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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第49話 Swallow the silver curse

 ユージーンから避難を促された志帆梨が自転車に乗って風岳神社前に着いた頃には、社務所に大勢の村人が詰め掛けて人垣を作っていた。

 一連の事件に対する不安が高まり、ユージーンに会いに来た村人達だ。

 彼らには信仰が必要だった。

 一人暮しの老人などは、いつどこから、誰が襲撃してくるとも知れないという恐怖の中で夜も寝付けないほどのストレスに耐えかねてやって来たのだそうだ。

 ユージーンが留守をしていると知り、彼等はひとまず神社に参拝をした後、神社の石段に腰掛けて途方にくれているらしい。


「藤堂さん、あんたも来たか」

「え、ええ」

「一緒に神様の帰りを待つんじゃ。あれ、恒の奴は?」


 思いがけず恒の話題を振られて、志帆梨はおたついた。

 志帆梨だけ避難するのも変だ。

 それに志帆梨は大きなリュックを背負ってきている。

 家を捨てて逃げ出してきたか、あるいはこれから旅行にでも行くような荷物の多さだ。


「こ、恒は親戚の家に行っておりまして。神様は、すぐにはお戻りにならないと思います」

「どうしてそう思う」

「ぇ、それは、その」


 志帆梨はもごもごと口ごもりながら、皆で一緒に夜を明かすしかないか、とユージーンに言われた通り朝顔の鉢植えの下から社務所の鍵を取り出し、社務所に入った。

 村人達もどやどやと、中に詰め掛けてくる。

 社務所のアルミサッシの入り口を閉めようとしたその時、村の外れの方角から尋常ではないほどの轟音での爆発音がして、村人達から悲鳴が上がった。


 賢い志帆梨はすぐに、我が家が襲撃されたのだと察する。

 夜空にあかあかと閃光が走り、やがて静かになった。

 爆弾でも落ちてきたのだろうか? 

 ユージーンに避難を促されてから僅か1時間後の事だった。

 志帆梨は肝を冷やした。

 ユージーンが電話をくれなかったら今頃はあの家ごと木っ端微塵だ。

 手足に冷感が走り、志帆梨は膝の力が抜けた。

 社務所の中に入っていた村人も、驚いて飛び出してくる。


「どこが爆発したんね?」

「行ってみるか?」

「ダメです! 行ってはいけません」

「でも、あんたんちの方角だったでょう? あんたんちじゃったらおおごとで。藤堂さん!」


 志帆梨は土地の権利書や実印、通帳や現金など生活に必要な貴重品は全て持ち出していた。

 愛着のある我が家だったが、失って困るものは何もない。

 恒さえ無事でいてくれるならば……。

 志帆梨は神の子を産んだ母として、降り懸かる全ての受難に立ち向かうための覚悟はとうにできていた。

 家ぐらい何よ、私は平気、平気……彼女は自身にそう言い聞かせていた。


「家はいいんです! 近付いてはだめです!」


 志帆梨が強くそう言うので、村人たちは顔を見合わせて宙に浮かせていた腰を落ち着けた。

 社務所のテレビでは、内閣府とニュース中継が繋がっていた。

 優柔不断内閣とも揶揄され、昨今支持率の低迷に喘いでいた祇園寺総理大臣は、珍しくそのリーダーシップを発揮し、自衛隊の出動を要請、各都道府県の地下避難施設に住民を避難させる方針を打ち出した。

 内閣府は次々と住民保護の緊急措置を講じはじめた。

 何が優柔不断内閣を動かしたのかはわからないが、国の素早い対応には勇気付けられる。

 日本での被災地は、広岡県を含めわずか3県だけだ。

 それでも被害はいずれにしろ拡大を見せるだろう。

 避難を希望する者は、各都道府県の地下避難施設に避難するようにとのことだ。

 ニュースは各地方自治体のローカル情報に切り替わり、核シェルターとしての機能も持つ地下避難施設の所在地が発表された。

 広岡県には6箇所の避難施設があり、避難施設には自衛隊が配備されるという。


「わしらに黙って、政府は核シェルター、用意しとったんかな!」

「税金も無駄に使われていたばかりではないんですねぇ」


 各県に数箇所程度の核シェルターを、国民に秘密裏に政府は用意していたのだそうだ。

 大学の地下や、県庁の下、工場の地下などに建設されていたその存在は国民には巧妙に隠されてきたが、このたびの非常事態に際しその存在を明るみに出す事となった。

 ところで避難に強制力を持たせなかったのは、国民全員が避難をしてしまえばこの国の経済活動は完全に停止してしまうからだろうな、と志帆梨は考える。

 そうなればインフラも停止し、この国は死んだも同然となってしまう。

 小学校、中、高校の体育館を臨時避難場所とし、自衛隊で警備をするという方針も発表された。

 ここには地下シェルターにまでは入らずとも、不安で夜も眠れなくなってしまった住民が安心して寝れる場所として提供するためだ。

 国が本格的に対応をし始めたという事は、この異常事態がしばらく継続する可能性を含んでいる。

 事態はどんどん深刻になってきているような気がする。

 悪い方へ、悪い方へと吸い寄せられている。


「まさか、そんな大変な事になっとるとはのう」

「わしらも避難するか?」

「行くで、行くで!」


 風岳村から地下施設に避難するには、30kmも南の町に移動する必要がある。

 避難は強制ではないが近くの村が広範囲にわたって被災し、藤堂家の方向から異音がしたばかりである。

 彼等はこの村も安全ではないと考え、避難したいと考えた。

 また、各都道府県庁には非常事態無料相談ダイヤルが設置され、不安を感じた住民が24時間電話相談できる窓口が開かれた。

 志帆梨は地下避難施設に避難をせず、この村に残ろうと決めた。

 神階にいる恒と連絡が取れなくなってしまうからだ。


「藤堂さんは?」

「私は、ここに残ります」


 志帆梨は村人たちから避難するよう説得されたが、社務所に留まると言い張っただけだった。

 しかし志帆梨は悩んでいた。

 藤堂家が襲撃をされたという事は、神である恒もまた何者かから狙われているということだ。

 そんな時、恒をいぶり出すために志帆梨が囮として使われるという事はないだろうかと。


 志帆梨の身に危険があったとすれば、恒はどこに隠れていても出て来ようとするだろう。

 彼は親思いの子供だ、たとえ彼の命と引き換えにでも……。

 恒の足かせとならなければいいが、と志帆梨は心配していた。

 そして彼女はこう決心する。

 もし何者かに捕まって、自分の命と引き換えに恒の命が狙われるような事があったら……迷わず命を絶とう、と。

 志帆梨の、母親としての精一杯の決断だった。



 極陽の去った執務室の扉を丁寧に閉めて、ユージーンは中に入ってきた。

 すぐに出て行くからと言い含めて、極陽の第二使徒を締め出したばかりだ。


「恒君、悪かった。志帆梨さんを避難させたと、君に伝えておくべきだったね。心配をすると解っていたのに」

「いえ、俺の方こそごめんなさい。勝手な行動を取って自業自得です」


 てっきり怒られると思っていたのだが、ユージーンは謝るだけで、恒は気抜けした。

 恒は怒られて当然だと思っていた、生物階に戻るなとユージーンに止められていたのに、以御を騙してまで生物階に降りたからだ。

 結果この有様、殴られても当然だと思っていた。

 ユージーンは恒にからっきし甘く、恒はユージーンからてんで子供扱いされているのだと実感せざるをえなかった。

 ユージーンは処置台の上からシリンジと注射針を取り、彼の腕にあてている。

 重体の恒を一瞬で癒す為には、やはり治癒血を与えるほかないと思ったようだ。

 プライマリーコピーであるユージーンは彼の血液とその身が、他の治癒血を持つ神々と比べ人を癒す力が格段に高いと知っていた。

 人間の子供と体は殆ど変わらない恒は、苦痛に耐える訓練を叩き込まれた神と違って苦痛にも弱い。


「極陽は治癒血を君に投与しようとしたかい?」

「いいえ、父も治癒血を持っているのですか?」


 恒は極陽も治癒血を持っていたとは知らなかった。

 今、極陽が輸血しているのは、A型の人の血液だ。

 極陽のものではない。

 ユージーンはそれを聞いてシリンジをまたワゴンの上に戻す。


「では治癒血を打たない方がいいな、効かないんだろう。治癒血は神には効かないんだ、それどころか下手に他神の血が神体に入るとショック症状が出てしまう。わたしたち神には血液型がなく、輸血がお互いにできないんだよ。だから血液バンクに自己血のストックを預けるわけだ。それに、君には人間のA型の血が輸血されて適切な処置がされている、極陽は君の身体の構造を誰より知っているだろうからね」


 ユージーンはすらすらと説明したがそれを聞いて、恒は複雑な気分だった。

 Anti-ABNT 抗体の設計者として、父は恒の全てを知っている。

 恒の自我も、心ですらも彼にプログラムされたものに過ぎないのだろうか……恒はそんな恐怖に囚われた。

 ユージーンはあまりのんびりとここで雑談をしているわけにもいかなかった、混乱している恒は以御が何とかしてくれるだろう。

 早く恒をユージーンの執務室に戻して、また生物階に行かなければならない。


「さ、帰ろうか」


 ユージーンは恒を連れ帰るために点滴の針を外し、ドレインのチューブを処理し、ワゴンの上の薬剤を調合して恒に痛み止めを調合し投与する。

 薬ビンや薬剤を見て、これとこれ、と合わせて調合している。

 その手技は手馴れており、危なげがない。


「ユージーンさんて、そういえばお医者さんでしたよね」

「内科医だよ。外科も少し」


 人と関わる機会が多く、人を傷つける可能性のある陽階の武型神は、必須ではないが何らかの医師であるケースが多い。

 軍医としての服務も求められる事から、外科分野にも明るい。

 極陽の冷淡な処置とは違い、彼の手には温かみがある。

 傷ついた恒は彼が傍にいてくれるだけでも嬉しかった。


「俺も、このくらい自分でできるようにならなきゃ」


 恒は何もかも自分でできるようにならなくては、と焦っているように思える。

 恒はひたすら彼の無力感に押しつぶされそうになっている、ユージーンは背伸びをしたがる恒をたしなめた。


「そんな必要ない」

「でも……これからも俺は狙われるんですよね。それに、神なのに自分の事もできないなんて……」


 恒は、人間に出来る事は神である彼にも出来なければならないと思っているらしかった。

 これからも恒は危険な目に遭い続けるだろう、ブラインド・ウォッチメイカーは手を尽くして恒を殺そうとする。

そんな中で怪我をした時に自分の傷も癒せないようでは神の名が廃ると考えたようだ。


「恒くん、君の向上心は素晴らしい。だが自分に不可能な事も識るべきだ、それもまた陽階神としての正しい在り方だよ。君が実感している通り、これから君はブラインド・ウォッチメイカーに狙われるかもしれない。だからこそだ。何でもひとりで出来ると思うな、勇敢と無謀は違う。危険だと思う事はするな、君の身を守る事こそが、君の為すべき事だ」

「はい……」


 恒は穏やかな口調で諭され、渋々同意した。

 恒が納得をしたので、ベッドの傍らにしゃがんでいたユージーンは恒の頭を撫でる。


 ユージーンは今回の事態で、ひやひやしていた。

 極陽が助けに行ってくれたので間に合ったようなものの、一足遅ければ恒の命はなかった。

 そして一度無駄に消費された抗体は二度と元には戻せない、ユージーンが息絶えた恒を迎えに行った瞬間、Anti-ABNT 抗体は発動され、荻号から譲り受けた禁視を宿し、存在確率の鍵のスティグマ(聖痕)を持ち、絶対不及者の性質を多少は帯びているユージーンの力は封じられ、恒の身体は役目を果たして灰と化すところだった。

 結果、その瞬間に三階の命運は尽きる事となる。


 三階の生命線ともいえる恒にはできれば3年後まで、安全な場所に居て欲しい。

 神階も生物階ももはや安全とは言いがたい、安全なのはユージーンの傍だ。

 恒をずっと手元に置いておきたいが、今は恒を庇いながらこの事態に対処できる自信がない。感染者と接触感染をさせてしまうかもしれないし、何らかのアクシデントで殺されてしまうかもしれない。

 恒にとって安全だといえる場所は、ユージーンの執務室だ。

 そこには信頼できる右腕、響 以御がいる。


「君は利口だ。怖い思いをさせたね」

「ようやく自分の置かれている立場が分かりました。3年後まで、生き延びられるのでしょうか……?」


 ぼそりと、恒は力なく呟く。

 ユージーンはそんな恒を見て、たまらなくなった。

 どうして普通の少年として、ごく当たり前の生活を送らせてやれなかったのだろう。


「恒君、わたしは何があっても君を守る……そしてノーボディもそうだ。怖れる必要はない、君は心を落ち着けて」


 守りきれる、とはいえなかった。

 恒を必ず3年間無事で守りきれるか、ユージーンにも自信があるわけではない。

 解階の混乱に乗じて、生物階への解階の住民への流入が始まった。

 生物階を混乱に陥れ、恒を殺すためだ。

 恒は妄信的に、ノーボディの言う事だけ信じていればいいとは思えなかった。

 それにノーボディが恒を守りきるだけの力を持っているかという事も疑わしい。

 ”彼”は神々、そして人類の味方ではあるのだろうが、どうも”彼”の対応は後手後手になってしまっているような気がする。

 彼は三階を平和的に維持すればそれでよいと考えている創世者なのだそうだ、だからその内容がどうなっても、あまり意に介さないのかもしれない。

 数十万人規模での生物階の死者数、そして解階での犠牲者数を、彼はどう考えているのだろう。

 そしてそれを”たかがそれだけの犠牲者”などと考えていないことを願うばかりだ。


「ユージーンさん。ところで先ほど、父の心を読みましたか?」

「いや……読めなかった」


 ユージーンは後ろめたいのか、恒と目を合わそうとしない。

 恒は嘘をついていると見抜く、荻号と神格を共有したユージーンは99層のマインドギャップを持っている。

 わざわざマインドブレイクをかけなくとも相手の心層を看破することができる、その彼がたった10層の極陽の思惑を読み取れなかったと言うのは無理がある。

 言いたくないのだとすれば、恒はいらない勘ぐりをしてしまう。


「読めたでしょう?」


 恒には可哀相だが、極陽は恒を目的のための手段として、モノとして創りだした。

 実験動物として、抗体のキャリアーとして、遺伝子改変実験動物を作成するのとそれほど変わらない手順と認識で。

 抗体の発現のため人間の女性に身におぼえのない妊娠させなければならなかった事は気が咎めたようだが、生まれてくる模造生物に対して感傷を覚えていない。

 遺伝子改変動物には人間としてうまく社会に溶け込めるよう、必要最小限の社会性と人格はプログラムしておいた。

 しかし母親を愛する心、隣人を憐れむ心、それらは断じてプログラムされたものではない、とユージーンは思う。

 模造生命が人間として懸命に生きる中で獲得した感情、人間らしい心は彼自身のものだ。


 後先考えず勝手に生物階に降下したのも母親を思うあまりの行動であって実に人間らしい。

 彼は解階の貴族に力及ばず命の危機に瀕していても神具を握り締め、生きる事を諦めはしなかった……。

 そこで極陽はこう結論せざるをえなかったようだ、この子は生まれた時には心なき模造生物で自身の所有物であり、また世界の救済のために捧げられるべき生け贄の羊に過ぎなかったが、もはや10年を生き抜いた彼の身はただの自分の所有物でありモノではないのだと……。


 2000年以上を生きた極陽にとっての10年はあまりにも短い。

 しかし彼の手によって生み出された模造生命、藤堂 恒にとっての10年は自己存在と真正面から立ち向かい続けた、苦難の日々の積み重ねだった。

 極陽は10年を耐え忍びながら生き抜いた彼の生命をその手にとらえ腕に抱き、彼の体温、彼の鼓動、彼の呼吸を全身に感じ、命の重さを実感した。

 その時、極陽の恒に対する認識が変わった。

 恒は生きているのだ、逃れられない現実と立ち向かいながら――。

 生かされているのではない。


 極陽は恒の生身の人格、あるいは神格を認めた。

 しかし恒にはどうしても来たるべき日に、確実に死んでもらわなければならなかった……彼はそのために生まれてきた。

 彼には誰も肩代わりすることの出来ない、命の犠牲を強いる重い役目を負わせている。

 極陽は恒と対面を果たして彼の生命と心を軽視してしまった事を後悔していたが、どれほど後悔をしても、当初の計画通りに彼の子を崖から突き落とさねばならなかった。

 彼の代わりを用意していないのだ。

 3年後、自殺遺伝子の導入によって極陽には我が子を確実に抹殺する準備がある。

 極陽がスイッチを押しさえすれば、自殺遺伝子が発動するように設計されている。


 恒はどちらにしろ極陽に殺される運命なのだ。

 そうであるとしたら、極陽の心の内の葛藤や恒に対する罪悪感など、恒に伝えない方がいい。

 彼は極陽を憎んでいる。

 その方が彼にとっても、極陽にとっても幸せな事だろう。

 三年後、恒を必ず殺さなければならないと決意している極陽を父親と呼ばせて慕わせてはならない、ユージーンはそう思った。

 ユージーンはベッドに手錠で繋がれた恒を見下ろし、手錠を切ろうとした。


「帰ろうか、恒君」

「ユージーンさん、この手錠の鎖切れませんよね? 俺、もうちょっとここに残るしかないかな」


 白々しい言い訳だった。

 恒はここに残りたがっている。

 極陽は恒に何をしたものか分からない、極陽は精神攪乱生体神具FC2-マインドキューブを持っている。

 恒の心などいとも簡単に操ってしまうだろう、心理戦をするにしても不利だ。

 そして荻号から継承した恒の神具、FC2-メタフィジカル・キューブを自宅に置いてきてしまっている。

 つまり丸腰だ、丸腰で主神と対話などできようはずもない。

 恒は3年後まで殺される事はないと思っているようだが、殺さないまでも精神的に恒を傀儡としてしまう方法などいくらでもある。

 相手は心理学や謀略に長けた老獪な神だ、引き合わせてはならない。

 ユージーンは淡々と否定した。


「手錠は切れる。極陽と話をしたい気持ちは分かるが、帰ろう。無理にでも連れて帰る。彼は君の親ではない、支配されたり、利用されたり、欺かれたり……親子ってそんなもんじゃないだろう。わたしは親の愛情を知らない、でも君と極陽は違う。親子じゃない。父親と認めてはいけない、君の親は志帆梨さんだけだ、それで充分じゃないか」

「残りたいんです……極陽と話がしたいんです。分かっています、愛情なんてないこと。俺の事なんて、子供だとも思っていない……それでも彼は俺の父親なんです、俺は彼の子なんです。その事実を受け止めたい、それがどんなに苦しくとも! 彼がどうやって俺を殺そうとしているのかを、知りたいんです……」


 どれだけ憎んでいても、恒は極陽と話をしたいと主張した。

 それは、親のいないユージーンには理解できない思いだった。

 しかし恒の言葉は、それだけでは終わらなかった。


「それに、彼は俺の設計図を持っています。それを見せてもらいたいんです……抗-ABNT抗体がどうやって発動するのか……この体に仕掛けられた時限爆弾を、知りたいんです。そして――」


 恒はゆっくりと瞼を閉ざした。


「俺という存在が、どうして生み出されなければならなかったのかを」


 どうやらユージーンが考えていたより遥かに、恒は達観していた。

 父親に愛情を求めたいがために残りたいと言った訳ではないと、この10歳の子供に教えられた気分だった。

 彼を殺そうとしている相手と、恒自身が向かい合いたいのだという。

 ユージーンはかける言葉を見失った。

 ユージーンは恒の力を奪っていたブレスレットをカチンと割り、手錠を切って自由にした。

 ユージーンは二台目の銀色の携帯を恒の手にしっかりと握らせ、その拳を包み込んだ。


「何かされそうになったら、どのボタンを押してもわたしに繋がる。何があっても助けに来る。手錠もないし、力を奪うブレスレットも外した。わたしの執務室のベッドは覚えているね? 瞬間移動もできるようにした、それで……」


 恒はユージーンの目を見て真剣な面持ちで頷いた。


「……残りたいんだね?」

「ユージーンさん……」

「ではもう止めまい。気をつけて。じゃあ、わたしは行くよ」


 ユージーンは恒を連れ帰る事を諦めると、まだ血がまとわり付いているG-CAMを基空間から抜き、生物階に戻ろうとした。

 ここでいつまでも雑談をして時間を費やすわけにはいかないのだ、彼は恒を心配させるような事は話さなかったが、恒は血に塗れたG-CAMを見て、殺しをしてきたのだろうと察した。

 それも一人、二人というレベルではない。

 そして彼は生物階を守るため、あるいは神々を守るため、これからまた修羅となって地上に降り立つのだろう。


「ユージーンさん、俺が最初に会ったのが、あなたでよかった……でも、これ以上殺さないで下さい。殺しても何も解決しません」


 彼の姿はもうなかった。

 恒の思いも空しく、ユージーンには届かなかった。


”ユージーンさん、あなたは優しい方です。あなたの心を欺かないで下さい……解階の住民を殺さなくとも、答えはどこかにある筈だ。八方塞がりの状況に光明を見出すのが、神の本質じゃないでしょうか。どこかに穴がある、ブラインド・ウォッチメイカーの戦略には穴が……”


 これは武力で解決すべき戦いではない。

 解階の住民を殺したら殺しただけ、神々は反感をかう。

 アルシエルと交わしたであろう共闘態勢も意味を持たなくなってしまう。

 ブラインド・ウォッチメイカーは三階の内部対立と混乱を狙っている。

 三階の命運を賭した頭脳戦、そして心理戦は、とっくに始まっているんだ。


 必要とされるのは力ではない、知力だけだ。

 恒はそう確信していた。

 目先の事態の収拾に追われて、本質を見逃してはならない。

 三階はこちら側とあちら側の創世者同士の、頭脳戦に巻き込まれ、翻弄されている。

 ユージーンは今、目先の事態に囚われている。

 もっと根本的な打開策を打ち出さなければ……恒の戒めは解かれたが、先ほどと全く同じ体勢でベッドの上に寝ているしかない。


 極陽は大本営に戻ったのだろう、神々の長として生物階降下中の神々の指揮をしなければならないのだそうだ。

 恒は極陽が戻って来るまでの間に、傷ついた身体を休めながら夢の中の創世者、名も姿もなきもの(ノーボディ)に会いに行こうと決めた。

 彼はまだ、ブラインド・ウォッチメイカーの策略に対抗する術を持っているのだろうか?



 藤堂家の方面から爆発音を聞いた朱音は、たまらず自転車に乗って駆けつけた。

 恒が帰ってきたら長年の想いのたけをぶつけて、今日告白しよう。

 そう思っていた矢先のことだった。

 恒の身に、あるいは志帆梨の身に何かがあったのか、朱音はそう思うと居ても立ってもいられず、家を飛び出してやってきた。


 黙って家を飛び出して、母には怒られるだろう。

 だが家でじっとしてなどいられなかった。

 藤堂家は見た目には何も変化が起こっているようには思えない。

 家の玄関は鍵がかかっていなかったが、煌々と電気がついている。

 辺りにはきな臭いにおいがして、何となく埃っぽい。

 鳥小屋の雄鶏がまだ爆発に興奮しているのか、コケー、コケコー、などとせわしなく鳴き声をあげていた。

 朱音は自転車を降り、玄関で律儀に靴を脱いで藤堂家に踏み込んだ。

 家の中は、もぬけの殻だった。

 志帆梨も恒も、誰もいない。


「恒君? おばさん? ……どこ?」


 家にはいないのかな、そう思いながら和室に踏み込んだ朱音はうっと口を覆った。

 吐き気がするような光景が目の前に広がっていた、畳の上に血が飛び散っている。

 朱音は指先を血だまりに差し入れてみた。

 濡れている……やはり先ほどの爆発の時に……。

 天井を見上げると、風穴が開いて満月が顔を出している。

 ぞっとするような、不気味な空だった。


 朱音は恒と志帆梨の姿を捜しまわった。

 これは恒の血ではないのか? 志帆梨はどこに行った? 

 ……彼女はパニック状態になりそうになりながら、胸の鼓動を押さえつけてサッシを開け、縁側から庭に飛び出した。

 古い日本家屋は人の気配がないと不気味だ、それでも朱音は持ってきた懐中電灯の明かりを頼りに歩みを進める。

 耳を澄ますと家の裏の茂みから、男のうめき声が聞こえてきた。

 朱音は地を這うようなその低い声を聞いて、とてもこの世のものが発している声だとは思えなかった。

 彼は誰だ? そして恒はどこに行った……。

 朱音は男の声がいっこうにこちらに近づいてくる様子がないので、思い切って近づいてみることにした。


 草地に横たわっていたのは、若い男のようだった。

 朱音は恐る恐る懐中電灯で男の姿を照らす。

 タイトな真っ黒のボディースーツを着てマスクを被っている。

 マスクからは顔が半分出ている。

 外国人のような面立ちの若い男だ。

 白金の髪の毛、青い瞳……。


「ユージーン先生!?」


 彼女はユージーンだと勘違いして反射的に駆け寄った。

 グリゴリ=デューバーは極陽の神具FC2-マインドキューブの六杆対精神分裂という非情な攻撃に打ちのめされ、精神系の破綻を招いている。

 まさに彼の命は燃え尽きようとしていた、その瞬間に朱音は居合わせてしまったのだ。


「ユージーン先生じゃ、ない!」


 彼女がそう気付いた時にはもう遅かった。

 顔が半分隠れていたので識別できなかったのだ。

 そして金髪で碧眼の外国人はこの村にユージーンしかいなかった。

 彼女はしまったと思ったが、グリゴリは藁にもすがるような思いで朱音の腕を捕らえて離さない。勿論正気での行動ではない。

 誰かが近づいてきたので、それにしがみ付いた。

 朱音が誰だ、などとは認識できない。

 彼の大脳は破壊され、本能のみが残っている。

 しかしそれもやがて死に絶え……。


「キャー!! 誰かー! 誰かーッ!」


 朱音は大声で叫んだが、誰も気付いてはくれないと分かりきっていた。

 ここは山の中腹で、叫んでも誰も来ない。


 朱音は強い力で手首を掴む男に怯えたが、彼が錯乱していると知るとそれほど怖くはなくなった。

 断末魔のような声をあげ、泣き喚き、そして呻く。

 理性があるとはとても思えない。


「あ、あなた、大丈夫?」


 朱音は子供のように泣きじゃくる彼の額に、そっと手を当てた。

 胸をかきむしるような仕草をしたり、足をばたつかせたりと落ち着きがない。

 朱音は子供心に、彼は今から死ぬのかもしれない、そう思った。

 こんな状態でもう長く生きていられるとは思えない、狂い死にするのだ。

 マスクを脱がせてやると端正な外国人風の男の顔立ちが現れた。

 ただし、目は明後日の方を向いており白目を剥いているし、口から泡を吹いている。

 朱音はそれだけで気味が悪いと思ったが、兎にも角にも手首を掴まれているのだからどうしようもない。

 ここは説得して、病院に送るのが一番だ。


「あ、あなた、病院に行く?」


 しかし119番に通報しようにも、この男から離れて恒の家の電話台に行かなくてはならない。

 彼は心細いのか本能からなのか、朱音の手首を放そうとはしない。

 両目の現れた彼は朱音の姿を認めると、どこの言語とも知れないような言葉で呻き始めた。

 朱音はふとこの男が気の毒になって、随分と大きな彼の身を両手を拡げて抱きしめてやった。


「大丈夫よ……落ち着いて」


 朱音はそう言いながら、彼に怪我がないかと目を配った。

 先ほど畳の上で見た夥しい量の血は彼の血だと信じて疑わなかったのだが、彼に外傷はなかった。


「嘘、ではあれは誰の血?」


 朱音は彼の頭を撫でてやりながら、彼に問いただそうとした。

 しかし正気を失って衰弱してゆく彼が、まともな返答をしてくれる筈もない。

 朱音は諦めて、彼を落ち着かせようと抱きしめた。

 彼が落ち着いて自分を放してくれたなら、119に通報しよう。

 彼を救急隊に任せて、恒を捜さなければ……彼女は順序だてて物事を整理しながら、しかし彼に触れているうち、だんだんと睡魔に襲われてきた。

 催眠術にでもかかってしまったかのようだ。


 朱音が夢の中で目が覚めると、夜の浜辺に立っていた。

 月もない、暗い海原だ……まるでヘドロで出来たような、暗い海からは生暖かい風が吹いてくる。ヘドロのような、腐ったような臭気を含んでいた。

 向こうから、ヒタヒタと黒い影が歩いてくる。

 海原の上を、足を濡らす事もなく、水の上を渡ってくる。

 朱音は逃げ出したい気持ちにかられたが、足が竦んで砂浜にめり込んだように動かない。

 砂地が朱音の足を捕らえていた。

 黒い影は銀髪の幼い少女となり、ゆっくりと歩いてくる。

 青い瞳の人形のように美しい容貌の少女だった。

 海ホタルの光のごと緑色光を纏って、発光している。


 彼女は折れそうに細い四肢に、黒い衣を纏っているが、ずぶ濡れだ。

 彼女の髪の毛も顔も衣服も黒い水に濡れている。

 彼女の上顎から、黒い水滴が滴り落ちる。


”お化け……この子お化けよ、絶対……”


 朱音は彼女から目を離す事が出来なかった。

 少女は一直線に朱音に近づいてきて、波打ち際から砂地に上がってきた。

 その頃にはもう、朱音は全身が金縛りのようになってしまって、逃げ出すことが出来なかった。

 少女はヒタヒタと足音を立てながら、朱音の傍を通り過ぎていった。

 通り過ぎた彼女の後ろには水滴が出来て、黒い水溜りができていった。

 砂地が、ズブズブと腐ってゆく。

 助かった、もう行ってしまったのか? そう思った瞬間……。


《ころせ……とうどう こうを……ころせ……》


 少女の声が耳元で聞こえた。

 脳の髄に刺さるような、ぞっとするような冷たさを含んだ囁き声だった。

 朱音がぎょっとして振り返ると、夢から覚めて藤堂家の裏庭にいた。

 じっとりと汗ばんだ腕を見ると、元のように男を擁いていた。

 男の息の根は止まっている。朱音はズキン、と妙な頭痛がするのを感じた。

 覚えていない、何故ここにいるのか? この男は何だ? 

 しかし一つだけ覚えている事がある。

 あの銀髪の少女と、彼女の囁いた呪詛を。

 あの言葉は何だったか? 思い出せない。

 だがとてつもなく嫌な予感がする。


「イヤあァァ! アアッ!」

 

 朱音は死んだ男の腕を振り払って、坂道を転がるように自転車をこいで家に逃げ帰った。

 しかしこの頭の重さはどうした事だろう、あの少女は何を言った? 

 どうしても思い出せない。

 彼女が朱音に囁いた言葉……覚えていないのに、忘れられない。

 朱音は死に至る毒物を飲み込んでしまったかのように感じた。 

 家に戻ってふと、足先が濡れているのに気付いた。

 両足にはべっとりと、ヘドロのような黒い液体がまとわり付いている。

 少女の髪の毛を、全身を濡らしていたあの気味の悪い液体だ。

 どうすれば、一体この毒を吐き出すにはどうすればいい?

 朱音はそのまま風呂場に駆け込んだ。

 洗い流しても、洗い流しても取れていないような気がする。


 彼女は自分に、何かをした! 

 そして彼は同じように彼女の夢を見たがために狂って死んだのではないかと……。

 恒はどこへ行った? 

 ひょっとして、自分が助かる為には何かをしなければならないのか――? 

 少女の囁いた呪詛は、朱音には思い出せない。

 だがまるきり覚えていないというわけでもない。

 きっと自分はあの瞬間、時限爆弾のようなものを脳に埋め込まれた。

 何かをしなければならいのか?


「……っきないよ。できないよ! そんなこと! 何をすればいいのか分からないけど、私にはできない……」


 落ち着け、あれはただの夢だ。悪い夢なんだ。

 しかし狂い死にした男の姿がどうしてもフラッシュバックする。

 どうすればいい? 自分はどうすればいい!? 

 あんな風に死んでしまうのか? それだけは御免だ。

 朱音は近所迷惑も省みず、大声を上げて絶叫した。


 夢よ、あれはただの夢……。

 しかしどうしてもそう思って割り切れない。


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