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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第55話 Invasion from the abyss

 畏れずにはいられない、原始の闇が虚無を満たしていた。

 氷点下の真空中でアトモスフィアという鎧を脱がされた肌は脆い。

 厳寒の宇宙に身を刻まれながら、184時間、2250回にも達する試行の末、ユージーンのアトモスフィアはとうとう枯渇した。

無言で試みを続けていた彼が母星ABYSSに向けていたその手を、軽く握り締める。

滅びの時を目前にしたABYSSの蒼い人工照明が寂しげに死の球体を彩っている。

秒速数十キロメートルで時折通り過ぎるABYSSの宇宙デブリに背後から衝突され、集中力をそがれる。


 解階の母星を生物階にまるごと転移させるという当初の安直な計画は、簡単に狂ってしまった。

 質量が大きすぎる為に転移に巻き込めなかったというのではない、ブラインド・ウォッチメイカーが解階の座標を固定して移動できない。

 物理法則を揺るがす創世者の根源的な力と、INVISIBLEの選んだ器とはいえ今は唯の神でしかないユージーンとの力の綱引きで、どちらに軍配が上がるか勝負は目に見えていた。

 ユージーンはブラインド・ウォッチメイカーのロックした物理学的座標を、相転星を使って揺るがそうとするが、生物階や神階とは異なる物理法則の支配する解階の内部、いわばブラインド・ウォッチメイカーの母胎で、時空間操作系神具などは無用の長物と成り果ててしまっている。

 相転星を持つ両手は真空に晒されてとうにかじかんで、感覚を失っていた。

 力を失ったユージーンは、敗北を認める前にとうとう、虚無に向かって語りかけた。

 その語りかけが何か意味のあるものとは彼自身ですらも思っていなかったようだが……。


『邪魔をするな。あなたは解階を滅ぼし新たな世界を造ろうとしているのだろう。ならば解階は必要ないものだ。何故要らないものを手放さない』


 ユージーンが虚空に呼び掛けても、彼の思念は敢え無く真空に吸い込まれてゆくだけだ。

 ユージーンはたったひとり真空中の静寂の中にぽつねんと、静かに創世者との交渉を続けた。

 誰の支えもない、不死身の肉体を持つ彼にしか出来ない孤独な戦いだった。


『わたしを疲弊させるな。まだ利用価値があるだろう、器を損ねる事はあなたの利とはならない。わたしは退かない。何千回でも、力を使い果たしても諦めはしない。わたしは不死身だが肉体は劣化してゆく、それでもやめない。だから妨害するな……あなたにとって不要となった解階と、まだ利用価値のあるこの身体。どちらを手放すべきか、賢明なあなたならわかるだろう』


 ユージーンは肉体の劣化を承知の上で、神具起動の為に神体を崩壊させつつアトモスフィアを搾り出した。

 こうやって身体を打ち砕いてゆけば、アトモスフィアはまだ出せる。

 そしてブラインド・ウォッチメイカーの固定した座標も薄皮を剥くように揺るがしてゆける、ここで退いてブラインド・ウォッチメイカーに時間を与えてしまえばまた途方もない作業を最初からやり直さなければならない。

 退くわけにはいかない。


[哀れな……]

『!』


 ユージーンは肌を擽るように触れた囁き声に、弾かれたように周囲に目を配ったが、辺りには静寂と虚無が取り巻いている。

 姿は見えないまま、呪詛のようなその声は続けてユージーンの脳裏に反響してきた。

 押し寄せる波のように、緩急をつけて鳴り止まない、遠い空に鳴る鐘のように……。


[蓋けだし、汝は供犠である。其を理解できぬか。汝は創世者の器たる汝の存在を憎み死を願えど、死なぬ身故にかような贖罪を続ける。……誰が為に購っておるのか。汝の救わんと願う者が、汝に何を報いてくれよう]


 これがブラインド・ウォッチメイカーの声だというのでなければ、とうとう幻聴が聞こえてきたのかもしれない。

 相転星の発動回数は2000回を超えた、凡神なら10回もせずに命が尽きている壮絶な負荷だ。

 だがそれがユージーンの心の中に響き渡る肉体の悲鳴なのか、ブラインド・ウォッチメイカーからの嘲りの言葉なのか、そのどちらとも取れた。

 無間の闇の中から聞こえてくるおぞましい声は確実に、精神を抉じ開けて深く根を張るように限界を超えたユージーンの精神を蝕んでいった。


[……汝は孤独だ]

『……違う、』


 彼は意識が遠のきそうになりながら、震える手で尚も相転星を起動し続けている。

 肉体の疲弊は精神の強度を損ない、ブラインド・ウォッチメイカーにつけいる隙を生んでしまったのだ。

 声はどこから聞こえてくるのか、誰のものなのか分からない。

 誰でもないような、誰かであるような、解階という空間そのものの思念がユージーンに降り注ぎ、柔らかな雨のように精神力を打ちのめし、正気を奪ってゆく。

 気を確かに持とうとするが、肉体を疲弊しきった彼の精神は脆弱なものだった。


[汝は誰によって供犠とされたのだ、汝は何の為に生まれてきた]

『何の……た…め?』

[存在理由を認めよ。汝が父によって差し出された、生贄に過ぎぬのだと]


 違うと否定する気力も体力もなく、ユージーンが遂に握力を失い相転星を手放してしまった。 

 アトモスフィアの干からびた身体は凍えているが、もう熱を獲ようとして震える力もない。

 死んで朽ち果て、宇宙の塵となってしまえばいい、彼は切にそう願ったが、叶わぬ望みだと分かっていた。

 いくら力尽き息絶えても、それをINVISIBLEが許さない。


 背に刻み込まれたスティグマから無尽蔵の生命力が供給され、彼は息を吹き返す。

 衰えた力はやがて蘇り、肉体は生きた屍となっても、彼は何度でも目覚める。

 彼の身はINVISIBLEによって支えられ生かされ続け、死の安息を許されない。

 永遠にだ。



 気付けば、恒が怪我をして極陽と対面を果たしてからもう二週間が経っていた。

 U.I.(Uncharacterized Infection:未同定感染症)と仮称された死に至る未曾有の感染症は尚も世界規模で猛威を奮っているが、ファティナの推計したような対数関数的には犠牲者は増加しなかった。

 それは神々の齎した情報を人々が適切に利用し、神々と人々が極秘裏に協力を始めたからだ。

 有史以来この二週間ほど地球上の既存の宗教観や世界観、宇宙論や哲学が覆された一週間はないだろう。

 国際医学会やシンポジウムが急遽非公式に行われ、世界中から参じた医師たちへU.I.への対応の指針が示された。

 IEIIO:国際知的生命研究機関の上位機関であるWHOは各所に感染者の隔離地区を設けて感染経路を遮断し、IEIIOからの情報提供により的確な情報統制を布き辛くもメディアからの二次感染を食い止めるに至った。

 感染者はほどなく死に至る事から、感染者の総数はようやく減少に転じはじめていた。


 感染源の特定の為、陰階枢軸の遺伝子を司る神、第9位 アマデュ=パズトーリ、置換名 岡崎 宿耀が過去数百万年間の生物階遺伝子データベースをIEIIOの研究者に開放し、IEIIOとリソースを共有する事によって、実質神階と生物階が研究レベルで手を組んだ。

 それに伴い、IEIIOは発足以来最大の事件でもあるのだが、神階より極秘裏に生物階における生物階の交渉相手として選ばれ、神階の体制や生物階の現状について情報を得るところとなった。IEIIOの動向はWHO、果ては国連に通じている。

 

 NASAや各国宇宙開発機構は、各国の人工衛星や神階の監視衛星、高感度レーザーと連携し、地球への侵入者をいち早く発見するシステムや、ファーストアタックから世界中に緊急連絡を行う情報網を整備しはじめた。

 また、国際原子力機関(International Atomic Energy Agency :IAEA)は、ファーストアタック後に、原子力関連施設の稼働を瞬時に停止させ無能力化させるための国際的なネットワークを構築した。

 核弾頭の管理、搭載はより厳格化、徹底され、解階の住民が核関連施設を攻撃することによって世界が核兵器の暴発で滅亡するという最悪のシナリオ回避に必死だった。


 各国首脳は極秘に神階の存在を明らかにされ、今後国連は神階と協力して地球全体の安全保障に全力をそそぐという方向で合意した。

 そうせざるをえなかった。

 イスラム教圏の国々はイスラム教宗主をも内包する神階の存在をとうとう認めはしなかったが、神階との協調路線を突っぱねる事はできなかった。

 人類と神という存在が、三階の安全保障という共通課題を前に、各々等身大の姿で向かい合う時がきたのだ。


 現代の主神であり生物階不可侵政策を取っていた、ヴィブレ=スミスが遂に彼の方針を曲げ生物階に降下して国連総会で神のありのままの姿を見せ、協力を求めたのも効果的だったかもしれない。

 その演説の際にヴィブレ=スミスが賢明だったのは、神という存在を宗教的存在として扱わなかった事だ。

 彼は主神という立場をいわゆる首相や大統領と同格であり、暫定的な神階の代表だというニュアンスを前面に押し出した事によって、人民の理解を得たといえる。


 そして先代の主神が世界的大宗教の創始者、ジーザス=クライストであったと一言を添えた事によって、キリスト教圏の首相達に好印象を与え、潜在的な畏敬の念を植え付けた。

 付け加えてヴィブレ=スミスは神として生物階の人々に崇拝や信仰を求めに来たのではなく、三階の同居者として協力を要請しに来ただけだと明言した。


 比企の目指した神階の生物階直接統治とまではいかずとも、結果的に主神が各国首脳レベルの生物階代表者の前に名乗り出ざるをえないような、今回の事件はそんな歴史的大事件だったといえる。

 この模様は当然、メディアには非公開であったが……。


 これに関連して、大坂大学をはじめとする各研究機関から得られた特効成分の合成経路のスキームは直ちに株式会社レイメイに集められ、未認可の状態で薬剤の生産が始まっていた。

 レイメイは薬剤合成経路を全世界に公開し、民間の製薬会社も薬剤生産に乗り出しはじめた。

 未認可の薬剤が治験などの臨床試験もなく出回るとは言語道断だが、神々の厚意と生物階の危急を知ったWHOは迅速にレイメイに新薬の認可を与えた。

 レイメイは完全に営利追求を放棄し採算度外視で生産と供給をはじめていた。


 裏事情をマスコミは、レイメイと政府機関との癒着をさぐることに終始した。

 レイメイの人間が病原体を撒き散らし、新聞に匿名で薬効成分を発表、特効薬をいちはやく合成、生産し世界の救世主となれば採算度外視でも今後のための売名としては大成功だろう、と。


 ここのところ、恒がWHOのお偉方の顔と株式会社レイメイの社長の顔をテレビで見かけない日はない。

 聞くところによるとレイメイの社長は極陽の第三使徒らしいが、これほどマスコミに注目されてその生い立ちを調べられればいつか尻尾が出るのではないかと今日もテレビを見ながら、気が気でない。


 そういう恒はこの二週間というもの、軍神下執務室の一室に館詰だ。

 恒は以前に増して、ユージーンの命令で使徒たちに厳重に保護されるようになった。

 ユージーンの腹心らしい、第五使徒の紫檀という男が恒の身の回りの世話と警護を担当することになり、彼がいつも恒の部屋に付き添っている。

 だが紫檀は恒を何から護るべきなのか、知らされてはいないようだった。


 また、肝心のユージーンは解階をこちらに連れてくると行って出て行ったきり、もう一週間も戻ってこない。

 ユージーンは簡単そうに言ったが、解階を超空間転移させる事は至難の業なのだろうという事ぐらい、恒には分かった。

 ブラインド・ウォッチメイカーからの妨害も入るだろうし、そもそもユージーンの質量をはるかに上回る母星ABYSSを転移に巻き込む事自体不可能ではないのかと思う程突拍子もない発想だ。しかしユージーンは出来ないからといってすぐに諦めて戻ってはこない、彼はそういう損な性格をした意地っ張りだ。


 恒は日中、ベッドの上から動けない事もあって以御から端末を支給してもらい、八雲 青華から貰った恒の生体設計図のデータを精査していた。

 設計図は難解で高度に専門性を要するものだったが、恒は遺伝子解析ツールを利用し、少しずつ自力で読み解いていた。

 膨大な量の調べものをADAMのオンライン検索でこなしつつ、何か少しでも気づく事があれば、余さずメモを取っている。

 一つとして無駄には出来ない情報だ。


 今日も恒は眉根を寄せて考え込んでいたので、暇を持て余したらしい紫檀が肩越しに恒を覗き込んだ。

 背後からにゅっと顔が出てきて、恒はビクッと肩をこわばらせた。


「藤堂様、お勉強も結構ですが、少しはご休憩を取られませ」


 恒が昼も夜もなく解析に打ち込むのは、正直言って手持ち無沙汰だからだ。

 紫檀の不気味さについてもだが、いつまで神階にいなければならないのか分からず、二度と生物階に戻れないのではないかとも悩んでいた。

 しかし一度襲撃され怪我をした立場では、何を言うにしても分が悪く、何も言えない代わりにこうやって解析に勤しんでいる。


「というか、俺はいつまでここにいればいいのでしょう」

「まだご体調が万全でないよう窺えますが」

「え、もう元気ですよ! ほら!」


 強がって腕をブンブン振って動かす恒に紫檀は疑わしげに眉をひそめて、ちょいっと腹部をつついた。

 恒は息が止まり、眼を見開いて声が出せず、身をすぼめた。

 やはり紫檀は強敵だ。まさかそのタイミングで断りもなくいきなり腹をつつかれるとは思わなかった、曲がりなりにも陽階の正当な使徒なら、神の神体にそうそう気安く触る事などないのだが、紫檀は本人曰く「遠慮なし」とのこと。

 紫檀とふたりきりが、どれほど怖いことか…。


「カラ元気はやめて、少し養生してください。それでも下に降りるというなら、私の特製のお薬を飲んでもらいますよ」


 紫檀がそう言うと、冗談では済まされなくて怖い。

 紫檀は何十種類という毒薬を調合して常備しているそうだ、まさかとは思うが、一服盛られたらたまったものではない。


「そ、そ、それって、ぽっくりいくやつですよね!? 結構です!」

「少し痺れて動けなくなりますけど。それに藤堂様。神様は神階におわすものでしょう? どこの世界に地上に帰りたがる神様がいらっしゃいますか」


 嘆かわしいと言わんばかり、紫檀は呆れている。

 そんな正論を言われたって、実家が下にあるんだから、と恒は恒で言い分がある。

 志帆梨とは電話で連絡を取っていた。

 彼女は避難所暮らしをしているようだが、恒が怪我をしたと聞いてから眠れない日々が続いているのだそうだ。

 恒は一目だけでも志帆梨に会って、自分の口から無事を伝えたいところだ。

 それに、神の命の次に大事だという神具も下に置いてきたまま放置されている筈だ。

 藤堂家の天井には風穴が開いていたから、早く回収しないと雨ざらしになって壊れてしまう。

 神具が水に弱いという事は空山によって実証済みだ。


「というか、実家が生物階にあるんですけど……」

「生物階は物騒で、危険です。私は主からあなたの警護を任されているんですから、聞き分けて下さい。あなたの安全の為です」


 紫檀はユージーンの忠臣、いや忠犬だと以御が言っていたが、確かにそうだなと恒はがっくりだ。

 どうやら紫檀はユージーンをのみ神格化していて、恒に対する態度とはかなりの温度差が感じられる。

 ユージーンはあんなに暢気で優しいが、彼の御する大勢の使徒達は軍神下使徒という性質もあるからか、一癖も二癖もある人物ばかり。

 使徒達の毛並みは、奉職する職種によってがらりと違うそうだ。


 例えば倫理神の使徒達など、押しなべて正直者で温厚な人格者ばかりだという。

 音楽神の使徒は陽気で楽観的、史神の使徒は勤勉だが理屈っぽい、などなど……。

 軍神下使徒は人格もだが戦闘能力も高く評価されるため、濃いキャラクターが上位に食い込んでくる事がある。紫檀はその最たるものだった。


 それに紫檀がどうしても神階から恒を出したくないのは、恒が生物階に降りるような事があっては警備の為に同行しなくてはならないからだ。

 彼は身重の愛妻を扶養に抱えているので、妻から少しでも離れたくないというのが本音だろう。

 そこで紫檀が恒をどこにも行かせまいとする気迫と執念たるや、凄まじいものがあった。

 紫檀の執念に圧されて、恒はとうとう降参した。


「分かってますよ! 俺はどこにも行きませんから、おとなしくしてます」

「そう仰っていただけると、こちらも、むろんあなたにとっても幸いです」


 そういえば、ユージーンから聞くところによるとアルティメイト・オブ・ノーボディが蘇らせた(いにしえ)の神とは、どうやら荻号だったようだ。

 荻号といっても荻号 要ではなく、荻号 要が演じていた本物の方が蘇ったのだという。恒はさっぱり意味が分からなかったが、荻号 要こそが偽物であり、アルティメイト・オブ・ノーボディが実体を得る為に神を演じていたのだそうだ。


 彼は荻号 正鵠と名乗っているそうだが、古の神、荻号 正鵠は共存在(co-existence)という特殊能力を身につけていた。共存在とは存在確率を変動させ、いわゆる分身のようなものを創り出すが、荻号はかなりの共存在の使い手だったものの、分身に意識を割いて長時間維持する事まではできなかった。つまり共存在を行って産み出した分身の意識は、数日後には”お留守”になる。


 アルティメイト・オブ・ノーボディは彼の能力の脆弱性に目をつけ、利用価値を見出した。

 意識を持った本体は言葉巧みに一万年前に凍結され、自我が抜けてしまった分身にアルティメイト・オブ・ノーボディが収束した。それから一万年ものあいだ、アルティメイト・オブ・ノーボディは彼の分身を肉体の依代として用いていた。

 ユージーンはそんな事情を話していた。


 かつて荻号 要の第一使徒であり、現在はユージーンの第二使徒として奉職する鏑 二岐も詳細はさておき荻号復活の話を聞いたようだったが、新しい荻号にはてんで興味を示さなかった。

 彼女は荻号 要そのひとを慕い、愛して仕えていたのであり、いくら似ているからといって別神を同一視は出来ないというのだろう。

 一方の大雑把な織図は荻号 要と荻号 正鵠を双子のようにある程度同一視できるそうだが、二岐はその点徹底して受け入れようとしない。

 彼女の中では、荻号 要と荻号 正鵠は点と点の独立した存在でしかなく、二つの点は線分で結ばれていないのだ。だから受け入れられない。


 それで、この荻号 正鵠だが神階には戻らず、神を引退したいらしい。

 彼はもともと神だというのに神を引退するとはまた奇妙な話だが、本人は大真面目だ。退屈が死ぬほど嫌いな彼は三年後の大イベントに向けて、風岳村に住む事にしたそうだ。

 しかもそれが、皐月のアパートの隣の借家だというから大変だ。

 皐月に何か迷惑や危険が降りかからなければいいが、とユージーンは心の底から心配そうだった。

 神々が狙われるという今の状況からすると彼の心配はもっともな事だが、恒はそんなのは表面上の理由であって、ユージーンは荻号が皐月の隣に引っ越してきて、荻号と皐月が何かないかとやきもきしているのではないかと思った。

 ユージーンのマインドギャップは破れないが、彼が皐月の事を話すとき、なんとなくはにかんだ表情になるのを目ざとい恒は見つけていた。


 風岳村に赴任してきた当初にはなかった表情だ、彼には性別がない筈だが、ここにきて男女の心の機微が理解できるようになったのだとしたら、彼にとっては不幸だ。

 恒はそんな彼の様子を思い出しつつ、彼がまだ帰ってこない事に言及しようとしたが、紫檀の心を読んで敢えて口にするのはやめておいた。

 主の帰還が遅れて一番不安に思っているのは、恒ではなく彼ら側近の使徒たちなのかもしれない。


「……!」


 恒が端末の電源を落として紫檀の要請するよう、食事を取って休憩をしようとしたとき、異様な空気を感じた。

 意識を引っ張られるような、そんな感覚が全身を覆いつくす。

 しなやかな布で包み込まれるように、猛烈な睡魔が恒を襲う、抗う事など出来なかった。

 紫檀に一服盛られてしまったのかと考える余裕もなく、恒は崖から突き落とされるように意識を奪われていった。


 ほどなく目を覚ますと、夢に何度となく見たあの黄金の草原にいた。

 恒はそこがどこかわかっているので、きょろきょろと草原の住民を捜す。

 恒の視線は思いがけず、ひょいと下を向いた。

 今日のアルティメイト・オブ・ノーボディは恒より小さな少女の姿になって恒を待っていた。

 恒はもう彼が、あるいは彼女がどんな姿をしていようが、いちいち気にはしないしつっこみもしない。


『もしかして、俺を呼びましたか?』


 今日はスケッチブックとペンの持ち合わせがないので、彼女の意思を読み取る事が出来ない。恒が石ころを探しはじめた頃、彼女は人差し指を空に向けると、光の文字で返答をはじめていた。

 恒の睡眠時間を待たず意識を強引に引きずり落としたということは、よほど急いで何かを伝えたいのだろう。

 恒はのんびりと文字を書き終わるのを待っていたが、彼女は一瞬にして文章を書き上げた。

 黄金色のライトワークが、大気に揺れる。


”ユージーンが、ブラインド・ウォッチメイカーの手に落ちた”


 夕暮れの草原には、書きなぐったような光の文字が浮かんでいた。

 恒は夢の中だというのに動悸がする、わざわざ日本語で書き付けられているというのに、文章の意味が理解できない。


『……な…っ!』

”ユージーンの精神が壊されておる……彼はもう戻れぬ”

『も、もう戻れぬって! そんな簡単に! たっ、助けてあげてください!』


 恒はたまらなくなって、気づけば少女の肩を掴んで揺さぶっていた。

 創世者に対して無礼を働いているのだか、恒は客観的に彼自身を見つめる事ができなくなった。

 夢で知らせる前に、何とか助けてやって欲しい。

 こうしている時間が惜しい。少女は毅然としていた。


”吾は肉体を失い、力を貸す事はできん。だから喚んだのだ”

『俺に何が出来るんです!? 何でもします、俺に何かが出来るというなら』

”「彼」に左様伝えよ”

『彼って!?』


 アルティメイト・オブ・ノーボディは彼女の小さな掌の中で、輝く宝石を恒に見せつけた。

 ああ、覚えている。

 これは確か荻号 正鵠を示す隠喩だ。

 彼女は荻号 正鵠にこの事態を伝え、相談しろと言っている。

 荻号が何か切り札を持っているのか? アルティメイト・オブ・ノーボディはそれだけを伝えると、早く戻れといわんばかり押し戻すように恒の意識を浮上させた。


 頭の芯を抜かれるような浮遊感がして、恒ははっと目を覚ました。


 恒が意識を奪われていたのは、ほんの1分ほどもない。

 紫檀が上から覗き込んでいたので、急に起き上がった恒は額を紫檀の顎にぶつけてしまった。紫檀は顎をさすりながら、ぶつかられたはずみで舌をかんだらしく、顔をしかめていた。


「どうなさいましたか? うたた寝をしていらっしゃいましたが」

「紫檀さん! 荻号さんに、荻号 正鵠さんに会わせて下さい、今すぐです!!!」

「ですから、先ほども申し上げましたように」

「それどころじゃ、ないんですよ……! ユージーンさんが……」


 恒はもう必死の形相をしていたらしく、紫檀はたじろいで恒に肩を貸し、部屋の外に連れて出した。

 ユージーンの執務室に入ると、比企がソファーに腰掛けて以御と何か話し込んでいた。

 多忙を極める比企が何もなくてここに来るとは思えなかったから、ユージーンが帰らない事を心配して以御に事情を聞きに来たのだろうと察した。

 恒はこんな事をしている場合ではないと思いながらも、比企とは実際に初対面なので自己紹介をして挨拶をしなければならない。

 以御も粗相がないように挨拶をしろと、アイコンタクトで促している。


「あっ! お、お初お目に見えます、私は……」

「挨拶はいいが何かあったのか? 顔色が尋常ではないぞ」


 病人のように青白い顔をした比企は、彼よりは幾分顔色がよい恒の心配をしている。

 察しのいい比企の配慮が有難かった、おかげですぐに本題を切り出せる。

 比企は織図を看破してアルティメイト・オブ・ノーボディやブラインド・ウォッチメイカーの存在を知っているそうだから、今一番といってもいいほど頼りになるのは比企かもしれない。

 織図の記憶を余さず看破するとは、精神的には相当の器量だ。


「ユージーン様の精神が、ブラインド・ウォッチメイカーの手に墜ちました! 助けに行かなくては!」

「墜ちた、だと? 分かった。すぐに助けに行く。生物階から超空間追跡転移で解階に入る、お前はここで待っておれ」


 比企は事情を聞くとすぐに席を立つ。

 以御はまさに懸念した事だったのか、額を押さえている。

 以御はユージーンの性格や欠点を誰よりよく知っている。

 解階に行くといったユージーンを拙速だと諭して止めようとした、まさに懸念した通りの事態に陥ったかと、以御は猛烈に彼自身を責めているのがマインドブレイクによって窺えた。

 比企は堅物のように見えるが、こういう時に頼りになる。

 お願いしますと言い掛けて、恒はある事を思い出した。

 アルティメイト・オブ・ノーボディは、比企に助力を仰げとは言わなかった。彼は次期主神の器量を持つ優秀な神だが、分類上では一般神だ。


「あ、あ、駄目です、比企様。解階に入った瞬間に殺されてしまいます。荻号様にご連絡して……」

「誰が行ったとて同じだろう。一刻を争うなら、己が行った方が早い」

「駄目なんです、荻号様でなければ。こんな時には、ノーボディの意思に遵いましょう」

「あの荻号が、ただで動くとは思えんが……」


 比企は恒の手を取ると超空間追跡転移に恒を巻き込み、荻号の住処までの転移をかけた。

 神階の門をくぐって生物階に出れば、それなりに時間がかかる。

 比企やユージーン、荻号の持つこの超空間追跡転移という特殊能力はなかなか便利だ。

 次に恒の視界に現われたのは、何の変哲もない民家だ。これが荻号の家だという。

 家の隣を見ると、確かに皐月の住んでいる新築のアパートが見える。

 荻号が住んでいるのは築6年ほどの新しい物件で、恒はこの物件を建てた新婚の夫婦が不幸にして交通事故で急逝した事件を知っている。

 隣に住む婿の両親が、新築のこの家をどうしても取り壊す気になれず借家にしたという事情も知っている。

 その物件に荻号はひとりで住んでいるのだそうだ。

 白い瀟洒なつくりの広い家に、荻号が好きそうな南向きの広い庭がついている。


 家賃も良心的な価格だった。

 借家で暮らす神など聞いた事がないが、実際に住んでしまっているのだからどうしようもない。

 比企が化合物合成への協力の見返りに、苦労して不動産屋で探したのだろう。

 比企と恒がインターホンを押すまでもなく庭先に出て、薬草の種子を植えている荻号の姿が目に入った。

 荻号は種子に肥料をやる手を止めずこちらを振り向きもしなかったが、誰が来たのか把握しているようだった。


「またお前か。最近の枢軸神ってのは、頻繁に神階を抜け出していいものなのか? ユージーンなら連絡がないぞ」


 荻号は比企の顔を見ず宣う。

 その様子だと比企はここに頻繁に通っているのだろう。

 荻号はユージーンが解階を移動させ次第フラーレンを撃つ事になっているから、フラーレンを充電させたまま待機している。

 深紅に染まったフラーレンが240枚耳をそろえて、荻号のシザーケースに入っているという。

 超神具 フラーレン C60 はシザーケースごと無造作に鉢植えの上に置かれている。

 ひどい扱いをされて、神具としても不本意な事だろう。


「連絡をしたくとも、出来ぬ状況になったからだ」


 荻号はようやく作業の手を止め、振り向いた。



「それで、あなたに助力を仰げと」

「それは俺に、死ねって言ってるんだよな」


 恒から話を聞いた荻号は淡々とそう言ったが、恒は凍りついた。

 比企は眉を吊り上げたが、荻号は恒の動揺などお構いなしだ。


「お前とユージーンはこちらの創世者にとって大切な持ち駒だ。その点、俺はただの死にたがりのろくでなし。そんな俺の命なら、使い捨てていいよな」

「そんなつもりじゃ!」

「だが奴の意図に気付いてはいただろ、お前はそれほど鈍くはなさそうだ」


 荻号は庭先で、だらしなく室外機の上に腰掛けたまま、間髪入れずこんな指摘をした。

 荻号にそう指摘されるまで、恒はアルティメイト・オブ・ノーボディの意図に気づかなかった。

 それは疚しいと思うことなく断言できる。


「違います! 俺を解階に飛ばして下さい」


 恒は後先考えず申し出た。

 比企はその申し出に心底あきれてしまったようだ、もし比企や荻号が自らの死を恐れるがあまり、わずか10歳の子供を敵地に送り込んだのだとしたら、それは万死に値する恥ずべき行為だ。そんな事を子供に、断じてさせはしない。

 もし荻号が恒にそれをさせようものなら、比企は荻号を斬り捨てるだろう。

 比企は斯くも侮られているのかと嘆かずにはいられなかった。

 荻号はまるで恒の覚悟と反応を試しているかのようだ。


「行った瞬間に死ぬんだぞ? それでも?」

「死にません! その代わり、お願いがあります。俺を、ユージーンさんの必ず至近に飛ばして下さい。ブラインド・ウォッチメイカーが俺を殺せないように」

「殺せないように?」


 面白い、というように、荻号は鼻を鳴らした。

 恒はたった今思いついたばかりの持論を一気に並べ立てた。

 誰でもいい、誰かが助けに行かなければならないというのなら、勿論自分だっていい。

 恒は必死だったが、唯では殺されはしない。

 彼はどんな場面でも、必ずふと冷静になれる才能を持っていた。

 それはヴィブレ=スミスが恒に与えた贈り物の一つでもあったのだが……。


「俺がユージーンさんの至近で死ねば、抗体が発動してしまいます。そうなればまだユージーンさんが絶対不及者ではないとはいえ、俺の抗体が器としての彼に何らかの影響を与えてしまう、あまりよくない影響でしょう。結論、ブラインド・ウォッチメイカーはそれを懸念して、俺を殺せません」

「成る程……」

「そうでしょう!」


 恒は荻号を納得させたのが嬉しくて、比企にも同意を求めた。

 しかし比企は妙案だとは思えど、子供一人を危険な目に遭わせるという案に渋い顔をしたまま、首を縦には振らない。

 そして荻号が成る程と言ったのは、納得をしたからではなかった。


「成る程お前は鈍くはないが、浅薄だ。やはりお前は殺される。殺されるのは何も、向こうの創世者からとは限らんぜ。ユージーンの意識は落ちているんだろう? 空間を超えてどうやってこちら側に戻ってくる。それにお前は完全な神ではないようだ、人体の性質を併せ持つ身でありながら、真空中でいくらももつのか?」

「! ………」

「悔しいか。はっ! 悔しかろうなぁ。無力を思い知れよ」


 荻号は何が目的でそんな底意地の悪い事を言うのだろう? 

 比企はその様子を見て憤慨しながら、荻号に説得は無理だと見切りをつけたらしく、恒に向き直った。


「やはりこやつは一筋縄ではいかん、荻号に助力を求める事が創世者の意思とはいえ、こうなっては致し方なかろう? 己が行く」


 比企はたとえ解階に入った瞬間に殺されてしまったとしても、確実にユージーンを連れ戻す自信と覚悟があった。

死の一撃を与えられてから神体が死体へと変容するまで、タイムラグは必ずある。

その間に最期の力を振り絞り、ユージーンを転移に巻き込んで生物階に戻る事は不可能ではない。

こちらへ戻ってきた頃には死体となってしまっていても、ユージーンを連れ戻さなければ三階は滅んだも同然だ。

彼が正気を失えば、絶対不及者をコントロール出来なくなる。


「比企様、俺も連れていって下さい!」

「お前はこちら側でユージーンを迎えてやるという、別の仕事があろう」


 比企は優しく恒に言い聞かせて説き伏せようとした。

 恒は恒の思いを、比企が余さず理解してくれているような温かな感覚に包まれた。

 ああ、彼は神の鑑のような存在だ、と恒は熱いものが込み上げてきた。

 彼が主神となる未来はきっと、希望にみちた世界となるだろうに……。

 荻号は恒にそんな言葉をかける比企の様子を見て、まるで穢いものでも見るかのように軽蔑の眼差しをくれていた。


「愚かな奴らだな。無駄な死体を出すほど、無駄な事はないぜ。アルティメイト・オブ・ノーボディだったか、お前らがそう呼ぶこちら側の創世者は、俺を指名したんだろう? 俺にはその理由が分かる、お前らと俺との決定的な違いがな……」

「……!」


 そうだ、アルティメイト・オブ・ノーボディは何故比企ではなく荻号を指名したのだろう? 

 荻号は暗黙のうちに、アルティメイト・オブ・ノーボディからどんなメッセージを受け取ったのだろう。

 比企では、無理な何かがあるのだ。


「俺は他者の為に、一度きりの命を投げ出す奴らを多く見てきた。信頼や思いやり、愛情や友情、慈愛とやらの為にな。……それらはアルティメイト・オブ・ノーボディにプログラムされたものだ。死ぬときは、自分の為に死ぬがいい。お前達がどうしようもなく愚かだから、今回だけは俺が身代わりになってやる」

「己も共に往こう」

「俺も……!」


 比企がそう言うと、恒も先ほどの話の流れを忘れて、気づけば叫んでいた。

 背を向けていた荻号はくるりと振り返ると、しっかりと釘をさした。

 ついでに彼は言葉だけではなく、比企と恒に金縛りのようなものをかけた。

 恒の身体はその瞬間から、石のように固まって動けなくなった。

 それはどうやら比企も同じようだ。


「お前ら、間違っても追ってくるなよ。俺がする事が無駄になる。さて、……公平に決めなくてな。一体どちらが、死ぬべきなのかを……」


 謎めいた不吉な言葉を遺して不敵に嗤うと、荻号の姿は解階へと掻き消えてしまった。

 彼のシザーケースは鉢植えの上から忽然と消えていた。

 彼はフラーレンを持って、確かに解階に往ったのだ。

 たった一度の命を他者の為に簡単に投げ出すなと言った荻号が、彼の発言とは全く逆の事をしようとしている……! 


 恒は自分の身代わりに荻号を死地へと追いやってしまった事に気づき、その恐ろしさに総毛立つ思いがした。


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