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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第52話  Devout witch

 メファイストフェレスは内閣府を出て織図と別れ、一度風岳村に戻ろうとしていた。

 ただ冷蔵庫で眠らせておくには勿体無い、こうしている間にも感染は拡大の一途を辿っている。

 ユージーンの血液を上島から分与してもらい、被災地や感染者達に持っていこうと考えたのだ。


 しかし風岳村に着くというところで思いがけず、夜空の上で懐かしき者との再会を果たしてしまった。

 口元を黒い覆面で覆って漆黒のボディスーツに身を包んでいても、彼女にはそれが誰なのかすぐに分かる。

 聖書にも登場する有名な悪魔の名をいただくべリス=ヴィルナはメファイストフェレスの一代前に交際していた元彼だったからだ。

 状況と動線から察するに彼は風岳村へと向かおうとしていたようだ。

 このタイミングで生物階にいるという事は、いくら心を許した過去を持つ者といえど、その目的を思いとどまってくれるだろうという楽観的な見方はできなかった。

 メファイストフェレスは気取って声をかけた。


「ここで会ったが百年目、とはこのことね」

「そうだ。お前とは百年も前に別れたきりだったな。ちょうどこんな、霧わたる明け方の事だったな」


 ヴィルナは懐かしむように遠い目で暁の空を見遣った。太陽のない解階では見ることのない光景。

 風岳の空に朝陽が昇ろうとしている。

 ヴィルナは射られるような朝焼けの日差しに目を細めていたが、本当に眩しいのは彼女なのかもしれないと、彼には分かっていた。

 彼女は小首を傾けるようにして、挑発的な眼差しを送る。


「そうだったかしら、ねぇ」


 彼女の漆黒の長く柔らかな毛は風に揺れて、上空300mで雲海となった朝霧を無遠慮に切り裂いた。

 あれほど愛し求めあった女が、何と素っ気のないものだろうな、とヴィルナは感傷的になる。


 だが誰にもこびない野良猫のような素っ気無さもまた、彼女の魅力だ。

 彼女のそんなところに浮気性のヴィルナがどっぷりとはまってしまって抜け出せなくなった一時期があった。

 彼は今でも、彼女以上の女に出会う事ができず、彼女への思いをいつまでも引きずっていた。その焦がれた彼女と思いがけず再会出来たのだから、ヴィルナは運命を感じる。生物階と人間達の営みに執心し、彼らに触れたいと願っていた彼女は遂に、生物階の地に立つ事ができたのだな、とヴィルナは思い出した。

 あの頃はいつか彼女の願いを叶えてやりたいと思っていたが、彼女は何でも彼女自身の力でやり遂げなければ気が済まないらしい。


「生物階に来ていたんだな。念願がかなったじゃないか」

「色々な偶然が重なったのよ。それで貴方はどうしてここに? この先に何の用があるのかしら? 聞かせて欲しいわ」


 彼女はさりげなく風岳村を背にして彼の前に立ち塞がって譲らない。

 ヴィルナは財力にものをいわせて作らせた、高性能の散弾銃型ツールを右手に持っている。

 まともに喰らえばメファイストフェレスの腹に風穴があくところだが、彼は発砲しないだろうと見抜いていた。


 だがどこかで使う予定はあるようだ、安全装置が抜き取られ、銃身についた小型コンピューターが起動状態になっている。

 べリス家は代々と続く武家の家系であって、ツールに投じる財力が半端ではない。

 メファイストフェレスは見境がなくて品がない攻撃だと思うのだが、例の目標を粉砕するまで追い続ける追尾型弾丸も装填してきている筈だ。


「藤堂という少年神を捜している、この辺りにいる筈なのだが、見かけなかったか?」


 彼女は思いがけない人物から思いがけない名を聞いて、顔色を変えた。

 この銃で恒を撃つつもりだとしたら、恒はどうやってでも助かる術がない。

 ヴィルナの弾丸は時空跳躍機能を備えており、瞬間移動をした先まで追ってゆく。

 逃げ惑ったとしてもやがて恒は力尽き、弾丸に射抜かれる事となる。

 まさに百発百中の弾道だ。


「捜してどうするの?」

「声は殺せと言っている」


 ヴィルナはメファイストフェレスの動揺を楽しむかのように、粘つくような声でそう言った。

 何十年間も付き合った元彼女だ、その語調や視線などから何を考えているのかぐらい想像がつく。彼女は柄にもなく動揺している。

 交際していた間の数十年を振り返っても、珍しい。


「声って、何?」

「さあ。誰かがそう言うのかもしれんし、俺の気のせいなのかもしれん。だが気のせいにしては、同じ声を聞いたという者が他にも大勢いるんだがね。お前には届いていないのか」


 彼は淡々とそんな事を言った。

 メファイストフェレスは生物階に残ったのでブラインド・ウォッチメイカーの息がかからずに済んだが、もし解階に残っていたらと思うとぞっとする。

 ひょっとするとメファイストフェレス自身の手で恒を殺してしまったかもしれないのだ。

 メファイストフェレスならば油断しきった恒を簡単に殺せるだろう。

 解階の貴族達全てが恒を的にかけているのだとすれば、このままでは彼はいずれ”誰かに”、確実に殺される事になる。

 そして対峙するヴィルナは、彼の持つツールを使用しなかったとしても、メファイストフェレスの実力より遥かに勝っている。


 まともにやりあっても勝てはしない。

 ヴィルナはそんな力の優位を利用してメファイストフェレスに近づくと、彼女の腰にゆっくりと手を回しその手はいやらしくも下腹部へと下ってゆく。


「お前は本当に綺麗になった……誰の為にその美貌を磨いたのか知らないが、拒まれるほど欲しくなる。また俺の下で鳴かせてみたいものだ」


 彼女は怖気がするほど、その行為が許せなかった。

 何故なら神々からは魔女と同一視されるメファイストフェレスは神の使徒となるにあたり、そこまでする必要はないと渋るユージーンにどうしてもと乞いて、彼から陽階の作法に則った正式な洗礼を受けた。

 それは身も心も彼の使徒となり誠心誠意伺候してゆく為の、彼女なりの決意だ。

 その日以来俗事から足を洗い父親の心配をよそに解階で許される程度の禁欲主義を貫き、まるで敬虔な修道女のような生活を送ってきた。


 彼女は彼女自身を戒めながら日々人間研究に勤しみ、色欲を断ち鍛錬を重ねて己を磨いてきたのだ。

 ユージーンの使徒として貞淑である事を誇りとしてきた彼女が、無遠慮に腰に手を回されて黙っていられる道理もない。

 彼女はヴィルナの指を払いのけ、毅然とした態度で全身で嫌悪感を表しながら拒絶した。

 昔の男に簡単に身を許すほど、あの誓いは軽々しいものだったわけではない。


「その薄汚い手をどけて頂戴。妾はもう貴方のものじゃないの!」

「威勢がいいことだが、藤堂を知っているんだろう? それもただ知っているだけではない。違うか? 俺は是が非でも藤堂を殺りたい訳じゃない。その代わりにお前が……俺にどうしても抱かれたいっていうならな」


 それが一体どういう意味なのか、彼女はじわりと察した。下卑た嗤いを浮かべながらヴィルナは舌なめずりをする。

 解階の男性型個体はとにかく性欲が強くてメファイストフェレスは辟易したものだが、恒の命ががかっている。

 抱かれるだけで、恒が助かるのなら……。

 しかし彼女は決然として彼を突き放した。


「何とも見下げた男ね。三階がどうなっているか、理解できない訳じゃないでしょう? そんな時に考える事はソレだけだっていうの? 妾を抱くなら、貴方が死ぬほど嫌っていた軽蔑と憐れみをくれてやるわ」


 閃光が暁の空に迸ったのは、彼女が怒りに震えながらそう言い放った時だった。

 彼は雷鳴のような轟音を聞きその方角に走った空を二分する閃光を見上げると、何故か荒んでいた心が洗われたように感じた。

 彼の心に改悛の風が吹き抜けたのだった。

 荻号 正鵠がフラーレンによって放った一陣の疾風、地球全体を覆いつくすマインドコントロール・フィールド、それがブラインド・ウォッチメイカーによって奪われていたヴィルナの正気を取り戻した。

 彼は何故生物階で藤堂 恒という少年神を捜さなければならなかったのか、その理由が理解できなかったし、それは取るに足らない事のように思われたのである。

 彼女は一瞬生じた隙を見逃さず、マクシミニマを彼のこめかみに当てた。

 ひやりとした、髑髏の感触が彼の肌に触れている。


 ヴィルナは微動だに出来ぬまま、たった今彼を死に追い詰めようとしている昔の女を見つめた。


「ヴィルナ、貴方はよい男だった。妾は素敵だった頃の貴方を忘れたりしないわ」

「ま、待ってくれ。俺は一体何を……メリー、俺は何を……」

「さようなら、愛しい貴方」


 彼女がカチっとスイッチを押すと、従順な髑髏は迷わず彼の脳を撃ち抜いた。

 彼が正気を取り戻していたと、彼女は知らなかった。

 襤褸布のように力を失って地上に落ちてゆく、彼に手を伸ばしたが、追おうとはしなかった。


「……主よ。妾を試みに引き給わざれ」


 彼女は赤い火を吐いたマクシミニマのされこうべを愛撫し、腰に帯びると、両手を組み合わせて懺悔をした。

 初めて自身の手を汚し心までも魔女になってしまったのだと、自覚せざるをえなかった。



「あなた……! どうなされたの?」

「ただいま。久しぶり」


 川模 廿日の夫、紫檀 葡萄は玄関先で出迎えた愛妻をお腹の子供に気を遣いながら優しく抱きしめた。

 生物階で単身赴任をしていた彼にとって、およそ1ヶ月ぶりの帰宅だ。

 彼の着衣からはまだ硝煙のにおいがする。

 廿日は夫の懐ですん、と鼻を鳴らした。


 戦術オペレーターとして執務を行い神階から生物階に降りる事のなかった廿日には絶対に染み付かない硝煙の気配は、夫が任務を忠実に遂行した事を証するとともに、また彼の原罪をよりいっそう深めた事を意味している。

 もし死後に行く場所が用意されているというのなら、間違いなく夫は地獄に落とされる事だろうが、幸いにしてEVEに入る事ができない。


「あなた、また大勢殺したの?」


 この質問は夫婦の間で取り決められた符丁のようなもので、廿日は玄関先で必ず葡萄を問いただした。

 殺したといえば、廿日はユージーンに対する申し訳なさや、約束を守ってくれない夫への不満から必ずふてくされる事になっている。

 なっている、というと妙だが、殺した人数を嘘偽りなく告白する事は、この夫婦の間では儀式のようなものだった。


「今日はやってない」


 久しぶりに世帯寮に帰ってきた夫を嬉しそうに出迎えた廿日は、今日はまだ一人も殺っていないという言葉が引っかかった。

 生物階に居たというのに今日に限って一人も殺さなかっただなんて……明日は大雨か大雪が降るわ、廿日がそんな事を真剣に考えていた頃には、葡萄はもう靴を脱いでジャケットを放り出していた。


 夫の予定外の帰宅を、どこの世界の妻も訝しむものだ。

 まさか解雇(リストラ)されたのではないかと不安になる。

 夫婦共働きだったので蓄えはあるけれども、万が一にもリストラをされてしまったら家計はやがて苦しくなる。

 子育てに専念したいと思っていた廿日も、すぐに復職をしなくてはならないだろう。

 そしてどこの世界の妻も、真昼間からの夫の帰宅の理由を尋ねたがるものだ。


「あなたまさか任を解かれたの? だから殺害命令のない人間は殺してはいけないとあれほど言ったのに。あなたは殺しすぎだったのよ、殺すべき人間はあなたが決める事じゃないの、主がお決めになる事なのよ。ああ、何という事……眩暈がするわ。遂にリストラに遭ったなんて」

「眩暈がするのは、つわりのせいだろうさ」


 廿日はてっきり、葡萄があまりにも殺害指令のない人間を殺しすぎた為に、とうとうユージーンに解任されたものと思い込んでいた。

 そしてそれはいつも廿日の懸念材料だった、うちの夫はいつか、いくら温和な上司といえど彼の逆鱗に触れてしまうだろう、と。

 だが葡萄からすればいつもの不手際(殺害指定された人数より多く殺してしまう事)、は少しでも開戦の不安を減らしてユージーンや以御を楽にしたい、更には嫁の仕事を減らしたいという思いが先に走っての事だった。

 世界大戦規模の戦争を二度と起こすまいと、小さな火種をも許さず根こそぎ摘み取ってきた彼はいつの間にか、葡萄などという愛嬌のある名を持つ身でありながら、軍神下使徒のうちでも暗殺者としての不名誉な地位を不動のものとしていた。

 軍神下使徒達の間で第五使徒の紫檀 葡萄と言えば”必殺の紫檀”の異名をとるほどである。


 そんな夫を持つ妻の苦労は並々ならぬものがあるが、紫檀が無類の愛妻家であるという事実は、意外に知られていない。


「リストラになど遭っていない。君は、ニュースを見ていないのか?」

「ネットが繋がらないの。昨日からよ」


 出来た嫁によって塵一つなく片付けられた部屋を見回すと、胎教によさそうなクラシック音楽のDVDがずらりと並べてあった。

 ピンクと青の端切れがテーブルの上に重ねてあり、裁縫セットを拡げている。日がな一日、生まれてくる子供の産着などを作って過ごしていたようだ。

 軍神下第五使徒、紫檀 葡萄の上司であり、軍神が最も信頼を寄せていたといえる第二使徒、川模 廿日はすっかり引退して専業主婦となっている。

 まだそれほど腹は出ていないが、気分はもう一人前の妊婦だ。

 このたびの定期健診で、赤子は双子だという事が判明した。

 男の子と女の子の二卵性双生児だそうで、男の子も女の子も欲しかった廿日の喜びようといったらなかった。


 夫婦合意の上で、息子は八朔(はっさく)、娘は檸檬と、柑橘類で統一する予定だ。

 白翼の赤子を産むか双子を産みでもしない限り、神階に住まう使徒の夫婦にふたり目の出産は許されないため、双子だと分かった廿日は宝くじにでも当選した気分だったそうだ。

 生物階の厳しい現状と、神々の殉職のニュース、そして生物階で任に当たっていた使徒の殆どが神階に撤収させられてしまったという惨憺たる事実、解階と神階の全面戦争の様子は、出産を控えた妊婦に話して聞かせるような話ではなかった。


「何があったの……? ……待って、言わないで。大変な事……? 先ずはあなたが無事に帰ってきてくれてよかったわ」


 話を聞きたいが、初産の廿日はお腹の子供への影響が心配で、一度は訊ねたものの心の準備が出来ず挫けてしまった。

 精神的には決して頑丈とはいえない彼女に献身的な愛をそそぎ、宥めたりすかしたりするのは、愛妻家の葡萄の大切な役割だった。


「大変さ。けど、君の出産も大変だ。適当な話題じゃなかったな」

「一つ教えて頂戴。主は、ご無事……?」

「お会いしてはいないが、ご無事だそうだ」


 毎日のように傍に仕えてきた廿日と違って、任務のため生物階に降りていた葡萄はここ数ヶ月、ユージーンと会っていなかった。

 帰還報告と挨拶をしようとして執務室に行ったが、彼は居なかった。

 その代わり憔悴しきった以御が任に当たっていた。

 一度として乱れる事のなかった、以御とユージーンを頂点とする軍神下指揮系統が混乱している。

 それはとりもなおさず、神階全体の混乱を象徴していた。


 使徒達には動揺が広がるが、神々より身体的にも能力的に劣る彼等では対処ができず、解階との戦争の役に立たないのだ。

 混乱に乗じて暴動が起こるのを防ぐ為、神階の下位使徒達には情報統制が布かれはじめていた。

 GL-ネットワークにアクセス出来、真実を知る事ができるのはせいぜい枢軸神の上位使徒達ぐらいだ。

 使徒階の端末からのネットワークアクセスは有為枝折によってブロックされていた。

 そこで廿日は先日より、寮でのインターネットが出来なくなった。

 子供の産着のデザインをネットで探していたのだが、オフラインになって迷惑している。

 葡萄は廿日の気を紛らわせるように、懐から大切そうに小さな黒いケースを取り出した。


「今月分の俺の給料、と、廿日の産休手当て、あとボーナス」


 葡萄は廿日に、展戦輪の御璽入りアンプルを10本手渡した。

 十大使徒に支給される給料で、1/2の希釈率の軍神のアトモスフィアが充填されている。

 普段は第二使徒の廿日は4本、第五使徒の葡萄は3本もらっている。

 だがいつもより3本分多い。葡萄はシリンジを持ってきて、廿日の腕にせっせと注射する。

 廿日は嬉しそうに腕を差し出す。

 使徒達にとっては月に一度の至福の瞬間だ。

 渇ききっていた身体に神のアトモスフィアを受けて、力がみなぎってくる。


「嬉しいわ、ボーナスだなんて」

「以御さんが、子供の分だって」

「まあ、以御ったら気を遣って……」


 アトモスフィアは使徒の生存にとって必要なものであるが、ある一定量以上は必要ない。

 フィジカルレベルの高い武型神であり、枢軸でもあるユージーンのアトモスフィアは他の神々のそれより濃く栄養価があるので、廿日も葡萄も本当はアンプル1本分で一ヶ月はやっていける。

 身体の代謝に必要な量以上を注射によって接種する必要はないので、残ったアンプルは嗜好品として利用できる。

 例えば料理の隠し味にしたり、飲み物に混ぜたり、風呂に入れて浴びたり、だとか。

 使徒いわくアトモスフィアにも風味があって味わいも豊かで、それなりに依存性があるらしい。

 上位使徒達は煙草や酒のような感覚で思い思いに楽しんでいるようだ。

 葡萄は早速とばかりに、廿日が作りかけていたスープの中にアトモスフィアを混ぜた。

 ちなみに、放射性物質である精製されたアトモスフィアの溶媒は滅菌された生理食塩水だ。

 給料日なのだから、贅沢に使ってもいいわよね。廿日はそういいながらオタマでスープをすくって隠し味の味見をした。


「おかげでおいしくなったわ」

「いいニュースもある。主がお弟子をとられたそうなんだ」

「御弟子を? まあ、それは初耳だわ。よほど優秀な方なのね。神階では荻号様と比企様の師弟関係を最後に、師弟関係を結ぶに相応しい、飛びぬけて優秀な神様が現れなかったそうなのに」


 妻も隣に並んで配給の野菜を切っている。

 使徒達の身の回りの品や食糧は一週間ごとの配給制だ。

 通販のように、前週までに注文用紙に欲しい品にチェックを入れて提出しておくと、物品が配達されてくる。

 廿日は計画的に料理の献立を考えていて、食卓に並ぶ一週間分のメニューが冷蔵庫にマグネットで貼り付けてあった。


「聞かせて、主のお弟子はどんなお方?」

「10歳の少年神だがマインドギャップが7層もあるそうだ。以御さんもよく出来た神様だと褒めていらしたよ。荻号様や織図様からも目をかけられていらっしゃるようだし」

「まぁ! では末が楽しみね。荻号様に目をかけられた神様は、大出世をなさるというジンクスがあるのよ」


 将来有望な神を、ユージーンが育てたという事になれば使徒としても鼻が高い事だ。


「主は、以前とは違うご苦悩を抱えていらっしゃるそうだ。俺も主をお支え申し上げたいが……主が御弟子にとった少年神の警護を俺に任せたいと仰せだ」

「以御がそう言うの?」

「いや、主が直々に仰せなんだと、以御さんが」

「それは名誉な事だわ。でも警護だなんて……」


 葡萄は軍神下使徒の中でも任務必達度が群を抜いている。

 出来ませんでした、無理でしたと口にしたことは一度もない。

 任務超過はあれど、任務不完遂はこれまでなかった。

 命じた事は、石にかじりついてでも達成してくる。

 その彼の根性を見込んでユージーンは葡萄を指名したのだろうが、廿日は万が一にも、葡萄の命と引き換えに少年神の生命を守れという意味ではない事を願うばかりだった。


 葡萄は随一の武闘派だが、最強の使徒という訳ではない。

 警護に当てるのなら、本当は着任したばかりの鏑 二岐こそ相応しい。

 彼女は文句なしに軍神下最強の使徒と言えるだろう。

 だが彼女ではなく、葡萄を指名した理由に特別な意図があるのだろうか。


 葡萄は向こう見ずな性格で、任務の為なら簡単に彼の命を投げ出してしまうであろう事は、ユージーンもよく知っている。

 ユージーンが葡萄を危険な戦地に派遣するたびに、廿日は彼の無事が心配だった。

 ユージーンが葡萄を信頼して派遣するのではなく、使い捨ての鉄砲玉として使っているのではないかと、口には出来ないがそう思った事もある。

 幸いにして葡萄は今日まで生きながらえている、だが、これから先はどうなるか分からない。


 神は使徒達にとってまさに雲の上の絶対的存在で、その命令に叛く事はとても出来ないが、とりわけ使徒階最下層の住民から第五使徒にまでの昇進を許された葡萄が、彼を見出した彼に感じる恩は、並々ならぬものがある。

 葡萄は文字通りユージーンを神格化しているし、上司と部下というビジネスライクな関係ではいられないのだ。


 そんな熱烈な信者である葡萄を少年神の警護にあてるユージーンの真意を、廿日ははかりかねる。

 待望の子供達の顔を見ることなく殉職なんて事にならなければいいのだけれど。


「その神様は、危険な状況に?」

「そういう事、なんだろうな……お若いのに不憫な事だ。とにかく以御さんに呼ばれたら藤堂様の警護と身の回りのお世話に入るよ。でも出産には立ち会えるよう、かけあってみるから」

「あなた、気をつけて」


 フライパンにかけていたポークソテーの火を弱くして、ふたりは台所でも構わず熱いキスを交わした。

 もう一刻でも、愛を確かめ合う事に我慢ができなかったからだ。



 比企は大坂大学の錯体化学研究室に、嫌がる荻号を無理やり連れて戻ってきた。

 荻号 正鵠は地球という病んだ球体をまるごとフラーレンで浄化するという仕事を終えて、また暫くの間、彼が成すべき事を見失ってしまったのだ。

 比企が何をするのかと問えば、また深刻な事態が起こって力を必要とされる時まで、一万年後の世界を満喫しつつ日本で借家かアパートを借りて、三年後の有事までのんびりと気ままに暮らしたい、と言うのだ。

 荻号は三年後に風岳村で起こる、彼にいわせるところの大イベントを知っているので、日本で暮らしたいというのは風岳村の様子を観察できる距離に居たいという意味なのだろう。

 早速隠居暮らしをして暇にしている場合ではないから、と、早くもサボりたがる荻号を連れて研究室に帰ってきた。


 正鵠に有機合成の心得があるとはとても思えないが、遊ばせるよりましだ。

 陰階神として生きる事、神としての責任と権利を放棄した彼を鞭打って、有無を言わさず連れて戻ってきたのだった。

 比企はユージーンの電話が入ってより宴会を中座してしまったが、相模原達は既に出来上がってしまっていたので、今日は徹夜で居残って実験をしている学生もいない。

 荻号は実験器具を手に取り、中に入っている液体のにおいを嗅いだり、学生の実験ノートをパラパラとめくったりしていたが、何故こんな所に強引に連れてこられなければならないのかを抗議することも忘れなかった。


「お前はどうも、根本的に勘違いをしている。俺は無償で働きたがっている便利屋じゃないんだ。何故お前ごときに指図されなきゃならん」


 荻号は一刻も早くこの場からいなくなってしまいたい、と思っているのだろう。

 早くよい不動産物件を探して、のんびりと暮らしたいとみえる。

 比企は全く興味がなさそうに腕組みをしながら研究室を見渡している彼の力を借りるには、どうすればいいものかと思案をめぐらせた。

 どうやら彼の性格は荻号要と根本的には変わらないらしいが、荻号要に輪をかけて責任感が希薄だ。

 太古の時代にいた彼にとって、未来の出来事に対してはどこか他人事のように思っているのだろう。


 現状を克服するだけでも骨が折れる仕事だというのに、荻号 正鵠の望むような未曾有の危機などそうそうはあってたまるものか、と比企は思う。

 それに生物階に猛烈な勢いで広がりつつある感染症だって、一般的な神々の思考回路からしてみれば立派なエマージェンシーだと思うのだが……。


「日本では不動産屋は朝にならんと開かん事になっている。時間を余らせているなら有意義に使ってもらう。どこに逃げても同じだ。逃がしはせん」


 荻号 正鵠はどこに逃げようが、これほど強大なアトモスフィアを纏っていると、どこに居ても比企にはバレバレだ。

 そして超空間追跡転移を使いこなす比企をまいて逃げる事も、実際に難しい。

 比企はエバポレーターとナスフラスコを覗きながらてきぱきと次のステップの準備をしている。

 荻号はそんな比企に向かってあてつけかと思うほどの盛大なため息をつくと、合成経路を示したメモを渡されて仕方なく流し読みした。


「まったく何でこんな事になるんだ……? 理解に苦しむ」

「グチグチ言うな、往生際が悪いぞ」


 荻号がこの期に及んで文句を言っている。

 だが彼は合成経路を検討させられる羽目になって、嘆いたのではなかった。


「バカ言え、俺は往生際はいい方だ」


 自殺願望の強かった彼は命の危険を顧みず、望むところとばかりに神体を一万年も凍結保存されてしまったのだから、往生際が悪いとは確かにいえなかった。

 彼が言いたかったのはそんな事ではない。


「何故こことここの中間体をだ、まとめて反応させないのか理解に苦しむと言いたかったんだ。普通そこは省くだろ、常識的に考えて」


 荻号は比企のスキームに駄目出しをしていただけだった。

 彼は共有パソコンのデスクトップ上に立ち上がっていたHyperChemハイパーケムという3D創薬アシストソフトに興味を持ち、ヘルプを見ながらモデリングと分子設計を行う。

 黒いバックグラウンドの画面に、3D表示された化合物をスクロールでくるくるとまわしながら、パラメータをいじり、MolBlouserモルブラウザを同時起動して立体構造を確認、高分子をドッキングさせ分子軌道をはかり、そこから導き出された合成条件をさらさらと研究室のコピー用紙にメモした。

 プリントアウト機能に気付いて結果をプリントアウトすると、彼は文句を言いながら研究室の長瀬のデスクに刺さっていたドラえもんのついている青ペンで青ペン先生のように比企の組み立てていたスキームをざっくりと添削し、比企につき返す。

 比企がメモに気を取られている間に、逃げようとしているのだと気付いたので逃がしてなるものかと荻号の聖衣の裾を掴んでいた。


 正鵠は”常識的に考えて”と言うが、なかなか彼の”常識”に至るのは難しい。

 荻号が添削をした経路に変更すると、二つの化合物を同時に合成する事ができた。

 つまり2日は時間を短縮できるのだ。

 誰かがこの自由人(神)の首根っこをひっ捕まえて真面目に働かせる事が出来れば、三階は随分と助かることだろうにと比企は嘆かわしく思う。

 あるのに無駄に持て余す才能ほど、無駄なものはない。


 荻号はいかにも”働きました”というように自分で自分の肩を揉むと、席から立ち上がった。


「ほら、もういいか。もう行くぞ」

「どこへ行く。不動産を探すのはいいが戸籍がないだろう。一万年前ならいざ知らず、現代の日本では身元不明者が家を借りる事は出来んぞ」


 比企は荻号の足元を見るかのように底意地悪くそう言うと、案の定、彼は面食らったような表情をした。

 そんな彼の困惑した様子を、比企は見逃さなかった。


「戸籍と経歴を用意させ、不動産屋に連れて行ってやる。その代わりこちらの化合物のスキームも検討しろ」


 荻号はため息をつきながらも、好みの物件の条件を付け加えるのを忘れなかった。

 神が神階を離れ借家で賃貸暮らしをするなど、聞いたこともないが荻号は人間のような暮らしを望んでいる。

 どうやって家賃を払うつもりなのか、など考えてもいないのだろう。


「庭付きの一戸建ての借家がいいな。南向きのだ」

「……」


 荻号要は薬草畑を作って珍しい植物を育てたり交配させたりする、まるで中世の魔術師のような神だったが、やはりアルティメイト・オブ・ノーボディが荻号 正鵠の性格と行動様式を模して演じていただけなのだろう。

 薬神を廃した比企が薬草園を作って有用植物から天然化合物を抽出し創薬に応用するというスタイルを今でも維持しているのも、多少は荻号の影響を受けたといえる。

 荻号が植物を栽培できる庭付きを要求するのは、きっとそういう理由だ。

 この無駄に持て余している才能を、宥めてすかして余すところなく搾り出して利用しなくては、と比企は決意したのだった。

 荻号は器用にペンを指の間で回しながら、ふてぶてしく比企の書き付けた膨大な量の資料に目を通している。


「なぁ。お前の師だったらしい俺のそっくりさん。荻号要って奴はどんな奴だったんだ?」


 荻号は築地の机の上に足を投げ出しながらスキームに目を通し分子設計ソフト上に”新しいファイル”を作った。

 座り方から話し方まで、まったく、荻号要にそっくりだ。

 彼はまともに椅子に座る事ができない、背骨がないのかと思うほど寝そべったようにだらしなく腰掛ける。

 喫煙の嗜好はないらしい。


「謎の多い神だった。いや、神ですらなかったのだ。何年生きているとも知れなかった、覗けば戻ってくる事が出来ない底なしの沼のようだ。そして荻号の謎に近づいた事の代償からか、実際にこのような未曾有の事態を招いてしまったのだ。己は真の敵を知ったが、あまりの敵の途方もなさに竦む。荻号はそんな敵の脅威から、長きに渡り庇護してくれたのだろう。神階は親ばなれをしたのだ、子らは親を失って初めて親の存在の大きさに気付いた」

「なんか気持ち悪い奴だったんだな、そんな奴と同一視されるなんざまっぴらごめんだ」

「半分同意はしておこう、だが己は尊敬もしていた」

「だから俺はそいつではない」


 荻号はそう言って、比企のスキームを真っ青に添削して彼に投げて寄越した。

 彼は泰然自若として、物事を難しく考えすぎない。

 比企の提示した堅実な合成経路は単純な発想に置き換えられて、しかし一見生成物の想像がつかない、目を見張るような中間体を経由するものだった。


「そうやった方がクラスターの電荷とポテンシャルエネルギーが釣り合うだろ。したがって生成物はこうなる」


 理解が追いつかず、面食らっている比企に、わざわざ解説をしなければならないのかと億劫そうに銅色の頭をかきながらも、一応説明をしてシミュレーション結果をプリントアウトする。比企は納得し、ただただ彼の非凡さというものに感心した。


「見事だ」

「荻号要がいなくなって、お前ら自由になったんだろ? 過保護は時に足枷となる。神々は長きに渡り、彼の存在に甘えて思考停止していたらしいな。居心地のよいシステムの内に守られ、飼われて呆けていた。……安穏とした顔でな。錆びた檻から解き放たれたのに、何故嘆く必要がある」


 比企は手を止め、彼の言葉に耳を傾けた。

 彼の言葉は比企の頭の中に浸透するように、ゆっくりと流れ込み満たしてゆく。


「しかし、神々は生物階に責任を負っている。守らねばならない、何に代えてでも」

「何故、生物階だけに固執する? 生物階には目をかけて、解階を見捨てるのか? お前の使命感と責任感は本当に、お前自身のものか? ……つまりそういう事だ。お前たちは、そういう風に教育されたんだ、神々は自己を棄てさせられ、システムに組み込まれてしまったんだ。お前の慕う、ママだかパパだかの意思にのみ従うように教育されてしまった」


 比企が織図の記憶を看破した時から、考えてもみなかった訳ではない、あるいはアルティメイト・オブ・ノーボディの意思に従う事が本当に正しいのかという思いはあった。


「自己を取り戻せとは言わんよ。神々を啓蒙しに、過去からやって来た訳じゃないからな」


 荻号はフラーレンをシザーケースに似た革のポシェットから引っ張り出し、また一枚一枚彼の気の済むように並べてタロット占いをしている呪術師のようだった。

 比企はしかし、少なからず啓蒙されずにはいられなかった。


 正しい事はこうあるべきと創り上げてきた信念そのものにガイドラインが存在していたなど、受け入れがたい事だからだ。

 だがガイドラインをなぞるようノーボディに巧妙に仕向けられているという事だけは、どうやら確実のようだ。

 そしてノーボディを妄信するユージーンと、Anti-ABNT 抗体の子供の存在。


 荻号は三年後の風岳村で、どう動くつもりなのか――。

 邪魔をしようなどと、思わなければいい。比企は不穏な陰が頭の片隅に落ちるのを感じていた。

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