第1節 第41話 Infected Area
このところ吉川 皐月は、ユージーンとメファイストフェレスの指導のない陸上部を、彼らが戻るまでの間、元々の顧問であるESSとあわせて面倒をみていた。
陸上部はユージーンとメファイストフェレスの指導のかいあってか飛躍的に実力をつけていた。
この分だと近々ある大会でもよい成績を残せるだろう。
そういえば教員免許を持っていたユージーンは体育教師らしくまともに理論的に教えていたが、メファイストフェレスの教え方は一風変わっていた。
基本的には、解階の住民が本気で走る時は逃げる場面でしかないので、足が遅いと命の危険があるわけだ。
そこでメファイストフェレスは、怪物が追ってくる、捕まったら食べられると思って逃げなさいと言って彼らの走る後から彼女が彼等を追うようなスタイルで指導をはじめた。
彼女の指導方法は実際間違っているに違いないし、陸上競技の指導者からすれば首を傾げたくなるような鬼ごっこじみたものだろう。
しかも彼女に捕まるごとに校庭1周が加算されてゆく。
命の危険はないが相当のプレッシャーがある。
最初のうちはメファイストフェレス扮する怪物に捕まった″死亡者″は全員だったのだが、徐々に生還したままゴールできる選手が増えてきた。
命がけだと思いながら逃げる選手達と、個々の選手のベストタイム程度の速さで追うメファイストフェレスの鬼ごっこだ。
彼女に捕まらないということは、その選手のベストタイムを大きく上回っているとうことだ。
ベストタイムが更新されたら、次はそのタイムに見合った速さで彼女は追い掛ける。
彼女は何度走っても疲れないようだった。
とても練習風景とは思えない放課後の光景だったが、選手達は確実に彼らの限界を乗り越えていた。
彼女は明日から、部活に出て顧問に復帰するといってくれたので助かる、と皐月はほっとした。
運動音痴の皐月はどう指導していいかわからなかったからだ。
皐月はグラウンド整備を終えて部活を解散させると、ソフトボールの県大会を間近に控えてグラウンドで練習に励む期待のエース、豊迫巧を見つけて手を振った。
「皐月っちゃん、夏休みなのにまだこっちにいたんですね。愛媛の実家に帰るって言ってたのに」
「豊迫君の県大会での勇姿を見てから、お盆に少し帰る事にしたの。県大会、来週だったよね? 必ず応援に行くから頑張ってね」
「はーい、頑張りまっす」
巧は気持ちがいいほど快活な少年だ。
生来の性格からネガティブなことは考えられない。
平凡な家庭に生まれ育ち、両親からの惜しみない愛情を受け、大多数の子供と同じよう死生観や世界の在り方などとは縁もない生活を送っている。
今はソフトボール大会で頭がいっぱいなのだ。
皐月はクラス一人一人の活躍の場には出来るだけ駆け付けるようにしていた。
堤 隼人の剣道の試合も、石沢 朱音のバレエ発表会の時も、坂下 実の水泳記録会の時も、天野 凜の絵画コンクールの表彰式の時だって、保護者と同じかもしくはそれ以上に、とにかくハレという日には必ず皐月の姿があった。
皐月の気遣いの細やかさはPTA達にも好評だったし、生徒達の信頼も厚かった。
藤堂 恒を含めると、今となってはクラス全員から信頼されているよき教師だ。
だからこそ巧は、何かにつけ皐月を頼りにしてきた。
「皐月っちゃんて俺らが6年になっても、持ち上がりだよね」
「そうよー、どうして?」
巧は皐月を信頼し、彼のバイザーの下の彼女のこげ茶色の瞳を見据えて告げた。
「俺、来年私立中学受験したいんだ。だからこの大会が終わったらそろそろ受験勉強、教えてくれない? 皆には内緒にして」
「わかったわ、……どこを受験したいの?」
皐月は即答した後で、あれ、と疑問に思った。
確かに中学受験を希望する生徒は皐月のクラスにも何人かはいた。
だがよりによって巧が受験を希望するとは思わなかった。彼の成績は体育以外は目を覆いたくなるようなものだ。
体育以外オール1の通知表を、毎学期毎学期、皐月は少し悪びれながら彼に手渡してきた。
恥じる事を知らない彼はその通知表をクラスメイトに公開してしまって、運動バカのレッテルを貼られてもう久しい。巧の通知表はある意味で学期末の風物詩と化していた、
そんな彼が受験する中学などあったのだろうか、そして何故受験をしてみようと思ったのだろう。
親に通知表を見せていなかったのならば納得できるが、親に期待されてという訳でもなさそうだ。
「明海附属、去年のソフトの全国大会優勝校」
「……それって、ソフトのために? 明海附属は難関よー?」
「そ! だから勉強すんの。俺ユージーン先生に命助けてもらって、またソフトやってるうちに、自分のしたい事がやっとわかって。明海行きたいって決めたんだ。皆とは一緒に風岳中行けないけど後悔しないと思う」
もう入学できる気になって話しているのが何とも滑稽だ。
決意は立派だが果たしてその学力があるのかというと皐月の力沿えだけでは心もとなく思ってしまう。
それでも皐月は巧の期待に応えなくてはならなかった。
無理だ、やめておきなさいだけなら誰でも言える。
不可能な事を不可能だと言うだけでは、教師ではない。
皐月は受けてたつしかないと思った。
「わかったわ」
「俺みたいに馬鹿じゃ、無理だって言わないの?」
「いい? 豊迫君。無理なことなんて、そうそうあるもんじゃないのよ。でも、宿題おいいーなんて言ってちゃダメだからね?」
「やっぱしー? 明海にもスポーツ推薦があればいいのにないからなぁ」
おどける巧に微笑みかけながら、人間社会の教師である事を忘れてはならないと、皐月は改めて思った。
恒の身にはあまりにも大きな事件が降りかかりすぎて、恒にばかり目がいってしまっていた。
しかし皐月の生徒達はそれぞれの事件の中を、それぞれの悩みをかかえて生きている。
誰が重大で、誰の方が些細な事だと教師が決めてしまってはいけない。
その子供その子供に合った視線から、教師は子供達と向かい合わなければならない。
教師は生徒全体を見渡す中立的な立場にいなければならない。
教師にとって生徒は大勢の中の一人でしかないのだが、生徒にとって教師は唯一の教師だ。
皐月は全ての生徒に目を向けなければならない、一方生徒は皐月だけを見ている。
ユージーンが本来ではあり得ない経緯を経て、小学校の学級副担任として着任した背景は、皐月が掴み所のない不登校児である恒を持て余して自信を失くしていたのを、校長が配慮したからだ。
孤独と絶望の淵にあった恒と温和な軍神ユージーン、彼等は必然的な運命のうちに出会うべくして出会ったのかもしれない。
およそ彼は恒ひとりのために天上から遣わされた恒にとって最高の教師だったことだろう。
皐月はユージーンが恒を救ったように、皐月も生徒の人生に関わりどんな時でも誠心誠意向かい合いたい。
そんな教師であり続けたいと思った。
彼女はぎこちない動作でグローブをはめて、一人で投球練習をしていた巧の前に向かい合った。
ぱん、と右手の拳をグローブの中に打ち込み、巧に投げて来いと合図をする。
練習相手になどならないとわかっている。
それでも巧はにやりと微笑み皐月に向かって柔らかく、しかし真っ直ぐな球を放った。
*
心地よい電車の振動に揺られながら、織図の膝の上でいつの間にか恒は夢を見ていた。
夢の中で再び、黄昏色の草原に立っていた。
恒が強く望んだのできっとノーボディが草原の夢を見せたのだろう。
夕暮れに染まったひと束の草が、ぼんやりと手に触れてざわざわと揺れている。
あの時と同じようにうつ伏せで、温かい土の上に横たわって夢の中で目覚めた。
きっとそこにいると予感した彼はやはり黄金の草原の中、その草原と同じ色をして恒の目の前に居た。
彼が誰であり、何を守ろうとしているのかを知った恒は、見守る彼の手をおずおずと取って、思いが溢れて言葉にならなかった。
その手の温度も知れない、彼の心などなおさらだ。
数百億年も前、彼の尊い気まぐれから全ては始まった。
色々言いたい事はあるが、やはり感謝と労いの言葉をおくりたい。
生命を育み、守り続ける事…それがたとえほんのひとかけらの気まぐれであったとしても。
命を生み出し、そして大切に思い続けてくれて、守り続けてくれてありがとう。
ずっとひとりでお疲れ様、これからは少しだけかもしれないけど手伝うから。
そんな言葉を、彼はじっと聞いていたと思う。
何を語りかけても返事をしないので、肉体を持たない彼は肉体を離れると話せなくなるのだろうな、と恒は思った。
返事がなくとも、何となく彼の言いたい事が恒にはわかった。
それは言葉ではなく予感でしかなかったが、恒は声にならない彼の”言葉”を聞いたような気がした。
重い役目を負わせてしまった……不憫だ、と。
恒は自分を不幸だとか不憫だと思った事はない。
ただひたすらに、この世の中に必要のない存在なのだと思っていた。
母を傷つけ、父親に利用され続けた恒のわずかばかりの人生と、それに対して不断に続いた彼の孤独と絶望を比べる。
彼の苦痛を思えば、人生を脅かしてきたものとこれから待ち受ける未来について、彼から不憫だなどとは言われる筋合いはないと思った。
恒には人生をやり直す機会と生きる権利が与えられたのに。
一番不幸なのは、完結する事の出来ない者達だ。やがてユージーンもそうなる。
「……俺は俺の為すべき事を果たしたいと思います。でも、ユージーンさんはあなたと一緒に行ってしまうんですね」
そう言うと、彼は寂しげな表情をして頷いた。
わざわざ彼を苦しめるような確認をせずとも、何が大切で何を守らなければならないのか。
ユージーンの決意と織図の言葉を聞いて、恒にはもう充分にわかっていた。
彼はなおも無言を貫いたまま、すっと手を伸ばして恒の背後を示した。
以前は一面に開けた海原から波が深淵に落ち込んで、背後には何もないのだと思っていた。
振り返った先に何があるというのだろうか?
言い知れぬ胸騒ぎがして、彼に示されたように背後を振り返ってみた。
すぐ背後には、草原の中に切り抜かれるように突然断崖があった。
その高さ何百メートルとも知れない絶壁の下一面に見えるのは、黄昏色に染まった広大な街の風景。
日本のそれではない、どこか遠い異国の街並み。
赤いレンガ造りの建物が夕陽を照り返して、碁盤の目の路地に長い影を映じている。
穏やかで静的な光景。
しかしその果てからまるで卵に皹が入るように、あるいはパズルが崩れるように街に皹が入り、地平線を少しずつ侵食しているのが見える。
耳を澄ますと世界が崩れてゆく音が、はるか彼方から聞こえてきた。
恒は怯えてあとずさると、背後にいた彼の腹部に当たってしっかりと支えられる。
逃げ出せるものなら、逃げ出したいと思った。
そう思った途端、彼は後ろから顔をのぞかせてじっと恒の目を見つめた。
名も姿もなきものとユージーンが言ったように、彼の顔は先ほど見た顔と少し違って……女性のように見えた。
注意してみていると、容姿が少しずつ変化してゆくのがわかる。
一瞬一瞬の存在のあり方が違うのだ、身長だって先ほどはそれほど高くなかったように思えるのに、目を離した一瞬の間で姿が変わってしまっている。
暫く見ていたら、きっと年齢や性別だって変わるのだろう。
トレードマークにしていると思われる金糸のような細く長い金髪と光を重ねたような透明な装束のおかげで、彼が彼であるという事がかろうじてわかる。
ホログラムのように偏光する彼の瞳の色は明らかに模造的で生物のそれではなくぞっとしたので、恒は思わずのけぞった。
逃げ出すつもりなのかと尋ねているように思えたからだ。
やましい気持ちを落ち着け、脚を中空に投げ出して断崖絶壁のふちに腰掛けた。
恒の隣に彼(彼女?)も腰をおろし、恒の傍らで滅びゆく世界を見守っていた。
三年後、恒とユージーンがINVISIBLEに敗れればこうなってしまうと、彼は予め見せているのだろうか。
彼と話したいこと、訊きたい事はたくさんあるのに、頷くばかりで返事はない。
思いついて、ポケットに入っていた広告の切れ端とティッシュで包んだ赤いチョークを引っ張り出した。
広告はたまたまポケットに入っていた。赤いチョークはナイフと同じく恒の必携品だった。
不登校時代に人目を避けるように登山をしていて必要だったものだ。木や岩にこまめに目印をつけて、迷わないようにするために持っていた。とはいえ、最近は山に逃げ込む必要もなくなってチョークも持っていなかったのだが、夢の中なのでそういう事もあるのだろう。
恒はその二つを思い切って彼に差し出してみた。このチョークのかけらとチラシの裏のわずかなスペースで、何か、何か語りかけてはくれないか。
彼はチョークとチラシを受け取ってくれた。
恒は侵食されゆく地平線を指差して彼に尋ねた。
「教えてください。これは未来の光景ですか? 何を意味するのですか?」
彼は返事の代わりにチョークのかけらをつまんで、チラシの裏に走らせた。
”そうではない、現実だ。既に始まっている”
創世者である彼が恒に理解できるようわざわざ日本語でチラシの裏に丁寧に書いた楷書は懐かしい愛情のように尊く思えて、安っぽいチラシの裏の文字の美しい文字に魅入ってしまった。
彼が荻号であって、軽口を叩きあったということなど、もうすっかり忘れていた。
「これが現実ですか、どこで始まっているのですか?」
”真実は複数の現実の中から選ばれるものだ。汝らは選び続けている、現在。そしてやがて未来に繋がる現在も”
「波動関数の……ウィグナーの友人が?」
恒はまた、彼が理論的に説明してくれる事を期待した。
現象を理解するには漠然とした概念よりも数式と理論で表してもらうほうが恒は有難かった。
彼はそれではだめだと首を振った。
”現象を定義づけてはならぬ。物理空間法則は吾らが創出し汝らが観測し利用しているに過ぎない。現象は感ずるもの、それでよい。未来も無限だ”
「俺、絶対にやってみせます。でも」
”怖いか”
彼はそう書いて、恒の頭を撫でる。
不安も恐怖も、悲しみも彼の前では隠せなかった。
透明な装束の裾を借りて、恒はそれにくるまった。
ほんのひとかけらでも彼(彼女?)の強い精神性が自分にも備わっていたら……と恒は思う。
プレッシャーと恐怖に、もっていかれてしまいそうだ。
自己であることを棄てようとしているユージーンと、自己が自己であろうとする恒。
ふたりの役目はまったく違う。
失敗をしてしまったら、ユージーンだって報われない。
「怖いです。とても……もしも、できなかったら……やっぱり死ななきゃいけないのかな」
極限状態に置かれれば躊躇することなく死ねるだろう。
しかしそれではユージーンが恒を何としてでも助けようと奮闘する意味がなくなる。
更に言えば志帆梨や周囲を悲しませる。
本当に辛いのは、死に行く者よりも残された者達だということを理解していた。
巧が死んだ時、胸が張り裂けそうだったことを忘れない。あんな思いをさせたくはない、誰にも。
彼は悶々とする恒の心情を察して、軽く抱きしめて恒の心が落ち着くのを待った。
侵食されゆく世界を見据えながら、恒は夢の中で震える。
”ひとつ、よいことを教えよう。死を体験するということは、生を見つめ直す事だ。汝自身と汝を取り巻く生を見つめ直すのだ。さすれば生きながらにして、死を乗り越えられるだろう”
「できるでしょうか」
”迷ったらまた来るといい。少しだが話し相手ぐらいにはなる”
彼はチラシの裏に書き終わると立ち上がった。
チラシのスペースが丁度埋まってしまってこれ以上は書けないのだ。
頼もしいな、と恒は思う。
彼は恒が迷った時には夢の中で助けてくれる。
名も姿もないものだが、彼は確かに世界の根源であり恒は彼の子供だ。愛情深くいつも見守って、こうやって挫けそうになった心に手を差し伸べる。
恒は思い切って、彼に一番の疑問をぶつけてみた。
「あなたはどうして命を生み出したのですか?」
彼は答えをはぐらかすように視線を上げ、恒を見てはいない。
何を思ったか。彼の気紛れから全てははじまった。
そして創世者の気紛れはまだ続いている。
その答えは、ただ寂しかったからではないかと恒は思った。
名も姿もなく。
普遍で永遠であり。
全てであることはきっと感情を持つ彼という創世者にとっては苦痛だ。
彼が彼であると認めてもらえない事が、孤独が辛かったから。
彼はいつかそんな答えを白状してくれるだろうか。
恒の感謝の気持ちは変わらない。
名もなき創世者に感謝をしつつ、眼下に広がる黄昏の街並みを脳裏に焼き付けていた。
*
アルシエルは嬉しそうにユージーンの頚を絞めながら、恍惚とした表情をしている。
眠っていた彼女の嗜虐心を、ユージーンが呼び覚ましたのかもしれない。
彼女は弱きものには興味も示さず、強く尊き者をこそ捻じ伏せて服従させたいと考えていたからだ。
今日という日までは彼女の欲望を満たす理想の相手はとんと、現れなかった。
その証拠に、彼女は生涯のうち全て異なる相手との間に98子をもうけながら、一度も婚姻をしたことがなかった。
少し押せば折れてしまいそうな細い腕で万力のような力を込め、締め技で頚を絞めながらも、彼女はようやく話す気になったようだ。
「それでは、早く続きがしたいのでお話ししよう。解階は今……」
「あ、待って。一部でいいので。全ては説明しないでいただきたい。あなたの話そうとなされている事の半分以下で構いません」
ブラインド・ウォッチメイカーの支配領域で核心に触れる話をすれば彼女の命に関わるからだ。
荻号がかつて世界の核心に触れる話を常にはぐらかさなければならなかったように、ユージーンもその全容を聞くわけにはいかなかった。
だがアルシエルはそんな事情は少しも理解できない。
「折角ご足労いただいたのだ。こちらも誠意をもって全て申し上げる所存だ」
しこたま頚を絞めて。
これが誠意のある対応なものかとユージーンは訴えてやりたかったが、彼女はようやく頚から腕を放したのでその言葉を喉の奥に飲み込んだ。
「あなたの命に関わるのです」
ユージーンはまだいくらも聞かないうちにそこで話に割り込んでストップをかけた。
アルシエルがいきなり核心をついてきたからだ。
ユージーンはまだ荻号のように会話をコントロールしたり上手く立ち回れないので、どうしてもぎこちなくなってしまう。理想の形としては相手から会話を引き出し、なおかつ核心に触れる会話を阻むことだ。
思うままに相手の心を操った荻号の手法は見事だった。
ユージーンは一瞬にして、解階の見舞われている状況を把握した。
既に始まっているのだ。
進化の飽和した世界を滅ぼし、最初から進化系統樹を立て直すためにブラインド・ウォッチメイカーの大粛清がひそやかに。
それはすなわち、生物階にも言えること。
ヒンドゥー教でいうところの破壊の時代、カリ・ユガ期から創世の時代クリタ・ユガ期に移行するように、ブラインド・ウォッチメイカーのルールに縛られたあらゆる生命が滅ぼされる。
それがもう、INVISIBLEの収束を待たずして始まっていたのだ。
生命を無慈悲に根絶させるブラインド・ウォッチメイカーの大粛清、ノーボディが見るに耐えないと憤った許されざる行為だ。
「まだ何も話してはおらぬぞ」
彼女はユージーンが話を遮ったので、恨めしげだ。
これだけしか話させてもらえないのなら、それこそユージーンは何のために呼ばれたのかわからなくなる。それに彼女は、ユージーンがこれほど大事な話を遮ってしまって、早とちりをしていないか不安だった。ユージーンは彼女の口を押さえ、真剣な口調で諭した。
「その件につきましては、わたしが引き受けます」
「本当に理解しているのか? 頼んだぞ? 要請の受諾をいただき感謝する。まだ、お伝えすべき事はもう一件ある。これは極秘にしておる情報なのだがこの際だ。解階の辺境の星から順に伝染病が流行しはじめておる。感染した者は理性を失い、繰り返し幻覚を見るのだそうだ。更に感染者は必ず、生物階に行こうと試みる。感染すれば一週間ほどで死に至る。そんな死の恐怖から逃れるためには、生物階に入階しなければならないという幻覚を見たようだ。我の監理する生物階に抜ける全てのゲートは遮断しかつ厳重に封鎖しておるが、我の把握せぬゲートからの生物階への侵入がないとは断言できん。理性を失ったまま生物階に入った感染者がどのような行動に出るか、想像もつかん。非力な生物階の人間に危害が加わるだろう。感染者は隔離したが、ウイルスのようなものではないらしく感染は拡がり続けている。星の消滅と奇病の拡大、これらはあなたに解決できる問題だろうか」
ユージーンはアルシエルの話で直感的にブラインド・ウォッチメイカーが生物階にまで干渉をはじめたのかもしれない。
恒星の消滅と奇病の意味するものは何か。
ブラインド・ウォッチメイカーは生命の根絶以外の何かを目的として、生物階で彼らに何かをさせたがっているのか?
アルシエルはユージーンが困惑しているように見えて、大きなため息をついた。
彼女もユージーンを全能の存在だと信じているわけではない。対処のしようがないということはわかっていた。
ただ、誰にも頼る事ができない立場であるからこそ、最後に彼に縋ってみたかっただけだ。
彼女は解階の滅亡を半ば諦めて受け止めようとしていた。これらの問題がユージーンに解決できる問題ではないと、彼女もわかっていた。
「やはり、手に余るか……」
「感染者に会わせていただけませんか? 治療法を探ってみます」
ユージーンはアルシエルを見捨てはしなかった。
ノーボディがありとあらゆる者たちを決して見捨てはしないように。
それがどれほど不可能と思われる事でも簡単に不可能を口にしてしまってはならない。
ユージーンは真実を知るために感染者に会ってみる必要があると思った。
ユージーンは他の神々とは違ってプライマリーコピーの個体であり、格段に治癒能力の高い治癒血を持っている。
更にノーボディの知識を得た今なら、必要に応じて血液の組成を変える事もできるだろう。
解階の住民は人間に近い体の構造を持っているし、ユージーンの血液が人を癒すように、解階の住民にも効果があると信じたい。
治癒血で感染が治ってしまえばいいのだが……、そんな事を思った。
しかし万が一それで治ってしまうとなれば、解階の感染者達の為にユージーンは干からびるまで血を絞り出さなければならない、そしていくら不死のユージーンとはいえ供給できる血液の量は有限だ……全ての感染者を何とかして救いたいのだが、それは難しい問題だった。
「勿論会っていただきたいが、あなたまで感染してしまうぞ」
「わたしは不死です、感染しても構いません。それより、治療法を探さないと」
早く何らかの手を打たなければ感染と母星の消滅の恐怖におののいた解階の住民達が生物階に大挙して押しかけてくるだろう。
そして暴徒と化した彼らに、人々はなすすべなく殺されることになるかもしれない。
解階の上流貴族は神より戦闘能力に長けており、神は彼らの流入を阻む事ができない。
解階の住民の人口の多さは生物階の比ではない。流入してきた者たちから生物階に感染が拡大してしまったらもう終わりだ。
大昔の預言者たちのいうよう、地上で神階と解階の、いわば神と悪魔の最終戦争が繰り広げられるというわけだ。
そんなのはSF映画の中だけの話にしてもらいたい、とユージーンは思う。
「では感染者に会っていただけるか? と……その前に、続きをしよう」
「やりませんよ!」
ユージーンはアルシエルの不謹慎な言葉に怒鳴り返した。
死者も出ているという非常時に、よくも続きをはじめようと思うな、と呆れたのだ。
もともと価値観が違うのだから仕方がない。
彼女に隣人愛を説いても理解ができないし、それが正しいとも言えないのだ。
「やはり、先に話すべきではなかったな……」
アルシエルはひどく残念そうに項垂れたのだった。
*
深夜のラスベガスの違法カジノで重く垂れ下がった煙草の煙と、怒号飛び交う喧騒の中、その一角だけが水を打ったように静まり返っていた。
背後に大勢のギャラリーに囲まれ、人々の注目の的となっているその若者は迷いなく頷いた。
フェイクなのだろうが、空色の髪の毛と瞳をしたその男は明らかに堅気のようではなかった。
かといってただのチンピラという風体でもない。
彼の落ち着きと狡猾そうな鋭い眼差しはまるで何十年も生きてきた老人のように、年月の積み重ねられたものだった。
ゲームはカジノゲームで最も有名なルーレット。
熟練のディーラーの手は震えていた。
男が張ってくる額の大きさに驚いているのではない、裏社会では地方予算にも匹敵するような額が毎晩動いている。
ディーラーが怯えているのは、36倍もの多額のべットをしてくるこの男が先ほどから同じ数字と色を賭け続けているからだ。
赤の1。
そして5回も連続で的中を続けている。
ルーレットが無作為に回って赤の1に入り続けるその確率は、すぐに天文学的な確率となってゆくだろう。
ボールは固唾をのんで見守るギャラリー達の中で、またしても赤の1に入った。
ディーラーはコールしながらも、もう逃げ腰になっている。
このゲームでイカサマが出来るとしたらプレイヤーよりディーラー側だからだ。
カジノのオーナーがこの男と通じて稼がせていると疑えば、ディーラーに明日の命はなかった。
そろそろかな、と青い髪の男は呟いた。
案の定、背中には何丁かの拳銃が突きつけられている。
カジノのオーナーが雇った屈強そうな従業員が背後にやってきた。
また、これだ。こういった違法カジノで勝ち続けると命を狙われる。
彼はうんざりしたようにメントールの煙草の煙を吐いた。
「貴様、イカサマ師か。今ので最後にして、そろそろお引取り願おうか」
「確かにそろそろ、潮時だな」
彼は席を立ちごっそりと配当を持つと唖然とするギャラリーを押しのけ、涼しい顔をして換金に行った。
換金を終え、ごっそりとドル札を受け取ると、彼は眩いネオン街から少し外れた路地裏へと入っていった。
彼は何の目的もなくふらふらと歩いているように見えながら何かを目ざとく捜していた。
彼は薄汚い欲望にまみれたこの街の空気が、この上なく好きだった。一夜の夢につぎ込む者、全てを獲る者、全てを失うもの。
強い光に当てられて濃く落ちる影、そんな人間達の営みが好きだ。
彼はメントールの煙草をふかしながら、薄く微笑んだ。
夜商店街の裏地にうずくまる、母子の姿を見つけたからだ。
「よかった、まだ居たな。ほら」
彼は先ほど儲けたドル札のうち半分以上を、みすぼらしい身なりをした母親に握らせた。
彼女は先ほど、違法カジノでなけなしの全財産を全部つぎ込んで、一文無しになってしまった母親だ。
一般客に混じって慎ましやかでささやかななベットを続けていた彼はじっと全てを見ていた。
彼女がどのような事情でありったけの財産をつぎ込んで、そして負けなければならなかったのかを……。
彼女は夫が残した多額の借金を抱えていて、身体が不自由で働けない。
そして無知な彼女はアメリカンドリームに賭けて違法カジノにやってきたのだ。
彼女が打ちひしがれて違法カジノを後にしたとき、素人であった彼女に分からないようイカサマをしたディーラーから、彼は逆に配当を搾り取ってやった。
信じられない金額を受け取った母子は、夜の闇に溶け込むように消えて行った彼の背後に平伏して手を合わせた。
彼の背後には僅かに後光が射して見えたからだ。
あまりにも彼がまぶしく見えて、目の錯覚なのかもしれないと彼女らは思ったようだが、錯覚などではなかった。
彼は陰階神第2位、およそ生物階全ての確率を司っているといっても過言ではない確率神、ガブリエル=タウンシェント(Gabriel Townshend)、置換名を梶 奎吾と言った。
現在最も極位に近い神として知られている。
生物階降下は半年も前から予定していた事だった。
こうやって各地の賭場を巡り、歪曲された確率があればそれを補正する。ギャンブラーのような仕事だがこれも彼の仕事の一部だった。
彼はふらふらとおぼつかない足取りで路地裏を歩いていたが、携帯電話に届いた法務局からのメールを見て驚いた。
何と、解階の住民が複数名不法に生物階に侵入し、破壊活動を行っているというのだ。
解階の住民達は女皇 アルシエルに絶対的忠誠を誓って解階の門によって厳密に出入りを管理されており、生物階で勝手な行動はとらないものだ。
面倒ごとを嫌うアルシエルは生物階の支配権を神階に譲渡しており、解階の住民が調査と研究以外の目的で生物階に関わる事を禁じていた。
これは妙だな。と梶は思った。
最強の女皇として君臨し続けたアルシエルの支配が揺らいでいるとでもいうのか?
解階の門から追討隊が出ているのだそうだが、神階も生物階降下をしている神々は解階の追討隊と共に違反者を速やかに逮捕、もしくは殺害しなければならない。
現在生物階に降下している神々は四柱。
陽階7位軍神 ユージーン=マズロー、陽階5位光神 レディラム=アンリニア、そして梶 奎吾、特殊任務従事者にして陰階第8位死神 織図 継嗣だ。
世界同時5箇所での解階の住民の侵入が確認されている。
梶の割り当ては南アメリカ、場所はよくわからないが、法務局から衛星写真で送られてきた座標が指定されている。
解階の住民達が密入階してくるゲートは不明、不法密入階者の数も不明だということだ。
「こりゃまた、どうしちゃったのかな。女皇様」
いくらオール枢軸神のドリームメンバーが降下しているとはいえ、解階の貴族階級にある者達が出張ってきたというのなら苦戦を強いられる。
しかし神階−解階の協定で違反者は速やかに逮捕しなければならないときている。
情報によると、貴族階級の流入はまだないようだが……。梶はまるで宇宙空間の中を宇宙飛行士が軽く月面を蹴って舞い上がるように重力を断ち切ると夜空に溶け込み、そのまま南米に飛んだ。
*
織図と恒の乗った単両の列車は風岳村に着いて、織図は恒を揺さぶり起こした。
恒はぐっすりと眠っていたが、今度は目を覚ました。
先日のように覚醒できなくなってしまっていたらどうしようかと心配した織図はほっとして、ふたりはホームに降り立つ。恒は一面に広がる風岳村の景色を見渡しながら、またここに、逃れられない運命の場所に戻ってきたのだと心に刻んだ。織図はその足で先ほど連絡があった空山のもとに行こうとしていたが、それを邪魔するようにメールでの連絡が入る。
ダースベイダーのテーマ曲が流れてきたので、織図はげっ、と唇を突き出した。
盲目だった織図は着信音だけで誰からの連絡かすぐに分かるように着信音を個別設定している。
恒はまたしても妙な着信音が鳴って、つっこまずにはいられなかった。
「何ですか、ものものしい着信音ですね」
「これは、法務局からのなんだよ。恐怖の着信音だ」
「え? さっきの会話、やっぱりアウトでしたかね。盗聴されてましたか?」
先ほどの料亭で交わした会話が、全て法務局に筒抜けだったのではないかと恒は慌てた。
織図はよく見えるようになった茶色の双眸で、携帯を遠ざけたり近づけたりしながら唇をとがらせていた。
老眼だというのではない。
「なー、恒。俺ぁ果てしなく行きたくないんだけどよ。解階の住民が、生物階で暴動起こしてるらしいんだ。それを処罰に行かなきゃなんねんだとよ。ったくよー、法務局も無茶言うよな。解階の住民って強えんだぞ、特に貴族階級の奴らは」
「解階の住民って、メファイストフェレスさんのような?」
「そうだよ。あいつはあんなガサツだが解階のお嬢様なんだよ。あいつにも手伝ってもらうかなあ」
織図はそれがいいと思って、街で買い物中のメファイストフェレスに電話をかける。
こういった不可侵条約に触れる違反者は、神階と解階双方で協力して逮捕に当たらなければならないという取り決めがあったからだ。
織図は彼女の実力を正当に評価していた。
彼女は枢軸神と同等、いやそれ以上に戦える。
恒は電話をかける織図を見上げながら、そこはかとなく嫌な予感がしてくる。
神階と解階の不可侵条約は女皇アルシエルの絶対王政により一度とて破られることなく発効してきた。
全ての解階の住民は生物階に不法に侵入してくる事もなかったし、暴動などもってのほかだ。
それがここにきて突然、暴動だと?
恒はノーボディと共に夢に見た光景、音を立てて崩れゆく世界が現実のものとなっているのかもしれないと感じた。ブラインド・ウォッチメイカーが解階の住民をいいように操って、侵入させているのではないか……。
ブラインド・ウォッチメイカーは三年後に向けて、次々と手を打ってきている。
「じゃあ、お嬢様も協力してくれるっていうし、俺はこっち先に行ってくるからよ。お前は家で待ってな。空山んとこには、勝手に行くんじゃねえぞ」
織図は釘を刺した。
恒は少しふざけたようにそう言う織図に、行かないで欲しいと言いたかった。
彼がそこに行ったきり、二度と帰ってこれないような気がしたからだ。
「どこに行かれるんですか?」
「パキスタンだとよ」
「気をつけて!」
恒が叫ぶと同時に、彼は黒い霧となって消えてしまった。織図もメファイストフェレスも無事に帰ってこれるのだろうか。
恒は瞬間移動で家に戻る事もせず、ひとりで夕暮れの小道を歩き始めた。
水面下で表面上には見えない場所で、ブラインド・ウォッチメイカーの悪意が不気味に動き続けている。
恒の脳裏で、世界の崩れ行く音が確かに聞こえていた。
*
アルシエルは地下に建設された母星から辺境の星々に繋がるゲートへユージーンを案内した。
アルシエルの皇居の地下にはそれぞれの星々へと繋がる私設ゲートがずらりと設置されていた。
その数、数百基。
感染区域に繋がるゲートは赤い非常灯が点灯している。
残念ながらこの先はアルシエルは案内できないのだという。
アルシエルがお忍びで使う私的なインプットゲートはまだ封鎖されていなかったが、辺境の星々から母星へと繋がるアウトプットゲートは首都への感染者の流入を防ぐために閉鎖されていた。
つまりユージーンは行ったきり帰ってこれないということになる。帰りはアルシエルの気配を頼りに追跡転移で帰ってくるという方法しかない。
アルシエルは赤いランプのついたゲートの前に案内した。ユージーンはジャケットを脱いで気合を入れると、襖二枚分ほどの大きさのゲートの前に立った。
この先は、未知の病原体に汚染されたバイオハザード地区が待っている。
「ところで、あなたは感染しても死なないとは思うが、感染自体はしないのか?」
「それはわかりません」
「感染したまま戻ってこられたのでは、尚更感染が拡大するだけだぞ。慎重になった方がいい」
辺境の星々の住民を救出に行って逆に病原体を首都に持ち込まれたのではたまらない。
病原体の種類と感染経路が分からない以上、無謀な事をしてほしくはなかった。
彼女は解階の統治者として冷静な判断を下した。
「会ってみなければ何も分かりません」
「早まるな。会って、どうしようというのだ」
「わたしの血を与えてみます……あるいは、治るかもしれません」
「治癒血を持っているのか。では感染地帯にまずそれだけ送ろう。それならば行く必要はない。あなたは三階の希望だ、よく自覚しておかれよ」
ユージーンはみすみす感染などしないという自信はあったのだが、アルシエルに強くそう言われて渋々思いとどまった。
内科医でもある彼は採血用の注射針とシリンジをアルシエルの専属の御殿医から貸してもらうと、自分で自分の腕に針を立てて採血を行った。
赤く透明な液体が、シリンジに充填されてゆく。
アルシエルはその輝く赤い液体の美しさにため息をこぼした。
「面白い色をした液体だ、早速これを送らせよう」
ユージーンは2リットルほどシリンジをかえて充填していったが、とりあえず効果があるかだけを見たかったので、アルシエルにもうよいと止められた。
血液はアルシエルの手配でパックに詰められ、それを更にカプセルに入れられて、赤いランプの点っているゲートから送られていった。
すぐに送付先のゲート入り口との映像が繋がる。
血液が送られていったのは、正気を失った感染者が押し寄せていたゲートのようだった。
ユージーンはモニターの解像度を上げて彼等を見たが、明らかに意識はない。
彼等は執拗にゲートの周囲に群がって、生物階に入ろうとしているのだ。
ぞっとするような、悪夢のようなおぞましい光景だった。
このゲートは首都には繋がっているが生物階には繋がっていないというのに、血眼になってゲートを動かそうとしているのだ。
何が彼等をそうさせるのか、ユージーンにはもう分かった。
ブラインド・ウォッチメイカーが病原体を介して彼等を操っている。
彼等にはもはや人格や知性は認められず、這い回り、叫び、暴れる、昆虫のように機械的で異常な動きを続けていた。
アルシエルは彼女の臣民の変わり果てた姿を見るに耐えないといったように、唇をかみ締めている。
感染者のひとりが、ゲートの向こう側からやってきたカプセルに気付いた。
カプセルは直径50cmほどの大きさで、触れればすぐに開くようになっている。
感染者は理性と知性を失うそうなので、簡単に開くような容器で送ったのだ。
ゾンビのような容貌と成り果てた誰かが力任せにそれを開き、中に赤い液体が入っているのに気付いた。
彼等はパックを奪い合うように力任せに引きちぎり、中に入っていた液体を身体に塗りつけたり貪ったりした。
ユージーンとアルシエルは目を離さずそれを観察していた。
彼等のうち血を大量に飲んだ者だけが、正気に戻ったのだ。
助かった彼女は地獄のような光景に呆然として、先ほどまで同類だった彼等を気味の悪いものでも見るかのように見渡し、耐えられなくなったらしく逃げ出して行った。
血に口をつけた者は5名いたが、そのうちおよそ数百mlを飲んだ者だけが正気に戻った。
ユージーンはほっとすると同時に、あまりの治癒率の低さに絶望的な気分になった。
アルシエルは治療の手立てなしと思われた死病から臣民が生還して、当然喜んでいる。
「効いたぞ!」
「効きましたね……」
テンションの上がるアルシエルとは反対に、ユージーンの声のトーンは低い。
「どうした、喜ばしいことであろうに」
「感染者はどのくらいいるのです?」
「推定、30万名はいるな」
ユージーンは目を見開いた。
そうだった、解階の住民の人口の多さを忘れていた。
ノーボディや神々が適切に人口を管理してきた生物階とは異なり、解階の生物は無制限に蔓延っている。
辺境の星から感染しているとはいえ、その感染者数は既に30万名を越えているのだ。
「そりゃ、わたしは不死身ですからいくら絞り取ってもいいですけど、干からびてしまいますよ。血液も無限に出せるわけじゃないですし……今見ている限りでは、少し舐めた程度の者は治っていません。大量に飲まないと治らないようです。供給が追いつきません。それに治癒血を持つ神って、そうそうはいないんですよ。いても、わたしほどの効果を持つものではありません。実質この病気を治せるのがわたししかいないとなると、別の方法を考えないと」
「あなたの血の成分を分析し、組成を再現できはしないのか? あなたが血を流す必要はない。合成さえできれば」
ユージーンは上島に自分の血を50Lほど預けていたことを思い出した。
上島が急患患者の治療に使ったとしても、それほど大量には使っていないだろう。
あれを返してもらって、分析し、合成ができるだろうか。
だが……有史以来、治癒血を合成できた者はいない。
アトモスフィアの合成は禁じられていても、かつて薬神は何度か治癒血の合成を試みた事があった。
結果は何度やっても失敗、神階の環境では合成できないのだ。
ノーボディは神の手では再現できないように、限られた神々に特別な治癒血を与えていた。
それが仇になったということだ。
「できません、治癒血は合成できないんです。治癒血は現代の科学力では合成できない物質で出来ています」
ユージーンのみにしか癒せない感染症、それがいずれ世界を覆いつくす。
ユージーンは感染者達を癒したいと願う。
合成の出来ない、治癒血を感染者達に分け与える。
三年後、ブラインド・ウォッチメイカーは、血を絞り取られてユージーンを弱体化させることを狙っているのかもしれない。
弱体化したユージーンがINVISIBLEの器として利用されれば、貧血で精神力を挫かれたユージーンとノーボディが、ブラインド・ウォッチメイカーに勝てるはずがない。
ブラインド・ウォッチメイカーの手段は鬼畜の所業だが、これが創世者と戦うという事だと思い知らされた。
いや、不可能でも何とかして合成をしなければ、ユージーンの身体ひとつではとても足りない。
アルシエルとユージーンが事の深刻さにお互いの顔を見合わせて言葉を失っていたとき、伝令使が慌しく駆け込んできた。
「陛下、ご報告すべき事がございます」
「後にいたせ」
「待って、聞かせてください」
伝令使を追い返してしまいそうになっていたアルシエルを、ユージーンがたしなめた。
血相を変えて飛んでくるのだから、それなりに重大な事が起こったのだろう。今はどんな些細な情報も耳に入れておきたい。
「惑星ラグメントから、感染者が生物階に侵入いたしました」
「何という……言った先からこれだ。我は把握しておらなんだが、不法ゲートがあったのか」
「ご心配には及びません、直ちに精鋭の追討隊を派遣いたしました」
伝令使は狼狽しながらそう報告したが、あってはならないことだった。
解階の住民を追討隊に充てれば、感染が広がるだけだ。
精鋭部隊を送り込んだとなると、もし彼等が二次感染を起こしてしまったならその被害は甚大なものとなる。
ユージーンはすぐに自分が生物階に戻るしかないと考えた。
「解階の住民が感染者に近づくのは危険です。神階からの援護は出ていますか」
「は。梶 奎吾(Gabriel Townshend)殿、レディラム・アンリニア(Redirum Unlinear)殿、織図 継嗣(Duglass Niever)殿らが応援して下さるようですが」
伝令使から三柱の神々の名を聞いて、ユージーンは充分だと頷いた。
三柱とも解階の住民と充分に渡り合える能力を持っている。
極陰に最も近い神、確率を自在に操る梶 奎吾、知性と理性を失った解階の住民に遅れをとりはしないだろう。
レディラム=アンリニア、神具オプティカル・アイを持ち、光と同化する事のできる彼の特殊能力はあらゆる攻撃を透過し、他の追随を許さない。
そして死神、織図 継嗣、試合では決して発揮されないが、彼こそは実戦においては最強とも噂される能力、バイタルレベルを瞬時に断つ”死の宣告(sentence of death)”を切り札に持つ。彼に死を宣告された者は、DNAワールドの住民ならばいかなる者も逃れる事はできない。
いつもはちゃらけているが、怖ろしい死の権化だ。
神々の個々の力は確かに解階の住民に劣る、だがそれをカバーするだけの能力とまさに神の科学力の粋を集めて創られた神具の性能がある。
神が神と呼ばれ、解階から一目置かれる所以だ。
「その三柱で大丈夫です。神々を信頼して下さい。解階からは追討隊は出さないで下さい」
「神には感染せんのか?」
「しないと思います」
神体はいかなる病原体にも感染しないようにノーボディが一柱一柱愛情を込めて創りだしている。
ノーボディは神体の構造と脆弱性をブラインド・ウォッチメイカーから秘匿し続けてきたため、ブラインド・ウォッチメイカーが把握しているのは生物階と解階の生命のみだ。DNAワールドの住民に感染するものが、神にも感染するということは考えられない。
「わたしは、星の消えゆく現場に行きます」
生物階のことは三柱の神々に任せるとして、彼は彼にしか出来ない事をしようと思った。
*
梶は法務局に指定された座標にある現場に着くと街に火の手が見え、人々の絶叫が聞こえる。
遅かったかと舌打ちをし、解階の住民の姿を上空から捜す。
これ以上の被害を拡大しないためにも、一刻も早く掃討しなくてはならない。
梶は聖衣のポケットから5つの小さな物体を取り出した。
それは様々な形をした透明なDICEのように見える。
梶の神具、バロック・ダイス(BALOQUE DICE)だ。
100個100種類のダイスを持つ梶は、その組み合わせにより自在に確率を操る。
4面、6面、8面、12面、20面の5つのダイスを取り出した梶は、それらに回転を与えながらコマンドを入力した。
”Pseudorandom generator! ……to no effect.”
(擬似乱数発生! 現象無効化)
サイコロは擬似乱数発生と現象無効化のコマンドを受けて、高速回転をはじめた。
赤、青、黄色、緑、紫……まるでキャンディのように鮮やかで透明な5色の光を放ち始めたサイコロを梶は指先で操ると、それらを上空から眼下の街並みに投げつけた。
一陣の暴風が上空を吹き渡り、火災はまるで巨大なうちわに扇がれたように一瞬にして消火した。
梶の神具の駆動に必要とされるコマンドは短く、神具の発動までの時間が短い。
即戦力となる強力な神具だ。
梶は挨拶代わりに暴風を浴びせると、新たなる24色のサイコロを取り出し、次のコマンドを繰り出している。
”One in a Trillion shot is occur.”
(1兆分の1の確率の試行)
彼はまるで川面に小石を投げるように軽い手首のスナップでサイコロを投げる。
縦横無尽に24個のサイコロが駆け抜けた半径3メートルで、一兆分の一の確率が起こり続ける。すなわち街中の、人間だけが隣町を目指して全速力で避難を始めるという、一兆分の一の確率が起こる。
こうやって梶は街中の人々を避難させ、解階の住民たちとの戦闘に一般人を巻き込まないように配慮したのだ。梶は一仕事を終えて戻ってきた29個のサイコロを受け止めた。
できれば街を傷つける事無く戦いたいところだが、時既に遅し、街は見るも無残に破壊されている。
人命救助が第一だ。
蜘蛛の子を散らしたように逃げてゆく人々を見送ると、梶は侵入していると思われる解階の住民を捜し始めた。
梶がそれほど捜さなくとも、一体、また一体と彼等は街角から出てきて梶を取り囲む。
その数はすぐに数十となり、いや百はいるだろうか。
梶は彼等を見て、いくら人外の姿をした解階の住民とはいえ、様子がおかしいという事に気付いた。
首はねじれ、明後日の方を向いている。
昔のB級ゾンビ映画さながらだ。何かに取りつかれたように、生ける屍か亡霊のように彷徨い梶を取り囲む解階の住民の姿。
梶は笑顔を引きつらせて、念のため話しかけてみた。
「なあ、あんたらちょっと変だよな」
返事がないので、梶は逮捕をすることを諦め、8つの漆黒のサイコロを指の間に挟んで構えた。
これらは死の確率を操るサイコロだ。
飛び掛かってきた解階の住民は、梶に触れる前に粉々に吹き飛ばされる。
梶は怪物と成り果てた彼等の間を疾風のように駆け抜けながら、塵と化してゆく解階の住民達の断末魔を複雑な思いでかみ締めていた。
悪い憑き物に憑かれている、そしてこれは伝染して拡がってゆくものだ。
この街から一体も逃すことはできない。
彼等に罪はないと思うが、梶の守るべきものは彼等ではない。
罪なき人間達を守るためには、彼等を皆殺しにするしかない。
彼等をどうやったら救ってやれるかなど、考えている時間も余裕もなかった。
梶は雄叫びを上げ、死を齎す黒いダイス、デス・プロバビリティー(Death Propability)を振りかざした。
*
陽階5位 光神 レディラム・アンリニア(Redirum Unlinear)、置換名 宮本 系瞑は法務局に指定された場所に辿り着くと、なんとも眠たげな目を擦った。
彼は光神の任務の一環で生物階に放射光観測のために降下していた。
見渡すかぎりの大惨事に、彼は現実かと目を疑った。
指定された場所はアフリカ、被害は一目瞭然だった。
放牧をしていた家畜が惨殺されて死骸が飛散している。
幸いにも人々は家畜が襲われたのを見て既に逃げ出していた。
死者はまだ出ていない様子だ。これはひどい、と彼はいまひとつ緊張感に欠ける顔で呟く。
統治者のいなかった大昔の話ならいざしらず、アルシエルによって統治されてきた解階の住民は概して紳士的で、誇り高い。
貧しい国の人々が生活の糧として大切に飼育してきた家畜を無意味に惨殺するという野蛮な事は、恥ずべき行為だと考えていただろうに。だとしたら……理性を失っているのか?
その可能性が高そうだった。
高い知性を持つ彼らの所業だとはとても信じられないが、目で見たものをそのまま信じるならば、彼らはケダモノと化し、手当たり次第に破壊活動を行っている。
何かポリシーがあって活動している過激派のクーデターというような類のものではなかった。
これは正気の沙汰ではない、そして彼にはどうすれば彼らを正気に戻せるものか解らなかった。
助けられないならば情けは無用のこと、とレディラムは腹に決めた。
彼はポケットから、コンタクトレンズケースを取り出した。
視力が悪くて見えないから、というのではない。
ケースの中に入っているものは何の変哲もない赤いカラーコンタクトレンズのように見えるが、これでもオプティカル・アイと呼ばれる神階最小の生体神具だ。
この神具は装用者の神体を励起して光に変換し、光と同化する事ができる。
装用者は実体を失い、ありとあらゆる攻撃を無効化できるが、神具に不調があると実体に戻れなくなり、いとも簡単に命を落とす。
それだけの代償に見合う能力を秘めた性能を持つ神具ではあったが……。
そういう理由で彼は、容易に命の駆け引きを強いられるこの神具を、ここぞという場面でしか使いたがらない。
そうでなければいいと願いながらやってきたが、どうやらここぞという場面が来てしまったようだ。
彼は今日という日にたまたま生物階に居合わせてしまった不運を嘆きながら、指を液体の中に差し入れてつまむと、右目に装着した。
片目のみの赤いコンタクトレンズは彼の生身の眼球に根を張り、触手を伸ばして侵食してゆく。
次第に励起され光と同化してゆく彼の神体を、異形と化した哀れな者達が見上げている。
オプティカル・アイは真っ赤に侵された眼差しを彼らに向け、胸をいためた。
それでも、彼は何ら躊躇などしてはいられない。
"γ‐Ray、DNA‐Double Strand Brake!"
(γ線によるDNA二重鎖切断)
彼はそう言い残すと、目に見えない放射光となって消えてしまった。
後に残ったのは、細胞内のDNAというDNAをズタズタに切断され、見るも無残に全身に火傷を負って息絶えた、彼らの変わり果てた姿だった。
【作】γ線によるDNA二重鎖切断…【現】ある閾値より強いガンマ線を人体、あるいは生体に照射するとγ線波長によるDNAの二本鎖の切断が全細胞で起こり、DNA修復機構系が限界を超え、細胞はアポトーシスを選択するので死亡する。