第1節 第51話 Mother's rebellion
「あなたは……荻号殿!?」
「ん? お前らは何で雁首そろえて俺を荻号と呼ぶかな?」
ナターシャ=サンドラが幽霊でも見るような目で、今しがた光のショーを終えたばかりの呪術師をそう呼んだのも無理はない。
彼は誰の目から見ても旧陰階神第4位 闇神、荻号 要にしか見えなかった。
姿ばかりではなく仕草や佇まいもまるきり荻号そのもの。
一方のユージーンはそうではないと疑ってかかったので、大胆にも至近距離からのマインドブレイクを試みた。
彼は敏感に看破の気配を察してユージーンを振り返り、彼より一瞬早くマインドギャップを展開すると同時にマインドブレイクを開始した。
電光石火の攻防によって心層看破力と心層防護力はほぼ拮抗し、結果何も見えないという状況に落ち着く。
至高者達の沈黙のやり取りは一瞬のうちに、他の二柱には秘密裏のうちに決着し、お互いの出来のよさに口元を綻ばせる。
彼はユージーンを咎める事も敵意を抱くこともなく受け流す。
二柱のやり取りに気付かなかったナターシャが何か口を挟みたそうなのを制して、織図は彼に事情を説明する
「今から6000年ほど前にな、発音できない神名を生物階の言語に置換するって制度が始まったんだ。現在では日本語が採用されていてな、置換するとあんたは荻号 要って名前になるんだ。そして実際にあんたによく似た奴が居た」
「へえ。じゃあ別に荻号 要じゃなくてもいいだろ。俺は荻号 要ではないし別神だからな。彼と同じ役割を求められても困る」
不吉な光を脱ぎ捨てた超神具 フラーレンC60(Fullerene carbon sixty)を指先で操って、彼は一枚ずつ呪符を回収しはじめた。
呪符はよく仕込んでおいた飼い鳥のように、カナリア色をしたそれらは一枚ずつ整然と彼の手元に戻ってくる。
一枚ずつ回収しパラパラとめくって数を数え、彼の気の済むように揃えて腰にぶら下げたシザーケースに収めた。実に満足げな表情でだ。
そもそもこの神具も、彼が生きていた太古の時代には実戦で使用されるどころか、起動すらする機会はなかったのだから。
誰も彼に挑みかかる殊勝な神すらいなかった、結果彼は退屈を持て余した。
彼にとって現代という世界は巨大な遊技場のように映っている、誰にも咎められず思うままにこの神具の性能を発揮する事ができるのだから。
「あんたが荻号と呼ばれたくないのはよく分かった。じゃあ何て呼べばいいんだ?」
どうしても何か呼称が欲しい織図が荻号要に代わる彼の名を要求したので、日本語に堪能な彼はほんの僅かばかり考えると、すんなりと名前を決める。
本名と置換名はそもそも自身で名づけられるものではない。
命名法という法則に基づいて法務局の公務員によって名づけられるものだ。
だが彼は現代の神階の規則などお構いなしだ。
「荻号 正鵠」
「何だ、結局荻号さんでいいんだろ」
織図は荻号 要ではないと分かっていても、再び荻号と呼べる存在が現れ、どことなく嬉しさを隠し切れないようだった。
それは嬉しくもなるだろうな、とユージーンも思う。
放浪して二度と帰ってこないと、二度とは会えないと諦めていた親友と瓜二つの存在が帰ってきたのだから……。
「俺は荻号 要の”代わり”じゃないからな」
核心を突くという意味で”正鵠を射る”という言葉があるが、まさに彼の言うとおりだな、と織図は思った。
彼に、荻号 正鵠に荻号 要の面影を重ね合わせてはならない。
この瞬間に自らを荻号 正鵠と名づけた彼が蘇った経緯はこうだ。
ノーボディが去り緩やかに解凍された後、基空間内にある荻号要の研究室の地下で目覚めた。
打ち棄てられた冷凍庫から這い出すと、長き眠りから覚醒した彼に与えられたのは雑然と並べられた膨大な量の書物や映像の山の贈りものだった……。
ノーボディは彼の神体を凍結した研究室の一角に未来にタイムスリップを果たした彼が必要とするであろう知識を残して去った。
枯れ果てていた土壌に注ぎかけられた水のように、それらは覚醒した闇神に綿密で濃厚な1万年分の知識を与えた。
無類の読書家で勤勉な性格のためか、古代の神々をしてこの世の全てを知り尽くしたと讃えらえた彼も、あまりにも長いブランクを経て知識に飢えていた。
無知である事の羞恥は彼にとって懐かしい、しかし歓喜すべき感覚だった。
彼はノーボディがわが子に与えた書物を手にとって読み解き吸収し学び取ると、彼の生きた時代においては決して知りえる筈のない言語を意のままに操る事が出来るようになり、1日単位で彼が眠りについた日から現在までの歴史のあらましを鮮明に辿る事が出来た。
だがそれと同時にノーボディは彼に、さる陰階神としての役割を担わせようとしていたのだと、察しのよい正鵠は勘付いていた。
このまま漫然と神階に戻っては望んでもいない役割を負わされる。
彼は陰階神として神階に戻り、ノーボディの巨大な計画のひとつの歯車として組み込まれる事を危惧していた。
荻号 正鵠は彼が願ってやまなかったように、彼の力を欲し、助けを求める窮者や弱者達の力になりたかっただけだ。
誰かの身代りとなってノーボディの思惑通りに動くなど真っ平御免だった。
そして彼にはノーボディの善性すら疑わしいものと思われたのである。
ノーボディは研究室に放置した端末を通じて正鵠にメッセージを送った。
創世者の存在に驚きながらもノーボディと何度か対話を重ねるうち、正鵠は彼、あるいは彼女の利己心というものに気づきはじめた。
ノーボディは神階の、そして生物階の遍く生命の足枷になっていると考えたのだ。
確かにノーボディが居たからこそブラインド・ウォッチメイカーの脅威から生物階と神階は庇護されてきた。
だが彼、あるいは彼女の意思に随う事が三階の発展に繋がるかというと疑問符が付く。
正鵠の死生観のうちでは、世界の滅びと再生は自明の理だ。
滅びがあるからこそ、生命は生きる力を喚起される。
死も滅亡も再生と成長、進化の母だ。
危機に瀕するからこそ、生命はそれを回避しようと自ら進化する事を選択する。
だがノーボディがデザインする平和な世界は、実に退屈で怠惰な世界となりやがて退化に転ずることだろう。
ノーボディはある一面では、慈悲深い創世者であるのかもしれない。
だが創世者にはそもそも感情など必要のないものだ。三階の生命に支配者も保護者など必要ないと、彼は思うに至った。
ノーボディは三階の滅亡を回避しようとしているのだろう。
勿論意図的に三階の滅亡を目論むブラインド・ウォッチメイカーの計略は断固として阻止する必要があった。だから荻号正鵠はこう考えたのである、滅ぼすべきはブラインド・ウォッチメイカーとノーボディであり、意思なき創世者INVISIBLEの管理に統括されるのが理想的だ。もの思わぬ創世者、INVISIBLEこそが三階を統合するに相応しいのだと。
彼は生命をいみじく思う事もなければ、神に特定の生物を支配、管理させる事もない。特定の神の裡に収束し、絶対不及者として世界を観察する事はあるが、彼は何を思う事もなくただ世界を内側から観察しているだけで刺激をしたり害を与えたり、誰かが挑みかかったりしなければ必ずしも破壊を齎す事はなく、実に無害な存在だと考えていた。
殆どの神々が怯えるように、闇雲に怯えられなければならない存在ではない。
生物は対等だ、創世者達によってその尊賤や聖俗が決められるべきではない。ありのままの世界とは創世者の意思が一片も介入しない世界であるべきなのだと。正鵠は三階の生物にとって本当に必要、かつ理想的な創世者の立場はゆりかごや救いの手ではなく、無情なまでの中立性だと考えた。これは荻号要とは決定的に相容れない、彼自身の理念だ。
勿論、ノーボディの協力者であるユージーンにこの考えを看破されるわけにはいかない。表面上はノーボディに随うと見せかけなければならないが……。
*
「荻号殿。現状をご説明しますのでご協力をお願いいたします」
「いや、説明はいい。さっき織図に教えてもらったからな」
協力を求めるべくユージーンは荻号に状況報告をしようとしたが、あっさりと話のこしを折られてしまった。
ユージーンはもう実際のところ、荻号の特異な能力と古文書にすら記されていない未知の機能を備えたフラーレンC60に縋るしかなかった。
荻号は別に彼を槍玉にあげるつもりはないのだがユージーンをちらりと睨んで、彼の失態と対応のまずさを非難した。
「しかし俺が出てこずとも、こうなる前に対処できたろうに。特にお前は力の持ち腐れだ」
ユージーンは出会い頭にしかも初対面で教育的指導をくらってしまったが、彼の言う通りの失態だった。ナターシャは一生懸命やるべきことをやってきたユージーンを責めなくともいいのに、と彼を庇う。
「ユージーン様は真剣に対処に当たっておられました。そんな言い方をなさらなくとも」
「そうだな、真面目にやったんだろう。だが目先の事にとらわれて方策を見失っている。漫然と奪った命は、決して浮かばれはせん」
「返す言葉もありません」
耳の痛い話だった。正座をして話を聞かなければならない。
日本でいうと縄文時代に相当する太古からやってきた神に、至って常識的な見地から説教をされているのだから妙な気分だ。彼が目を覚まして来てくれなければ、ナターシャもユージーンもまだ罪もなき者達を力尽きるまで際限なく虐殺するしかなかった。
「まあ何にせよ、あんたが神階に戻ってきてくれてよかった」
織図が持ち前の馴れ馴れしさで手を伸ばして、荻号の肩を組んだ。荻号はぎょっとしたような顔で華奢な肩の上に無遠慮に置かれた褐色の手を見遣ったが、特に拒絶の意思は見せなかった。
「神階には戻らん。俺は一万年以上も前に消息を断った、今更復帰も何もあるまい」
「しかしあんたの力が今の神階には必要なんだ、そう言わずに戻って来てくれよ」
「何かをしてほしい時は、懇願する必要はない。ただ頼め。望まれれば力を貸す」
彼はそう言い残して織図の手をするりと擦り抜けると、どこへともなく立ち去ろうとした。いつも自由でありたいと願った彼は、拘束される事がたまらなく嫌いだ。神々が群れ集い、生物階に傲慢に振舞う神階という組織に辟易していたというのもある。
未来にまで来て神々の指図を受けたくないといったところだろう。
ノーボディが神々の結束を高めるためにプログラムし殆どの神々が持ち合わせている、組織に所属していたいという欲求を、どうしたことか彼は持っていない。
彼はとにかく十人並みの神々とは異なる、いわゆる変神だった。
ナターシャはこの言葉を聞いて、彼が異常な価値観の持ち主なのだという事をはっきりと認識した。
彼は望んで堕神(神階を追放された神)になろうとしているのだから、それは陽階神の立場からすれば切腹ものに値する実に不名誉だ。
「どこへ行くのです? 解階の貴族達がどこにいるのか、ご存知なのですか?」
彼女は彼の為にも荻号の神階からの離反を引き止めたかったが、耳を貸す気配もなく、彼は背を向けてしまった。誰も荻号を説き伏せる事の出来たものはなかった、今までも。そして今もそうだ。
「やりようはある。フラーレンは閉じた球体の作用フィールドを持っているんでね」
「へっ、相変わらず気楽なもんだぜ」
「相変わらずって、織図様は彼と面識ないじゃないですか」
ナターシャは口を尖らせた。織図はそうだった、と気まずそうに頭をかいて、こんな事を言ってその場を取り繕う。
「いーんだよどっちでも」
荻号要でも荻号正鵠でもやる事はきちんとやってくれるだろうという事だった。
だから荻号 正鵠に要の影を重ねてはならないのだ、と。
「わたしは未熟者でした……大変な失態でした」
ユージーンにとっては反省すべき点が多々あった。
荻号に頭を冷やされた。
アルシエルをして神皇と呼ばしめ神階の牽引者としての期待と責任を負った身でありながら、プライマリ・コピーでもない大先輩に冷や水をかけられる始末だ。
「何を今更。周知の事実だろ。だがお前が全て背負い込む必要なんてねぇんだ。お前にも出来ない事がある、それを認めろ」
「皆さん。希望が見えてきましたね。少しだけですけど」
ナターシャは前向きに物事を考えようとする。
「存在自体が追い風のようなヒトだからな」
ナターシャも頷き、織図の言葉に同意する。
「でも、どこへ」
荻号は解階の貴族達を正気に戻すために、どこへ行ってしまったのだろう?
地球上のどこに居るのか、さっぱりと分からないというのに……当てでもあるのだろうか。それは出来ない筈だ、とユージーンは首を振る。
フラーレンC60は放射状の”開いた”作動領域を持つ相転星とは異なり、領域が球状に閉鎖された、いわば”閉じた”神具だ。
だからどこに居るとも知れない解階の貴族達を虱潰しに捜してゆき、フラーレンを発動させ領域内に閉じ込めて洗脳するにはかなりの時間がかかる。
その間に解階の不法ゲートからまた流入が始まる。
対症療法はできてもそれはもぐら叩き式で、根本的な対応策などないと思うのだが、荻号は実に安穏とした顔をしていた。
まるで労せずしてこの事態を解決する方法がある、とでもいった具合に余裕綽々で……。
物事を難しく考え過ぎるな、存在を疑えと、荻号 要(ノーボディ)が日ごろから口にしていた言葉をユージーンは思い出す。
荻号正鵠はフラーレンC60の閉じた領域を利用して何を、見せてくれるというのか?
「それにしても荻号様は所在情報もなく、どうやって……」
ナターシャがその疑問を口にしたのと、夜空に一筋の閃光が走ったのはほぼ同時の事だった。
そして夜空を二分するかのような真っ直ぐに迸った光の直線は、先ほど目の当たりにした光の一辺に見紛う事もなく一致していた。
夜空に煌く一筋の光は、まるで希望への道のように優しく力強い蛍光を放っている。
彼、荻号正鵠は地球を巨大なネットで包み込むように、フラーレンC60で囲んでしまったのだ。これは相転星には不可能な所業である。
地球は球形をしているのだから球形の中に入るという発想。
光の一辺は数千キロはあるだろう、閉じた領域を持つ神具の特性を、最も鮮やかな方法で応用した結果だった。
実力者のなせるわざ、まさに最適解がこれだ。
「まったく……かなわんな」
織図はぷかりと煙管に火をつけて腕組みをした。
”予想通り”、彼は織図の予想をあっさりと裏切る。
予測不可能、言動も奇妙奇天烈、だが彼は常に一手、二手、いや百手ほど先の遠慮深謀を持っているかのように感じられるのだとナターシャも思い知る。
ノーボディが実在した神として最初で最後の依代として彼を選んだ理由は疑う余地もない。
それだけの器が彼にはあったからだ。
荻号 要の超越者たる所以はノーボディを宿していたからではなく、ただノーボディが荻号 正鵠の真髄を余すところなく演じ切っていたためだった。
ノーボディありきの荻号要なのではなく、荻号正鵠ありきの荻号要だったのだと。
織図とユージーンは、驚きをもって、信じがたい事実を受け止めるしかなかった。
*
「済まない、極陰。今戻った」
ヴィブレ=スミスが大本営を去って55分後、1時間もは空けないと約束した通りに再び恙無き姿を現した。
集っていた神々も極位の健在を確認してほっと胸をなでおろす。
ヴィブレ=スミスの昨今の支持率の低さがいかに指摘されていようとも、やはり主神としての度量は誰もが認めるところのものだった。
その彼が非常時に長く姿を消すと神階が混乱し、生物階に降下している神々の士気を下げる事となる。
白衣に身を包み、珍しく緊張感のある顔をしていた極陰 鐘遠 恵も、彼の姿を見てほっとしたように煌びやかな装飾の付いた指揮権の所在を示す杓杖を放り投げ、主神は神階の指揮権を返還された。
「野暮用は済んだか?」
「ああ」
彼は極陰の尋問を簡単に受け流して、執務にあたろうとした。
だが彼女は彼の目の前に凛として立ちふさがって、主神の立ち位置であるコンソールを譲ろうとしない。
どけと言う訳にもいかず、極陽は極陰の眇めた視線を受け止めた。
「藤堂 恒を、助けに行ったのだろう? あまり妙な行動を取ると疑われるぞ。藤堂 恒と汝の間に、何ぞ関係があるのかと……な」
「杞憂だ」
「ほう……そうか?」
彼女はモニターを見ながら、ほくそ笑んでいた。
彼女はなかなか勘がいい、極陽はわざと気分を害したように見せかけながら席を空けていた間の情報の収集に努めた。
「しかし困った少年神だ。どこにも行かぬよう、どこかへ繋いでおけ。後でしかるべき処罰を与えるべきだ」
「処罰なら与えておる」
事実、極陽は実の息子を手錠でベッドに繋いできたところだった。
ユージーンが恒を連れて帰ったかもしれないが、暫くは生物階降下は自粛するだろうし、少しは懲りただろう。
軍神下第一使徒によって執務室に厳重に監禁されると推測される。
安全な場所にいる恒の事に思案を巡らせている場合ではなかった。
決して好転しないとは見越していたものの、事態はますます悪化する一方だ。
極陽がため息まじりの吐息をついた時、有為 枝折のナビゲートをしていたリジー=ノーチェスがはっと目を見開いた。
「スミちゃーん! 生物階に変な神が現れたのー! これってぇー、要ちゃんに激似なんだけどぉ。ちょっち違うみたいでぇ。リジィちゃん映像送って」
「な! インフィニティー・ストリングスが……切られておる……」
荻号かもしれない、とかつて荻号に幾度となく大切な神具の弦を切られ続けてきたリジーは妙に懐かしく感じた。
リジーは指先と肘で弦を手繰って絡めとり解像度を上げると、薄紅色のカードを束ねて扇のように拡げ持つ細身の神の姿が映った。
確かに容貌は荻号に瓜二つといっても嘘ではない。
だが首を傾げたくなるような少しずつの違和感がある、荻号のようで、荻号ではない。
ヴィブレ=スミスはリジーによって巨大モニターに転送された映像に目を凝らしたが、彼の顔には見覚えがないし荻号ではないと結論付ける。
兄弟というとひょっとするとそう言えるのかもしれないが、同一人物ではあり得ないと思ったのだ。
「まあよい。我々に害なす者ではないのだろう」
「それがぁ! その神が何か始めちゃったのー」
「大した事ではあるまい、構うな。映像を元に戻せ」
神々が彼の業に心を奪われて硬直してしまったのは、極陰がこう指示したわずか1秒後のことだった。
*
比企はまだ起動した状態の懐柔扇の細い柄を握り締めたまま、三本の光の直線が120度の鈍角を為して会合する幻想的な夜空を見上げていた。
群れを成して襲い掛かってきていた解階の貴族達がバタバタと倒れ始めたので、何事かと周囲を見渡して気付いたのだ。
オーロラを初めて見上げた、子供のような顔で比企はその見事な業に懐かしい者の存在を思い出し、膨らみかけた希望を否定するように首を振る。
あんな別れ方をしてしまったのだ、例え目の前で起こったあの消滅が夢だったとしても、もう二度と自分の前には顔を見せてはくれないだろう、と彼は諦めていた。
この業は、誰が行っているのか?
比企は足元に倒れたひとりの貴女がぴくりとも動かず、しかし呼吸だけはしていてよく眠っているのを確認すると、鄙びた懐中時計を取り出した。
合成の次のステップまではまだ5時間ほどある。
確かめに行って、そして戻るには不可能ではない残り時間だ。
誰とも知らない、この業を成した者を突き止めに行かなければという一心だけで、比企はなぞるようにアトモスフィアを辿った。
転移はいつものように一瞬だったが、比企はややあって目を開いた。
現実を受け入れる用意に、いささかの時間を要したからである。
「まさか……そんな……」
だがやはり、という思いはあった。
いつもの特徴的なシルエットが、月夜に影を落としている。
彼の至近距離に転移をしていた比企は、彼を逃さないようにする為か、無意識のうちに手を伸ばして彼の腕を掴んでいた。
そして比企は彼がまだ一言も発しないうちに、先手とばかりにひとまず謝罪の言葉を並べ立てたのだった。
「また再び会える機会があるとは思わなんだ。己はあなたに謝罪をしなくてはならない。あなたが神階を去ってよりこのかた、ずっと悔やんでいた。己が間違っていたのだ。無条件に己が間違っていた……すまなかった。己は傲慢で、一方的で、愚鈍で、稚拙過ぎた。あなたなしに、三階は立て直せん。あなたの神階への復帰を乞いたい」
比企の暑苦しい言葉を右から左へと聞き流し、また例の人違いなのかと、これで三回目も人違いをされてしまった彼は古紙回収業者のようにせっせとフラーレンを片付けながら、うんざりしたように鼻息をついた。
そっくりさん、荻号要はどんな人物だったのか。
正鵠も不安になってきた。
怨みをかうような人物だったのならあまり有り難くないのだが、出会い頭にこれほど立て続けに謝罪をされるというのは、一体どんな状況だ?
話の脈絡から想像するに、荻号要はこの神によって神階を追放されたという事になる。
神階を追放されようが、もう二度と神階に復帰をする意思のない正鵠には関係はない。
だが不名誉な去り方、誰かに憎まれるような去り方をしたというのなら話は別だ。
「お前誰だ?」
それは荻号が消滅してより後悔の余り一睡たりともできなかった比企にとって、残酷過ぎるほどに冷淡な問いかけだった。
彼は比企を知らないのだ。
彼がかつて敬愛し、懐疑し、憎しみ、そして再び慕ったあの陰階神はやはりあの日、消えてしまったのだ。
幻は幻でしかない、幻を追っていてはならないのだと彼に教えられたような気がした。
比企の目にはどうしても彼が荻号要としか映らなかったのだが、違うと否定された上は踏ん切りをつける。
比企の失望に歪んだ顔が、またいつもの鉄面皮に戻った。
「これは失礼した。どうやら他人の空似だったようだ。お初にお目にかかる。己は比企 寛三郎と申す、陽階第二位に叙する者だ。興味深い業を拝見したので、見参に入った次第だ」
「荻号 正鵠だ。肩書きはない」
その頃にはようやく、荻号は比企にマインドブレイクをかけていて、ああ、彼は荻号要の弟子だったのだな、と事情を察した。
この神は荻号要を師と仰ぎ反目し、何かの契機があって再び彼を慕っているのだ。
だが正鵠は、比企の師である必要など何一つもなかったし、彼に対する義理立てもない。
彼等はただ初対面の者として互いに名乗った。
荻号にとっては何の感傷もない、だが比企にとっては過去の清算を促された忘れがたい対面となった。
*
恒が目を覚ますと、見覚えのある極陽の第二使徒が目の前にいて真上から覗き込んでいた。
先ほどユージーンが追い出したのだが、彼が帰ったのでまた入ってきたのだろう。
恒は思いがけず傍らに誰かがいて驚き、警戒してしまった。
「これは失礼をいたしました。私めは第二使徒、八雲 青華にございます」
「はじめまして。藤堂 恒です」
恒は負傷した腹部をかばいながら頭を起こし、ちょいっと目礼をした。
彼女はナースのような青い制服を着ていて、専門職の使徒のようだった。
色白で器量よしだが日本人やアジア人に近い外見をしていて髪の毛も黒く、恒は親近感がわいて何となくほっとした。
「処置をさせていただくのに、ご神体に触れてもよろしいですか」
「? 構いません。よろしくお願いします」
極陽とユージーンがあらかたの手当てをしたが、点滴や包帯の取替えに来たのだろう。
華奢な手で、麻酔の入った茶色の薬瓶を抱え持っていた。
怪我の手当てをするのに触れてならないも何もないと恒は思うのだが、第一使徒以外の使徒がアトモスフィアに満ちた神体に触れる事は許されない。
八雲はベッドの傍でひざまづき、感慨深そうに恒の腹部に触れ処置をはじめた。
彼女は心の底から畏れ多いといった様子でガーゼを替え、点滴を繋ぎかえている。
恒には彼女のマインドブレイクなど朝飯前だったのだが、体力がない今は敢えて行わない。
彼女は人間が神に対するのと同等以上の敬意を、恒に払っている。
響 以御が気さくで少々横柄だったので意識する事がなかった。
つい半年前まで人間の子供でしかなかった自分など尊敬するに値しない、そう思っていたのは恒だけで、一般的な使徒が神に擁く畏敬の念というものなのだろうか。
彼女は緊張のあまり手が震えていて、ワゴンから包帯を取り落としてしまった。
「も、申し訳ありません。……畏れ多くて」
「気をつかわないで下さい」
不思議だった。
彼女より明らかに年下で、そして知識も経験もない子供だというのに。例え赤子であっても神だというだけで尊ばれる。
神階はこういう社会なのだ。
少なくとも軍神と軍神下使徒は雇用関係にあり自分は社長のようなもので社員である使徒を格下だと思った事はない、とユージーンは言っていたが、それは民主主義と自由民権世代に生まれた比較的若い神の勝手な言い分であって、数百年を生きてきた大多数の使徒はまだ封建制度にどっぷりと身体が馴染んでいるらしく、神を崇拝の対象として祀り上げている。
特に極位の使徒などその最たるものだった。
恒はこうやって敬われるより、ユージーンの使徒達が恒に接する態度の方が好きだ、彼等は自由で伸び伸びと仕事をしているから。
「あなたはまだ神階にいらして間もないから、神様がいかなる存在かをご存知ないのでしょうが、使徒にとっては神聖で不可侵の存在なのです。どんな事情があろうと、気安く触れてその聖性を穢す事など出来ません」
恒は彼女の頑ななまでの態度によって神と使徒の間に隔てられた、埋められることのない距離があるのだと自覚させられた。
また、神である事の責任の重さについてもひしひしと感じたのだ。
短い彼の人生において蔑まれる事こそあれ、とんと尊ばれる事などなかった恒は、神として神階で生きてゆく事の言い知れない孤独感と窮屈さを体感する。
神はこうやって長い長い年月を生きてゆくのだ、使徒と神とを分かつ絶対不可侵の境界線の狭間の中に自らを規定し、人々や使徒の崇拝の対象となり理想となる事によって……。
だが彼女の態度を見ていると、畏れ多いというだけではないようにも思えるのだが、いらない勘ぐりなのだろうか。
「……何だか、そう言われると寂しくなります」
「も、申し訳ありません。差し出た事を申し上げました」
極陽の執務室の一室だと思われるこの病室は、打ちっぱなしのコンクリートがむき出しになっている。
極位の執務室とは思えないほど殺風景で、伽藍としている。
病室専用に使っているのだろうか? 50畳ほどの部屋の中にベッドが一つと、ビジネスライクなデスクが部屋の真ん中に居心地が悪そうにぽつんと置かれているだけだ。
それにこの部屋には、窓がない。
窓の代わりに大きな鏡が壁一面に備え付けてある。
天井は間接照明によって薄明るいが、不自然だった。マジックミラーなのかもしれないと、恒はようやくこの部屋の不自然さに気付いたが、例え隣の部屋から誰かが観察していたとしても、だからといってどうすることも出来ない。
恒は何も気付かない振りをして、さりげなく話題をかえた。
「そういえば、生物階の状況はどうなりましたか?」
「先ほど入りました情報によりますと、生物階に不法に侵入した解階の貴族達が解階に退散をはじめたそうです」
八雲はもう隠し事はしない。
先ほどユージーンが迎えに来たのをわざわざ断った時から、恒は自由意志でここに残っている事になっている。
執務室に戻って以御から聞くであろう情報は、隠し立てせずに知らせておこうと思っていたからだ。
「突然、何があったんですか」
「何者とは存じませんが、見知らぬ神が現れて……強烈なマインドコントロールをかけたのだそうです」
ノーボディの差し金だろう、彼女が盤上に出した宝石の暗示が現れたのだ。
彼女はただおはじきで遊んでいただけではなかったのだ。
彼女の援軍が間に合ったかとほっとして、ほっとすると同時にどっと疲れが出る。
これから生物階にはどんな運命が待っているのだろう。
彼女が場に出した宝石の暗示からいくと、解階の住民や生物階の人々も徐々に正気を取り戻してゆくのだろうから、あとは比企ら文型神が治癒血の成分を合成し、感染者に投与をすればいいというシナリオになっている。
少なくとも彼女はそう暗示したと、恒は思う。
そうなると、生物階は元通りとはいかないが治安は改善するだろうから、恒自身は命を狙われているとはいえ、いつまでも神階で足止めをくらわなくていいのかもしれない。
せわしく頭を働かせる恒を、彼女は隣でまじまじと見つめていた。
「神様、一つお尋ねしてもよろしいですか」
「? はい、俺にわかる事なら」
恒は大きな鏡面の向こうを気にしながら頷いた。
彼女も恒の視線につられて振り返って、恒がマジックミラーの存在に気付いていながら、特に指摘をしなかったのだと気付く。
「あなたは勘が鋭いですね。隣の部屋の鍵は、私が持っております。つまり隣の部屋には今は誰も居りません」
「あなたは俺を監視しているんですね」
彼女はあっ、と口を開いて息を呑んだ。全てお見通しというわけだ。
「そうです。どうして先ほど、ユージーン様とお帰りにならなかったのですか?」
「……それは」
何をされるか分かったものではないから残ってはいけないと、ユージーンには引き止められた。
極陽の使徒である八雲に説明できるような理由はない。
彼女は彼女の主に忠義を尽くす義務がある、うっかりと本心をぶちまけてはならない、極陽に筒抜けだ。
恒は口を閉ざした。八雲は踏み込んでくる。
「お父上と、お話をしたいのではありませんか? 真実をお知りになりたいと」
「俺と極陽の関係をご存知で」
「存じ上げております」
「……そうかもしれません」
長年極陽に仕えてきた彼女は、彼の犯した罪の深さを知っていた。
極陽の片腕であった彼女もどっぷりとその手を罪に染めた。
Anti-ABNT抗体を創出するプロジェクトにおいて、八雲はプロジェクトリーダーとして中心的な役割を担っていた。
彼女は極陽の罪に加担し、不幸な模造生命達を創出する手助けをした。
彼女は恒の誕生に関して、一枚も二枚も噛んでいるばかりか、プロジェクトの全容を知っている。
「我が主と私が、どれだけの業を背負っているか。長い間口を閉ざして参りました。ですが藤堂様、あなたには打ち明けておかねばなりません」
「背任罪を覚悟で俺に事実を明かそうとなされた事については感謝します。ですが俺は父の口から話を聞きたいと思います。父が俺を利用して殺そうとしているという事も知っています。それ以上、何がありますか。充分です、俺はもう覚悟は出来ています」
恒は八雲の告白を、八雲の口から聞いてはならないと考えた。
そして彼女からいくら謝罪を受けたとしても、それは彼女の意思による行為ではなかった。
彼女は実行犯ではあるかもしれないが、主犯ではないのだ。
やはり極陽の口から真実を聞くべきだ。
「……”人間の”遺伝子はあなたの母親のものですが、あなたの”神の”遺伝子は、私が設計したのです、藤堂様。確かに設計図をお書きになられたのは我が主にございます。抗体の設計を行ったのも我が主です。ですが、実際に”神の”遺伝子の合成を行った私には、設計図通りに作らない事も出来ました」
八雲は手の内に隠し持つようにして握っていたマイクロディスクを、恒が手に持っていたユージーンの携帯の中に差し込んで渡した。
人目を避けるように携帯の中に隠した様子からすると、相当に重要なものなのだろう。
「これは……?」
「あなたの御神体の設計図が入っています。神語ではなく英語で記してありますので、お読みになれますね。人間の遺伝子と神の遺伝子は発現ルールもCODE(暗号)も違います、ですが基本的にはそう変わりません。賢明なあなた様なら理解できましょう」
恒は携帯に差し込まれたディスクをわざわざ取り出して、裏にしたり表にしたりした。
盗聴器のようなものを差し込まれたのではないかと、不安になったからだ。
繰り返すようだが、彼女は極陽に忠誠を誓っている彼の腹心だ。
何をされるか分かったものではない。
恒は彼女に対する不信感が拭いきれずにいた。
「何故これを、俺に?」
「私はあなたの設計図の内に、我が主の御意思に従って自殺遺伝子を組み込みました。ですがこれでも子の親です。丁度あなたほどの歳で亡くした子供がいました」
彼女は恒に一枚の写真を見せた。写真の中には、病室のベッドに腰掛ける少年の姿が撮影されている。
それは茶髪と茶の瞳の、どことなく極陽によく似た顔立ちをした少年だった。
「遼生といいます。私は苦しみました。主の命に叛く事は重罪です……ですが私は抵抗を試みました」
彼女は恒に膝をついて居住まいを正し、その凍えそうな程に青白かった頬を紅潮させたように見えた。
彼女の真っ直ぐな眼差しが、恒に突き刺さる。
彼女は極陽の命に叛いて恒に何をしたのだろう。
恒は不安になって、ゆっくりと上体を起こした。
彼女は恒の遺伝子を組み上げたいわば第二の母親のようなものである。
彼女を突き動かしているのは慈母の愛か、それとも……。
「抵抗?」
「遺伝子発現阻害酵素、Anti-ABNT 抗体阻害剤|(Anti-ABNT Antibody inhibitor)および遺伝子組換え酵素を組み込んだのです。その酵素群が発現すれば、Anti-ABNT抗体のコードされた遺伝子領域を特異的に認識して遺伝子組み換えを起こしたうえ、コーディングシーケンス(CDS)を不可逆的に切断します。つまり、Anti-ABNT抗体及び関連酵素はその後何をしても、二度と発現しなくなるのです」
八雲はマイクロディスクに貼り付けていたシールを剥がした。
シールの裏側には薄っぺらい錠剤が一錠、貼り付けてある。
「ここに一錠だけ、AAA-阻害剤を誘発する薬剤が入れてあります。藤堂様、よくお考えになって、これをお飲みになるかお決め下さい」
彼女によって示されたその一錠は、恒の命運を左右する一錠となるだろう。
このたった一錠の錠剤によって恒の命は助かるというのだろうか。
これを飲めば、恒は全てから解放される。だが三階はどうなる?
「八雲さん……どうしてここまで。俺の為に」
「あなたが不憫だ、と申し上げたら不快にお思いでしょうか。私は、歴代の主神に受け継がれてきた貴重な検体、先代絶対不及者の不死化した体細胞と体液を保有しております。増殖せず、損傷を被っても死なない細胞です。培養を任されていた私はある事に気付きました。絶対不及者の細胞は、傷害を受けた時にだけ活性化され攻撃性を帯びますが、環境が穏やかであれば増殖もせず他の細胞を侵すこともしないのです。そればかりか、絶対不及者の体液はあらゆる病と傷を癒す、完全無欠の万能薬です」
恒は身を乗り出す。
「それが……?」
「悪の側面ばかりが強調されていますが、絶対不及者は本当に破壊のみをもたらすのでしょうか。絶対不及者の二度目の降臨の折に、彼は数カ月の間ではありましたが、天帝として神々や人々の営みを見守っていたそうです。彼は陰階神によって弑逆を企てられるまでは無害でした。私は損傷を被った絶対不及者の体細胞の攻撃性をよく知っています、Anti-ABNT 抗体を発動させ、彼を刺激しない方がよいのではないかと思うのです。そうすれば彼は穏やかに世界を見守っているだけなのではないかと……」
恒は傷が痛むのも忘れて、身を乗り出していた。
絶対不及者は必ずしも意思疎通のできない破壊者ではないのか?
彼と共生できる道はあるのだろうか。
恒、ユージーン、そしてノーボディがINVISIBLEに対して企てようとしている一連の計画は、全く無意味な事だというのだろうか。
ユージーンはこの計画で確実に命を落とす、だがもし彼が絶対不及者としてある程度INVISIBLEに意識を譲りながら、彼が彼として穏やかに生きる道があるのだとすれば……。
これで、誰もが助かるのだろうか?
INVISIBLEの意思に介入しない、ただ不干渉でいるだけで全てが平和に……?
恒はその誘惑に、勝てそうにない。
だがブラインド・ウォッチメイカーを滅ぼすにはどうすればいいのだろう。