第1節 第61話 The end of his childhood friend
女神の赤子、レイア=メーテールは泣きやんで、きょとんとした顔で恒にしがみついていた。
彼女は生後何ヶ月も経っていないというのにもう目鼻立ちがはっきりとしており、柔和な表情は早くも女神の品格を備えている。
壊れてしまいそうに小さく軽い彼女の神体こそが、INVISIBLEの定めた無垢な器だ。
擬似陽光を受けて彼女の特徴的な金色の毛は透明になり、既に黄金にも似たアトモスフィアを纏っているようにも見え、神々しささえ感じる。
それはプライマリというG-ES細胞より誕生した、正真正銘の神の聖性というものなのだろう。スティグマを持つ彼女の存在が陽階に明らかとなれば、彼女は監禁されて自由を奪われ、信仰の対象となるかもしれない。
彼女が将来、それが3年後ではないにしろ”天帝”として君臨する可能性も排除されない。
恒の纏う白衣に、半透明の金色の布が触れている。
スティグマの熱に灼かれ焼け焦げた産着の代わりに、彼女には極陽から”権衣”という装束の一部が与えられた。
それは絶対不及者が召していたと伝えられるもので、ある程度スティグマの熱を遮断できるのだという。
勿論、スティグマから彼女へ及ぼされる影響力も多少は取り除かれる。
その手触りは化学繊維のそれにも似て冷感があり、着心地が悪そうなので、恒は彼女を気の毒に思ったがどうしようもない。深い翡翠色の、ガラスのように曇りなく透き通る瞳が、悲しみに染まらずそのままに在って欲しいと恒は願った。
彼女の物心がつく前に……彼女を苦しめる全てから彼女を解き放ちたい。
創世者INVISIBLEの無慈悲な人形に、させてはならない。しかし……間に合わないのだ。
彼女は三年後、周囲が急かし騒ぎ立てようとも3歳の幼女にしかならない。
彼女が負う荷を彼女に論理だてて説き聞かせ、理解と覚悟を期待するのは困難だし、何より酷だ。
「何で、この子なんだ。まだこんな、赤ちゃんじゃないか……」
自我すら持たぬ彼女を器として選んだINVISIBLEが憎い。
恒は無慈悲な創世者の残忍な所業に、憎しみを募らせる。
穢されない、もの思わぬ心と躯、完全なまでに空であり無力であること……それらはINVISIBLEの収束によって初めて聖性を帯び天帝と畏れられる。
絶対不及者の無垢故の残虐性は無上の暴力となり、垣間見えるのは破滅への願望でもあるのだそうだ。
絶対不及者との邂逅は、絶対的無力感と、根源なるものとの同一性を否応なく惹起させられる。
無知であり無垢であること、何よりプライマリ(原始の神)であること。
INVISIBLEの求めたその資格は、かつてのユージーンにも備わっていたものだった。
だが彼はそれを失っていた。
ユージーンはノーボディと共に、運命に抗いすぎた。
更にいえば、ブラインド・ウォッチメイカーがユージーンにのばした食指があからさま過ぎたのかもしれない。
ともあれINVISIBLEは、ユージーンに興味を失い、代わりの器に狙いを定めたようだ。
悶々としながら、レイア=メーテールを連れて、恒と比企は陽階にある比企の書斎に戻ってきた。
比企の書斎の書棚の裏には、亜空間に繋がる秘密のドアがある。
それは比企がたまたま見つけた空間の間隙で、そこを私的スペースとして利用している。
東京ドームに行ったことはないが、東京ドーム4つぶんぐらい、なのではないかと恒は見積もる。それほど広大な部屋ではないが、その手頃な広さが丁度よい。
秘密の入り口から全天の宇宙がガラス越しに見える大温室に案内され、恒はそのベンチに腰掛け比企から火傷を負った手の治療を受ける。
「これを噛んでいろ。麻酔草だ」
ゼンマイのような見知らぬ薬草を比企に与えられ、噛むと口いっぱいに苦みが広がる。
焼け焦げて炭化した恒の皮膚は、比企が麻酔をかけてメスで削り新たな創傷面を出し、人工皮膚シートによって修復、補完される。
生物階の医療では太腿などから移植するのが常だが、神階の再生医療技術はずっと進歩していた。人工皮膚はたちまちのうちに恒の皮膚になじみ、みるみる再生をはじめる。
指紋は再生されないが、それは仕方がない。
一瞬にして癒された新たな手を裏表にかざして、恒は神階の迅速な再生医療に目をみはる。
「すごい! 一瞬ですね」
「何をたわけたことを。首から上を断たれぬ限り、神階外科医に癒せぬ傷はない」
比企がそう豪語するだけのことはある。
「そうですか、そんなこと言っちゃったら上島先生驚くだろうな」
暖かで生ぬるい、模造太陽によって齎される午後の日差しにまどろみ、何もかも忘れて眠ってしまいたくなる。
神階では見慣れない植物と柔らかな土の香りが懐かしかった。
比企は手当てを終えると温室の内部に設置された端末を立ち上げ、恒が八雲から受け取った恒の遺伝情報を簡単に解析していた。
ここは比企が基本的に誰の立ち入りも許していないようで、いつも比企の傍近くに仕える響 寧々も給仕に来ない。
彼は遺伝情報をもとに巨大な装置に接続された端末から複雑なプログラムを組み、核酸合成装置で恒の遺伝情報の復元を始めたようだった。
恒はといえば比企の適切な処置で右手を包帯でぐるぐる巻きにされたまま、左手でしっかりとレイア=メーテールを抱えている。
レイア=メーテールの育児はしばらく恒が引き受けることになった。あれから彼女は泣き出しもせず、恒にしがみ付いて放そうとはしない。恒は彼女のその手の小ささに、胸が詰まった。
「3歳で絶対不及者になるなんて……」
「では3歳ではなかったら少しはましか?」
恒が独り言のように呟いた言葉に、比企は唐突にそんな言葉をかぶせた。
こんな時に皮肉を言わなくてもいいのにと恒は口を尖らせる。
しかし比企は皮肉を言ったのではなかった。
「神々は真空中でも死なぬが、真空条件下に曝露されると寿命を縮め、成長速度や老化も倍加する。過去の記述によると、4~5倍の速さで成長、老化すると推測される」
その記述が見つかったのは、神階に実際に存在した刑罰を記した書物からだった。
真空中での受刑者が、他の神々より早く歳を取って死に至ったという事実が明らかとなり、それ以来神々はむやみに真空に曝露されてはならないと定められた。
この常識から、真空で長時間の執務を余儀なくされる神々は防護服を着用するのが一般的となった。
「人で言うと早老症のような状態ですか?」
「知っている病名を片っ端から口にするのは感心せんな。その現象がラミンA一塩基置換変異に由来するものと思うのか?」
知ったかぶりを比企に怒られた。早老症は成長が加速するわけではない、動脈硬化など、核膜形成不全によって生まれながらにして老化が加速されている。
それにそもそも、DNAをすら持たない神の赤子にプロジェリアの概念が適用されるわけがない。恒は早々に降参した。
「ごめんなさい」
「この場合、遺伝的素因とは別に成長、老化それら全てが加速されるのだ。仮に彼女を真空条件下で生育させたなら、彼女は3歳児とは余りにも異なる姿となるだろう。外見だけではなく、精神力や知能指数も伴う」
「彼女をこれから3年間、真空中で育てるということですか?」
恒の腕の中で、彼女の小さな呼吸が聞こえる。
彼女は確かに空気を必要としているというのに……全ての権利を奪われつくした彼女から、空気さえも奪うというのか。
「一日も空気に晒す事無く生育させれば、12歳程度にはなるだろう」
「真空中に閉じ込めて……真空って苦しくないですか? あなた達は訓練しているから平気なんでしょうけど、この子は人の子と同じように呼吸してます。窒息しないんですか?」
恒は完全な神ではないので、息が出来なければ苦しい。
泳げば息継ぎをしなければならないし、息を長く止めていられない。
空気を奪われてどうなるものか、想像だにつかない。
「多少は苦しかろうが、真空への耐性は訓練によって身につく。幼き故に慣れるのも早い」
神々が宇宙空間に在っても平気なのは、大体アカデミーに入って50歳ごろに行われる、環境適応訓練というトレーニングで獲得するものだ。
それまでは真空中でも死にこそしないが、いきなり真空に放り出されれば窒息状態となり危険だった。
「そんなの虐待じゃないですか! 真空中に閉じ込めて、苦しめ続けて、寿命を削るなんて!」
日本なら狭い場所に子供を監禁するだけでも逮捕される犯罪だというのに、比企には心がないのか。
「何を勘違いしておるのやら知らぬが、彼女に”人権”などない。それに寿命が不死身の彼女と何の関係がある」
ただ成長を早めるだけだといえばそうだが、そんなことが問題なのではない。問題なのは彼女の待遇だ。
「そんなことして12歳になって……でも心はきっと3歳のままだ……」
恒はレイア=メーテールを庇うように抱きしめた。
彼女は恒を不思議そうに見つめ、無邪気であどけない表情を向けている。
彼女には恒と比企の遣り取りが分からないのだ。
彼女を比企に渡したくなかった。
「ユージーンさんもこの子も……好きでINVISIBLEの器になったのではありません。どうして彼等を憎むんです……。こんなにたくさんの神々や使徒達の中で、この子はひとりぼっちです。彼女をひとりにはさせません、どうしてもやるなら、俺にも同じようにしてください」
恒とレイアが一対の抗体と抗原であるというのなら、その日まで同じ境遇に処してほしいと思う。
意思もおぼつかず、拒絶もできず神々の決定に従うがままでしかいられない彼女に寄り添い守り続けることこそが、恒の成すべきことだと、そう思ったのだ。
抗体と抗原は対極のものであるかもしれない、だが恒は彼女を憎むことはできなかった。
「人の身で真空中では生きられん。これだけの情報を持っていて分からんのか」
比企は僅かな間に、恒の遺伝情報を流し読みで紐解いていた。
恒が真空に放り出されたなら、10分と経たず死んでしまう。
恒は比企に、身体の隅々を透視されているように感じた。
事実、薬神だった比企は分子遺伝学にも精通しており、たった4文字の記号の羅列から生体組織の機能を推測するだけの読解ポテンシャルがある。
「分かってます! でもスティグマがこの子を苦しめたら、誰が彼女の背に触れられるんですか」
比企はくってかかる恒に一瞥をくれ、冷や水をかけるかのように先ほどから片手間に触っている端末の画面を恒に向けた。
遺伝子解析画面には第11番目染色体上にある遺伝子図が黒地に白く浮かび上がり、比企のドラッグによってほつれた糸のように立体的に引っ張り出され緑色の蛍光色で注釈がつけられた。
一度は解析を行った恒が気にも留めなかった部分だが、比企はこの部分に大いに着目しているようだった。
「……興味深い。ヴィブレ=スミスは汝に絶対不及者に執着するよう遺伝子を組んだ。この余剰遺伝子は神格形成を司る部分で、精巧な技術的介入がある。汝がユージーンやレイアに向ける異常なまでの思慕は、当該遺伝子に支配されたものだ。彼等を救いたいと願い、彼等と共に在ろうとする……。先ず感情に任せた発言を控えよ。汝には分かっておろう、INVISIBLEの器として選ばれた者が、過去に何を齎してきたのかを」
「……だからって」
恒がみせるINVISIBLEの器達への執着はヴィブレ=スミスによって誘導されたものと、比企は断定している。
そんな定義づけをされる覚えはなく、恒は不本意だ。
INVISIBLEの器達への虐待に抗議するのは遺伝子云々の作用ではなく、人道的に当然のことだ。
比企は間違っている、だが主張しても人権を持たず、アカデミーで100年もの囚獄生活を経て根性の据わった彼等には子供の屁理屈程度にしか聞こえないのだろう。
恒の感性は明らかに神階に在籍する神々とはズレ過ぎていた。
恒は権利を主張するばかりでは相手にしてもらえない。義務と権利は相当の対価で結ばれていない。
神々は常に、与える者であり享受するものではないと教え込まれている。
それが恒と比企との間にある、根本的な価値観の違いだった。
「それがどれほど非人道的であろうと、何ら躊躇するものではない」
頭の片隅で、恒にも分かっている。
彼女をこのまま手厚く保護して育て、物心つかぬうちに絶対不及者となったとしても彼女は都合よく利用されるだけだ。
確固たる意思を持って創世者に抗う。
そのための最低限の自我を育てようと、比企は提案しているのだ。
しかし12歳となって論理的な思考能力を身につけ心を持ってしまった少女が彼女を待ちうける運命を理解したとき、恐怖に押しつぶされてしまわないだろうか。
強い心を持っていられるだろうか……アルティメイト・オブ・ノーボディと一体となり、INVISIBLEを捻じ伏せ世界そのものとなる、それが可能か否か。
幸福な生涯は、彼女にはどのみち用意されていないのに――。
「俺は間違っていると思います。でも力づくでそうされるなら、その瞬間まで彼女と共にいます」
「それは彼女にとって頼もしいことだろう」
彼女のスティグマ。
彼女の持つ創世者の力、抗原を恒の身に刻み続けることによって恒の持つ抗体は学習してゆくだろう。より迅速に、そして強く発動するようになる。
抗-絶対不及者抗体(Anti-ABNT Antibody)の正体は、人間の免疫機構を応用した恒のアトモスフィア分子によるハイブリッドグロブリンで、軽鎖(LC)と重鎖(HC)4つのヘテロテトラマー(四量体)として機能するらしい。
人間のポリペプチド抗体と同じく、Y字型をしている。
Y字の上の部分は超可変領域(ハイパーバリアブルリジョン;Hypervaliable resion)として機能し、絶対不及者のアトモスフィアを6箇所のエピトープ(結合認識部位)で認識して強力に結合し、アトモスフィアを相殺し絶対不及者の力を殺ぐ。
その結合能は抗体が抗原に晒される機会が多いほど高くなり、抗体のアビリティ(結合力の総和)は指数関数的に高まってゆく。
恒が抗体を鍛えれば鍛えるほど絶対不及者からINVISIBLEの影響力を殺ぐことができるのだ。
抗体の作用が強ければ、恒は命を落とさずに済むだろう。そして必ずレイアが助かる方法も見つけてみせる……。
悶々と考えていて、恒はとあることに気付いた。
霧を掴むかのように頼りない発想ではあったが、彼は突破口を見出した。
「比企様。もし彼女が成長し、神として成熟したら共存在(co-existance)も出来るようになりますか?」
「共存在は今や、いにしえの神である荻号にしか出来ぬ荒業だ。不可能ではないが困難を極める。共存在の原理は、バイタルを分割してゆく事にある。バイタルの分割を繰り返すたび神体は劣化してゆく。一度発動するごとに命の半分を棄て、死に至らしめる荒業だ。命を惜しんで力を削る事が出来なければ、分身を成さん。だが削った命はもう二度と、還ってはこぬ。荻号 正鵠が過去に何度共存在を発動したのか知らんが、一度や二度ではあるまい。奴の寿命はあと200年もない筈だ」
比企は結局のところ、訓練ごときで命を削るのを惜しんだが為に、共存在を習得出来なかった。
それを荻号 要は当然だと言い、命を惜しんでいいのだと言った。
見下されているような、さも自分が特別であるかのような荻号 要の言い草が、比企は気に入らなかったものだ。荻号 要は惜しげもなく彼の寿命を削り続けたが、今にして思えばノーボディであった彼の寿命が減ることはなかった。
ところで荻号 正鵠はノーボディのように無限の生命を持ってはいない、彼は何度か共存在を発動した上で更に、今回は解階を超空間転移に巻き込むほど強力な分身を創り出し、相当の生命力と力、アトモスフィアを不可逆的に切り捨てた。
その代償は彼の神体から差し引かれている。
荻号 正鵠は荻号 要のように不死身の存在ではないというのに、彼の奇妙で理解しがたい信念に沿うものの為なら、彼自身の命をいくらでも粗末にする。
惜しくもない命を削る荻号 要よりよほど根性がすわった神だ、と、比企は彼を評価せざるをえなかった。
そしてレイアは要するに、共存在を習得するための縛りがない。
彼女は命を惜しまずに訓練ができる。
「もし……もしです。彼女がスティグマのあるレイアと、スティグマを持たないレイアに存在を二分することが出来たなら……。スティグマのないレイアは助かるんでしょうか。彼女がふたりになっても、きっとスティグマは1つだけです。そうでなければ彼女が生まれた瞬間に、INVISIBLEはユージーンさんに加えて、レイアにもスティグマを刻んだでしょう。それに、普通の神々には出来ないかもしれないですけど、彼女には見込みがありそうです。比企様はプライマリという概念をご存知ですか?」
恒はユージーンの言葉を思い出す。
彼の身にもしものことがあるとは思えないが、念のため話しておきたい事があると言われて、ノーボディと一体となった際に得た記憶を片的に恒に話して聞かせていた。
プライマリという概念と、G-ES細胞(神化全能性幹細胞)についても詳細に教えてくれていた。
現在神階に在籍する神々は、サブカルチャー(継代用)の細胞から誕生したコピーであり、プライマリ(初代)という一回も分裂させていない細胞から誕生した神がユージーンと、そしてレイア=メーテールなのだと。
ユージーンから話を聞いた時は、その情報がさして有用だと思えなかったものだ。
プライマリが他の劣化した細胞と比べて、どう優れているのか分からなかった。
ただ新しいものと使い古し、それだけだ。つまりユージーンがノーボディの能力を受け継いだ最強神となった理由を、単純に説明するものでしかなかった。
劣化コピーである神々がどう努力をしても、ユージーンのようにはなれないのだと言われている気がして落ち込んだものだ。
だが彼はただ情報を誰かと共有していたかっただけで、他意はなかったのだろう。
結果的に彼が恒に与えた一見何の価値もないような情報を、恒は適切に活用できそうだった。
「プライマリとは、ノーボディが直接生み出した、クローンではないいにしえの神々のことです。彼らは特徴的な容姿を持っていて、金髪なんです。人間でも白人は色素が薄くて劣性遺伝的な金髪ですけど、そんな原理ではなく、この金髪はノーボディのアトモスフィアが沈着した色なんだそうです。この子、すごく金髪でしょう、しかもユージーンさんよりよほど濃い色をしています。ノーボディの力を強く受け継いだこの子は、ユージーンさんより圧倒的に優れたプライマリになるだろう。彼はそう仰ってました。彼女は一度も分裂せず劣化していない細胞から生まれた原始の力を持つ神です。彼女はもともと素質があって、俺達がどれだけ修行して出来ない共存在も、案外簡単に出来るんじゃないでしょうか」
「お前はどうだ……頑張れるか?」
比企は恒にではなく、レイアに語りかけた。
彼女は何も知らないまま、比企の感情の起伏がない灰色の瞳を、不安そうに見つめるだけだ。世界はこの幼き女神、レイア=メーテールに全てを委ねようとしていた。
「もうひとつ、我侭を聞いて下さいますか?」
恒が何を要求するものか、比企には聞かずとも分かっていた。
「紫檀さんとユージーンさんに会わせて下さい。紫檀さんは身を挺して俺を守ってくださいました。どうしても直接お会いして、お礼が言いたいんです。ユージーンさんは脳死状態になってしまったけど、まだ身体は生きています。生きているうちに、お会いしておきたいんです。分かってます、抗体の俺が抗原の彼と会うと危険だって。ブラインド・ウォッチメイカーが彼の身体の中にまだ残っているかもしれない、殺されそうになるかもしれない。でも……このまま会うことも出来ずお別れをしなければならないなんて、俺は絶対に嫌です!」
恒の剣幕に、比企の心は激しく揺さぶられた。
悲痛な願いの中に垣間見える、彼への思慕と敬愛の念。
それらを押し殺して、今生の別れを耐え忍べとは言えなかった。
「紫檀は命に別状はない、今ではなくとも意識が回復した頃に会いに行けばよかろう」
比企は呆れたような表情を装いながら、しかし優しく微笑んだ。
「ユージーンの神体は荻号が持ち帰った。すぐに追えばまだ最期は看取れよう」
「無理をお願い申し上げました。ご高配をありがとうございます」
恒はレイアを抱いたまま、深く頭を下げた。
*
冷え切った真っ暗闇のなか、不気味な機械音が鳴り響いている。
室内は明かり一つなく、辛うじて荻号の発するアトモスフィアで半径2メートルほどの視界があるぐらいだ。
これから3時間をかけてユージーンを凍結するのだと、荻号は言う。
医学的知識に明るくはない朱音でも、脳死が精神の死、そしてやがて肉体の死に繋がると理解している。
荻号は肉体の死を遮断するが、それが再起に繋がるかというとそうではない。
単純に、死を保留するだけ。
凍結を解いた瞬間に彼の肉体はゆっくりと朽ちはじめ、完全に物質へと還る。
荻号の処置はその場しのぎであって、もはや彼は死んだも同然の抜け殻でしかなかった。
ユージーンが、死んだ――。
朱音は彼の教師としての一面的な姿しか見ていないし、見せてもくれなかった。
ユージーンが朱音に向けた表情は優しい教師、それだけでしかなかった。
死の兆候すらもない状態から脳死に至るまでの間、恐らくは学校に来なくなってしまった間に、神として何をしてきたのかを、どうしても知りたかった。
だが、彼が脳死を起こした直接の原因ですらも分からない……。
朱音には二つの、拒絶すべき現実が突如として迫っている。
一つはユージーンの死であり、いま一つは彼女自身のことだ。
物わかりのよい朱音だが、彼女の正体が人ならざる者であって、共に暮らしてきた家族達とは何の血のつながりもなかったという事実を、感情的に理解するのは困難だ。
しかし朱音がたった一つだけ救われたのは、荻号という、地上に暮らす神の存在だ。
朱音はこれまでと同じように生活をしてゆける。これは異例のことだといえた。何しろ地球上に住居をもって留まり続ける神など、荻号ぐらいのものだというのだから……。
朱音は荻号を紹介した松波夫人に感謝しつつ、それでも将来の不安を拭えない。
「……神様。羽根ってどうしても生えてくるもんなんですか?」
朱音は暗くて心細いので荻号の傍に座りながら、彼に寄り添っていた。
こんな怪しい男がユージーンと同じ神だというので信じられないが、彼は瞬間移動で風岳村からこの得体の知れない部屋へと瞬間移動を行ったのだから、信じられないと言ってはいられない。
「ああ」
「生えてほしくない場合は?」
「手術で取るか、生えてこないようにするかだな。後者は骨芽細胞に脱分化薬を投与して羽根にならんようにするとかな」
「コツが細胞? 奪文化薬?」
朱音は専門用語を連発されて、脳内変換が出来ずにいる。
小学生として育った朱音では恒のように理解が追いつかない。
的外れな発言に荻号は気抜けした顔をしたが、彼女に理解を期待するのも野暮だと思い直す。
「脱分化薬だよ。羽なしになるわけだがそれでもいいのか? 不恰好だろ」
「不恰好でもいいです! 私、人間に戻りたいんです」
朱音は必死だ。
「戻りたいつっても、お前が人間だった事など一度もないんだよ」
荻号は茶化すようにそう言ってから、朱音が涙目になってきたので滑ってしまった口を押さえた。
「そうやって見かけだけ何とかしても、意味がないと思うがね。ところで、長生きはしたいか?」
「80歳ぐらいまでは」
せめて、平均寿命までは人生を満喫したいと思っていた。
「人生って100年だと思うだろ? だが使徒の場合、3000年は生きるんだぜ? お前は80歳になっても老いないし、見た目だって二十歳そこそこ。人間社会で暮らし続けるには、限界がくるんじゃないか?」
「神様が、私を人間に出来ないんですか?」
朱音は根本的な要求にうってでる。
仮にも神様だと名乗っているのだから、そのぐらい出来てもらわなければ困ると考えたものの、荻号は素っ気無いものだ。
「残念だが、そんな力はない」
朱音はしゅんとして、何も言い返せず口をつぐんだ。
荻号が朱音の相手にも飽きて、頭の後ろで腕を組んでうたたねをしようとした時、荻号の真上から突然、天井すれすれの高度で何か二つの物体が降ってきた。
比企と恒が、荻号のアトモスフィアを追ってやってきたのだ。
衣擦れの音に弾かれたように天井を見上げた朱音を、荻号が庇うように片手を翳して、もう片方の手で反射的に抜き取ったフラーレンをひと束取って放つ。
それを迎え撃つように、比企は逆手に持った懐柔扇から衝撃波を浴びせかけた。
挨拶代わりに投げつけられた120枚のフラーレンは比企によって見切られ、呪符はぴたりと空中で動きを止めた。
比企は大きく息を吸い込むと、荻号を怒鳴りつける。
「殺す気か!」
比企は何とか応戦が間に合って肩で息をしている。
「……へえ。なかなか機転が利くな」
比企は懐柔扇から繰り出した衝撃波によって、フラーレンC120の構造を変え、荻号の攻撃を無効化していたのだ。
「フラーレンC60の結合様式が炭素クラスターのそれと同一ならば、ストラテジーは自ずと定まる」
比企は外部よりエネルギーを与え、フラーレンC120の構造を変え、フラーレンの機能を崩したのだ。
サッカーボール型のフラーレンのクラスターの周囲を、あたかも土星のリングのように呪符の鎖が環構造を成して取り囲み、錯体となってフラーレンとしての機能を押さえ込んでいた。
「フラーレンC60を封ずる、二重カーボンナノリング・フラーレン錯体へ立体構造を変えたのか」
転移直後に不意打ちの状態で超神具フラーレンC60の攻撃をまともに喰らったら、ただごとではすまない。
だが、比企にはフラーレンの攻撃を弾き返すだけのパワーはなかった。
そこで比企がどうしたか。フラーレンどうしの結合力に干渉し、構造を変えてやる。
フラーレンの業の一つ一つはその構造に対応しているので、少し構造を変えるだけで用を成さなくなるはずだ。
比企の洞察は正しかった。構造を変えた途端、フラーレンは攻撃性を失った。
攻撃性を持ったその呪符がたった一枚でも恒に張り付いてしまったなら……。
比企はまだしも、恒の命はなかった。
炭素クラスターの性質を知る比企が、咄嗟の判断で敢えて荻号の業に干渉して攻撃を妨害したのだ。
薬神であった彼が昔とった杵柄、というべきなのか。
「突然降って来たのが悪い。来る前にせめて連絡ぐらいしろ」
荻号は荻号で言い分がある。追跡転移をかけられたのだから、敵ではないかと疑いもする。
「携帯も持たぬ者と、どうやって連絡を取るというのだ」
荻号と白髪男が互いを罵り合っている間に、一瞬の間に何が起こったのかわからない朱音は、和服を着た白髪の男の後ろで困惑したような表情を浮かべている一人の少年を見つけた。
「こ……恒くん?」
朱音は暗闇の中でも、見間違えない。
彼はいつも学校や村で見る様子とは違っていた。恒が恒ではないようだ。
まるで神話の中の神のように、ゆったりとした純白の衣を身に巻きつけ、金色の眩い赤子を抱えている。
別人と見まがう変貌ぶりに驚愕はしたが、人違いでは有り得ない。
彼は紛れもなく藤堂 恒だ。
その証拠に、彼は名前を呼ばれた瞬間、悪肩をびくっとこわばらせた。
「朱音……何でここに?」
「恒くんこそどうしてここにいるの? それに、その格好なに……?」
恒は恒で、朱音が荻号とともにいるのだから全くの想定外の状況だ。
「へー。お前ら、知り合いだったのか?」
まだ怒りのおさまらない比企をやり過ごしながら、荻号が楽しそうに口を挟んだ。
「荻号さんが、朱音を……?」
「ああ、神階に上げようと思ってな。何かまずいことをしたか?」
恒の態度から、恒が朱音に全てを告げて欲しくなかったという意思を読み取っている筈の荻号は、白々しくもそんなことを言う。
荻号が風岳村に住み着いたと知った時から、いつかは朱音の存在に気付いてしまうだろうとは思っていた。
だが荻号に口止めはきかなかった、仮に口止めをしたとしても彼は朱音に真実をぶちまけるだろう。彼は無駄な隠しごと、戦術的に意味のないその場しのぎの嘘を嫌う性質だ、それは荻号 要とのやり取りの間に恒が学ぶべきだった。
「まさか!」
「ああ。ご明察」
恒の反応を楽しむようににやついた顔に、恒は憤りを禁じえない。
荻号の表情から、朱音にまつわる全ての秘密を朱音に打ち明けてしまったと察する。
ああ、このヒトは何てことをしてくれたんだ。
ユージーンが、織図が、そして恒やメファイストフェレスがみな一丸となって協力して、彼女のためにずっと隠し通してきたのに。
「恒くんは……知ってたの? 私が……」
恒は大切に抱えていたレイアを比企に預けると、こわばった朱音の腕を無理なく引いて、荻号と比企の視線を避けるように部屋の奥に連れて行った。
恒は比企と荻号から死角にあたる場所にランプを見つけて灯すと、暗闇の中にほのかな明かりがともる。
彼は上着を脱ぎ、冷たい床の上にそれを敷いて、無言で朱音をその上に座らせる。
世界の果てのような場所で、朱音はこれが夢であって欲しいと何度となく願った。
「朱音」
「……」
彼女は膝を抱えて座り込み、顔を膝に埋めながら、恒の呼びかけに答えてはくれない。
こんなのあんまりだ、酷すぎる。
彼女の気持ちが、すぐ耳もとに聞こえてくるようだ。
そのつもりはなかった、だが確かに恒は朱音の気持ちを裏切っていた。
「おばさんには、連絡をして出てきた?」
朱音はふるふると、力なく首を横に振る。
やるせなさから家を飛び出すようにして出てきて、かれこれ4時間は経っている。
恒はユージーンから借りていた携帯をおもむろに取り出すと、諳んじていた電話番号を思い出し、朱音の家に電話をかけはじめた。
朱音に携帯を渡して直接言わせようとしたが、話せる状態ではない。
恒は朱音の母親に、帰りが遅くなるが一緒にいるので気にしないでくれと朗らかに告げた。
彼のいつもと変わらない口調が、朱音には余計に怖ろしかった。
恒はどれほど朱音や周囲の仲間達を欺いてきたのだろう。彼は昔から、仲間を庇ってよく嘘をつく子だった。
それが必要なことだと踏めばどんな嘘でも表情ひとつ変えず平気でつけるのだ……。
携帯を切ると、また嫌な沈黙が続く。
お互いがお互いの探り合いをしているようで、恒は先に切り出した。
「言えなかったんだ……。変わらないでいて欲しかったから。聞いちゃったら辛いだろうと思ったし……」
「私、人間じゃなかったんだよ。それを知ってて、恒くんはずっと黙って、知らない振りをして友達のようにしてたの? そうやっていつも笑顔で、何を考えていたの!? 怖いとか気持ち悪いとか、絶対そう思ってたんでしょ……? もう恒くんのこと、信じられないよ」
よりによって恒に知られた……。
朱音が人間でないと言うのなら、恒にだけは絶対に知られたくなかった。
気持ち悪いものを見る目を向けられたくない。
何も知らない朱音に同情して真実を告げなかったのか。
そうやって表面上では友達のふりをしていながら、内心どう思われていたかなど分からない。
しかし恒の言葉は、そんな朱音の疑念と疎外感を払拭させた。
「人間じゃないのは俺も同じだ」
朱音の息が止まった。
「俺は自分が人間じゃないって聞いたとき、仕方ないって思ったんだ。でも朱音が俺と同じように仕方ないって諦められるか、そうは思えなかった。俺、朱音のことよく知ってるからさ……」
「恒くんも、天使なの?」
恒は朱音の顔を、まともに見ることができないまま、ぽそりと呟く。
「俺は神だ」
「恒くんが……神様?」
涙を目じりにぶらさげたまま、朱音は唖然とした。
「同じぐらい深刻だろ?」
恒は朱音の気を紛らわせるために、わざと明るい口調でそう言う。
現実は普通の神よりもっと深刻な立場にあるのだとは、朱音には言えなかった。
「じゃ、今は天国にいるの? ずっとここにいるの?」
「ここ二週間ぐらいはね。今後はどうなるかわかんないな」
少し気を抜くと、すぐに沈黙が訪れてしまう。
まだ荻号と比企の罵り合いが遠くに聞こえるが、どちらかが声を出していないと、闇に包まれて消えてしまいそうだった。
「恒くんはもう、風岳村とか、恒くんのおばさんのこととかどうでもよくなったの? 私は村で暮らしたい。ここにいちゃダメだよ。戻ろうよ……昔みたいにまた、一緒に遊んだりしようよ」
「朱音は村にいていい、でも俺はもう無理だ」
「どうして、そんなこと言うの? ひどいよ恒くん。何だか別のヒトみたい」
朱音は啜り泣きながら、精一杯真剣な眼差しで恒を睨む。
しかし彼はいつもの彼と違った表情を見せている、それは10歳のそれではなかった。
もっと長くを生きたような、穏やかな表情を。
白衣を纏っているからなのか、彼自身が光を湛えているような気にすらなる。
ああ、彼は確かに神になったのだ。
朱音は気付かずにはいられなかった。
よく見ると右手には包帯を巻いて、顔やむき出しの肩には赤く生傷が残っている。
彼は神となるまでに、あるいは神となってからどれほど傷ついたのだろう。
藤堂家に残っていたおびただしい血痕を、朱音は昨日のことのように思い出す。
あれは恒のものだったのだ。
今日真実を知った朱音の何倍も苦しんで、数々の困難を乗り越えて今の彼がある。
朱音は彼の肩にあった大きな古傷に触れて、撫でた。
「恒くん、傷だらけだ……」
心無い言葉を投げかけてしまったと、朱音は後悔した。
恒は彼が神であることを知らなければ、怪我をする機会もなかったかしれない。
だから、同じ思いをして欲しくないと思って朱音に打ち明けなかったのだ。
恒は朱音に撫でられるがままに任せながら、彼女の辛そうな表情が胸に突き刺さる。
彼女の沈鬱で思いつめたような表情を、恒は一度たりとも見たことがない。
記憶に残る彼女はいつも周囲を照らす光そのもののように、透き通った笑顔を振りまいていた。いたたまれない。
「……知りたくなかったよな。記憶がなくなればいいと思う?」
「うん……」
恒は彼女の返事を耳にして、彼女の記憶を消すべきだと思った。
恒が強引にマインドコントロールをかけるのは危険だから、荻号にFC2-メタフィジカルキューブを返してもらって適切に行うべきだ。
知りたくなかったという朱音の気持ちは聞いた、ならば彼女の望みをかなえるまで。
彼女の親友として最善の状態に戻す……。
「今まで通り朱音は人間として、俺は朱音の友達として全て元通りになれるとしたら、その方がいいよな……」
誘導するような口調だったので、朱音は恒の意図に気付いた。
そうだった、彼は半人前であるだろうが神だ。
神様ってたしか、人の心を読んだり操ったりできるんだっけ。
ユージーンに何ができたかを思い出し、迂闊なことを言ってはならないと朱音は警戒心を強める。
「そしたらまた、恒くんは嘘つくの? こんなに傷ついて神様になって苦しい思いをしてるのに、学校や村では明るく振舞うの? 私は恒くんが神様だってことも、私が天使だってのも忘れて……何事もなかったかのように暮らすの?」
朱音はいっそう近くに寄ってきて、視線を外そうとする恒の顔を覗き込む。
彼は自身が傷つくよりずっと、他人を気遣う。
朱音は恒のぶっきらぼうな振る舞いや、気ままな行動の裏に他者を思いやる優しさが垣間見えるのを知っていた。
神となった恒を見ていると、ユージーンの死がオーバーラップする。
ふと恐怖心が身をもたげる。
今も朱音のすぐ後ろで無機的な動作を続けている棺の底に、いつか恒が沈んでゆかないだろうかと――。
「私はもう、恒くんに嘘をついて欲しくないよ……ありのままの恒くんを見せて。私は恒くんが分からない、前からよく分からなかったけど。神様なんてやめちゃえばいいじゃない。あの茶髪の神様みたいに地上に住んで、そういう事も出来るんでしょ?」
恒は申し訳なさそうに俯いて、首を横に振った。
「俺んち、襲われてぶっ壊れてただろ?」
「う、うん」
恒は朱音にマインドブレイクをかけ、朱音が見たもの、聞いた事を徐々に読み取っていた。
朱音はブラインド・ウォッチメイカーの思念と邂逅している。
そして一度は恒を殺すようにも洗脳された。
ブラインド・ウォッチメイカーの影響力は荻号の撃ったフラーレンによりある程度取り除かれたようだが、まだ完全に排除されたとは言い難い。
何かの拍子にその記憶が蘇ったなら、朱音はブラインド・ウォッチメイカーの思念に引き摺られて恒を殺そうと企てるだろうか。
しかし恒は、殺されるかもしれないと分かっていても、朱音と距離を取ったり逃げたくはなかった。
逃げてはならない、彼女からも、そしてブラインド・ウォッチメイカーからも。
恒はもう充分に逃げた。
恒が逃げる度に誰かが傷つく。
ユージーンの死を機に、逃げてはならないのだと、恒は固く彼の心に決めた。
「俺が地上にいると村の皆に迷惑がかかる。でも朱音は人として生きるんだ。お前は使徒であって人間じゃないのかもしれない、でも心までそうじゃないだろ? 俺みたいになっちゃだめだ……でないと、引き返せなくなる。そして……」
朱音は俯いたまま、返す言葉もなかった。
「朱音。一緒にユージーン先生にお別れしよう。クラスのみんなや村の人たち、皐月先生のかわりに。皆の思いも引き受けて」
恒は立ち上がり、朱音に手を差し伸べた。
「ユージーン先生には、家族がいない。たくさんの使徒に囲まれていても、ひとりぼっちなんだ。彼の死を本当の意味で悲しんで、手を合わせることができるのは。さよならが言えるのは、ここにいる俺たちだけ。だから……辛くても先生にお別れをしよう」
差し出された恒の、その手は小刻みに震えていた。
【現】ナノリング・フラーレン錯体…サッカーボール様骨格のC60フラーレンをシクロヘキサン環とベンゼン環のリングが帯のようにとりまく構造です。美しい構造をしています。