第1節 第4話 Ordinally life
臨時教師ユージーン=マズローの風岳小学校教師としての着任日。
事もあろうに交通事故に遭遇し、遅刻寸前となってしまった。
「嘘でしょ、タイミング悪すぎ」
瞬間移動で体育館裏に突然現れたユージーンが懐中時計を見ると、職員朝礼のわずか十分前だ。
ひらりと高いフェンスを飛び越えて来賓玄関から入り、挙動不審な外国人は職員室をさがす。
建物の構えも、生徒数も意外に大きな学校であって困惑する。
”下調べをしておくべきだったな”
体育館裏から来たユージーンには学校の間取りがよく分からなかった。
この小学校は中学校と建物の一部を共有しているのでグラウンドも設備も、武道場までも完備してある。
ようやく職員室を見つけると、既に職員朝礼の最中だ。
ガラガラと扉を開けて遅刻気味に入ってきたユージーンを知らない教師はもういない。
窓側の手前の席で皐月が控えめに手を振っている。
教員は大体五十名ほどだろうか。
「おはようございます。初日から遅れまして、申し訳ありませんでした」
個性的な顔をした校長と思しき人物がまちかねたといった態度でひょいひょいと駆け寄ってきて、横に立って紹介した。
「おはようございます先生。こちらは、本日から5年2組の副担任をおひきうけ下さいました、ユージーン=マズロー先生です。先生は日本語に堪能でいらっしゃって、国語、社会、体育を担当して頂きます。また、先生は医師でもあるとのことで」
ユージーンは今聞かされたという表情を微塵もせずに、いちいち愛想よく頷いていた。村長は英語を教えてほしいと言っていたが、担当ではないようだ。
遅刻をしたのだから、ふてぶてしくできるわけもない。
「至らないところも多々あるかと思いますが、ご指導のほどよろしくお願いします」
いつものように丁寧すぎるお辞儀をすると、惜しみない拍手が送られた。
教員たちはユージーンが存外若くて腰が低いのでひとまず胸をなでおろした。
彼らは村人たちからユージーンが起こした数々の奇跡だかマジックだかについて聞くには聞いていたが、校長もユージーンとは教師として接するようにと通達していた。
一時間目は道徳。
皐月はユージーンに名簿を手渡し、クラスの皆に自己紹介をして下さいと伝える。
出席簿を見ると男子17名、女子14名の計31名のクラスだ。
山村の学校にしてはなかなかの生徒数である。
ひと学年120人、六学年で700人。
人口3500人ちょっとだと言っていたので、この村がいかに子供が多いのかが分かる。
この国の少子化対策は、この地域に限っては必要ないのかもしれないなと彼は暢気にそんな分析をした。
皐月はユージーンの就任の記念なのか、農家で買ったスイートピーの花束を持ってきていた。
花束を小脇にかかえながら手帳をめくっている。
恒が久しぶりに登校してきたということを、クラスの児童から聞いていた。
「……で、三時間目は国語を教えてください。四時間目は社会。一組二組合同で、五時間目は体育、今日はマット運動と鉄棒です」
花などを持ってきていても、皐月は少々不機嫌だった。
あわや辞表を出しかけたほど、恒はどんなに皐月が心をくだいても手に負えない子供だったというのに、僅か数週間前にやってきたユージーンにはすっかり懐いているのが腑に落ちない。
恒は賢い子であるから、神だと名乗る胡散臭い詐欺師など相手にしないと思っていたのに。
彼女はそんな不満をいだく。
「それから……あの、この際ですからはっきりさせておきたいのですけれど、教室で子供たちに対して神様だと名乗るのはやめてください。ここは教会でもカルト教団でもありません。学校なんです。そういう設定や営業は抜きにして普通に授業をしてください」
皐月は厳しい顔つきでユージーンを見据えた。
どうして校長はこんな男を雇って、そして日本という国は何故こんな男に教員免許を与えたのだろう。彼の教員免許(の写し)を見せてもらったとき、他資格の証明書もファイルにごっそりと数え切れないほど入っていた。
医師、弁護士、教師、何でもある。
果ては美容師なんてのもある。取得年齢もまちまちだった。
60年代や70年代に取ったことになっている資格もある。
彼は49歳なのだというが、新卒にしか見えない。
どこからか免許をかっぱらってきたというところだろう、と皐月は推測する。
ユージーンは疑われていることは重々承知していた。
「吉川先生、言うまでもなく、この場では教師として働かせていただきます」
「大体49歳だなんて、そういうごまかしがいつまでも通用すると思うのですか」
「それは確かに嘘です。これには深い事情がありまして。でも教師として、あなたに信用していただけるよう努めます」
それより若いという意味では決してなかったのだが、皐月は嘘と認めたことにひとまず納得して教室に入ろうとしたので、ユージーンは待ってととどめた。
そっとドアから見えるテグス糸を指差す。
「歓迎があるようです。先に入りますね」
ユージーンは皐月の持っていた花束をもらうと、わざとにテグス糸を踏んで教室のドアを開けた。
その瞬間カチリと音がして上から水の入った金属の花瓶が落ちてきた。
彼は慌てず騒がず花瓶の口をつまむと、水を一滴もこぼすことなく受け取り、皐月の用意してきた花束をその場で生けて教壇の上に置いた。
続いて教壇の下に隠してあったテグスをひざで引っ掛けると、赤いチョークがスピーカーの横から飛んできた。
ユージーンは後ろを見ることも無く飛んできたチョークをひっつかんだ。
鮮やかな身のこなしは見ている分には申し分なく素晴らしいが、皐月はドアの外から、あれほどイリュージョンはいいといったのに、何も分かってくれないと溜息をついた。
おーっ! と拍手が沸き起こり、皐月も半ば呆れながら教室に入ってきた。
ユージーンは教室を沸かせるだけ沸かせておいて、教壇を皐月に譲った。
「だ、誰ですか! こんないたずらをしたのは」
誰と聞くが、皐月にはもう犯人の目星がついていた。
恒が面白くなさそうに片肘をついている。
半年ぶりに座った彼の特等席だ。
恒をこの席につかせるために皐月がどれほど心を痛めたか、と彼女は腹が立つ。
「藤堂君、あとで話がありますからね」
皐月が睨み付けると、恒は違うと手を振った。
「俺じゃありません。皆がユージーン先生を信じないので、試してみたらと言っただけです」
恒を頂点とする少年グループは脱クラス・脱学年的に遊んでいて、その子供達は大抵社務所に押しかけてきたので、ユージーンもクラスの四、五人ほどとは面識があった。
だが残りの子供達は神様先生がやってくると聞いて、信じられなかったのは言うまでもない。
先日の祭りではユージーンは奇跡じみたことは見せなかったので、疑う者も多数いた。
社務所で遊んでいた子供達も、恒が言うのだから信じているだけで、何か確証があって神だと信じたのではなかった。
ユージーンはざわめく児童たちに背を向けチョークをとると、黒板にユージーン・マズローと片仮名と英語で書きつけ、教壇を譲ってもらった。
「皆さん、はじめまして。ユージーン=マズローといいます。このクラスの副担任として、国語、社会、体育を担当させてもらいます。よろしくお願いしますね。それから、今のような悪戯でわたしを知ることはできませんし、これから授業や学校生活を通じて、少しずつお互いに理解しあっていきましょう」
*
「一体、どういう事?」
恒はひとりぽつんと、皐月のデスクの前に立たされていた。
二時間目が終わって大休憩の時間である。
ユージーンは子供達に誘われて運動場にドッヂボールに連れて行かれた。
一緒に飛び出そうとする恒の首根っこを捕まえて、誰もいない教室で個別指導だ。
恒は明らかに以前の表情とは違って、溌剌としていた。
そんな変化がまた、皐月には理解できない。
彼に何を吹き込まれてそうなったのだろう。
「どういう事ですか?」
「どうして突然学校に来る気になったの」
「義務教育ですので」
この、生意気で人をくったような態度。
これが藤堂という少年だ。
彼の言動には裏があり、本心を見せようとはしない。
「そうではなくて! ……藤堂くん、ユージーン先生と毎日会っているって話だけど? 先生に学校に行くように説得されたから?」
「はい」
あっさりと肯定する恒に苛立ちを気取られぬよう、引きつった笑顔を引っ込めながら、皐月はメモをとる。
「今まで、すみませんでした」
突然の謝罪の言葉に、皐月は顔を上げる。
「え?」
「先生にも村の人たちにもいっぱい心配かけてごめんなさい。でももう大丈夫です。これからは毎日学校にもきますし、子供じみた悪戯もしません。俺のせいで先生が辞職しようとしていたんだって、皆から聞きました。俺、自分のことばっかりで、先生の気持ちなんて考えた事がなかったんです」
「藤堂君は昔から何か思いつめていたものね。でもそれが何故なのかを、先生には遂に教えてくれなかった」
「ごめんなさい。誰にも分かって貰えないと思ったから」
恒は頭を上げて、皐月を傷つけてしまったか彼女の顔色を伺う。
言葉のあやでそうなってしまったが、恒はこれまで誰をも信じなかったわけではない。
「そう……私より信用できる人、それが、ユージーン先生だったの?」
皐月はこんなに素直な藤堂少年を初めて見た。
すっかり更生している。
あのひねくれて、何もかも人生を諦めきってしまったような、小賢しい少年の姿はどこにもない。
「いえ、あの……そうです、はい」
「まさか神様だなんて思っているわけじゃないわよね」
「思っています」
彼は即答した。
「藤堂君が見たものは、マジックやイリュージョンの類なの。どこのマジシャンだってやっていること。空飛んだりするマジックもいくらでもあるわ。神様なんて、科学的に考えてありえることではないのよ」
「マジックで一瞬にして傷を治した人を、十年も病気だった母を癒してくれた人を知りませんけど。先生も俺も、科学で説明できない存在なんてないと思い込んでいる。俺は今でもそうです。あの人の不思議な力も、少しも不思議なものではないんです」
「何故そう言いきれるの?」
恒は論理的な話ができるので皐月もついつい大人として扱ってしまう。
やや詰問するような口調になってしまって、皐月は反省する。
彼の心は子供なのだから、全否定するのは宜しくない。
「上島先生がDNA検査をした結果、人間ではないと結論付けました。あの人の血液は赤透明な色をしています、そして脈がありません」
「透明……?」
皐月はぎょっとした。
「この世界は、まだ謎に満ちています、彼はどこから来たのかわかりませんが、人ならざる何かで、人より優れた力と知力を持ち、太古から人々を見守ってきた存在、それを人は神と呼んだのではないでしょうか。彼は神と名乗ったけれど、唯一絶対の存在だと言いたかったわけではありません。ただそういう名の種なんです」
「藤堂君、それは……」
「何か俺は矛盾したことを言いましたか?」
皐月の大学・大学院時代の専攻は宇宙物理学で、”事象の地平”の理論的研究をしていた。
ブラックホールの境目、宇宙最速として認められる”光”すら抜け出せなくなるポイント、そこでは時間が止まり、何者も逃れられない。
絶望的なほど非常に低い確率でしか、この宇宙に知的生命体は生じないことになっている。
まして人間に近い姿をした生命体などありえない。
人類はこの宇宙の中で、この惑星の上でいつまでも孤独だ。
一体どこに、神のつけいる余地があるのか。皐月には理解できない。
「あの。ユージーン先生に教師として接してあげてください。なんか皐月先生、ユージーン先生に当たりきついし。彼も居心地が悪そうですし、長く勤務してほしいです」
そうまで言われては、皐月も無理に笑顔をつくるしかなかった。
恒と話していると、どちらが大人やら子供やらわからなくなってくる。
皐月はくじけそうになりながら、平常心を取り戻そうと努める。
「わかったわ。とにかく、藤堂君が学校にきてくれて嬉しい」
「ありがとうございます」
*
大休憩終了のチャイムが鳴って、ユージーンが教室に戻ってきた。
子供達とはもうすっかりうちとけたようで、既に大人気である。
三時間目は国語。
指導要領は一週間前に渡していた。
この題材は、小学五年生の最も典型的な題材であり、必ずといっていいほどどの出版社の教科書にも出てくるものだ。皐月はお手並み拝見とばかりに教室の後ろに腰掛けて眼鏡をかけた。
そもそも、見た目はまるきり外国人だというのに日本語が不自由なく読み書きできるというのだからまず驚きである。
漢字検定なども1級を持っているらしい。
そこまでして資格を取ろうとする、必要性がわからない。
資格を取得しまくるのが趣味なのか、学生時代にそんなサークルにでも入っていたのだろうか。
タイトルと作者名を縦書きの楷書で丁寧にすばやく書き付ける。
その漢字の文字の美しさに、皐月は息を呑んだ。
ユージーンはまず今日の範囲を、すらすらと音読しながら、教室ひとりひとりの生徒を回っていった。今まで見たこともない光景だが、恒も熱心に勉強している。
もっとも、小学生の国語など今更勉強する必要もなかったからなのだろうが……。
ユージーンの声は優しく、子供達を安心させるような朗々としていい声だと思った。
彼の声は皐月の深いところに響き、切々と訴えかけるものがあった。
少し偏見が過ぎたが、彼を正当に教師として評価しなければならない、と皐月は考えを改めた。
この題材の授業は3週ほど進めてあったから、ユージーンは中盤からまとめの担当となる。
先週配布しておいたプリントに、この題材を読んでの感想を書かせていた。
ユージーンはそれに目を通していたから、それをもとに授業を進めるはずだ。
授業をしやすいよう、お膳立てはしておいた。あとは彼の手腕を正当に評価したい。
ユージーンは簡単にポイントを整理して黒板に書きつけながら、情景描写のイメージを膨らませられるようにする。
なかなかの手腕だ。
教師としては、確かに49歳ほどの貫禄があるといえなくもなかった。
一方の恒は真面目な顔をしながら教科書の挿絵にせっせと落書きを追加していた。
*
ユージーンの授業はわかりやすく、面白いということで子供たちの支持を集めていた。
ユージーンは皐月や教職員に認めてほしかったわけではないが、妙な事をして信頼を失いたくはなかったようだ。
彼は神通力、皐月のいうところのマジックやイリュージョンの類はどれだけ子供からせがまれても一切行わなかった。
こうなるといくら疑われていても、力を使わないのだから人外なのか人類なのか検証のしようがない。
疑いはいつまでも晴れなかったが、結果的に皐月との約束を守る形となったため、皐月も無下に接するわけにはいかなくなった。
皐月は皐月で、彼の人格が気に入らないとか、鼻につくなどの不満は持っていなかった。
ユージーンは人当たりのよい温厚な教師だ。
妄想、虚言僻さえなければ彼を好きになれそうだとさえ思う。
その根本的かつ子供じみた嘘を改めさせ、教師として再スタートを切ればよいのにと、勿体無く思う。嘘を見破るにはどうすればよいか……脈がないという噂もあったが、見た目に男性だということでさすがに触れて確かめるのは難しいし本人も警戒するに違いない。
この数日でその他に分かったことといえば、彼がおそろしく学識のある人物だということ。
そして身体能力がずばぬけているということぐらいだ。
そういうイカサマでないことは、いくら皐月でも素直に認めざるをえない。
この才能があれば詐欺まがいなことをしなくても充分食べていけるだろうに、理解に苦しむ。
日本に来て長いのか日本の事情にも詳しく、その見識は日本人と遜色ないほどだ。
皐月はユージーンと校庭に面した渡り廊下を歩きながら、彼の正体を勘ぐっていた。
彼がどういう経歴を経て今に至るのか、皐月はまだほんの1%ほども突き止めてはいない。
ユージーンは特にやましげな態度を見せることもなく、愚直なまでに淡々と日課をこなしてゆくだけだった。
必要な事は全て知っているようだったし、皐月が何を言いたいのかも聞く必要がないといった風だった。
そんなわけで、皐月は今日も会話の手掛かりを失ってしまう。
皐月は彼に対して、いつも詰問をしてしまっていることに気付いていた。
一体この人は何者で、何のために村に留まろうとしているのだろう。
それを聞き出すために、もうどれほど質問を重ねたことか。
彼の答えはのらりくらりとしている。
この日もその手の会話になっていたところだ。
「先生、私はあなたを尊敬しています。わざわざ分かりやすい嘘をつかなくとも、あなたはお若くして素晴らしい見識と才能がおありになるのに、いつまでご自分を偽るのですか」
「わたしが人間ではないというのは事実です。嘘の経歴を上塗りしてあなたを騙したくはないのです。これはせめてもの誠意とお受け取り下さい」
「誠意だなんて、からかわないで下さい。私はただ、あなたと正直に接してゆきたいだけです。いつもはぐらかして」
「……わたしは教師を辞めた方がよいのでしょうか。このままではあなたを傷つけるだけです。この村のお役にたちたいと思い引き受けましたが、これでは本末転倒です」
つまりそういう遣り取りに終始するのだった。
皐月はもういっそ彼がこういう精神の病気にかかっていると思った方が楽になるのか、とすら思いつめた。とても嘘をついているような顔ではないが、有り得ない事を平然と言っているのだ。
病気なら仕方がないが……。
「辞めるだなんて。そんなつもりじゃ……」
たとえ精神を病んでいるとしても、恒を学校に引っ張って来たのは彼だ。
恒を学校に来させることがどれほど難しい事か皐月は身をもって知っている。
あの子を説き伏せ、信頼させ学校に連れてきた。
皐月には不可能な三つの事をやってのけたのだ。
彼は恒の信頼した、ただ一人の人間に違いなかった。
皐月に彼の代役が務まるとも思えない。
辞めるなどと言われるとまた心細くなってくる。
詐欺師だなどと思いながら、この変人を辞めさせずになんとか更正させたい。
それには彼の嘘を暴いてはっきりさせなければ。
皐月は意を決して、何か細工をされないよう突然彼の左手首を握り締めた。
許可を得なかったのは、細工をされないためだ。
ユージーンはびくっと肩をこわばらせ、驚いて立ち止まる。
「はっきりさせましょう。ごめんなさいね、脈をとらせて下さい。よろしいですか?」
「ええ、いいですよ」
まさか脈のない人間なんて……皐月は必死に拍動する血管を探したが、見当たらなかった。
上島ですら騙したというのだ、手に細工をしているのかもしれない。
皐月はひょいっと手を伸ばし、頚動脈のあたりをまさぐった。
皐月より随分身長の高いユージーンは少し腰を落としてかがむ。
「どうですか?」
上島と違って、皐月は脈の正確な位置を知らない。
自分と照らし合わせて必死に探すしかなく、皐月は自らの頚動脈の位置を確かめて、ユージーンの頚にあてはめる。
彼はこそばゆさを感じながら、彼女の納得のゆくまで、ありもしない頚動脈をさがさせる羽目になった。
「対応する脈がないでしょう」
「低血圧とか貧血、じゃないですよね?」
いくらさがしても見つからなかった皐月は、そんなことを訊いてみた。
彼の顔は貧血とは思えないほど血色がよい、その線はありえないか。と皐月も諦める。
「ちがいます」
あまりにもお粗末な質問だとは思っていた。
ユージーンは呆れたのだろうか、それ以上何も言わなくなった。
「何をもって種の相違の証拠とすればいいでしょう。血液を見てみますか」
「人のそれとは違うんですか?」
「そうですね、大きな違いとして、わたしの血液は血球がありませんので赤透明です」
その時、廊下のかどを回ってやってきた女子児童二、三人とばったり出会ってしまった。
皐月はまだ諦めずにユージーンの首筋に手を回していたものだから、彼女らが誤解したのは仕方がないことだ。
「ちょ! で、できてる!」
「えー! この二人、もうできちゃってる!?」
「ち、ちがうのこれは……!本当に」
「いやー! できてるー! 皐月先生に彼氏ができたよー!」
「できちゃったー!」
そう無責任にわめき散らし冷やかしながら、彼らは逃げるように走り去っていった。
ユージーンは厄介な事になったと思ったが、せいぜい囃し立てられるぐらいで深刻な問題にはならないだろう、と思い直したし、不仲説よりはよほどましだ。
皐月が思いがけない失態に顔を真っ赤にしていると、彼のポケットからバイブ音がした。
学校でおおっぴらに携帯を身に帯びているのは、彼ぐらいだ。
「では、次の機会にお見せしましょう」
画面で表示を確認すると、皐月に会釈をし、人目を避けるように外に出ていった。
彼には村長や村人たちから社務所を経由した転送電話が入ってくるというので、携帯を持たせてもらっている。事実、上島から急患の知らせが入り、駆けつけたこともあった。
そんな事に首をつっこまなければいいのに……と思っているのは皐月だけのようだ。
上島からは何度も連絡が入るようになった。
つまり上島は彼を当てにしている。
使えない応援を呼びはしない。となると、彼の持つ医師免許は本物なのだろうか。
いったいどの資格が本物なのか。
医師免許? それとも弁護士? 教師は偽物ではないのか、などと疑い出せばきりがない。
彼の若さからして大量に資格が取れるはずがないのだから、偽物もあるはずだ。
立ち聞きしてはいけないと思いつつ、皐月は壁の影に隠れて聞いてしまう。
ユージーンは辺りを慎重に見回し、受話ボタンを押した。
用心深いんだか、無用心なんだか掴めない。
「何かあったのか? ああ。なるほど。やむを得ないだろう。エドマ=ムスタフィの殺害を許可する。今? 仕事中だ。それでいい、そうしてくれ」
エドマ=ムスタフィ?
皐月には聞き覚えのある名だった。
殺せとは、本気で言っているのだろうか、何かの隠語なのだろうか。
ふざけているようにはとても見えないが……。
携帯を切ると、こちらに戻ってきたので皐月は逃げるようにその場を離れ、職員室に戻った。
ユージーンは職員室には戻らず、また子供たちに誘われて外に遊びに出ていったようだ。
校庭をかけずり回っているのが、職員室の窓からよく見えた。
殺せなどと言った直後だというのに平然と子供と遊ぶ様子には、なんの疚しさも感じられない。
「何もわからない」
皐月は頭を抱えるしかなかった。
*
皐月は午後の授業を終えて家に帰り、パンプスを脱ぎ捨てストッキングを洗濯機の中に放り込む。一息つく間もなくパソコンを起動し、検索エンジンクーグル(Coogle)に入った。
こんな事をして調べたところで、まさか名前が検索に引っかかるとは思わない。
皐月の記憶にあった名前を探す。
検索によって引っ掛けた最新ニュースにエドマ=ムスタフィ、脳梗塞により死去と報じてあった。
ムスタフィは中東の独裁国家の首相だ。
皐月の脳裏にムスタフィを殺せと命じたユージーンの声がこびり付いて離れない。
脳梗塞という話だが、暗殺なのではないかという勘繰りも働く。
更に皐月をそれと確信させたのは、殺害を指示した時刻と死去の時刻が同じだという事だ。
だとしたら彼は暗殺を生業とした組織の一員なのだろうか。
確かにその国家は軍による圧政を敷いていたし、国連制裁決議も決まっていた。
彼はスパイか何かだというのだろうか。
今もこの村に来て、何かの工作を行っているのだろうか。
最悪の場合、テロだって企てているのかもしれない。
この村に強引なやり方ででも留まろうとすること、大量取得された資格の謎や、指紋や遺伝情報が出ない理由も分かる。
全てが一つに繋がったような気がした。
マジシャンのような立ち回りは、その筋の人間なら心得ていることなのかもしれない。
医学に明るいのも、戦闘が日常化している環境にいたのなら不自然ではない。
”……そうなの? あなたは人殺しのスパイやテロリストなの?”
風呂上がりの濡れた長い髪の毛をそのままに、皐月は頬杖をついた。
正体がわかったなら、ずっと一緒に仕事したいと、彼女は少しだけ思えそうだった。
だが、それは叶わないことになりそうだ。
 




