第1節 第42話 Grim Reaper
織図とメファイストフェレスは一路、パキスタンに飛んでいた。
彼女は同胞が生物階で暴動を起こしていると聞き、ショックを受けている。
織図は、危なくなったら手伝って欲しいが、そうでなければ自分が手を下すので何もせずにただ見ているだけでいいからと付け加える。
同胞を殺す現場に立ち会う事になるメファイストフェレスの、もとより蒼白な顔がなおのこと白く見えて、織図は彼女を連れ出した事を悪びれた。
「……アルシエル様の御世が揺らいでいるのかしら。信じられない」
「そぉかぁ? いつだって世の中ってのは下剋上だったろ?」
織図は緊張感に欠ける口調で欠伸をした。
また先ほどから頻繁に鳴り響いている法務局からの着信音が鳴って、生物階降下をしている筈のユージーンと連絡が取れないからといって、ユージーンに割り当てる筈だった地区であるポーランドとトルコも追加となった。
織図はその無茶な命令を渋々ながらに了承したが、付き合わされるメファイストフェレスは愚痴をたれずにはいられない。
彼女はとにかく、何か他の事で気を紛らわせたい様子だ。
「どうしてお前に三地区も割り当てられるの! お前は文型神でしょう、他に武型神がいるのに」
「そんなん、決まってるだろ」
織図は声を低く落として、彼女を睨みつけた。
視力を得た織図の視線は、彼女をすら黙らせてしまう。
彼女は織図の表情に影が落ちたのを見て、帽子を押さえ、返す言葉もなく肩を落とした。
法務局が他の神々より彼に殺戮を依頼しやすい理由、それは彼が死神だからだ。
「文型武型は関係ない、奴らと闘えって意味じゃないんだろ」
どうやら法務局は、侵入者を皆殺しにしろと言っているようだ。
そして法務局単独で殺害司令を出す事はできない、解階の門、ひいてはアルシエルの許可もとられた上でのことだ。
戦うと殺すは違う。
織図は戦わずして生命を搾取する。
彼の能力の真髄は、決して試合では発揮されることはない。
彼が敵を殺そうと思えば戦う必要すらないのだ。
まさにDNAワールドの住民を殺害することにかけては極位やAA神などよりエキスパート、彼の右に出る者はない。
法務局は本来、全ての侵入者の始末を織図に任せてもよいぐらいだった。
「やはり殺すの?」
「そうだな、投降を呼びかけてみるか?」
「……そうして」
黙り込んだ彼女に、織図は茶化したようにそんな事を言う。
いつも威勢のよい女が急にしょげかえると織図も気抜けしてしまう。
雲間からの照り返しの強い雲海の上を飛びながら、ふたりは暫くの間沈黙を守っていた。
「大体、お前の敬愛する女皇様、アルシエル=ジャンセンの粛正を恐れずに生物階に乗り込んで来るような輩が、大人しく説得に応じると思うか?」
「何か、理由があるのよ。やむをえない理由が」
「そんなもんかね」
メファイストフェレスは彼女自身に言い聞かせるようにそう呟いている。
ひどく動揺している様子を見て、人間心理学を専門分野にしているためか、情に厚い魔女だなと織図は感じていた。
彼女の直向なものの見方に対してこちらが疚しく思えてくる。
その温情が彼女を迷わせ隙を生む。
彼女を戦いに仕向ければ彼女は怪我を負うだろう。
彼女に同胞を殺害させてはならない。
ついてきてもらったのはあくまでも、織図だけでは心もとなかったからだ。
「お前は死に慣れすぎているわ」
「そりゃ職業柄、そう見えるだけだ」
「じゃあお前の使徒達がお前を裏切ってクーデターを起こしたら、お前は躊躇もなく使徒達を殺せる? 何か訳があったんじゃないかって、少しでも考えられないの?」
織図はやれやれといったように溜息をついた。
彼女は納得がいかず、駄々をこねているだけだ。
「考えるさ。事情があったんだろう。考えて考えて、そして殺す。お前も少しは俺の仕事をわかれ。俺がこれまでどれだけの生かしてやりたかった死者を見送ってきたと思う。それに生物階で破壊活動や殺戮を行っているような奴らを、見逃しておけるのか」
織図がそうやって諭していると、第一目的地のパキスタン北部の村が迫ってきた。
織図が経度と緯度を伝え、彼女がマクシミニマで正確な座標をナビゲートする。
見えてきた。
ふたりとも会話を中断し、体勢を整える。
全速で高度2000メートルを飛びながら、織図はXVI von Louisを抜き放った。
雲間に突然、巨大な鎌の影が出現する。
その大鎌はぬらぬらと青黒い人魂のような光を宿し妖しく研ぎ澄まされている。
黒い聖衣に身を固めた織図と黒いドレスのメファイストフェレスのふたりは急降下しながら、暴動に参加している解階の住民を目視で確認した。
村々から火の手が上がっている。
山岳地帯の村に住んでいた人々は既に逃げ遅れて惨殺された後だった。
死体が飛散して家畜もやられている。
本当ならば死と同時に死者達の記憶を使徒に回収させなければならないが、解階の住民達に占拠されたこの状況では無理だ。
織図は黒衣の下から小さな携帯端末を取り出すと、バイタルレベル観測データを神階のEVEからダウンロードした。
被害者の人数を把握するためだ。
EVEは続々と観測データを排出してくる。
その人数のあまりの多さに、織図は沈痛な面持ちでデータを睨みつけていた。
「メファイストフェレス、この一帯に住まっていた人間達のうち、生存者はゼロだ。家畜も含めてな」
彼女はわなわなと震える。
恐怖なのか、怒りなのか、失望なのか、困惑なのか、それらの感情が一緒くたになって、暴徒と化した解階の住民達を見つめている。
四つんばいになって燃え盛る民家の間を醜く蠢く、彼等は昆虫のような動きをしている。
狂っている……。
一方の織図は鎌を脇に挟むと折角視力を得た瞳を閉ざし、研ぎ澄まされたいつもの感覚で生命反応を検索した。
その数、数百体。
少しずつ、にじみ出るように彼等の数は増え続けている。
この付近に解階の違法ゲートがあって、そして彼等の浸出は続いている。
一刻も早くゲートを封鎖、破壊し彼等を始末せねば被害は拡大する一方だ。
更に今は群れを成している彼等が、もう少し掃討が遅れて各地に散っていったなら、それを一体一体見つけて始末する事はこの上なく困難だ。
織図が鎌を振り上げようとして、投降を呼びかける約束だったと思い出してメファイストフェレスを振り返る。
彼女の気持ちを、無視できない。
「念のため、投降を呼びかけたいか?」
「必要ないわ……正気の沙汰じゃないもの」
「そうか、じゃあ、お前は見るな。目を閉ざしていろ」
織図はXVI Von Louisのリミッターを外した。
まるで長く閉ざされていた重い扉が開くように、死神の大鎌がわななきながら起動する。
織図は鎌の刃を指先でざらりと撫でる。
死者の書と呼ばれる福音の古代文字が刃の表面を青く現れては消えてゆく。
大鎌は人魂が纏わり付いているような青白い光を放ちコマンド待機状態に入った。
”Sentence of Death, initiation. Area full coverage.”
(死の宣告始動、範囲全適用)
織図は彼女の気持ちの整理がついたようなので、メファイストフェレスの肩を抱き彼の身に添わせて彼女の視界を塞いだ。
これから見渡す限りの範囲の生という生が根絶やしにされる。
織図が彼女を抱き寄せたのは、彼に触れていなければメファイストフェレスの命も奪ってしまうからだ。
それほどまでに織図はバイタルの遮断という方法で絶対的な死を齎す。
ただし織図の神具は生物階の住民なのか解階の住民なのかを、見分けてはくれない。
人々が全滅していたおかげで、織図は躊躇なく解階の住民に対してのみその能力を最大限に行使することができた。
織図の神具、XVI Von Louisは彼のアトモスフィアを受けて厳かに共鳴を始めている。
ヴウン、と悪魔の羽音のような起動音が辺り一帯に響き渡り、それは鎮魂の鐘を鳴らすように緩急をつけて降り注ぐ。
死の祝福を受けた者の額には、青黒い織図の御璽、黒百合紋が浮かび上がる。
誰もその祝福から逃れる事はできない。
その共鳴音に身体の自由を奪われ、解階の住民達は天から断罪を下す死神の姿を見上げた。
”Count Down, 3, 2, 1……and passed away”
(秒読 3,2,1……臨終――)
カウントを終えた途端に、解階の住民達の断末魔の咆哮が消え、物体となった彼等がバタバタと倒れた音が聞こえ、その後は一切聞こえなくなった。
何もかもがいとも簡単に終わってしまい、織図はまた元のように神具のリミッターを差込んだ。
”Rejoice”
(安かれ)
織図は指先で二つの動作を伴う彼の聖印を切り、救われる事のない死者達に黙祷を捧げると、離れようとしないメファイストフェレスを抱きかかえたまま、災厄の村に降り立った。
火災はいずれ鎮火するだろう。
メファイストフェレスは事切れた解階の住民に近づき、彼女は彼らの目をそっと閉ざしてやった。
織図は織図で首にぶら下げていたメモリースティックのようなものを人々に向けて、集められるだけの死者の記憶を回収する。
脳を割られて記憶が回収できない者は、残念ながらEVEに迎える事は出来ない。
織図はあまりの死者の多さに閉口して、全員の記憶は諦め、残りを回収させるために彼の使徒を呼び付けた。
彼女は人々も解階の住民達にも分け隔てなく、ひとりひとりの亡骸の前で手を合わせた。
織図は周囲の状況を調べながら、それ以上は解階の住民が侵入してこないのを確認した。
ここにはもうアウトプットゲートはないようだ。
法務局から詳細な続報が送られてくる。
ゲートのタイプはアウトプット・ランダムゲートと呼ばれるもののようだ。
つまり入口は一つだがアウトプットゲートの場所がころころ変わって特定できないタイプのものだそうだ。
解階の住民の現れる場所を虱潰しに探してゆくしかない。
「次だ、トルコに急ぐぞ」
彼の呼び掛けに、メファイストフェレスもふらふらと立ち上がったが、足がくじけてすぐに崩れ落ちる。
織図は彼女の異変を察した。
精神的にやられているのだろうか。
織図より随分年上だが、死に慣れてないとこうなるか、と彼は思った。
「妾はね、誰かを殺した事がないの。それだけが自慢だったのに」
「お前が殺ったんじゃないだろ。俺がやったんだ」
「でも、止めなかった」
「じゃあ殺さずにお前のお仲間が助かったと思うか?」
織図は苛立ったように問い質す。
彼女は力なく首を振った。
「思わない」
「分かったら次に行くぞ、こうしている間にも、誰かが死んでるんだ。ほらしっかりしろ」
織図は彼女をここに置いて行くわけにはいかないので、肩を貸して負った。
足手まといにはなりたくないと思いながらも、彼女は織図の肩に顎を乗せて、そのまま動く事ができなかった。
えらく落ち込んだものだな、と織図は思ったが、彼女をおぶったまま舞い上がった。
メファイストフェレスは胸が裂けてしまいそうに苦しく、ズキズキと全身がひどく痛む。
これは心の痛みなのか身体の痛みなのかもはやわからない。
彼女は喘ぎながら、織図にしがみつく事しか出来ない。ビクン、と彼女の腕が脈うった。
「お、織図……か、身体が」
織図はあぁ? と言いながら振り向いた。
彼女の息はか細くゼイゼイと苦しそうだ。
「なんだ? ひきつけか?」
「か、身体が動かない、の」
織図の携帯に、またあの忌ま忌ましい着信音が届けられた。
今は一つでも情報が欲しい彼は急いでメールを開く。
不法侵入者は、未知の病原体に感染している、神への感染はないようだが、留意せよ。
文面はそれだけだった。
「まさか、メファイストフェレス!」
感染させてしまった……織図はガタガタと悪寒に苛まれる彼女を見て、解階の住民達に接触させて感染させてしまったのだと勘付いた。
法務局もそれ早く言ってくれよ、と恨み言を思う前に、織図はまた急降下をして先ほどの場所に降り立った。
彼女は織図の腕の中で、遺言のような言葉を残した。
狂った同胞達と同じ運命が、彼女を待っているのだとしたら……。
「織図……妾があんな風になって、何もかも忘れてしまったら……殺して。父の事も、主の事も、お前達の事も忘れてしまったら……。さっきみたいに、殺し……」
織図は遺言を残すメファイストフェレスのこめかみに、メモリースティックを当てて記憶を回収した。
彼女が正気を保っているうちに、正常な記憶を保管しておこうと思ったからだ。
メファイストフェレスは解階の住民でありEVEに入る事はできないというのに……織図は迷わずそうした。
次第に生彩を失ってゆく彼女の大きな黒い瞳……織図は彼女を柔らかな草地にそっと寝かせつけ、どうするべきか思案を巡らせた。
発狂した彼女とまともに戦おうものなら織図が殺されてしまう。
檻の中に閉じ込めてしまえばよいのだろうが、そんなものもないし、彼女の腕力なら相当に頑強な檻が必要だ。
何とか助けてやりたいが一度発狂すれば織図は彼女を殺すしかない。
彼は目を背けながらXVI Von Louisの刃を彼女の首筋に宛てた。
メファイストフェレスは安心したように首を伸ばして死を受け止めるが、織図はなかなか鎌を振り下ろす事が出来ないでいる。
目が見えるようになるのも、いい事ばかりじゃないな、と彼は思った。
なかなか殺せない織図に、メファイストフェレスは憎まれ口を叩く。
「ど……うしたの……さっきは偉そうな事言ってたのに。考えて、考えて……そして殺すって……言ったじゃない」
織図はXVI Von Louisの斬頭台の上にメファイストフェレスの首を乗せ、青黒く輝く刃の部分を撫でた。
蛍光色の古代文字が応答する。
”The endless moments of death candidator”
(永続する瀕死者の瞬間)
織図はやや言葉につまっていたが、先ほどとは異なるコマンドを彼女に与え、その大鎌の刃を彼女の首めがけて落とした。
その瞬間、刃は透明に透けて彼女の首をすり抜けてガツンとストッパーに当たって振り切れた。
彼女の首には傷ひとつついていないが、大きな黒い瞳を見開き、苦しげに悶え始めた。
織図は彼女を瀕死の状態にし、継続する苦痛を与えたのだ。
このコマンドは体内時間を絶対不変のものとする代わりに、死の今際を不断に体験させ続ける。
彼女は殺された方がましだと思われるような恐怖と苦痛の瞬間を体験し続けている。
だが彼女の感染と侵食はそれ以上進まない。
「メファイストフェレス、お前には死の安息を与えない。苦しめ……だが、」
絶対に死なせないからな、と語りかけながら、織図は悶え苦しむ彼女を抱え起こした。
彼女に感染した病原体が、同じDNAワールドの生物階の住民達にも感染しなければよいと願う。
他の地区は梶に電話をかけ彼に任せようと思った。他の地区に飛んでいてはメファイストフェレスが助からない上に彼女を苦しめてしまうからだ。
織図は一か八か、上島医院に保管してあるユージーンの治癒血で、彼女の感染が癒されるかやってみようと思った。
感染症の一種だとすれば、彼女を苦しめてでも試す価値はあった。
ユージーンをおだてる訳ではないが、ユージーンの治癒血は神々の持つ治癒血のうちでも極上の逸品として知られており、歩く万能薬との異名を持つほど、ありとあらゆる病を癒してきた。
それに彼女だって、織図よりユージーンに助けてもらいたいと願うだろう。
携帯の届かないユージーンを解階から呼び戻す事はできない以上、これで助からなければ残念ながら誰にも助けられない。
*
死の確率を操る禁断の黒いダイス、8個のデス・プロパビリティーを懐におさめた梶は、ゴーストタウンと化した街の一角で、携帯に法務局からのメールではない着信が入ったのに気付いた。
梶は人間、解階の住民双方に生存者がいないか、街中を歩いて見て回っていたところだった。
彼は逃げ遅れた人間の死体を跨ぎ、ヘリコプターの音を聞いた。
どうやら住民達の話を聞いて国軍か警察が派遣されてきたようだ。梶もずらからなければ面倒な事になる。
一つの街が破壊されたこの惨禍を、さすがに人間社会に隠しきれないな、と梶は思った。
神階に戻ったら、生物階の大異変に対するため陰陽階の全神の集う大議院が召集されるだろう。
厄介なことになっている、梶はそう自らに言い聞かせながら携帯を取った。
「何だ? 継嗣か。どうした」
『奎吾さん、そっちはもう片付いてるだろ』
「まあな」
梶の周囲を取り巻くように、同心円状に解階の住民達の死灰が取り巻いている。
梶は無感傷にそれらを見渡した。
梶の革靴の裏についた薄汚れた灰は風にさらわれてゆく。
『応援を頼みたいんだ、トルコとポーランドに行ってくれないか』
「おいおい、死神はものの3秒で始末できる筈だろ。殺戮にかけては俺よりよほど一流だぜ、なぁ」
『用が出来たんだ、頼む』
生死の情報を的確に把握する織図が対処した方が、本当は効率がよいし早いのだが、梶に仕事を押し付けてくる。
梶は織図に仕事を押し付けた事はあったが、織図が梶に仕事を押し付けてきた事などなかった。
織図には何か、考えがあるのかもしれないな、そう思いながら梶はにやりと微笑み、メントールの煙草に火をつけた。
「その野暮用ってのが、この現状を打開できるもんだと願いたいがね。長きを生きてきたが、こんな異常事態は初めてだ」
『やってみる価値はある』
「そうか、なら後は任せろ。構わんよ。早くしねーと、住民が全滅しちまうからなあ」
『いや、全滅した方がいいかもしれない』
「おいおい、物騒だな」
『解階の住民と生物階の生物の生体構造は似通っている、人間に感染しないという保障はないだろ、こっちの住民は全滅していたから、逆に助かった……そっちはどうだ』
織図の言葉に、梶は息を飲んだ。
先ほど住民を隣町に避難させてやったばかりだ。
感染した彼等が、隣町に感染を拡大しただけだというのなら……。
「へ、鋭いな継嗣。お前の言うとおりだ。他の二箇所はしくじらないようにするさ、だがこうなると、感染を防ぐための特効薬を期待するしかなさそうだな」
死灰の降りかかった青い頭の灰を払うように掻きながら、ヘリコプターから特殊部隊が着陸する頃には、灰の上に転々と残された梶の足跡は、どこへともなくぷっつりと途絶えていた。
*
比企は彼の執務室から繋がる亜空間内に建設された、ガラス製の大温室の中にいた。
比企が薬神であった時期に建設された空中庭園ともいえる大温室の内部では、比企の手によって薬草やハーブ類が栽培されている。
比企は薬神を廃した後も、このシークレットガーデンの入り口を比企の陽階の新たな執務室に繋げて、陽階には内密に維持していた。
天蓋から降り注ぐまぶしい擬似陽光を受けて、温室内部に立ち上げた有機化学実験室のデスクで、有用な植物から新たな薬剤を密かに創出しつつ、瞑想をするのが日課となっていた。
生ぬるい午後の日差しが木々の間から澱みながら比企の白髪を透明にしていた。
比企は午前中の会議が中止になったので聖衣である和服を脱いで私服のデニムとシャツだけになって寛いでいたが、彼だけの秘密の空中庭園を侵し薬草の森を掻き分けて、誰かが侵入して来た事に気付いた。
デスクの上に伏していた比企は振り返りもせず、侵入者の名を言い当てた。
「レディラム=アンリニアか」
「ご名答、邪魔しますぜ」
比企は振り返り、古びた白いベンチにかけるよう勧めた。
レディラムは白いローブの裾を引きずりながら、白魔術師のような聖衣でやってきた。
神具、オプティカル・アイは神体の構造を光子にまで励起するため、疲労が激しく装用した反動で睡魔が襲ってくる。
普段はすぐに睡眠を必要とするのだが、彼は珍しく執務室に帰って爆睡することもなく、力を振り絞って比企の執務室にそのままやってきた。
レディラムは見たこともない新種の薬草ばかりがずらりと植えられて、こまめに手をかけて育てられている様子に感心しながら、眠たげな目を擦った。
片目だけが充血しているので、比企は彼が珍しく神具を使用したのだとすぐに気付いた。
たった一度の装用で、アトモスフィアも殆ど失っている。
「薬神を廃した後も、薬剤研究を?」
「あまり公になると困るんだがな、嗜む程度にだ。何か用が?」
「解階の住民が、生物階に侵略を始めとります。たまたま生物階に降下していた陰階の梶さん、織図さんと共に俺の担当の区域は掃討してきましたが……未知の病原体に侵され、発狂していました。可哀相なことをしました」
レディラムはベンチの上に小さくしゃがんで、肩を小さくすぼめてぽそりとそう言った。
こじんまりとなったレディラムを、比企は冷ややかに見遣る。レディラムは極陽派の神だった、それが派閥争いなど関係もなく比企を頼りにしてきたのだ。
レディラムは比企を訪問する前に、現代の薬神にも会ってサンプルを渡してきた。
だがそれだけでは不安だった、現代の薬神は忠実に任務をこなしてはいるが、比企の頭脳の冴えには及ばない。
元薬神であった彼は、何か光明を見出してはくれないか。
身内で争っている場合ではなかった。
これほどの事件を聞かされても比企が特にリアクションを示さないので、レディラムはコバルトブルーの瞳を僅かに丸くして口を突き出した。
比企は荻号に見せた激情とは対照的に、他神には殆ど感情を見せない、物静かで穏やかな神だ。
比企の精神力は簡単に揺らぐものではない、だがこうしてはいられないと腰を浮かしていた。
事態は動き始めた、静かに、だがゆっくりと確実に。
「比企さん、解階の門からの情報によると、ユージーンの治癒血が解階の感染者をたったひとりだけ癒したそうです。しかし、数百mlもの処方が必要でした。特効薬とするにはユージーンの血だけではとても足りません」
比企はレディラムからひょいっと放り投げられたバイアルを、パシッと受け取った。
陽階神ならば誰でも持っているサンプル採取用のバイアルの中には肉片が詰め込まれている。
感染していた解階の住民の指先だ。比企は肉片の入ったバイアルを、カラカラと振って中身を観察した。
「感染した肉片が入っています。神には感染しません……これは……DNAを持つ生物に感染を続けるそうです。つまり、解階の住民のみならず、人間にも」
比企は中身をピンセットでつまみ出し、シャーレに載せてメスで小さく切り刻み薬剤をかけると、細胞は一個一個ばらばらにほぐれた。
手馴れた動作で細胞を一つ一つ別のサンプルチューブに移し取ると、ディープフリーザーという超低温冷凍庫から研究用に治癒血のストックを分注した小さなチューブを、5本ほど解凍した。
チューブの中には、全て異なる治癒血が一滴ずつ入っている。
比企はそれをピペットで取りわけ、細胞と反応させた。
比企は一度に5本の試験管を転倒する。
細胞を浮かべたピンク色の指示薬が、1本だけ青く変色した。
ユージーンの血液と反応させた細胞の入った試験管である。
この指示薬が青へ変色したということは、細胞が正常に戻ったという事を示している。
5柱の神々の治癒血のうち、ユージーンのものだけが効果を持っていた。
彼は効果を確認するため、プレパラートに載せて温室の天上まで届くほどに巨大な、電子顕微鏡のステージにセットした。
比企がパチンと指を鳴らすと、擬似陽光の光が落ちて、顕微鏡で観察できる暗黒の環境になった。
レバーを操作し、倍率を変え、スリットを変えて観察を続けていた比企の傍らで、レディラムは暗闇に眠気を増幅されていた。
「癒されている」
「噂には聞いていましたが、ユージーンは凄い奴なんですね」
「治癒血を、合成しろというのか……不可能だ……」
比企は苦々しそうに吐き棄てた。
比企は傍らにあったパソコンを起動し、ハードディスクの奥に眠っていた隠しフォルダを解凍した。
荻号 要、ジーザス=クライストら治癒血を持つ神々、そして最高の治癒能力を持つユージーン=マズローの治癒血の成分の記録されたフォルダをクリックする。
ファイルが解凍され、治癒血の組成一覧がずらりとリストアップされた。
治癒血を構成している化合物の立体構造が一つ一つ表示され、黒いバックグラウンドに360度の回転をしながら表示されている。
比企はキーボードでコマンドを入力し、ユージーンの治癒血の組成と他の神々の持つ治癒血との共通点を探す。
ユージーンの治癒血の成分のうち、赤い明滅をはじめた化合物が、他の治癒血にも共通して含まれている成分だ。
治癒血の組成は、他の神々の間でそれほどの相違はない。
ユージーンだけが持っていて他の神々の持たない成分こそが、ユージーンの治癒血の治癒能力の高さの秘密であり、特効成分だ。
比企はまずそれを突き止めなくてはならないと思ったのだ。
検索にかけられた成分の共通点を示す赤い点滅が、徐々に増えてゆく。
検索状況 85、86、87%……過去3000年分の治癒血を持つ、54柱の成分が照会され解析されている。
検索完了とともにリストアップされた化合物は、たったの24種類にまで絞り込まれた。
これを合成する事ができれば、あるいは……。
比企はそれらの構造式を瞼の裏に焼き付け、瞳を閉ざした。
「この化合物は、神階では永遠に合成できない」
遂に力尽きて眠りこけたレディラムを大温室の中に置き去りにして、比企は静かに去っていった。
*
織図はメファイストフェレスを大切そうに抱えたまま、無人のJR風岳駅のホームに降り立った。
織図が視力を回復して目にした風岳村の風景はホームから見える景色だけなので、気は逸るが直接上島医院へは瞬間移動ができなかったのだ。
織図はそこに現れるなり、ホームの白線を蹴って疾風のように上島医院の方角へと跳んだ。
腕の中のメファイストフェレスは死の今際の瞬間を体験し続けてもがき苦しんでいるが、気丈にも声を殺している。
彼女は決して弱音を吐かない。
楽にできるものなら、早く楽にしてやりたかった。
*
世界同時5箇所で発生した暴動を、人間社会も無視する事はできなかった。
第一報は各国政府により事実が隠匿され、世界同時多発テロと報じられていたが、民間のジャーナリスト達の突撃取材により情報統制が破れ、続報でそのテロが人間以外の者によって行われたのだと報じられた瞬間、民放各局は全ての番組を打ち切って特番を報道した。
新聞は号外が出、街行く人々は戦慄した。
宇宙人や未確認生物の襲来か、などとオカルトじみたテロップが踊る。
もっともらしいコメントを垂れるコメンテーターや各界の専門家達。
解階の住民達によって撒き散らされている、未知の病原体の恐怖も既に報じられている。
しかし人類は未知の恐怖との邂逅を果たしたと同時に、人類に救いの手を差し伸べてくれたある存在をも知る事となった。
梶の勇姿は複数の人々に目撃され、カメラにも鮮明に撮影されていた。
空色の髪の男は空を自在に駆け回り、小さなサイコロのような飛翔物体を駆り、暴徒と化した未確認生物を薙ぎ倒し、人々を守ってくれたのだと……。
梶の活躍は誇張されて報道されたが、たった一人では世界を救うヒーローというには心もとなかった。
暴徒と化した侵略者達よりなお怖ろしいのは、彼等の撒き散らした未知の病原体だった。
それらは人間のみならず家畜やありとあらゆる生物に感染し、発狂させる。
集団ヒステリーの一種なのではという声も上がった。
感染者の細胞からウイルス等の病原体が検出できず、密室に隔離しても密室外の人間に感染したからだ。
まだ死亡者は出ていないが、自我を失った人々の行く末は知れなかった。
感染した人々は凶暴化し異常行動を取るばかりだが、摂食本能を忘れてしまっている以上餓死してしまう可能性が高かった。
そしてどんなに物理的に防護しても周囲の人間に感染してしまうため、医療関係者も手の施しようがなく治療は極めて困難だそうだ。
恒はその様子を、ただニュースで見守るほかなかった。
日本政府は全国民に外出を差し控えるよう通達を出し、海外渡航禁止令が発令された。
そこで先ほど朱音から連絡があって、日曜日の海水浴はこの一件により両親が許してくれないので中止にしようと言った。
彼女はがっかりしたようだが、恒はとても海水浴をするような気分ではなかったので逆にほっとした。
狂った解階の住民が違法ゲートを使って、日本に来ないとも限らない。
この地球上に安全な場所などどこにもないのだ。
GL-ネットワークで神階の動向も確認しながらニュースを見ているが、GL-ネットワークは解階の住民の侵入を報じただけで、情報は解階の門任せになっている。
現在生物階に降下している神々の情報はリアルタイムでサイトに掲示されている。
ニュースでしきりに報じられているヒーロー、空色の髪の男が梶 奎吾だということぐらい、プロフィールを調べた恒にはすぐに分かった。
ちなみにレディラム=アンリニアも梶も神階に戻ったらしく、現在生物階に降下している神は織図とユージーンのみとなっている。
神階は何ら対策を立てられずにいるのかと、恒は歯がゆい思いで頬杖をつく。
アルティメイト・オブ・ノーボディの示した崩壊する世界が現実のものとなりつつあるというのに、恒には何もできない。
頼みの綱のユージーンは何をやっているのだろう。
彼は彼で修羅場なのだろうが、ここのところいつも留守をしていて肝心な時に傍にいてくれない。
ニュースに釘付けで画面にかじりついていた恒はガバッと起き上がり、背後を振り返った。
背後には志帆梨がいて、夕食を準備し、お茶を煎れていた。
志帆梨を振り返ったのではない、風岳村に織図の気配が現れたのを感じたのだ。
メファイストフェレスの気配も一緒だが、彼女の気配は極端に乱れている。
藤堂家や社務所を素通りして、上島医院に向かっているところをみるとメファイストフェレスが怪我をしたのだ、と恒は思った。
しかもかなりの重症だと覗える、上島医院に向かった理由はひとつ、ユージーンの治癒血をもらうためだろう。
そう思って恒ははたと気付いた。
感染地区の解階の住民の掃討を任されていた織図とメファイストフェレスは、解階の住民達の持つ感染源に触れただろう。
そして解階の住民であるメファイストフェレスに感染したのではないか。
織図は慌てて上島医院に彼女を搬送しユージーンの治癒血を投与しようとしているのだろうか。
恒は駆けつけたかったが、人間にも感染するとニュースでは報じられていたので我慢をするしかなかった。
恒は神であると同時に人間でもある。
神と人の狭間にある彼の身はどちらの形質が強いのか、感染しない可能性はどれくらいかなどと考える以前に不用意に駆けつけるべきではないと考えた。
恒が志帆梨に肩を叩かれて麦茶をもらった時、玄関のインターホンが鳴った。
こんばんはー、と聞き覚えのある声がする。
空山が予め突き止めていた藤堂家に乗り込んできたのだ。恒と志帆梨は午後8時半の来客に顔を見合わせ、出迎えようとする志帆梨を制して仕方なく玄関を開けてやると、空山は腕を掴んで外に引っ張りだし、恒は裸足のまま玄関の外に連れ出される。
「ちょっとー、ニュース見てる? あれ誰の仕業?! 変な病原体ばらまくとか聞いてないしー、オリトって神様からはメールの返事こないし。神様達やることえげつなくないー? 神様のくせしてさー」
どうやら空山はニュースを見て居ても立ってもいられず早瀬達の目を盗んで旅館から脱走し、藤堂家にやってきたようだ。恒はしがみ付く空山の腕を振り払って抗議した。
「俺達がやってるんじゃないですよ!」
空山は怪しいなーと頬をふくらませた。
誰が来たのかと玄関先に出てきた志帆梨を居間に追い戻し、恒は軒先に腰を下ろした空山を見下ろした。
空山は派手な赤いプラスチックのうちわを持ってふーふー言いながら煽いでいる、ここまで走ってやってきたようだ。
「それより空山さん、一人で来たんですか」
「そうだよ」
恒は家の鶏小屋と畑の茂みの向こうに目を凝らした。
暗闇の向こうに見える人影、やはりだ。
彼女はうまく旅館を抜け出したつもりのようだが、ハーメルンの笛吹き女のようにごっそりと研究員を引き連れてきている。
彼らは恒に見つかってごそごそと出てきた。
「もー! 空山さん! 何やってるんですか! つけられるって分かってたでしょー!?」
「マジ!」
空山は予想だにしていなかったのか、目を丸くしている。早瀬らはニュースに集中していて、空山のことなど見ていないと思ったので出てきたのだが……。
どうやら早瀬の方が一枚上手だったようだ。
「おい、空山。これはどういう事だ」
「もういいですよ。どちらにしても織図さんが本当の事を伝える予定だったんですから。俺はあなたがたが捜していた主の一人です」
恒は若干開き直り気味に早瀬らの前に進み出た。
早瀬は言葉を失い、ただの少年のようにしか見えない彼を見下ろす。
空山が後ろから恒の両肩を叩いて早瀬に紹介している。
ヴィブレ=スミスの生物階不可侵政策が生きていて、神の存在を公に明らかにすることは禁じられているが、恒はまだ陽階神として登録されておらずそもそも神として見なされていない。
加えて梶の姿が公になっているこの事態では、神の存在を隠しきれる段階ではない。
恒はこの行為が法務局の処罰適用にならない事を祈りながら、早瀬に事実を告げた。
「こーんなちっちゃくても一応神様なんですって! ねーっ!」
「俺、空山さんより背高いんですけど」
「とても信じられんが、天使が実在するんだ。神という名の生物という意味でいいのか?」
早瀬らは互いに顔を見合わせて怪訝そうな顔をしていた。恒は彼等がむしろ科学者であって話がわかる人物達でよかったと胸をなでおろす。
恒もユージーンとの出会い頭にそうしてしまった身で言えた事ではないが、騒ぎ立てられて怯えられるのは正直迷惑でしかない。
「そうです」
「今回の事件は、君らがやったのか?」
「そうなら話が早くていいんですが、違います」
「空色の髪の男は、神のひとりなんだな。空を飛んだ」
空山は恒も空を飛べるのだと、得意げに同僚達に言って回っていた。
リスのようにちょこまかと動き回る空山の首根っこを、早瀬はしっかりと捕まえながら恒の話に耳を傾ける。
恒はひとまず織図もいない中で、研究員達と全面対決にだけはならないようだと安堵していた。
研究員達は恒に対して、そうは言っても子供だという安心感が心の片隅にはあったようだ。
織図が出ていたのではかえって警戒されてしまったかもしれない。
「ええ。しかし神々は今回の件に関して、どうすればよいのか方針を示せずにいるようです」
「いるようですって、君も仲間なんだろ?」
「俺はほんのはしくれでしかありませんので。今回のニュースに関して、何か分かることはありませんか? 神々と対立し潰しあっても今は何のメリットもありません。共に立ち向かいましょう。あなたがたの知恵を貸してください」
「ふむ……受け入れがたいが一理ある」
早瀬ら研究員達も、今は神々という名の地球外生命体と争っても仕方がないと考えたようだ。
神々と人類の共生は長い時間をかけてゆっくりと話し合う事が重要だ、ひとまず議論すべきではない。
どれだけ議論を尽くしても紛糾してしまうし答えなど出るはずがない。
人々と神々の歴史は数千年も以前に遡る、人類の歴史を神々がコントロールしてきたと知れば、それがいかな反発を招くか想像も出来ない。
今は同じ脅威に対して手を組み、立ち向かうべきだ。
その後の議論は野となれ山となれだ、と恒は思った。
三年後どころか今の瞬間ですらも、人類は滅亡の危機に瀕しているのだろうから。
「一緒に考える事といえば……。例えば感染源は何か、とかー? ウイルスでも病原体でも電磁波とかの類でもないわけでしょ?」
空山が早瀬に首根っこを掴まれながらも、話の方向性を神々の問題からそらすために核心をつく問題を提示した。
恒は空山の配慮に感謝した。
「そうです! やはりウイルスのようなものではないのでしょうか、特定できないだけで……」
早瀬は薄暗い外灯に照らされた藤堂家の表札を見て、次にゆっくりと恒を見下ろした。
自身も子供を持つ早瀬は、恒を人間らしく名前で呼んでやりたいと思った。
「藤堂君と言うのかな、君は。私は早瀬だ」
「藤堂 恒と言います、よろしく、早瀬さん」
「ときに藤堂君はアポトーシス(Apoptosis)という現象を、知っているか?」
思いがけない用語が出てきて、恒は一瞬理解できず、顎を前に突き出して尋ね返した。
アポトーシスとは多細胞生物の体を構成する細胞の死の一様式で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節されプログラムされた細胞の自殺のことだ。
生体に必要のなくなった細胞は様々な死のシグナルを受け取り、積極的に自殺を引き起こす。
思わず尋ね返したが、恒が知らないわけではない。
「え? はい。生体の恒常性を維持するためにプログラムされた細胞の自殺ですけど、その意味でいいですか? それが何か」
「私は今回の感染源は、ウイルスや病原体ではないと思うんだ。隔離患者からも感染するんだ、おかしいと思わないか? この感染はプログラムされているんじゃないかな、私達のDNAに……そしてデスリガンド(死の供与体)を、デスレセプター(死の受容体)が受け取っている。こうは考えられないか?」
荒唐無稽な仮説とも取れる早瀬の言葉は、熱帯夜の空気の中で氷のような冷たさとそら怖ろしさを孕んでいた。
この感染は、DNAを持つ生物の中に刷り込まれている。
太古の昔から、連綿と受け継がれてきた遺伝情報の中に見えない爆弾がひっそりと仕掛けられていたのだとしたら――。
*
織図は上島医院の住居部分の、上島の書斎に現れた。
院長 上島 肇は午後の回診を終えて、カルテを整理していたところだった。
基子は上島が死に掛けた一件以来また倒れないかと不安らしく、書斎の中にモニターをつけて常時監視していが、そのモニターをさえぎるような角度から覗き込む、女を抱えた黒人の大男の突然の出現に、上島は口をあんぐりと開けて鼈甲の眼鏡を上げた。
「上島 肇だな。お前には貸しがある、脳溢血で死ぬところを見逃してやったんだぜ、貸しをチャラにしてもらいに来た」
「私は確か、恒君とユージーン様にお助けいただいたと記憶しておりますが」
上島は何も尋ねなかったが、彼が死神だろうという事は会話の内容といでたちを見ればすぐに分かった。
彼はフードつきの黒いローブを着て、一風変わった形の大鎌を持っている。
ユージーンの仲間の神というところだろう。
「俺が恒を焚きつけて寄越したんだ。間接的に貸しがあるだろ」
「それはそれは、勿論です。その節はお世話になりました。して、急患ですかな。その御仁は随分苦しんでおいでですが」
「この女に、ユージーンの血を点滴してやってくれ。お前がお前の妻にしてもらったようにだ」
織図は、外科医である荻号や内科医であるユージーンのように医師免許を取得していなかった。
医師免許の取得は公務員試験でも必須ではないから、大半の神々は医師の資格がなく、神具による治療以外に医療行為が出来ない。
織図が不用意にメファイストフェレスに針を打って、点滴を漏らすわけにはいかない。
事態は一刻を争う、妻の基子にも誰にも頼めない、上島の助けが必要だ。
「何のご病気で?」
「何のご病気か解らないから奴の血を当てにしてるんだ」
「少々お待ちください、看護師を呼びましょう」
「いや、お前がやってくれ。この病は感染する、ユージーンの血を受けたお前には既に免疫がついている。他の人間に感染させるな」
「ひょっとして、ニュース報道されている病原体ですか? 遂に日本にも感染者が」
上島は書斎で付けっぱなしにしていたラジオのボリュームを上げた。
感染し続ける未知の病原体の脅威が報じられ、各地からニュースセンターに続々と情報が集まっている。
まだ日本国内の感染は確認されていないと厚生省は発表しているが、感染した患者が国内に入るのは時間の問題だろうと上島は思っていたところだった。
織図は事情を話す労力を惜しんで、適当に相槌をうつ。
こうしている間にも、メファイストフェレスは織図の腕の中で声を殺して悶え苦しんでいるのだから。
「そういうことだ」
「やってみましょう、ところでこの御仁は生物学的な意味において人ですか? それとも神様ですか?」
「人間じゃないが、身体の作りは人とそう変わらんだろう。ただ人より進化し発達しているだけだ」
彼女は書斎のソファーに寝かせつけられ、妙な汗をかきながら顔を引き攣らせているが気丈にも耐えている。
上島は彼女が何に感染しているのか分からない。
感染症だというのに発熱もしていないし、これに似た症状が思いつかない。
何だ、彼女は一体何に感染している?
「感染源は何なのでしょう」
「さあ、何だろうな。念のためこの病院にいる奴は全員、ユージーンの血で予防接種をした方がいいかもしれん」
上島は処置室にあった普通の輸血セットに例の秘密の冷蔵庫から出してきたユージーンの血液を書斎に運び込んで充填し、彼女の腕の脈から少しずつ輸血をはじめた。
彼女はもう今にも力尽きそうになっていたが、そのうち沈静して眠りについた。
上島は眠った彼女の黒いドレスとコルセットを脱がせ、楽な服を着せ付けるついでに、ディスポーザブルの手袋をして彼女を診察する。
医者である上島も息をのみ、触れるのに躊躇してしまうほど彼女の肢体はしなやかで美しかった。
織図はメファイストフェレスに与えていたコマンドを解除して経過観察をしたが、彼女が再び発狂する事はなさそうだ。
「効いたのか? さすが歩く万能薬と言われるだけある。何ミリリットルで効果が出ただろう?」
「300ccほどでしょうか。特効薬ですね」
「ユージーンの血は何リットルあるんだ?」
「48リットルです」
「足らんな。感染者は400人以上いるって話だ」
「……いえ、神様。どうやらその10倍です」
上島は焦点の定まらない視線を織図に向けたままふるふると首を振った。
ラジオから繰り返し聞こえてくるニュース、その推定感染者数は4200人を上回るという。
何という驚異的なスピードで感染しているのだろう。
織図は忌々しそうに、古びたラジオをにらみつけた。
「パンドラの箱が、開きやがったな……」
*
比企はユージーンの治癒血の特効成分と思しき24種類の化合物の構造式と合成方法を詳細に記載した論文を僅かな時間で書き上げると、彼の使徒に封筒を託し、世界中の然るべき機関、新聞社、ネットニュースに送りつけるよう命じた。
論文形式をとるからには、しかるべき権威のある科学雑誌に投稿すべきだが、掲載までに数ヶ月もの時間がかかる。
これらの特殊な化合物は、神階の環境では合成できない。
生物階の変化に富んだ環境でこそ合成することができる。
そして神階の比企や薬神だけでは、そもそも実験をするにしては手も施設も足りない。
構造式だけを丸投げして無責任かもしれないが、人間の化学者の力を借りるほかないのだ。
数ページの匿名著者の論文によって神の手から人間の手に、希望のバトンは手渡された。
生物階に赴任している比企の使徒達が論文を新聞社へ直接彼等の手で配達してから数時間後、号外の新聞にこんな見出しが最大のフォントで印刷されていた。
”未曾有の感染症に対する特効成分が明らかに”
世界中の化学者、薬学者が24の化合物の構造式を見て、驚愕した。
こんなものが、合成できるものか……この構造は、地球上には存在しない。
著者も知れぬ匿名のこの論文を、信じるか、否か――。
*
築地は珍しく、朝一番で研究室のドアを開けた。
一番乗りだと思っていたのに、向いの教授室には明かりが点っている。
こりゃ、徹夜組だな、と築地は感心する。
松林の赤いハブラシが所定の場所にないので、彼女も教授と一緒なのだろう。
築地は届いたばかりの朝刊を持って、教授室のドアをノックしようとして突然ドアが開き、いつものように中に引きずり込まれてしまった。
相模原と松林は、松林の買った高級エスプレッソマシーンで淹れたコーヒーを手に手に、新聞の一面を広げていた。
やはり彼等は新聞を読んでいたのだなと、築地は教授室のテーブルの空いた席に腰掛けた。
「教授、この化合物って俺達が今同定してるやつですよね! 二つですけど、全く構造が同じものが」
「先を越されたな、築地君。上島君に確認したが、他の研究室には分与していないそうだよ。とすれば、その血を持つ神様本人がこの組成を発表したんじゃないか?」
松林は築地に今煎れたばかりのコーヒーを譲って、コーヒー豆をひき、もう一杯分のコーヒーのおかわりを作りはじめた。築地はコーヒーを飲んでから、教授に泣きついた。
「神様本人でも何でも、先にやられちゃったら、俺の修了がー!」
「築地君、でも新聞には今回の病原体に対する特効成分24種と書いてあるわ。これが全てじゃないのよ。でもどうして、同定しているのに合成しないのかしら。この記事を送りつけてきた人は、成分は教えるから頑張って合成して特効薬として役立ててくれみたいな事書いてるし」
真空パックに詰めていた豆をゴリゴリと挽きながら、松林は漂うコーヒーの香ばしい香りにうっとりと鼻をひくひくさせている。
「投稿してきたのは分析屋で、合成はできないんじゃないか? 大体、このめちゃめちゃな構造をどうやって合成する」
「本当は合成するより神様本人の造血細胞なんかがあればいいんでしょうけど」
松林の発想は多少倫理的に間違っているが、いつも目標に対して最短距離を走るように的確だった。
一番早いのは海のものとも山のものともつかないような化合物を合成するより、神の造血細胞をクローン化して血液を大量生産するクローン技術だ。
最低でも数週間はかかるかもしれないが、確実だった。
「上島君は神様の血だと認めていないんだから、本人に出て来てもらうも何もないだろう。いいか、この化合物が本当に薬効を持っているという事は、我が大坂大学錯体研究室しか知りえない事なんだ。それは何故だね、松林君」
「はい、この記事には、エビデンスがありません。効果を実証する結果が載せられていないからです。どうやって効果を確信したのか明らかにされていないので、世界中の研究者はこの記事を信用できません。この記事の著者はデタラメを書いているか、もしくは感染源をばらまいた張本人、テロリスト側ではないかと普通は考えるでしょうね」
松林はパンパン、と新聞の一面を指先ではじいた。
それを聞いた相模原は大げさに手を叩く、どうやら徹夜明けでナチュラルハイになってしまっているらしい。
こんな時の教授は、築地などよりずっと精神年齢が若いに違いない。
「エークセレント! さすが松林君」
「当然のことを言ったまでです」
松林はつんとすまして眼鏡をかけなおすだけの、冷静でつれないリアクションだ。
築地も教授の後に慌てて拍手をして松林をおだてた。
「じゃあ教授、俺達がこの化合物を合成するはめに?」
「そうだ、大坂大学が世界を救う、なーんて事になるんだぞ」
築地は感染者達には悪いが、自らの研究を役立てて世界を救いたいなどこれっぽちも考えた事がなかった。
そもそも医療で社会に貢献したいなどと思うような殊勝な考えの人間は、はなから理学研究科になど来ないと築地は思うのだ。
未知の病原体の克服よりも何よりも彼の関心事は大学院修了のみ、全ての話はそれからだった。
面倒な話はお断りだ。
「俺らだけじゃ絶対無理ですよー。うちには純粋な合成屋って、松林先生と長瀬しかいないじゃないですか」
「まあこの記事を信じた世界中の学者の何人かは、合成しようと思うかもしれん。しかしそちらの線にはあまり期待をせず、もっと頼りになる奴らに手伝ってもらおう」
「頼りになる奴ら? そんなんいませんよ」
「錯体研の、海外組を召集する」
ワールドカップサッカーじゃあるまいしそんな都合よく、海外で活躍する即戦力なんて居るわけないだろ、と築地は鼻で溜息をついた。