第1節 第60話 Antibodies and antigens
響 以御は比企から非常連絡を受け、緊急に紫檀を陽階中央集中治療室に収容する手配を整えた。
神の寵臣として知られる川模 廿日、その夫である紫檀に、神からの一方的な暴行が加えられたと軍神下幕僚統監部が速報で報じたために、軍神下使徒階には激震が走った。
無抵抗の紫檀に致死寸前の暴行を加えた神を公然と非難する声は大きかった。
以御は脳裏に過った一抹の不安を無視し紫檀に生物階降下の許可を与えた彼自身を激しく責めたが、全ては遅きに失した。
使徒達はユージーンを神であり軍神下使徒達の上司ではあると認識していたが、決して独裁者であり暴君ではないと信じていたし、かねてよりユージーンもそう説いていた。
だからこそ、軍神下使徒達は職種上陽階で最多の犠牲者数を出す位神に仕える使徒となったといえる。
ユージーンを信じていたからこそ彼のもとに集ったというのに、信頼を予期せぬ形で裏切られた。
使徒は神の為に身を削り、時には命すら投げ出すが、彼らの心意気がどうであれ、神階ではヴィブレ=スミスの代より神を頂点とする絶対君主制は廃止されている。
陰陽階神法、”第四種公務員(使徒)の待遇に関する細則”改訂に基づき、位神は使徒階で定期的に行われる支持率調査が30%を下回ると罷免されるようになった。
使徒も神を選ぶ時代になったというわけだ。
使徒達からも愛想を尽かされるような無能な神は廃除するという狙いもある。
目下、無実の使徒を傷害したユージーンに対する大反発から、ユージーンが位神を追われるというケースも考えられる。
だが、もはやユージーンの罷免などを懸念している余裕は以御にはなかった。
藤堂 恒がユージーンの精神が敵の手に落ちたと言った矢先の事件だ。
紫檀、そしてユージーンに何が起こったのか、最悪の事態を想定した以御はそのニュースに深く失望した。
比企はまた電話で、以御にこうも告げていた。
”当今(現代)軍神は脳死状態になり再起不能だ、代がわりを想定し備えていろ”と――。
以御は比企の通達を受けて、冷静かつ迅速な対応を執った。
まず彼が行ったのは、ユージーンに渡っていた軍神の指揮権をユージーンから以御に取り戻すことだ。
こうしていなければ、指揮権の不在が起こり、軍神下使徒全体が動けなくなる。
ユージーンが自殺を試みる前に、軍神が崩御しても任務が滞らないよう、ユージーン自身の手で3年分の司令と以御への職権譲渡が確約されていたが、それが再び役に立つ時が来ようとは思わなかった。
結果的に彼が残した遺言書により、ユージーンがいつ崩御しても軍神麾下幕僚統監部という組織の存続は問題ないように整えられていた。
体制の磐石さとは裏腹に、以御は執務机の上で手を組み、深い息をつく。
「ユージーン……遂に逝くのか……」
以御が想定していたより少し早い別れだった。
彼はユージーンを、完璧ではないがそれなりによいパートナーだと思っていた。
ユージーンのたった181年ばかりの生涯は、思えば不憫な一生だった。
それでも以御は喪失を乗り越えてゆかなければならない。
誰を失い、どんな犠牲を払ってでも――。
それが神々に仕える第一使徒という責任ある仕事だ。
以御が主を失ったのは実に三度目だった。
三度も耐え難い喪失を経験すれば慣れるかというと、それはある意味正解だ。
以御は二度の喪失の経験から、神に献身的に尽くしてはならないと学んでいた。
しかし、入階衛星からの映像を取り寄せ、VTRの検証をしながら以御の目の前のソファーに座っている二岐は、どこか割り切った様子の以御とは全く逆の心境だった。
二岐は極陽の発動した奥義が紛れもなく精神を破壊し、ユージーンにとって致命的な損傷を与えた事を彼女自身の双眸でしかと確認した。
二岐は不死身と呼ばれる存在に二度も仕え、二度の崩御を経験するのだろう。
神に深く依存する彼女は、その事実を俄かには受け入れられなかった。
「残念ね……。比企様の仰るよう、絶望的かもしれないわ。もっとも、絶望的にしたのは誰かしら……」
彼女は鎮痛な面持ちでそう述べた。
「どういう意味だ?」
二岐は比企が主神たる極陽を言葉巧みに戦場に送り、ユージーンを抹殺するよう仕組んだと見抜いていた。
極陽は比企の期待通りの働きをしたまでのこと。
比企は彼の正義を貫く為には、怖ろしく残忍だ。
彼とは恋人より頻繁に手紙の遣り取りをした頃だったか、あるいは荻号との対話の中で垣間見えたものだったのか、二岐は長年の交流を通じて比企の性分をよく知っていた。
彼女は振り絞るように、一言だけこう述べた。
「あの方はいつも、正しすぎるのよ」
「同感だな」
以御の姉、響 寧々は比企の持つ、どんな事があっても折れない、檜のように真っ直ぐな正義感に惚れたのだそうだ。
比企は器用に生まれつき、愚直なユージーンとは対極に位置する神だといえる。
以御は比企のそういう部分に馴染めず、ユージーンのように青臭くても真摯な神が好きだった。
姉弟でも趣味の違いは顕著なものだと、姉と冗談を交わしたものだが、まさかよりによって比企にやられるとは思わなかった。
以御は何度目かになるため息をついた、今更グチグチ恨み言を言っても仕方ない。
ユージーンは死んだ、その事実は恐らく変わらない。
以御は黙って執務机の隅にあったユージーンの名札を伏せて廃した。
軍神 ユージーンの代は今日を以って終焉を迎える。
以御は悲嘆に暮れてもいられなかった。
妊婦の廿日に夫の容態を伝えるべきかどうかも判断する必要がある。
死んだ者を悼むより、生きている者の為に最善を尽くす方が有意義で生産性がある。
勿論、気を紛らわせる為にも。
以御は紫檀の容態を把握するために、陽階中央集中治療室に連絡をつける必要がある。
「そっちへの連絡もいいけど、紫檀の事、妻には伝えないの?」
「廿日はもうすぐ臨月だ。だから迷っている……下手すりゃ、ショックで流産させちまう」
「でも、紫檀はまだ生きているのよ。いつまでも隠しきれるものではないわ。それに、容態が悪化したら!? 今生の別れになるかもしれないのに!」
攻め立てるような二岐の声に、以御は彼自身を落ち着かせるように深呼吸をした。
「比企殿のはからいにより、医神 紺上 壱見殿が処置をして下さると仰っている。紫檀が数日以内に命を落とす可能性は低い」
比企はかなり無茶をしたようで、普段は使徒の治療などしない紺上に、極陽の名で処置を命じている。
紺上の腕の良さは折り紙付きだった。
紫檀は使徒の大動脈ともいえる翼を失っているので大量失血をしているが、それ以外の致命傷はないのだそうだ。
一度預かった患者は絶対に死なせない事をモットーとする彼女の医神の名誉にかけても、みすみす紫檀を死なせはしないだろう。
比企は紺上のプライドの高さを逆手に取った。
二岐は執務机ごしに背伸びをし、どこか後ろめたそうな以御の瞳を覗き込んだ。
以御は思いがけず急接近をされて後ろにのけぞる。
「何事も、絶対というものはないわ。以御」
「……そうだな。俺はここを動けん、指揮権を持っているからな。テスラとリプラを使って紫檀を見舞いに行け。廿日はテスラに乗せてやれ。馬はエアポートにつけてある」
以御は公獣の天馬、自らの騎乗する牝馬リプラを二岐に貸し出すと言った。
リプラは軍神下十大使徒の騎乗する馬としては最速を誇る、競走馬のように引き締まった栗毛の伝馬だ。
数百年にもわたり廿日が騎乗していたテスラは、今は名義上、二岐の馬になっている。
まだ赴任して間もない二岐は騎乗したことがない。
二岐が以御の馬に乗り、廿日は慣れ親しんだ馬に乗らせろという、以御の配慮だった。
テスラは廿日によく懐いている、妊婦の彼女を乗せられるのはテスラだけだ。
妊婦が馬に乗るなど生物階では考えられないが、翼を持つ伝馬は殆ど振動をさせずに疾走、滑空でき、瞬間移動の出来ない使徒にとって、最上位の交通手段といえば公獣しかない。
陽階中央集中治療室には公獣エアポートから公獣で駆けつけるのが事実一番速い。
「私ではなくてあなたが行かなくて、いいの? 指揮権が気になっているのなら、心配はいらないのよ。神階を離れなければ、指揮権を放棄したとは見なされないわ」
神階の法制については、二岐の方が以御よりよほど熟知していた。
二岐は荻号の第一使徒だった頃、放蕩を繰り返す荻号に何度も指揮権を押し付けられたが、その間に四六時中執務室に缶詰では仕事がはかどらない。
彼女は指揮権を持ったまま様々な公的機関を出入りしていた。
それでも法務局からのお咎めは一度たりともなしだ。
「二岐、お前はここにいてくれるか?」
「ええ。早く行ってあげて。長い付き合いの部下なんでしょう?」
「後を頼む。廿日を迎えにいく」
以御は頷き、ソファーの上に無造作に投げ出していた彼の白いコートを引っ掴むと、執務室を飛び出していった。
*
聖域であり開かずの階層である至聖階を除いては神階の最上部に位置する天奥の間は、深い静寂に包まれていた。
比企は以御に連絡を取ると先ほどからコンソールを操り何かを走査しているようだが、恒は周囲で刻々と変化し続ける環境に適応することも出来ず、傍観者でしかいられなかった。
「藤堂」
「……」
比企は手を止め、ユグドラシルの黒い硬質の大樹の下で腑抜けたように這い蹲っている恒を見下ろした。
700年の長きを生きた比企は、彼にとってはあまりにも幼すぎる恒に、こんな時にまで不動の精神力を強いる事はしなかったし、期待をすらしていなかった。
比企が何かを恒に語りかけようとした時、それを遮るかのように恒のすぐ隣に蜃気楼が現われ、ヴィブレ=スミスが天奥階に戻ってきた。
恒は振り仰がずとも誰が戻ってきたのか分かっていたが、直視できなかった。
天奥の間の主は黙って肩を震わせ、冷たい床の上で涙を落とす少年神に視線を向けた。
憐れむように、しかし人の心に囚われた彼に蔑みを込めて……。
「私はつくづく……、お前の厭がる事をしてしまうらしいな……」
極陽は恒に弁解をする様子もなく、手を伸ばして彼の首根を軽く掴んで吊り上げた。
恒は力が入らず、頑として立ち上がろうとはしない。
「私を憎むなら、心行くまで憎しむがよい。だが立て。腑抜け者は神階にはいらぬ、地上に戻れ」
極陽はそう言い捨てると、恒を立たせる事を諦めて、比企が代理を務めていた玉座に戻った。
「極陽、レイア=メーテールの背を確認してきたのか」
「ああ」
その結果を皆まで聞かずとも、比企は最悪の知らせと受け取った。
ヴィブレ=スミスは玉座に戻る前に赤子の背を確認してきた。
その幼い背に刻まれた呪縛が彼女の自我を奪うその日まで、彼女は生贄として創世者に捧げられる定めにある。
ユージーンが逃れたなら、誰かが泥を被らなければならない。
彼女が赤子といえど許してはもらえない、INVISIBLEは容赦など知らない無慈悲な存在だ。
ユージーンに見切りを付けたのは、レイアという代わりがいたからだ。
……そして彼女はただプライマリだけであるユージーンより更に、魅力的な特性を持っていた。
「まだ幼い身には、荷が重かったようだ。苦痛に耐えかね、泣き叫んでおった」
「左様か……」
極陽に玉座を譲った比企はユグドラシルの樹下に飛び降り、恒に肩を貸そうとしたが、恒は無言で拒絶した。
今は誰にも触れられたくはなかった。
比企は宥めるように声を落として、恒の肩を掴む。
「藤堂、聞き分けのない事を申すな」
その手を振り払われた比企は、今度は恒の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。
今度は有無を言わせる様子ではなかった。
「この者は暫く己が預かる。構わぬな。師弟契約は師の崩御により無効となった、もはや彼はユージーンのものではない」
「だが、お前のものでもなかろう、比企よ」
「では問うが、汝が庇護者足りうるのか?」
比企がそう言ったのは、極陽が奥義PSYCHO-LOGICaseを発動し、アトモスフィアを使い果たしたからだ。
極陽は今やアトモスフィアを極限まですり減らし、回復までには早くても数日はかかる。
生体神具使用の”反動”は、非生体型のそれの比ではない。
極陽は今、身を起こしているだけでもやっとだ。
アトモスフィア吸収環もアトモスフィアを殆ど吸収出来ていない枯渇状態を示す、赤色に変色している。
彼は今、神階を支えるだけでも限界だった。
「……好きにしろ」
結局極陽は、そう言わざるをえなかった。
荻号を失いユージーンを失ったとなると、彼らに次ぐ実力を持つのは極陰か比企だ。
比企のところに預ければ万全かというと答えはNoだが、致し方がない。
神階の長、極陽はもともと全神の所有権を有している。
よって極陽が許可して比企が恒を所有する事は、何ら違法性はなかった。
恒の意思など何一つ尊重されない、当事者を無視した遣り取りが交わされた。
*
それから暫くの間、恒は放心状態にあった。
陽階神にとって恒は、どこまでも道具でしかないとはっきりした。
それを恨みに思ったりはしないが、もう前には進めそうにない、そう思った。
ユージーンがいたから、恒は彼と共に進んでゆけた。
暫くは続くと思っていた道が突然、途切れてしまった。
いつか恒も彼のように、いとも簡単に殺されてしまうのではないか……彼の死によって、そんな悪夢が現実味を帯びてきた。
どこか遠いところに霧のように漠然とした忌まわしい未来が、突然姿を現し迫ってきたような感覚だった。
「…様……藤堂様」
恒のすぐ耳元で、聞き慣れない女性の声に気付く。
呼びかけに答えなければとは思うが、胸がつかえたように言葉が出てこない。
「藤堂様!」
もう一度肩を叩かれ、彼は正気に戻る。
恒は先ほど比企の転移に巻き込まれて、広い書斎の応接椅子に腰掛けていた。
恒の肩を叩いたのは同じソファに並んで座る美しい白髪の女だ。
神階では絶対にといっていいほど神が身に纏わない、青という特徴的な色を用いたワンピースを着ているので、使徒だと分かる。
折れそうなほど細く華奢な身体は、儚げな印象を与える。
更にむき出しになった白い右肩には、切り絵のようなコントラストの黒い御璽、籐玉璽が彫り込まれて、比企の第一使徒だとも気付いた。
白く長い睫毛が印象的だ。
恒は枢軸全神の名を暗記しているが、使徒の名までは覚えていない。
誰だろう、彼女とは初対面の気がしない。
「ご気分はいかがですか? お顔が真っ青になって、お呼びしても、少しもお気づきにならないものですから」
「……ごめんなさい。え……と」
「私は、響 寧々と申す者です。先ほど自己紹介をいたしましたが、お耳に入らなかったようですね。何があったか、私はお伺いしておりません。こんな時は何もお考えにならず、温かいものでもお召し上がり下さい」
寧々は両手で抱えていたカップを恒に手渡す。
恒の腕に鳥肌が立っているのに気付き、寧々が真夏だというのにホットレモンを差し出した理由が分かった。
執務室に連れてこられてどのくらいの時間、茫然としていたのだろう。
腕時計を見ると、比企にここに連れて来られてから5時間は経過していた。
彼女はその間ずっと、寄り添っていてくれたようだ。
視界に入っていなかった。
「響さんって……」
「はい。以御の姉にあたります」
よくよく見ると、似ているような気がしないでもない。
長い睫毛に、整った顔立ちとパーツの派手さ。
確かに以御の姉なのだろう。
白色個体特有の印象的な紅い瞳が、まるで白ウサギのような彼女のルックスを際立たせた。
「比企様は……」
「あら、まあ。主はずっとそこにおいででしたのに……」
アトモスフィアを感じていた筈だが、存在にすら気付かなかった。
比企は正面の書棚の梯子に腰掛けて、調べものをしていたようだった。
比企の書斎は荻号の書斎に勝るとも劣らぬ蔵書量を誇っており、怪しげな書物がインデックスをつけて整頓され秩序正しく並べられている。
「われにかえったか、藤堂。暫くは己と行動を共にしてもらうぞ。汝の安全の為だ」
「では、俺はここに……」
「行動の制限はせん。どこへでも、行きたければ行くがいい。だが随時同行させてもらう」
比企はこちらを見向きもせず、辞書のような分厚い書物を書棚に戻した。
恒は空気を読んで、この話題を口にすべきではないと思ったが、そう思った頃には口をついて言葉が出てきてしまった。
「あの、ユージーンさんは……」
比企はどうしてもユージーンから離れられない恒につくづく呆れたように、もう非難はしなかった。
軍神がこれほどまでに慕われるという事は、あまり前例がない。
だがユージーンに対する執着は、恒の本能のようなものだ。
彼はユージーンに依存している、抗体が抗原を求めるかのように。
「ユージーン、か……。汝にとってユージーンは、肉親やそれ以上の存在だったようだな」
「でしたのに。俺はあのヒトに、何もしてあげられなかった」
比企はゆっくりと梯子を降りて、恒の向いに腰を下ろした。
寧々は比企が降りてきたので控えて、比企に何か耳打ちをすると、席を外す。
漏れ聞こえた内緒話は、恒にあまりきつい事を言わないようにと比企に釘を刺すものだった。恒は比企とふたり、片付きすぎた明るく殺風景な部屋に取り残された。
比企は寧々の忠告を意識したのか、先ほどの張り詰めたような声とは違い、穏やかな口調で彼の信念を切り出した。
「藤堂、我々は人間ではない。神はひとり何処から出でて、ひとり逝く者だ。それを悼んで泣いてはならぬ」
恒は答える事もできないまま、ただただ首を振る。
「汝は人の心に支配され過ぎている。神として在ろうとするならば、挫かれてはならぬ。前に進めぬなら、置いてゆく」
比企はまだ肩を震わせている恒の頭の上に、筋張った手を乗せた。
「過去を振り返らず未来をのみ見据えていよ、汝が救えなかった者を、今度はその手で救う為に……。他者の為にこそ、真に強くなれ」
ユージーンだけが神ではない、様々な思想を持つ神々の寄り合い所帯、それが神階という組織であり、比企もまた神の一柱だ。
一理あり、正論だった。
しかしそれが正論だと思えば思うほど、彼の過去を、更には彼の生そのものを否定されているように感じるのだった。
「比企様。ユージーンさんの代わりに、絶対不及者の器として選ばれてしまった赤ちゃんがいると、先ほどお話しでしたね。そして、苦しんでいると……」
比企は恒を無理やり、彼女の元へ連れてゆこうとはしなかった。
だが本心では彼女を何とか救いたいと考えているのだろう。
「創世者の爪痕は宿主を蝕む。ユージーンは充分にアトモスフィアを備えておったが故に、苦しまずに済んだ。だがアトモスフィアなど皆無に等しい赤子には、過重な負荷となるのだろう」
「俺……その子に会いたいです。俺は創世者の力を封じる抗体を備えていると聞きました。今の俺に何が出来るか、どうすればよいのか、あるいは何もできないのかもしれません。でも、その子の苦しみが少しでも和らぐのなら、できる限りやってみたいんです。ユージーンさんにしてあげられなかったことを、彼女にしたい」
恒は八雲 青華の言葉を思い出していた。
スティグマに触れることでAnti ABNT-抗体を活性化させ予備免疫を作るのだ。
どれほど熱くても、身を焦がされそうになっても、創世者の力から逃げずに触れ続ける。
そうすれば、まさにその為に生み出された恒の身体は記憶する。
創世者の力という抗原に立ち向かう為に、どのような抗体を作るべきなのかを――。
恒は、荻号や比企によって恒が守られ、生かされた意味をかみ締めていた。
尽くさなくてはならない、今の恒にできる最善を。
前に進むために、また歩み始めなければ。
「そうか、では行くか。己も見届けたいものだ、汝に何が出来るのかを」
比企はどこかほっとしたように、恒の決意を受け止めた。
「お願いします」
恒はがむしゃらに動き続けるしかなかった。
油断をすると、またユージーンの面影を思い出す。
彼の優しさ、恒に与えてくれた数々の救いを――。
恒は比企に手を取られて、執務室の景色が消える。
転移先の室内には絶叫とも泣き声ともつかない、赤子の悲痛な声が響き渡っていた。
育児室は清潔感のある、南国のリゾートのように風通しのよい明るい部屋だ。
激しい泣き声に、育児係の使徒たちはどうする事も出来ず右往左往するばかり。
ベビーベッドの周囲は、神々や貢物と思しきおもちゃで埋め尽くされている。
強い照明を避けるように吊られたレースの天蓋をたくりあげて、恒は一柱の幼き女神と対面した。
神々の母と名付けられた彼女は、その名に違わぬほどに美しく気品のある女神だった。
ユージーンと似ている艶やかな金髪に、翡翠色の瞳が間違いなく彼女の正当性を明らかにしていた。
恒はGL-ネットワークのニュースを欠かさず読んでいたから、彼女がどれほど神階に注目されている赤子か、知っている。
彼女は女性なのだ、神だというのに完全なる生殖器を持った女性の女神。
史上類を見ない稀少な特徴を備え、この上なく貴重な存在。
だが彼女は彼女の価値を、今は理解できない。
その頬には涙が伝い、眉間には不快感を示す深い皺が刻み込まれている。
小さな手は何かに救いを求めるかのように宙をかき、足をじたばたとバタつかせてベッドを揺らしている。
恒は不可避の苦痛を押し付けられてしまった彼女の姿を目にし、何故か無性に抱きしめたい気持ちを抑えられなかった。
恒には当然赤子だった時分の記憶などないが、志帆梨は恒の為に病気の身体に鞭を打ち、彼女なりに精一杯の育児をしてくれたと、親戚からはそう聞いている。
アルバムの写真と書き付けられた彼女のメモを見るたび、志帆梨が恒に惜しみなく与え続けてきた深い愛情を受け止める。
だが泣きじゃくるレイアには、血の繋がった存在がひとりとしていない。
これが神の幼少期の姿なのかと思えば、ぞっとするほどに他人的な関係だった。
乳母がわりとされている使徒達はいるし、周囲にもたくさん控えているが、彼らは仕事として三交替制で勤務している。
助けを求めるレイア=メーテールに手を差し延べてくれる者は、残念ながら誰もいなかった。
「苦しいのであろうな。この苦痛がこれから三年間、片時も休まずに続くのだ。それでも彼女は死ぬ事が出来ぬ。実に残酷だ」
比企はそう述べるに留まった。
アルティメイト・オブ・ノーボディは生贄にするために彼女を生み出したのではなかっただろう。
だからこそノーボディはユージーンに、彼の合意の上で囮としての役目を担わせていた。
恒は彼女に手を伸べる。
レイアは差し伸べられたその手を、強い力で掴んでくる。
やはり何かに縋っていたいのだ、それが喩え、母親ですらない10歳の子供にであっても……。
恒は意を決して、彼女の白い産着の紐を解き、無理なく抱き上げうつぶせに寝かせた。
白布が解けてその肌があらわになったとき、恒は彼女の背から飛び出してきた強烈な光に、目を焼き付けそうになった。
彼女は激しく声を上げている。
恒がスティグマを直視しているので、使徒が慌てて、持っていたサングラスを恒に差し出した。
閃光を発するスティグマを直視した者は、失明すると言われている。
彼等は失明を恐れて、サングラスを用意していたようだった。
「不用意にスティグマを直視するのは危険にございます。これを」
「必要ありません」
他の誰が目を背けても、恒だけは立ち向かわなければと思い、目を見開いていた。
しばらく直視していると、光に目が馴染んできたように感じられる。
思い起こすに、これは荻号の研究室でユージーンの背にあったものと同じものだ。
大丈夫、恒はユージーンのスティグマを直視した経験がある。まだ失明はしていない。
鍵と鍵穴を暗示すると言われる、幾何学的な光の紋様だ。
複雑に刻み込まれた、ホログラムのような金色の刻印が、幼い肌の上を這うように蠢いている。
一瞬一瞬、刻々と変化する紋様。
ユージーンのときにはまじまじと見なかったが、意外とデザイン的なものであることに驚く。複数のループと直線の組み合わせによって成る、あるいはレールを組み合わせたシンボルのようにも見えた。
創世者の体現者の証、これが彼女に激痛を齎し、彼女を囚縛する呪縛だ。
恒は自らの掌を確認するように見つめ、歯を食いしばると、光に侵食された素肌に右手を重ねた。
ジュッと生々しい肉が焦げる音と煙が上がり、攻撃的なまでに熱を帯びたスティグマが異常免疫として、不浄のものとして烙印を押した恒の手を焼き切ろうとする。
熱した鉄板に触れているかのようだ。必死に堪えながらも、彼は決して逃げず、彼女を見捨てようとはしなかった。
身体に電流を流されたような激痛が走る、熱いのか、痛いのか、それすらも感覚が麻痺してよく分からない。
恒は恒を支配する、遺伝子の住処を知らない。
藤堂 恒という神体を構成する何十億個もの細胞の内の遺伝子一つ一つに、ABNTの抗原の情報を刻み込もうとする。
アルティメイト・オブ・ノーボディの言葉を反芻する。
死を体験する事はすなわち、生を見つめなおす事である――。
比企は恒の行動に口を差し挟まず、役目を果たそうとする恒の成長に、目を見張っていた。
たとえ右手の皮膚が炭化して使い物にならなくなってしまったとしても、左手がある。
肉体の半分が人の遺伝子に支えられている恒の遺伝情報を利用すれば、再生医療を駆使し皮膚を再生することは不可能ではなかった。
外科医である彼は最悪の事態を想定しながら、恒の身を案じるがあまりにその手を払いのけてはならないと考える。
炭化しはじめた恒の皮膚が、焼け付きながら俄かに紫色の光を帯び始めた。
惰弱だった恒のアトモスフィアが、はっきりと可視化され始めているのだ。
細胞が死を悟った時、Anti-ABNT抗体は各々の細胞の中で目を覚ます。炭化してゆく恒の掌の一つ一つの細胞から、夜光虫のように紫色のアトモスフィアが溢れ出す。
まるで夜光虫が波間に漂うときに見せる、一瞬の発光のように儚い光を、幻のように散りばめる。
そうやって光る胞子のように放たれた光の屑は、彼女の素肌に降り積もり、降り積もる事で地表を覆いつくす雪のように、スティグマを穏やかに鎮めてゆく……。
恒の肉体が破壊されてゆくと同時に生まれ出づる儚い力――。
これが、Anti-ABNT抗体の正体だ。
”ああ……これが……”
レイア=メーテールの背のスティグマの発光がすっかりと鎮まり、彼女の涙が頬の上で乾いてしまった頃には、恒は焼け焦げた掌もそのままに、恒は彼女を抱き上げて思い切り抱きしめた。
「ごめん……ごめん。もう、苦しい思いはさせない」
恒は重傷を被りながらも、およそ三階の歴史上、有史以来唯一といってよい快挙を成し遂げた。
彼は創世者の力に抗う、抗体と成りうる。
それを実証したのだ。
INVISIBLEの呪縛から、彼女を一時的にとはいえ解き放った。
彼は様々な思いを喉の奥に押し流しながら、小さな赤子を抱きかかえたまま座り込み、いつまでも離そうとはしなかった。
恒が身に纏った白衣には、彼の流した血が伝って落ちていった。
「俺が、守るから。……彼を守れなかった、この手で……」
熱に浮かされたうわ言のように彼は繰り返す。
その右手にはもはや、感覚など通っていなかった。
*
その日の午前中、石沢 朱音は母に連れられ、広岡市内の総合病院の診療内科を訪ねていた。
U.I.が世界中に蔓延しはじめたその頃から、朱音の不眠は日ましに酷くなり、時折錯乱して発作的に泣きたくなることもあった。
母親は、朱音が背中に異常な骨を抱えているというので、精神的に不安定になっているのかとも思ったようだが、医師の診察によると、どうもそのような病的なものではなかった。
何か不吉な陰が、朱音に忍び寄っているのではないか。
母はそんな嫌な予感とともに、我が子の身を案じていた。
朱音は絵にかいたような優良児、真面目で明るく、賢明で母親思いのよい子だった。
母親は朱音を誇りに思っていた、その事を誰よりも、朱音がよく知っていた。
母親は軽自動車で田舎道の帰途をひた走らせながら、日差しの強い照り返しを受ける彼女の頬を守るように、サンバイザーを下ろす。
彼女は沈黙を続ける朱音に、こう切り出した。
「ねえ。もしかして朱音ちゃん、今までずっと悩んでた事、お母さんに言えなかったことがあった? ずっと無理してきた事があったんじゃない? お母さんね、朱音ちゃんがずっとずっといい子だと思ってた、でも私は知らない間に、あなたによい子である事を強いてたのかしら」
母の買った缶ジュースを開ける事もなく、ぼんやりとそれを額に宛がい冷やしていた朱音は、母親の憂いを帯びた横顔を見た。
母親は唇をかみ締め、激しく彼女自身を責めているようだったからだ。
「母さん……、私、いい子なんかじゃないよ。そうなろうともしていなかった。これまで本当に楽しかったし、母さんの子供でよかったとずっと思ってる。でも今の私はどこか、私じゃないみたい。怖いの、私の意思とかそんなの無関係に、どこかへ押し流されてしまいそうで……」
これが朱音の本心だった。
夜になると、朱音が寝付こうとすると朱音の精神に何かが忍び込んでくる。
こういう現象が起こり始めた夜から、朱音は睡眠をとることに、極端に恐怖を感じるようになっていた。
ユージーンと出会う前の恒が一度だけ口にした、”眠ってしまうと、自分が消えてしまいそうだ”という言葉が、今は他人事とは思えない。
朱音はただ、一人になることが怖かった。
母が先ほど薬局から、何の薬を受け取ったのかは分かる。
睡眠導入剤だ、精神安定剤も処方されているかもしれない。
自分は、石沢 朱音という人間は異常なのだというレッテルを貼られたような気がした。
銀色の少女と出会って以来、いつも気分が優れない。ふと気を抜くと眩暈がする。
闇が怖い、しかし光は眩しすぎる。
「私、ずっと私だよね? 私でいられるよね、母さん。また昔の私に戻れるでしょ? ねえ」
母はハンドルを大きく切り、黙して頷くのが精一杯だった。
「次の診察は、火曜日よ。大丈夫、偉い先生にかかっているんだもの。必ずよくなるわ」
「私、病気じゃないよ……母さん。私を見てよ、私は何も変わっていない、途切れる事無く、ひとつながりの私なんだよ。何かがそれを、私が私でいる事を許さないの」
朱音は母親が、正常な頃の朱音と現在の朱音に明らかな線引きをしている事に、疎外感と孤独感に苛まれた。
病気ではない、私は変じゃない……朱音の引き裂かれそうな心の声は、母親には届かなかったのかもしれない。
そう、たとえそれが実の母親であろうと。
「先生に、会いたい……」
「? 高橋先生のこと?」
高橋とは、朱音の担当の精神科医だ。彼女は違う、と首を振った。
「違うの。ユージーン先生。会いたいよ……」
毎日のように辛い思いをし続けてきた、壮絶な日々を生きてきた恒を救った彼は、忽然と姿を消している。
彼ならばこの状態を、何と言ってくれるだろう。
そして豊迫巧を救った彼は、どのように朱音を救ってくれるのだろうか。
「そうね……。ユージーン先生は、どこへ行かれたのかしら」
車が家のガレージに滑り込むと、弟が外に遊びに出て行った。
母親は部屋に入り、すぐに壁掛けの受話器を取って電話をかけはじめた。
留守番電話に、九州の母親の実家から用件が録音されていたので、折り返し電話をかけはじめたのだ。
彼女の長電話は小一時間、延々と続くことだろう。
朱音は電話にすっかり気を取られた母親の目を盗んで、ポケットにチョコを詰め込むと家を出ていった。
土曜の2時からはピアノのレッスンの予定があったものだが、習い事はこの二週間、母親が断りの電話を入れて休ませていた。
彼女の足は自然と社務所に向かっていたが、ユージーンが不在だということは、改めて確認するまでもない。
彼女はただ徘徊するようにぶらぶらと歩きながら、目的地を見失っていた。
ようやくたどり着いた社務所はやはり、もぬけの殻だ。
朱音は仕方なく社務所を通りすぎ、用水路の欄干に腰掛けて呆然としていると、農具を肩に担いだ松波夫人とばったり会った。
「こんにちは。今日も暑いねえ」
「……」
朱音は松波夫人の言葉を完全に聞き逃していた。
松波夫人はいつも欠かさず元気に挨拶をする朱音が何故か、別人のように無視を決め込むので驚いて、彼女を心配した。
「アカネちゃん!」
「あ、ごめんなさいおばちゃん。ぼっとしてて」
朱音は我にかえり、取り繕おうとしたが、朱音の無駄な努力は無駄に終わってしまった。
「どうしたの? らしくないわ」
風岳村の村民は田舎気質で人懐っこく、お節介だ。
松波夫人も例に漏れず、何か異変があったのかを聞きたがった。
「おばちゃん、ユージーン先生をさがしているの」
「あら、何か用事? ついさっきいたわよ」
朱音は興奮なあまり、目を見開いて欄干から飛び降りた。
「おばちゃん、どこに」
「おばちゃんの隣の家にね。オゴウさんっていう外国人が住んでるの、荻号さんがついさっき神様を介抱していたわ。倒れていたんですって」
「わ、わ、わかった。行ってみる」
松波夫人は、あっという間に姿が見えなくなってしまった彼女を見送り、ほっとしたように微笑んだ。
女子ではクラス一の俊足を持つ、朱音の走りは驚異的な速さだ。
希望が見えてきた、ユージーンにさえ会えれば、何とかなるような気がした。
彼なら何とかしてくれる。
息せき切って、彼女は松波家の隣の、つい先月まで空き家だった家に駆け込み、迷惑もかえりみずインターホンを連打した。
暫くしてガラス張りのドアが開くと、中からは赤茶けた長髪をした、怪しい細身の外国人が出てきた。
その風変わりな様子に朱音は面食らったが、あれだけインターホンを押してしまった以上、逃げ帰るわけにもいかない。
どうしよう、松波夫人と一緒に来ればよかった、そう思っても仕方のない話だった。
「は、Hello……My name is Akane Ishizawa…」
彼は朱音を嘗め回すように、頭から爪先をじろじろ値踏みするように見つめた。
彼女は空色のワンピースを着て、どこにでもいる普通の少女の姿だと朱音は思うのだが、彼は子供があまり好きではないのか、怪訝な顔をして朱音を見下ろしている。
その表情が朱音には気になった、彼を訝しがらせるような、変な格好をしているのだろうかと。
彼が片手をドアに掛けて覆いかぶさるような体勢でいるので威圧感を感じ、彼女は身の危険を感じて一歩後ずさった。
「あまり流暢ではなさそうだが、お前は英語で話したいのか?」
「あ、日本語で! 日本語でお願いします!」
男の発言に朱音は違和感を感じつつも、彼があまりに流暢な日本語を話すので、日本語での会話を要求した。
「お前、誰の使徒だ? 上に上がり損ねたのか」
「何の事ですか? 私は、ユージーン先生に……」
「そうか、ちょうど上に上がるんでな、連れていってやるよ」
彼はぶつぶつとそう呟いて、玄関扉を全開にして朱音を招きいれた。
松波夫人はどうしてこんな男に家を貸し出す事を決めたのだろう。
何もかもが奇怪だ。
「……あの、何のお話をしているんですか? 私にはさっぱり分かりません」
「まあいい、中に入れ。ユージーンは中にいる」
朱音が中に入ると、こざっぱりとした居間にごろりと無造作に寝かされているユージーンがいる。
一体これはどういう状況なのだろう。
その寝顔は穏やかだが、朱音が駆け寄って揺さぶっても彼は微動だにしない。
まるで死んでしまったかのように。
「ユージーン先生は、どうしたんですか?!」
「今から神階に連れて行く。お前も戻るだろ、つかお前、誰の使徒なんだ?」
荻号は朱音の腕を掴み、ユージーンを肩に担ぎ上げた。
朱音は荻号の言葉に一抹の不安を感じたが、何かを言い返す余裕もなく浮遊感がして、次の瞬間には薄暗い部屋へと景色が変わっていた。
朱音は肌寒さを感じる。
そこは中世の魔術師の実験室のような部屋であり、怪しげな実験器具や、対照的に近未来的な機械が処狭しと並べられていた。
床に散乱する書物の山。
一寸先は闇になっていて、部屋の全貌が見えない。
足音が響き渡り、どこからともなく水音や機械の駆動音が聞こえてくる。
朱音は辺りを見渡し、大変な場所に来てしまったのではないかと怖くなった。
荻号は部屋に電気を灯しもせず、ユージーンを担ぎ上げたまま巨大な棺桶のような装置の中に、スーツのまま放り入れ、毒々しい青い液体の中に沈めてしまった。
ゆらゆらと、無抵抗のユージーンは水底に沈んでゆく。
大きな水しぶきが上がったのに気付いた朱音は、柩にしがみつくようにして中を覗き込んだ。不思議なことに、彼は水に浮かないのだ。
朱音は水の中に手を差し入れて伸ばしたが、棺の底が深く届かない。
荻号は柩の隣にケーブルで接続されていた端末を起動した。
真っ暗な部屋に、3Dで表示されるモニターの青い光が折り重なるように、極小フォントで表示され、煙のようにパラパラと消えてゆく。
彼がプログラムを入力し、空中に浮かんだエンターキーを叩くと、蓋が自動で閉ざされた。
彼は何をしようとしているのだろう。
朱音は荻号の腕にしがみつき、必死に訴えた。
「やめて、先生が窒息して死んじゃう!」
「ユージーンは脳死したんだよ。肉体の死を避けるためにこれから三時間をかけて、こいつを凍結させる」
「脳死……ですか」
朱音は頭が真っ白になってしまった。
「ユージーン先生……」
朱音は柩の側で泣き崩れた。朱音が触れている柩は荻号のコマンドを受けて、徐々に冷気を帯びてくる。
柩の側面にはめ込まれている窓から中を覗き見ると、青い溶液が少しずつ凍りはじめていた。荻号は泣きじゃくる彼女を助け起こすと、朱音は見ず知らずの男にしがみつき、彼の腹の辺りに顔を埋めてわんわん泣いた。
「も……う、終わりだよ……」
「何が」
荻号は冷静に問い返す。
長瀬といい、この少女といい……どうも、泣きつかれる性分なのだなとそろそろ彼も理解してきた。
「ユージーン先生がいなくなったなんて……」
「ユージーンばかりが神じゃねえだろ。神階に戻れ、神は腐るほどいるんだから」
「何で私が……天国に行かなきゃいけないの」
彼女は不意に彼が繰り返し使う、神階という言葉が気になった。
神階に戻れという言葉は、まるで朱音がもともといるべき場所だという風に聞こえる。
しかし彼女は気付いていなかった、一瞬のうちに転移したこの部屋が既に神階の一角であるという事に――。
天国に至る道程は、荻号に限ってはコンマ数秒だ。
「お前、人間みたいな事言うなよ」
荻号は朱音を宥めようともせず、ズケズケとそう言う。
荻号は彼女にマインドブレイクをかけていなかった。かける必要すらなかったからだ。
「私、人間ですよ? 何を言ってるの」
「お前人間じゃねえぞ、何だ? まさか知らなかったのか? こりゃ傑作だ。お前今までどうやって命を長らえてたと思うんだ、神に縋って生きてたんだろ?」
朱音はあまりに衝撃的な言葉に、さきほどまでぶらさがっていた涙が自然と引っ込んだ。
彼女はそう、ただ彼女の耳を疑う事しかできなかった。
「……何?」
「使徒だよ、俗っぽい言葉で言えば天使ってやつだ」
彼の言葉が、朱音の心に突き刺さった。
どこかで彼の言葉を全否定したいと願う一方で、朱音の中で、すべてが一瞬にして繋がったような気がした。
すると……背中の一対の異常な骨、あれがまさか……。
「私の背中……羽根が生えようとしてたの?! お、お願いします、嘘だと言って下さい」
「冗談で言うかよ、神階に戻って新たな神んとこに就職して、そこそこ幸せに暮らせばいいだろ。今から神階に連れてってやるから、他の神につけ。ユージーンはもうアトモスフィアを出せん。そうするしかないんだ」
朱音はこれまでの短い人生を振り返る。
普通の家庭に生まれ、何不自由ない生活を送ってきた。
村のみんなと普通に楽しく遊んで、勉強もほどほど、両親や家族も普通で、平凡な少女時代を過ごして……。
「私、人間として生まれました、風岳村に家があって、家族がいて……幸せに暮らしてました。天国に連れていかないで下さい、人間として生きていきたいんです」
「そりゃ無茶苦茶だ、いいか。使徒は神のアトモスフィアを喰って生きてるんだ。誰でもいいから神にアトモスフィアを分けてもらわなければ餓死するしかないんだ、ユージーンは風岳村を去った」
彼女は再び涙が込み上げてきて、いっそう彼にきつく抱きつくと、荻号を真っ直ぐに見つめてぽろぽろと涙を零しながら彼に訴えかけた。
彼は分からない言葉ばかり浴びせかけて、朱音の心をメチャクチャに引っ掻きまわす。
「アトモスフィアって何ですか? そんなものがなくても、私は飢え死になんてしません。毎日、お母さんのご飯をたくさん食べてます。野菜も残さずしっかり食べてるんです。大好きなオムライスも。私は神様に縋って生きて来たつもりはありません、私の家族や、友達や、先生達や……大事な人達に……」
言いながら、彼女はまたボロボロ泣いていた。
おいしかった……母の手料理、いつも、お腹をすかせて家に帰った。
食事をすれば満腹になったし、アトモスフィアなんてものを食べたことは一度もない。
荻号は肯定も否定もせず彼女の話をじっと聞いていた。
どんなに高栄養の食物を食べても、どんなに野菜を取ってビタミンを補おうとしても、使徒は神の傍を離れると1ヶ月ももたずに餓死する。
彼女の身体からはほのかなユージーンのアトモスフィアの気配がした、それ以前には織図の、うっすらと恒のアトモスフィアも感じる。
ごくごく希釈されている様子から、注射によって接種されたものであろう。
彼女の肉体は、複数の神々のアトモスフィアによって支えられていた。
だが、アトモスフィアは放射性物質であるがために、いつまでも体内に留まってはくれない。
放射性壊変を起こし、減衰してゆく。
だから常に新たなアトモスフィアを補わなければならない。
それは使徒の生存にとって必須の要件だった。
「だから、私を天国に連れていかないで下さい。家族から引き離さないで下さい」
「その家族とやら、恐らく義理の家族だぞ」
「関係ありません!」
「お前は、神の傍らにいなくては生きてゆけない。事実から逃げる事は出来ん、死ぬんだ。脅しではなく事実餓死するんだよ、それでも地上に残りたいのか」
彼女はガタガタと肩を震わせながら、鼻水を啜り上げ、震える声で搾り出すようにこう言い切った。
「残ります」
荻号はそう言って決意を固めた彼女を、まるで父親のようにきつく抱きしめた。
「それだけの決意があるなら、俺の使徒になれ。救ってやるよ、石沢 朱音」
朱音はきつく抱きしめられたまま、放心したまま息をのんだ。
胸のうちが満たされるように感じたのは、心理的なものではない。
もっと本質的な充足を感じる。こみ上げてくるこの思いは何だろう。
「感じるか? お前を生かす力を」
荻号は彼女に、彼女が許容できるだけの最小限のアトモスフィアを与えながら、安心させるように穏やかに囁く。
柔らかで小さな体を、その震える肩を、彼はなんら疾しい思いを抱くこともなく抱擁する。
「……胸が……」
感じる。高鳴る鼓動を。
「それがアトモスフィアだ」
信じられない。これは朱音が知らない感覚だ。
至近距離から浴びせられた強いアトモスフィアは、彼女の使徒としての本能を揺さぶった。これが必要な全てなのだと、否定する間もなく押し寄せ、インプリントされる。
ああ、勝てそうにない、この力には抗えない。胸が熱い……。
「俺は神だ。お前を地上で生かすことのできる、唯一のな」
闇の中で天からそそぎかけられた一縷の希望。
思いがけない人物から与えられた優しい言葉を、朱音は夢心地で聞いていた。