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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第62話 Tetra cycle Revival

 ルシファーからの決闘の申し込みを許諾したアルシエルは約束の時間である正午、供もつけずひとりで帝都の郊外にあるテグメル(TEGMEL)の丘の上に赴いた。

 この一画は、今は没落した有力貴族が経営していた廃鉱山のうらぶれた場所であり、解階総督府が発表したU.I.の指定感染区に該当する。

 彼女はこの特別な日に、あろうことかヴェルベットのホルタードレスという軽装でやってきて、防具などは一切身につけていない。

 だが彼女は軽装であっても、考えなしに虎穴に入った訳ではなかった。


 対策は唯一、打ってきた。

 解階最強を誇る女帝の感染が即ABYSSの体制崩壊を引き起こすことを懸念したユージーンから、U.I.感染予防策として治癒血を与えられ、U.I.を含めいかなる感染源に曝露されても感染しない、免疫学的に強靭な肉体を手に入れていたのだ。


 アルシエルを感染地区におびき寄せアルシエルをU.I.に感染させるという目算がルシファーにあったとしても、感染地区での決闘は彼女にとって聊かも不利とならなかった。

 となると、ルシファーは感染者であっても非感染者であってもアルシエルにとっては取るに足らない相手だ。実力もアルシエルが格段に上ときている。


 それほどの実力差があってなおルシファーを決闘へとつき動かしたのは、解階の創世者の庇護下にあるという仮初の優越感と驕慢だろうか。

 あるいは彼もまた、大切な存在を人質に取られ、創世者に従わざるをえないのか……。女皇に挑みかかる愚行をルシファーは忘れた訳ではあるまいが。と、アルシエルは彼の正気を疑う。


 しかしそこにどのような事情があろうとも、アルシエルにとってこの決闘は絶対に負けられない決戦だった。

 アルシエルが約束の時間より随分早く、たったひとりでこの場所にやってきたのは、予め戦場の地形を調べておくためだ。彼女にとって戦場の下見は、言うまでもなく戦術の基本だった。

 彼女は下調べを兼ねて周囲をぶらりと散策していたが、その間も一瞬たりとも油断をすることはなかった。


 ブラインド・ウォッチメイカーは生物階に入りアルティメイト・オブ・ノーボディの庇護下に入ったABYSSを支配して、何を望んでいるのだろう。

 時計職人にとってこの抗争が何か意味のあるものだと、アルシエルには考えられなかった。

 あるいはこの混乱を何がしかの契機にして生物階の支配権を取り戻そうとでもしているのだろうかという勘繰りが働いてしまうのは、彼女が解階の皇としての在位中に幾度となく謀反や下克上を経験してきたからだ。


 解階の創世者はABYSS及び生物階の安定と平和を疎んじている。

 アルシエルは改めて思い知った。”彼女”は安定を嫌う。おそらくはこれも、大災厄の序章に過ぎないのかもしれないが――。


 文字通り盾も後ろ盾もない孤高の女帝と、解階の創世者を後ろ盾に持つ叛逆者ルシファーの決闘。

 仮にアルシエルがルシファーを敗ったとしても、結果がその逆であっても、それがブラインド・ウォッチメイカーにとって何の利益を齎すのか。

 アルシエルの理解を超えている。アルシエルは死を畏れはしないが、思惑の見えない敵を前に、得体の知れない薄気味悪さだけは感じてはいた。


 彼女は物思いに耽り、散策して時間をつぶしていた。

 定時きっかりにセットしておいた腕時計のアラームが鳴る。それを合図に、彼女の上に人工照明から逆光となった大きな影が落ちた。

 彼女は上空から現れた大男を見上げ、旧友を見るようにひとなつこく会釈をする。彼は解階にたった二つしかない皇家の嫡子、ルシファー=カエサルだ。

 ルシファーはアルシエルの軽装とは対照的に重装備で防護能力の高い戦闘服という鎧を身に纏い、戦闘準備は万端。彼は鉄塊が降ってきたかのように重い着地音を響き渡らせて降り立つと、口元を覆っていた硬質のマスクを外した。このマスクは酸素を凝縮し呼吸効率を飛躍的に高めるもので、解階の特権階級にある貴族が戦闘時に必ずといっていいほど装備する。


 もともとずば抜けて身体能力の高いルシファーのことだ、筋力増強スーツもあくまでも彼の能力の補助的な役割を担うものでしかないが、その身を人工筋肉の鎧で固めた姿はいかめしい鋼の彫像のように見えなくもない。

 2mを超える長身の大男が完全装備で、触れれば折れてしまいそうに華奢な身体をした女皇と対峙しているという構図を傍から見れば、誰が見てもルシファーの勝利を自明のものと思うだろう。


「久しいな、ルシファー」

「これは、陛下。いや、先帝とお呼びすべきか」

 

 ルシファーの土気色をした顔は生気を失い、その瞳は血走っている。

 彼は戦闘能力を限界以上にまで引き出すべく、筋力増強剤や麻薬類を大量に服用しドラッグジャンキーとなって久しい。薬物には一切頼らず厳しい自己管理のみによって戦闘能力を高めてきたアルシエルは、もう数年も公の場で見かけなかったルシファーの体調を心配していたところだった。

 薬物濫用の副作用により、顔色が以前より随分とどす黒くなっているのを気にしなければ、彼はアルシエルが想像していたより達者そうだ。


 アルシエルは鼻息の荒い巨漢の挑発を受け流しつつ、履いていたヒールの高い豪奢なブーツを脱ぎ、放り投げて動きやすいよう素足になった。

 靴一足の重量にすら、彼女は神経を行き届かせる。

 だがこれらのコンディション作りは、長きにわたり解階最強の名を戴いてきたアルシエルにとって怠ることのできないものだ。


「先帝か。気が早いな。……余も汝も生来の口下手だ、汝の置かれた立場もしがらみも、余にはとんと解せぬ。やはり拳を交えねば、思う言葉も伝わるまい」

「そうでしょうな。もっとも、あなたに戦闘の意思がないのなら、決着は一方的となりましょう」


 ルシファーは吐き捨てるように茶化すと、形ばかり女皇に敬意を示して外していたマスクを再び装着した。

 伸びをするように高々と右手を突き上げると、鉱山の岩壁や坑道になりを潜めていたルシファー直属の私有軍が、蟻塚から出てきた無数の蟻のように黒々と湧いて出てきた。

 その数たるや相当のもので、兵力は岩肌を覆いつくし、数千は下らない。

 巨万の富を投じて育成した私有軍は、ルシファーから直々に選び抜かれた精鋭部隊だ。

 そして間違いなく、彼等はルシファーから高額な報償と引き換えに度重なる肉体改造を受けている。

 進化を続けること、それは解階では正義であると、確かにアルシエルは主張したことがある。だがこれは、変化であって進化ではない。


「汝は余に、”決闘”を申し込んだものと心得ておったが?」

「……左様、申し上げましたが?」


 ルシファーの物言いは道化じみていてアルシエルは苛立ちを募らせる。

 彼女はまるで悪さをした子供を前に呆れた母親のような眼差しで、彼女の信頼を裏切ったルシファーを見据えた。ルシファーは彼女にいっそう下卑た薄汚い嘲笑を、心行くまで垂れ流している。

 アルシエルは生来より礼儀作法を気にしない性質で、その程度の愚弄で憤慨しない。格下の相手からの蔑みにも別段腹を立てはしなかったし、ルシファーに雇われた私有軍の兵士達に罪はないとすら考えていた。

 彼女はルシファーを相手にせず、声を張り上げ、ルシファーにではなく彼が引き連れてきた精鋭部隊に声を張り上げて投降を呼びかけた。


「いま一度、最後の慈悲として選択の機会を与える。自らの意に反して、あるいは軽々と此処に参った者もあろう。余が20を数え終える間に、命惜しき者は隊を離れよ。動かぬ者は死をもって償うがよい」


 解階の住民達にとっては玉音ともいえる彼女の肉声での呼びかけに動揺しているのか、女皇への叛逆に後ろめたさを感じているのか、私兵たちは互いの顔を見合わせている。

 アルシエルは解階の皇として、あるいは解階の慈母として兵士達に与えた執行猶予の20秒から、ゆっくりと死へのカウントダウンをはじめる。


「……18、17」


 兵士達は危険を覚りつつもルシファーの制裁を畏れているのか、微動だにしない。彼らの身は物理的、あるいは精神的に束縛されている。

 アルシエルは彼らを不憫と感じたが、ぽってりとしたあどけなさの残る唇はカウントを刻み続ける。


「5、4、3……」


 アルシエルは残り時間もあと僅かとなったところで、すらりと伸びた細い右腕を彼等に向け、たおやかに差し伸べた。

 しかし彼女が投降を拒否した彼等に優しく差し向けたその手は、もはや救いと慈悲のそれではない。


 彼女の動作に呼応し虚空に紅い陰がさし、折り重なる昏き波紋の中から、ドロドロとした正方形の赤黒い固まりが溶け出してくるように見えた。

 それは誰の目にも一目瞭然、金属質の書物の形に映じてゆく。

 基空間からの転写による現出だ。


 遂に解階最凶と長らく噂されるツール、不可侵の聖典(Inviolability Scripture)が彼女の手の上に現出した時、アルシエルは運命のカウントダウンを終えた。

 差し伸べていた人差し指をたぐりよせ掬い上げる仕草をすると、触れてもいないのに聖典の1ページが開かれる。

 その業のあまりの残忍さ故に生物階にも聞こえ一部がヨハネの黙示録として記されるに至った、忌まわしき地獄の聖典が開かれた。

 虚空からツールを呼ぶ、彼女の業はさながら魔術のように見えるがそうではない。

 不可侵の聖典の本質は物体出力装置であり、立体映像出力装置ではない。


 原理からいえば3Dプリンタのそれと同一、だが質量を伴い充分なエネルギーをアルシエルの生体エネルギーより抽出、増幅、変換、転送する高性能の具現化装置だ。

 一ページごとにひとつの業が対応しデータ出力は極端に多様化している。

 そのシンプルな機巧こそが畏しいのだ。また、当該ツールは駆動のためのセキュリティキーとしてアルシエルのコマンド(呪文)を必要とする。

 皇家に伝わる古代言語を、格調高く独特の韻をもたせ紡ぎだす。


”Alo-sa-hu-cam”

(見よ……地獄の底がひらく)


 彼女は壮大な悲劇の幕開きを宣言し、もう何百年も口にする事のなかった符丁を唱える。

 それを聞くルシファーの兵士達はあまりの禍禍しさに、総毛立っている。

 どれだけ後悔してももう、猶予のための時間は過ぎた。

 この期に及んでは、逃れられない。


”Wquna-Wagna! Darn-Skjjava-Calfw-Rscan"

(時は満ちた。ここには額に印を受けた者はいない)


 アルシエルはただひとりの救済もなく、搾取し刈り尽くすと宣告した。

 アルシエルの言う“額に印を受けたもの”という単語は、ヨハネの黙示録においてもある種の免罪符として記載されている。

 彼女は座標入力の為にエリアの天地と四方を指し示しながら、浪々とコマンドを続ける。

 その禍禍しく文語的なコマンドが、太古より魔王の呪文スペルと呼ばれる理由は釈然としている。

 私有軍も各々、ツールを構えているが女皇にそれをまともに向けることはできない。

 何もかもが、他を圧倒している。


”Elm-Est-Il-Inv, Nilamn, Vnina, Saddam, Cytromnam”

(白き馬、黒き馬、紅き馬、青ざめた馬よ)


  アルシエルが次々とコマンドを与えると、黙示録の七つの封印が解かれた。


“Victim!”

(来たれ)


 アルシエルを基点として、地を這うように、放射状に幾重もの真空の刃が綾となって放たれる。

 彼女がその手に御していた災厄の凝塊を、今日のこの日の為に固く繋いでいた暴れ馬を解き放ったかのように……それはまさに煉獄の光景だった。

 天から螺旋状の衝撃波を伴う、巨大な真空の槌が振り落とされる。

 不可侵の聖典によって青黒く具象化された断罪の刃が半径数キロ以上にもわたって、ありとあらゆるもの、生きとし生ける者を終末の洪水の中に飲み込んで打ち砕いてゆく。


 そこにどんな地形があろうとも半径数キロを、そこに立つ者ごと更地にしてしまう、このツールが解階で最凶と恐れられる所以だ。

 絶望的な天災に見舞われているかのごと、あるいは終末の光景を目にしているかのように。

 犠牲者達は精神霍乱電磁波によって、死の今際に、死と黄泉を暗示する馬に乗った四体の騎士の幻影を見るという。

 アルシエルから見放された彼らは須らく断罪され、阿鼻叫喚の地獄絵図が、今ここに現実のものとなった。

 あたかも周囲に凹凸などなかったかのごとまっ平らに均された岩肌には、犠牲者の肉片すら残ってはいない。

 そこに在った死者の影だけが、名残おしそうに岩肌にこびり付いている。


 そして全てが灼き尽くされたかにみえた。


 しかしアルシエルの表情は晴れない。

 不毛の大地の上にたった一つだけ残って屹立した人影は、やはりルシファーのものだった。

 土煙が去るとそのシルエットははっきりと映じるが、五体満足。


 ウォーミングアップは終わったのかと、彼は口にこそしないがそう言いたげだ。

 アルシエルは何事もなかったかのように腕組みをして突っ立っているだけのルシファーに、やや失望したように眉根を寄せる。


「かような憂き目に遭うならば、部下を逃してやればよかったものを」

「気に召されるな。我が主が御為の玉砕とあらば、本望にこそありましょう」


 ルシファーは遂に永き眠りから醒めた暴君の復活を愉しむ為に、慇懃な言葉で彼女を挑発する。

 もとは彼女の臣民であった罪なき兵士を自身の手で虐殺しなければならなかったアルシエルは、ルシファーを断じて許せない。


「汝の申す主、メファイストフェレスが余の直系の曾孫にあたるとは周知にあろう。余を討ち取らんと勇みおった二大皇家の嫡男が、臣籍に降った余の曾孫に擦り寄り、あまつさえ膝を折るとは見下げ果てたものだ」


 アルシエルは溜息混じりに皮肉を述べつつ、不可侵の聖典の内部に手を差し入れている。彼女は不気味にさざめく白紙ページの沼に腕を沈めると、白い被膜を破りながら黒々とした金棒を引き出した。深い沼の底に沈められていたのは、全長五メートルは超えるであろう赤黒い巨槍だ。その存在は幾度となく神話に登場し、生物階でもよく知られている。


”Gungnir……”

(グングニル)

 

 彼女は古い恋人の名を呼ぶように、ルシファーの耳には入れないよう巨槍に囁きかけた。

 鋭く研ぎ澄まされた槍の切っ先を真っ直ぐルシファーに向ける。解階の深層に眠るレアメタルで鍛え上げられた合金の切れ味は絶望的だ。

 ルシファー=カエサルはそこまで彼女を憤慨させた後にようやく、遅ればせながら彼のツールを装着した。

 ルシファーのツールである彼専用のナックルダスターには、人工知能が搭載されている。

 彼の脳に接続されたケーブルから体内に埋め込まれたリストバンドへの回路が神経と連動し、驚異的な瞬発力と筋力を増幅させる。

 ルシファーは重戦車のごと破壊力を重視した立ち回りをするし、一方のアルシエルは言うまでもなく軽量を活かしたスピードと鞭のような柔軟性を武器としている。

 グングニルは軽量の彼女に安定を与えるバランサーとして携えているだけで、主戦力ではない。


 両者は静物のモデルのように動かないまま、しばし睨み合った。

 アルシエルは細い脚を礫土の上ににじらせ、猫のような動作でグングニルを構えている。

 均衡を破り先制を仕掛けたのはルシファーだ。

 彼はアルシエルの腰より太い下腿を弓のようにしならせて地を蹴りつけ、轟音を立ててアルシエルに突進してくる。ただ猪突猛進してくるだけではない、彼は巨躯でアルシエルの逃げ道をつぶしつつ、彼女のどんな初動も見逃さない。

 アルシエルは槍の切っ先で彼の攻撃をさばき槍を彼の拳に突き立てると、巨槍と堅固なナックルダスターが摺れ激しく火花が飛び散った。

 接触したとみるや、彼女は槍の柄を内側に握りこみ、不可侵の聖典に挟まれていた羽根形をした金属のしおりをルシファーに投げつける。

 長い紐のついたしおりはルシファーに命中せず脇をすり抜け、彼の背後に回り込み空中で静止した。

 彼女が握力を加えた瞬間グングニルの感圧回路が俊敏に応答し、わずか1/1000秒で刃先全体よりしおりめがけて大電力アーク放電が行われる、グングニルの刃と金属のしおりとの間に形成されたエレクトリック・アーク(電弧)の温度は12000度にも達し、プラズマの刃がルシファーに襲いかかる。

 青白色を呈する恐るべき熱源を全身にもろに喰らい体勢を崩すが、彼はなおも踏みとどまる。断熱・絶縁仕様のナックルダスターに沿ってプラズマが絶縁放電し受け流されている。


「ん……」

 

 彼の繰り出す一撃は衝撃波となり瓦礫を飛び散らせ、礫すら凶器と変える。

 かくなるうえはルシファーの露出している皮膚に貫通させ内部より加熱するほかない。 

 グングニルは飛翔性能を持ち、重戦車のようなルシファーの戦術とは対極をなすものだ。

 アルシエルは、すぐ脇にぽっかりと口をあけた坑道のエレベーター跡と思われる竪穴の入り口に跳び込みルシファーをおびき入れ、錆びた配管の伝う竪穴を真っ逆さまに落下してゆく。

 ルシファーに自由落下をさせながら追わせ単調な軌跡を描かせる。

 一直線に坑道を跳び降りていた彼女はふと身を翻し、大きくグングニルを振りかぶって壁面に刃をあててスピードを殺し、真上にいた彼の首裏に下から狙いすまし槍を突き上げた。

 自由落下中は体勢を変えることが難しく、ルシファーの頭は自ずと下を向く。

 そう、その首筋はむき出しになって、下からの攻撃を防ごうにもでかい図体が邪魔をする。

 そして真下から突き上げられるほとんど”点”となるその攻撃を、避けることは至難のわざだ。


「んっ!」


 真上に槍を放ったアルシエルの唇から息が漏れる。

 手ごたえは十分。巨槍の一突きが鋼のように隆起した筋肉を裂く。

 彼女はグングニルの長い切っ先を彼の首筋にめり込ませ、そのまま柄を握りしめる。

 絶縁仕様の装備ならば頸部を内側から超高音で焼き切り、その巨体を首から正中線に沿って縦に貫き上げるまで。

 しかし、ルシファーはそれより一瞬速く、首に突き立てられた刃を筋肉ごと引きちぎり鷲掴みにすると、脚を配管にかけ蝙蝠のように逆さになったまま、アルシエルの腕に手を伸ばし壁面に叩きつけんとばかり、勢いよく彼女を壁面に打ちつけた。

 彼女の肢体が竪穴の坑道の壁面に触れる直前、彼女は鍛えた足技で鋼鉄の壁を蹴り抜く。

 廃エレベーターのすぐ脇を走っていた竪穴の側道へ、空洞があく。

 側道に投げだされ再び自由落下をしようとする女皇を、逃すまじとルシファーが追う。

 彼女は空中で体勢を立て直し、突進してくるルシファーの拳をかわし、カウンターで頬をしたたかに殴りつけた。

 絡み合いながら暗闇に沈み込んでゆく二人、だがなおも攻撃の手を休めない。

 暗闇の中に時折火花を散らしながら、垂直に流れ落ちる星くずのように、激しい攻防が続いている。そのパワーはほぼ、互角。

 スピードは遥かにアルシエルが凌駕している。

 撃ち合いの残響から、塔の底が近づいてくるのが分かる。

 どちらが最後まで、攻撃を仕掛け続けるか。

 そのチキンレースを、ルシファーが制した。アルシエルが着地の体勢に入ろうとした一瞬の隙をついて、彼女の腹部に空中で拳を宛がい、そのまま下に固定した。

 底部に激突するまでわずか、数メートル。

 ルシファーは肩口から筋肉を大きく脈打たせながら彼女のどてっ腹を殴りつけ、その衝撃は彼女の自由を奪う。

 驚愕し、そして苦悶の表情を飲み込む彼女を置き去りにしたまま、ルシファーは大量の瓦礫を砕き散らし、大鷲の翼を地に縫い付け、彼女の柔らかな肌が硬い谷底に深く沈められた。


 そして時速190kmで落下していた彼女は、背部から底面に衝突し計2800トンもの衝撃に見舞われる。

 それは、ルシファー=カエサルが女皇アルシエルを玉座から引き摺り下ろした、まさにその瞬間だったのかもしれなかった。


 しかしアルシエルは意識を飛ばしそうになりながらも、彼女の携えたグングニルはルシファーの下腹にめり込んでいた。

 人工筋肉の装甲を突き破り的確にルシファーの腹部を貫通している。

 覆いかぶさるようにアルシエルの上になっていたルシファーの表情が固まる。女皇が肉を切らせたならば、必ず骨を断たなければならなかった。

 彼女は腹部を刺し貫いたグングニルを、ジッパーを上げるように彼の喉元まで一直線に突き上げた。

 彼の下に突き倒されていた彼女は直後、上から降り注いでくる血液の濁流を厭うかのように片目をつぶったが、直線的に裁断された黒い肉塊は血液を吐き出すことはなかった。

 そして裁断口はジッパーを上げるようにすうっと塞がっていった。


「まさか、不死化……」

「今の私は全身が癌化しておりましてね……傷ついても、傷ついても、壊れても、壊れてもね、細胞が増殖衝動を抑え切れんのですよ」


 彼はアルシエルを憐れむように、血走った目を細めていた。

 地面への激突を回避しようと、しなかったわけか――。


 全身細胞の癌化……ブラインド・ウォッチメイカーはルシファーの忠誠を得るため、恐るべきことをした。


「さて、続きをしましょうか。長く愉しませてください……ねえ」


 勝てる筈がない、彼はもうかつてのルシファーではない。スタミナもきれず不死身の相手に、どこまで戦えるか。

 今度ばかりは敗北を覚った。

 


 黄昏の草原の中に広がる寂寞とした墓地の墓標の上に、うつ伏せになって白衣を纏った青年が倒れている。


[汝を喚ぶのは、二度目になるな]


 彼は幽かな呼び声を聞き、震えながら瞼をもたげた。

 アルティメイト・オブ・ノーボディは透明な装束を纏った少女の姿でありながら、少女らしからぬ尊大な態度ですぐ背後から彼を見下ろしている。

 彼女は珍しく、清楚でシンプルな白衣といういでたちだった。


[汝の名を、覚えているか?]


 青年は意識を朦朧とさせながら、頬を墓石にぴったりとつけたまま、分からないと首を振った。

 彼女は彼の理解を促すように、墓標を示す。


[そこを見よ]


 墓標には当然、墓標の下に眠るものの名が刻み込まれている。

 彼は頭をもたげることも出来ないまま、震える指先で刻印をなぞった。

 刻印は何の譲歩もなく死者の名を刻んでいる。

 墓標にはA.C.1826~と彫り込まれ、没年はまだ刻まれていない。ふと白衣をたくりあげて見たその左肩には、展戦輪の御璽が螺鈿細工のように鮮やかに輝いていた。これは……見覚えがない。

 彼は視線を墓標に戻すと、それを他者のもののように無感傷に読み上げる。


”……ユージーン=マズロー?”


 墓標の名の下の、青い点滅を続けるクリスタルに掌を置くと墓石全体が青白い回路のように発光し、黒い墓石に青い幾何学的紋様が浮かび上がる。

 同時に、彼の掌からはクリスタルを介して石碑に蓄えられていた膨大な情報が流れ込んでくる。

 彼の墓標に、途切れる事無く刻々と記録され続けてきた記憶だ。

 アルティメイト・オブ・ノーボディは神々の記憶をEVEと同じ原理で、墓標に似たハードディスクの内部にリアルタイムで保管し続けていた。

 そのIDキーとパーソナルが、青い記憶素子におさめられている。

 ユージーンの記憶と自我を再起動させたのは、実はこれで二度目だ。

 なにものでもなかった彼はユージーンの記憶をインストールされ、記憶が取り戻されてくると同時に、埋められない喪失感と絶望感で満たされていった。

 彼は這いつくばったまま、拳を硬く握り締めた。


『わたしは……』

 

 彼は嘆いた。ブラインド・ウォッチメイカーに操られた上のこととはいえ、藤堂 恒を手にかけようとし、身重の妻を持つ紫檀 葡萄を躊躇なく傷つけ、惨殺しようとしたのか……すべてを思い出した。

 長年身を粉にして彼に仕えてきた紫檀は何を思っただろう、そう思うと胸が張り裂けそうだった。

 荻号や極陽がユージーンの精神を破壊した為に犠牲者は幸いにして最小限に食い止められたが、荻号が止めなければその犠牲者数は取り返しの付かない規模となっていた。


『また、戻るのですね』


 こんな状態でまだ”ユージーン=マズロー”として現世に蘇るのか……。

 彼は思い悩んでいる。

 二度も記憶を再生され、身体から離れた心を再びインストールして生きながらえることは、もはや生きているとはいえまい。


 背後で彼を苛むように見下ろす少女の姿をした、彼の父、あるいは母の非情を、非難する権利などなかった。

 彼が断ったとしても、ユージーンの代わりなど、いくらでも創りだされる。

 またひとつの精神体を作り出し、この墓石に刺さった青い記憶素子から”ユージーン=マズローの記憶”をダウンロードするだけで、代わりなど無限に複製できるのだから――。

 ”ユージーンの記憶”は何度でも蘇り、何度でもINVISIBLEに捧げられる。

 女神レイア=メイテールの身代り、INVISIBLEの目を欺く為の囮としての役割を負わされ続けて。

 創世者アルティメイト・オブ・ノーボディの意思を頑なに拒絶したとて、それが一体何になろう。

 何も変わらず、アルティメイト・オブ・ノーボディのシナリオは進行してゆく。


 では一体、”ユージーン=マズロー”とは、あるいは同じように管理される神々とは何者だったのだろう?

 神々が古来より名に無頓着であったのは、ある意味自明の理だ。

 彼はもう二度とユージーン=マズローを名乗ってはならないのではないかとすら思う。

 ユージーンを名乗り藤堂 恒の前に、神々や人々の前に現れることは彼等を欺く事に他ならない。

 彼等が会いたいと望んでいるのは決して複製ではない、他ならぬオリジナルのユージーンなのだろうから。

 だが……三階を裏切った今はもう、畏れられ憎しまれこそすれ、”会いたい”と思われる存在でもないか。


 アルティメイト・オブ・ノーボディは葛藤を抱えた彼をただ残酷に、あるいは優しく見守っていた。

 あたかも人形に魂を込めることを忘れた人形職人が、魂を求めて彷徨う壊れかけた人形を見つめるように。


[……心の挫かれた今の汝を浮世に戻したとて何になろう。……汝の荷はいま暫く、レイア=メーテールに負わせておる]


  レイアと面識はないが、彼女が誰であり神階にとってどういう存在なのか、”ユージーンの記憶”が彼に囁きかける。


『レイア=メーテール……? 彼女はまだ生まれたばかりの赤子ではないですか。……その荷は、わたしが』


 ユージーンの身代りとしてしか生きてゆくことが出来ないのなら、それをさえ放棄してしまえば誰であることも許されないというなら、少しでも誰かの苦しみを負いたいと彼は望んだ。

 彼は意を決して起き上がり、墓石の前に跪いたままアルティメイト・オブ・ノーボディを真っ直ぐに見上げる。

 透き通る美しさ、穢されぬ清澄さを兼ね備えた全能の少女は禁視の宿った瞳で、哀れな彼女の傀儡を射るように見下ろしている。彼女の背後の黄昏の草原は、強い風が吹きすさんでいた。


[心配には及ばぬ。恒が彼女を癒しておるのでな……]

『恒くんが?』


 不思議だ。

 ”知っている”という記憶を刷り込まれているだけなのに、恒の名を聞くと懐かしく感じた。


[恒は絶対不及者抗体(Anti-ABNT Antibody)として覚醒したといえよう。彼は強靭な精神力を備えつつある]

『……』


 にわかには信じ難い情報だった。

 まだアトモスフィアを操ることもままならなかった10歳の子供が、スティグマに苛まれた赤子を救っているというのだから。

 子供が、子供を救おうとしている……という状況なのだ。

 彼の成長が眩しかった。それに引き換え……と、彼はその身の不甲斐なさを恥じる。


 少女はユージーンの傍らにかがみ込むと、彼の背をなぞるように触れた。

 彼女の触れた背にはもう、ユージーンを苦しめ続けたスティグマはない。

 ユージーンが解放された代償に、どこかへ下ろしておくことすらできない重い荷はレイアにのしかかっている。


[汝の苦痛は去ったか]


 確かに苦しみからは解放されても、ユージーンは晴れやかな気分になどなれなかった。


『ええ……。ですが、わたしは自由になってはならなかった』

[INVISIBLEは汝を解放した。汝を現世に戻したとて、聖痕が汝の背に戻るかは分からぬ。このままINVISIBLEがレイア=メーテールを手放さねば彼女が絶対不及者となる……それもまた、運命だったのやもしれぬ]


 アルティメイト・オブ・ノーボディは彼の子らをブラインド・ウォッチメイカーやINVISIBLEに搾取され続けてきた。

 それらはレプリカには興味を示さないというのに、アルティメイト・オブ・ノーボディが丹精込めて創り上げた貴重な作品ほど、掠奪者の目に留まった。ユージーンはINVISIBLEの支配から逃れ、今ようやくアルティメイト・オブ・ノーボディの手に還ってきた。

 だがそのツケを、レイアが負っている。


『例えば、レイアが三年後にグラウンド・ゼロに赴かなければ、INVISIBLEが収束しないのでしょうか』

[……汝はいたく誤解をしておる。INVISIBLEの収束を回避できると?]

『そう理解していましたが、違うのですか?』

[INVISIBLEは存在確率を操り、波動関数の収束を操作する。もしINVISIBLEにその気があらば、レイア=メーテールは必ずや、グラウンド・ゼロに向かうよう仕向けられる。その場合は、いかなる抵抗も不可能だ]


 ユージーンは大きな勘違いをしていた。

 グラウンド・ゼロに行くか行かないかを選ぶのは、INVISIBLEの器の自由だと思っていたからだ。だが、そうではないのだ。

 彼、彼女の意思にかかわらず行かなければならないよう仕組まれる、それをINVISIBLEの定めた運命という言葉で表現されても違和感はない。


『INVISIBLEが3年後、収束を望まなければ?』

[何も起こらん。吾やブラインド・ウォッチメイカーが如何に介入をしようとな。だがその予定がないのだとすれば、スティグマを汝からレイアに付け替えはすまい]


 それは宿泊予定もないのに、旅行客がホテルの予約を取っておくようなものだ。

 普通は宿泊の予定を立てているからこそ、予め部屋を取っておく。

 INVISIBLEならば気に入った器に、スティグマという予約をつけておくのだろう。

 やはりINVISIBLEはその心積もりがあるとみるべきだった。

 それにしても、スティグマとは何なのだろう。

 鍵と鍵穴のモチーフ。その形状があまりにも人工的、デザイン的で、どうしてもそこに何か得体のしれぬものと浅からぬ因縁があるように、ユージーンは思えてならない。

 見たこともないのに、どこかで見覚えがあるような気がする。

 それも、大昔の話ではない。つい数十年前のことだ。


[ただ絶対不及者となるだけならまだよい。だが、汝と違い、彼女が絶対不及者となると手の施しようがない]


 アルティメイト・オブ・ノーボディは詳しく言及しなかったが、万が一絶対不及者が現れるようなことが起これば、彼は絶対不及者と真っ向から撃ちあって絶対不及者を破壊し、INVISIBLEから器を取り上げるだろう。

 ユージーンにはよく分かっていた。

 過去二柱の絶対不及者は現にアルティメイト・オブ・ノーボディによって葬られてきたからだ。


『では彼女が絶対不及者となった場合を想定しましょう、わたしがそうなるのと何が違うのですか?』

[現況から述べるとINVISIBLEの傀儡となり、絶対不及者となる可能性は限りなく高い。彼女には汝と違い生殖能力がある、それが脅威なのだ]

『彼女は完全なる女性でしたね。ですが生殖能力を持つ彼女が絶対不及者となっても、単為生殖は出来ないのではないですか? そして神階に男性の神はいません』

[どうやら身近な者を忘れておるようだな……]


 アルティメイト・オブ・ノーボディは思い出せと顎をしゃくって促した。


『?』


[藤堂 恒は男神だ]


 INVISIBLEが、恒とレイアを媒介として生殖を図るというのか。

 INVISIBLEが生殖を図り子孫をもうけ、器となりうる神体が分散されるということは、INVISIBLEに逃げ道を与える。

 アルティメイト・オブ・ノーボディの力は以前よりよほど衰えている。

 一体ならまだしも、複数体の絶対不及者を葬り去るだけの余力は持っていない。

 すると、絶対不及者を倒せる者がいなくなる。これは呆けている場合ではない、とユージーンは危機感を募らせた。レイアがINVISIBLEの器となるケースだけはどうしても、回避しなければならなかった。

 彼は一度ユージーンの神体に戻り、出来るだけの善処を行おうとした。そしてあわよくば、レイア=メーテールの背からユージーンの背にスティグマを戻したい。


『戻ります。こうしてはいられません。肉体はどこにありますか』

[その必要はない。今後、“ユージーン=マズロー“の神体の再起動は行わない]


 アルティメイト・オブ・ノーボディは見下ろしながら、そう断言した。

 しんと、水を打ったように風がとまり、草原が不気味に静まり返った。

 ノーボディは神々の記憶を常時、墓地の記憶素子にアップロードし続けることによって記憶のバックアップを取り続け、いつでも肉体さえあれば故神と全く同一の神を再生できる。

 ユージーン=マズローの記憶が再生されたのは、肉体に戻す為だろうと彼は当然そう考える。それを否定され、ユージーンはアルティメイト・オブ・ノーボディの真意を疑った。


『……今、何と?』


 ユージーンは少女の考えを理解できない。


[再起動を行ったとて、ブラインド・ウォッチメイカーの受け皿とされるだけだ]

『……では、何故わたしの“記憶”のみが再生されているのですか? わたしに一体、何をしろと仰るのですか?』


 肉体に戻らない、記憶のみが何がしかの目的で再生された。


[3年後、INVISIBLE収束の直前、レイアの神体にユージーン=マズローの記憶を移植する]


 倫理的なことを一切無視しレイア=メーテールの未熟な神体に成熟したユージーンの記憶をインストールすれば、INVISIBLEに抗い、恒の抗体を利用してINVISIBLEと成り代わることは不可能ではない。

 そして三階の現状を考えれば、彼女の提案を鵜呑みにしなければならないのかもしれない。

 しかし……これまで何度も疑いながらも、ユージーンは遂に、彼の父であり母である創世者に対して拭い去ることの出来ない違和感と抵抗を、覚えてしまった。

 レイア=メーテールが彼女として生きる権利をも剥奪するつもりなのか――。

 アルティメイト・オブ・ノーボディがそれを彼女に強いていると分かった時、ユージーンは冷たい刃物で胸を貫かれたように感じた。


[ユージーン=マズローの記憶は保守の為、稼動させておいた方がよかろう。そこで汝を呼んだ]

『………………分かりました』


 彼が答えを返すまでに、いささかの時間を要した。だが彼は納得してなどいない。

 この間、アルティメイト・オブ・ノーボディは沈黙のうちにユージーンの同意を待っていただけで、譲歩をするつもりも、説明をする様子もない。


『ただし、1つだけ条件を付けさせてください』


 ユージーンはそれと引き換えにたった一つだけ、ノーボディに願った。

 再び強まった風に押し流されてしまいそうな、切ない願いだった。

 蜃気楼の奥で少女は寂しそうな表情を見せ、そして遂に頷いた。

 彼女はユージーンを残して、ふとかき消えた。


『――!』


 ひとり取り残されたユージーンはどこまでも透き通った琥珀色の空を見上げ、模造の太陽に向かって声にならない声を絶叫した。

 どれだけ叫んでも、その声はどこにも届いていない。


 閉鎖された広大な檻の中で、彼という囚人はアルティメイト・オブ・ノーボディに表向き服従しながら、彼の内なる信念に問いかけていた。

 レイア=メーテールらを犠牲として守りノーボディの意のままに操られる世界、ノーボディの意思に妄信的に従い続けることが、三階の遍く生命にとっての正しい導きとなるのかどうか――。


 誰もが幸福に、そして力強く生きてゆくことの出来る世界が実現できるのかどうか。

 この一本道を進んではならない。

 彼の本心が声を潜めながら、自信なさげにそう言っていた。


 アルティメイト・オブ・ノーボディに対する不信感が心の片隅に湧き起こってきた。その反逆心を確かめるように、まがい物の瞳を閉じる。

 ノーボディは今も昔も、彼女の慈しんできた箱庭の中の生命を穏やかに維持したいのだ。そのため、何かトラブルが起こればいつでも最善の状態に戻せるようバックアップを欠かさなかった。

 彼女は恐らく、ある個体の“記憶”をコピーしインストールした個体は、同一の個体だと考えている。失われれば、補完すればよいという発想だ。

 ユージーンは生命に、魂が宿っているとは思わない。

 だが、心は必ずその個体の裡にあって、それはたった一つであり、肉体から離れてはいけないと、今でも信じている。

 心は肉体と引き剥がされて補完されたり、複製など出来ないし、それを行って踏み躙ってはならないのだと。

 

“記憶”は“心”とイコールで結ばれない。

 心がたったひとつ、かけがえのないものであるからこそ生命は力強く、価値がある。

 たった一つしかない生を生きたその死は尊い。その生と死はなにものによっても贖うことが出来ない。


 地平線まで続く墓地の寂漠とした風景のほとりには、シャンパンゴールドのさざ波が照り輝く広大な湖があった。

 規則正しい潮騒音が、昇華しきれない、じくじたる思いを清める。

 その波打ち際に腰を下ろし、彼は密やかなる決意を固めつつあった。


 穏やかな箱庭を守り続けるアルティメイト・オブ・ノーボディ(名も姿もなきもの)、

 進化し続ける生命系の構築を目標とするブラインド・ウォッチメイカー(盲目の時計職人)、

 真意の見えない無垢で残忍な創世者INVISIBLE(不可視の創世者)


 ……だめだ。彼らの支配に屈しては。


 本当に必要な世界は、生命が真に唯一であり、その生が消費されることなく尊ばれる世界だ。名も姿も失った彼はそのとき、こう思ったのだ。

 三者のいずれにも与しない第四の創世者に、自身がならなくてはならないのかもしれない、と――。


 そしてそのポテンシャルエネルギーは、皮肉なことに彼の中に、十分に秘められていた。




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