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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第48話 Creator and Creation

 日も暮れたしそろそろ実家に帰らないと、と言いながら恒は帰りの支度を始めた。


 神階と生物階の現状を考えると後ろ髪を引かれる思いだが、志帆梨を一人にしてはおけない。

 神階に日は昇らないし日も暮れないので、腕時計を見ていとまごいをした。

 神階の時計は全てイギリスの世界標準時を指している。

 日本時間に合わせている腕時計を小まめに見ていないと時間の迷子になってしまう。

 とにかく夜には実家に帰るという約束だし、志帆梨にも心配をかける。


 恒が気付いた事は余さず空山に伝えておいた、空山は政府にコネがある。

 何らかの対応を期待したいところだ。

 以御は先ほどのケーキを詰めて志帆梨への手土産も気前よく用意しながら帰りの手続きをしていたのだが、事務局である軍神下幕僚統監部から緊急連絡が入るなり険しい顔付きとなった。


「ちょい待て! 家には帰れない」

「どういう意味ですか?」

「ユージーンが、あなたを家に帰すなと言っているそうだ」


 風岳村の方面で事故でもあったのだろうか? 直接連絡をくれればいいのに、手が離せない事でも起こっているのか。


「何故ですか?」

「こっちで少し待ってろてんだろ、何か渡すものか話す事があるんじゃないか?」

「わかりました。お電話、貸していただいてよろしいですか? 母に連絡をします」


 恒は帰りが遅れると志帆梨に連絡して、自分の帰りを待たずに寝てほしいとの旨を伝えようと思った。

 志帆梨は特に恒が連絡をしなかった場合は、健気にいつまでも寝ず帰りを待っている。

 今日に限ってまだ寝てはいないだろうに、どれだけコールをしても志帆梨は電話口には出てこない。

 風呂なのかな、と思いながらも嫌な予感がする。

 まさか……志帆梨に何かあったのか? 

 それでユージーンは家に帰るなと引き止めているのか?


「母が、電話に出ません!」

「本当か?」


 恒は思わず以御に訴えた。

 以御は何らかの事情を知っていると思われるユージーンに携帯で連絡を取ろうとした、しかしユージーンにも電話が繋がらない。

 不審に思った以御はGL-ネットワークでリアルタイムで送信されてくる神々の生物階降下の情報を確認した。

 何という事だ、神名が真っ赤なフォントになってしまっている者が5柱もいるではないか。

 健在を示す黒いフォントから赤い明滅に変わりかけている神も多い。

 赤字は死亡を示す表記だ、赤字名の明滅は瀕死の状態を示す。

 腕に覚えのある武型神ばかりが何者かに殺されている……。

 ユージーンは彼らの援護に向かって手が離せないのだろう。

 恒は祈るような気持ちで自宅に電話をかけ続ける、何度鳴らしても志帆梨は出ない。

 あと一度だけ! そう思って電話をかけると受話器を取る音がした。

 電話の志帆梨は無言だ。怪我でもしているのだろうか。


「俺だよ、恒だよ! いるんだろそこに、無事なんだろ!?」


 恒はまくし立てるように立て続けにそう叫んだ。

 一言でいい、志帆梨の無事を確認しなければ。やや沈黙があって電話の主が答えた。


「トウドウ・コウとは……子供なのか?」


 すぐ耳もとから聞き覚えのない男の声がして恒は凍りついた。

 家の電話番号を間違う訳がない。

 誰だ! 彼は自宅に押し入って何をしている? 

 志帆梨は、母はどうなった?! 

 恒の思考回路はすっかり活動を停止してしまいそうになった。

 男は恒の居場所を尋ねようと、低い声で訊ねてくる。

 この口調、独特のニュアンス……メファイストフェレスの口調に似ている。

 人間ではない、と恒は直感的に悟った。


「どこだ? トウドウ」


 電話を取ったまま微動だにできなくなっている恒を以御が見つけて異変を察すると、受話器を奪い取った。

 以御はネゴシエーターとして戦局操作に介入してきた交渉のプロだ。

 各国の首脳を相手の交渉も日常茶飯事。

 冷静な判断ができなくなってしまっている恒は、彼のプロとしての仕事に頼るほかなかった。


「誰だ」

「トウドウはどこだ?」

「先に答えろ、そこにいる人間は無事なのか」

「返答によっては殺す」


 以御は志帆梨が無事なのかを、恒のために確認してやらなければならなかった。

 志帆梨が家にいたとしたら、とっくに殺されているだろうとは思うが恒には言えない。

 だが志帆梨の無事を信じるという方が絶望的だった。

 この男が解階の住民であったならば、万が一にも志帆梨が生きている可能性はない。


「本当か? 安否が心配だ。そこにいる二人の子供の声を聞かせろ」

「先にトウドウの居場所だ。子供たちは無事だ」


 緊迫したやり取りの中で、以御は交渉をさっさと打ち切り一方的に電話を切った。

 恒は彼の強硬な姿勢に血の気が引いた、逆上させてしまったら志帆梨の命はどうなる!? 何を考えているのだと怒鳴りつけたいが、以御はしたり顔だ。

 以御は恒に覆いかぶさるように電話を取ったが、大柄な体を恒の上から起こした。


「以御さん!」

「母親はどうやら、家にはいないようだぞ。あなたは通話が繋がってすぐ母親の名を呼びかけなかったから、相手は誰が家にいるべきなのか知らなかった。だから”二人の子供”は無事か? と訊いたんだ。解階の住民が生物階の男女の区別や、成人と子供の区別がつかない場合に備え、二人の子供と言った。相手は”子供たちは無事だ”、と言いやがった。ほらな、いないだろ?」


 以御は冷静に返答する。

 相手の語調、間の取りかた、声のトーン、そして会話の内容、以御のネゴシエーターとしての長年の経験に基づくと、志帆梨は留守をしているとの確証があったのだそうだ、それでカマをかけてみた。

 母親は間違いなく家に居ない。

 ユージーンは先に志帆梨に連絡をつけて避難をさせていると思われる、だから彼女は無事だと彼は言う。


「心配ない。母親は絶対に家にはいない。相手にするな」

「誰だったんでしょう? 人間ではなさそうでした」


 母は、家に戻っては来ないだろうか。

 恒はふとそう心配する。

 ちょっと買い物に行っていただけかもしれないし……近所に出かけていたのかもしれない。

 恒は志帆梨の安否が心配で気が気ではない。

 一方、以御は恒を安心させると同時に、恒が標的とされ狙われている事に気付いた。

 こんな幼い神の居所を、何故知りたがっている? 

 彼を生物階に帰してはならないとユージーンが言ったのは、恒の命が何らかの目的で狙われているからだ。

 しかし母親と会いたがる10歳の子供を神階に引き離して帰さないというのは心苦しい。

 生涯家族を持つ事もない神とは違い使徒には両親がいて、伴侶がいて子供をもうける事もできる。

 以御にも親を気遣う子供の気持ちがよく分かる。

 以御は恒から目を離してはならないと思った、彼は何としてでも生物階に戻ろうとするだろう。

 母親の安否を彼自身の目で確認したいと願う、それが子供だ。

 そしてそれは図星だった。


”母さん! 母さん、どうか……”


 恒にとって母親は恒という存在を肯定し、恒を生物階に繋ぎ止めた大切な人だった。

 彼女が傍にいてくれたから恒は造られたのではなく、生まれてきたのだと自覚することができた。

 彼女がいなければ彼女のいない世界など考えられない。

 恒は堪らなくなって、生物階に戻る方法を探った。

 ユージーンの気配を頼りに超空間追跡転移ができれば簡単だがあいにく恒の鈍いレーダーでは生物階にいるユージーンのアトモスフィアを感じられない。

 ユージーンは生物階から解階のアルシエルの気配を頼りに転移をしたが、あんな芸当は無理だ。

 やはり神階の門から生物階に戻らねばならない。


「以御さん、ちょっとお手洗い貸してもらってもいいですか?」


 恒はそう言いながら、執務室のトイレに逃げ込んだ。

 ここは使徒達が用を足す、トイレは密室で鍵がかかる。

 恒はトイレに駆け込んで中から鍵をかけた。

 以御は早速やられたかと思ったが、ドアを壊さなければ中に入れない、そしてドアは頑丈だ。

 以御の目をまんまと盗んで一瞬の隙に恒は神階の門の入口ロビーに瞬間移動をした。

 あとはひっきりなしに出入りを繰り返す使徒達に紛れて出ていけばいい、恒は生物階に運び出される荷物の影に身を隠し神階の門から生物階に抜けようと機をうかがっていた。

 後先など、考えている余裕もなかった。



 異常事態に対応するため急遽設営された神階大本営(しんかいだいほんえい)には、極陽以下枢軸、全位神、各部局長ら首脳陣が参集している。

 第一種、二種、三種、非位神に至るまで全神の動向と安否を掌握するレーダーと、生物階と陽階の情報を司る智神、リジー=ノーチェスの神具が、陰階神5位の情報を司る女神、ヴァレンティナ=エンフォリオ、置換名 有為 枝折(うい しおり)の神具であるRez:情報階層オーバードライバという情報ネットワークに接続されている。

 リジーの神具で情報を集め、有為の神具でデータ化し分業して正解な情報を極陽に提供する。


 いくら比企派で平時は極陽と反目しているリジーとはいえ、これほどの有事には極陽の勅令に従うものだ。

 彼女は文句も言わず指示に従い、真面目に仕事をしている。

 極陽に盾突くこともなく、黙っていれば目も覚めるような美しい女神だ。

 と、これは口にはできないが大本営に参集した神々の誰もが思っている。


 有為 枝折はドレッドの黒髪にピンクや青のメッシュの入った派手な頭で、空色の瞳を持つ、文字通り毛色の違う女神だ。

 その表情は大きな洒落たグラスをかけて隠している。

 着丈の短い黒いワンピース、腕にはごてごてと腕輪やブレスレット、首には純金で大振りなネックレスをいくつも重ねている。

 聖衣の露出度も高いが、これでも仕事はよくできる。


 ウエディングドレスのような清楚な聖衣を身に纏うフェミニンなリジーとは対照的な女神だ。有為の神具は神階、生物階に張り巡らされた情報ネットワークとサーバーであり、有形の神具ではない。

 だがリジーの神具と連携させることでより性能を発揮するし、GL-ネットワークを管理、運営しているのも彼女だ。

 逐一正確な情報を神々に発信しながら、リジーの神具から送られてくる情報を整理し、極陽に配信する。

 陰陽の枠組みを超えての体制だが、状況は決して楽観的なものではない。


「既に5柱が殺害されたか……」


 大本営のオペレーションルームに参集した位神達から悲鳴に似たため息が漏れる。

 大きなモニターには、各部局から集まってきた情報が有為の神具を介して次々と表示されている。

 有為の神具からだけではなく諜報課からも続々と連絡が入ってくる。

 サーバーはかなりの負担がかかっているため、ファティナも離れた場所から有為の演算に参加している。


「極陽、解階の貴族達の無差別テロに、アルシエルは一切関与していない模様です。追討隊を派遣したいが感染を懸念して身動きが取れぬと」

「アルシエル統治のもと一枚岩であった貴族階級に分派が台頭してきたのか?」


 極陽は慎重に情報を整理していた。

 神階が取るべき行動は生物階の存亡に直結している。

 生物階は解階の住民に対抗する術を持たない。

 彼等を守りながら神々の損失を防ぎ、生物階で尚も拡大を続ける感染症に有効な唯一の特効薬の、有機合成を粛々と進めてゆかなければならない。

 白衣に身を包んだ極陰が、勅令を発する事ができずにいる極陽の隣で、彼女の見解を有為に述べている。


「それがー、アルシエルも大変みたいで。謀叛を起こした貴族にはぁ、アルシエルの実子もいるしー? メグちゃんこれってマズくないー?」


 ちなみに、有為をはじめ織図や荻号など、陰階神は言葉も身なりも崩れているのは周知のことである。

 極陰も極陽も今更気にしない。

 彼女にしてみれば、極陽はスミちゃんに極陰は鐘遠”恵”のメグちゃんだ。

 陽階神なら法務局から切腹を申し付けられるような言葉遣いだが、彼女は陰階神なのでお咎めもなしだ。

 アルシエルは不法ゲートの摘発を急がせていたが、それらは巧妙に隠されていて発見が難しい。

 故意に何百年、何千年も隠蔽してきた門なのだから今更摘発を急いでもまさにモグラ叩きのようなもので、不法ゲートは根絶しない。

 アルシエルの対応を待つより、神階が早急に対策を打たなければ生物階もろとも神階も潰滅的な被害を受ける。

 極陽は情報を整理し、ようやく勅令を発しはじめた。


「生物階降下中の全ての陰陽階神にソートをかけ、フィジカルレベルが3万を切る神は神階に撤収させよ、解階の貴族には勝てぬ。犬死にだ」

「極陽、我も生物階に降りるべきだろう?」


 事態を重く見た極陰が生物階降下を申し出る。

 名実ともに陰階最強である彼女が生物階降下をするなら心強いことだ。

 極陽も極陰も、普段は生物階降下が認められていない。

 彼と彼女は神階を自身のアトモスフィアで支え続けているので、不在にすると神階の安定性が揺らぐからだ。

 だがそんな悠長な事を言ってもいられない、アトモスフィア吸収環を極陽に4つ課してでも人手が足りないので応援に行かなくてはならない。

寧ろこれ以上の神々の損失と人々の生命を守らなければ取り返しの付かないことになる。


 有為が生物階降下をしている神々にソートをかけ、フィジカルレベル 3万以下の神々をコンマ数秒でピックアップをした。

ずらりとリストアップされた彼等には撤収を命じなければならない。


「うむ、援護してくれ。フィジカルレベル 3万を超える、戦闘意欲のある者は文型武型の別なく降下し有機合成を行っている神々の守護をせよ。ただし無理はさせるな」


 極陰はアトモスフィア吸収環を解除し極陽に渡す準備をした。

 極陽は4つの吸収環に拘束され陰陽階を一柱で支えなければならなくなったが、司令官として勅令を発するだけならそれほど不自由はしない。

 大本営に集まっていたフィジカルレベル 3万を超える各文型神も、生物階降下の司令を受けて、一柱ずつ大本営を後にしていった。

 陰階神4位、電子を司る神 慈雨 尊(じう たける)、陽階神第8位 ヴィシュヌ=クリシュナらだ。

 武型神より強い力を持つ文型神もいる、 文型武型言っている場合ではない、戦える者は戦い人々の生命を守らなくては……。


「比企殿にも救援を派遣しますか」


 リジーは極陽に伺いを立てる。比企は一応文型神(XX)だ。


「何言ってんの、リジィちゃん。ヒッキーなら助けなんていらないって」


 有為はうっかりとそう言ってしまったので、比企を信奉するリジーにきつい一瞥をもらうこととなった。

 極陽は勿論比企には援護を送るつもりはなかった。

 彼は極位をすら狙っている器だ。

 神々の長の地位を虎視眈々と狙っている。

 その彼が他の神々から援護されるという事は、屈辱以外のなにものでもないだろう。

 有機合成を行いながら神々を援護し人々を守護する事は難しいだろうが、比企に割く人手が勿体無い。


「比企に援護はいらん、他に廻せ。全神と全使徒に告げよ、通常の全業務を停止し神階へ即時撤収、フィジカルレベルの満足ではない神には戦力外通告を出せ。独断での行動を控え大本営の決定に遵えと」


 極陽は毅然とした態度で指示を飛ばす。

 主神が戦意を喪失してしまえば生物階に降下した神々の士気が下がる。

 彼はどんな状況下でも強い主神を演じなければならなかった。


「それより……まだ見つからぬか」


 極陽は別の事が気になっていた。

 神々の損失も痛いが、この件はそれ以上に重要だ。


「は、草の根をわけてでもと捜索させておりますが、殺害された5柱の神々に相当する神の赤子は一柱も発見されておりません」

「何故だ……何故神が誕生しない。葉が落ちれば蕾が膨らむは自然の摂理、神が崩ずれば新しき生命を授かるもの。天の理が破られているのか」


 名も姿もなきものが陰階神 荻号 要を演ずる事をやめ、無へと昇華されてしまった時から、レイア=メーテールを最後に神階にはもう一柱も神が誕生しない。

 だがそれは、主神ですらも知らないことだ。

 神が崩御しても代わりの神の赤子が生まれない。

 由々しき事態だ。

 これでは神々という種は絶滅してしまう。

 極陽もこの事態を受け、窮地に立たされていた。

 そんな極陽に追い討ちをかけるかのように、有為が報告を入れる。


「スミちゃん、不法に門を出てこうとする神がいるのー」


 極陽をスミちゃん呼ばわりする有為が逐一報告する。

 何度も言うが、これでいて彼女、仕事はできる。

 仕事が出来るからこそ主神に対するこの横柄な態度も許されているようなものだ。


「勝手な真似を……誰だ」

「位神データベース照合、該当なし。第二種、第三種公務員データベース照合、該当なしでしょ、んー、どこにデータがあるのー?」


 一度に複数の演算をこなす有為は、指が足りない。ファティナも検索を手伝っているそうだが、なかなか見つからない。

 生物階降下をしようとしていた極陰も、じれったそうにせかす。


「何をぐずぐずしておる、生物階降下をしてしまったではないか」

「あ、あったぁ! 陽階非位神 通名・置換名 藤堂 恒、本置一致の神なのー? これって王子の弟子じゃないー?」

 

 今日登録が上がったばかりで、有為のデータベースからなかなか検索に引っ掛けられなかった。

 通名と置換名が一致する珍しい神、比企のように日本由来の神だと推測される。

 極陽は有為の報告を聞いて唖然とした。

 王子の弟子って何だ? 彼女は全ての神々に彼女自身で考案したニックネームを付けてしまっているらしかった。


「王子とは誰だ。勝手にあだ名をつけて呼ぶな、紛らわしい」

「ユージーンちゃんよ。王子っぽいでしょー?」


 人間でいえばまだ大学生ほどの若さで枢軸として執務している上、品がよく腰が低いしハニカミ屋でおまけに金髪碧眼、聖衣もフォーマルと、絵に描いたようなテンプレなので、彼女は王子と呼んでいるらしかった。

 勿論多少なりとも蔑称のつもりだ。

 ユージーンの陽階神の模範のような正当性と佇まいは、彼女のカンに触るらしかった。


 陰階神は美学に縛られた陽階神を軽蔑する。

 極陽は恒が神階を出て行ったのだと知り考え込んだ。

 以御は引き止めた事だろう。

 だが命令を無視して突然出て行ったとすれば……。

 何か相当の事情があったのかもしれない。


「捨て置け、ユージーンの不始末だ。弱すぎて神だと判りはせん、狙われもせんだろう、救助はいらん」


 極陰が生物階へ降下しようとしたその時、極陽は彼女をとどめた。


「極陰、少し留守を頼まれてはくれぬか。私が生物階に降りてくる」

「あなたが神階を空けるのか? やめときな、何をしに行く」

「1時間もは空けぬ、1時間以内に戻ると誓う」


 大本営は混乱した。


「全ての指揮権を持つ極陽が生物階降下をしてしまったら誰が指示を下す?」


 極陰への指揮権の譲渡は法的に問題なく、極陰も極陽に次ぐ権限を持ってはいるが、神々の士気を下げる事になりかねない。

 極陽は指揮権を放棄してしまったのかと。

 極陰は1時間だけと聞き、彼の希望をかなえることにした。

 極陽と極陰は古い付き合いだ。

 極陽がこんな身勝手な我がままを言う事は一度としてなかった。

 生物階に降りたいという強い希望がある彼に降下を許さなければ、集中を欠いてしまって後々のリーダーシップが期待できない。


「分かった。行ってきな……だが早く戻れ。唯今より大本営は我の指揮下に入る。極陽は指揮権を我、鐘遠に譲渡せよ」


 彼は彼女の気遣いに感謝し、深く頭を下げると、吸収環を彼女に押し付け大本営から出て行った。



 ユージーンは薬神 清水 梢の援護にカリフォルニアの製薬会社の研究室に駆けつけて、彼女に群がりかけていた解階の貴族達を皆殺しにすると、先ほどから鳴り止まない携帯を取った。

 こんなに執拗に電話をかけ続けてくるのだから、何かあったに違いない。


「何だ? 何かあったのか?」

「恒の母親は!? あんたが避難させただろ!?」


 以御は脈絡のない言葉を浴びせかけるが、ユージーンには彼が何を言っているのか理解できた。


「ああ。彼女には避難を促した」

「恒が生物階に戻った! 母親の無事を確認する為に……! 母親を避難させたって恒に言っとけよ! だからこんな事になるんだ」


 以御はユージーンの言葉の足りなさを猛烈に非難しているが、彼の言うとおりだった。

 ユージーンが一言、恒に声をかけなかったから恒は母親の身に何かがあったのではないかと思い、生物階へと舞い戻ったのだ。


 解階の貴族達が血眼になって恒を捜しているという事など露知らず……。

 ユージーンは清水を見捨てては離れられない、しかし。

 ユージーンはヴィシュヌが清水の援護に駆け付けたのを見て、彼女にこの場を任せる事にした。

 彼が殺されてしまったら、三階は滅んだも同然だ。



 使徒の運び出す荷物に紛れ、恒は生物階に戻ってきた。

 生物階では38柱の神々の気配が地球上を覆い存在感を放っている。

 当然最大のアトモスフィアを持つユージーンの気配は健在だった。

 だがアトモスフィアではない別の気配も点在している。

 これが解階の貴族達の存在感だ。

 メファイストフェレスの気配と似ているので分かった。


 神々は戦闘中なのか、アトモスフィアが乱れている神も多くいる、だが恒の実力では彼等の救助になど駆けつけられない。

 慌てていたからか白衣でプレートをかけたまま戻って来てしまっていた、不自然な格好だが気にしてもいられない。

 恒の為すべき事は一つだ、母、志帆梨の安否を確認せねばならない。

 そして事情を話し、彼女を安全な場所に避難させなければならなかった。


 恒は安全な場所を選び瞬間移動を繰り返しながら、風岳村方面に強い気配がないことを確認しつつ村に近づいた。

 村にはもう解階の貴族は残っていないようだ。

 風岳村に神はいないと知って、諦めてくれたのか……。

 恒は安全を確認すると、藤堂家の玄関に転移し、家中に電気をつけて回りながらドタバタと玄関を上がって捜し回った。

 志帆梨はいない。

 電話台のメモを探すが、メモを残してもいない。

 恒は途方にくれ、八畳の居間の襖を開けた。

 暗闇の中に若い男が身を潜めていた。

 男の眼光だけが闇の中で不気味に輝く。

 待ち伏せをされていたのだと気付いた時には、もう遅かった。

 恒は風岳村には強い気配がなかったので安全だと思って帰ってきたのだが、彼はツールで気配を消していたようだ。

 恒は足が竦んで、動けなくなった。


「まさか戻って来るとは、愚かな子供だ」


 恒は瞬間移動で逃げなくてはと考えたが見透かされたらしく、次の瞬間には腕をめがけて黒い拳が飛んできた。

 アバラに一発、そして腕に一発。

 かつてない衝撃と、骨が砕ける音が聞こえる、胸部と左上腕を折られてしまった。

 悲鳴を上げられないよう彼に口を塞がれ、恒の絶叫はモゴモゴと口ごもるばかりで外には届かない。

 助けを呼んだところで、藤堂家は山の中腹に位置し、遠い隣近所の兼橋には聞こえない。

 更に彼は立て続けに恒のどてっ腹に拳を穿ちこみ、アバラが何本か骨折したのが分かった。

 気絶しそうな痛みの中、意識を繋ぎとめようと必死だった。転移をしても無駄だと言いたいのだろう。

 内出血が始まったのか、口の中を内臓からの出血で滲んだ血が溢れてくる。

 鉄の味が、口の中いっぱいに拡がって咽る。


「子供を殺すのは忍びないが、我が主がご所望なのだ、悪くは思うな」

「主とは、誰です……」


 恒は激痛の中、正気を失わないよう脳の神経系をコントロールしながら、痛みを抑えつけた。

 荻号がかつてやっていたという神経ブロックの真似事だ、だが随分苦痛は和らぐ、痛覚神経を脳に到達する前に遮断するやり方だ。

 身体は正直で複雑骨折により内出血と貧血から悪寒がきているが、脳だけは守らなければならなかった。

 冷静な思考を奪われてしまったらその時が、恒の最期だ。

 できるだけ会話を長引かせ、一瞬の隙をついて逃げ出すつもりだった。


 彼等の主というのは見当がつく。

 ブラインド・ウォッチメイカー(盲目の時計職人)だ。

 そして何故恒を殺すのか、ここに来てはじめて分かった。

 恒を殺して徒に抗体を消費しておけば、ノーボディとユージーンがINVISIBLEと成り代わる事はない。

 ノーボディはブラインド・ウォッチメイカーに力が劣る。

 ブラインド・ウォッチメイカーはわざわざ抗体を使わずとも、実力で絶対不及者の力を捻じ伏せINVISIBLEと成り代わるつもりなのだろう。

 利用価値がなく、むしろ邪魔だと判断されたのだ、ブラインド・ウォッチメイカーが邪魔者の恒を生かしておく訳がない、しかし彼は直接生物階に介入する力を持たない、解階の住民を洗脳した……か。


 恒がここで死んでしまえば3年後、抗体は発動せずノーボディが負け、ブラインド・ウォッチメイカーが三階の支配者となる。

 三階の再生を目論むブラインド・ウォッチメイカーの支配する世界では、三階の破滅は免れられない。

 極陽は間に合わせに、恒の代わりとなる抗体を作り出し、3年後に備えようとするかもしれない。

 だが物心のつかない子供の神が彼あるいは彼女の死と引き換えに絶対不及者抗体としての能力を発揮し、絶対不及者を封じる事ができるかは保障できない。

 Anti-ABNT 抗体となるには強い精神力が必要なのだそうだ、だから極陽は複数のクローンの子供を作り出し、ADAMに監禁して生き延びてゆけるのかという残酷な実験を行っていた。

 恒はADAMに監禁されながら10年を生き抜いた、最も精神力に優れた唯一の生き残りだ。


 誰も恒の代わりはできない。

 生き残りはないのだ。

 こんな場所で死ねない、志帆梨はユージーンが避難させたのだろうという、自称交渉のプロの以御の言う事を聞いていればよかった。

 これでは飛んで火に入る夏の虫だ。

 肺に折れた骨が突き刺さり、呼吸もおぼつかない。


「我が主が何故お前を御所望なのかは分からぬが、あまりお喋りをしている時間もない。俺はグリゴリ=デューバー、死後は良い所に連れていってもらえよ……」


 恒はグリゴリを出し抜いて、隙を作る事が出来なかった。

 ユージーンのもとに瞬間移動をすれば助けてもらえる、しかし折れた左手を掴まれていて、グリゴリが邪魔で転移ができない。

 恒にはグリゴリを転移に巻き込むだけの力はない。

 それでも、むざむざと殺されるのだけはごめんだ。

 やるしかない。

 恒は白衣の下のポケットの中からそっとFC2-メタフィジカル・キューブ(形而立方体)を取り出し起動した。

 ルービックキューブ型の神具は組み替えを起こすだけで起動する、コマンドは無言で与える事ができる、グリゴリを洗脳する事が出来れば……彼はブラインド・ウォッチメイカーに洗脳されてやってきただけだ。

 それを忘れさせてやる事が出来れば……恒は助かる。

 グリゴリは少しは気の毒だと思ってくれているようだ、なかなか殺そうとしない。

 もう少しだけ、時間を稼ぐ事が出来れば!


「早く殺してやらなきゃ、お前の苦痛も長引くが、子供を手にかけるのは躊躇われてな」


 子供を手にかけるのは、彼の心情としてもあまり望ましくないのだろう。

 彼は解階に14人の子供を残してきた。

 恒と同じ年頃の子供もいた、息子を手にかけるようで、彼は気が咎めているらしかった。

 恒は解階の伯爵家にあたるメファイストフェレスが、言葉や所作はあんなにガサツだが、温和で思いやりのある女性だという事を知っている。

 グリゴリも根っからの悪人という訳ではない、解階に暮らす至って平凡な貴族なのだ。

 家庭があって、子供のいる……。


 恒は激痛を神経ブロックによって紛らわせながら、コチコチ、と静かに神具にコマンドを与えていた。

 恒が満足に使いこなせるのはマインドコントロールフィールド(MCF)だけだ、この神具の他の機能はまだ使えない、それでもグリゴリを洗脳できるのだとしたら、たったこの一つの機能が発動すればいい。

 間に合え、間に合ってくれ、そう思いながらもグリゴリが目を閉ざしながら恒にツールを向けているのが分かる。

 槍型のそれに突き刺されたらひとたまりもない。

 恒の祈りも空しく、恒は両手を掴まれて後ろに固定され、右手がFC2-メタフィジカル・キューブから手が外れた、神具は光を失い沈黙状態になってしまった。

 こうなったらもう起動は望めない。

 ああ、もうダメだ――!


 まさに彼がツールを振りかぶろうとしたその瞬間、天井から鼓膜が破れるかのような爆発音が聞こえ、藤堂家の屋根に風穴が開いた。

 バラバラと屋根の残骸の木材や埃が降り注ぐ中、満月の月光を背に、白衣を纏った一柱の神が降りてくる。

 恒は意識が朦朧とする中でもそれが誰か、間違えよう筈もなかった。


 陽階神第一位(極陽)、主神 ヴィブレ=スミス。齢2000年を生きる、神々の長。

 そして恒の実の父親である。

 主神が玉座を捨てて生物階に降りてきた。

 アトモスフィア吸収環を脱ぎ捨て、自由となった主神は本来の力を取り戻し、恒は生物階に唯一神として君臨する彼の壮絶なまでの存在感に身震いがする。

 空気が震え、風が啼いている。

 彼のアトモスフィアは風岳村を覆いつくしている、グリゴリは驚嘆し、口を大きく開けて、月光のスポットライトを受けた一柱の神を見上げた。


「そこまでだ」


 さすがのグリゴリも、神階の長の名と顔ぐらいは知っていた。

 他の神々なら歯牙にもかけないところだが、何という運の悪さだろう、主神と鉢合わせをしてしまうとは。

 フィジカルレベル88946の文武型(AX)神だ、彼はわざわざ巻き添えになりに来たのではない。

 彼はグリゴリを殺しに来たのだ、グリゴリは恒を盾にしてあとずさる。

 形成は劇的に逆転をした。

 たった今、この瞬間に。


「そこから動いてみろ、こいつの命はない!」

「では私も警告しておく、その子供を殺してみろ。汝の命はない」


 グリゴリは彼の絶望的なまでの強さを、その力の差というものを肌で感じていた。

 グリゴリはヴィブレ=スミスの迫力に負けて恒を畳の上に横たえ、恒の傍からおもむろに離れると、畳を蹴って飛び出し、家の屋根にあいた風穴から一目散に逃げ出そうとした。

 だが主神はそれを許さなかった。

 彼はグリゴリの前に空中で立ちはだかる。

 湿気を含んだ熱帯夜の風がヴィブレ=スミスのアトモスフィアで変性して冷気を帯び、グリゴリの頬を愛撫する。

 グリゴリはその風に中てられて、毛の一本一本が逆立つほどの怖気がした。


「どこへ行く?」

「な、約束は守ったじゃねえか!」

「私があの子供を放せば汝を逃がすと、いつ約束した?」


 鳶色の瞳が、月光を吸収して残酷な色を持っている。

 この神は、慈悲を知らないらしい。

 グリゴリは死を覚悟するしかなかった。

 恒は口の中に溢れかえってくる血に咽びながら、絶対的存在としてグリゴリの前に対峙する父親の姿を見上げた。

 彼は寡黙で、冷酷で、そして執拗だ。

 一度逃がさないと決めた獲物は、どうやっても逃がしてはくれない。

 彼が恒にそうするように……。


"FC2-Mind Cube expansion! Formation 1-22-3,-240°-350°-353"

(FC2-マインドキューブを展開せよ。陣形1-22-3、240°-350°-353)


 彼は生体神具として頚部に埋め込まれている神具にコマンドと回転角を与えている。

 恒の持つFC2-メタフィジカル・キューブ(形而立方体)の後継の神具、FC2-マインドキューブ(心層立方体)は、脳内で自由にコマンドを与える事ができ、わざわざ組み替えを起こさなくとも脳内で完成したキューブを思い描くだけでその能力を発動させる事ができ、起動までの時間は一瞬だ。

 一度起動を始めた神具は、極陽の神体と一体化しているために、神具を取り上げる事も奪う事もできない。

 極陽は腕組みをしたまま、神具を操る。

 グリゴリも精神的拘束を受け、ツールを振りかざして抵抗する事ができない。


 静寂の中でこの上なく残忍な、そして一方的な暴力がそこにはあった。


"The SIX CROSSed Psychological Breakup!"

(六杆対精神分裂)


 静かな決着だった。

 極陽はグリゴリに手を触れることもなく、神具を構えて扱う事もなく、腕組みをし小首をかしげたまま彼を精神的に圧殺してしまった。

 グリゴリは精神分裂を強いられ、殺された。

 身体上の外傷はないが、精神的には壊滅的なダメージを与えれた。

 取り返しの付かない致命的なものだ、まもなく彼の脳は右脳と左脳が分裂し、大脳と小脳の連結が切られ、延髄は情報を垂れ流し、個々に分裂をはじめ、身体制御能力を失い、そのうち心臓を鼓動させることも呼吸をする事も放棄し、彼はこの世のものとも思えぬほどのおぞましい幻覚を見せられながら、死体となって朽ち果てる。

 グリゴリは家の裏の茂みに落ちていった。

 彼が目を覚ます事は、二度とないだろう。


「ゴフッ、……ゲホッ、」


 恒は自宅の畳の上で苦痛にのたうち回りながら、何度も吐血をしていた。

 血が気管に入ってしまって、息が出来ない。

 極陽はそんな恒の傍らに無言で降り立ち、恒を両手で抱き上げる。

 恒は息苦しくて、まともに彼の顔を見ることが出来ない、視界が歪む。

 彼は恒の背中をぽんと叩くと、大量の血が気管から出て、ようやく呼吸ができるようになった。

 極陽は恒を抱きかかえ、瞬間移動を繰り返し神階の門まで戻る。


 神階に連れ戻されるのだろう、恒は初めて父親に抱きかかえられながらも、彼の腕からは父親の温かさというものが何一つ伝わってこないことを、当然のようにかみ締めていた。

 彼にとって恒は息子などではない。

 大切な創造物であり作品ではあるのだろうが……。

 必要とされる時までは壊されては困る、だから助けに来ただけだ。

 親心など、彼には理解できないし理解をする必要もない。

 恒は創造神である彼にとって、大切な模造生命なのだ。大切な息子ではなく。


”父さん……”


 彼が恒を息子だなどと思っていない、そんな事は百も承知だった。

 マインドギャップ10層の彼にはマインドギャップが7層もある恒の心が読めない、恒の思いは彼には届かない。

 それでも、恒は心の中でそっと呼びかけてみた。

 息子を心配して、助けに来てくれたのだと思いたかった。

 だが返事はなく、声をかけられる事もなく、極陽は神階の門をくぐって規則正しい歩調で神階の廊下を歩いて執務室に戻った。



 神階に連れ戻された恒はそのまま極陽の居室に運ばれていった。

 医神、紺上 壱見(こんじょう ひとみ)に任せず彼が直々に手当てをする。

 極陽は恒の生体の設計図を持っている。

 彼は内科医で、恒の全てを知り尽くす。

 生みの親の処置は最適な医療をもたらすだろう。

 恒は多臓器損傷に複雑骨折、出血もかなりのもので、重体だった。


 極陽は人のA型Rh(-)の血液を恒に輸血しながら、開腹手術もせず、彼自身の手で臓器損傷を癒していた。

 恒の腹部には5cmほどの傷がつけられ、そこからドレインで腹膜に溢れた出血を排出している。

 恒には鎮静剤と麻酔が打たれ、ようやく苦痛から解放された。

 恒の意識ははっきりとしていたが、極陽は黙々と恒の手当てをしながら、無言だった。


 恒は折角の対面を果たしたというのに、苦しくてたまらなかった。

 神階の決定に従わず勝手な単独行動を取った事に腹を立てているのか、と思ったがそんな様子でもない。思うところがないのだ、恒に対して何も。

 極陽は返り血のついた白衣を着たままどこからともなく、一本のブレスレットを取ってきて恒の右手首にはめた。

 茶金のブレスレットは恒の手首には大きくガバガバだったが、しばらくすると手首に吸い付くように細くなり隙もなく填め込まれたのが分かった。

 恒は思い出した、これはユージーンが風岳村にやってきた初日に填めていたブレスレットだ。

 彼はこれを填められている間、力を揮う事ができなかった。

 翌日、正午になってそのブレスレットが解け落ちるまでは、彼は無抵抗だった。


 瞬間移動での逃亡を防ぐ為に填められたのだろう。

 更に恒の左手首には手錠がかけられベッドと繋がれた。

 ああ……やはりそうだ。彼は自分をモノとしてしか見なしていないのだ。

 恒は耐えられなくなって顔を背け、ベッドに伏した。

 頬を涙が伝って、枕に落ちた。


 傷が癒えるまでか、いつまでかは分からないが恒はここに監禁されるのだ。

 極陽の執務室の一角に手錠につながれ、力を奪われて……。

 結局志帆梨の安否は分からなかったが、以御の言うとおりだと思った。

 彼女はどこかに避難をしている、もしくは以御が連絡をつけてくれるだろう。

 恒が出来る事はここには何もない、泣き寝入りをするしかなかった。


「恒」


 思いがけない、声が聞こえた。

 彼が名を呼んだのだろうか? 

 恒と呼んでくれたのだろうか。

 涙が目じりにぶら下がったまま、はっとして振り返ると、極陽は背を向けていた。


「辛い思いを、させておるの」


 感情のこもらない、しわがれて抑揚に乏しい声だった。

 恒は極陽の心を理解しかねた、彼は何を考えている?

 恒を息子だと、大切な一人息子だと思ってくれているのだろうか。

 彼の真意は知れぬまま、極陽は恒の血に塗れた白衣の上着を脱ぎ、振り返る事もなく大本営へと戻ろうとした。

 しかし極陽はその扉の前に立ちふさがった青年のために立ち止まる。


「極陽、これはどういう事ですか?」


 ユージーンが極陽の執務室に超空間追跡転移でやってきた。

 グリゴリとの戦闘には一歩遅かったが、彼も恒を心配して捜していたのだ。

 ユージーンは手錠をかけられ、力を奪われてベッドにくくりつけられている恒を見て、厳しい口調で極陽に問いただした。


「患者は安静にさせたまでだ」

「連れて帰ります。藤堂 恒を不当に拘束しないで下さい。あなたにはその権利がない。たとえ親子であっても」


 ユージーンは何も言い返せず無言で出てゆく極陽を睨みつけながら見送ると、恒のもとに駆け寄ってきた。

 恒はユージーンの顔を見てほっとした、実の父親よりよほどユージーンの方が父親のようだ。彼は優しく思いやりがあり、温かい。

 だがどれだけ非情なる親であっても、極陽が助けに来てくれなければ、間に合わず恒は殺されていた。


 どんな事情と腹づもりがあったとしても、父は恒の命を助けてくれた。

 その事実だけは、胸にとどめておこうと思った。

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― 新着の感想 ―
[一言] 話を盛り上げるためだと思うけど、コウが何も考えずに母親の安否を確認するために生物界に降りる事に違和感がある。優秀でも母親を持ち出されると心を乱すという事なのだろうが、いまだにそんな精神レベル…
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