迷路のようになっている。

 恒はビンタを食らったように唖然としていたが、嫌な予感がしてベンチを立つと、すぐに彼女を追った。

 しかし本気で逃げようとしている朱音の逃げ足もなかなかどうして、速いのだ。

 更に悪い事に植物が視界を塞ぐように折り重なり、かなり見通しが悪い。確実に迷う。


「待てよ! そっち行くな!」

「来ないで!」


 恒は朱音を見逃すまいとするが、目の前を走る彼女はいくらも走らないうちに突如足を取られて、体勢を崩してコケてしまった。

 恒は朱音が迷子にならないうちに転んでくれてよかったとほっとしたが、彼女の身体は思いがけずそのままがくんと傾いて、真っ逆さまに落ちてゆく、それとほぼ同時に下の方から水音が聞こえた。

 恒が駆け寄ると、崖下には泉が滾々と湧き出している。

 朱音は足を躓かせた拍子に、突如前方に現れたコバルトブルーの泉の中に落ちていったのだ。


 比企が造った泉だから、毒が混入していないとも限らない。

 普段なら頼まれても絶対に飛び込みたくないが、躊躇している場合ではなかった。

 現に彼女は沈んでしまったのか、泡は見えるがまだ頭を出さない。

 恒は彼女を追って仕方なく飛び込む。透明度の高い水の中で目を見開いて朱音を捜すが、水底は見えない、そして彼女の姿も。

 恒はぐいぐいと泉の底に吸い込まれてゆく。

 泉の底は抜けていて、水は滝となって恒を空中に放り出し、そのまま地下水路の洞窟のような場所に滑りついた。

 辺りを見渡すと、やや離れた場所に朱音が蹲っている姿が見えた。

 苔むした岩に不時着した朱音はどうやら無事だったようだが、落ちた時に足をすりむき、少し血が出たようだ。恒は黙って動けない朱音の傍に腰を下ろし、白衣を裂いて彼女の膝に宛てがい、少し意地悪にきつく結んだ。


「痛っ! 痛いよ、恒くん」

「朱音って、走るとすぐコケるよな。お前の場合は土地勘のない場所でむやみに走るなって、昔、言っただろ? だからすぐ迷子になんじゃん。で、見つかったと思ったら泣いてんの。どうしてそうなるんだよ」

「泣いて……ないもん」


 朱音はばつが悪そうに弁解しながら、目じりにぶら下がった涙をさっと拭って恒に小さく舌を出す。

 そうしていると、彼女の脳裏にいつか見た夕焼け空の下の懐かしい光景がフラッシュバックする。

 いつもそうだった、朱音がお決まりのようにかくれんぼの途中で迷子になったとき、恒は誰よりも早く朱音を見つけた。

 どんな場所にいても、恒は朱音を見逃さなかった。

 そんな時、恒はいつも「泣くなよ」と言い、朱音は「泣いてないもん」と言って口を尖らせた。

 それはふたりの間のちょっとした決まりごとのようになっていた。

 それが恒にとって何の気もない行動であったとしても、朱音はそれを事あるごとに思い出しては彼への想いをあたためていた。


 迷子にさえなれば、恒とふたりきりになれる、そんな馬鹿な事を考えたこともあった。

 いつからか恒と朱音は少しずつ成長して、そうやって一日中かくれんぼをする事もなくなってきた。

 ふたりが忘れていた、懐かしい時間が流れていた。


「やっぱりお前、村にいた方がいい。ここにいると、心まで迷子になるよ」


 恒は幻滅しただろうか、と朱音はまた泣きたくなる。

 かくれんぼをしていると無意識のうちにすぐに転んでしまうのはきっと、恒に追いついてほしいからだ。

 鈍くさい訳ではない、彼の起こす奇跡を、ほんの少し助けてあげたかっただけ――。

 彼は神様になってしまったけれど。


「……」


 恒は彼女を立たせようとして、足をくじいている事に気付く。

 気恥ずかしさを押し隠して、彼女を丁度お姫様抱っこのような体勢で抱えた。

 彼女の身体は羽根が生えたように軽く、重さは感じなかった。

 彼女はもともと、特別体重が軽いというわけではない。

 神階は地球ほどの重力はないのだ、彼女の体重も実際に軽くなっている。

 ただそれだけだったが、彼女が翼を持つ使徒であるということを、恒は妙に実感した。

 暗い洞穴の中に、一筋の光と共に透明な水柱が落ち込んで、鏡面のような水面をを騒がせていた。


 恒は光差す方角を真っ直ぐ見つめて、彼女がこれほど軽ければ二人でも充分飛べると見積もる。

 恒は誰かを連れて飛んだことはまだなかったが、まるで羽根の生えたように軽い彼女と一緒なら出来るような気がしていた。

 恒の視線につられて、朱音も上を見上げる。

 出口はあそこだと朱音にも分かっているが、光が差し込んでいる場所までどう少なく見積もっても10mはある。

 そして他に光が差し込んでくる場所は一箇所もない、這い上がれなければ真っ暗闇の中に恒とふたりきりだ。

 それが場合によれば嬉しく感じたかもしれないが、朱音はあの銀髪の少女を見た時以来トラウマがあって暗闇に長時間いると怖くなる。

 出来るだけ早く、光のある場所に戻りたいと彼女は願ったが、そんな中でも恒に謝る事を忘れなかった。


「……ごめんね。私が落ちちゃったから、恒くんまで巻き込んで……しばらくここで待たなきゃいけないね。ごめんね、こんな大変な事になって」


 残念ながら、比企以外の助けはなさそうだった。

 比企がいつか気付いてふたりを見つけてくれるだろうが、少なくとも数時間は待たなくてはならないだろうな、と彼女は心細い。

 しかし恒は頼もしく笑って首を横に振った。


「そんな、全然大したことじゃない」


 恒は彼女をずれ落ちないようしっかりと抱えると、トーン、と岩肌を軽く蹴った。

 朱音は次の瞬間、確かに恒とともに浮遊感を味う。


 それがあまりにも怖くて、きゅっと恒の首にしがみ付く。

 閉ざしていた目を開いた頃には、朱音の足は宙をかいていた。

 水底から放たれる、光のシャワーに打たれ、滝から零れる細かな水の飛沫がプリズムのように舞い散っている。

 彼の放つ仄かな光と朱音に注ぎかかる天井からの光が溶け合い、彼と一つになったような高揚感。そして感じる、恒の温かさ。


「恒くん……飛べるの?」


 恒は何も答えないまま照れくさそうに、しかし優しく微笑んだだけだった。


「ねえ」


 彼女は恒の耳元で甘えた声を出す。それは子猫のように、恒の耳をくすぐる。


「ん……」

「私ね、今やっとわかったよ……。恒くんと私の線路はずっと平行でね、繋がってなんかいなかったんだって……。恒くんは私なんかよりもっとふさわしいヒトが待ってるよ。だから誰かを好きになることが出来ないなんて、そんな寂しいこと言わないで――」


 何だろう。恒は朱音の言葉ですっと息苦しさが消え、楽になった。

 恒は神としても、そしてヒトとしても欠陥品なのだと思い込んでいた。

 恒の全てを受け止めて、恒の全てを肯定しそっと背を押してくれる、そんな存在が朱音なのだと分かったような気がする。

 それが彼女に対する恋愛感情にまで昇華される事がなくとも、朱音の言葉は春の日差しのように恒を温かく包み込んでくれる。

 一言一言に込められた、彼女の飾らない言葉が恒に染み渡る。


 いつかどこかで、恒と朱音を結ぶ長い線路は緩やかな弧を描いて、交わるときがくるのかもしれないと思った。

 たとえそれが今でなくとも。


【現】グリッド・コンピューティング…CERNなどによってすでに実用化されています。

【作】EDEN・・・フィクションです。

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