第1節 第54話 The THERMODYNAMICS, Natasha Sandra
藤堂 志帆梨は恒が心配でその夜は一睡もできなかった。
結局、神階に居るとは聞いたものの、そわそわしてベッドシーツを洗濯してみたり、食器を漂白してみたり掃除をしたり、それでも朝までの時間を潰せずに社務所の机の上で頬杖をついていたところで丁度かかってきた電話だ。
電話の相手はユージーンだった、というかこの番号を知っていて電話をかけてくるのは恒かユージーンしかいない。
彼の声は落ち着いていたが、こんな早朝にかけてくる電話だから、あまりよくない話題を話そうとしているのだろう。
『おはようございます志帆梨さん、そちらは無事ですか?』
「そちらは無事って……恒に、何かあったのですか?」
『……それが、』
「無事ですよね?!」
志帆梨は早朝の社務所の黒電話をぎゅっと握り締めた。
こんな時、志帆梨は何事も悪い方に、悪い方へと想像を働かせてしまう癖がある。
電話向こうのユージーンはどこにいるのだろう、時折強い風の鳴る音が聞こえた。空中にいるのだろうか。
『恒君は神階を抜け出して地上に降りてしまって、少し目を離した隙に怪我をしました。治療の為にしばらく神階でお預かりします。神階の医療技術は進んでいます、命に別状はありません』
「こんな世の中ですから、どこならば安全という訳にはいかないことは分かっています。ですが、もしもあなたのお目の届く処に恒がおりましたら……必ず」
恒は他の誰の傍でもなく、ユージーンや織図の傍にいて欲しいと志帆梨は思った。
彼らの傍でないと、恒はとんでもない事に巻き込まれそうな気がする。
ユージーンだって忙しいのは分かっている、恒が傍にいると足手まといだという事は百も承知だ。それでも志帆梨は彼に願わずにはいられなかった、うちの息子から、目を離さないで下さいと。
『ええ、もうこれ以上の危険はない事をお約束します。このたびはわたしの不始末でご心配をおかけして、申し訳ありませんでした』
志帆梨は震える手で受話器を置くと、へたり込んだ。
長年入退院を繰り返してきた志帆梨に、恒は週末ごとに見舞いに来てくれたが、少し擦り傷や切り傷を作っていた以外は、大きな怪我も病気もした事がない健康な子供だった。
骨折なども経験がない、それが怪我をしたとはどの程度だろう、怪我というからには腕の一本や二本は折れていると見て間違いないような気がする。
志帆梨はユージーンに怪我の程度を聞かなくてよかったのか、と彼女自身を責めた。
志帆梨が無力感に項垂れた時、社務所のアルミサッシをノックする音が聞こえて、皐月が顔を覗かせていた。
志帆梨は思いがけず化粧もしていない顔を見られて赤面してしまったが、なかなかどうして、皐月もこれまでどこにいたのか、メイクははげて足元のスニーカーには泥がかぶっていた。
農作業でもしてきたような格好だ。
皐月はユージーンと別れたあと、ふもとの村の救助を手伝った。
市民ボランティアに扮装したユージーンの使徒達にも数十名ほど出会った。
死傷者は出るには出たが、ユージーンの使徒達が神階から持ち出してきた薬を惜しげもなく処方して救助に当たったお陰で、犠牲者数は皐月が思ったほどの数にはならなかった。
火事は消防隊の活動に加わって、使徒達が神階製の消火器と消火剤を散布し消火活動を手伝ったお陰で、あの規模の火災としては信じられないほどの速さで、たちどころに鎮火した。
彼等は救助にひとまずのめどがつくと、どこへともなく方々に散って消えていった。
そうやって名もなきボランティアとして人命救助に多大な貢献を果たした彼等軍神下使徒の存在は、決して人間社会に知れる事はないのだろう。
ユージーンが決して歴史の表舞台に出る事無くここ80年間の戦果を世界規模で操作してきたように、彼等は黒子のように歴史の狭間で暗躍しながら、さりげなく人々に手を差し伸べ、そして礼を言われる事もなくどこへともなく消えゆく存在なのだ。
「さ、皐月先生」
そういうわけで、皐月は軍神下使徒達が引き揚げるのに紛れて朝一番の電車に乗って風岳村に戻ってきたところだった。
一睡もせずに皐月が向かった場所は、藤堂家だ。
電車を降りた皐月が帰途についていると、藤堂家の方角から煙が立ち昇っているのを見つけたのだった。
恒は神階にいる筈だったが胸騒ぎがして一体何があったのかと駆けつけると、そこで見たものはこれが日本で現実に起こっている事かと目を疑うような光景だった。
志帆梨が社務所のドアを開けてやると、皐月は倒れこむように中に入ってきた。
どこから走ってここまでやってきたのか、息が上がっている。
「志帆梨さん! ご無事でしたか!? さっきお宅に行ってきたんですけど……」
「ど、どうなっていましたか?」
「何か爆弾でも落ちたかのように屋根に穴が開いていて……血痕が部屋に飛び散っていたので、大変な事があったのかと思いまして。志帆梨さんのお顔をみてほっとしましたよ……」
志帆梨は家の事などどうでもよかったが、やはり避難をしろとユージーンに言われてここに避難していたのは、意味があった事なのだと胸をすかせた。
そして先日の爆発音は、やはり自宅からのものだったのだという事もはっきりとした。
そして皐月の言う、部屋に飛び散った血痕というものは怪我をした恒の血なのだろう。
だとしたら、爆発にでも巻き込まれたのかもしれない。
「でもあの血は、誰のだったんでしょう。志帆梨さんにはお怪我はないようですし」
「恒が怪我をしたそうなんです……。命に別状はないそうですが……血はたくさん、飛び散っていましたか?」
「怪我?! だとしたら大怪我じゃないでしょうか」
神の端くれとはいえ何故子供の恒がこのタイミングで怪我をして、そして藤堂家があそこまで破壊されなければならなかったのか、ユージーンは”神々全体が狙われている”とは言っていたが、これでは恒が狙われていると言っているようなものだ。
皐月は、例え誰と一緒だったとしても、もはや志帆梨と恒があの家に住み続ける事は危険だと感じた。
どこかへ引っ越した方がいい、できるだけ遠くへ。
「お二人の安全の為にも、引っ越した方がいいかもしれません」
「でも、吉川先生。どこならば安全なのでしょう。恒は何故狙われているのでしょう、母親だというのにあの子の事、一つも理解していないんです。確かにたまたま我が家が襲われた、とは思えません。恒が神であるという事が知れ渡っていて、そして住所が判明しているのでしょうか。恒は何かよそ様の恨みをかうような事をしているのでしょうか……心配です」
志帆梨の青ざめた顔を見て肯定こそしなかったが、皐月は恒が標的にされているとしか考えられなかった。
皐月は解階の住民と交戦したユージーンの背で、彼が恒を捜しているという話を聞いた。
ユージーンは恒の名を口にした男を即座に抹殺したが、恒が怪我をしたとなると、更にまた別の手が伸びていたという事になる。
大規模に狙われているのだ、何がどうなって、どういう理由で狙われているのか……。
そして藤堂 恒の名と住所が割れている以上、志帆梨も無関係だとは言いがたい。
恒を狙う為に、間接的に志帆梨も格好の標的となるだろう。
「志帆梨さん、ここで一人にならない方がいいと思います。こんな事があっては、安全とは言い切れないですし。皆が避難している避難所に行きましょう、私も一緒について行きますから」
志帆梨は皐月に強く勧められて頷くしかなかったが、一人だけ安全な場所に逃げるようで恒に合わせる顔がないと、内心では後ろめたく感じていた。
*
日本では早朝の時刻にあたるこんな時間、志帆梨にわざわざ恒が怪我をしたと連絡をしたユージーンには、織図はどうしても感心できなかった。
志帆梨はいつも気丈に振舞うが、あまり身体的に強くはない女性だ。
今のような悪いニュースを社務所でたった一人で聞いて、体調を崩してしまったら、あるいは倒れてしまったらどうする。織図はそんな心配をした。
「志帆梨母ちゃん心配してただろ。怪我したなんて、わざわざ言うか?」
「隠してもやがて分かります。それに、母親には報告する義務があります」
「俺なら、言わんがな」
織図はふん、と煙草の煙の混じった鼻息を吐いた。
志帆梨には何でも報告すると織図は言ったが、バカ正直に何でも言えばいいというものではない。
時と場合というものがあるだろうに。同行していたナターシャは二柱が誰について心配をかけるだのかけないだの話しているのか全く知らないので、きょとんとしている。
どうやら志帆梨というのは二柱の共通の知人のようで、彼女への配慮の仕方を巡って、二柱の意見が分かれているようだ。
だがナターシャには関係のない話で、彼女は早く神階に戻りたかった。
不休で重い神具を起動し続け多くの罪なき者を屠った彼女は、ただひどく疲れていた。
また、彼女と懇意にしていた神々がこのたびの戦闘により数多く犠牲となった。
熱力学を司るという職務の性格上、これほど多くの死に触れた事のない彼女は少し休まなければ、どうかしてしまいそうだった。
だが日常的に死と隣り合わせの軍神や死神は死に慣れすぎてしまって、その鈍った感受性では何も感じないのだろう。
錆付いた心では、何も感じないのかと思いきや、死んでもいない一人の女性を巡って熱く議論をしている。
「私は神階に戻りますが……ユージーン様と織図様はどうなされます?」
「俺も神階に戻るかな、死者が出すぎてEVEがパンクする頃だろ。いい加減、サーバーを拡張せんとならん」
織図の携帯はさきほどからひっきりなしに鳴っていて、不気味な着信音がやかましい事この上ないのに、織図は着信音で相手が分かるらしく、メールを読もうともしない。
だが織図は内容を読まないまでも、彼の使徒からEVEがサーバーダウンするから早く拡張を行ってくれという悲鳴にも似たメールが立て続けに届いているという事だけは把握していた。
EVEがサーバーダウンをするという事は、厳重に保管されている死者の記憶が失われるという事を意味する。
連綿と続いてきたそれら死者の記憶は神階の大切な財産だ。
失うわけにはいかない。
志帆梨の事もいいが、EVEのサーバーを守る事はそれにもまして大切な織図の職務だ。いつまでも生物階でブラブラと道草をくっている場合ではない。
「わたしはもう少し、生物階に留まります」
「恒の様子を見に行かんでいいのか」
「彼は今、極陽と対面しています。わたしの出る幕ではないでしょう」
織図はあっけに取られた後、よほど驚いたのか、火のついた煙管を取り落としてしまった。
ナターシャも取り落とした煙管を反射的にキャッチして、耳を疑っている。
まだ登録があったばかりの少年神がもう極位と目通りを果たしたとあっては、ユージーンが弟子にとったという事もあってよほど優秀な神と見込まれる、彼女の場合はそういう意味で驚いているのだが。
「おいっ! お前正気を疑うぜ! 恒は今極陽んとこにいるのか?!」
織図はユージーンにくってかかりそうになった。
極陽と恒を対面させて、どうなるかは目に見えている。
恒は極陽を言い知れぬほどに恨んでいるのだ、もし万が一にもその憎しみを極陽にぶつけるような事があれば……。
未熟な少年神のした事だといったところで、極位に対する謀反となればその罪はユージーンごとき一介の枢軸神に、庇いきれるものではない。
一方のナターシャは極位と対面する事は栄誉な事でこそあれ、何故一見藤堂とは無関係にも思える織図がもの凄い剣幕でユージーンにくってかかるのか、てんで理解できなかった。
「織図様、一体いかがなされたのです?」
「大丈夫です、彼は早まった真似はしません。彼の決意を見ました」
ユージーンは襟元を掴まれながらも、悪びれる様子はない。
織図はその”われ関せず”的な態度に、ますますもって腹が立つ。
「お前な、相手は子供だぞ。そう決めていたとしてもだ、頭に血が上るかもしれんだろ!? 理性で抑えられないもんもあるだろ! そうなったらどう落とし前をつけるつもりだ、え!?」
「万が一の時は、首の一つでも二つでも差し出します」
「お前な……恒をみすみす破滅させる気か?」
織図は今すぐにでも極陽の執務室に乗り込んで行って、恒を奪い返すべきだとすら思ったほどだ。
丁度今頃、二柱だけで対面を果たして何がおっ始まっているか分かったものではない。
この馬鹿はもう放っておいて手遅れになる前に恒を連れて帰らねば、と織図が神階の門の前に瞬間移動をかけようとした時、ユージーンは行かせるものかと織図の腕を掴んで瞬間移動の体勢に入っていた織図の集中を妨げた。
「陽階神としての立場や将来……そんなものが彼にとって、何の価値があると思いますか……」
いつになく強い口調で、ユージーンは織図を押さえつけながらそう諭した。
織図の恒に対する配慮は全て、恒の未来を、あるいはこれからの立場を見据えての発言だ。
だがユージーンにはそれが、確かな未来を描く事のできない恒にとって、恒の感情を裏切ってまで守らなければならない事だとは思えなかったのだ。
不確かな未来を思い描くより、恒は現在を彼自身の心に正直に生きてゆきたいと願っている――。
「彼は未来より現在を生きているんです、その彼が残りたいと彼自身の意思で決めたんです。これをどうして止められますか。わたしやあなたに、彼を止める権利は断じてありません」
ユージーンは強い眼差しで織図を見つめ返した。
彼は織図の腕を掴んで、放そうとはせず、そして握力の強いユージーンに掴まれたその左腕はびくともしない。
恒が極陽に何をしたとしても、恒にはそれをする権利があった。
ユージーンには恒を止められなかった。
「一時の感情で取り返しの付かん事になるぞ! お前の下らん価値観に恒を付き合わせるな!」
「ど! どうなされたのですか、おふたりとも……」
ナターシャは睨みあった二柱の顔をおろおろと交互に見遣ったが、何か彼女の窺い知れない事を話しているようだった。
陰陽階でもとりわけこの二柱は、他神と争う事などもってのほか、気性もとりわけ温和な神々として知られている。
その二柱が恐らくは少年神 藤堂 恒のことで、これほど激しい言葉をぶつけ合うとは……異様な光景だった。
「それに……相手も脛に傷を持つ御身、恒君の振る舞いを咎めたてなさるようなら、主神としてあまりにも軽率です」
「お前は、ヴィブレ=スミスの怖さをまだ知らん! 恒は……」
「おふたりとも! もういい加減になさい!」
ナターシャは尚も争う二柱に業を煮やしたのか、いつの間にか鉄槌型神具を起動して臨戦態勢に入っている。
それも本気の口調だ。
少し白熱して声を荒げてしまったが、織図もユージーンも喧嘩をしている訳ではない。
二柱はナターシャが何か勘違いをしてしまったのを見て、竦みあがった。
陰陽階神法で定められている喧嘩両成敗を実行しようとしているのだとしたら、どちらという事もなく二柱ともその重い鉄槌で打たれる事になる。
ナターシャ=サンドラの持つ鉄槌型神具は、北欧神話において主神オーディンの息子トールの持した神槌ミョルニールとして知られる歴史と伝統ある逸品で、それだけ威力も破壊力も十分だ。
起動をすれば数トンの重さにもなるそれを、どこにそんな力があるのかと思う程線が細く小さな身体で軽々と扱う。
彼女のわずか一ランク上に位置する武系神であるユージーンは、枢軸入りを目指す彼女に二度の位申戦を挑まれて、彼女の鉄槌を一度だけまともに喰らった事があったのだが、それはもう凄まじい威力で、フィジカルギャップを粉砕され大腿の骨を複雑骨折で折られた苦い経験がある。
女神の神体に傷をつけてはならないと、ユージーンの方は出来るだけ損傷を与える攻撃を控えたつもりだったが、ナターシャはいかにも頑丈そうな男神相手とあっては遠慮などお構いなしに全力で打ってきた。
大腿を折られながらもユージーンは二度ともに7位防衛を果たしたが、できれば彼女とはもう戦いたくないと懲り懲りした次第だ。
それが、織図との口論を鎮めようとしての行為なのか、もう二度と味わいたくもないとユージーンの恐れ入る神具をフル稼働してこちらに向けている。
彼女は尚もコマンドの詠唱を続けている。
”Acceleration of free fall……to saturation point”
(重力加速度……飽和値まで)
織図もさすがに危険を察したらしく、諸手を挙げて早々と降参した。
「げ、ちょ、ちょ待て! ユージーンはともかく、俺みたいな文系神に武系神具を全力で向けるな」
”Titanomachy!”
(ティタノマキア)
問答無用といわんばかり、ユージーンと織図の鼻先を掠るかの距離で、もしくは明らかにどちらかを狙ってナターシャが怒りの鉄槌を重力加速度最大値で振り下ろしたかに見えた。
だが次の瞬間に女神の鉄槌に打たれ悲鳴を上げ、粉砕されたのはユージーンでも織図でもなく、見も知らぬ黒い影の残像だった。
いつの間にかユージーンと織図の背後に、何者かが忍び寄っていたらしい。
形容のしがたい生々しい粉砕音が聞こえたかと思うと、今となっては原型も止めないほどに打ち砕かれてそれが何だったのかは全く分からないが、解階の貴族階級の残党らしき者の肉片が、遥か足元のコンクリートの床に打ち付けられて赤いミンチのようになって潰れて飛び散っていた。
「口論の最中に敵に背後を赦すとは、愚の骨頂です! 恥を知りなさい!」
細腕で何tにもなる重い鉄槌を軽々と振りかぶったまま、女神は一瞬にして二柱を黙らせた。
織図は肩をこわばらせたまま、隣で同じように固まっているユージーンを腕で小突いて耳打ちした。
「ユージーン君、チミの部下に陽階神の慈悲とかいうものを教えてやったらどうだ? あの物体がもはや敵だったのかすら分からんぞ。あとついでに、女神の品格ってやつも教えてもらえると有り難い」
「え、遠慮しておきます」
それで殴られるのだけは勘弁して欲しい、と二柱は早々に降参をして白旗を揚げた。
*
「お前達はもう、家に帰って寝るといい。長瀬も酔いが醒めただろう、気をつけて帰るんだ」
比企は築地と長瀬を安心させるように、優しくそう言った。
比企は不器用なので冷淡に見えるが、思いやりはある人柄だ。
築地はもう早々に、この場所を離れたかった。
「帰ろうにも、私……この格好」
長瀬は客観的に自分の格好を見直してみると、荻号の返り血をもろに浴びて、白いキャミソールが真っ赤に染め上がってしまっていた。
若草色のスカートも血まみれになっている。
荻号の血の色は人の血のように不透明ではなく透き通るような透明で、血まみれとはいえ赤いインクを派手に服にこぼしたようにしか見えないが、これほど大量に浴びているのも変だ。
「白衣着て帰るか?」
築地が実験室の壁に掛かっている実験用白衣を取りに行ったが、こんな時に限って黒い試薬が付いたりして汚れている。
それに長瀬の家は少々遠い、汚れのついた白衣で帰っているとその間に警察に捕まって、職務質問を受けてしまうかもしれない。
もっとも、警察もこのたびの混乱で、機能しているかどうかわからないのだが。
「ではこれを着るといい」
比企は脱いでいた荻号の聖衣をパンパンと埃を払うと、長瀬に渡した。
荻号はああっ、と手を伸ばして何か言いかけたが、比企に強く睨まれて口を閉ざした。
比企の灰色の瞳から繰り出される眼力はまるで蛇のように、相手の動きを縫いとめてしまうほどに冷ややかだ。
長瀬は聖衣を受け取ったが、汚いものをつまむように指先でつまんでいた。
血みどろだと思ったからだ。
「でも、これもっと血まみ……れじゃない? あれ、どうして? 穴も空いてないし、きれいになってる!」
「先ほどのような戦闘は日常茶飯事なのでな、我々は自己補修能力のついた衣服を纏っている。己は今は持ってきていないので、荻号のものを纏うといい」
聖衣は補修能力や自浄能力がついていて、少々穴が開いたり汚れたりしても、すぐに元通りきれいになる。
全く汚れがつかないので、神々は何百年も同じ聖衣を着ている。
それでもいつも新品同様で、清潔でにおいもつかない。
長瀬は比企から聖衣を受け取って、トイレで着替えてきた。
不思議な事に、ぶかぶかだと思われた聖衣は、長瀬が袖を通すと長瀬にぴったりのサイズとなった。
腕まわりも、長瀬の着丈にぴったりだ。
そこで、短めの丈のワンピースのようになっている。
長瀬はレギンスをはいているので、それほど不自然ではない格好だ。
「これ、洗って返すから。ありがとう、借りるね?」
「洗わなくていい。むしろ返さなくてもよいぞ」
比企は荻号 要にするはずだった嫌がらせを、荻号 正鵠に対して行っているかのようだ。
それを実感している荻号は納得がいかない。
「おい、お前比企! いいか長瀬、それ俺の一張羅だから返せよ、それ一着しか持ってないんだからな。それにそれが何か解ってんのか? 人間に着せるもんじゃねーんだぞ」
「あなたは陰階神として生きる事をやめたと言った、義務を放棄したとあらば、その権利も当然剥奪されるべきだろう」
「……!」
正論だった。陰階神として生きる事をやめたと公言したのだから、神階のものである神具と聖衣を剥奪されても文句はいえないのだ。
ただフラーレンは荻号以外には誰も扱える者がいないので、比企も没収はしないのだろう。
それに全神具適合性を持つものでなければ超神具、フラーレン C60の触性免疫は、触れたものが燃え尽きるほどに強い。
同じく超神具、相転星がそうであるようにだ。
「大丈夫、喧嘩しないで。ちゃんと返すから。じゃあ」
長瀬はどさくさに紛れて、荻号に二度目のキスをして彼を抱きしめた。
一体何度説明すればシゲルではないと分かってくれるのかと荻号はうんざりだが、拒絶する気力と体力はもうなかった。
「早くよくなってね。私の事、守ってくれてありがとう」
「長瀬も、もう離れろ! つか怪我人の上に乗るな。比企さん、では俺達帰ります。あなたも、えーと、お体をお大事に」
「ああ」
「何か、コンビニで買ってきましょうか? 飲み物とか、包帯の代えとか……」
築地は衰弱をしている様子の彼に何か食べさせるか飲ませた方がいいのではないかと思った。大学の近くのコンビニは確か絆創膏も包帯も売っていた筈だ。
比企が付いていながらこのまま放って帰って、まさか明日死体が一つソファーの上に転がっているような事にはならないと思うが、やせ我慢をしているだけではないのかと心配になる。
荻号は無愛想に鼻を鳴らして築地の心配を無碍にした。
「何もいらんよ」
「そうですか」
これ以上ここに長居しても、怪我人を疲れさせるだけだ。
築地は思い出して、せめて保温だけでもと、築地の研究室お泊りグッズの中からシュラフを引っ張り出してきて荻号に差し出した。
彼が渋々受け取ってくれたので、なかなか離れようとしない長瀬を荻号からようやくの事で引き剥がして連れて帰ろうとしたところで、比企に呼び止められた。
「築地、機器分析の心得があるな?」
「あ、割と得意ですけど」
「明日の午後に反応中間体の構造を解析したいので、装置の使い方を教えて欲しいのだが」
「じゃあ、装置の予約とっておきますね。って、こんな時に誰も来ないか」
築地と長瀬は後ろ髪を引かれる思いで帰っていった。
二人が研究室のドアを閉めるなり、荻号は険しい表情をして考え込んだ。
比企はデータをまとめ、パソコンからヴィブレ=スミスのアドレスにスキームを転送しはじめた。一度襲撃があった以上、この場所にデータをまとめて置いておく事は危険だと判断したのだ。
比企や清水らのデータをもとに、製薬会社 レイメイはただちに化合物の合成に取り掛かるだろう。
「比企。これでも尚、この場所に留まるつもりか? 俺らの為に、更に人間を巻き込むのか?」
「……。心苦しいところだな、あなたもそう思うのか。まだ、神としての自覚が残っていると見える」
「俺は陰階神を辞めたと言った、だが無関係の人間に危害が及ぶのは胸が悪い。これではいかに神といえど、地球を侵略しにきた宇宙人と何も変わらんぞ。そういう視線で見られるのは不本意だ」
彼は包帯に血が滲んできたのを指先で弄りながら、口を開く。
「3日経ってフラーレンが撃てるようになったら、解階に行って撃ってきてやろうか?」
気は乗らないが、何度もこのような煩わしい事が起こっていては、荻号の望むよう平和な日常が取り戻される日が来るとは思えない。
しかもこの体調の悪さだ、万全の状態で撃たなければ完璧な業が期待できないが、このまま放置していてはならないような気がする、彼はそんな考えだ。
「なるほど……それは名案だ。だが、あなたはユージーンのように不死身ではない、解階に入った瞬間に向こうの創世者によって殺されるだろう。いっその事、ユージーンにやらせては……」
生物階の側から、ユージーン以外の誰が解階に入っても危険だ。
荻号 正鵠は荻号 要ほどではないとはいえ、神階にとって貴重な戦力と頭脳になってくれるだろう。
たった一度の事態で失うのは惜しい。
彼が命を賭けてまでその業を行って、それで解決するという問題ではない。
フラーレンが荻号以外の誰かに扱えるものなら、それが誰であってもいいだろうと荻号ですらそう思う。
だがとてもこのフラーレンという神具を扱えるとは思えない。
荻号は13万年間も主なき神具としてお蔵入りしていたという、初代至極位の所持神具、フラーレン C60に初めて出会った時、迂闊に触れて触性免疫に右腕をまるごと焼かれてしまったのを懐かしく思い出す。
暇を持て余していた荻号がほぼ日がな一日それ以外は何もせず、何十年もフラーレンと格闘し続けて、それでようやく扱えるようになった代物だ。
「俺がこれを扱えるようになるまで、35年かかったぞ? さっきユージーンって奴に会ったが、スペック的には俺と同じような奴だろ。大体、この神具に触れるのか?」
「ものはためしだ。やらせてみよう」
比企は善は急げとばかりに、ただちに電話でユージーンが呼び出された。
織図とナターシャと別れたばかりだったユージーンは比企に呼ばれて追跡転移でやってきたが、何故か比企と共にいた荻号の痛ましい姿を見て表情を引き締めた。
「あなたともあろうお方が、負傷を」
「フィジカルギャップを外していてな、このざまだ」
荻号は240枚のフラーレンを取り出し、実験机の上に置いた。
フラーレンは起動の為のアトモスフィアを枯渇させている事を示す、カナリア色をしている。
荻号のアトモスフィアをたっぷりと吸い込めばやがて紅色に染まり、それが起動可能の目印となる。
カナリア色から紅色に染まるまでの間、どんなに荻号が万全な状態でアトモスフィアに滾っていたとしても3日はかかるのだ。
フラーレンがアトモスフィアを吸収する速度というものは決まっていて、それ以上速く吸収出来ないからだ。
「これを、扱えるか?」
ユージーンは幻の古代神具を興味深そうに見下ろしたが、比企に促されても触れてみようとはしなかった。
「これはわたしとアトモスフィアの型が違うので無理です。触性免疫に焼かれ、半身もっていかれるでしょう。それにこれは非コマンド型の神具で非常に難解です、ただちには扱えないでしょう」
FC2-マインドキューブやFC2-メタフィジカル・キューブと同じく非コマンド型の神具であるフラーレンは、60枚の呪符の配座の角度が1度でも狂って正確なコントロールを失えば発動しない厄介な代物だ。
発動者は60枚全ての呪符に神経を研ぎ澄まさなければならず、要求される精密度と難易度は、相転星の三環の角度どころの騒ぎではない。
とてもではないが一朝一夕で扱えるものではなかった。
「お前がこれを扱えたら、お前にフラーレンで解階を浄化してもらおうと思ったのだが……不死身ではない荻号が解階に入る事はできんのだ」
比企は無理だったかと、ため息をついた。
比企がそれに触れてみようとすら思わなかったほど、相転星をいとも簡単に手なづけたユージーンでも躊躇するほどに確かにフラーレン C60は禍々しい存在感を放っている。
厳密にアトモスフィアの型が一致しなければ無理なタイプの神具だ。
相転星のように、ある程度の実力があればアトモスフィアの型など気にしないというタイプの神具ではない。
こういう超神具と名の付く代物は、至極位クラスの優れた神が”専用”に創り出したものであり、かなり癖のある神具が殆どで、基本的に他の神々が手にする事は一切考えていない為、触性免疫も本来の持ち主の手にのみ馴染むように厳密に設計されている。
相転星やG-CAM, へクス・カリキュレーション・フィールドなど、アルティメイト・オブ・ノーボディは比較的誰でも扱える神具を多く作り出してくれたが、フラーレン C60はノーボディの創り出した神具ではないので機密性が強く汎用性が低い。
アトモスフィアの型が違うとなれば容赦なく灼かれてしまうだろう。
「では、解階の母星をこちらに持ってきましょうか。それなら、生物階にいても撃てますよね」
「解階をこちらに、持ってくる?」
ユージーンの大胆な言葉に、比企は細い眉を顰め、荻号は豪快に笑った。
こちらから出向けないなら、連れてくればいいのだ。
ただしユージーンが連れてこようとしているもののスケールの大きさは、それこそ半端ではない。
*
主神、ヴィブレ=スミスは事態の一応の収束を見て、比企や現代の薬神、清水をはじめ生物階に降下中の神々より転送されてきた有機合成データを彼の経営する製薬会社、レイメイグループに転送するべく執務室に戻ってきた。
執務室の椅子に座り解明された合成経路を添付して機密メールで社長室に転送する。まだ実際の化合物は一つも完成されておらず見切り発車の状態だが、神々の手腕を信じて早く合成に取り掛からなければ供給が追いつかない。
この株式会社 レイメイという企業だが、主神であるヴィブレ=スミスは生物階への降下が極度に制限されているため、直接経営はできない。
そこで有能な第三使徒を生物階に社長として送り込み企業経営を一任し、ヴィブレ=スミス自身は会長として企業を背後から牛耳っているのだった。
社長、御木 良沢のパソコンに転送されたデータを受けて、本日中には生産が始まるだろう。
そしてこの企業の正社員は人間ではなく、全員が使徒だ。
一部のパート労働者は人間だが、彼等は正社員が人ならざる者達だという事実を知らない。また、正社員たる使徒達は数百年を生きていながら外見が二十歳前後と若く見える為、新進気鋭の若手ベンチャー企業という表向きの顔を持っている。労働基準法などという日本の法律より陰陽階神法を重んじる彼等を労働力とするこの企業は、24時間体制でフル稼働する事ができるし、給料にもアトモスフィアをのみ必要とする彼等使徒達の人件費のコストも極度に抑えられる。そこでこの会社は毎年の累積売り上げが他の製薬会社の十倍とも試算され、この業界としては近年稀に見る急成長を遂げており、一昨年一部上場を果たす事となった。テレビCMでもおなじみの大企業となったわけだ。
彼はメールを転送し終えると、執務室の上に八雲からの置手紙がある事に気付いた。
藤堂 恒は結局ユージーンと一緒に戻らずに残ったのだと。恒が主神に何か話があるという意味なのだろう。逃げ帰るものとばかり思っていたが、どうやら彼はただの臆病者ではなかったらしい。そしてそう創り上げたのは他ならぬ自分だったのだなと、彼は渇いた嗤いを浮かべた。
2000年もの長きを生きたヴィブレ=スミスの心は渇ききって、いつの間にか生命の価値や他者の痛みというものに鈍感になりすぎていた。久々に両手をまじまじと見つめると、乾いて皺の刻み込まれたそれが、我が物とにわかには信じがたかった。
”私は、歳をとりすぎたのかもしれんな……”
彼は靴音一つ立てずに病室に入ってきた。
恒は熟睡しているようだったが、主神の強大な気配を察知してすぐに飛び起きた。彼は起き上がろうとした恒の腹部をそっと押さえて元のように寝かせつけた。彼の手には、温かさなど感じられずただひんやりとして冷たかった。実の親だというのに、触れられると身が竦む思いだ。恒は怯えた目でヴィブレ=スミスを見上げる、たかだか10歳の自分と、20世紀以上も生きた主神……。どう考えても、何もかもが違いすぎる。
ヴィブレ=スミスは包帯のきつさを確かめて、ユージーンに抜かれた点滴のルートを元のように差し込んだ。
「傷が開く。じっとしていよ……それにむやみに手をついて起き上がるな」
「……分かりました。ご心配ありがとうございます」
恒は左手を骨折していたことを、彼に指摘された初めて思い出した。
彼は左手を強くついて恒が起き上がってしまったので、異常がなかったかと腕を診た。
恒は八雲がそう言ったようにどうしても、根っから悪い人物のように思いたくはない。
昔は慈悲ある神だったと懐かしむように彼女の告げたそれが、恒にとっての拠り所となっていた。
神々の長であり生物階における唯一神としての立場を持つ主神の登用時の資格審査は厳しく、類稀なる人格者である事もまた必須の条件だ。長年に渡り極位を務め主神として崇められるうちに、彼は少しずつ変わっていったのかもしれない。
掛け違えたボタンを辿るように、恒がその捩れを正せると思うのは、傲慢な事なのだろうか。岩のように閉ざされた彼の心は未だ知れない。
「勇敢と言うべきか、無謀というべきか。何故ユージーンと帰らなかった」
「この機会を逃しては、主神と至近距離で見える機会などないと思ったからです」
恒は打算があって残ったわけではない、ただ彼と話がしたかった。
過去の事も聞きたいが、雑談でもいい。
ぎこちないかもしれないが、ただ恒は彼という人物と向かい合いたかっただけだ。
憎しみをぶつける為に、復讐をする為にではない。だが彼はそう捉えてはくれなかったようだ。
「よほど私が憎いと見える」
「……はい」
恒はそんなものの為に残った訳ではなかったのだが、ひとまず肯定した。ここで否定するのも文脈的に無理がある。
「確かに、憎まれて当然の事をしておる。憎みたいだけ憎むがよい、私は一向に構わぬよ」
いっそ気持ちのよい答えだった。
違うと否定したとて、何とも白々しい。
ヴィブレ=スミスは恒の素直な感情を清々しく受け止めた。
そして僅かに首を振って頷いたように見えた、それは”これでいいのだ”と彼自身に言い聞かせているように恒には覗えた。
恒は間髪入れず、すぐに次の言葉を続けた。
「かつてはそうでした。でもそれは、もう忘れる事にしました」
「何故だ」
「憎しみからは、何もうまれないからです。俺はそれに拘っている限り、きっと前に進めない。また一つの事実としてあなたが俺を創らなければ、俺という存在はそもそもありませんでした。こういう言葉が適当か分かりませんが、感謝しているんです。これでも」
恒はもう怖れずに、彼の前で八雲 青華の裏切りやアルティメイト・オブ・ノーボディとの間の事だけは隠して、マインドギャップの一部を解き放って恒の真意を見せた。
ひょっとするとこの行為が、自殺的なものになるかもしれないと、恒は分かっていた。
だが騙されたり、陥れたり、心理戦や腹の探り合いはもう終わりだという意思を明らかにしたかった。
恒の行為は神としては無謀ともいうべき自滅的な行為であり、ヴィブレ=スミスに余すところなく恒の手の内を読まれてしまうという危険を孕んでいる。
彼はそこまでして心を丸裸にして曝け出した恒の誠意を酌んで、彼自身のマインドギャップも氷解させた。
恒は主神が心を開いたという行為が、信じられなかった。
僅かに頭の隅を掠めていった猜疑心と彼の良心を信じたいという気持ちが交錯する、罠ではないかと疑うのはもうやめだ。
恒は分け入るように、彼の心層の中に入っていった。
ユージーンや荻号以外には誰も覗き見た事のない、主神 ヴィブレ=スミスの胸のうちを初めて看破した恒は、揺ぎ無い彼の決意を見て取る事ができた。
彼は世界の未来の為に悪役を演じているだけだ、いくつもの疑問を捻じ伏せ、他者の痛みに鈍感になりきり、彼自身を欺きながら……。
「あなたはやはり俺を……殺そうとしているんですね」
「ああ、殺すだろう。だが、罪を認めざるを得ん……汝は私の唯の創作物ではなく一己の生命であるという事を、余りにも軽視しすぎた。赦せとは言わん……汝には赦せぬ事をした」
主神は恒の頭を優しく撫でながら、そんな救われない言葉を投げかけた。
恒は三年後、自らの息子を手にかけようとしている父親の首に、無心になってしがみ付いた。ベッドの横に座っていたヴィブレ=スミスは訳もわからぬまま恒を抱きしめる。
いつの間にか、恒の目には涙が滲んでいた。
父親の懐に顔を埋めながら、その決意の固さと殺意の深さを思い知った。彼は間違いなく、恒の息の根を止めるだろう。
「一度だけ、チャンスをくれませんか? 俺は自分の意思で抗体を発動してみせます。もしもそれが出来なかったら……予定通り殺してください。もしも俺が死することなく抗体を発動する事が出来れば、あなたと俺の利害関係は一致しますよね? あなたは俺を殺す理由がない」
ヴィブレ=スミスは計算高く、智慧をめぐらせているようだった。
今更受け入れられる要求ではないだろうなと、恒は言った傍から諦めていた。
だがユージーンの持つスティグマと恒に内在する抗体を使って予備免疫を作っておくという恒の計画を看破した時、ヴィブレ=スミスの中で恒とAnti-ABNT 抗体の発動方法に対する認識が少し変化したようだ。ヴィブレ=スミスの中に、予備免疫という発想がなかったからだ。
実際の抗原に触れる前に抗原に似たものに触れて免疫を高めておくという発想は、彼の目算を狂わせた。
そうする事により、恒の意思によってより強固な免疫が培われ、発動されるとしたら……。
恒を単純に殺して受動的に発動させるより効果があるのではないかと。
「妄言ではないようだな……では一度きり機会を与えたとしてもだ。私は私の性質をよく知っておる。汝に能わねば、汝を殺すという計略は揺らぎはせん」
その逆説的な言葉が一応の同意だと分かったとき、恒は耳を疑った。
世界の危急という大事に一度だけ、恒を信じると言ったも同然だからだ。
恒の可能性を信じるためのリスクは大きいだろう、確実に抗体を発動させる為には、殺したほうが手っ取り早いに決まっている。
対処がコンマ1秒遅れるだけで、手遅れにだってなってしまいかねないというのにだ。
「あなたはあなた自身を赦せないのかもしれません。ですが、俺に対して悪役を演じる必要なんてないと思います。マインドブレイクを学んでおいてよかった……あなたは心を失ったのではありません、それが今はっきりと分かりました。俺の憎しみを受け止める為に、憎まれようとしないでください。あなたが俺を三年後に殺す事になっても、俺はもう憎みません。だからせめて三年の間だけ、父親と呼ばせていただいてもよいでしょうか。勿論公的な場所ではそうお呼びしません、あなたとの関係を公に明かす事もしません。あくまでも個神的にです」
冥土の土産になるとしたら、彼に対する憎しみを持って逝きたくはない。
せめて三年間だけは親子という関係でいてくれてもいいのではないかと、恒は切に願った。
「汝は私の言葉をもはや信じはしないだろう。だが可能であれば、生きて欲しい」
これもどうやら、彼の純粋な言葉だとはいえなかった。
神階はこのたびの戦闘で多くの神々を失ったが、まだ崩御した彼等に代わる新たな神々が一柱として生まれていない。それが可能だというのならば、恒は三年後にも生き残ってくれた方が有り難い。
恒には人間の女性を妊娠させるには不完全とはいえ一応の生殖機能を持たせているからだ。
人間と交わっても妊娠をさせる事はできないだろうが、完全な女性であるレイア=メーテールと交配し彼女を妊娠させる事が出来れば、1/2の確率で純血の神を妊娠させうるかもしれない。
もはや神の生まれなくなった神階を維持してゆく為には、恒のような特別な存在が必要なのだ。恒には新たな役割が与えられる。
ヴィブレ=スミスの中に成り立った新たな公算に彼自身が気付かされた時、彼はそんな狡猾な彼自身の思考回路に辟易した。
どうして単純でもいい、愚直でもいい、たったひとりの息子を愛する事すら出来ないのだろう。
何故彼の思考の全てにおいて、常に物事と利害を絡めてしまうのか、ヴィブレ=スミスにはもはや彼の心が分からなかった。
彼はそのような事が頭に浮かんだ彼自身を恥じたが、その考えは簡単には捨て去る事は出来そうにもなかった。




