第1節 第53話 Laboratory attacked
恒は八雲からもらった錠剤と設計図の入ったマイクロディスクを携帯の中にしっかりとおさめたが、ふと気になることがあった。
八雲は洗いざらい恒に喋って、彼女の身は大丈夫なのだろうか。
極陽は10層のマインドギャップを持っている……恒ですら八雲を看破できるのだから、極陽の卑近に伺候する彼女の叛逆は容易に知れてしまうのではないだろうか。
そして彼女がひとたび彼女の主を裏切ったと明らかになれば、彼女は極秘裏に処刑される。
使徒として最も重い罪は主に対する叛逆であり、叛逆を行った使徒は例外なく死刑が言い渡されると陰陽階神法に明確に記載されているからだ。
彼女は彼女の命も省みず、恒を助けようとしてくれたのだろうか。
彼女は単純におひとよし、という訳ではなさそうだ。それは恒のわずかばかりの直感ではあったが。
「八雲さん。あなたが俺に話してくださったこと、極陽に筒抜けなのでは」
「それは心配ありません。私どもは主の犯した罪が他の神々からのマインドブレイクによって明るみに出ないよう、これをつけております」
それは脳の微弱電波を撹乱する金属製のピアスだった。
彼女はそれを身につけ続ける事で、結果的に極陽のマインドブレイクをも防いでいた。
神階のうちでも機密部の要職にある使徒達は、こうやって位神達の心層看破から彼等自身の脳内にある機密を守っているのだそうだ。
彼女は断じて、ただのおひとよしではなかった。恒は彼女の用心深さに感心する。
「さすがだなぁ」
「私は周到でございます。しかし我が主は更に周到であらせられます」
そうだろうな、と恒も思った。
彼女が今回のことに関してこれほど用意周到なのは、極陽がいかに油断のならない人物であるかと、彼女自身が思い知っているからに他ならないのだ。
「抗体を発動させるには、何が契機となるんですか」
「ご存知かと思いますが、あなたの死を認識します。逃れる術はありません、そして逃れられないよう設計いたしました」
八雲はきまりわるそうに目を叛けながらも、口から出てくる言葉は容赦ないものだ。
彼女はどこかで、彼女の技術者としての腕を過信している。
それが例えばアルティメイト・オブ・ノーボディのような完全なる創世者によって造られたものではなく、誰かによって造られたものであるかぎり必ず切り崩す手だてはある、恒はそう考える。
死を体験する事は生を見つめなおす事だとユージーンに教わった、その意味は死して知る事となるのか。それとも、生還して回顧する事となるのか……。
八雲のいうよう、Anti-ABNT 抗体阻害剤を飲めば恒は助かる。
しかし不可逆的に、どんな手段を用いても助かる事のないユージーンを裏切る事となってしまう。
奇麗事と言われるかもしれないが、それは殺されるより耐え難い事だと恒は思う。
恒は、恒の運命の全てを終わらせる秘薬を、使うつもりはない。
それを使ったとしても、極陽は“念のため”恒を殺して抗体が発動しないかを確認するだろう。
「でも分子が死を認識する事など出来ないでしょう? 具体的には何の分子がどの領域に結合するんですか? 例えばプロテアーゼのようなものだというなら、結合部位を再現する強制発現ウイルスベクターを使えば、俺が死んだ状態を再現できると思いますし」
「それは不可能です。抗体をコードする遺伝子は神の遺伝子側に存在しています。あなたの神体は後からいかなる遺伝子治療も出来ないよう安定化されています。唯一の例外、私の仕込んだ阻害剤以外には影響する事ができません……」
「なるほど。父を周到だと、側近のあなたがおっしゃるわけです」
多少の皮肉がこもってしまった事に、恒はそう言ってしまってから気付いたが、八雲は恒の言葉に恥じるように口をつぐんだ。
恒は滴下する赤い液体をした点滴を見上げて、暫く考え込んでいたが、ぽつりとこう言った。
「俺はあなたの下さった薬剤を、多分使いません」
「……よくお考えになって下さい、まだ結論を出すのは早いかと」
「決めているんです、もう」
恒が八雲に伝えておこうとしたのは、自分を追い詰めるためだ。
使わないと言っておけば、使いたい誘惑が襲ってきた時に少しは抑止力になるだろう。
八雲は恒に助かって欲しいと思う心が通じずに落胆したが、心の片隅では恒がそう言うしかないと知っていた。
Anti-ABNT 抗体は逃げない、いや、逃げようとしない。
恒は正義感が強く、そして自身より他者を愛し、保身を考えず自己を投げ出す。
極陽と八雲が恒の人格をそう設計したからだ。
彼は根っからのお人よしで義理堅い。
八雲は恒が、それが必要とされれば自らの命をも投げ出すであろう事を知り尽くしていた。
恒をそう創り上げ、幼い彼にそう言わせてしまった事を、彼女は猛烈に後悔した。
彼女のした行為は罪滅ぼしに過ぎなかったのだと、恒に指摘されたように感じたからである。八雲の表情がにわかに翳ったのに気付き、恒は彼女を罪悪感から解放したいと願った。
悪いのは八雲ではない、神の命令は使徒にとって絶対のものだ、その命令がどれほど彼女にとって心苦しいものだったとしても違える事は出来なかった。
八雲を責める事はできない。
「俺、もっと自分を鍛えます。心と身体を鍛えて、より強い抗体を自分の中に培い、自分の意思で発動できるようにします。だから、心配しないで下さい、自分でやってみせます」
恒はわざとに笑顔を作って、八雲を安心させる。
八雲は恒の力強い言葉に少し考えて、そして重大な事を教えた。
「そうですか……では、一つよい事をお教えしましょう」
「?」
「ユージーン様の抗原を御身に刻み込むのです。あなたは抗体です、抗体が抗原に予め近づく。それがどういう効果を持つか分かりますか?」
恒は八雲の言葉に目を丸くした。
実際の免疫システムのように、本当にそんな事ができるのだろうか、インフルエンザワクチンを接種しより強い抗体が強い免疫機構を発動させるような、そんな事が――。
「……予備免疫が、できる?」
「抗体は抗原と触れる事で学習し、予備免疫を造る事ができます……そう、学習する事で、より強い免疫を発動する事ができるのです。あなたはユージーン様の抗原を認識する事ができます。絶対不及者の器に触れ続けるのです。そうすればあるいは、あなたが死ななくとも抗体を発動できるのかもしれません」
八雲も、確信があってそう言ったわけではなかった。
だが恒の為に何かを助言せずにはいられなかった。
「抗原はどこにあるんです? ユージーンさんはまだ絶対不及者ではありません。抗原はまだ、現れていないのでは」
「確かにまだ現われていませんが、それらしきものはユージーン様の背にあります。そこに絶対不及者の力の象徴、Key of Existence(存在確率の鍵)が……。INVISIBLEの選定した器である事を示すスティグマ(聖痕)に素手で触れる事は危険です、触れるとひどい火傷を負うかもしれません。ですが絶対不及者の聖体の一部に触れたショックによって、あなたの抗体は抗原の情報を記憶します。藤堂様、火傷の痛みは相当なものかもしれません。ですが命に勝る尊いものはありません」
彼女いわく、彼はまだ絶対不及者ではないが、スティグマの部分だけは早くも絶対不及者の性質を帯びているのだという。
恒はユージーンの持つスティグマを見た事がある。
アルティメイト・オブ・ノーボディの背にもあったあれだ。
金色をした刺青のようなもので、緻密な紋様が背中に張り付いて不定形に蠢いていた。
あれが何なのか。恒にはさっぱり見当もつかない。
それにアルティメイト・オブ・ノーボディの背を見たのは夢の中だったし、ユージーンのスティグマを見たのはユージーンが死んでいた時だった。
熱そうには見えなかったが、生きている状態で聖痕に触れるのはどんな熱さなのだろう、想像がつかない。
しかも恒が酷い火傷を負うと分かっていて、ユージーンが聖痕を触らせてくれるだろうか。
やらせてくれないような気がする。
それに聖痕にどれほど焼かれるのかは、触れた者がいないので分からないのだそうだ。
ひょっとすると全身火だるまになって即死してしまうかもしれないのだし……。
八雲は繰り返し触れる事によって、恒の持つ抗体は実際に絶対不及者が現れた時に、より強く発現するかもしれないという。
予備免疫を作る事で抗体をコントロールできるようになるなら、何もできずに3年後に犬死にする事も避けられるかもしれないから、試してみろと八雲は言っている。
恒が死ななくとも済むよう精神力を鍛えるというのは漠然としているから、八雲の提案は具体的で分かりやすかった。
何か一つ、やれる事が見つかってほっとした。
具体的に何をすべきなのか、恒は途方に暮れていたところだったのだから。
「貴重な情報を、ありがとうございます。ところで、極陽は俺を殺して抗-絶対不及者抗体を発動させた後、ユージーンさんをどうするつもりだったのですか?」
「抗体が発動すればINVISIBLEの力を絶対不及者の裡に閉じ込めて、絶対不及者を弱体化できます。絶対不及者を神々の意のままに従わせる事や拘束し封印する事も、不可能ではない筈です」
陽階は再び、天帝として絶対不及者を奉じるのだろうか。
弱体化させられ、拘束された絶対不及者を祀り、神階の力と栄光の象徴として君臨させる……。
絶対不及者は神々に囚われたまま、偶像として永遠を生きることとなる……。
うまくゆけば、の話だが。
「その仕打ちを、ユージーンさんに対してするんですよね?」
「ユージーン様は絶対不及者となった瞬間に自我を失います。彼はINVISIBLEの体現者となるのです、情けは無用です」
どのようになった場合でも、ユージーンにとっては悲劇的な結末しか用意されていないようだ。
誰も彼を救う事ができない、誰の口からも、ユージーンを何とか助けようという言葉は出てこない。
恒の場合はまだ、周囲に恵まれている。
アルティメイト・オブ・ノーボディも、八雲も、そしてユージーンも恒を何とか死という運命から遠ざけようとしてくれている。
だがユージーンに関しては、滅んでもらう他ない、死んでもらう他ない、絶対不及者となって自我を奪われるのは当然だなどと誰もが諦めてしまっている。
そして、ユージーンもまた一度自殺を図ったうえ、一度死んだ身だと彼自身に言い訳をしながら、生きることを諦めている……。
恒は、彼を助ける道をどんな事があっても諦めたくはないと思った。
たとえそう考えている存在が、たったひとりでしかなくとも――。
"どうして、あなたを助けられないんだろう……そんなのって”
利用したり、拘束したり、破壊しようとするばかりで、誰もユージーンを助けようとはしない……彼が成神した分別のある神だから、世界の為に神としての務めを果たせというのだろうか。
絶対不及者に関する事実を知る者達は心の片隅で、ユージーンの存在を疎ましく思っているのか。
絶対不及者の器を持って彼が生まれてきた事そのものを、恨めしく思っているのだろうか。
彼がいなければ、自身が創られる事もなかった……恒はそう思う。
「……ユージーンさんが居たから、絶対不及者抗体としての俺が生まれたんです。彼が絶対不及者の器を持って生まれてこなかったら、俺の命もありませんでした。ユージーンさんを、そして世界を救いたい。ですがその力がありません。俺はあまりに未熟です」
「……藤堂様。あなたはやはり、神様ですよ。ご自分の身を顧みず他者に無償の慈しみを与える、それが神様です。我が主もかつてはそのような御方だったのですが……。私が生まれ変わったら、貴方の様な御方にお仕え申し上げたいものです」
「八雲さん、生まれ変わったら、って……」
まるで今から死ぬような言い方だ。
冗談でも、何の意図がなくとも、ふとこんな事を言った時、恒はたまらなく不安になる。
八雲はその真意を探り出そうとする恒にお茶を濁して逃げるように執務室を出て行った。
まさか、八雲は死ぬ気なのだろうか? 恒は嫌な考えを振り払うかのように、首を小さく振って枕に頭を沈めた。
*
長瀬くららは築地をカラオケにつき合わせた挙句、自宅の鍵を研究室に忘れたらしく、酔っ払って鍵を取りに研究室に戻ってきた。
酔っ払った我侭お姫様に付き合わされる築地は時計を見て、ため息をつく。
大体、まだカラオケのフリータイムが4時間も残っていたのにこのお嬢様ときたら途中で帰るのだから、いち小市民、築地 正孝としては残った時間が勿体無くて仕方がない。
懐かしのヒットメドレーに入っていた築地は、まだストック曲がたくさんあったのにと不満だった。
それに長瀬ときたら、カラオケ屋で頼んだカクテルをスカートにこぼしてしまって、丁度股のあたりがびっしょりと濡れていて乾いていない。
築地は周囲の目を気にして隣を歩きたくなかったのだが、彼女は酔っ払って気にする筈もない。
後輩は朝の2時ぐらいにそそくさと帰ってしまって、気が付けば長瀬と二人きりだった。
早朝のカラオケルームから出てきた若い男女、そして女の子は酔っ払って、スカートがぐっしょりと濡れている。
一体二人でナニをしていたと、店員に思われたのかと築地は会計を済ませながら赤面したというのに。
振り回されるこちらの身にもなってほしいと、築地はそう言ってやりたかった。
「もう朝やん、お前研究室泊まってまえ。何で俺が付き合わされなあかんの。聞いてんの? もしもし、長瀬さーん!」
「は~あぃ~! ツッチー、いいから実験室の鍵あけてぇ」
ぐでんぐでんの長瀬は、築地に寄りかかる。
「もー、ほんまに」
こんなに男を振り回して憎まれないのは世界中でも長瀬ぐらいだと、築地は最近そう思う。
だが彼女と本気で付き合っているらしい彼の親友、シゲルの趣味というやつは未だもってよくわからない。
築地は濡れた若草色のミニスカートで飛び跳ねる長瀬を押しのけ、実験室の内部に灯りが点っているのを見つけてドアノブに手をかけた。
実験室のドアには鍵がかかっている。
酔っ払って研究室に寄った誰かがつけっぱなしにして出たのだろうか?
彼はバイクやロッカー、自宅の鍵などが無造作に束ねられ、ギャンブル運御守という世にも珍しい胡散臭い御守りのついた鍵束で、実験室の扉を開いた。
すると、中には作業をしている比企と、学生共有のソファーベッドに寝そべった長髪の男が、退屈そうにあくびをしているところだった。
「シゲー!」
「シゲル!?」
長瀬と築地は荻号を見るなり、二人同時に同じ言葉を発していた。
荻号は誰の事を言っているのかと後ろを振り返るが、後ろには緩衝液の入ったビーカーの中のマグネットスターラーバーがカラカラと小気味よい音を立てて、ピンク色の液体を攪拌している以外には、何か目を引くようなものもなかった。
研究室で飼っているラットかマウスか何かのペットでもあるまい。
「シゲー! 会いたかったー!」
長瀬は感極まってしまって相手をろくすっぽ確かめもせず、荻号に飛びついて荻号の腹の上にダイブをした。
荻号は身に纏っていた測定不能層数のフィジカルギャップを解いて、飛び込んできた長瀬が粉砕されないよう気を遣って受け止める。
用心深く計算高い神に自らフィジカルギャップを解かせ、無防備にするという事を一瞬のうちにやってしまう長瀬はある意味、神々にとっては天敵のようなものだ。
「何だ、お前らは?」
「おい、シゲル。帰ってこれたのかよ!」
「はあ? 何のことだ」
築地は悪友に語りかけるかのようにそんな事を言って近づいてきたのだが、あまり目のよくない築地はシゲルだと思っていた人物からシゲルよりずっと低い声で返事が聞こえてきた事に驚いて目を凝らした。
だが長瀬はよほど彼氏と再会できて嬉しいのか、荻号の顔を見ようとしない。
「……って、ちょっと待て、長瀬よく見ろ。その人、似てるがシゲルじゃねーだろ」
「この男に似た奴が、人間に実在するとは。相当に奇抜な奴だぞ」
比企は呆れてしまったようだが、自称ファッションリーダーの築地からいわせれば、シゲルより比企の格好の方があり得ないと思うのだが……。
シゲルや荻号の格好はまだ、あるといえばあるしどこかにそんな趣味を持つ人間が居るといえばいる。
だが比企の格好は断じて、”なし”だ。
至極真面目な性格で言う事もまともだというのに、身につけているものはエキセントリック。
そんな比企がシゲル、いやもといこの長髪の男をどうこう評価できる立場ではないと思うのだが。
「マジで滋かと思った。あ、すみません、友人とよく似ていらっしゃるので。比企さんの知り合いですか?」
「そんなところだな。その知り合いとでも間違えてんのか? 神の腹の上をベッドがわりにしやがって、肝の座った女だ」
彼女の酒くささと、香水の匂いが交じり合って、何とも独特なにおいが荻号には新鮮だった。
そして若い人間の女性の柔らかさや、日本人の華奢な骨格というものも、初の体験ではあった。
酔っ払って右も左も分からない若い女、そしてしらふの男、ソファーがあって……もっとも彼はその状況に預かる事を、少しも役得だとは思えなかったのではあるが……。
築地は親友のシゲルのためにも、長瀬にはなるべく早くその男から離れて欲しいと思った。
そんな事にはらはらしながらも、築地の耳に一言がひっかかった。神の腹の上ってどういう意味だ?
「つか神? 何言ってるんすか」
「そう見えるだろ」
「神って??」
「神は神だろ? 昔から」
築地は彼のいうところのカミは神としか漢字変換できなかったし、そう変換したところで当然、何故彼がそう自称するのか意味がわからない。
酔った上での言葉だとしか思えなかった。それで築地は悪気もなくこう言ってしまったのだ。
「あのー、大丈夫ですか? 酔っ払ってますよね?」
「……」
荻号は意味が通じなかったのかと口をすぼめ、空色の瞳を丸くする。
荻号 正鵠のいた一万年前の世界、神は生物階に居て人々に認知されて当然だった。
そして神々はいついかなる時でも憚る事なく自らの正体を明かし、人類のよき隣人であった神々は人々の相談役として彼等に知識を授け、望まれれば力を貸していた。
人々は神を慕い、神は自然体で人々と関わる事が出来た。
文明の発展とともに時代はこうも変わったのだと荻号は感じたようだが、比企は神と自称してしまった荻号の失言をフォローしなければならなくなった。
どのみち築地も少なからず酔っている、ここでの出来事は家に戻って眠れば忘れるだろう。
「すまんな。連れは先程一杯引っかけてきたらしく、そこに伸びていたところだ。寝言のようなものだから聞き流してくれ。彼女はここで寝かせておけ、責任を持って面倒は見ておく」
比企が平然とそんな嘘をついたので、築地は納得したのかしてないのか、ふらふらと研究室から出ていった。
一方の長瀬は荻号の腹の上で遂に寝込んでしまったが、酔っ払い扱いを受けた荻号は心外だ。
神として人間から信仰心を持たれたり崇められたいわけではないが、意味が分からないという顔をされると淋しくなる。
「最近の人間は神を知らないのか? 見りゃ一目で分かるだろ」
荻号が自信ありげにそういう根拠は、誰の目に見ても明らかなほど、彼自身が余剰なアトモスフィアを後光として放っているからだ。アトモスフィアの強い武型神は特にだが、大過剰のアトモスフィアがプリズムのように発光して頭上に見える事がある。
陰階神であった荻号 要は現代社会でそれでは目立ちすぎると自粛してアトモスフィアを吸収する為に帽子を被ったり、神気遮蔽布(天羽衣)というかつて天帝をも封じていた装束の一部を腰に巻いてそれを隠し周囲に気を遣っていたが、神が人々と共生する事が一般的だった一万年前の感覚のままの荻号 正鵠はそんな事は気にしない。
研究室は薄暗く、荻号はあからさまに後光を放っているのが丸見えだというのに、二人とも気付かずじまいだ。
国籍を明かすような感覚で、彼は気軽に神だと名乗ったつもりなのだが。
「あなたが光冠(Sacred Coronal Halo)を持っていようといまいと、現代人は神と分からん。生物階不可侵と神階の秘匿が主神の政策でな。人々は神や使徒を見た事がないのだ」
長髪の彼をシゲルだと思い込んでいる長瀬は荻号の腰にしがみついて、どこにそんな力があるのかと思うほど聖衣を強く握り締め放さない。
長瀬の彼氏、築地の親友のシゲルは少し名の知れたセミプロのダンサーで、ファッションなのかただの自己主張なのか、ちょうど荻号のような風貌と背格好をして、染毛した髪の毛を長く伸ばしていた。
長瀬と築地が二人揃って人違いをしてしまったのもありえない話ではなかった。
「シゲ、会…たかっ……」
荻号はなおも長瀬に甘えられ困惑する。
室内は冷房が効いていて涼しいが、この女は暑苦しくしがみついている。
荻号 正鵠は昔から、誰かに接触されたり触れられる事がたまらなく嫌いだった性質だ。
遠慮もなくベタベタしないでほしいとは思えど、相手は酔っ払いだ。荻号はそこの試薬棚から適当に調合して、アルデヒドを分解する薬を強引に飲ませてやろうかとすら思ったが、実験室の試薬を人間に飲ませるなど、比企が許しはしないだろう。
陽階神というやつは何故か世話にもなっていない人間に肩入れし、義理立てをする。
比企も同じ係累だ。
「くそ、俺に似た奴は一体何人いるんだ。放しやしねぇ」
比企は何を準備しているのか、手を動かす事をやめない。
教授の思いつきで様々な化合物を合成、分析をやらされてきた錯体研には、何故こんなものまであるのかと首を傾げたくなるような、しかし比企の欲しい大抵の試薬が揃っていた。
試薬棚にあるものは自由に使っていいと相模原から言われていたので、比企は好き勝手、しかしきれいに整頓しながら引っ張り出している。
比企は試薬や高価な機器を自由に使わせてもらう見返りに、研究室に500万円を即金で寄付しようとしたが、贈収賄容疑を怖れた相模原は拒否し、比企の自由にしてよいという話になった。
相模原はまた、手が足りなければサポートに学生を使うよう申し出た。
薬神であった比企にとって、まさに至れり尽くせりの環境である。
「その娘の恋人は、例の感染症により異国で足止めを喰らって帰れないらしい。腹ぐらい貸してやれ」
「いやに詳しいな」
「共同研究者だからな、個人的な情報は役に立つ」
荻号の下世話な言葉に比企が被せてぴしゃりと否定した。
帰ったのかと思いきやトイレで用を足したのか、築地が戻ってきた。
築地は築地で、先ほどより少し顔色がよくなっていると思われる。
トイレで胃の中のものを吐いてアルコールを飛ばしてきたのだ。
飲み会慣れしている築地は、自分の世話は自分でやけた。
だからいつも酔いつぶれない彼に回ってくるのは、酔っ払いの介抱だ。
丁度今もその場面に遭遇している。
「やっぱ長瀬は連れて帰ります。危ないから」
「別に襲わんぞ」
「いや、あなたの方が襲われます、長瀬は猛獣なんですよ。もし間違いがあったら俺がシゲルに殺されます。って離れやしねぇ!」
築地も長瀬の足を引っ張って荻号から引き剥がそうとは試みるも、意識がないとは思えないほどの怪力で、到底無理だ。
「さっき確認したそうだ」
比企は苦笑して作業を終えたのか、ようやく手を止めてソファーに腰を下ろした……その瞬間、何を察したのか、荻号と比企が弾かれるように身構えた。
ダァン! ダン! ガァン!
銃声のような爆音がすぐ至近距離で聞こえたのはほぼ同時の事だった。
窓ガラスが割れ、ガラス片が雨のように降り注いでくる。
比企は狙撃された方向を向き片手で三人を制すると、ジャケットの内ポケットから抜いた懐柔扇の扇を開き、打ち付けるように煽いだ一陣の風で迎え撃つ。
窓側の一番近くに立っていた築地にガラス片が凶器となって突き刺さる前にガラス片は粉砕され、雪のように床に儚く降り積もった。
比企は扇を閉じ、大きく振りかぶると、矢を放つように懐柔扇を窓の方向へ投げ付けた。
骨組みに神銀という硬い金属を仕込んだ扇はただの重い棍棒と化し、轟音を立てて窓からの侵入者の額を殴打して窓の外へ弾き飛ばす。
比企は手ごたえがあったのを感じると、瞬間的に跳んで窓の外へと侵入者を追った。
攻撃は最大の防御だという事は、生粋の武闘派である比企の身体に染み付いている。
そうでなければ、外に何名いるのかすら知れない侵入者は、大挙して研究室内に入ってくるかもしれない。
比企は窓ガラスを割られて舌打ちをした、研究室内に空気の通り道が出来て室内の冷房が効かなくなると、安定した実験環境が維持できなくなる。
「いやー!!」
築地が比企の素早い身のこなしと、降って湧いたような生命の危険に触れて呆然としていると、酔っていた筈の長瀬の甲高い声が研究室にこだました。
「シゲ! シゲェぇ!!!」
荻号はその瞬間に身を翻して長瀬を庇い、長瀬を貫く筈だった三発の弾丸の盾となり、荻号の神体を貫通した弾を内側で握り締めた拳で三発とも防いだ。
弾丸は強く握った荻号の拳を骨ごと貫通し、長瀬に届く直前で止まっていた。
一つは腰骨を真っ二つに貫通し、彼は腰椎を骨折していた。
そして彼の鮮血が長瀬の頬に絵の具を撒き散らしたように飛び散っている。
血を見るのが死ぬほど苦手な長瀬の酔いは、そのショックで一気に醒めてしまったようだった。
荻号の心臓からだくだくと溢れ出る血液、三発の弾丸が貫通して、直径2cmほどの巨大な弾丸が三つ、荻号の拳に骨を砕いて突き刺さっている。
荻号の口から次に漏れるのは当然苦悶の絶叫だと、築地は予想した。
だが彼は絶叫を上げなかった。
「大丈夫か?」
「そっちの心配ー!?」
築地は自分の心配を一向にせず長瀬の心配をしている、彼の能天気さと鈍さに呆れつつツッコミを入れた。しかしツッこんでいる場合ではないほど重傷を負っている。
「シゲェ、死んじゃダメー!!!」
「こんなんで死ぬか。それより」
長瀬の頬についた傷は、荻号が長瀬を庇って押し倒した時に、実験台の上のビーカーが割れて彼女の頬を切ったものだ。
荻号は案外ざっくりと切れてしまった長瀬の頬の傷を、丁度よく流れていた彼の治癒血を摺りこんで癒す。
長瀬は酔って痛覚が麻痺していたので、頬に傷があった事など気付かなかった。
治癒血は人を癒すが、荻号自身の傷を癒さない、それどころか治癒血を持つ神は回復力に乏しい。だから彼等は強固なフィジカルギャップで身を守っている。
長瀬の接近によってフィジカルギャップを解いたのが仇となった。
「女の顔に傷がつく方が一大事だからな」
「格好つけとるばあいかー!! 救急車、救急車呼ばな死んでまう!!」
「呼ぶな」
「……あんたの血、比企さんと同じ色してん……あんたも人間ちゃうんか?」
人間ではないと分かった以上、確かに救急車が呼べない。
宇宙人を救急車に乗せて病院に搬送するなど、笑えない冗談だ。
「だから神だって、言っただろ。神がこのぐらいで死ぬか。いいからそこのペーパータオル持ってきてくれ」
どこの実験室にでもあるキムタオルというペーパータオルを要求するので、築地は仕方なくそれを取ってきた。
これは普通のティッシュと違ってよく水分を吸い、紙くずを出さない研究室御用達のペーパータオルだ。
彼はキムタオルに血液を吸わせてあらかたの出血が取れると、腰に下げていたシザーケースから、裁縫セット感覚で入れているのか縫合糸と針を取り出した。
出血が収まれば、縫うつもりなのだろう。
出血がおさまるまでの間、手持ち無沙汰なのかソファーについた血をキムタオルで拭いて掃除などしている。
「だー! そっちの心配ー!? 何か調子狂うな」
「痛くないの?」
「ちっとだけな。それに俺はシゲじゃね……」
その先の言葉は、長瀬が唇で奪った。
予想外の場面でキスをされた荻号は全身をこわばらせる。
長瀬は彼を恋人だと思っているのだから、傷ついた彼氏を慰めようとした彼女の行為は至極当然なのかもしれないが、彼には受け入れられるものではなかった。
「そんな怪我で喋っちゃ、だめでしょ」
築地は息を呑んだ。
上目遣いでそう言う長瀬の、かわいいこと。
また何かを言いかけた荻号は、長瀬の大きな茶色の瞳が涙で潤んでいるのを見て、口を閉ざした。
そして彼は柄にもなく、新しいキムタオルで彼女の涙を拭う。
長瀬はそれを受け取り、華奢な肩を震わせ、声を殺して号泣していた。
彼女は恋人が死ぬと思って、疑わないのだ。
築地はともかく携帯を握り締めたまま、誰に連絡をすべきか考えていた。
病院に搬送するのは無理だ、築地の知り合いが看護師をやっているが、彼女を呼ぶべきか……。
すると割れた窓ガラスの外から、比企が帰ってきた。
比企が外に出て行ってから戻ってくるまで3分もは経っていない。
交戦はしなかったのだろう。
「済まぬ、逃がした。時空間操作能のついたツールを持っていたのでな、追跡を振り切られた。む? フィジカルギャップを解いていたのか。迂闊だったな」
「比企さんも冷たいな。この人が盾にならなかったら、長瀬に当たってたんだ」
彼が庇わなければ、長瀬のいた場所に弾丸が向かっていた。
直径2cmの弾丸が三発も彼女に喰らい込めば、彼女なら即死は免れない。
「力の過信と深追いは禁物だ。時間差で、まだまだ来るだろう」
「残党だろうか?」
「そうだろうな。俺が浄化したのは生物階に居た連中だけだ、まだ解階に残っている奴らはいるだろう。狙いは人間ではないな、神を狙って来るのだろう」
「夜は未だ明けず、か」
比企は懐柔扇を顎のあたりに当てて、何かを考えているようだった。
その怜悧な佇まいは、まるで諸葛 孔明のようだなと築地は思う。
比企や長髪男はこれほどの有事にも動じないのだが、こちらは肝を冷やしただけだった。日常生活の中で、無防備な状態から発砲されるという事件など、大抵の人間は一生あり得ないに違いない。
二人が何か危険な男達なのだとは、築地は承知していた。
比企も彼も人間ではないというのだから、彼等に会いにくるのもまた、人間ばかりとは限らない。人外の者達の中で、彼等がどれほどの力を持っているのか。
比企の先ほどの身のこなしを見ると充分に応戦できそうだったが、比企と長髪男が恨みをかわれているのなら、正直ここから出て行って欲しい。
「また頃合に、先ほどの神具は使えんのか?」
「フラーレンは一度起動したら3日は使えん。俺は240枚を持っているが、一度に最大で4回しか使えん。C60だと4回撃てるが、C120だと2回しか撃てん。そしてさっきC60を2回で120枚、C120を1回使ってしまって240枚を使い切った、もう3日は無理だ、アトモスフィアを蓄える時間が必要だ」
荻号は1万年ぶりに娑婆に出たのが嬉しくて少しはしゃぎすぎて無駄遣いしてしまったか、と後悔していた。
だが一度で解決できると思ったからこそ、最後の呪符を使い果たしたのだ。
この事態ははっきりいって想定の範囲外だ。築地も長瀬もフラーレンという化合物を知っていたが、どうも話が違うようなので会話に参加することはしなかった。
「……便利なようで不便だな」
「俺は今まで、こいつを240枚使い切った事態ってのには遭遇しなかった」
「それより傷を見せろ」
荻号は比企に促され、聖衣を脱いだ。
フィジカルギャップを纏わなければ神体は恐ろしく脆いもので、人間並に脆弱なのだ。
荻号が傷つき比企が処置をするという場面は、逆のパターンなら厭というほど経験したが、これまでとはあべこべの展開だった。血を見るのが苦手な長瀬は目を背けていた。
「てかさ、救急車呼ばなくて大丈夫? あ、病院は人間じゃないから行けないのか……。でもちゃんと医者に診せた方がよくないですか?」
「己は外科医だ、心配はいらんよ」
比企はもと薬神でありながら外科医の免許を持っている。
だがその腕を発揮する場面がなかった。
一つには、比企は陽階で文系神として登録し、立法を司る神として奉職していた事。任務中に怪我人など出ないし、誰も傷つかない。
もう一つは、比企が一度も生物階に降りた事がないという事情でだ。
「えー全然見えないんですけどぉ! ロン毛で白髪の医者とかやっだー、なんか超ヤブっぽいしー! 診てほしくないー!」
長瀬は言いすぎだ。
「……心外な言われようだな。ところで荻号、自分では手当てをせんつもりか」
「そのうち止まるだろ」
荻号 要は腕のよい外科医だったので自分の傷ぐらい自分で治したものだが、彼は出血で意識が朦朧としているらしい。
比企は仕方なく懐柔扇を閉じ、骨組みから金属の芯を抜いた。
”超-超音波凝固切開”
(Hyper-Harmonic Scalpel)
比企は懐柔扇の芯を荻号の創傷口に突っ込み、超音波で傷口を焼灼して出血を止めた。
まだ目覚めたばかりで、なおかつ神階を離れた荻号 正鵠には、自己血のストックがない。
荻号 要の血液成分とは若干異なり、適合しないとアルティメイト・オブ・ノーボディは正鵠に解説してくれていた。
だから怪我をするなと……それが早々にこのざまだ。
多量の出血は命取りとなる。
最近では医療の進歩で、人間社会にも徐々に超音波凝固切開器具が浸透しているようだが、比企は300年ほど前から懐柔扇にこの機能を付加しているパイオニアだ。
肉の焼ける音と蒸気が出て長瀬は悲鳴を上げそうになったが、出血は瞬間的に止まった。比企は荻号の出していた縫合糸で、傷口をきつく拮結して処置が完了した。
「ところで今の奴は、長瀬を狙って撃ってきたんですか?」
「いや……俺と比企のうちどちらか、もしくはどちらもだろうな」
「じゃ、これからもあんな奴らがここに……?」
冗談ではない、そんな危険な日々がこれからも続くのかと思うとぞっとする。
長瀬は先ほどの瞬間に、死に掛けたのだ。次の襲撃でも命があるものだとは保障できない。
「お前らの安全は保証するし死んでも生き返らせてやるが、命の惜しい奴は比企と行動を共にせん方がいいだろう」
荻号は他人事のようにそう言った。
長瀬は赤く腫れた目で比企の顔をまじまじと見つめた。彼女をこんな風に泣かせてしまったのは、比企がこの研究室に来てしまったからだ。
比企が大坂大学を選び、居ついてしまったから解階の貴族の残党に狙われている。治安のよい日本では考えられないほどの危険な目に遭わせて、彼女を悲しませている。比企は後ろめたかった。
「そんな顔をするな。我々は出来るだけ早く、この研究室から出ていく」
「我々? 俺は付き合わねーぞ」
「その怪我でどこへ行く。全治二日、いや治癒血を持つ身なら回復は更に遅かろう。まだ動く元気があるなら動けぬようにしてやるがな。今すぐに」
「比企さん、言ってる事が恐すぎますし目がマジすぎです」
築地がオーバーリアクションでドン引きしたので、眉毛が垂れ下がりっぱなしだった長瀬がつられて少し微笑んだ。
神は人を守らなければならない。
この強い強制力を持つ呪が、喩えアルティメイト・オブ・ノーボディや神階の構造的な体制によって比企に刷り込まれたものであったとしても、この感情は本物だろうと比企は思う。
このか弱い生命達を、有限の生を持つ者達を守りたいと願う事は、アルティメイト・オブ・ノーボディの構築したシステムの一部として役割を果たす為だけに刷り込まれたのではないと願いたい。いかに創世者でも心までは支配できないと、思いたい。
もう誰も、苦しめたくはない。傷ついてほしくもない。
誰にも操られる事なく、生命は自身の足で歩みはじめなければならない。人々も、神々も、そして解階の住民も……。本当は敵など、どこにもいないのだ。世界を創世者達の手から生きとし生ける生命達の手に取り戻すと、比企は誓った。
それは創世者達の三つ巴の戦いの前には、空しく矮小な願いなのだろうか――。