第1節 第56話 Tactician
紫檀 葡萄は恒と比企が消えてからというもの、軍神下執務室のデスクの周りをそぞろ歩いていた。
恒は何故かユージーンの危機を知っていて、比企と共に消えてしまった。
紫檀は恒の警護をすることも出来ず、ユージーンの無事も心配で奇妙な行動をとっている。
「い、以御さん! 藤堂様は……」
「比企殿と一緒なら問題ないだろう。いい加減落ち着け」
二岐も以御も、紫檀を見ているだけで落ち着かなくなってしまう。
「そうではなくて、僕も追わなくては。藤堂様の警備を言いつけられているんです」
「比企殿と一緒にいる方が、恒にとっては安全だと思うわ」
二岐がいうことももっともだ。
紫檀も比企が傍についてさえいれば、恒にあらためて庇護は必要ないと分かっている。
「神階の門を開けて生物階降下を許可してください! 藤堂様のもとに行かせて下さい」
紫檀の狼狽の仕方ときたら、ただごとではない。
彼は命令を遵守することに生きがいを感じているような男で、少しでも命令を違える事は彼の中では許されないのだ。
「お前じゃ、なんの役にもたたんだろうに」
以御がそう言うが、聞き入れなかった。
「それでも、主命を違えることはできません。もし藤堂様の身に何かがあったら」
こうなった紫檀はもう手がつけられない。
紫檀が余りに喚くので、以御は生物階降下の許可書を与えざるをえなかった。
軍神の御璽印を押しながら、ふと以御は嫌な予感がする。
彼は何かにとり憑かれたように、恒の許に行きたがっている。
「私が、行きましょうか?」
二岐も以御が何を考えているのか想像が付いたので、彼女は白いスーツの上着を脱ぎながらそう申し出た。
紫檀は確かにユージーンによって藤堂 恒の警護を任されている。
それを止める権利は、以御にはない。
紫檀は二岐から見ても以御から見ても、死に急いでいるように見えた。
勿論、生物階に行ってもただちに危険だとはいえない。恒の傍には比企がついているのだし、生物階全体が危険だというわけではない。
だが以御も二岐も、紫檀の必死の形相を見て、口にこそ出さないが何か嫌な直感というものが働いた。
それは第一使徒を経験し、神の代理者として部下を指揮ひとつで死地に送り出してきた以御と二岐のみが身につけた感覚なのかもしれない。
彼を生物階に行かせてよいものか……。
「お願いします、これは僕の仕事です」
「お前、無茶するなよ。お前はこれから父親になるんだからな、忘れるなよ」
「もう一度聞くわ。どうしても恒の事が心配だというのなら、私が代わりに行ってもいいのよ?」
二岐は念押しをした。
嫌な予感がするからといって、止めるのも不自然だ。
思い過ごしである可能性の方が高い。
「大丈夫です。気をつけます」
紫檀が歯切れよくそう言い切ったので、二岐と以御は顔を見合わせて見送るしかなかった。
無事で帰ってくるだろうか、紫檀に限っていつもはそんな事など思ったためしがないのに、以御は妙に気にかかった。
悪い予感が現実のものとならなければいいが。
*
「とんだ貧乏くじを引いてしまったもんだ。だが……こちらもそう長くはもたんからな」
荻号は意味の分からない独り言をつぶやき嘆きながらユージーンの気配を頼りに解階に転移をしようとして首をかしげ、ぽりぽりと長髪の頭をかいたのは、追跡すべきユージーンの気配が無くなってしまっていたからだ。
恒から聞いた話の通り、ユージーンは解階でアトモスフィアを使い果たしたのだろう。
荻号は解階の母星の座標を記憶していたので、解階の宇宙空間に転移することはできたが、闇雲に捜すのは気が進まないし時間の無駄だ。
しかしそうもいっていられない、彼に時間は残されていなかった。
荻号の気にしているタイムリミットまで、もって1日、短ければ半日しかない。
荻号は覚悟を決めて解階の真空中へ超空間転移すると、ブラインド・ウォッチメイカーから死の一撃を与えられていないと実感し、ユージーンが超空間転移の際に残したと思しき空間の歪みを追跡しはじめた。
時空間歪曲の痕跡を追跡してゆくことによって、暗黒の真空中に漂うユージーンを発見する。
彼はABYSSの重力圏に巻き込まれABYSSに墜落しないように意識を失う寸前にそうしたのか、およそ20.5km/secでABYSSの高度周回軌道上に衛星のように漂っていた。
ブラインド・ウォッチメイカーの手に落ちたという彼の神体は、アトモスフィアが枯渇しきって干からびている。
荻号はユージーンが手放して近くに漂っていた相転星に気付き、チェーン部分を掴んだ。
一万年前の世界からタイムスリップをして現代に目覚めた荻号とはいえ、この有名すぎる神具には見覚えがある。
当時から相転星には持ち主がおらず、いわくのついた代物ではあった。
荻号は相転星を扱わず、それよりなお扱いの困難なフラーレン C60を選んだ。
全神具適合性という特異体質を持ってはいても、触れた者を即死させてきたという相転星を敢えて選ぶ必要もなかったからである。
その荻号はユージーンの手放した相転星を躊躇なく手にし、全神具適合性を発揮して触性免疫に焼灼されることもなく、展開してログデータを確認した。
最近起動回数は二千回を超えている。
相転星に残されたプログラムから、ユージーンが何をしようとしていたのか、何をしたのかを瞬時に把握する。
彼は母星ABYSSの座標を動かそうとしていた。
何故そんなことをしなければならなくなったのかは深く考えない、考えごとをしている時間はない。
今はユージーンがしようとしていた作業の続きをして、彼を生物階に連れ帰るのが先決だ。
『なんだ、あと一息のところで力尽きたんだな。しかも同じような場所から撃ちやがって。場所を変えて撃たんと力学的な理にかなってないだろ、常識的に考えて』
荻号はユージーンの腕を引っつかみ、その次の瞬間には形而上学転移で可視できる範囲の目印を探して場所を変え、母星に向けて相転星を構え、不自然な角度に相転星を捩った。
これは以下の暗号文を相転星に与えるコマンドだ。
″数式入力を直接入力に変更″
急がなければ、ブラインド・ウォッチメイカーに殺されてしまうのだ。
相転星は荻号 要が数式入力を自動入力にしていて、数式詠唱すれば三つの環を適宜組み替えなくとも発動するようになっていた。
ユージーンは真空中でも発動できるよう音声コマンドを省略し更にカスタマイズしていたが、オートマティックで起動する事には変わらない。
マニュアル入力は音声コマンドや予め設定されていたオートマティックコマンドを入力する代わりに、三つの環の角度を手動でひたすら入力するものだ。
荻号が何故手にした事もない神具を我が物のように扱えるかというと、彼は神具を選ぶ際に、全ての超神具の取扱説明書に目を通した上で、最も簡単には扱えそうにない神具に決めたからだ。
つまり彼は相転星の取扱説明書を読んでいた。
彼はその時なんとなく流し読みをした説明書の記憶を思い出している。とりわけ音声入力の出来ない真空中では、直接入力が役に立つ。
荻号は相転星の内環の抵抗を解除し、ピーン、と指先で内環を弾いた。
抵抗を解除された内環は真空中では止まることなく加速して回り続ける。
相転星の反応中心の月が、新しい持ち主の顔を上目づかいに見上げている。
荻号は冷淡にそれを睨み付けると、ピーン、ピーンと更に回転を与え内環は高速回転を始めた。
これで内環には触れなくてもよくなった。
あとは二つの外環を内環の回転に合わせて動かせば三つの環の角度が決まり、コマンド入力の速度が上がる。
そしてユージーンの設定していた無音声オートマティックコマンドをすら用いない事の最大のメリットは、エネルギー増幅効率は数十倍にも膨れ上がるという点だ。
ただし、高速回転する内環の動きに角度を一度単位で合わせ続けられるなら、だが。
荻号は今日まで触れた事もなかった相転星の内環を最速にまで回転させると、外環を内環の回転に合わせて組み替えはじめた。
一秒間に十回のペースでの角度入力を、彼は間違えることもなく淡々と正確に続けてゆく。
真空中なので通常時の金きり音は聞こえないが、コマンドを受理したという独特の振動が荻号の手の内に伝わってくる。
それによって彼はコマンドが受け付けられ演算が始まったと確認しつつ、内環を更に弾いて入力を加速させてゆく。
一分後、相転星は千回のコマンドを与えられ、最大励起の飽和状態に達した。
荻号はそれを大切そうに両手でそっと包み込むと、母星に向けて相転星を掲げて標的を絞りこむ。
万力を締上げるように、彼の手の中で暴れ狂う相転星をしっかりとコントロールしている。
{35,26,19}
{225,214,64}
{290,127,2}
最後の三セットの角度入力は発動のキーワード″相間転移せよ″に相当するものだ。
目も眩むばかりの暴力的な熱量を帯びた相転星のエネルギーは発動の瞬間、一直線に母星に向けて放たれ、ユージーンが成し遂げられなかったこと――ブラインド・ウォッチメイカーにロックされた母星の座標を揺るがした。
荻号はしてやったとばかりに微笑むと、宇宙空間に放り投げていたユージーンを乱暴に掴み、解階の母星とともに超空間転移に巻き込もうとした。
しかしその瞬間、意識を失っていたと思っていたユージーンが突如として目覚めたのだ。
荻号はほっとして何か呼びかけようとしたが、表情が以前の彼のものと違うのに気付き舌打ちをした。
『こいつ、ユージーンじゃねぇぞ』
ユージーンの中にいる、恐らくそれはブラインド・ウォッチメイカーであろうが、倒れたふりをして荻号をおびき寄せていたのかとすら思われる。
荻号は反射的にユージーンから逃れるようにして瞬間移動をかけ、アビスの地を踏んだ。
彼は着地するとすぐさま地に両手をつき、咆哮を上げながらアビスを転移に巻き込もうとした。
解階には辺境の星もあるのだろうが、それらを構っている余裕はない。
アビスだけでも……。
彼はそう考えて後ろめたく感じたが、荻号は計り知れないこととはいえ、解階を生物階に転移させるというユージーンの提案でアビスにはアルシエルの勅令を受けた辺境の星の悲感染者達が集っていた。
つまり辺境の星々に残されたのは、比企らの創り出した特効薬が完成するまでは見捨てるほかない感染者達のみが残っていたという事になる。
いつの間にか追跡転移をしてきたユージーンに背後に回りこまれており、危険を感じた時にはもう遅かった。
あと一歩というところで荻号は創世者の圧倒的な暴力を込め背後より殴りつけられ、死の一撃を与えられた。
その空間に在る創世者のみが支配下にある生命に与える事のできる特殊かつ不可避の攻撃、バイタル切断をその身に受けては、逃れられる筈もなかった。
彼は肉体が物質と化すまでの間に、崩れ落ちながらもユージーンの足を掴み、最後の力を振り絞って解階とユージーンを生物階に転移させた。
その後はただ、息絶えることとなるだろう。
大地が割れんばかりの轟音がして、最大出力のアトモスフィアを用いて、荻号の最期の力を懸けた超空間転移が完成した。
基空間が歪み、アビスの座標が彼の手に掌握される。
それが間違いでなければたった今この瞬間、アルティメイト・オブ・ノーボディの支配圏内に入った筈だ。
生物階の近傍ならばノーボディの力が及ぶ。
空間を超えた感触はある、ここは生物階だ、戻ってきたのだと荻号には分かった。
どうやら間に合った……、彼は喜ぶ間もなく力尽きて瞳を閉ざした。
”……俺も遂に……ここまで、か――”
意識が途切れ、薄れてゆく。
彼はしだいに物質と化してゆきながら、それでも不敵に微笑んでいた。
”あとは……任せたぞ。俺を殺した責任を取れよ”
彼は最期に、誰にとも知れずそんな言葉を誰かに語りかけた。
不本意な死に様だが、やることはやった。
ユージーンの姿をしたブラインド・ウォッチメイカーは冷ややかに彼を見下ろし、荻号が息たえた事を確認するかのように俯せに倒れていた彼の遺体を足蹴にして裏返した。
ブラインド・ウォッチメイカーは確かに彼が逝ったと確かめると、生物階に転移した母星を元のように解階に戻そうとして気付いたようだった。
彼女はユージーンの器を隠れみのにしているとはいえアルティメイト・オブ・ノーボディの支配領域に入っており、ここでは彼女の思い通りにはいかないと。
ノーボディはユージーンに要請されて生物階にABYSSの納まるべき受け皿を造っていた。
結局ABYSSの転移を行ったのは荻号だが、予定通りの座標に転移させたためにABYSSはノーボディの造った檻の中に閉じ込められるような形となりブラインド・ウォッチメイカーは生物階においてその座標から外に出られなくなった。
この場所から他の場所に移動するためには、一度解階に転移して違う場所から生物階に入らねばならない。
荻号のした事は、無駄にはならなかった――。
彼は命を捨てて解階を生物階に転移させ、それはノーボディに固定されてもう戻せない。
この場所での力関係を考えると、肉体に憑依し元々のブラインド・ウォッチメイカーの意識のほんの一部分でしかない彼女は、実体を持たず普遍と化したノーボディより遥かに劣っている。ABYSSが閉じ込められている檻から空間を超えて解階へ戻す事は不可能に近い。
彼女は無表情で事実だけを受け止めると、あれほど執着をしていたABYSSを簡単に見捨てて解階へと去ってしまった。
*
比企はそれほど時間をかけず、荻号の金縛りを破った。
恒の方はどこにどう力を加えても、びくとも動かない。
比企は地層に埋め込まれた化石をそっと発掘する考古学者のように、荻号のアトモスフィアに固定された恒の周囲のアトモスフィアを削り取っていた。
恒は、つくづく自分は誰にとっても足手まといだと思い知らされながら、不安げなまなざしで比企を見上げる。
比企はこの瞬間も、荻号を追ってゆきたいだろうに……恒が足を引っ張っている。
「姑息な事をしおって……」
「荻号様は、命を投げうつおつもりなのでしょうか?」
鉄面皮の彼はいつものように無表情を貫きながらも、口の端に苛立ちを隠せずにいるらしかった。
比企は生まれながらにして冷気を纏っているのかと思うほど、冷たいアトモスフィアをしている。
比企の傍にいると、夏だというのに鳥肌が立つ。
それで恒は、ますます恐縮してしまう。
「己は荻号 正鵠の性質を知らぬ。だが荻号 要と酷似しているとすれば、彼は生に対する執着が極端に薄い」
荻号の犠牲と引き換えに、ユージーンを奪還する――。
ユージーンはきっと、こんな決着を望まないだろう……。ノーボディは恒に、荻号の生命を使えと教唆したのだろうか?
彼(彼女)が遍く生命への慈愛を説き与える一方で、あたかも荻号を捨て駒のように使うのだろうか。そして彼の意思を受けて荻号にそう仕向けたのは、外ならぬ恒自身だった事を思い知られる。
そう伝えた恒も、アルティメイト・オブ・ノーボディにいいように使われたのだろうが……。
「俺は何てことを。誰かの為に誰かが犠牲になるなんて……こんなのばかりもうたくさんです」
比企は恒の金縛りを破ると、真夏だというのに宮司のような詰襟の和服姿で何を思ったか汗一つかかずに腕組みをした。
恒は強い日差しと次々とめまぐるしく変化してゆく状況にショックが重なって、眩暈がする。恒の動揺を見て、比企はまた淡々とこういい捨てた。
比企はこれでも恒を励ましているのだろうが、どこか突き放して聞こえるのが比企が損をしている部分だ。
「藤堂……。陽階に属する己がこう発言してはならぬのだろうが事実、非常事態においては生命の軽重が存在する。お前の命は己や荻号より、いや神階の何者より重く、己と荻号の二者間では荻号の命が重い。荻号はユージーンとともに生物階と神階の安全保証にとって切り札的な存在であった。必然的に、荻号ではなく己の生命を使うべきだったのだ。切り札は一枚では心許ないのでな……今度の事がよい例だ。しかし荻号を失うよりなお、ユージーンを奪われる事は致命的だった。荻号ならばユージーンを奪い返して来るだろうが……優先事項を勘案すれば悔やまれる」
誰かの命が、誰かより大切だなどということはあってはならないと恒は思うのだが、比企はあくまでも三階の危機的状況下においての軽重の話をしている。
恒は反論したかったが、ぐっと口を閉ざして聞いておいた。
一人前に反論をできるような立場ではない、現に恒は荻号を間接的に殺す事になってしまった。
「ユージーンさんは……帰ってくる事が出来るでしょうか」
「?」
「ユージーンさんのままで帰ってくる事が出来るでしょうか――? ノーボディは、彼がブラインド・ウォッチメイカーの手に堕ちたと……!」
「……いかん!」
比企は恒の言葉の真意を知り、荻号の消えた快晴の空を仰いだ。
そうだ……荻号が命を捨てて連れて帰るのは、ユージーンではないかもしれない!
ユージーンはINVISIBLEが収束するための器としてもともと創世者を受け入れるのに適した神体をしているか、よほど創世者にとって魅力的な神体なのだろう。
ユージーンが何らかの理由で力尽きてしまったとすれば、ブラインド・ウォッチメイカーがその身体に入り込む事など造作もない。
だが、もし恒がブラインド・ウォッチメイカーだったならという立場で考えると、INVISIBLEの気に入った神体にちょっかいを出す事は、必ずしも賢明ではないだろうと思う。
INVISIBLEがへそを曲げてユージーンの裡に収束する気をなくしてしまえば計画は丸つぶれだし、万が一ユージーンの背にあるスティグマが消えてしまえば、次の器が見当たらない。
またINVISIBLEもブラインド・ウォッチメイカーも最初から器を探さねばならなくなる。
ブラインド・ウォッチメイカーにとっても有り難くないだろう。
したがって、ユージーンに憑依するとしてもそれは一時的なものだろうと推測される。
彼女は、ユージーンの神体を使って何をするつもりなのか?
「超越的な強度を持つユージーンの神体が敵の手に墜ちたのか……万一の事態も、想定せねばならん」
「万一、とは?」
問い返しながら、恒にも分かっていた。
だが到底受け入れられなかった。ユージーンの神体を使う理由、それはただ一つだ。
比企は視線を伏せながらも、はっきりと断言した。
「お前を殺しに来るやもしれん」
「俺がユージーンさんに殺される?!」
恒はどこかその言葉を他人事のように感じたが、まさかこうなってしまうとは、ノーボディでも考えの及ばない事態だったのではないかと思う。
恒がユージーンに命を狙われるなどとは。
「で、でも、俺を殺せば抗体が発動します。それを懸念して……」
「藤堂……お前に指一本触れず近づかず殺すなど、己にすら容易いことだ」
飛び道具ひとつで、恒の命は簡単に断たれる。
「……!」
比企はつい、と目を泳がせて天を仰いだ。
隣の家の大家が、和服姿の比企と恒が荻号の家の庭でなにやら話し込んでいるのを見て、窓からカーテンの陰から顔を出していたが、恒は愛想よく会釈をする余裕もなかった。
「頼るなら、ヴィブレ=スミスだな。神階に戻るぞ、藤堂」
「父を!?」
でも……極陽は比企より力劣るのではなかったか?
ユージーンは比企をこそ次期極陽の器量と評価していたが。
比企があっさりと彼自身の無力を認め極陽の助力を乞うと決めてしまったのは意外だった。弱腰な比企を見ると、心許ない。
「ですが…」
「1のオールマイティ(万能者)を失ったとあらば、100のオーソリティ(権威)を差配せねばならん。そして創世者と争う為に、火力はいらぬだろう」
「父が……」
「何を言っているのかは、そのうちわかる」
誰もが口を揃えてそう言う、主神、ヴィブレ=スミスは強いと。
彼を畏れるからこそ比企を除いて彼に挑みかかる者はなく、およそ十世紀以上もの間極陽として在位し続けている。
神具には、暗黙のうちに位申戦では使ってはならない、対象を確実に死に至らしめる禁忌の機能があるものがある。
比企の元素崩壊しかり、ヴィブレ=スミスのPSYCO-LOZICase(サイコ・ロジカーゼ:精神分解酵素)もしかりだ。比企はPSYCO-LOZIcaseの有用性と危険性を知っていた。
対抗できるとしたら、PSYCO-LOGIcaseしかないと比企は判断した。
起こりうる最悪の事態まであまり時間がないと懸念していたが、比企は場所をイメージしての超空間転移は出来なかった。
比企は超空間追跡転移は出来たが、今の神階には生物階にまで届く強い気配を持った超越者が存在しない。
先ほどは荻号がいたので生物階に来る事が出来たが、この状況では神階の門から神階に入るほかなかった。
神階に行けば安全だとはいえない、だが神階はノーボディの創り出したいわば聖域。
ブラインド・ウォッチメイカーの一度の侵攻を許しはしたが、生物階よりは守りが堅いだろう。
それに、生物階が戦場となり無意味な犠牲を出す事は愚かしい。
ただでさえ、生物階はさきの混乱により疲弊しきっている。
これ以上の被害を被れば、未知の生命体への恐怖は増し、国連でのヴィブレ=スミスへの不信感へも繋がるだろう。
神は人を守らねばならない、この大原則を比企は忘れてはいなかった。
「時間がない、神階の門へゆくぞ」
「は、はい」
恒が頷く間もなく、比企は恒を転移に巻き込んだ。
比企は最も近い入階衛星の場所まで転移すると、進入ボタンを押し、神階への帰還を申し込む。
やがて神階の門(Heaven's Gate)が転送されて開かれる筈だが、赤いランプが点滅していて誰かが神階の門を利用中のようだ。
利用者3名と表示されている。
移動式の神階の門は一つしかなく、それが各入階衛星に転送されて連絡されているだけなので、誰かが使用していれば順番を待たなければならない。
比企は先に入階コードを入力して待つしかなかった。
4番目の順番という事になる。
恒は比企の手を離して自分で飛翔するよう努めた。
「む。何か来る。危険な者ではない」
比企はそう呟いて雲間を見つめた。
翼を持った男が、一直線にこちらをめがけて飛んでくるのが見える。
その紫色の翼と、シルエットから恒は誰がやってきたのかすぐに気付いた。
「藤堂様! やっと見つけました!」
「紫檀さん」
紫檀は恒を捜すために、比企の気配を追跡していた。
比企が長くこの場所に留まっていたので、紫檀にすら追跡を許されてしまったのだろう。
あまりよい事ではないな、と比企は思った。
こうやって時間を無駄にしていれば、怖れている者がやってくる。
神階の門の利用者は本当は18名いたが、優先コードを入力したので何とか4番目の順番になった。
つまり優先コードを入力した、恐らく神と思しき者達があと3名もいるのだ。
比企はこれに引っかかった。優先コードを入力できるのは枢軸神だけだ。
そして……ユージーンと比企を除いて、現在生物階に降下している枢軸神はいなかった。
わずか1時間ばかりの間に、誰か神階を出た枢軸神がいるのか?
しかも3名も。不穏な気配がする。誰かが優先コードを、不法に利用しているのではないか、と。
「よかった、藤堂様。ご無事で何よりです」
紫檀は心の底から恒の無事を喜んでいる。
神階の門が転送されてきた合図のランプが点灯したので、比企はほっとした。
白い光のグリッドが曇天の空に現れ、それが扉の形を形どって大きく開いた。
よかった、これで、安全だ。
紫檀がそう思いかけた時、ふっと比企と恒の背後に、何者かの影が現れたのを見つけた。
比企と恒の背後にいるものだから、彼等はその出現に気付いていない。
その影から繰り出された一閃の攻撃を見切ったとき、紫檀は影が襲撃者である事をいち早く察知する。
「っ!!」
紫檀は咄嗟に前に飛び出て比企と恒を庇い、すれ違いざま恒と比企の腹部を蹴って神階の門の中に押し込んだ。
神階の門は二柱の神の入階を受け付けて、その巨大な扉を軋ませて閉ざされる。
彼は両手を拡げて神階の門を守るように立ちふさがり、何度も瞬きをして逆光を背負う相手を見定めようとした。
紫檀は目の前の存在を受け入れる事ができず、攻撃に対する反応が遅れた。
鋭い衝撃波で切り付けられ、紫檀は無防備に拡げていた右腕を肘の上で切り落とされた。
切断された右腕は地上へと空しく落ちてゆく。
鮮血が噴水のように噴出したが、不思議と痛みは感じなかった。
この右腕で、これから生まれ来る愛すべき双子の子供達を擁く筈だった。
その腕を、目の前の男がいとも簡単に奪い去った。
何の感傷もない、どこか乾ききった表情を浮かべながら。
「……な、何故……」
応戦しなければ、左腕も翼も持っていかれる。
彼の頭脳は危険を察している。
しかし紫檀はどうしても、襲撃者に牙をむく事ができなかった。
何故なら、目の前にいる彼は……。
「し、主よ……何故貴方が、藤堂様をお護りしろと命じた貴方が、と、藤堂様を加害なされようと……」
目の前の敵は見まがうことなくユージーンの姿をしている。
紫檀が永遠の忠誠を誓い、紫檀と廿日が祈りを捧げ敬愛してやまない軍神がそこにはいた。
また凶器となった彼の神具が疾く風を斬るたび、紫檀は何度となく切り付けられる。
無数の攻撃によって左の翼の先を切り落とされ、薄暮色で風情があるとユージーンに誉めてもらった自慢の風切り羽が空を舞う。
左腕もいつの間にか、もっていかれていた。
意識が朦朧としながら、それでも尚神階の門の前に立ちふさがったまま彼は譲らない。
門が完全に他の場所に転送されてしまうまで、こじ開けられでもしたらたまらない。
あと10秒ほど持ちこたえられればいい、そうすれば跡形もなく神階の門は消えうせる。
藤堂 恒を守ることができる。
「主よ、どうして、どうして――」
血だるまになった紫檀は飛翔することすら出来ず、遂に浮力を失って堕ちてゆこうとした。
しかし絶望のままこの世を去ろうとした紫檀の身体を、支えた者がいる。
薄墨色の聖衣、銅色の髪、そしてその手に束ね持ったのは、深紅の色をしたフラーレン C60だ。
荻号 正鵠がブラインド・ウォッチメイカーの憑依したユージーンの前に立ちはだかった。
紫檀はまだ生きているが、虫の息だ。
荻号はフラーレンを17枚放り投げ、紫檀のため空中に簡易ベッドを作った。
フラーレンは優しく青い光で格子をつくり、紫檀が横たわるだけの強度を持っている。
紫檀をその上にそっと寝かせ、持っていた薬草をシザーケースから取り出し、紫檀の口に含ませた。
「……こいつは、ユージーンの部下だった使徒だろう」
荻号は紫檀の息がまだあることを確認すると、敵の前に向き直った。
「お前、とんでもない事をしたな」
ブラインド・ウォッチメイカーと対峙しているのは、先ほど死亡を確認した荻号そのひとに他ならない。
確かに荻号のバイタルレベルを切断し、葬り去った筈だった。
それを彼女自身が確認していた。
「幽霊でも見ている気分か? 残念だったなぁ、死んだのは貧乏くじを引いた俺の分身の方だ」
荻号は共存在(co-existance)を使い異なる位相に彼の分身を生み出す事が出来る、分身は1日、短くて半日の間自由な意思を持ち、本物と同じように思考し活動する。
荻号が恒と比企に対し「どちらが死ぬべきか公平に」決めるといっていたのは、共存在で分割した荻号という存在のどちらを生かすように力配分をするかを決めるという意味だったのだ。
貧乏くじを引いた方の荻号は生き残るべきと定められた半身に力を奪われ、消滅する運命を待つほかなかった。
アルティメイト・オブ・ノーボディが荻号を捨て駒にしろと指名したのは、そういう理由だったのだ。
「早くこいつを助けないと死んでしまう。5分で片をつけてやる」
荻号は束ねていたフラーレン C60を崩して風にはためかせると、ユージーンに向けて掲げ持つ。
冷静な声の裏には、怒りを滲ませていた。