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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第63話 Departure that no one knows

 かつてユージーン=マズローの記憶素子の一片だった名もなき存在は、アルティメイト・オブ・ノーボディと交わした彼の願いをかなえようとしていた。

 憎らしいぐらい澄み渡った模造の空の下で、吹きすさぶ風に触れながらユージーン=マズローと彫り込まれた墓石の前に膝をつく。

 感慨深げに墓標を眺め幾度となく躊躇しかけていたが、その決意はもう揺るがなかった。


『さようなら』


 彼は届かない遺言を残すと、掌底で墓石を磨くように緩慢な動作で墓碑銘を拭う。

 深く刻み込まれた黒い墓碑銘が剥落してゆくにつれ、墓標というユージーン=マズローの記憶の蓄積回路は破壊され、起動状態を示す青い光を失っていった。

 最後の一字まで名を消し、墓碑銘の下の紋章の中に手を差し入れて硬質の黒い筒を抜き取り、脆く繊細な材質のそれをガラスを砕くようにパキンと真っ二つに折った。

 核を破壊されたあとには、沈黙状態となった名前のない墓石だけが残っている。


 アルティメイト・オブ・ノーボディに願ったユージーンの最後の希望、それは彼という存在を“いなかったことにする”というものであった。


 何者でもない者となる為に必要な手続きは、アルティメイト・オブ・ノーボディの記憶に触れたユージーンの場合それほど多くはなかった。

 現にたった今この瞬間、ユージーン=マズローという存在はアルティメイト・オブ・ノーボディの運営する生命系の記憶のコミュニティから排除された。


 アルティメイト・オブ・ノーボディが結ぶ記憶は、現実の生物階や神階の事象にも影響している。

 ここは恐らく、EVEの一角だ。

 織図の領域を侵して、ノーボディは彼特有の敷地を保有している。

 仮想空間であるこの場所で起こった出来事が、自我を持ち、独立思考を持ち、記憶に頼る生命にとって現実のものとなって反映する。


 生物階はEVEに、そして神々はノーボディに管理されている。

 そこに存在するものが、真の意味で現実を認識できない。

 記憶素子を折ったことで、ユージーン=マズローという記憶の集合体を記載したデータは失われ、その存在の痕跡は現実の空間に反映されありとあらゆる場所から存在の痕跡が抹消された筈だ。

 記憶とは自己を繋ぎ止める拠り所となる頼りがいのある媒体である代わり、自己は他者の記憶の集合体によって他者の中に埋め込まれるように複合的に形成されている、不自由なものである。

 あらゆる記憶と繋がった情報ネットワークを、全て切断して他者の中から解放されればどうなるものか、ユージーンには分かっていた。


 これはアルティメイト・オブ・ノーボディから学んだことで、アルティメイト・オブ・ノーボディは記憶の集合体という生命系から独立していた。

 彼はアルティメイト・オブ・ノーボディの存在する位相と同じ状態を再現しようとしたのだ。そして今、普遍となった彼は仮想空間の中ですらユージーンとして存在する事が許されず、姿を失って見えなくなってしまった。

 彼が消滅したあとに残ったもの、それは――どこまでも透き通るたった一つの眩い光塊だ。

 世界の記述からその名を削除し、三階には誰一人、一柱として、ただのひとつとして彼を覚えているものはなくなった。

 たったそれだけでユージーン=マズローを記載したあらゆるログは失われ、彼は真に“誰でもないもの”となったのである。


 かくして第四の創世者は誕生した。


 彼は認識の枷でつなぎとめていたデータベースコミュニティというネットワークから解放された。

 アルティメイト・オブ・ノーボディの知識と力を得た彼はアルティメイト・オブ・ノーボディの片割れと呼ぶにも相応しいだけのエネルギーを擁し、このときより創世者としての道を歩み始める。

 彼が自己を棄て全能性を得たことと引き換えに、彼が生きた記憶の収まる場所はもはやない。


 彼はアルティメイト・オブ・ノーボディに察知されないうちに、この快適で生ぬるい箱庭から巣立たなければならなかった。

 光子となって彼の視界でも不可視化されたその腕を高くかかげ、頭上に巨大な円を描いた。

 プランク温度(Tp)を以て、空間を不安定化させすっぽりと抜く。

 創世者の存在の擦過は空間の綻びを生む。

 彼は空間を缶を切るように正円状に穿孔すると、その残像は正円の向こうに消えた。


 アルティメイト・オブ・ノーボディの空間を音もなく抜け出し、INVISIBLEの支配の及ぶ直下、一つ上の階層に昇りアルティメイト・オブ・ノーボディと対等な位相で新たな空間を拓こうと企てた。

 虚無の空間へと脱出すると、運び込んだ種火を大切そうに抱える。

 それは、プランクサイズ(10^-35m)にまで超圧縮された、不安定な自身のエネルギーだ。

 原始宇宙といっても差し支えない。

 彼はエネルギー不足で無からの創世を果たすことができないが、この目に見えない小さな塊が、空間の端くれであることに間違いはない。


 彼のほんの小さな空間の欠片は、INVISIBLEの飲み込んだ周囲の空間の切れ端と接合させ、次元を統合してゆくことで、空間の矮小性問題を解決することができた。

 彼が思惟するに、INVISIBLEが膨脹(貪食)型の空間運営を行っているのは、INVISIBLEがもともと力なき創世者であり、インフレーションにより充分な体積を持った空間を自力で生み出せなかったが故のことだろう。


 彼もまたINVISIBLEに倣い、膨脹型の空間運営を試みようとしたが、アルベルト・アインシュタインの破棄した宇宙定数ラムダ(Λ)を敢えて導入した。

 INVISIBLEの創世方法と異なるのは、膨脹しても決して重なり合う他の宇宙を貪食しないという点だ。

 空間を噛み砕き、他に触れるたびに内容物を破壊するのがINVISIBLEのやり方であり、空間は触れ合うたびフォーマットされ続けるのだが、第四の創世者は空間を融合しても、内容を極力変化させない。

 小さな液滴が隣り合う水滴と融合して大きな水溜りを成すように、3年という限られた時間のうちに少しずつINVISIBLEの食い散らかした空間の残骸を集めて融合することができれば、力なき創世者である彼がそれなりに体積を持つ空間を創り上げ、更には三階とも融合を果たし、その内容を一切変えずにINVISIBLEに成り代わる創世者となりうることもあるのかもしれない。

 ゴールはわずか3年後、瞬発力を必要とする方法だ。

 ――彼は闇夜を手さぐりで駆け出した、誰にも看取られることなく。



 何か張り詰めていたものが断ち切られたような、そんな嫌な音が恒の頭の芯から聞こえた。

 心奥に深く張っていた根を千切られ、引き抜かれたような不快な感触がしたのだ。

 胸が痛い。

 それは朱音も同じようで、彼女は肩を震わせて驚いたように周囲を見回している。

 だが辺りには用途不明の怪しい器具が置かれている以外には何もない。


“俺、何をしてたんだっけ……”


 恒はいくら考えても、思い出せない。何のためにか荻号を追ってこの暗く鬱々とした部屋に比企と共にやってきて、そして何故か朱音と鉢合わせになり会話をしていたような気がする。

 荻号に会うよりもっと大事な予定があったと思うのだが、恒は遂にその大切な用事にたどり着くことができなかった。

 恒は違和感を覚えつつ朱音を助け起こして立たせ、先ほどから部屋の中央に重く横たわっている巨大な棺の傍に戻ってきた。彼は棺の傍を素通りして中を覗き込みもせず、完全に恒の視界と意識から外れていた。恒の興味を引きつけない、それは朱音、そして比企も同じで、誰もその棺の中身に興味を持つものはなかった。


 だが荻号だけは違和感の正体が“何か”が何であるか、よほど引っかかるらしく乱暴に首を振ると、不揃いな赤茶けた長髪が神経質そうに肩の上に散った。


「いかん、どうかしてる」

「どうした?」

 端末の前に腰を下ろしていた荻号は、ぞんざいな態度で比企を睨むように見上げる。


「俺は何をしようとした?」

「己が知ったことか」


 荻号の理不尽な問いかけに、比企は何を言っているのだと苦笑する。

 恒は荻号が恒と同じ感覚に見舞われたのだと察して、彼からそれを聞き出そうとする。朱音は比企から預かって、金色の光跡を漂わせながらうつらうつらと眠りかけたレイア=メーテールを抱いている。女神だからというのもあるだろうが、長い金色の睫毛、柔らかなうぶ毛と、よく通った鼻筋、真っ白な指先、薔薇色の唇の愛らしさは朱音を虜にしている。何と綺麗な子なのだろう。朱音は素直に感動していた。


 生まれ持った完璧な容姿は、まさに人間離れしている。恒はこの赤子を抱いてやってきたが、何か恒と関係があるのだろうかと、彼女は詮索したくなる。

 恒はそんな朱音の心配をよそに、荻号に彼の疑問をぶつけているところだった。


「ところで……荻号様はここで何をしていらしたのですか?」

「さあ。何をしていたんだろうな? 走らせているタスクから察するに、これは冷凍プログラムだ。俺はこの馬鹿でかい棺をついさっき、凍結しようとしていた。何故だ? 俺は無駄な労力が死ぬほど嫌いだ、辻褄が合わんこともな」


 彼は途中から、彼のストイックなまでの合理性至上主義をさらけ出していた。

 荻号がこれほど感情を露にすることなど珍しい、と恒は思えど、彼の記憶は荻号 要に対するイメージと混同されつつある。恒は荻号 正鵠の本性を知らない。半ば八つ当たりされそうになった恒を庇うように、比企は口を挟んだ。


「とうとう耄碌もうろくしたのだろう」


 そう言いながらも、比企も僅かばかりの違和感を否定できなかった。荻号に用があったからこそ追跡転移で荻号を追った、だが何の用があったものか彼もまた思い出せない。耄碌したのは荻号ばかりではない、と比企は軽く危機感を募らせながらひとまず荻号を皮肉った。


「俺はお前より断然若いんだ。耄碌するならお前の方が先だろ」


 荻号は比企の皮肉を冷たい切り口で鮮やかに切り返し、首を傾げながら誰もいない筈の背後を振り返った。彼はその場にいた誰もが気にも留めなかった巨大な旧型の生体凍結装置、通称ARKアークに目を凝らした。ついこの間まで、一万年間も荻号が入っていたものだ。

 快適とはいえないが、彼にとっては住み慣れたカプセル。荻号は吸い寄せられるように腰を上げると、柩の側面についていたのぞき窓の霜を指の腹で払い落とし、凍りついた内部を覗く。


 分厚く蒼い氷の中には、プログラムが示したのとは矛盾して、何も入っていなかった。だが凍結中との表示が出てプログラムは動き続けている。

 荻号はいよいよ不気味だと呟いて端末に戻ると、棺の内部モニタの録画映像を逆再生しはじめた。

 実際の時間にして3分も戻さないうちに、突然無人のARKの内部に人影が現われた。それは氷漬けになって死んだように眠る青年だ。


「……誰だ、こいつは。神か? 突然現われたってことは、突然消えたんだな。時系列的に考えて……」

「え? このヒト何ですか? この中には何もいないじゃないですか」


 恒も朱音と視界を分け合いながら小さなモニタのウィンドウを覗き込んだ。

 中で眠っていたのは、どう見ても黒いスーツを着た金髪の青年だった。モニタの解像度が悪くてよくは見えないが、恒は彼と面識がない。朱音も同じく全く面識はないと感じた。

 彼の頭脳という生体ハードディスクに絶対の自信を持つ荻号は、この不可解な青年に関する記憶が剥落したことが許せず、恐らく彼自身が数時間前に実行したと信じているプログラムを、歯がゆそうに目を通している。

 荻号が敗北したのだ、記憶に齟齬があると認めざるをえなかった。


 比企も見覚えがないと横に首を振った。彼は神階に在籍するほぼ全神の容貌を把握しているが、一度も見かけない顔だと結論付けた。

 荻号の眠った一万年前以後に凍結されたいにしえの神ではという推理が当てはまらないでもないが、どう少なく見積もってもここ100年以内にデザインされたと思しき現代風のスーツを着ている。彼はつい現代まで存在していた神であるが、神階所属者ではない。

 辻褄があわなかった、3分前まで中にいたこの青年が、凍結されたまま消えてしまう事についても、説明がつかない。


「藤堂。先ほどお前は、金髪の神はプライマリという、絶対不及者の器となりうると言わなかったか? この男が神なら、彼もプライマリなのではないか?」


 比企はプライマリという存在に注目していたが、恒は青年の持つ容姿的な特徴はこの際いっそ気にもならなかった。

 恒は彼を見た瞬間、初めて会った筈だというのに、心の奥がじんと温かくなったように感じる。


「ええ、そうだと思います。何故でしょう、俺はこのヒトを知っているような気がしてならないんです。ですが……思い出せません、とてももどかしいんです」

「こいつ、神だ。生きてやがったが、脳波がなかった。何だ……? 消えられる訳がない、瞬間移動も脳死状態じゃできんしな」


 荻号は謎の男の生体構造を暴き出した。

 ブラインド・ウォッチメイカーに記憶をいじられたのではないか、恒はそんな嫌な予感がする。

 誰ひとり何も思い出せないのは、そのためではないかと。恒は彼の存在を忘れてしまったが、決して忘れてはならない、恒に縁の深い人物だったような気がする。


「アルティメイト・オブ・ノーボディに訊いてみましょうか」

「……それはまた、ぞっとせんな。あの野郎は都合の悪い事は何一つ吐かんからな。奴には出来るだけ関らん方がいい」


 恒は、アルティメイト・オブ・ノーボディをこき下ろさない方が得策なのに、と反論した。


「そんな、機嫌を悪くするような事言わないでくださいよ。もしかしたら教えて下さるかもしれないじゃないですか。知っていらっしゃるのは確実なんですから」

「恒くん」


 朱音はすやすやと眠りについたレイア=メーテールを抱いたまま、突然興奮して恒に耳打ちした。


「私も恒くんにそう言われたら、このヒト知ってる気がするの。誰なのか全然思い出せないけど。私、忘れっぽくなっちゃったのかな。毎日会ってたような気がするの」


 朱音の率直な言葉が、恒には頼もしかった。

 だが疑問があるとすれば、氷漬けになっている人物は恐らく神であるのに、今日の今日荻号と出会ったという朱音が恒と同じ感覚を持っているということだ。恒と朱音、そして比企の共通の知り合いがいるとすれば、風岳村内に限定される。恒は力強く頷いた。


「その感覚を大事にしていてくれ。他者の中に“その人が生きた”という記憶がなくなれば、その存在は歴史上“いなかった”ことになる。きっとそういう状態なんだ」

「それって、誰にも会わず後世に誰にも発見されずに一生を終えた人は “いなかったと同じ” ってこと?」

「お前らはまた随分と、哲学的で文学的な奴らなんだな。気が合いそうじゃないか」


 荻号は彼の使徒である朱音と恒とのやりとりを興味深げに聞いていたが、ふとそんな指摘をすれば、朱音はおたおたと弁解にはしる。


「こ、恒くんとは、幼馴染でクラスメートなんです。ね!?」

「なるほど。じゃ、幼馴染のよしみで俺なんかよりそいつの使徒になればいいんじゃないか? 年齢も近そうだし。使徒にすると言ったが、別に強制でもなんでもないんだからな」


 荻号は珍しく恒に気を遣って、あるいは面白がってそんなことを言った。

 朱音が恒を好いているのは荻号からすれば一目瞭然だったし、恒も彼女の庇護は、自分の責任だと考えているふしがあった。

 性別のない神とは違い、使徒は人間と同様に豊かな恋愛感情を持つ。

 友達以上の関係であったふたりを、ぽっと出の荻号が引き剥がすのもどうかと彼なりに考えたようだ。彼女が人間であろうと使徒であろうと、いわゆる恋仲には変わりない。

 そしてこの手の純情可憐な少女は、どんな時代でも一概に傷つきやすいものだ。

 政略結婚ではないのだから、使徒が主を選ぶ権利ぐらい充分に保障されなければならないと荻号は考えていた。


「え?! 朱音が、荻号さんの使徒になったの?」


 恒は不意の告白に必要以上に驚いたが、すぐに表情を取り繕う。


「う、うん……なんかそうなっちゃったみたい。あ、でも」


 でも、本当は恒くんのほうがいい……朱音は勿論、口には出せなかった。


「そっか。そうだよな」


 無限ともいえるアトモスフィアを持ち、いつも危なげなく朱音を守れるであろう荻号の使徒となった方が朱音にとってよいのだと、恒は彼自身を無理に納得させた。それに荻号は神籍を除籍されている。

 多くの位神が使徒にそうするような、厳しい主従関係を強要すらしない。

 恒が朱音を使徒とするにあたって唯一のメリットは、他の神々とは違って彼女と対等でいられるということだ。

 その点なら、神籍離脱した荻号と朱音は対等であり、風岳村でなんのわだかまりもなく神階とは無縁に暮らしてゆけるだろう。

 これからどんな運命を辿るとも知れない、3年後の未来ですら不安定な恒の使徒になってほしいという方が間違っていると、彼はよく分かっていた。

 恒はとうとう朱音を守れなかったと、心から懺悔している。


「なに?」

「な、何でもないよ。俺、全然アトモスフィアも力もないから、そっちの方がいいよな。安全だし」


 そんなことを言われたら、何も言えないじゃない……と、朱音は胸が痛くなった。

 ましてや本当は恒の傍にいたいなど、言えなくなる。

 朱音は彼女自身で何ら意思決定が出来ない立場にあることを実感する。

 長女として育ったからということもあるのかもしれないが、彼女は活発に見えて、わりと遠慮したり気を回すタイプだった。

 比企は彼女の恒に対する想いも見抜いていたが、恒が使徒を取ったら困ると、駄目押しするように話をぶった切った。


「藤堂、お前はアトモスフィアもないくせに暢気に使徒を取っている場合ではなかろう。余力のある荻号に任せておけ」

「え、ええ、そうします。荻号さん、朱音が使徒だってこと、村の誰にも言わないであげてください」

「さあな。隠し事はどうにも苦手でね……」


 にたり、と荻号は不穏に微笑む。

 恒はそれを少し歪んだ肯定の意だととらえることにした。


「そんな問題よりだ。俺は少し、こいつの痕跡を洗ってみる。どうもコイツは、一連の事件のキーマンのような気がしてならんからな」


 忽然と消えた、この棺の中の人物が誰なのか……荻号は録画映像というたった一つの手がかかりから何を得るものか。

 そんな映像じゃ分かりっこない、恒はそう思った。

 アルティメイト・オブ・ノーボディに訊いた方が手っ取り早いと思うのだ。

 恒は出来るだけ早い時期に、アルティメイト・オブ・ノーボディを訪ねてみようと思った。



「キミはとてもついてるよ」


 多くの医療スタッフを顎でつかい、血まみれのディスポーザブル手袋を外しながらそう言うのは、医神、陰階神第3位、クラディウス=オウパ、置換名 紺上こんじょう 壱見ひとみだ。

 不ぞろいに梳き切られたコシの細い黒髪と、薄い唇、コバルトブルーの瞳が少年のような残忍さを醸し出している。

 身長は150cmと小柄でありながら、その存在感は他の使徒たちに恐怖心を植え付けている。

 紫檀 葡萄は比企の迅速な手配で、普段はよほど珍しい症例でなければ執刀しない紺上の直々の執刀により緊急手術を受け、一命をとりとめたところだった。


 誰もいないのかと思われるほどに静まり返った集中治療室には、実際には30名を超える使徒が働いている。

 物音や私語が一切ないのは、医神下使徒達が彼女の存在に気圧されしてピリピリとした雰囲気に包まれているからだ。

 紫檀 葡萄は麻酔により意識がなかったが、彼が聞いていようと聞いていまいと構わず彼女は耳もとで紫檀に語りかける。


「極陽の命令でなければ、ボクは救命なんて引き受けたりしなかったんだよ」


 彼女は比企が天奥の間から極陽の名で下した勅令を、極陽からの要請だと信じ込んでいたので執刀をしたが、そうでなければ言うまでもなく彼はあの世行きだったことだろう。


「そこのとこ……分かっているだろうね?」


 彼女は言葉遣いのみならず1927歳という歳のわりに、いつまでも少年のような格好をして落ち着きがない。

 だが彼女がこれまでに執刀した症例数は軽く20万例を超えている。

 感心なのは、彼女が救った命もほぼ20万名だということだ。

 手がけた症例数と完治率が一致するという点において、神格的な欠損には目がつぶられてきた。

 彼女いわく、“壊れたものを治すのが好き”だというのだから医療倫理もへったくれもないのだが、700年以上もの在位期間中一度も、彼女は医神を追われたことはない。

 使徒達も定期的に行われる所属位神の信任投票で不信任を投じることもなく、したがって罷免もされなかった。残念なことに、腕だけは確かだったからだ。


 彼女は珍しい症例を好むため、患者がいくら彼女の診察を希望しても彼女の興味を引かない症例だとあっさりと断ってしまう。

 そんな難病の患者難民が、かつては外科医であり闇医者であった荻号 要のもとに流入していた。

 彼は紺上とは対照的に、症例が珍しかろうとそうでなかろうと、患者を選ばなかった。

 したがって、荻号が失踪してより荻号にかかっていた患者がどっと紺上のもとに駆け込んできた。

 そんな多忙な中での、紫檀の受け持ちである。

 彼女は面倒だという態度を、隠しもしなかった。


「キミたち、このコの腕が生物階のどこかに転がっているだろうから、捜してきておくれ。まだ使えるかもしれない」


 彼女がそう言うのは、紫檀の手首に填められていた制御装置の微弱電波ビーコンを、入階衛星が受信し続けているという情報があったからだ。

 紺上は再生医療で紫檀の腕を再生させるのは可能だ、だが時間と手間がかかる。

 彼女にとっては面白くもない負傷者の為に、これ以上手間を取りたくないという本音は、そこにいた使徒達の誰もが感じ取っていた。


「バトルフィールドは海上だったって話だけど……海に落ちて魚に食べられてなければいいよね、キミの腕」


 屈託のない微笑みで、彼女は少しも笑えない言葉を投げかけた。

 彼女の使徒達が数名、紫檀の腕の捜索の為に集中治療室から出てゆこうとした時、長身の男と妊婦らしき女が彼等を押しのけるようにして駆け込んできた。

 男は紺上を目ざとく見つけると、彼女の正面に滑り込んで片膝をつく。

 女はふらふらとよろめきながら、彼に続く。


「お初お見えいたします、私は軍神下第一使徒、響 以御にございます。このたびは私の部下に、格別のご高配を賜りまして……」

「死ねばよかったのに……」


 ボソッと漏らした本音は、静まり返った部屋ではっきりと、廿日の耳に届いていた。

 だがどこか茫然自失として現実逃避をしていた彼女はそれを受け流す心のゆとりがない。

 廿日の代わりに苦言を呈したのは以御の方だ。


「不出来な部下とはいえ、畏れながら、お言葉が過ぎるかと」

「……なんて、言えないからね。極陽には。そっち、このコのお嫁さん?」


 以御は不快感をあらわにしたが、命の恩神に感謝以外の感情を向けるのは許されない。

 ともあれ紫檀は一命を取り留めたと聞いている、以御は憤慨しながらもそれで充分だと思うことにした。


「じゃあ一応、説明をしとくかな。重体もいいところだったよ、キミの旦那。ボクじゃなきゃ、助けられなかっただろうね。そりゃ、荻号 要クンなら出来たかもしれないけど? あいにくどっか行っちゃったみたいだし」

「主よ、夫の容態はいかがで……」


 廿日は緊張で激しく胸を打ち鳴らしながら、肩で息をしている。


「今ボクの部下に腕を捜させてるけどあればそれを繋げるし、なければ義手を造らせる。翼は失ったよ、両方ともね。可哀想に、キレイな紫の翼だったのにね。そうそう、臓器からの出血も止まってるよ。命に別状ないだけでも感謝してもらわないと。それに翼がなくなっても、働けないわけじゃないだろ? 働き盛りなんだから、働いてもらわないとキミも困るだろうし」


 妻の前でこの言いぐさ。以御ははらわたが煮えくり返る思いだ。

 女神は以御が腹を立てる様子をマインドブレイクで看破して、くすくすと笑って面白がっていた。

 しかし廿日は以御と違って、安易に腹を立てはしない。

 彼女はいかなる侮辱を受けたときにも、使徒として神に礼を尽くす。

 使徒の鑑のような女使徒だ。


「主よ、感謝いたします。私は夫が何を失っても、命さえあえれば他には何もいりません。主には何と御礼申し上げてよいか。もしご存知ならお教え下さい。夫の身に、何が起こったのですか」

「さあ? 極陽からは何かと会敵したって聞いてるけど? 目が覚めたら旦那に直接訊いてみれば? それからキミの旦那に、中途半端な実力で戦闘に関わるから、こんな事になるんだって叱った方がいいよ。きつくね」


 紺上は語尾に、ちくりと嫌味を付け加えるのを忘れなかった。

 紺上がいつからひねくれた性格になってしまったものか誰も知らないが、過重労働を何百年とこなしてきた彼女のストレスは、とうに限界に達してしまっているらしかった。

 廿日は紺上に促されたので、恐る恐る立ち上がりベッドを覗き込んだ。

 紫檀の肩から下は布団がかけられているためその惨状はよく分からないが、意識のない夫と対面を果たし、彼女は胸がいっぱいになった。

 せめて手でも握っていてあげたいと思えど、両腕を切り落とされて握る手がないのだと気付く。


「……あなたは立派よ」


 廿日は涙ぐみながら、そう言うだけで精一杯だった。


「まだ意識はない。でも、聞こえてるかもね」


 紺上はそう言い残すと、仮眠を取るため集中治療室を出て行った。

 廿日は任務に忠実であろうとした夫を誇りに思うと同時に、心の片隅ではやはり妻として、任務に背き交戦せず逃げ帰ってもよいから無事に帰ってきてほしかったという思いが交錯していた。

 しかし彼女の夫はいつだって、廿日や子供達より彼を地の底から引き上げてくれた主である軍神の方が大切なのだ。


 先に紫檀と出会って彼を認めたのは廿日だったが、彼は軍神に格別の思いを持っている。

 二言目には軍神の話をはじめるので、廿日はいつも夫を軍神に取られたような気分になったものだ。


 神の最も至近に仕える十大使徒の一角が、彼の命令に従ってこうして生死を彷徨うほどの重体となっているのだから、軍神にも見舞いに来て欲しいのにと思ったところで、廿日ははたと気付いた。


“待って……主って、軍神って誰?”


 廿日は信じられなかった。

 何十年も仕えた筈の軍神の顔も名前も思い浮かばないなど、一線を退いたとはいえ、記憶がないでは済まされない由々しき問題だ。

 しかし考えても、考えても、一向に思い出せない。

 廿日は夫の忠誠心とひきかえ、何という醜態だろうと激しく自責したが、それでも思い出せない。


「紫檀、俺はあのとき、お前を行かせるんじゃなかった……。本当に後悔してるんだ」


 一方の以御も紫檀にそう呼びかけて、おもむろに口元を押さえた。


“あの時って……何だ?”


 あの時、比企と恒は何か用事があってどこかへ行った。

 紫檀は恒を追いかけた……よくよく考えてみると、辻褄が合わない。

 紫檀は誰かの命令で恒の警備を任されていたために、恒を追った。

 恐らくそうだ、紫檀に指示を下した人物、それは紫檀の上司に他ならない。

 以御は彼の上司だが、以御は指示を出していない。言うまでもなく、彼に恒の守護を命じたのは軍神でなくてはならない。

 以御や紫檀は軍神下使徒であったのだから……。


“当代軍神は……誰だ? 先代は分かる、先代はミネルヴァ様だ。でも、当代は?”


 思い出せなかった。

 何十年も生活を共にし、誠心誠意仕えてきた筈の彼の上司、軍神の名も、そして姿も思い出せない。主の名を忘れるなど――。

 これはもう、記憶喪失になったのでなければ命をもって購っても足りない、と以御は恥じ入った。

 以御は記憶の手がかりを辿るように彼のむき出しの肩を見つめる、第一使徒は神と全く同じ御璽を色違いで刺青し、主の名を刻み込んでいたはずだ。 


 しかし……以御の肩には、刺青などどこにもなかったのだ。



[……]


 アルティメイト・オブ・ノーボディは名前を失ったユージーンの記憶が彼女の胎を飛び出したことを知った。

 しかし知ったところでそれが何になろう。

 一度飛び出して彼女の手を逃れたものを、連れ戻す事はできなかった。

 何故なら、空間そのものである彼女は絶対に空間外に出ることができない。

 空間(袋)は裏返しにならないからだ。

 この空間を出るときは、この空間の創世者を辞める時だ。

 その際は、すべてを手放さなければならない。

 ノーボディが抜けた瞬間、宇宙の中心へと宇宙構造物を引き寄せるノーボディの引力が働かなくなり、宇宙は急激な加速膨張に見舞われビッグリップ(Big Rip)が起こり、物質は素粒子レベルにまで引き裂かれ、世界は終焉する。

 人も、神も、動物も植物も、天体も……彼女の慈しみ、守ろうとしたそれらすべてを一瞬にして失う。

 しかもユージーンの記憶を回収しようと試みたところで、彼は既に名も姿も失っている。

 どこにいるかわからないのだ。


[よもやユージーンに、欺かれようとは――]


 ユージーンがアルティメイト・オブ・ノーボディに”ユージーン=マズローに関する記憶を世界の記述から抹消したい”と願ったとき、それが生物階や神階に残してきた者たちへ奉げるユージーンの慈悲だと、彼の父であり母は理解して諾した。

 また、ユージーンを信頼し見くびっていたために、記憶を削除するという過程は、彼を名もなきものへと昇華させ原始の存在たらしめる、最後の枷であるという危機感がアルティメイト・オブ・ノーボディには欠けていた。

 その結果がこの裏切りだ。

 ユージーンはアルティメイト・オブ・ノーボディの支配より逃れて創世者になろうとしたのだろう。3年後、新米創世者がINVISIBLE収束に際しどんな手を打ってくるつもりなのか、アルティメイト・オブ・ノーボディには想像もつかなかった。

 そして全く目的の知れない第四の創世者の誕生は、純粋に同じ創世者である彼女にとっても相当の脅威であった。


[……汝は愚かだ。その道は誤っている]

 

 アルティメイト・オブ・ノーボディは群からはぐれた羊である彼を気遣いつつ、夕陽のすっかり落ちた夜の草原に立ち尽くす。


 結局、アルティメイト・オブ・ノーボディの孤独は、誰にも理解されなかった。

 第四の創世者という新たなるファクターが加わり、ユージーン=マズローという最初にして最後の協力者を失ったにすぎなかった。


【現】プランク温度(TP)…物理的に知られる最高温度。1プランク温度は、ビッグバン後1プランク時間経過したときの宇宙温度。

【現】宇宙定数ラムダ(Λ)…アインシュタインの重力方程式中のスカラー量であり、万有斥力をあらわす宇宙項。現在ではハッブルらの宇宙膨張の発見によって否定されている。

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