第1節 第59話 When explaining myths in science
「きゃーツッチーカッコいい。さまになってたよー! でも質問にはいっこも答えられてなかったけどねー」
「アホか、もーボロボロやー。もう色んな意味で終わってもーてー……観光行くで、打ち上げせなな!」
「あ、店の地図はgoogleマップで調べといたよー」
築地 正孝、一世一代の国際学会の大舞台の舞台裏では、長瀬がそんなねぎらいの言葉をかけていた。
異国情緒ただよう街を、二人で歩く。
彼はこのたびの未曽有の感染症、U.I.の特効薬となった化合物に関する演題の招待講演に、スイス・ジュネーブに招かれていた。
教授が事もあろうに学会をダブルブッキングしてしまっていて、仕方なく共同演者となっていた築地が国際学会で発表することとなったのだ。
発表用の原稿とパワーポイントは教授が用意していたものの、英語に堪能な長瀬はこの大役をわざわざ英語の死ぬほど苦手な築地に押し付けてしまって、ガイドマップを見ながら気楽なものだ。
講演が終わると各国の研究者たちから質問が殺到したが、一言も答えられない築地は研究室の連絡先をパワーポイントの最後のスライドに差しはさんで、何か質問があればこちらまでと言って命からがら逃げ切った。
ゼミの時間にはいつも身を削るような思いをしていた築地だが、今日ほど冷汗をかいたことはなかった。
築地は生まれて初めて、ぶっつけ本番で立たされた世界の大舞台で、大恥をかいた。
もっと流暢に英語が話せたなら、もっと勉強していたなら。
今よりましな発表ができたのではないかと思うと情けなかった。
……仮定ばかりの逃げ道が頭をよぎってゆく、そんな思考回路が情けない。
思えば言い訳や逃げ道ばかり考えていた。
せっかくの奨学金がパチンコ代に消えた事もあった。
毎日スロットの攻略本ばかり読んで暮らしている。
夜通しネットや麻雀をして、昼過ぎに大学に顔を出す。
目が覚めなければそれでもよいと思っていた。
襟を正せという人間もいなかったし、荒みきった生活を正す良識ある友達も彼女もいなかった。
親は弁護士の出来の良い兄貴達に過度の期待をかけた分、末っ子の放蕩ぶりなど知る由もなく、知る必要もなかったようだ。
築地の時間、そして頭脳はいつの頃からか錆付いてしまっていた。
「でー、ここが地ビールがおいしい店でしょー。こっちがチーズの卸問屋でー、ほらー。この写真とかすごくない?」
長瀬が隣で一生懸命、観光プランについて話している間も、築地は放心したようにどこか上の空だった。
彼は国際学会場を逃げるように足早に歩み去っていたが、ふと足を止めた。
「なあ長瀬」
「?」
長瀬は急に真面目な口調で話しかけてきた築地に、あるいは告白でもされるのかと顔を赤らめた。
彼がこんな風に真面目な顔で長瀬を呼ぶことなど、これまでなかったものだから……。
長瀬がごくりと唾を飲んだ時、築地はもう長瀬を見ておらず、学会場を振り返っていた。
「俺、もっと勉強するわ。決めた、俺、研究者になる。折角世界に通用する結果が出とんのに、あないな発表をしてもうて……比企さんに悪いことしたわ」
長瀬は告白ではなかったのかと少しだけ残念に、しかしほっと胸をなでおろしながら、半ば勘違いじみた強気な言葉を馬鹿にする様子もなく、晴れやかに微笑んだ。
だが築地の目にほんの少しだけ映った、彼女の瞳の奥に浮かんだ彼女の寂しげな色を見逃してはいなかった。
「長瀬……?」
「そっか! じゃあ頑張ってね。応援してるから、うんうん、ツッチーもやっとやる気になったんだ!」
「何や、今何か言いかけたやろ。それに笑わへんの」
長瀬がそれ以上何も言わないので、築地は拍子抜けした。
はちきれんばかりの笑顔で、ありとあらゆる側面から築地をこき下ろすのが長瀬だ、ただ、応援しているという言葉を返すだけの長瀬など長瀬ではない。
調子に乗るなの一言ぐらい、言いそうなものだったのに。
彼女はすたすたと先に歩いてゆきながら、早口でこんな言葉を吐いた。
「だってツッチー、M2なのにまだ就職決まってないじゃん。研究者にならなかったら何するの? ツッチーはパチンコじゃ絶対食べてけないしー。サラ金で借金まみれになって破産して、それまでじゃん。だったら大学で頑張った方がいいじゃん? それにね……」
「それに、って何やの」
長瀬は一度は飲み込みかけた言葉を振り絞って、はっきりと築地に伝えた。
「今回の業績で、ツッチーを論文博士にするって教授が言ってたよ。教授はね、ツッチーだけをそうするって言ったんだよ。……だからね、ツッチーがその気になってくれないと、悔しいじゃん。私も、皆も頑張ったのにさ……第一著者になって業績をもらえるのはね、たった一人だけなんだよ? そして第一著者をツッチーにしろって教授に推したのは、比企さんなの。皆知ってるんだよ、ツッチーだけ知らないの。比企さんがツッチーに業績をやれって、そう言ったんだって。私、ちょっと嫉妬しちゃった」
長瀬は、えへっ、と不器用に笑った。
ひきつったような、ぎこちない笑顔だった。
築地は長瀬のこんな表情を一度も見たことがない。
そう、彼に向けられたはじめての嫉妬を。
「なんで、私じゃないんだろって思っちゃった」
「長瀬……」
「比企さんがそうしろっていうから、仕方ないよね。神様がそう思うんだから、ツッチーでいいんだよね」
「長瀬、俺、第二著者でもいいぞ。順番にはこだわってない」
「そういうつもりで言ったんじゃないよ、やめてよー」
あれから研究室を去った比企と荻号の行方は知れない。
長瀬と築地は、彼らが研究室を去った日に比企から、ポストイットに書かれた紙切れ一枚の餞別をもらった。
そこに記されたものは、とあるネットワークに入るためのゲストナンバーだった。
誰にも見られないようにアクセスをしろと念を押されたので、長瀬はシゲルとのデートもそこそこに、比企に言われるがままネットカフェでアドレスを入力した。
gttp://から始まるアドレスは存在しない筈だが、紙切れに書いてあった通りgttp://GL-Network.positive.orgというアドレスを入力すると、サイトに接続された。
カフェラッテを飲みながら配布されたIDでログインをすると、長瀬くららの専用ページが出来ていて、付属のメールソフトに比企からのメールが届いていた。
比企 寛三郎はメールで改めて、案の定あらたまった自己紹介をした。
彼は長瀬の推測した通り紛れもなく宇宙人であって、神階という組織に所属し人々の歴史の中で神と呼ばれて認められてきた地球外生物であること。
神階は地球のいかなる危機においても、その総力を尽くして地球とそこに息づく生命を庇護する責任と覚悟、そして用意があるのだということ。
これからどんな困難や災厄が降りかかっても、決して絶望しないでほしいということ。
全てが終わって真の平和が訪れた日には、神階と地球はその垣根を越えて、人々と神々との交流を進めてゆきたいということ。
神階が地球を直接支配するという当初の急進的な思想は棄てたということ。
再び地上に降りる際には、必ず会いにゆくと……。
比企からのメールを何とか口語的に要約すると、そんな感じだった。
追伸に、築地と長瀬には神々のネットワークにアクセスする権利を彼の裁量により付与したと添えられていた。
長瀬が最後に比企と結んだ、”必ずまた会おう”という約束を、彼は守るつもりがあるようだ。
GL-ネットワークで公開されている比企のスケジュールを、長瀬はいつも見ることができる。
それは築地も同じだった。
比企は公務ブログと、使徒たちに向けた神階版タイムライン(GT-TimeLine)の公式アカウントを持っていたので、築地と長瀬はこっそりとフォローしている。
築地が長瀬と違うのは、比企は築地の将来性と才能をかっている、ということだ。
落ちこぼれだった学生に神々の知識を授け、高度な教育を施したいと比企は考えている。
このGL-ネットワークからは、神々の叡智を集めたADAMという図書館にアクセスし資料照会が出来るのだ。
世界中のあらゆる研究者が日夜追究して解明できない現象の、世界の謎の解答集をカンニングする権利を有している。
そして長瀬にはこの素行不良な学生が比企に認められるほどの将来性を持っているとはどうしても信じられないのだが……長瀬は築地のおまけだと、彼女は気づいていた。
そういえば、ADAMというオンライン図書館を利用するうち、この比企という人物は神階において大変な権力者であったという事が判明した。
比企は立法と正義を司る神であり、智力でも武力でも名実ともに神々のNo,2だそうだ。
現在では第一位神の座をかけて昇格試合に挑んでいて、その結果次第では神々の長となる可能性も充分あるのだそうだ。
生物階降下中の比企は少しもそんな背景を明かさず、尊大な態度をとることも人々を見下した様子もなかった。
彼の経歴を知った長瀬が青ざめて、本人に面と向かってヒッキーなどと呼んでタメ口をきいてしまった無礼をいまさらのように後悔したのは言うまでもない。
「あ、それからね。比企さん今度また下に来るって。店とかどこにするー? 比企さんのお口に合うものって、何だろうねー」
「お前、比企さんが超お偉いさんやて分かった瞬間からコロッと態度変えて……。ヒッキーて呼んでみ? ほれ、ほれ呼んでみ」
「えーそんな、もう言えないよー」
築地と長瀬は顔を見合わせて笑ったが、長瀬は一言付け加えた。
「観光のついでにさ、ツッチー。ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど。ある施設の見学に行きたいんだ」
彼女が立ち寄りたいと言ったのは、CERN(欧州原子核研究機構)によって建設された大型ハドロン衝突型加速器 (Large Hadron Collider:LHC)だ。
ジュネーブの郊外にある、全周27kmの超大型加速器。
この施設では陽子ビームが強力な磁場によって曲げられ、ループ状の装置で加速されて陽子と陽子が正面衝突する際に、高エネルギー領域が生成される。
まだ稼動をしていないが稼動に向けての最終段階に入っており、もうすぐ稼動が開始する。
そのとき人類は、14テラボルトのエネルギー、極小ブラックホールを生成するまでのエネルギーを観測する。
LHCの観測結果は高次元の存在を実証する可能性がある。長瀬は神階を知れば知るほど、人類が神階と対抗できるだけの科学力を手にすることが重要だと認識しはじめていた。
これまで神階は生物階に手を差し伸べてきたが、そうでない場合はどうなる?
また、神階は空間と時間を神具によって自在に扱う。
人類はそれらの高度技術に、何を以って対抗するのか。
人類が到達できる最大エネルギーはどこまでで、人はどこまで神に近づけるのか。
そして宇宙の真の姿(標準理論)はどのようであるのか。
LHCはその疑問に答えうるのかもしれない。
「LHCは宇宙を視る為の扉を開くの。私たち人類が手に出来る地上最大のエネルギーを以って、極小の宇宙を観測する。神階は現代科学の言葉で宇宙の何を明かしてくれるのか、この目で確かめておきたいんだ」
彼女の横顔にはもう、笑顔はなかった。
築地はそんな長瀬を、はじめて美しいと感じたのである。だが
「えーっと……つかLHCってなんやの」
悲しいことに、築地はこのレベルだ。
長瀬は築地が相変わらずの調子なので、安心したようにくすりと微笑んだ。
「ねえツッチー、私たちはちっぽけな人間だけど、だからといって神様の存在をまだ信じているわけじゃない。私は比企さんが、全知全能の神様ではないと知ってる。人間と神様の間にある隔たりとはなんだろう」
築地の肌にはいつの間にか鳥肌がたっていた。彼女は遠く澄み渡った空を見上げる。
宇宙に繋がる、紺碧の空を。
比企は第一著者を長瀬に推薦すべきだった、だがそれをしなかったのは……至極真っ当な理由があったのではないか。
築地は長瀬の精神性をうかがい知ることができない。
長瀬は人類が絶対に気付いてはいけないことに、気付いているのではないか。
彼女を世に出してはならないと、そう考えているのではないか。
「面白いと思わない? 私たち人類はようやく、神話を科学する段階にきたんだから」
比企を妄信しているように見えて、長瀬はそうではなかった。
比企は長瀬くららという人間を、本当は恐れていたのではないか。
築地はそう思った。
*
荻号はヴィブレ=スミスを見送った後、脳死状態となったユージーンを荻号の自宅に連れ帰ってきた。
家の前にはちょうど小柄な大家がドアを塞いでインターホンを連打している。
彼女は荻号に担がれたユージーンを見るなり悲鳴を上げた。
肩に担がれてうつ伏せになっていても、一見しただけで分るほど、片田舎では金髪の彼の後姿は特徴的だ。
勿論、銅色の髪を伸ばしっぱなしで、空色というよりは硫酸銅色の瞳を持つ荻号もこの近所では謎の外国人として少々話題になっていた。
言動や風体は怪しいが荻号の飾らない人柄や気さくな様子に、村人達も概して好意的だった。
「……荻号さん、その方はユージーン様じゃないの?」
「そうだよ」
ユージーンと少なからず面識のある大家は、彼が倒れたのではないかと動転している。
ユージーンは(彼の尽力のたまものでもあるが)、村の神様としての地位を不動のものとし、大家も例に漏れず彼を慕っていた。
それが、荻号が担いで連れて帰るものだから、何があったのかと不安になる。
そして荻号とユージーンとの因縁浅からぬ関係についても、詮索をしていた。
「お倒れになられたの?! 何があったの、荻号さん。すぐに上島先生のところに……! 車を出すわ!」
大家はリウマチを患い体が不自由なので、車を足代わりに村中どこへでも出かけ、フットワークが軽い。
彼女はすぐ送ってゆくつもりのようで、ポケットの鍵束から車のキーを探している。
「心配ない、眠ってるだけだよ」
荻号は彼を気遣う大家の心配そうな顔を見るのが心苦しくなって嘘をついた。
何故眠っているユージーンを担いで荻号が自宅に連れ込まなければいけないのかは疑問に思うだろうが、あまり勘も頭もよくない大家は彼に大事ないと分って安心したらしい。
「あんた、こいつを知っているのか?」
大家は何を思い出したのか突然涙ぐんで目頭を押さえ、訊いてもいないエピソードを語りはじめた。
「お世話になったのよ……あれは初夏の頃だったわ。私が畑仕事してた時にね。用水路に母の形見の指輪を落としてしまったの、でも用水路は水がいっぱいで深くて、とても探せそうになかった。それで、途方にくれていたところにユージーン様が通りかかって……この方はまだ村にいらしたばかりだったわ。その頃、私はあまりこの方を信用してなかった」
ユージーンが風岳村にやって来てしばらくの間、彼は今の人気からすれば考えられないほど人望がなかった。村長の玉屋から彼を紹介する宴席があるまでは、ユージーンを虚言癖のある不審な外国人としてなるべく関わり合いになりたくないと大家は思っていた。
そんな大家が、丁度間の悪い時にばったりと、ユージーンに遭ってしまったというわけだった。ユージーンは初対面の大家の顔を見るなり、事情も話していないのに用水路の小さな橋の上から覗いて、大切な指輪だったのかと彼女に訊ねた。
彼が何を言ったのか理解しかねて困惑していると、彼は靴を脱いでザバザバと用水路の中に入って指輪を浚いはじめた。
「もう夕方で薄暗かったというのに、探してくださったの。胸まで泥水の中に入ってくださって、まだ水が冷たかったわ。私も一緒に入って探そうとしたけど、この通り足が悪いでしょ。だからいいから、入らなくていいからって笑顔で仰って。見つかった時には、泥だらけになっていらしたの。涙が出てきたわ。それでも、よかったですねって、屈託なく微笑んで下さって。私、この方が大好きなんです。ずっとこの村にいていただきたいと思います。もし何かあったら……」
それ以来、大家はユージーンに並なみならぬ恩を感じている。
何の躊躇もなく冷たい泥水の中に入っていった彼の姿に、彼女は若夫婦を失って忘れかけていた大切な何か、温かな感情を思い出した。
感謝されるためにではなく、自己満足の為にでもなく、誰かの為に役立つことをしたいと、彼女は強くそう思った。
空家となった若夫婦の家を格安で貸し出したのも、単身日本に来た荻号を気遣って毎日あれこれ親切をするのもそんな思いからくるものだ。
荻号はやはり”神”という役割を生きようとするのならば、神階という異空間から人々を見下すのではなく人のうちにさり気無く溶け込んで、人々に必要とされるべきなのだなとしみじみ思った。
ユージーンという神は、人々にとって真の神なのかもしれない。
権威や畏怖の象徴としてではなく、人々はユージーンのような土地に根付く心優しき神を欲している。
それは神階と生物階が共存する未来の姿であるような気がした。
どうやら荻号の気まぐれでだけではなく、この村の人々の為にも、彼をこのまま死なせてはならないようだ。大家の話が身にしみた。
松波夫人は眼の端にたまってきた涙をちょいちょい、と愛嬌のあるしぐさで拭いながら、野菜の入ったビニール袋を荻号の家の玄関先に置く。彼女からは毎日のように差し入れを受けている、荻号にとってはよき隣人だ。
比企が荻号に用意した偽の経歴では、日本にやってきたフィンランドの薬剤師ということになっている。
毎日のように薬草をいじる行動が不自然ではない職業ということで、比企が勝手にでっち上げた。
薬剤師資格も身分証も偽造している。
実際に荻号には薬剤師としての知識もあったわけだが、大家もその経歴を信じており、そういう経緯でこの大家は彼が庭で得体の知れない植物を栽培する事にも寛容だった。
親切にも肥料を分けてくれたり、彼らが丹精込めて育てた野菜も快くおすそ分けといってくれるのだ。
このおすそ分けという、日本独特の心遣いの文化を荻号は気に入っていた。
「荻号さん、これいつもの差し入れ」
「ああ、ありがとう。今日は何も返すものがないんだ」
荻号は大家が開いて見せたレジ袋の中身を覗き込みながら悪びれた。
これではもらいすぎだ。
「いいのよ、そんな。一昨日荻号さんからいただいた咳止めのお薬、よく効いて。すっかりよくなったの。これはほんのお返しのつもり」
病弱な大家の為に、荻号は僅かながらに手に入る薬草で彼女に合った咳止めの薬やリウマチの薬を調合して分け与えていた。
彼女には随分有難がられている。
リウマチの薬を調合して、荻号は数回に分けて彼女に与えている。
あと数回も飲めば、完治するだろう。
「ユージーン様は、やっと風岳村に戻っていらしたのね。明日からは社務所にいらっしゃるのかしら、村の皆も喜ぶわ。もうどこにも行かないでいただきたいけれど、そうもいかないのね」
「ユージーンは明日からまた、しばらく仕事なんだ」
「そう……お忙しいのね。今は色々と大変な時期ですものね。ところで、どうしてユージーン様を荻号さんの家に運び込んでいるの? というかそもそもどこで寝こけていらしたの?」
大家はようやくユージーンを自宅に運び込もうとしている荻号の不自然さに気付いたらしく、色つきの眼鏡を上げ下げして上目遣いで彼を見つめる。
こんな事をしている場合ではない、一刻も早く何か対処を打たなければならないのに、慌てて家の中に駆け込めばユージーンの大事が大家にばれてしまう。
「あー、そうだな。そこの道端だ。疲れてるらしく起きなくてな。起きるまで少し寝かせておいてやるよ」
荻号は柄にもなく苦しい言い訳で何とか取り繕って大家を帰し、鍵をかけぬままにして出てきた自宅に戻ってきた。
ドアを蹴飛ばしながらユージーンを適当な和室に横たえ、容態を見守る。
呼吸はしているようだが、このまま放置しておけば二度と目覚めない。
やがて呼吸も止まり、軍神は静かに崩御する。
彼の神体には一切外傷がなく死因は単純に脳死という、陽階神としては最も惨めで不名誉な死にざまが用意されている。
「お前、もうこのまま休みたいか」
荻号は独り言のようになりながらユージーンにそう語りかけた。……当然のように、返事はない。
荻号が彼の死を見過ごせば、物思わぬ彼は苦痛なきまま永遠の安息を与えられるだろう。
荻号はそれが不幸な事だとも思わない、寧ろ強く死を望んできた彼にとっては理想的な結末だろう。
このような状態となってしまった彼は、極陽にとってもINVISIBLEにとっても、そしてノーボディにとっても利用価値はない。
絶対不及者となる可能性を失った、死に損ないのユージーンは神階にとってもただの木偶の棒にすぎない。
神階では何らかの事情で脳死となった神に、延命を認めていないからだ。
脳死判定が下され次第、安楽死という処分が下される。執務能力のない位神は排除され、代わりの位神が選出されて即位する。
ただそれだけのことだ。
誰にも必要とされず脳死状態の惨めな姿を晒さなければならないのなら、介錯して楽にしてやった方が彼の為なのかもしれない。
しかし大家の言葉が荻号の耳に残っている。
彼の無様な死を、何も知らない大家に伝えたくはなかった……柄にもない考えだと荻号は思う。
「……おい、こいつはもう、用無しなのか」
彼は誰もいない部屋に、見えない存在を暴きだすかのように目を凝らした。
家の中は昨春交通事故で亡くなった夫婦の遺品が整理されずにそのままだ。
家具は一式揃っていて、大家も片付けるつもりがないというので荻号はそのまま使わせてもらっている。
声はしんと響き渡って、すぐに室内は静けさを取り戻した。
アルティメイト・オブ・ノーボディが荻号の挑発に、乗ってこない。
そうして荻号が彼の時間を浪費している間にも、ユージーンの限られた時間は奪われてゆく。現れるとも知れない”名も姿もなきもの”を喚んでいるのは愚かだ。
荻号がアルティメイト・オブ・ノーボディとの交信を諦めかけた時、ヴン、と寝室のテレビの電源が入った。
ノイズが去ったテレビの向こうには、限り果てなき黄金の草原が映りこんでいる。
画面の右上に、チャンネル表示はない。
即ちこの番組は、存在しない。
アルティメイト・オブ・ノーボディとのアポイントを取り付けた。
荻号の思惑通りだ、思ったより時間はかからなかった、ここまでは――。
「やはり見ていやがったな……。こいつを、ユージーンを失っていいのか? INVISIBLEの次の器は、まだほんの赤子だそうじゃないか。あんたが最後に残したプライマリの赤子とあっては、思い入れも一入、神階最後の牽引者だとうかがえる。ユージーンの代わりにするには惜しかろう」
そんな言葉を投げかけても、黄昏の草原には返事を返す者は誰もいなかった。
荻号は音量を上げたが、無声映画を見ているかのように、ノイズの僅かな音が聞こえてくるだけだ。
コンセントの抜かれたテレビが突然ついて、チャンネル表示すらない画面に切り替わったということは、ノーボディからの干渉が入っていると考えるのが自然だ。
カメラワークは何かをフォロートラックするように草原の左の方へと水平に流れてゆくが、何か目を引くようなものは何もない。
「何だ? 何かいるのか?」
ノーボディの表現の迂遠さに辟易しながら、わざわざテレビ画面に近づいて目を凝らした時、荻号はようやくある事に気付いた。
一見してはさっぱり解らなかったが、何万分の一秒以下の間隔で異なる映像が挟みこまれている。
荻号でなければ捉えられなかったであろう断片的な光景を、彼は一つ一つジグソーパズルのピースを繋ぎ合わせるように個別に記憶して統合した……透明なドレスを着た、長い金髪の少女が風に吹かれ、夕焼けに向かって手を拡げたまま立ちつくしている。
禁視の玲瓏なる輝きを真っすぐにこちらに向け、悲しげに見つめる亡霊のような少女が荻号の意識の裡にはっきりと映じた時、彼は再三、世界の根源に触れたのである。
かくして創世者との対話が始まる。
ノーボディは荻号の知る限り、その意思を言語のように直接的な方法で伝えたがらない。
ある時は水面に浮かぶ水紋の規則性で啓示を与えたり、またある時は不規則に生えそろった葉の暗示であったりした。
この世界の創世者の与える啓示はいつも抽象的なイメージの連鎖であり、隠喩だ。
少女の姿は、いわゆるひとつの暗示であり可能性だ。
ヴィブレ=スミスのマインドギャップを看破した際にユージーンの次に指名される絶対不及者の器は女神の赤子だと知ったが、もし完全なる女性の女神に INVISIBLEが収束する事になれば、画面の中のこのような姿が現実のものとなるのだろう。
絶対不及者の容姿を体現した幼き少女の暗示。
物心がついていないうちに自我を奪われる方が彼女にとってはよいのかもしれないが、強い意志を持って絶対不及者となることを受け入れたユージーンとは異なり、幼児の絶対不及者ではINVISIBLEの思うがまま傀儡となる。
荻号はINVISIBLEの純粋な意思に賭けたいと考えていたが、ユージーンが絶対不及者となる場合と状況が違うのは、女神が生殖能力を持っているという事だ。
生殖能力を持った絶対不及者の存在は脅威。
その脅威は彼女が子供を産む可能性を前提として増幅される可能性がある……。
「まったく。どこにでも、どんな姿ででもいやがるんだよなぁ、あんたは昔から……」
『吾は左様に在った。過去も、そして現在もそうだ』
映像には一瞬だけ神語で字幕のようなカットが入って、またすぐに消えていった。
彼女とは長い付き合いになるが、こうやって対等に意思疎通が出来たことははじめてだった。闇神、荻号 正鵠は長い神階の歴史のうちでほぼ唯一、INVISIBLEの名を騙ってその存在をひた隠しにしてきたノーボディの存在をつき止め、暴き出した神だった。
荻号がEVEのシステムをクラックしている時に奇跡的に気付いた、EVEのシステムの一部が不正に抜き取られてコピーされアクセスされている上位データを発見した時に証拠を突き止めた。
EVEの一角にある、”最果ての谷”というディレクトリを通じてアルティメイト・オブ・ノーボディとデータを共有している唯一のネットワークだという情報は、荻号しか知らない。
「あんた、リアルタイムでモニターしていたユージーンの記憶の、バックアップを持っているだろう。絶対不及者になるであろうユージーンを制御する為にあんたが保管している予備の記憶だ」
『持っていたら?』
「あれを再インストールしろ、この状態ではどうやっても絶対不及者にはなれんのだ。せっかく保管していたバックアップも用無しだろう、破棄するぐらいなら寄越せ」
荻号は年甲斐もなく見た目にはどう見ても少女にしか見えないノーボディを恐喝した。
彼女は瞳を眇めるようにして受け流し、荻号を歯牙にもかけない。
『それは出来ぬ』
「渡せ、どうせ使い道がないんだろ」
少女は話を聞くつもりがないのか、荻号から目をそらし、長いドレスの裾を捌いて草原に座り込んだ。
『再度同じ事が繰り返されよう。不毛だ』
プライマリの細胞を使ってINVISIBLEの器となる特別な神を生み出すことは、アルティメイト・オブ・ノーボディ自身が何万年もタブーとしていたことだ。
だがここにきてユージーンという生贄を差し出してまでもINVISIBLEの目を眩ませ、彼女にとっては秘宝ともいえる存在、生殖能力を持ったプライマリの個体の身代わりとした。
使い捨てにする筈の生贄に利用価値がなくなり、秘蔵っ子をINVISIBLEに奪われ、面白くないことだろう。
「記憶を戻せ。INVISIBLEは再びこいつに呪縛を刻む、必ずだ。こいつがここで死ねば、女神の赤子も助からん。だがこいつに記憶を戻せば、女神の赤子は助かる可能性が出てくる。至極単純な計算だろう、助かる方を救え」
ノーボディは荻号の挑発には乗らなかった。
「あんたは神にはEVEを与えなかった。いや、神々には神々の記憶を管理させなかったといった方が正しいな。生命というシステムの最適化を目指すあんたは自身の手で、凡ての神々、使徒の記憶を広大な墓地の墓標に保管している。あんたにとって神はシステムだ、システムダウンを起こしてもいつでも再起動できるよう、特に位神の記憶はリアルタイムでバックアップを続けている。ユージーンが解階に入る直前に記録したバックアップがあるな」
つまり死神は、知らず知らずのうちにアルティメイト・オブ・ノーボディの記憶収集の下請けを手伝っているという構図だ。
ノーボディは自ら神階の記憶を保管し、生物階の記憶収集は死神に一任している。
ユージーンだけが特別なのではない、アルティメイト・オブ・ノーボディがその気になれば過去に崩御したどの神も、何年何月何日時点の記憶といったように1日単位の正確さで、完全な記憶を持ったまま再生する事が出来た。
つまり理論的には、最近崩御したジーザス=クライストを、崩御する前日の記憶を持ったまま蘇生させるという芸当すら可能だった。
山中で頭部を吹き飛ばして仮死状態となったユージーンが、アルティメイト・オブ・ノーボディの所持していたデータをダウンロードし何一つ不満足でない完全な記憶を持った状態で復活を果たしたのもそういう理由だ。
ノーボディはいつでも死者を、思いのままの状態で蘇らせることが出来る。
今更ユージーンに記憶を戻すなど造作もないことだ。
荻号はEVEが隠し続けてきたデータをクラックすることによって、1万年前に、そこまでの事を調べ上げていた。
創世者の秘密に近づいてきた荻号を危険視したノーボディは荻号を凍結しある意味彼の口を封じてきた。
在位中にアルティメイト・オブ・ノーボディの存在と生命管理システムに気付いた死神は、ノーボディ、あるいはブラインド・ウォッチメイカーになのかもしれないが、どちらかの創世者によりことごとく抹殺されていた。
死にたがりの荻号は1万年前、EVEの謎に近づこうとした当時の死神に依頼されてEVEのシステムを攻撃した。
荻号はアルティメイト・オブ・ノーボディの尻尾を出させ、彼(彼女)と交渉し、ノーボディの思惑通りに協力するという代わりに生かされている唯一の存在だ。
荻号にはアルティメイト・オブ・ノーボディにとって利用価値があった。
そして荻号はまだ利用価値を失わずに生かされている。
『汝が預かり知る領分にはないことを、随分と知ってしまったものだ。感心はできぬが、まあよい。その者の死は、留めておけ』
「それは、記憶を戻す用意があるということか?」
『まだ明言できる段階にはない』
簡単に言ってくれるが、神の死を保留するなど荻号には出来る筈がない。
死神が保留出来るのは生物階や解階の住民の死のみで、神の生殺与奪権は独占的にアルティメイト・オブ・ノーボディのみが掌握している。
神が神の寿命を引き延ばすなど越権行為だ。
神の寿命の延長をしようと思えば時空間歪曲神具で生体時間を止める方法もないわけではないが、アトモスフィアの消費が激しく、神具を起動し続ける事は難しい。
たった一つだけ死を回避させる方法があるとすれば、荻号が一万年もの時を超えたように、ユージーンを凍結する事だけだ。
仮死状態になった肉体は死体と同じ… …死体はそれ以上死なない。
基空間に残してきた闇神の部屋に凍結装置はまだある、装置が使えるかは解らないが、それを使う以外にはない。
*
荻号が発動した共存在によって超空間転移を終えた解階、母星ABYSSでは、大きな混乱が起こっていた。
女皇アルシエル=ジャンセンはU.I.の感染者を隔離地区に隔離させ、非感染者を広大な敷地を持つ皇居に集めていた。
U.I.に講ずるべき手段は少ないが、あった。
神々と人々により特効薬の合成法が発表され、解階にも神階から資料が転送されていた。
アルシエルは解階の優れた御殿医や調合師達に命じて薬を作らせ、完成した薬剤は僅かながらに供給が始まっている。
非感染地区と感染地区の境界線から薬を投与し、今は徐々にその領域を拡げつつある。
それでも供給が間に合わない為、ごく初期感染の感染者から順番に薬を回し、末期の感染者にまでは薬がいきわたらない。
重臣達がひっきりなしにABYSSの各都市の惨状の報告を入れてくる、アルシエルはもう10日も不眠不休で働いていた。
「陛下、このたびの感染症により首都の25の大貴族の家柄が途絶えたとのことです」
「電気、水道、ライフラインはまだ回復のめどがたちません。水道は感染源に汚染されている可能性が高く……」
「原子力発電施設、129基稼働再開、電力供給再開しました」
「救援物資が不足しております」
「スリープモードにしていた通信衛星、蓄電衛星を深宇宙輸送機で打ち上げましたが、周回軌道に入りました。電力供給モードに切り替えます。生物階転移後の宇宙座標を特定しています」
アルシエルは壊滅的ともいえる解階の惨状の報告を受けていたが、打ちひしがれている余裕などなかった。
彼女は女皇として最善の処置をしたと、誰の目にもそう見えた。
差し当たり必要なのは感染地区への救援物資と、あとは電力システムの構築だ。
転移後間もなくは差し当たり原子力発電で対応しているが、解階の電力を恒星光発電で賄い、食糧生産体制を維持するには少なくとも生物階でいうところのアルトゥルス(太陽の24倍の大きさ)レベルの恒星が必要だ。
「皇居の外には無人の給水車と食糧を出せ、食糧物資は地下倉庫35区画に5000万レム(約300トン)の蓄えがある」
「は、お言葉ですが陛下。35区画の食糧庫を解放するのはいかがなものかと」
「この非常時に出し渋りをして、無駄に蓄えた食糧をいつ使うつもりだ。家畜の飼料も出せ、今は貴重な食糧だ、口に合わぬとほざく者は餓死すればよい。また、非常偵察衛星を高軌道に投入し、ABYSS全土の被害状況を連絡させろ」
アルシエルが厳しくそう言うと、年老いた大臣は畏まって下がった。
メファイストフェレス I セルマーは皇居から出られなくなってしまったという事情もあってアルシエルの傍近くに控えていた。
「かような国家の危急に際しましても、陛下のご勅令が滞りなく発布されておりますこと、臣民は心強く思うておると聞いております」
アルシエルの疲れた様子をねぎらうかのように、セルマーは彼女の働きを賛じた。
こういう非常時において、絶対君主制では君主に全ての判断が委ねられており、議会民主制と比較して君主に過度の負担がかかる。
だが議会を通さない分、議会民主主義よりはるかに早く、色々な勅令が驚異的な速さで下される。
だからこそ彼女は一睡もするわけにはいかなかった。
休むまもなく臣民の為に働くアルシエルを気遣いながら、文官であるセルマーは他の有識者達と共に執政補佐を手伝っていた。
アルシエルは気丈に振舞っているが、疲労を隠し切れない。
解階最強の女皇であり優れた為政者であるが、彼女は完全ではない、疲れもするし、不安にもなるだろう。
報告書と被害状況を記したデータを凄まじい情報処理能力で浚いながら、アルシエルはセルマーの言葉に顔を向けることもなく立体端末のモニターを凝視していた。
女皇が一服入れようとして葉巻を取り出したので、セルマーは傅いてライターで葉巻に火を灯す。
「今は世辞を聞く余裕もない」
「は、いらぬ事を申しました。陛下のご心労、お察し申し上げます」
アルシエルは紫煙を吐き出しながら、ゴシックなデザインの執務室のシャンデリアを見上げていた。
髑髏をモチーフとした漆黒のインテリアは、まるで樹海の木々のように複雑に折り重なっている。
解階の住民は闇を好む。
だがこのたびばかりは渇望せずにはいられない。光を、そして救いというものを――。
「……メファイスト伯。あのユージーンという神がそうしたのだろうが、解階は生物階に転移したようだ。それはABYSS周囲の星座が一変したことで明らかだ。生物階に入り、解階とは異なる創世者の支配下に入った、解階の創世を行った者は、当然ながら之を快くは思うまい。如何なる逆襲に出るものか」
アルシエルの悩みは、更なる未来をも見据えていた。
アルシエルは秘密裏に解階の創世者、ユージーンの言うところの”盲目の時計職人”を裏切った。その報復は、必ず――。
「しかし、神階、および生物階を支配する創世者の庇護下に入ったとあらば、安全は保障されているのでは?」
ユージーンから提示された話はそういう話だった。
解階を生物階に移転させたなら、ABYSSは生物階の創世者の庇護の下に入るので何も心配はいらないのだと。
だが神であるユージーンは支配者と呼ばれる存在の本性を知らない。
彼等は強欲だ、勿論、アルシエルも含めて。
「卿は皇の驕慢を知らぬ。興じておった戯れを下賎の者に奪われた皇の、醜悪な性は、怖るべきものがある。余は其を慮しておるのだ」
自身も皇であるアルシエル=ジャンセンは、帝王と呼ばれる者の業の深さを知っていた。
その時に、創世者を前にしてアルシエルがどこまで彼女の臣民を守る事ができるか。
神々の極位をも凌駕する、彼女の圧倒的な力は決して衰えてはいないが、創世者とやりあうとなった時の勝算は0だ。
「陛下!」
下級仕官がほぼ他の衛士に取り押さえられるような形で駆け込んできた。
彼の逼迫した表情を見たアルシエルは人払いをした。
「よい、通せ。深刻な話であろう」
下級仕官はアルシエルに平伏したまま大臣や官房達の退出を待っているようだったが、特にメファイストフェレス=セルマーが退出したのをしっかりと見届けた。
アルシエルはその僅かな視線移動を見逃さなかった。
彼は何か、セルマーに対して疾しい報告をしなければならないようだ。
下級仕官はドアが閉ざされると同時に報告を始めた。彼は狼狽し、声が上ずっていた。
「皇家の嫡子、ルシファー=カエサル殿より勅使がございました。本日付でエイヒマン公国と辺境の5つの御料地を統一し、新国家ゲヘナを建立すると……」
やはり、きたか。
アルシエルは黒い瞳を眇めた。
”盲目の時計職人”は何らかの報復をかけてくる、アルシエルと反目していたルシファーを洗脳するか脅迫するかで焚きつけたのだとしたら、これほど簡単に堕ちる事はないだろう。
傀儡国家ゲヘナ(GEHENNA)の建立、しかしエイヒマン公国はアルシエルの直轄地とも言える国家でアルシエルへの絶対忠誠を誓っている。
また、原子力発電施設が数多く存在する、エネルギー基点でもある。
たとえ脅されたとしても、エイヒマンの人々はルシファーのもとに集いはしないだろうに……。
「皇は、ルシファーではなかろう。彼奴は大帝国を築けるほどの人望はない」
「いえ、メファイストフェレス女皇、と申す者にございます。恐らくはメファイストフェレス家の……新女皇は、U.I.の感染者を一瞬にして癒す能力を持っているそうです」
メファイストフェレスII メリーはアルシエルの忠臣であり、彼女は父親思いのよい娘だ。
父親が人質となっているという状況を忘れて愚考を働かせたりはしない、傀儡となっているのはルシファーではなくメファイストフェレスだと考えられる。
そして人望を集める為に、アルシエルが供給が行き届かない地域の民の感染症を癒す事で忠誠を誓わせた。
民は民を守ってくれる為政者を望む、簡単な話だ。
「なるほど……余にはU.I.を癒す力などない、臣民の命を救うものが真の為政者となろう」
突如として建立されたその国家は、ABYSSのおよそ半分を支配する大勢力を築き上げていた。
メファイストフェレスは恐らく、感染者達を自在に操る能力がある。
恐怖や死の恐れを知らない、”盲目の時計職人”の力をして無敵の兵を持つ帝国を建立することは、それほど難しい事ではなかっただろう。
非感染者達はアルシエルの皇居に篭城しているが、いつ感染が起こるか分からないという窮状だ。下級仕官の話は、終わってはいなかった。
「ならびにルシファー殿が、陛下に決闘を申し込んでいらっしゃいます。あ、明日の、正……午…テグメルの丘の上で」
女皇は長いドレスの裾をさばいて立ち上がった。
じっと、しかし強い眼差しで空を見つめていた。
「……余も随分と、みくびられたものだ」
女皇から滾る気迫にシャンデリアが砕け散る。
シャンデリアのガラスくずをしこたま被りながら、下級仕官は息絶えた。
彼の背には、背後から攻撃をうけて流された血で真っ赤に染まっていた。
シャンデリアのガラスくずにやられたのではない。
彼はそれ以前に、もっと致命的な損傷を受けていた。
彼女は流された彼女の臣下の血を見下ろしながら、彼女の傍らに生けてあった深紅の花束を放って、彼の上に投げる。
花弁が花吹雪のように、儚く散って血だまりの上にひやりと落ちていった。
「ルシファー。汝は短き時間の間に、余が誰であったかを忘れてしまったようだ」
怒りのうちに玉座を降りたアルシエルは解階最凶のツール、不可侵の聖典(Inviolability Scripture)を携えていた。
分厚い革の表紙に金の刻印が美しい、開いてはならぬ禁書を開くときがきた。
真の解階の皇はどちらなのか……アルシエルはその答えを、ルシファーの身に刻み込まねばならない。