第1節 第58話 The end of a certain god
「これは……何が起こっている状況なのかしら」
上空で、神々と何者かによる激戦が繰り広げられているのだろうとは想定していた。
それが解階の住民であれ何であれ、普通の相手が普通の敵と戦っているのではない。
ちょうど第五使徒の腕が落ちてきたあたりに、マクシミニマの全速力をもって駆け付けた。
しかし異変を察して駆けつけてきたのは、メファイストフェレスだけではなかったようだ。
メファイストフェレスが気になったのは先ほどから集結しつつある数多の戦闘機の存在だ、各国の国旗のついた迷彩色の多種多様な機体の中には、音速の速度で巡航している最新鋭ステルス戦闘機の姿もある。
マクシミニマの性能によって音速飛行を可能とし、音速で飛んでいるメファイストフェレスを不審に思ったのか、先ほどからずっとつけられているような気がする。
戦闘機の一群の中には超音速戦闘機特有のソニックブームの超振動を発生させ、低空で飛行しているものにはプラントル・グロワート・シンギュラリティ(Prandtl-Glauert Singularity)に達して尾翼のあたりに円錐形の雲をスカートのように纏っているものもみられた。
レーダーに異常が映って飛び出してきたのか、多国籍軍の新型や主力戦闘機が続々と集まってきている。
ロシアの制空戦闘機Su-33、日本の支援戦闘機F-15J、中国の主力戦闘機J-10も顔を出している。
現場はせめぎあう神々のアトモスフィアによって暴風域と化し、異常な空気の通り道が周囲に分厚い雲を呼び込んできた。
爆発的に生じた上昇気流によって低気圧が拡大し台風が出来はじめているのか、低空では雷雨が発生している。
雲の下では大嵐に見舞われているだろう。
集まってきた戦闘機が次々と嵐に飲まれて、いや、戦闘機は嵐に飲まれないかもしれないが、神々の大規模な戦闘に巻き込まれて最悪墜落などということになってしまったなら……。
生物階、つまり地球の危機が人々に周知されることによって、国連軍が有事の際に戦闘に積極的に参戦してくれることは、よいことばかりではないなとメファイストフェレスは感じた。
神々が神具を駆動して本気の戦闘を繰り広げる時、戦闘機による爆撃や射撃の援護などむしろ邪魔になるだけだ。
それどころか、神々の戦闘行為を援護する事を想定した訓練を一切といってしていない彼らが下手に周囲にいようものなら吹き飛ばされてしまう。
地球を侵略に来たUFOを撃墜しに来たのならこのような兵装でもよいのかもしれないが、UFOよりずっと的の小さい、肉弾戦にミサイルなど無用の長物だ。
「あれは、ロッキードのF/A-22ラプターにF-35ライトニングII……よね? 早くやめさせないと戦闘機が集まってきて被害が拡大する。それにしてもこんなど派手に、一体誰が闘っているの?」
メファイストフェレスはグンとマクシミニマを掲げて急浮揚し、紅い紙束が嵐となって飛び交うその修羅場に目を凝らした。
台風の目からは強い風が吹き付け、雲が霧となって視界をふさぐ。
戦闘状態にあるのは神々の長にして恒の実の父親と、銅色の髪を長くたなびかせただらしのない男、彼女には荻号のように見える。
どうやら二柱は共闘状態にあるようだった。
道理で、これだけ派手で大規模なフィールドを展開して戦うのはこの二柱であればこそだ。
普通の神々が普通に戦って、こんなに目立ちはしない。
しかしこの二柱が共闘し総力を尽くして戦わなければならない相手とは何なのだろう?
何と闘っているのかしら、彼女は冷静に嵐の中心を見極めようとした。
*
警備についていた多国籍軍と最寄の基地の管制塔の間では無線が飛び交っていた。
この二週間でヴィブレ=スミスが国連安保理に安全保証活動協力を要請していたため、各国の基地では国連軍が警戒体制に入っていた。
厳戒体制の中、米軍の軍事衛星によってに熱量収束が確認され、激しい上昇気流を観測、この地域の気象が一変した。
衛星写真にも異変が生じていたので、ただの台風ではないと知った多国籍軍の戦闘機が、件の国際的に整備された非常時警戒情報ネットワークより出動要請を受け、疑惑のポイントに集結してきたのだ。
各国の戦闘機パイロット達は機体の前を音速を超えて飛翔していった女の存在に面食らっていたが、女がまっすぐめがけて飛んでいった方向に宙を自在に飛び交いながら台風の目の中心に向けて攻撃を仕掛けている人影を視認した。
ドッグファイトや爆撃において百戦錬磨である彼ら熟練パイロットも今回ばかりは、どのような敵と戦うべきなのか想像もつかない。
UFOとドッグファイトをしろというのだと思って駆けつけてきたが、台風の目が見えるばかりで敵性体が見当たらないのだ。
攻撃目標の定まらないまま、映像をすぐさま管制塔に繋ぐ。
『対象を解析中。対象を主神、ヴィブレ=スミスと確認』
ヴィブレ=スミスおよび神々のIDは国連各組織とすでに共有されていた。
「敵性を解除します。もう一名は照合できません」
ヴィブレ=スミスは国連に全位神の顔写真をデータとして開示していたが、開示したデータのうちに神階を離脱した荻号のデータは含まれていなかった。
パイロット達はデータと照合の出来ない荻号の敵性を判断しかねたが、主神ヴィブレ=スミスと共闘している様子は明らかだったので同様に敵性を解除した。
鳥のように自在に空を舞い、この海域全体に影響する台風を作り出すほどの、有無を言わさぬ超越性。
これが、現代に生きる神の姿、そして主神の姿なのか――。
彼らの姿を目の当たりにしたパイロットの誰も、その真贋を疑いはしなかった。
「……Jesus・Christ……!」
米軍のパイロットが驚嘆した際の口癖なのか口の中で小さくそう呟いていたが、彼はジーザスの次の世代を担う神だと司令部からは聞かされている。
半信半疑だった彼らは新たな神の験を見た。
あまりに壮大な光景に目を奪われ茫然としていると、現実に引き戻すかのように管制塔から指示が飛んできた。
『敵性体を撃墜準備。AIM-9X(空対空ミサイル)の発射準備をし待機せよ』
管制塔からは、撃墜準備の命令が飛ばされてくる。
撃墜をしようにも、搭載しているミサイルは空対空ミサイル、赤外線誘導のため敵機の存在がなければ発射できないのだが……何を攻撃目標にすればよいというのだろう。攻撃目標もないのに攻撃をしろだの、こんな作戦はマニュアルにはない。
「しかし敵機が見当たりませんが。視界も不良でミサイルを発射するには不適当かと」
『心配は無用だ、敵性体の光源は雨雲に影響されるような強度ではない。ミサイルはヴィブレ=スミスを避け、まっすぐ飛んでゆく。危険を感じ次第、各自の判断で攻撃せよ』
AIM-9Xサイドワインダーは赤外線追尾能が装備されている。
嵐の中心からは強い放射線が発生しており、測定装置によると赤外線もかなりの光度で発生しているとのことだ。
AIM-9Xによる追尾型の攻撃が可能だというのだ。
しかし……この状況で撃てば、誤爆は必至ではないのか? 熟練パイロット達はそう思ったが、口には出せなかった。
「Gentlemen, lock and load.」
(諸君、攻撃準備)
『こちらはF-35。第一弾発射準備完了』
パイロット達は台風の目の中にロックオンをした。
ミサイルが当たるのか当たらないのか、あるいはなまじ追尾能がついているばかりに周囲を飛行している味方の機体に誤爆してしまうのではないか、誰もがそんな不安を抱いたが、だからといって各自が命令に叛いて冷静な判断を下せるような状況ではなかった。
*
ヴィブレ=スミスは精神分解酵素、PSYCO-LOGICaseをブラインド・ウォッチメイカーの憑依したユージーンに向けた。
ユージーンに向けたといっても、フラーレンの強力な作用場によって発生しはじめた嵐が視界をふさぎ、ユージーンの姿はもう見えない。
ただその、ユージーンのものとはとても思えない創世者特有の強大なアトモスフィアだけは決して逃さずに感じている。
彼は6つの前駆体を合成し、成熟した酵素を完成した。
大量複製系システムも問題なく動き始めている。
PSYCO-LOGICaseを発動しようとした瞬間、それを妨げるかのように傍流演算していた相転星の第二撃が繰り出された。
やはりブラインド・ウォッチメイカーの操る相転星は起動までの時間が驚異的に速い、荻号がフラーレンで牽制しているとはいえ、スペック以上の性能を発揮している。
ヴィブレ=スミスがPSYCO-LOGICaseを一度作り上げる時間の間に、ブラインド・ウォッチメイカーは二度も相転星の時空間歪曲の衝撃波を繰り出している。
首刈峠の上空で荻号が発動した時空間矯正の衝撃波の初動を知っていたメファイストフェレスは、嵐の中心部から繰り出された相転星の特徴的な波動に息をのみ、マクシミニマを縦に構えて受け身の体勢をとった。
戦闘機とメファイストフェレスが背後にいる事に気付いていた荻号は再びフラーレンを309枚投げつけ、メファイストフェレスの前に障壁を作ったが、今度の波動は先ほどのものより数段増幅されていて、障壁は事もなく弾き飛ばされた。
メファイストフェレスはマクシミニマで受け止めたが、フラーレンにより緩衝されているとはいえ、相転星の衝撃波は彼女の細腕では耐えがたいほど”重い”。
彼女は受け身に徹しながらも混乱していた。
荻号がこちら側にいて、内側から相転星の波動が繰り出されてくるということは、台風の目の中にいるのは誰だ?
神具を扱えるのは神だけだ、そして相転星を扱える神は二柱とは存在しない。
”Elohim-Elohim-Dictor-Enomas-El-Es-Olimuk-Victor-Nanopas-……!”
(偉大なる者、偉大なる者、永遠の燈に落つる解、真実と虚構の交わる時に…)
メファイストフェレスは何が起こっているのかを理解できず混乱しつつも口は正確に呪文を唱え、青い亀甲のような衝撃緩衝シールドを展開する。
相転星の衝撃波は同心円状に、数十キロ規模で波紋を描くように直線的に拡大している。
第一波によって周囲の雲が穴を開けられたように吹き飛び、次々と波状攻撃を仕掛けてくる。
荻号とメファイストフェレスの障壁によって衝撃波からはある程度守られていた筈だが、巡航していた数機の戦闘機が爆風の煽りをくらって、数百メートルほど吹き飛ばされて落下していった。
メファイストフェレスは大丈夫かと思わず正面から目をそらし下を覗き込んだが、訓練を積んだ戦闘機乗り達はすぐに機首を起こし、態勢を立て直している。
「あんた達、これに懲りたらもう戻ってくるんじゃないわ……よっ!? って、何!?」
メファイストフェレスが小鳥のようにきりもみしながら落下していったそれらに捨て台詞を投げかけていた時、機体を翻し腹を見せた戦闘機から放たれキラリと光るものが猛烈な勢いで上昇し迫ってきた。
ロックオンしていた3機の戦闘機から同時にAIM-9Xが3発も発射され、一直線に未確認敵性体である嵐の中心を目指している。
「いかん!」
ミサイルの飛来する風切音を聞き分けた荻号が振り返って絶叫した。
このタイミングでミサイルを撃ち込んでくるとは思わなかったが、爆風に驚いて思わず発射してしまったというところだろう。
しかしミサイルの速度は音速に迫るほどで、フラーレンを操りながら咄嗟に迎撃し撃墜できるものではない、荻号は一発を撃ち落としたが、他の2発の通過を許してしまった。
ヴィブレ=スミスは荻号より更に最前線でPSYCO-LOGICaseを操りブラインド・ウォッチメイカーと対峙していたが、そのヴィブレ=スミスの真後ろからAIM-9Xが2発もぶち込まれてきた。
荻号の防御も間に合わず、ヴィブレ=スミスは背後からもろに被弾をして吹き飛ばされ、彼の纏っていた44層のフィジカルギャップのうち18層を破壊され、神体に攻撃が届き左わき腹を負傷した。
彼の体躯から鮮やかな血液が染み出したが、彼の神体にミサイルが届いた瞬間に大爆発が生じ、血液は蒸発した。
しかし彼は背中から被弾し体軸を崩し、爆炎に包まれ激痛に顔を歪めながらも、PSYCO-LOGICaseを操る手を止めなかった。
ここで集中を削いでしまったら、最初から酵素を合成しなければならなくなる。
それは何分もではないが、勝敗を分ける貴重な時間をロスする事となってしまう。
ヴィブレ=スミスは激痛の中、荻号に目くばせすると、準備完了の合図と知った荻号はPSYCO-LOGICaseの攻撃をユージーンに到達させる為にフラーレンの装甲を剥がした。
仕掛けるなら、今しかない。
”The State of Mental Stability Breakdown!”
(精神平衡崩壊!)
ヴィブレ=スミスはPSYCO-LOGICaseを発動し、嵐の中心から相転星による攻撃を繰り出すユージーンの精神系に侵入させた。
PSYCO-LOGICaseによりユージーンの神格が崩壊してしまうかもしれないが、ブラインド・ウォッチメイカーに絶対不及者の器を支配されてしまうぐらいなら、どちらも破壊してしまった方がましだ。
そして神格を失い抜け殻となった神体を再生し、三年後まで神階の総力を挙げてブラインド・ウォッチメイカーから守り抜き、三年後にINVISIBLEの依代とすると同時にAnti ABNT-抗体を発動する。
これがうまくいけば、ヴィブレ=スミスの当初の計画は何一つ狂わない。
彼にとってはユージーンの神格が破壊されていようといまいと、どちらでも構わないとすら考えていた。
フラーレンによる装甲を剥がした事によって、ベールを脱いだユージーンの姿が次第に浮かび上がってきた。
PSYCO-LOGICaseは攻撃目標を逃がさずどこからでも生体内に侵入し、酸で鉄を溶かすように精神系を不可逆的に崩壊させてゆく。
一度発動されればヴィブレ=スミスにも止めることはできず、このまま瞬間移動でどこに逃れたとしてもナノマシンが精神系を喰らい尽くす。
もはや手遅れだ。
ユージーンの精神もろとも、ブラインド・ウォッチメイカーの支配を崩すにはこの方法しかない。
ヴィブレ=スミス左手の内の緑のホログラフは、激しく明滅しながらカウントダウンを始めていた。
ブラインド・ウォッチメイカーは瞬間移動でユージーンごと逃げることもしなかった。
ユージーンの苦悶の表情が次第に抜けて、魂の抜け切ったような無表情に変化してゆく。
精神完全消化まであと5秒、4秒、3秒、2秒……それは静かで一方的な決着だった。
「完全消化したようだ」
ヴィブレ=スミスがカウントダウンの振り切れたホログラフを見てそう判断したので、荻号は抜け殻となって浮力を失ったユージーンの神体を労わる様に柔らかく抱きとめた。
荻号はユージーンにマインドブレイクを試みたが精神反応を感じない、この神体の中にはもう”誰もいない”、それは明白だった。
荻号はまるで死体のようになってしまったユージーンの生体反応を確認した。
生きている、まだ、辛うじて息はある。
「終わったな……これでよかったのか?」
奥義を撃ち遂げたヴィブレ=スミスはアトモスフィアをすり減らし、肩で息をしていた。
彼に誤爆をして心配そうに寄ってきた戦闘機にヴィブレ=スミス自ら無事を伝えて、戦闘の参加に形ばかりの謝意を表し、基地に帰還するよう促した。
勇み足で出動してきた各国の空軍は、結果的に神々の足を引っ張っただけだった。
パイロット達は肩を落とした。
台風は温帯低気圧に変わり、日が差し込んで快晴の空が取り戻される。
しかし、彼らは気づくべきだったのだ。
応援に駆けつけてきたいまひとりの、メファイストフェレスの姿がそこになかった。
攻撃に巻き込まれてもいないというのに、いつの間にか忽然と姿を消していたということに……!
*
「ヴィブレ=スミスは左半身に被弾したな。フィジカルギャップがあるので大事はないだろうが、多臓器損傷は免れん」
天奥の間で、極陽の座に座る比企は冷静に分析する。
ヴィブレ=スミスを援護した筈のAIM-9Xミサイルが、あろうことかヴィブレ=スミスに命中してしまった。
PSYCO-LOGICaseの発動の瞬間に発生する放射線の他に、赤外線も多量に含まれていたからだ。
3発のうちの2発がヴィブレ=スミスに命中した。
比企は人々との戦闘協力の方法を、改めて協議すべきだと痛感した。
各国軍が独自の判断で攻撃していたのでは、神々の戦闘の邪魔をしているだけだ。
比企はモニターに、少し距離を取って滞空していたメファイストフェレスの存在を映しておらず、彼女が現場に駆けつけてきたという事を知らなかった。
それで恒もメファイストフェレスを見ていない。
比企は迅速に救護班を手配し、負傷した紫檀とヴィブレ=スミスをICUに受け入れるよう要請した。紫檀は既に収容されているとのことだ。
命には別状なく、神階には義足や義手の技術が発達しているので生活や仕事に困窮する事はないそうだ。
紫檀は助かった、だがただひとり、助からなかった者がいる!
「ユージーンさんは……極陽は何をしたのですか」
「あれはPSYCO-LOGICase……神経系を崩壊させる彼の奥義だ」
何という残忍かつ無慈悲な奥義だろう、神階の長の持つ奥義とは思えない。
恒は父親がユージーンにした事を受け入れられなかったし、比企の嘘であって欲しいとすら思った。
あの一瞬の判断で、それほど重大な決断を下す神々の思考回路が信じられなかった。
何故彼らは、仲間の神をいとも簡単に切り捨てる事ができるのか。
「大変な損失を被った。ユージーンの神格は敵もろとも崩壊し、再生はしない」
比企は遺憾だというように俯いたが、恒は茫然自失となって比企を見上げた。
「比企様……あなたはこうなることを、ご存じでしたね」
「ああ、そうだ」
比企ははっきりと頷いた。
弁解もせず、そうしなければならなかった理由を説明するつもりもない。
だが恒は問いたださずにはいられない、何故ユージーンを、切り捨てなければならなかったのかと。
恒は怒りと、遣る瀬無さと恐怖でガタガタと震えていた。
「あなたは……!」
大変なことを、取り返しのつかない事をユージーンにしてしまった。
比企はそんな事をする神ではないと、信じていたのに……。
勿論恒には、比企の判断がなければ生物階はユージーンの姿をしたブラインド・ウォッチメイカーによって壊滅的な被害を被ることも分かっていた。
ユージーンは何度神々に裏切られればよいのだろう、最後の最後まで、彼は神々に裏切られて果てた。
絶対不及者の器として生まれてきたために、彼のすべてを滅茶苦茶に壊した、彼の生涯すらも、彼の自己同一性すらも奪った。
彼は彼が守ろうとした神々の手により殺され、二度までも死ななければならなかった……。
極陽の代理として陽階の権威の座にある比企は、恒の受けた衝撃を慮りながらも、とどめを刺すかのように残酷な言葉を投げかけた。
「藤堂、己はこう言った筈だ。生命には軽重が存在すると。不死身の神体を敵に奪われ、また罪なき人々の大殺戮を許すか。ユージーンの精神を敵もろとも葬り去り、神体を誰の手にも渡さぬまま回収するか……理性で判断が下せなければ、それは神ではない」
自らの命ですらも駒のように扱い、惜しもうとしない比企は、常に神階と生物階の人々を庇護する事をのみ考えている。
これが比企の望んだ最善の結果ではない、彼にとっても苦渋の決断だったが、彼は迷わずそうした。
「こんなことをするぐらいなら……!!」
「ではお前ならどうしたというのだ」
どうすることも出来なかった。
代案もなければその能力もない。
比企や紫檀が命がけで助けてくれなければ、逃げる事すらままならなかった。
安全な場所で、吠えているだけだ。
「今は守られる他に能がないのなら、口を閉ざしていることだ」
恒は言い返す言葉もなく、天奥の間の硬い床の上に膝から崩れ落ち、這いつくばって肩を震わせていた。
比企はひとつの偉大な光を失って闇の底に突き落とされた少年神を憐れむように見下ろしながら、これは決して”正しい”結末ではなかったと、彼の無力を再認識していた。
*
風が、彼の消滅を悼むようにいつまでも啼きやまなかった。
荻号は共存在の解けたフラーレンを回収し終わった後、先ほど咄嗟に抱き止めたユージーンの体温がかなり低下してきている事に気付いた。
ここは上空4000mで気温はかなり低いのだろうが、神の体温が外気温につられて低下するとは考えられない。
「ん?」
荻号は何とはなしに嫌な予感がして、ユージーンが纏っていた聖衣のスーツのジャケットとシャツをむしる様に脱がせては放り投げ、背をあらわにした。
その目でしっかりと異変を確認した荻号は舌打ちをし、大げさに溜息をついて、戦闘機を基地に帰し近くに滞空していたヴィブレ=スミスをフルネームで呼んだ。
「ヴィブレ=スミス!」
「何だ」
振り向くと、荻号がユージーンの聖衣を脱がせて背中をめくっている。
「スティグマ(存在確率の鍵)が消えたぞ」
「何と……! 何ということだ……」
最悪の誤算だった。INVISIBLEはブラインド・ウォッチメイカーによって穢されユージーンの去った神体に興味を示さなくなったのだ。
ヴィブレ=スミスは自らの傷の痛みも忘れて、ユージーンの背を確認した。ない、どこにも……創世者の選んだ器であるという、呪縛が消えている。
「では……三年後、INVISIBLEの収束はなくなるというのか……」
それが真理ならば、理想的な決着かもしれない。だが荻号は疑問を呈する。
「どうだろうな? 神階にはもう、金髪の神は残ってないのか?」
「どういう意味だ?」
「いるのか、いないのか?」
ヴィブレ=スミスは神階に最後に誕生した女神の赤子、レイア=メーテールが金髪だったと思い出したが、何故それが今話題に上らなければならないのか、関連性が分からない。
「一柱いるが、何の関係がある」
「ならそいつで決まりだ。次の絶対不及者はそいつがなる」
「金髪の神が……絶対不及者になる、だと?」
何の寝言を言っているのか、当てずっぽうだとしても酷い推論だ。
たったそれだけの肉体的特徴で、INVISIBLEのお気に入りになるとは到底思えない。
とはいえ、神階に在籍する全神の容姿を記憶しているヴィブレ=スミスが、ユージーンとレイア以外に金髪の神を思い浮かべる事ができない。
つまりそれほど珍しい容姿なのだ、何故一度でも考えてみなかったのだろう。
背を検査したり、100年おきに適性検査をする必要などなかった。
先代絶対不及者も、その先代も記録に残るところによると確かに金髪だった。
こんな簡単でさりげない特徴に、気づかなかった。
「ああ。こいつらは俺らとは違うんだ、限定生産品なんだよ。INVISIBLEのお気に入りの器だ。同じ由来の細胞だから、同じ容貌になる。金髪碧眼、それに近い容貌を持っている筈だ」
「だが、まだ生まれたばかりの赤子だ」
「そんなもん、関係あるか。そいつで決定だ。戻って確認してみな、そいつの背中をな」
ヴィブレ=スミスは逸る胸を押さえられず、瞬間移動をかけようとして荻号に腕を掴まれた。
「待て。こいつを置いていくのか?」
精神系を破壊され、抜けがらとなってしまって荻号に担がれているユージーンの神体を、荻号は指差した。
もうヴィブレ=スミスは彼の事をすっかり忘れてしまっている。
「こいつはINVISIBLEの器ではなくなった。つまり不死身ではなくなったんだ。このままにしておけば死ぬんだぞ。それとも何か? こいつはもう用なしか?」
「どのみち、助からん」
不死身ではなくなり、脳死状態となった神体はいづれ朽ち始める。
その神体が死を迎えるタイムリミットまで、恐らく数日もはないだろう。
脳死となった者を助ける事はできない、それがどんな名医であったとしても……。
処置をしたとしても助からないと、ヴィブレ=スミスの言うことは確かに間違いではなかった。
彼がINVISIBLEの器であった頃の、彼に対する執着たるや凄まじいものがあったが、もはや器として使えないと分るとこの態度の変化だ。
「こいつはいづれ死ぬだろう。敵の手に落ちたとはいえ神階の為に心血を注いだ殉職者だ。連れ帰って、手厚く葬る事もせんのか?」
「一度敵の手に渡ったものを、神階に持ち込む事はできん」
荻号は掴んでいた腕をゆっくりと手放しながら、首を傾げた。
「妙な事を言うんだな。さっきまで連れて帰るつもりだっただろ?」
荻号は何と薄情な奴だと思いながら、彼に罪を認識させるために鋭く指摘した。
ヴィブレ=スミスの言葉は根本的に矛盾している。
答えられずに、あるいは答える義務などないとでも思っているのか、無言になった主神を蔑むように睨みつけて、荻号は鼻を鳴らした。
「まあいい。お前や神階がこいつを捨てたのなら、俺が引き取る」
「それはかまわない」
荻号は急ぐように瞬間移動で消えてしまった主神に、それ以上何も言わない事にした。
「これだから、神階の奴らは。お前、死んだらささやかだが俺の家の裏庭にでも葬ってやるよ」
他者ばかりの世界に生まれ、誰かに必要とされるべく命をすり減らしながら生きてきたというのに、なれの果てがゴミのような扱いだ。
荻号 正鵠の生きた1万年前から、神々の思考回路は少しも変ってはいない。
正論を振りかざしながら、彼らは何一つ正しいことなどできない。
様々な矛盾に目をつぶりながら神々の正義を生物階に押し付ける。
偽善者であることを認めようとしない、そんな神々がたまらなく嫌いだった。
だから荻号は尚更、このままユージーンを死なせるつもりはなかった。
*
「今日はレイア様はよくお眠りになっているわ。いつ見ても、かわいらしい寝顔でいらっしゃること」
「こんなに手のかからない女神様は初めてだな。我々育児係は、ずいぶん楽をさせてもらっている」
「本当に、全っ然お泣きにもならないしねぇ。将来は穏やかで気品ある女神様にご成長されるでしょう」
育児係の使徒達がきゃっきゃ言いながら、今日も甲斐甲斐しく世話を焼くなか、神階最後の女神、レイア=メーテール(Rhia Mater)は天蓋のついた小さなピンクのベッドですやすやと寝息を立てていた。
彼女は赤子ながらに朗らかで、夜泣きもせず人見知りもせず、愛嬌があって使徒たちの間でも人気者だった。
彼女は既に神々にも人気があり、こっそりとおもちゃを持ってお忍びで会いにくる陽階神も多かった。
「新しいおもちゃが、お気に入りなのね。手放さないわ」
5名の育児係達が取り囲むようにベッドを覗き込んでいた時である。
すやすやと眠りについていたレイアの顔がみるみるうちにしかめっつらになり、ふえーん、と大きな泣き声を上げ始めた。
人の子ならばオムツが濡れたか、ミルクが飲みたくなったかという類の、むずがるような泣き声なのだが、糞尿の排泄をしない神の赤子にオムツの心配はない。
ミルクも何も与えなくても、神は分子補足という食餌方法で呼吸をしているだけで成長するため、腹が減る筈はない。
ギャーギャーと声を上げて噎び泣く女神に、彼女のこれほど激しい泣き声を聞いたことのない使徒達は混乱して、上へ下への大騒動だ。
抱き上げてあやそうとした育児係が、背を支えようとしてレイア=メーテールより一段と高い絶叫を上げた。
「あつっ! 熱いっ!」
慌てて手を引っ込めると、手のひら一面が真赤に焼けただれてしまっている。
レイア自身も背が熱いのか、火がついたように泣き続けている。
彼女の背中が、誰も何もしていないのに突然熱くなった。
使徒たちは細心の注意を払いながら、何があったのかと肌着を脱がせた。
ありえないことだが、背中がかぶれたか、虫にでも刺されたのかと思ったのだ。
背をめくって迂闊に顔を近づけてしまった使徒はあまりの眩さに目がつぶれそうになった。
何かが、目を射るような光の紋章が彼女の背に呪詛のように刻まれた瞬間を、彼らは目撃したのだ。
「何だ、これは?!」
「おお、おいたわしや……レイア様」
荻号の予言した通りの事が起こった。
INVISIBLEはあまりにも疲弊したユージーンを絶対不及者の候補から外し、純真にして無垢な赤子に呪縛を刻み込んだ。
そして創世者INVISIBLEはユージーンを捨て、レイア=メーテールに収束すると宣言した。