第1節 第5話 Genetic analysis by Tetra Spiral Sequencer
同日。
ユージーンは社務所で遅い夕食を済ませると、モバイルを取り出す。
独自のネットにアクセスすると、やがてGL‐ネットワーク・ポジティヴ(Network Positive)という画面に切り替わる。
ユージーンは諜報活動をしているし、一国の首相の命を実質奪ったのも事実だった。
ユージーンは頬杖をつきながら、自らの第五使徒、紫檀が響の指示を受けて間違いなくムスタフィを殺害したのを、ネットワーク上で確認した。
もう誇らしげな報告書が10ページにもわたって綴られている。
紫檀は暗殺が得意な使徒で、実際好きでもあるのだろう。
任務に忠実であれば言う事は何もないのだが、いつも指定した人数より余計に殺してくる。
ユージーン自ら動いて暗殺をする事はなく、手を下すのは各地に赴任している工作部隊だ。
昼は教師、夜は本業をこなす彼は、うんざりしたように画面を見つめながらダウンロードした音楽ファイルを開いてボリュームを上げた。
平常時は報告書を読み、法務局に提出する文書をひたすら作る。
世の中が平和な時ほど工作部隊の仕事は減り、報告書のページ数も減るものだ。
世の中が平和だとユージーンも人間社会もうれしい。
だが平和な世の中を維持することは簡単な事ではないし、暇にしていてよい筈もなく常に監視を続けている。こんな事ばかりを、もう80年も続けてきた。
人々の平和のために捧げてきた仕事とはいえやり口は犯罪と紙一重だと、わかっている。
大義のためにはやり方にこだわってなどいられない。
その大義とは何だろう? と、最近考えるようになってきた。
神の正義が、必ずしも生物階全体の利益になっているとは断言できない。
世界の平和を維持するため、悪の萌芽を未然に防ぐ。
そう言えば格好がつくが、実際には危険分子を暗殺するということだ。
どのタイミングで、どの人物を殺害すればよいのかということは、代々の軍神の経験や勘に基づいている。
やり方が間違っているのではないか。
そうも思うことがある。
こんな事を考えた時点で、危険思想の持ち主として弾劾され、神階から排除されてしまう。
神階、法務局の監査官たちが偵察衛星の向こうで監査を入れているはずだから、独り言になってしまったら破滅だ。
軍神を廃業できるものなら、教師一本に専念したい。人は思ったより面白い行動をし、興味深く思う。
しかし結局、神階はユージーンを自由にしないし、人々を戦争の脅威から守らなくては、教師でだっていられないというジレンマに襲われる。
彼は社務所に集まった子供たちが見ていた夕方のアニメを、主に石沢によって強制的に見せられていた。
今も昔も、子供たちは正義の味方が好きだ。
時代は移り変われど、勧善懲悪のコンセプトは共通している。内容はくだらない、子供たちが助けを求めるとなんとかマンが颯爽と登場し、悪を打ち滅ぼし世界平和を守るといったものだ。
実際の平和維持活動とはもっと泥臭い。
かといってユージーンのやり方をテレビで放映してしまったなら泣き出す子供続出、放送局に抗議の電話が殺到、もう考えたくもない。アニメも深夜番組枠になる。
そこで彼は、子供達にも教員にも余分な情報を与えてはいなかった。
自らが戦争を司る神で、世界の平和を維持してゆく立場にあるということなど、必要ない情報だ。
やはり日陰者は日陰で生きていくべきで、村の神様として親しまれるのも、本当は柄ではない。五年間の我慢、我慢……などと思いつつ、教師を楽しんでいる自分がいる。
教師はいい仕事だ。
殺したり騙したり、裁いたりする必要もない。
実に清清しく気持ちのよい職業だ。
こんな自分を慕ってくれる子供たちなど、この村をおいてはほかにないだろう。
さて、明日の指導計画をたてないと、と頭の片隅で思いながら、300通以上もある受信トレイの中からメールを順にチェックしてゆく。眠らなくても平気な身体であるが故に、夜と昼の二重生活を続けてゆける。
だが疲労を知らない身体を持つ事と、疲労を知らない精神を持つ事は全く違う。
彼は精神的には疲れきっていたのかもしれない。
メールの283通目に、待ちわびていた以御からの報告がきていた。
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No,283 MIS46t3からのメール
[件名]
藤堂 恒の調査の件
[サブジェクト]
調査結果。ログイン情報、ログアウト情報なし。ポートおよびコード、過去20年にわたり該当なし。不使用IDになっている。監査も入っていないようだ。以上。
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ログインもログアウトも、されていない?
恒はどうやってログインさせられたというのだろう? 入れられなければ、閉じ込められることなどない。一体どうやって?
ユージーンは手掛かりを失ったが、八方塞りという訳ではなかった。
誰も語らないのなら、恒自身に語らせるしかない。
ログインされたその瞬間、彼の身体は全てを体験していたので、引き出すほかないだろう。
「テトラ・スパイラルシーケンサ(四極螺旋解析装置)か……厄介なものを借りることになりそうだな」
*
数日後。
藤堂家を訪れたユージーンは、気配を察して反射的に跳び下がって数メートルも避けた。
彼の背後には恒が農作業を終えた姿のまま立っていた。
後ろから肩を叩いて驚かそうとしていたらしい。
行き場をなくした恒の右手が宙に浮いていた。
「そんなに必死に避けなくても、ぽんってやろうとしただけです。でもすごいですね、気付くなんて」
「急に触れないでもらえるかな。悪いけど」
ユージーンはふざけてなどいない、真顔だ。
恒は彼の逆鱗にふれてしまったのかと、真っ青になった。変なところに地雷があった。
「ご、ごめんなさい。また失礼なこと」
「や、違うんだ。そうじゃなくて」
ユージーンは恒の手をとり安心させるように握る。
恒の手は、土いじりをして荒れた手だ。
かさかさと乾燥していた。
彼は想像を絶する苦労をしてきたと、彼の手に如実に現われている。
「ごめんなさい、馴れ馴れしかったんですね」
「違うんだ、触れないでと言っているんじゃない。君には白状しよう、理解してくれると思うから。わたしの周囲には物理的な損害から身体を守るバリアのようなものが無意識的に展開されている。こうやってわたしがきちんと認識して触れているときはバリアは君を受け入れる。このバリアは速度と破壊力をもって、貫通しようとするものを破壊する。バリアを解く事はとてもエネルギーを消費し、コンマ数秒だが時間を使うことだ。だから急に触れられると、バリアを解くのが間に合わない。バリアはとても危険なんだ。相手をひどく傷つけてしまう。場合によっては人を殺す。そうならないように気をつけてはいるけど……」
長々と説明するユージーンは、恒の目にはどことなく辛そうに見えた。
そんな危険な力を抱えているなんてこと、誰にも知られたくなかったに違いない。
恒は迂闊な事をするべきではなかったと悔やんだが、今後こういう事態がないと言い切れるだろうか。
悪気もなくごく日常的に起こることだ。
「でも、背中を叩いたり驚かそうとする子はほかにもいると思います」
「そう思ったよ。人は予想外の事をするものだね。こないだも吉川先生が同じようなことをしてきた。いつもバリアを解いているしかなさそうだ」
「したら、疲れるんじゃ」
「人命にはかえられない」
「ドッヂボールやソフトボールの時どうしてたんですか? ボール取れないですよね」
「ずっとバリアを解いてたら取れるよ」
「ホントにそんなことになるんですか? ちょっとそこに立っていて下さいよ」
恒は農具を放り出すと、家の裏にあった古いほうきを持ってきた。
目で見るまでとても信じられるものではない。
何事も実験をしてみなければ、恒はそんな性格の持ち主だった。
「速度と、そして破壊力ですよね。これで殴ったらどうなりますか?」
「わたしは無傷だ。それ、壊れても大丈夫なもの?」
それを聞いた恒が容赦なくボロほうきを構えると、ユージーンは待って、と留めた。
やはり怖いのだろうな、と思い恒はほくそ笑む。
「試すのはいいけど、投げ付けた方がいいかもしれない。君の手まで巻き添えになるから」
やめてくれというのかと思いきや、意外な言葉だった。
恒はやや手加減をしつつ投げ付けると、箒は彼の身体に触れる前に文字通り粉々になって音もなく砕け散った。
凍結粉砕でもしたかのように、きらきらと陽光を浴びて箒くずが足元に小山を作る。
「ほんとだ」
恒はさすがに今度ばかりは、彼の力を恐ろしいと感じたのだった。
箒くずを払い落とし、ユージーンは恒の肩をぽんと優しく叩いた。
「そんな顔、しないでくれよ。予告通りだろ?」
「俺がふっかけたから……俺が悪いんだ。あ、そう、家に上がって下さい。何か御用があっていらっしゃったんでしょう? お茶いりますか? 今度は本当に出しますから」
「そうなんだ、君達に話があってね」
「達?」
藤堂 志帆梨は、夕飯に煮物を作って、コトコトと煮込みながら味付けをみていた。
こんにゃくと畑でとれた人参、牛肉の煮物だ。
少し味付けが薄すぎたかしら、と醤油と隠し味の唐辛子を入れたところだった。
病気でブランクがあったが、彼女は料理が得意で何より作ることが好きだった。
藤堂家の食卓は、一気に豪華になってしまっていた。
おすそわけをユージーンに持っていくのが、恒の日課となっている。
ユージーンはまだ、自分で食材を買いに出たことがないはずだ。
全ての食材は村人からのおすそ分けでまかなわれていると言っても過言ではない。
「母さん、今ユージーン先生いらっしゃってて、お話があるって。ちょっと火を止めてきてくれない?」
志帆梨はすぐに火をとめ、湯を沸かして緑茶を煎れる準備した。
茶菓子はちょうどせんべいを買ってきていたところだ。
恒はユージーンを座敷に通しているところだった。最初に来た時に通されて、ユージーンがまんまと嵌められた座敷だ。今度はそんな事にはならないことは分かっていたので、彼は少し安心している。
「こんなあばら家に、恥ずかしいことです。汚くしておりまして」
「お構いなく。どうも、ありがとうございます」
「お話とは、どういったことでしょう」
しなやかな手つきでお茶を出す彼女を、ユージーンは冷静に観察する。
あれから志帆梨はすっかり回復して、日常生活を送るには充分健康のようだ。
最近では畑仕事もするようになったと言っていた。
藤堂親子とユージーンは机を挟んで向かい合った。
一口茶をすすってから、ユージーンが居住まいを正すと、つられて二人も同じ動きで正座をしなおした。
「あなたがたにお聞きしたいこと、それは、恒君の出生に関わることです。お聞きしてはならないこととは存じております。しかし、今はわたしを信じてお話を聞かせてください。あなたの夫、つまり恒君の父親はどなたで、どういう方だったのですか?」
二人は息を呑んだ。
ユージーンの口調は真に迫っていて、冷やかしや興味本位で聞いているのではないと、すぐに察したからだ。
志帆梨はしばらく唖然としていたが、そのうち机の上に置いた指を一本ずつ折りたたみ、ぐっと力いっぱい握り締めた。
「ずっと、ずっと不思議だったのです。……私の夫は誰なのでしょう」
恒は途端、頭が真っ白になった。
父親は離婚をしてもう居場所がわからないと聞かされていた。そう話して聞かせた張本人である母親が、一体何を言っているのか、わからない。
いやだ、言わないで欲しい、と思う反面、真実を知りたいという心もどこかにはある。
「恒君、話してもらってもいいか?」
恒はお茶を一気に飲み干すと、力強く頷く。
半ばやけくそになってしまった。
この空気で、話さないでくれという事などできなかった。
何より志帆梨が話したがっている、というか尋ねたがっているのだから。
「いいよ。どうせ、いつか知ることなんだろ? そして俺も、無関係ではいられない」
「ありがとう、恒」
母親は申し訳なさそうな顔をし、悪びれた。
「二十歳を過ぎた頃、私は急に妊娠の症状が出まして、入院することとなりました。父にはそのことで勘当されましたが、当時、お付き合いしている方などいませんでしたし、子供ができるような事はなかったと思うのです。先生も少し懐妊の兆候が違うということで、想像妊娠だろうと仰いました。ところがお腹にはしっかりと小さな生命が、息づいていたのです。子供は無事に産まれました。結局、私の夫は誰なのか未だに分からないのです」
「そ、そんな……そのあと、母さんは病気になってしまったっていうの? 俺のせいじゃないか! やっぱり、俺のせいだったんだ! 俺が生まれてさえこなければよかった!」
恒は耐えられないといったように狼狽した。
それを宥めるように、母親は強い力で恒の腕を掴む。その手が震えていた。
「……辛いお話を伺って、申し訳ありませんでした。恒君を、調べさせてはいただけませんか? あなたがたを次々と襲った災厄に、何者かの意図を感じるのです。その何者かが恒君のうちに何を見出したのかを、調べたい。識ることが、あなたがた自身を護る事となります。許可を得たら、一瞬で全ゲノムを解析できます」
以御の報告により、恒をアダムにリンクさせ志帆梨に通常では考えられない不治の病を背負わせた者を、ユージーンの力ではこれ以上追求することができなかった。
人間の個人情報を洗っても、出てくるものは僅かだ。
しかし人間の歴史以上に、遺伝子は雄弁に彼の歴史を語るだろう。
ユージーン固有の神具G-CAMを預ける形で、遺伝子を司る神、アマデュ=パズトリ(Amadew Paztori)、またの名を岡崎 宿耀という神からテトラ・スパイラルシーケンサ (四極螺旋解析装置)を借り受けてきていた。
神具の貸し借りは例外だが、ユージーンは岡崎と懇意にしていたため、ユージーンの手に合うように調整して貸してくれた。
岡崎がプログラムを組んでいたおかげで、簡単な操作で複雑なゲノム解析ができる。
データは岡崎のもとに転送され、片手間に解析される。陰階の神々が同じ目的のもと陽階神に協力するということは、そうそうあることではない。
何の罪もない人間が犠牲になり続けるから、というユージーンの説得に、岡崎が折れたというのが実際のところだ。
この装置は、ヒトゲノムを一瞬で解析し、その個体の特性や能力、寿命、趣向にいたるまで、全ての情報をはじき出す。恒の脳がアダムにリンクされた記憶も、きっとどこかにあるはずだ。
「……怖いです。知ることがこんなに怖いなんて。でも、お願いします」
恒は唇が震えていた。
踏み出さなければ、きっと何も変わらない。
*
ユージーンが岡崎から借り受けて用意していたテトラ・スパイラルシーケンサ(四極螺旋解析装置)は、熟練した技術がなければ到底扱えない神具だ。
アトモスフィアの質もまったく違う陽階神が手にすると、神具自体が拒絶反応を起こす。
神と神具との関係は抗体と抗原のようなものだ。
神具は抗原提示をしていて、間違った抗体を受け付けない。
それでも、プログラムによって抗原の形を少しだけ甘く変えてやる事はできる。
完全に一致しない場合、やはり神具は多少の拒絶反応を起こす。
ごく稀に全ての神具に対する抗体を持つ神もいる。
拒絶反応は神具によってまちまちだが、発熱反応や過電圧であることが多い。
神具は素手でしか扱えないように設計されている。
付け加えると、異なるアトモスフィアで起動しようとした場合、展開できるのはほんの表層のみ。
今回は岡崎の厚意でその表層にプログラムを設定しているので、力わざで何とかなる。
神具に触れたユージーンの手は凄まじい熱が加わり、見る間に焼け爛れてゆく。
それでも、やらなくてはならない。彼は覚悟を決めてきた。
岡崎の神具は名刺サイズのカードのような形状で、半透明のケースの中におさめられていた。
白茶けて飾りっ気もないが、錆びた鎖が申し訳程度についていた。
恒の目には、あまりありがたい装置のようには見えない。
だが見た目に反して、それを取り出した瞬間からユージーンの手がみるみる熱に焼かれていくのを見て、恒はそんな得体の知れないものに触れようという気も起こらなかった。
取扱説明書を読んだユージーンによると、この神具でゲノムを解析するためには、対象者がカードを咥えなくてはならないのだそうだ。
唇が火傷で裂けてしまう。
そんなリスクの大きい事を、小学生にさせないでほしいと恒は逃げ出したくなった。
「できません、そんなの!」
「君はこうはならない、拒絶されるのはわたしだけだ。だから早く」
「でも!」
「恒、早くなさい!」
母親に強く言われ、恒は仕方なくくわえ込むと、ユージーンの手をいまも火傷させているそれは、意外と冷たく感じた。
何だろう、痛みはないが身体の中を電磁線が駆け抜けてゆく感じがする。
ユージーンは時計を見ながら、正確に時間を測っていた。
たったの10秒だが、解析するのには充分な時間だ。
口腔内細胞DNAを鋳型にして大規模遺伝子解析を行う、岡崎の神具を介したハイスループット解析テクニック。
細胞内DNAを解析用に酵素系で断片化し、カード状のミクロな溝の上で微小酵素反応系を構築し約10秒で迅速解析、全ヒトゲノムを解読し、専用の端末に送信する。
生物階のテクノロジーでは短時間の全ヒトゲノム解析が可能だが、大掛かりな装置が必要である。
カードはデータを転送しきってひと仕事終えたらしく、ペカペカとテカって金色の光に包まれている。先ほどのみすぼらしさは見る影もない、下品でケバケバしい金色になった。
「よく頑張った」
ユージーンは恒の口からカードを引き抜くと、やっとの思いでケースにおさめた。
恒の家の机をよごさないよう、真っ赤にやけただれた手をハンカチで包んだが、すぐにじわじわと血が青いハンカチを染め上げてゆく。
あまり手に注目してほしくない、というように、彼はまっすぐ視線を上げて説明をはじめた。
藤堂親子の視線も彼につられて向き直る。
「転送されたデータはすぐに解析されるはずです。明日には結果が出るでしょう。データは個人的なものなので、わたしと解析者以外には知られることはありません。この情報は適切に管理され、出回るということは一切ありませんから、安心してください」
「それより手、大丈夫ですか。ぐちゃぐちゃになって……」
「仕方ない、これでもだいぶ、ましな方だよ」
「しばらく、チョークも持てませんね」
いざとなれば、板書をしなくていいパワーポイントで授業しよう、とでも考えていたのだろうか。
恒は妙に思ったのが、なかなか怪我をしないという割にユージーンの傷の治りはそれほど早くないということだ。
だから箒をも粉砕するような強度を持つバリア、フィジカルギャップ(Physical Gap)のような生体防御反応があるのだろう。
彼の身体は矛盾だらけだ。
こんなへんてこな生き物が人の顔をして喋っているのだから、恒はどうしても興味を抱かずにはいられない。
「大丈夫、わたしは左ききだから」
「また皐月先生に怪しまれますね」
「だなぁ」
皐月は何かにつけて、ユージーンに疑いの目を向けるのを忘れない。
皐月はひどく彼を誤解していると、恒は思う。
「皐月先生、あなたの事を信じてないから。あなたがご自分を傷つけてまで俺のためになるようにしてくれてるって、解ってくれたらいいのにと思います」
「何を見たって、信じられない人は信じられないさ。そして吉川先生はとても頭がいい。受け入れられはしないだろうね」
彼女は、こと教養面に関しては充分ユージーンと渡り合えるほどに賢い女性だ。
「そんなの」
「それでいいんだ」
「ごめんなさい、俺がおおごとにしたから」
恒がもっと彼の話に聞く耳を持って、大騒ぎしなければ彼も村の神様として苦労することはなかったのに、と思うと申し訳ない。
早とちりで大騒ぎをしてしまって、彼は人々に好奇と疑いの目に晒されなければならなくなった。
「何事も、勉強だね」
「?」
「わたしはこれまで、人と関わる事を極力避けてきた。この村にきて君たちと関わる機会をもらって、よかったと思う。君のおかげだ」
「それ、皮肉ですか」
間髪を入れず指摘する恒もまた、鋭い子供だ。
「半分はそう。でももう半分は、本心だ。わたしは人の事がよくわからなかった。けど、君たちに会って、少し見る目がかわったよ。君達が幸福になる権利も、不幸になる権利も君達のものだ。決していびつな力で歪められてはならない。神には人の主権を守る責務がある」
「あなたにとって人間を庇護することは、ペットを保護しているような感覚ですか?」
ユージーンはカウンターをくらってうまく答えられなかった。
志帆梨が恒の頭を結構きつくぶっていたが、事実その通りだった。
「いいんです、あなたがどういうお気持ちでも。あなたがいなければ俺は、もうダメになっていたと思います。諦めるようになっていたんです。本を読み終える事を。このまま目覚めなくてもいいかなと思った事もありました。あなたがたとえ俺達を野生動物やペットと同じようにみていたとしても、それでもいいです」
「そうじゃない。保護するとか支配するとかいう関係ではなく、助けたい、理解しあいたいという意味であって……」
ユージーンは恒の言葉で深く彼の発言をふりかえる。
人の側からすればそう聞こえるのだろう。
神は生物階のあらゆる命を尊重し、慈しんできた筈だ。
長い進化の歴史の果てに人類が現れたとき、神のうつしみのような姿をしたその生命に格別の親近感を覚えたと歴史には記されている。
しかし人は理性を持ち愛し合う半面、その本能として破壊的衝動を持っていたがため、わずか数千年という期間での絶滅は必至の理だった。
神は人類の絶滅を避けるためやむを得ず宗教上の造物主として姿を顕し、人の破壊衝動を押さえ込むしかなかった。
それ以来陽階神は人の歴史に幾度となく介入を行い、人類を導いてきた。
そのために彼もどっぷりと手を血に染めることとなったが、ひたむきに生きる大多数の人間を理由もなく殺したことはない。
それでも結局、それらの行為は神々の欺瞞に過ぎなかったという事なのだろうか。
そんなことを思った。
*
翌日、ユージーンは欠勤をした。
律義に欠勤届を出して欠勤になってしまっている。
先週きついことを言ったから、恒のかわりに不登校先生になってしまったのかしら。
そんな不安が込み上げてきて、皐月は自分の担当でない二・三限目の音楽と体育の時間で、自転車をこいで社務所に出向いた。
引きこもるにしても、どうせそこしかないのだから、居場所はわかっている。
皐月はこれまでの彼に対する冷たい言動を振り返った。
不登校にしてしまったとしたら、自分のせいに違いない。
彼は教師としては完璧にこなしていたし子供達からの人望もあつかった。
それなのにひどい事ばかりを言って……。
ノックをして、社務所の入口を突然開けてしまった。
まさか鍵がかかっていないとは思わなかった。
中にはユージーンの姿はなかった。
代わりにいたのは、若くスタイルのよい外国人女性だ。
青いワンピース一枚でユージーンのベッドの上にだらしなく寝ている。
だがそれよりも驚いたのは、彼女の背中にある巨大な物体だ。
彼女の背中からは茶色いごまだら模様の翼がにょっきりと生えていたのだ。
コスプレかなにかしら? 皐月はそう思ったが、そんなちゃちなものではない。
質感も大きさもリアリティ満点だ。
背中からこんなものが……皐月は翼の付け根を見たが、皮膚にしっかりと繋がっていた。
”天使、なのかしら……”
皐月のイメージはそうだった。
深みのある茶色い長髪を無造作に肩に散らせて、彼女はすやすやと寝ている。
香水なのかもともとの香りなのか、その肢体からは花のようなよい香りがする。皐月は混乱しながら携帯電話を取り出すと、動画撮影モードにして構えた。
だが盗撮するのも罪悪感があり、そのボタンを押せなかった。
彼女は皐月の気配を察したのか突然目を覚まし、眠たげな瞳で皐月を見上げた。
皐月はしどろもどろになり、あとずさった。
「見ましたね」
ゆっくりと起き上がった華奢な女性を、見てなおさら驚いた。
彼女の翼は飾りではなく自律的に動かす事ができるようだ。
「見られてしまっては仕方ありません。鍵をかけていなかった私の落ち度でもあります。この方が、かえって話も早いでしょう。主の代理で参りました。主は神階にお戻りになられているから」
「主?」
「ご存知ありませんでしたか」
「ユージーン先生は一体どこにいるのですか? 女性を寝室に連れ込んで欠勤だなんて、教師でありながら、無責任にも……」
「吉川 皐月さん、そうではないのです。私はただの代理です」
彼女は慌てたように直立した。
すらりとして長い四肢、そのうえ身長は皐月を軽く上回っている。
皐月が惚れ惚れと見とれてしまいそうになるほど美しく、人間離れしているという表現が妙にあてはまる。
「何故、私の名を?」
「失礼しました、お会いすれば分かるのです」
彼女は控えめにそう言ったが、その声ですら高潔だった。
「とにかく、主は現在不在でいらっしゃいます」
「主ってユージーン先生の事ですか?」
「わたくしの申します主とは、陽階神 ユージーン=マズローその方に他なりません」
年の頃は皐月と同い年のように見えるのに、その茶色の深いまなざしは同い年とは思えないほどの、よく熟した気品を漂わせている。
「私は主の第二使徒、川摸 廿日と申します。主は早ければ今夜にもお戻りになるでしょう」
「ありがとう。ではもう失礼します。授業があるので」
こんな危ない人に関わっている時間はないわ。
早く授業に戻らないと。
皐月は時間を無駄にしてしまったことを悔いながら、ひたすら学校に戻る事だけを考えた。
「お待ちください。送って差し上げましょう」
「え?」
「せっかくご足労下さったのです。このくらいはさせてください」
彼女はほっそりとした白い指で皐月の手を無理なく引っ張ると、社務所の外に導きだした。
先ほどまで当たり前の風景だった社務所のドアの外は、小学校の女子トイレに繋がっていた。
そしてドアの向こうはやはり、社務所に繋がっている。
はっとして後ろを見ると、廿日は先ほどと同じくおっとりと微笑んでいた。
この微笑はどこからくるのだろう、人間ではない、……そんな荒唐無稽な直感を、皐月は信じる事ができた。
「理解していただけましたかしら」
信じられない現実が、皐月の前に横たわっていた。