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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第50話 Revival of the dead

 意識は深く眠りへと沈んでゆく。

 眠りにつく前に願ったからか、恒は夢の中で黄金の草原に出た。

 太陽はまさに沈もうとしていたが、まだ天球上に3つも残っていて、一つが沈んでもすぐ暗闇になるという事はなさそうだった。

 恒は筆記用具、筆記用具と念じながら眠りについたので今日はスケッチブックとペンを持ってきていた。

 前のようにチラシとチョークなどというものではなく、彼と会話をするには万全の態勢だ。

 求めていた相手はいつも分かりやすい場所にいてくれて助かる。


 今日の彼は草原の上にガラスのテーブルを置いて、その上で何かをいじくり回していた。

 盤の上には色とりどりのビー玉のような石の欠片が散りばめられ、それらをひとつまた一つと動かして一人遊びをしているようにも見える。

 恒は将棋を差している人を見学するように上から石の載っている盤を見下ろしたが、黒い盤に金色の幾何学模様が刻まれており、案の定盤上の文字は読めない。

 一人でボードゲームでもやっているのだろうか。


「こんにちは。恒です、また来ました」

 

 恒はテーブルに腰掛けようとしてある事に気付き、目を丸くした。

 正面からまじまじと見て気付いたのだが、彼ではなかった。

 ノーボディは若い女性の姿をしていた。

 細く白い肢体に透明な装束を纏い、シルクのようなきめの細かな肌をあらわにして、思いがけぬ美女の登場に、恒は気が引ける。

 胸はそれほど大きくはないが、それがかえって品がある。

 必要なのか必要でないのか、その身には沢山の装身具を身につけていて、重そうな金属音を立てていた。


 名も姿もなきものというだけあって姿は変幻自在のようだ。 

 よくよく思い出せば、前回恒が彼と会った時も少しずつ姿が変化し、顔の印象が変わっていたのを思い出す。

 前回会ってから随分時間が経ったが、その間にも少しずつ姿が変わってしまい、とうとう女性になったということなのだろう。

 恒はこちらの方が好きだった。


 トレードマークの金髪と透明な装束を着ているおかげで何とかノーボディだと判別がつくが、次は冗談ではなく犬や猫だったりしかねない。

 ペンを持った犬にスケッチブックを恭しく差し出し、ありがたい言葉を頂戴しなければならないという珍妙な状況も、それほど非現実的ではなく起こりそうだ。

 ノーボディは名を呼ばれ姿を規定化されると力を失うらしいので、恒の中にノーボディのイメージが固定化されてはならないのだろう。


「お時間をいただいてもよろしいですか?」


 彼女はおっとりと微笑んで着座をすすめた。

 肯定のつもりなのだろう。

 愛想だけはいいのが憎たらしい。


「生物階の現状をご存知ですか?」

 

 彼女は手を止めて意味もなく恒を見つめる、彼女にとっては何気ない視線でも恒にとっては息が止まりそうになる程美しく感じられた。

 三階の父として、または母としての品格を見せ付けられている。

 彼女の唇は元々の色なのか口紅を塗っているのか金色をしているし、瞼にも金色のアイシャドーが入っている。

 口の中から見える舌も金色という、人形じみた非現実的な姿だ。

 この対談は恒の緊張を誘い、フェアではない。


 名も姿もなきものと判ってはいても、恒は多少なりとも相手の姿に翻弄されてしまう。

 例えば世にも怖ろしい怪物の姿をしていたとすれば、それだけで恒は面と向かって話ができない。

 そんな不満を心に押し込みながら、恒が差し出したスケッチブックを典雅な仕草で抱え込むと、彼女はペンを走らせはじめる。


″総て把握している″


「これは想定の範囲内なのですか?」

″不本意ではあるがの″

「どれだけの犠牲者が出ていると……こんなとこで遊んでいないで、少しは助けて下さい」


 恒は彼女の美貌に気圧されしながらも、強気だった。

 忙しく働いているのなら彼女に任せていただろうが、彼女は先ほどからビー玉のような透明な石ころを転がして遊んでいるだけだ。

 少なくとも遊んでいるようにしか見えなかった。

 テーブルの石盤の上には透明な赤い石と青い石がそれぞれ数十個ずつ無造作に置かれ、緑色の石も一箇所にまとめて置いてある。

 赤い石のうち黒く変色したものは勝手に動いて、緑色の石の一団を侵してゆく。

 青い石はどす黒い石に近づくといつの間にか消えてしまう。

 三階の現状をなぞらえているのでは、と恒は気付く。

 そう、黒く変色した赤い石、これはブラインド・ウォッチメイカーに侵食された、感染させられた解階の住民達を示す。

 緑の石、これは生物階にいる人々。

 青い石は惨殺されゆく神々。

 彼女はミニチュアを作って、戦況分析を行っているようだ。


″短絡的な思考は大道を誤らせる。汝は何を嘆いているのか″

「嘆いてなんかいません、現状を打開する道を探しているんです」

”ではこうしよう”


 彼女は彼女が首にかけていたネックレスのトップを引きちぎり、ガラスの中に包埋されていたオパールのような宝石を指先で引き抜いた。


 輝く宝石の暗示は、何の暗示だろう……。

 盤の上に出した宝石は、どす黒く変色していた赤いガラス片を元のように赤い色に戻してゆく。

 彼女が身に帯びていた大切な切り札を場に出したと解釈してもいいのだろうか。


「この宝石は何を意味するものですか?」

″答えはじきにわかるだろう……懐かしき者が、帰ってくる″


 恒には解らなかった。

 異彩を放っているところから、ユージーンを意味するものかと思ったが、その宝石は盤の上にもともとなかったのだ。

 それがユージーンを示すなら、予め盤上に出ているべきだ。

 それが彼女からの援軍である事を願うばかりだ。


「あなたは、ゲームをしている感覚なんですか? 退屈しのぎに、ブラインド・ウォッチメイカーとの駆け引きをして愉しんでいる」


 彼女は無言で冷ややかに恒を睨んだ。

 禁視を宿した黄金の瞳は恒の懐疑の言葉を遮る。

 気分を害したのではない。

 彼女には自己がないのだ、普遍でしかない。

 腹を立てることはできない、恒は見抜いていた。

 彼女はこの世界の普遍として受け止めているだけだ、恒の挑発になど乗らない。

 気分を害するなら、それは名も姿もなき者などではありえない。個という存在者だ。

 この圧倒的な包容力と完璧なまでの無感傷が、創世者の専売特許といってもいい。

 だが美女が凄むと余計に冷徹さが引き立ち、怖ろしく感じられる。

 彼女の身に纏っている淡い黄金の光も殺気と見間違えてしまうから不思議だ。


”恨み言があるなら聞こう、だがあまり生産的ではない”

「感染はどうすれば防げるのです?」


 何か方法があるのなら教えてもらいたい。

 ブラインド・ウォッチメイカーがどうやって感染を引き起こしているのかという事も、同じ創世者である彼女ならそのカラクリが解けるのではないか。

 そう信じて疑わなかった。

 ブラインド・ウォッチメイカーに出来る事は、ノーボディにも出来そうなものだ。

 恒はそう考えていたからである。


”対症療法しかなかろうな。汝らがこれに対する薬剤を合成するがよい。吾は実体を失った、直接介入はできんのだ。かの者はそれを見越しておる”

「目的は俺を殺す事ですか?」

”そればかりではないが、それもあろう”


 恒が命を落とせば、彼女にとってもまずい事だろうに、彼女はどこか無関心を装っている。

 石ころ遊びに夢中になって、吾関せずといった具合だ。


「何か策があるんですか?」

”汝は大きな誤解をしておる、吾は全能者ではない。徒の創世者に過ぎん、また先方も同じだ。力を失った吾が簡単に優位に立つことは出来ぬ。汝は常に安全な場所に留まるよう心がける事だ”


 彼女にも勝敗は見えないのだ。

 現時点での戦いが重要なのではない、本番は3年後だ。

 これは前哨戦に過ぎない、彼女はたかが前哨戦とでも考えているのか、特に重視している様子も慌てている様子もない。


「つまり現状を維持していろと?」

”恒。よい事を教えてやろう……誰も、未来を予測する事はできん。未来は複雑系カオスだ。初期値を投入したなら、その結果は激変するものだ”


 確かに、初期値の投入はその後の劇的な展開の変化を呼び起こす。

 恒はその言葉を信じるしかなかった。

 ノーボディは実体を失ったがために、直接三階に介入する事ができなくなった。

 だから彼女が場に放った鮮やかな宝石は、彼女が荻号であった頃から用意していた手札であったのだろう。



 織図はメファイストフェレスと別れた後、大本営からの勅令にしたがってXVI von Louisの機能をフルに活用し、生物階、解階の住民問わず感染者を駆逐しているが、消しても群がってくる。

 さすがに織図も音を上げたくなった。

 罪なき者たちを惨殺するのは気持ちいいものではない、織図は隔離地区から飛び出そうとした感染者をのみ駆除している。


 早く、特効薬はできないか……ブラインド・ウォッチメイカーは共食いに似ている。

 互いの利益を賭けて、生き残りを賭けて、食い潰す。

 ブラインド・ウォッチメイカーのけしかけようとしている戦いには真の悪がいない。

 家族のため、自身の命を守る為、あるいは感染者のように罪の意識すらなく殺し略奪をしている者もいる。

 これは悪なき抗争なのだ、と織図は認識している。


 だからこれほど平等に圧倒的な死を齎す、XVI von Louisを揮ってよいものかと気が咎めるのだ。


 何か感染を食い止め、彼等を殺さずに済むよい方法はないかと考えてはみる。

 しかし織図をはじめ、主神や神々も目先の危機の火消しに躍起になっているという有様。

 神々は冷静さを失っていた。こんな対応では解決できないと、苛立ちを募らせる。思考停止したままがむしゃらにお互いが潰しあって、我に返っても既に遅し。

 三階はブラインド・ウォッチメイカーが直接手を下さずして、三階の住民達の共食いにより破滅させられてしまう。


 ブレイクスルーが必要だ。

 逆風を追い風に換えるような、決定的な方針転換が!


「どいてな、お前は殺し過ぎだ」


 突如追跡転移で現れた男が、織図の背後でそう言った。

 背後を易々と取られた織図は誰にそう言われたのか解らなかった。

 敵ではなさそうだが、誰だ? 誰が応援に来たんだ?


 織図は弾かれたように声の主を振り返ったが聞き覚えのない声で、その姿は月光で逆光となって見えない。

 男のシルエットは不気味で不吉な図柄をした数枚のカードを拡げ、見えない相手に配るように奇妙な陣形に並べはじめた。

 織図は彼が占い師のような仕種でカードを宙に投げ、並べる様子に目を見張った。

 これは誰だ? 紫色の蛍光を持つカードのせいで逆光になり姿がよく見えない。

 短冊状のカードは呪符のように見える。

 感染者達は占いの結果を待つ客のように訝しげな顔をして、姿の見えない男を見上げていた。


 不気味な紋様の描かれたカードは弧を描いて舞い上がり、一枚、また一枚と配座されてゆく。神と思しき男から音声コマンドは与えられない。

 カードの一枚一枚が意味を持つタイプの神具のようだ、コマンドレスで起動できる神具だろう。


 織図はXVI von Louisを駆る手を休めて、彼の行動に魅入った。

 配座されたカードの放つ光がそれぞれのカードの色とりどりの光と連結され、六角形の格子を作り上げてゆく。

 六角形格子が数十個集まり、更なる格子を生み出す。

 まるで光のショーを見ているかのようだ。


 視力を取り戻した織図には、花火と見まがう鮮やかなライトワーク。

 夏の夜空を彩る幻想的でかつ退廃的な光景。

 織図は発光する超高分子の模型に似ていると思う。

 六角形と五角形の組み合わせで巨大な球を為している、これはC60(フラーレン)というサッカーボール状の炭素骨格を持つ化合物の化学構造に似ている。


 巨大フラーレンは球体となって感染者達を包み込むように巨大化をはじめ、格子の中に取り込まれた者から気絶してしまった。

 バタバタとドミノを倒すように気絶してゆく感染者達……。

 信じられない、しかし理想的な決着だった。

 ブラインド・ウォッチメイカーの洗脳は強固で、織図にはマインドコントロールの重ねがけが出来なかったのだが、この男はいとも簡単にやってのける。

 一人として命を奪わず感染者達の動きを封じた彼の腕前に関心しながらも、どうしても気になることがあった。


「少し、寝ていろ」


 このアトモスフィアの質感といい、ハスキーがかった低い声といい、そして口調はまるで……荻号ではないか。


 薄墨色の荻号の聖衣も長髪もそのままだ。細かい事を見れば制紐は巻いていないし帽子もかぶっていない。

 ほんの僅かずつの違和感。しかしこれはまだ違和感の範囲内だ。

 決定的な相違はある、呪符型神具は神階には現存しない。

 見た事も聞いた事もない。


「殺さずに済んだろ」

「ああ、見事だ。脱帽だよ。ところであんたどちら様? 荻号さんによく似ているが……」


 織図は警戒心を強めながらも、独特の安穏とした口調で謎の呪術師に訊ねた。

 呪術師は何とも気抜けした様子で織図を見遣ると、先ほど駆った呪符を集めて束ねていた。


「本物の荻号さんはどこだ」

「本物? 俺がいつオゴウだって名乗ったか?」


 呪術師は呪符を繰りながら織図を軽く受け流す。

 彼は荻号を騙ってはいない、ただ織図がそう感じているだけだ。

 彼は荻号 要ではないのかと。

 何故なら別神というにはあまりにも酷似している。

 双子にでも出くわしたかのように。

 この場から立ち去ろうとした男を、織図は逃がすつもりはなかった。


「ではあんたの名は? 俺は織図 継嗣ってんだ」

「お前本当に神なのか? 織図だと? そもそも名前なんて発音できんだろ」


 呪術師は気絶した感染者を見下ろして素っ気無くそう言う。

 繋がりそうだ、彼と真実を結ぶ一つの答に。

 神語では名前が発音出来ないので、置換名や通名を用いる。

 人の文化が文字を持った時代、人間の言語を借りる形で定められたシステムだ。

 したがって一つの文明が滅ぶごとに神々や使徒の名は変わる。


 移ろいつづける不確かな名……神階は今も昔も名前に無頓着だ。現在では中国語をしのぎ世界で最も多くの姓名の組み合わせを持つ表意文字である日本語が置換名として採用されている。置換名を知らないとしたらそれは一つの可能性を示唆している……。

 織図は荻号の本名を空で書いた。

 もう二度と目にすることもないと思われた、懐かしい名だ。


「でもだよ、あんたの神名はこう書くだろ?」

「いかにも」


 彼は疑いの眼差しを向ける織図に御璽を見せた。

 彼の腕に刻まれている金色に輝く真空斑の御璽……彼は荻号であることを認めた。

 織図は彼が、幼少の頃より長きに渡り交流を持った荻号ではないと気付いていた。

 この時代の荻号ではない、彼は少なくとも通名と置換名が制定される六千年前より以前の時代から来た神なのだろう。


 何故このタイミングでこの時代に来る必要があったのか? 

 相転星には確かにタイムマシンのような機能がついており、時間と空間を超え未来には行ける。

 これは一つの事実を実証していた。

 彼は荻号なのだろう、だが織図が長年に渡り交流を持った荻号ではないし面識もないのだ。

 過去から現在に来たのだとすれば、過去に戻る事はできない。


 だが荻号は一万年以上にもわたって存在しつづけてきたという鉄壁のアリバイがある。

 彼は誰で、どこから来たのだ? 

 彼の中に、ノーボディはいるのか? 居ないような気がした。


 彼は呪符をしまい終えると、軽く腕組みをして織図を怪訝そうに見上げていた。

 彼は明らかにこの場から立ち去りたいのだ。

 彼は織図には皆目興味がないといったような顔をする。

 面識がないのだから当然だ。

 彼が本当に荻号だとしたら、彼は怖ろしく他者に無関心だ。

 無関心、冷徹、なおかつほぼ全知にして全能の存在。

 それこそが荻号が他神と一線を画していた主な理由だ。


 だから間違いなく、彼は織図に興味を示さない。

 ……皮肉な話だ。


「もう、行ってもいいかね」

「いーや、ちょっと待て。俺あ一柱だけよく似た奴を知ってるんだがね」

「似た奴がいるのか。先に会った方が偽物だった場合には、一体どうやって証明するんだ? くくく……神階はそいつに、何千年間騙されていたんだ? 偉大なる詐欺師だな。大体神が一万年も生きる事ができるものか」


 彼は偽物というにはまるきり荻号そのままだったが、本物だという動かぬ証拠があった。

 ……彼は肉声で話している。

 荻号要が一万年にも渡ってできなかったたった一つのことであり、それは皮肉にも彼の自己同一性を証明する全てであった。


「んじゃあんたは、それだけの時間を”生きて”どこで何をしていたんだ? 暇を潰すにも腐るほど時間はあるだろ、神階から逃れて、一体何をしていた?」

「何もしなかったさ、生きてすらいなかった」


 彼は無限にも近いマインドギャップを解放して、織図にマインドブレイクをしろと促す。

 織図は彼の過去にまつわる情報を受け取った。


 どうやらこういう事情だった。

 荻号要はノーボディの創りだした架空の人物ではなく、実在した神だったのだそうだ。

 置換名が存在しなかった当時、当時の慣習に倣ってただの闇神と呼ばれていた彼はノーボディの演じたような特異な性格と類い稀なる才能を持った陰階神であり、万能の天才だった。

 だが世は平和で、彼の能力が必要とされる場面はなかった。


 彼は漫然と生きるぐらいなら死んだ方がましだという極論に至る。

 神もまた生き甲斐を探し求める生き物だ、ノーボディは神階の牽引者として時折優れた神を創りだしてきたが、平和な時代に相応しからぬ圧倒的な能力を与えられ、力を使うなと強いられる天才達の懊悩は相当のものだった。


 ”闇神”だけではなく、天才と名を戴く神々は一度は自殺を図ったものだ。

 いくら傑出した力を持っていても、時代が彼らを必要としなかった。

 平和で退屈な時代に生れついた彼も例に漏れずその無目的な生涯を悲観し、幾度もの自殺をはかった。


 ”闇神”がこのような行為を繰り返す様子を見るに耐えかね、ノーボディは自殺を図る度に止めてきたが、彼の自殺願望は凄まじくやがて手に余るようになり、ノーボディはとうとう”闇神”の望みを叶えることにした。


 平和な世が崩れた日のため、その神体とその能力を無駄にする事なく来たるべき日にまで凍結する事にしたのだ。

 二度と目覚めないかもしれないにも関わらず、彼は喜んで神体をノーボディに預け、凍結保存された。

 この時より”闇神”、後に荻号 要と名づけられる彼の本体は物理的に一万年もの長き眠りにつき時間を超える。


 ノーボディは彼の神体を守りつつ、失踪した彼を演じ続けた。

 新たなる悲劇を生み出さない為に、その後はノーボディは二度と突出し過ぎた天才を生み出さず、彼自身が荻号(”闇神”)となって神階の牽引者としての役割を果たしていた。

 ”闇神”のもともとの異色さと奔放な性格は、ノーボディにとって都合のよい隠れみのとなった。


 荻号の神体を守っていたノーボディが消えたので、凍結装置のロックが外れ緩やかに解凍されたのだ。

 神体を解凍され目覚めた”闇神”が目にしたこの時代は、まさに彼が切望し夢にまで見た、破滅に瀕した世界だった。


「なるほど……(いにしえ)の神が目覚めたのか……」

「細かい話はいいさ。要するに困ってるんだろ?」


 この感覚はどこからくるものか、懐かしい間の取り方だった。

 織図と荻号は長い年月の間に、様々な対話を繰り返した。

 荻号の会話の間や、言葉の選び方、それらは本物と何も遜色はない。


「困るも大困りさ。万事休すってな状態だったんだ」

「困っている、か。何しろ俺のいた時代には、誰も困っている奴なんかいなかったんだからな」


 ”闇神”のアトモスフィアには歓喜の色が漲っていた。

 荻号(”闇神”)はどうやら、ノーボディの演じていたままの神格だったようだ。

 さすがに親は子をよく見ている。ノーボディからの援軍なのだろうと、織図は思いたかった。


「また会えたな、荻号さん」

「ん? 何か言ったか?」


 織図はお茶を濁して、長く吸っていなかった煙草をふと吸いたくなった。

 火をいれ、ぷかりと煙管の煙をふかす。

 闇神は煙草に興味を示さない。

 ノーボディが煙草を好んでいたのは闇神の癖をまねていたのではなく、覚せい剤を仕込んでいたからだろう。


 愛煙家でなくとも、嫌煙家でなければどちらでもいい。

 鷹揚な性格の織図にとっては本物がどちらであってもよかった。

 ノーボディの演じ続けた本物の荻号、また彼と一緒に無茶ができる。

 たとえ八方塞がりなこの状況も、彼が面白おかしく何とか解決してくれそうな気がした。

 ノーボディがもしありのままの彼を演じていてくれたというのなら、彼はこの上なく大きな助っ人となりうる。

 実質、荻号が帰ってきたという事実に、何も変わりはしなかった。


「何でもねえよ、さ、行こうか。あんたの好きな、困った奴らがいる場所へよ。きっと満足できると思うぜ……」


 明かりの切れかけた街灯の下で、懐かしい空色の瞳が微笑んだように見えた。



 石沢 朱音はその夜、なかなか寝付くことができず、布団の中で震えていた。

 グリゴリの遺体はまだ藤堂家の裏庭に放置したままだ。

 警察に通報すべきなのかもしれないが、殺人容疑が自分にかかるのではないかと思うと、ためらわれる。


 まさか殺人罪にはならないと思うが、無罪を立証できる自信がない。それに人が死ぬのが当たり前となったこの非常事態だ、警察が動くとも思えなかった。

 一連の事件が夢だったのではないかとすら思えてくる。

 朱音はもう藤堂家に電話をかけることはしなかった。

 受話器の向こうに、誰がいるのか分からなかったからだ。

 恒と志帆梨は忽然と消えてしまった。

 先ほど死体となった男が電話口に出てきたりしたら……どうしよう、と。

 通報は明日にしよう、と朱音は思った。

 現場検証に連れて行かれるなら、明るくなってからの方がいい。

 何しろ例え立会いの警察官が居たとしても、あの場所が安全だと言い切れないからだ。


”ああ……全部夢だったらいいのに。さっきの事は全部、悪い夢だったら”


 しかし彼女は眠る事もできなかった。

 あの銀髪をした少女が、夢の中にまで自分を迎えに来るような気がしたからだ。

 今も目を閉ざせばどこからともなく足音が聞こえて、また耳元で何かを囁きかける。

 どこに行けば助かるのだろう? 彼女は決して吐き出せない毒を飲み込んでしまったようだった。

 石沢一家は結局、地下施設に避難しなかった。

 幼い弟妹を連れて避難するのは両親にとっても大変だ。

 村人たちのおよそ半数が学校の体育館や地下施設などに自主避難をはじめたが、学校との距離がそれほど遠くない朱音の家では、いつでも避難できる用意があった。

 とはいえ、母や父は家の貴重品などをまとめて、避難の準備に取り掛かっている。


 この不安な状況がいつまで続くのだろう……。

 恒と志帆梨は、大丈夫なのだろうか? 

 思考は堂々巡りをして、また同じところに行き着く。

 あの少女は自分に何をしたのだろうか? 

 彼女は夢の中に迎えに来るのではないだろうか、朱音が眠りにつく瞬間を待っているのだとしたら……。

 できるだけ早くユージーンと連絡をとって、彼に洗いざらい相談しよう。

 彼女はそう思うと少し気が楽になったが、なかなか寝付けなかった。



 ユージーンは恒と別れた後すぐに生物階に降り、恒に繋がる携帯を決して手放さないように気をつけながらG-CAMを揮って、化学合成を行っている神々のもとに群がる解階の住民達を虐殺していた。

 屋根の上から血飛沫の飛び交う中でも、平常心で合成を続けなくてはならないという状況は最悪だが、武型神は殺す以外に彼等を追い返す手だてを知らなかった。


 ユージーンも殺戮を楽しむというタイプではなかったから、まるきり殺戮を回避する方法を考えなかった訳ではなかった。

 例えば相転星を使ってこの空間を隔絶して解階の住民達の襲撃から化学者を守る……それはすぐに思いついた。


 だが相転星を使えば、場の時間の流れが変わるのだ。

 それはとりも直さず、反応条件が変わってしまう。

 それではただでさえ困難な合成経路の特定を、なおさら攪乱してしまう事となりかねない。

 これではまずいのだ。場の化学的、物理学的環境を攪乱してしまう事は……。

 彼はG-CAMを凶器として揮いながらも、彼等に改心を呼びかけることをやめなかった。


「話を聞いて下さい、わたしたちは殺し合いをしたくはないんです。誰もが助かる方法があるんです」


 必死で訴えかけたが、どんな言葉にも彼等は耳を貸そうとしない。

 彼等もまた家族や彼等自身を人質に取られている。

 いくらユージーンが彼らを凌ぐ圧倒的な力を持っていて、彼等の死が避けられないとしても、誇り高き彼等は投降を呼びかけたぐらいで従うような者達ではない。

 それどころかブラインド・ウォッチメイカーが解階の貴族達にかけた催眠は絶対的なもののようで、マインドコントロールを受け付けない。

 彼の無駄な叫びは悲痛な響きを持っていた。


「もう彼等に語りかけるのはおやめ下さいませ。全くもって無駄な事です」


 こう言うのは、陽階神 第10位、ナターシャ=サンドラだ。

 彼女の背後を守る形でユージーンは戦っている。

 彼女は彼等を救う事を既に諦めてしまっていた。

 この場にいるのは二柱の陽階武型神、合成を行っているのは一柱の陰階の文型神だ。

 二柱は協力して研究所全域にシールドを張り巡らせ、入り口を完全に塞いだまま解階の住民を引きつけて応戦していた。


「しかしひとりでも殺したくはないんです! わたし達は憎しみあう必要などないというのに!」


 ナターシャの檄が飛ぶ。


「理想論は無用です! 我々が誰を守らねばならないのか、お分かりの筈でございましょう。彼等をじわじわ苦しめたいのですか」


 強い口調で非難され、ユージーンは息を呑んだ。

 殺すことを避け続けた為、もしくは止めを刺せずにいた為、彼等のうち半数は致命傷を受けておらず、衰弱死や失血死をしている。

 瞬時に殺されなかった彼等は、ユージーンやナターシャの足元でもがき苦しみ、苦痛にのた打ち回っている。


 彼女は先ほどからそんな不幸な生存者達にせっせと止めをくれて回っていた。

 彼女の言うとおり残酷な事をしてしまった、とユージーンは後悔する。


「分かりました。瞬殺します」


 ユージーンは悔しそうに唇をかみ締め、G-CAMのリミッターを抜き、振りかざした。

 周期的な赤と青の基盤の明滅が淡々と不気味に繰り返される。

 ナターシャは鉄槌型神具 エントロピー・マキシマイゼーションで容赦なく彼等を薙ぎ払っている。

 彼女の神具に触れただけで、熱量に溶かされ彼等の肉体はまるで蒸気のように蒸発する。

 血なまぐさい嫌な蒸気が立ち込めている、地獄絵図が広がっていた。


「ここまでだ……」


 ユージーンが危険な光を纏ったG-CAMを構え、そう言った瞬間だった。


「どーけどけどけどけー! お前らも、殺しすぎだ!」


 上空から突如織図が降って来て解階の住民を押しのけ、二柱の首根っこを掴んで瞬間移動をかけた。

 ユージーンとナターシャが維持していた場のシールドは消えうせ、研究所内にいる文系神は無防備になってしまう。

 ユージーンとナターシャは織図の瞬間移動に巻き込まれ、500mばかり離れた場所へと転移させられた。

 有無を言わせるような速さではなかった。

 ナターシャは逆さまになって神具を手放しそうになったところで、ひょいと織図に支えられていた。

 女神のスカートの裾を直してやりながら、うっかりと太ももに触れてしまって、彼女に平手打ちをくらっていた。


「ちょっと! 織図殿! シールドが……!」

「織図殿、なんという事をなさるのですか」


 スカートをめくった事も込みで、だ。


「見てな……おったまげるぜ」


 織図はすっと指先を上空に向けた。

 そこには得体の知れないカラフルな光の結晶格子を創り上げる、細身の呪術師の姿があった。

 解階の貴族達はその場から動く事もできず、上空を見上げるばかりだ。

 織図はしっと指を口元にあてがって、彼に注目していろと言っただけだった。


 夜空に極彩色の閃光がほとばしる、静かで美しく見事な業だった。

 その構造は、ユージーンがノーボディより得たある知識と一致した。


「あれは……フラーレン(Fullerene)?」

「C180フラーレントリマーのような形ですが?」


 フラーレンと言われて物理化学者でもあるナターシャも気付いたようだった。

 その結晶構造はC180の炭素クラスターに似ている。

 そしてこのような結晶構造を持つ炭素クラスターはフラーレンと呼ばれている。

 だがユージーンは結晶構造の形について感想を述べたのではない、彼はその神具を知っていた。

 1万年以上前に忽然と姿を消した神具、フラーレンは呪符型神具であり、炭素クラスターから名づけられたものである。


 呪符と呪符を結ぶ結合の光、距離、そして呪符の紋様によってほぼ無限の組み合わせとクラスター数を持つ。

 クラスターの内部は呪符の効果によって物理化学法則が歪められている。

 どのように歪められているのかは、操作者しか知らないというわけだ。

 フラーレンの駆動エネルギーは、相転星とほぼ同等かそれ以上……今の神階には、フラーレンを扱える神など存在しない。

 ユージーンはそのままの感想を口にしてしまった。


「超越的神具を扱える神は、今の神階には存在しない筈……」


 ユージーンをのぞけば、という前提でだ。


「だが、ちょっと前には居ただろ、なぁ?」

「ちょっと前?」

「納涼、花火大会で幕を引こうぜ。パーッと、盛大によ」


 織図が楽しそうにそう言った頃には、既に解階の住民達は気絶してしまって、一人として立って残ってはいなかった。

 二柱は気付いた、彼等はブラインド・ウォッチメイカーより更に強力なマインドコントロールを施された上で気絶しているのだと。

 つまり彼等は意識を取り戻してももう、神々や人々を襲う事はないだろう。

 彼等は何故生物階に来なければならなかったのかという目的を忘れ、首を傾げながら解階へ戻ってゆくしかない。

 アルシエルの制裁に心底怯えながらだ。


 クレバーな決着。怜悧な刃物のような業のきれ。

 間違いなかった……間違えようもなかった。

 最強神、荻号 要が帰ってきた――。


【作】【現】フラーレン C60…フラーレン(Fullerene)の結合様式を模した呪符状神具で、240枚のカナリア色の符。アトモスフィアを受けて朱色に変化する。実際のフラーレンは炭素原始骨格により成る高分子クラスターの総称で、C60のみではない。C60(炭素原子60個)で五員環(五角形)と六員環(六角形)を組み合わせた切頂二十面体、つまりサッカーボール状の骨格になる。炭素数60個をこえるフラーレンは高次フラーレンと呼ばれ、オイラーの多面体定理を満たしながらC70、74、76、78…などの結合をつくる。フラーレンは工業利用として潤滑剤、医療利用としてHIVの特効薬、活性酸素やラジカル除去で老化を抑えるなど幅広い分野で利用される。

神具としての機能は作中にて後述。

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