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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第40話 Both of Supreme Emperors

 メファイストフェレスはユージーンと恒の使命を知り、頭が真っ白になった。


 しかし彼らが彼等の役目を果たさなければ確実に三階は消滅する。

 仮にブラインド・ウォッチメイカーがノーボディに勝ち、なおかつINVISIBLEに成り代わるという目論見が失敗した場合でも、神々と違って宇宙空間で生存する事もできず何ら戦うべき力を持たない生物階はINVISIBLEによって滅ぼされる。

 ユージーンは破滅を望んででも、希望のある一つのセオリーを成し遂げようとしている。

 彼は一度死んで、彼がユージーンであるという過去を棄てたのだ。

 これからの三年間は、彼が名もなき創世者へと自身を高め、昇華してゆく過程に過ぎない。

 彼を失いたくない、共にいたいと思えど、彼の望むままに動くことが、彼に真に忠義を尽くし報いるだろう。

 死んでくれるな、などとは言えなかった。

 そして彼女が心の内に秘めた、彼への思いも……。


「お前らのすべき事はよくわかった。俺らは首刈峠にお前達の晴れ舞台を用意すればいいのか? だとしたらある程度は人間の協力を得ねばなるまい。それに人間をどっかに避難させなくていいのか?」


 恒もメファイストフェレスも何もいえなくなってしまった中、織図はやっと沈痛な空気を破って話を進めた。

 こうやってうだうだしていても、ユージーンや恒が救われるわけではない。

 三年後、それが何月なのかもわからないが、残された時間は有意義に使わなければならない。ユージーンは織図の配慮が嬉しかった。


『そうですね、前回は神階での収束でしたので生物階は関係ありませんでしたが、今回は生物階の人々の協力が必要です。生物階に神の存在を明かす事となるでしょう。確かにイスラム教、ユダヤ教、仏教の宗主は崩御されていますし、世界的に高名なジーザス様も崩御されましたが、陽階にはまだヒンドゥー教のヴィシュヌ様、道教の太上老君様、ゾロアスター教のアフラ・マズダー様ら、世界的大宗教の祭神がご存命です。宗教的な混乱はその方々を中心に解消しつつ、生物階の保護段階に入らなければなりません』


 そしてそれは、極陽ではなく次期極陽となる比企の役目だ。

 比企はかつて前任であり立法を司った日本由来の神道の神、天照大神の後任者ではあるが一度も生物階に姿を顕したこともなく知名度のない異端の神である。

 陽階神は多くの場合、生物階に降下して姿を顕した際に一つの宗教の宗主となる事が多いのだが……不空絹索観音としての異名を持つリジー=ノーチェスや各祭神の知名度を借りたとしても知名度のない比企は苦労するだろう。

 だが、固有の宗教の神を名乗らない方が、かえって混乱がないのかもしれない。

 あらゆる宗教の祭神達の更に上に立つ存在だと名乗った方が、~教の祭神だと名乗るより効果的だったりする。

 生物階不可侵の政策をとってきたヴィブレ=スミスが現主神として即位して後に位神となったユージーンも、知名度がないのは同じだ。

 風岳村の神としての知名度がある程度だ。


「て事はだ、神は人と共存してゆくのか」

『神だけではなく解階の住民もです。わたしたちはINVISIBLEとなる事ができたら、三階を統合し、ひとつの宇宙にします。三階を独立に運営してゆくことは難しいと、ノーボディは仰っていました。ですから住む星が違う一つ屋根の下の生命ということになります。この計画もうまくいけばの話でしかありませんが……その為に比企殿が主神となられる必要がありますし』

「!! 今度の位申戦で、父が負けるという事ですか?」


 ユージーンは恒が父親に対して擁く感情に、憎しみ以外の何もないと知っていた。

 そんな親でも実の親なのだ。

 子供は親を選べない、誰も親の代わりはできない。

 だからこそいくら憎んでいても簡単に決別できるものではないと知っていた。


『もともと、比企殿は主神の格を持っておいでなんだ。……まともな試合となった場合、90%以上の確率で極陽は敗れるだろう』

「敗れた極位はどうなるんですか?」


 恒は極悪非道な父親が荻号の唯一の弟子であった比企に敗れたとて、何も同情するものではないと思ったが、やはりあとあとのことが気になる。

 敗れた極位はまさか殺されたりはしないだろうか。

 先代極陽であったジーザスは譲位をしたのであり、正確には位申戦で負けたのではない。

 本気でやりあって負けた極位はどうなるのだろう。


『比企殿が極陽となり、二位に繰り下がるだけだよ』

「現代極陽ならまだしも、陰階での比企の支持率はヒデエもんだからなあ……陰階神が黙って話を飲むかどうか……」


 100歳以上も年上の比企を呼び捨てにする織図は、生粋の陰階神であった比企がどれだけ陰階で裏切り者として評価を落としているかを知っていた。

元陰階神が極陽になるとは、裏切りも甚だしい、陰階は決して彼の即位を快く思わないだろう。


『そうなった場合はわたしが極陰に話をつけます。それでもうまくいかなかった場合、わたしが至極位(しきょくい)として即位せざるをえません』

「至極位?」

「至極位?」


 聞いた事もない言葉に、恒とメファイストフェレスが同時に尋ね返した。

メファイストフェレスが知らないのは当然だが、恒は神々の社会についてそれなりに勉強したつもりでいた。

それでも、至極位という位階があったなどという記述は一回も目にしたことがない。

口を開けたままのふたりに織図が説明する。


「極位の更に上の位階だ。これは常に空位としておくのが慣例なんだが、必要に応じて適用される神階の統治者としての位階でね。だが至極位として即位できるのは、極陽と極陰を実力で負かす事のでき、神体測定でカウンターストップを出す超越的な実力を持つ神のみだ。以前なら荻号さん、今ならたしかにユージーンが該当する。至極位は支持率に左右されず、議会をも超越する唯一の位階なんだ。極陰も極陽も、全ての陰階神、陽階神も至極位の勅令にはNOと言えない。それだけ絶対的な権限を持つのさ……だが俺としては、話がこじれないようにうまくやって欲しいところだな。お前が至極位になって権限を振るったとして、力による暴力では平和的ではないし神々にも使徒にも不満がくすぶる。暴力支配により生物階を動かそうとしたところで、上手くいくもんもいかなくなるだろう」


 織図の説明に、ユージーンはそこまで手の届かない存在になってしまったのか、と恒は寂しくなった。

 彼はもう愛すべき山村の教師、社務所の神様ではいられないのだろうか。

恒の表情がにわかに曇ったのを見て、恒の心情を察したユージーンは慌てて否定した。

自分の覚悟ができているからといって、この子の気持ちを無視してはいけない。


『あくまでも最終手段です。そうならないよう比企殿にお任せします』


 仲居さんが伝票を持ってきたので、ユージーンが受け取って一万円札を何枚か挟んで渡した。

 もう次の客の予約があるから、出て欲しいのだという。

 何時間も粘ってしまったのでさすがに出ないとまずい。

 場所を変えるか、今日はこれでお開きだ。

 お会計はメファイストフェレスが払う予定だったのだが、彼らをわざわざ呼び出したユージーンは払わせなかった。


「ユージーンさん、ごちそうさまです」

「ごちそーさん、悪かったな」

「こんな所に呼び出したのはわたしですから」

「仕方ねーだろ。エリア8936(風岳村)には入れないんだから。気にすんなよ」

「エリア8936……ところで主は、正規の手続きで生物階に降下なされたのですか?」


 座敷を出て、ハイヒールを履きながら、メファイストフェレスが眉をしかめて尋ねた。

 おかしい、どこか引っかかる。

 ユージーンはお釣りを仲居さんから受け取って、織図の持っている財布とは対照的な薄い皮の財布にしまいながら答えた。


「そうだよ、正規の手続きだ」

「以前主が風岳村にいらした時には戒厳令が布かれていましたよね? その処罰はなかったのですか?」

「? なかったよ?」


 メファイストフェレスはいよいよ妙だと思った。

生物階降下は神階の門を使用するため、定員がある筈で法務局を介して許可をとらなければならない。

だとしたら前回、彼が自殺を図った際に彼の行動は全て法務局の監視下にあったといっても過言ではない。

 お咎めはなかったのか? お咎めがなかったから生物階降下が許されたのだろうが、だとしたら……見逃しか、あるいは。


「法務局が偵察衛星を使って監視をしているのなら、見落としなどということは考えられません。エリア8936の範囲って、どこまでなんです? 必ずしも風岳村全体を指すのでは、ないのではないですか」

「あっ!!」

「マジで!」

「やった!」


 ユージーン、織図、恒、三者三様のリアクションが返ってきた。

 ということは、ユージーンが死に際に訪れた場所、上島医院、小学校、そして社務所はエリア8936ではないということになる。


 これら三つの建物は、風岳村の中でもはずれの方に位置する。

恐らく首刈峠を基点として禁じられたエリア8936に、それらはギリギリ入っていないのだろう。


 風岳村に入れるのだ! 

 エリア8936の正確な範囲は、GL-ネットワークのメンバーズログインをすれば簡単に調べられる。

メファイストフェレスは機密部までアクセスできなかったので、風岳村≠エリア8936だと気付かなかった。

 メファイストフェレスはくすり、と微笑んだ。

やはり間が抜けているところは、昔から少しも変わっていない。

 ユージーンは恥ずかしそうに頬を赤らめ、金髪の頭をかいた。


「では、わたしは今から解階に行ってくる。次は風岳村で会おう。携帯も以前の番号で使えるようになったから、用があったら連絡して」

「ユージーンさん……気をつけて」

「主よ、よろしくお願いいたします。解階の門を使う場合には……」

「解階の門の許可は必要ないよ、ここからアルシエルの追跡転移ができるからね。では、行ってく……と、そうだ。神具を修理してあげる約束だったね」


 ユージーンは思い出したらしく、恒は喜んで神具を彼に渡した。

 ものの5分ほどで分解し修理をして再度組み立てる。

 神具の作者でもないのに、どこが故障しているのか的確に判断し特別な道具もなしに修理を完了させた。

 神具を修理するには神具鍛冶の専門職に出して、最低でも数日はかかると思っていた織図は驚く。


「それから、充電だったね」


 ユージーンは一同から少し離れると、FC2-メタフィジカル・キューブを両手でしっかりと握って彼のアトモスフィアを詰め込んだ。

 神具が電力を得てカタカタと共鳴をはじめる。

 アトモスフィアの適合が違うため彼の手はわずかに火傷を負ったようだが、あまり重傷ではなさそうだ。

 恒がハンカチを貸すと、大丈夫、いらないと言って微笑む。

 頼もしいな、と恒は思う。彼と一緒だったら、何とかなりそうな気がする。その道は彼にとって、決して希望へとは続いていないにしても。


「ありがとうございます。風岳村に研究員達が入って、朱音の事つけまわして監視しているんです。どうしましょう」

「そうか……。解階から戻ったら対処しよう、今は放っておいていい、監視をしているだけなんだろ?」


 どちらにしても、生物階に神の存在を明かさなくてはならなくなる。

 となると、徐々に科学者サイドから神の存在を明かしてもよいのかもしれない。

 だが、一つ気になることといえば、まだヴィブレ=スミスの生物階不可侵の政策が生きている。

 むやみやたらに神の存在を明かすと罪だ。

 比企が極陽となってから動いた方がいいのか……。それを待っている時間はないのか……。


「お前も忙しいようだったら俺が話をつけに行くぞ。神の存在を明かしていいんだな?」


 織図が申告した。

 典型的な神である織図が出て行けば、確かに研究者達は信じるだろう。

 ユージーンは少し考えて、ではお願いしますと織図に一任した。

 もしも混乱して話にならないようだったら恒が直った神具でマインドコントロールを使えばいいとのことだ。

 ユージーンはこの足で解階に行くと行って、超空間追跡転移で解階に飛んだ。

 メファイストフェレスも織図も、アルシエルの気配を探知などできないというのに、彼はアルシエルの気配を感じていたようだ。

 残されたいつもの三人組は料亭を出て、街中をぶらぶらとしていた。

 メファイストフェレスはせっかく街に出てきたのだから、買い物をして帰りたいそうだ。

 またどこで売っていたのかもわからないような奇抜なゴシック調のドレスを買ってくるつもりなのだろう。

 それと、食材だ。

 彼女は皐月と一緒に、まめに料理を作る。魔女の作るものだからどんなものかと思えば、料理の名前はよくわからないものの、これが意外といける。

 蝙蝠のスープやトカゲのから揚げみたいなグロテスクなものではない。

 恒と織図は特に用事もなかったので、さっさと帰る事にした。


「さ、じゃあ帰るか」

「では俺から瞬間移動をしますね、織図さんは後から追跡してきて下さい」

「ちょっと待て! お前の気配は弱すぎて遠いとよくわからん」

「ひとりで電車で帰れば?」


 織図は目が見えるようになって場所を記憶しての瞬間移動ができるようになったが、風岳村の風景は目が見えていない頃の風景しか思い出せない。

 一度回復した自分の目で風景を見なければ、瞬間移動はできないのだ。

 いっぱしの神ならば、瞬間移動の時に手を繋ぐなりして触れた対象を連れてゆく事ができるが、恒は自分より大きな織図を転移に巻き込むだけのパワーもない。

 別れ際にメファイストフェレスの残した言葉で、織図はそうするしかなくなった。


「おいおい、電車かよ! 死神が電車って! これどうよ。ダサい事この上ないな。せめてタクって帰ろうぜ。そこの大型で!」

「タクシー!? しかも大型を選ばないで下さいよ! 勿体無いですよ! せめて小型でしょー! 風岳村って田舎だからここから相当遠いですよ、1万は超えます。一緒に電車で帰りましょう。俺も付き合って電車で帰りますから」


 織図はかなりの金を持っている。

 どのくらい持っているかというと、人間が一生では使いきれないほどだという。

 神は現金で給料の支払いなどないのだが、織図も極陽と同じようにどこぞの証券会社で株を転がしたり、何の特許かはしらないが特許料でガッポリ稼いでいるようだ。

 それらの大半は娯楽費に消えてゆくのだが、彼の浪費癖は、こんなところでも現れる。

 志帆梨に食費といって100万単位でぽーんと出してくれるのもそのためだ。

 一方のユージーンは小学校教師としての給料分ぐらいしか持ってない。

 社務所暮らしでアパートも借りられないぐらいの貧乏さんだというのだから、神の中にも経済的格差があるのかもしれない。


「何で俺が、お前ごときにだ! ”付き合って”一緒に帰っていただかなくちゃなんねんだよ!」

「初めて見る電車の風景も、なかなかいいものだと思いますよ」

「どうだかな」


 悪態をつきながらも、織図は恒にタクシー乗り場ではなく駅方面に連れて行かれた。

 街ゆく人々は、黒人と日本人少年のめずらしいコンビがふざけあっている様子をほほえましく見守っていた。

 少年が外国人に誘拐をされているのではないかと思って疑っていた巡回中のお巡りさんも、ふたりが仲がよさそうなのでまた交番の中に引っ込んでいった。

 恒は織図がわざとふざけて、恒の陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれようとしているのがわかって、彼の思いやりに感謝した。



「いいから落ち着け」

「これが落ち着かずにいられますか」


 早瀬は席を外し、井村と空山の行動の一部始終を聞いて混乱していた。

 父親が亡くなって忌引をしている筈の井村が、どことは言えないそうだが国内のホテルから早瀬に電話をかけてきた。

 空山とともに、主と疑われる藤堂 恒と接触したのだという。

 彼女は接触して話をしただけで藤堂に洗脳されてしまったのだそうだ。

 主は人の心を巧妙に操り、洗脳をする能力がある。

 しかも彼は子供ながらにかなり切れる、更に風岳村にいる主は藤堂 恒ひとりではないのだ、と。


 井村の勝手な行動を咎める前に、早瀬は主に会ってみたいと思ったが、会ったなり洗脳をされるのではたまったものではない。

 井村が警告をしたので助かった。

 早瀬は安全の為に井村に滞在場所を転々と変えるようにと指示した。

 そして、もし風岳村にいる研究員達に主の毒手が伸びて全員洗脳されてしまったなら、その時に本部に全てを連絡するのは井村の役割だと言い聞かせた。

 その移動費や宿泊費を工面するために、研究所の機密口座から研究費という名目で使っても構わないという経済的バックアップをする事も忘れなかった。


「主任、気をつけてください。彼等はかなり手ごわいです」


 とすると、何だ。

 こうやって石沢朱音のモニターをし続けている空山 葉子も、主の手下と成り下がってしまったのだろうか。

 空山は何を目論んでいるのだろう、主からスパイとして送り込まれたのだとしたら……。

 朱音は丁度、バレエ教室に出かけていった。

 バレエ教室内までは監視カメラを回せないので、朱音の監視チームはしばし休憩となり、空山が欠伸をしながら旅館の自販機にいつものイチゴミルク飲料を買いに出かけていった。


 こちらの動きは、空山に監視される。

 下手に動けない。

 空山を研究員から外す必要があるのではないか、そうせざるをえない。

 だが空山を外したら主がこちらの動きに気付く。

 この場所は主に知れているのだから、攻め込んできて全員マインドコントロールをかけてしまうことなど造作もない。

 早瀬らは空山を介して監視されている。裏を読めば読むほど、身動きが取れなくなる。

 早瀬は相手の恐ろしさが身にしみてガタガタと歯の音が合わなかった。

 一人ずつだ、慌てず一人ずつにしようと早瀬は思った。焦りは禁物だ。

 空山が主の手に落ちたと、研究員一人ずつを呼び出してこの話を少しずつじわじわと浸透させる。

 そしてある日空山を残して、この旅館を去り本拠地を別の場所に移す。

 場所を移すとしたら、風岳村の外がいい。

 空山はパック入りのイチゴミルク飲料を買って、それを飲みながら階段を上がってやってきたので、井村からの電話を切った。

 空山は早瀬と目が合うと、にこっと微笑んで見せた。


「主任、どこに電話、してたんですかあ?」

「いやあ、実家にね」


 その笑顔も、今となっては怖ろしいだけだ。

 一方、空山は通信を強制的に打ち切った井村から、何がしかの形で早瀬に連絡が入る事を見越していた。

 早瀬は実家に電話をしていたのだと言い張ったが、そうではないことは、彼の脂汗や、夏だというのに蒼白になった顔を見てわかった。

 空山はイチゴミルクを持って、女子トイレに入っていった。

 ここは女性である空山以外の研究者は入ってこれない聖域だ。

 空山は織図の携帯電話にメールを送った。


"こちらの動きに、主任が気付いたよ。どうすればいいか指示して "



 ユージーンは超空間追跡転移により、解階の女皇、アルシエル=ジャンセン(Alsiel Jansen)の玉座の間に転移した。

 アポイントなしもへったくれもない。

 この場所はブラインド・ウォッチメイカーの支配領域となっているのでアルシエルと込み入った話はできない。

 アルシエルは何か思索に耽っていたようだが、御簾の奥で立ち上がって、おもむろに姿をあらわした。

 ユージーンは御簾から彼女が顔を出す前に跪き、アルシエルを直視しないように平伏した。

 どんな素材で出来ているのかわからない、硬質の床の冷たさが身にしみる。

 なにも彼女の部下でもないユージーンがこのように謙る必要はなかったのだが、アルシエルは解階の皇である。

 蔑ろにされたのでは、解階の住民達の反感を買う。

 そして誇り高き彼等の怒りをかうことは、隣接する生物階の安全をさえ保障できなくなるとの判断だ。

 また、言うまでもなく人質となっているメファイストフェレス=セルマーの待遇にも配慮していた。


「突然の来訪、無礼をお赦し下さい。わたしは陽階神第7位 軍神 ユージーン=マズローと申します。メファイストフェレス伯の御公女のお話をお聞きし、馳せ参じた次第にございます。かくなるうえは、何卒、メファイストフェレス伯には寛大なご処置をお願い致します」

「やはり、間違いではなかった……。面をあげられよ。汝は我を拝する理由などない筈だ」


 ユージーンはその言葉に促され立ち上がる。

 煌びやかなドレスを身に纏い王冠を戴いたアルシエルと、簡素なスーツを着た何の変哲もない一柱の神。

 アルシエルだからこそ、ユージーンの力を余すことなく体感できた。

 そしてアルシエルの実力など足元にも及ばないとも察する。

 アルシエルは神皇とも呼べる存在と対峙し、自然と膝を折った。


 解階の価値観は単純だ、より強く優れた者に敬意を表し尊ぶ。

 膝を折るという、アルシエルが生涯必要ないとすら思っていた行為。

 そして湧き上がってくるこの懐かしい感情は、敬意だ。


「我等をお救い下さい」


 ユージーンは誇り高き解階の女皇すら、跪かせたのである。

 ユージーンが三階を掌握した瞬間だった。

 しかし彼女は、それだけでは終わらなかった。

 彼女は立ち上がり、ローブを脱ぎ、細い腕を露にし腰を落として身構える。

 鍛え上げられ精錬された紅いオーラが、彼女から爆発的に放散される。

 凄まじいオーラだ、軽く比企や極陽を凌いでいる。

 しかも彼女は道具を持っていない、生身でこれだけの威圧感を伴うのだから……ユージーンは力を尊ぶ女皇が、拳を交える事もなく黙って跪く筈がないと見越していた。

 正々堂々と拳を交えて、敗北を喫してから跪くのが解階の筋だ。筋を通さなければならないと考えているのだろうか。


「しかし我とて解階の皇。至高者と相見えましたならば、この血が疼きます」

「お互い、無駄な争いはやめませんか。本気で戦う場所などありませんしね」


 アルシエルはDNAワールドの住民でもあるため、基空間では戦えない。

 ここで一戦やり合うと、解階は壊滅的なダメージを受ける。

 アルシエルは玉座の裏の隠し扉を開けると、そこは広大な武道場となっていた。

 一目見てそれが、アルシエルのプライベートな訓練場であるとが分かった。

 解階の住民が自らを鍛えるため、あるいは戦う為に用意された武道場なのだろう。

 その広さは果てが見えない。財にものをいわせて造らせたものだ。


「これでよろしかろう? 手を抜こうなどと考えなさるな。手加減はいらん」


 アルシエルは負けると見越して挑んでくるのだ、ユージーンも受けて立たないわけにはいかなくなった。

 彼はスーツの上着とベスト、シャツを脱いで黒いTシャツだけになると、アルシエルの待つ武道場へと入っていった。



 以御はここのところ深刻そうだった廿日に、陽階のカフェに呼び出された。

 わざわざ呼び出すくらいだから込み入った話があるのだろう、ということは察していた。

 しかもユージーンが不在のところ、執務室を長くあけるわけにはいかない。

 電話転送は以御の携帯にしてきてはいるが、誰かから連絡がないかと思うとどうしても落ち着かない。


「で、何だよ話って。紫檀との痴話喧嘩の相談なら勘弁しろよ」


 すると彼女はじわっと涙を滲ませた。

 まさか図星だったのだろうか。これは長そうだ、と長年彼女と仕事をしてきた以御は察知する。

 とにかく彼女は仕事ではキビキビとしているのに、プライベートだと話が長い。

 時々リピートも入ってくる、その話はさっきも聞いたと突っ込んでも覚えていない。

 若年性アルツハイマーではないかと首を傾げたくなる。

 そんな彼女が、今度ばかりは深刻そのものだった。


「え、マジ離婚?」


 何故結婚しているのかもわからないような、釣り合わない夫婦だった。

 何名もの男使徒たちが求婚しては屍と散った高嶺の花の廿日と、文字通り馬の骨ではないが、元馬番役の紫檀。

 ようやく廿日の目が覚めたのならわかるが、紫檀に廿日を離縁する権利など断じてない。


「許して下さい以御、そんなつもりじゃなかったのです」


 ふたりはカウンター席だったので、廿日は以御の背中にしな垂れかかった。

 有名な軍神下第一使徒と第二使徒がふたりして何をしているのかと、周囲から自然と注目される。廿日は美女だし以御はとにかく派手だ。


「はぁ? ちょっ、皆見とるし! 離れろっ」


 これでは以御が廿日を泣かしているようにしか見えない。

 外見は派手で軽そうな以御だがこういう場面にはどうにも慣れなかった。


「私ね、出来てしまったの」

「! 何が?」

「予定日は10月で……産休と育休をお願いします」


 よよよ、と古風に泣く廿日を突き放し、以御は声を殺して怒鳴りつけた。

 彼等は結婚をしてもう何十年かたつが、廿日もだが特に紫檀の任務が忙しかったため子供をもうけていなかった。

 平和な世の中になってようやく紫檀の仕事が落ち着き、子供をもうけたというところだろう。

 だがこの非常事態、以御の顔が途端に険しくなった。


「お前らこの非常時に子作りしやがって」

「だって私達夫婦ですもの、どうしても愛しあってしまうわ。それに子作りをした時は、非常時ではありませんでしたし至って平和だったんですもの」


 何がどうしても愛しあってしまう、だ。

 使徒は荻号の失踪を受け、闇神下使徒4000万名ものリストラを出し、大変な局面を迎えていた。

 4000万名の使徒達はそれぞれ陰階神たちに割り当てられたが、陰階神に対する使徒の割り当ては既に定員を上回って、陽階になだれ込んできていた。

 陽階神のうち使徒の募集をしていたところから就職難民である旧陰階使徒が転階し再就職しているようだが、ユージーンはまだまだ使徒を養えるだけのアトモスフィアを持っているにも関わらず定員を拡大していない。

 そしてユージーンにまだ余力があるという事は神体検査の結果バレバレだ。

 陽階でも就職難民が定員を上回り始めたら、軍神下使徒の定員を増やせと各方面からの圧力がかかる事だろう。

 ユージーンが絶対不及者となる事を知っている以御は、ユージーンが定員を増やさない理由がよく解った。

 どちらにしろ子作りは自粛しなければならないという風潮の中でこれだ。

 しかし廿日の言うよう、子作りをした時には荻号の失踪など予測もできなかったのだから致し方ないのだが……。


「廿日、気付いてないかもしれんが、お前は仕事が出来る奴だし主の信頼も厚い。第3使徒から第7使徒は生物階に入っている。お前の穴を誰に埋めさせろと……」

「それなら、うってつけの人材がいらっしゃいましたよ。昨日」

「うってつけ?」

「前闇神下第一使徒、鏑 二岐様です。先日、軍神下使徒としてご登録なされました。主のご許可もあるようですし」


 以御は一瞬廿日が誰の事を言っているのかわからなかった。

 いや、頭が理解することを拒んでいるに違いなかった。

 鏑 二岐……荻号の腹心であり、鉄の女との異名も持つ完全無欠のキャリアウーマン。

 彼女がどういう風の吹き回しで軍神下使徒となったのか。

 ユージーンは以御に話を通さなかった。

 鏑は以御がもっとも苦手とするタイプだ。

 そして明らかに、以御より格段に優秀な才女だ。


「おい、廿日。そりゃ仕事が出来る奴がって言ったがな……出来りゃいいってもんじゃないだろ」

「二岐様がお相手では、あなたの第一使徒の座も危ういかもしれませんね。以御」


 それは冗談ではなく本当に危うかった。

 彼女が第一使徒の座を望んだだけで、いつでもとって代わられてしまうほどの実力を持っている。

 ユージーンの奴、どうして……俺を信用していないのか、と以御は表情を曇らせる。


「妊婦はいい気なもんだよ、ったく。お前も早く帰ってこい、育休って何ヶ月とるつもりだ」

「3年ばかりいただきたいと」

「馬鹿か! 長過ぎだろ! 生まれたら保育園に入れとけ!」


 基本的には専業主婦など許されない使徒の母親は、生まれた子供達を厚生局の運営する保育園に預けて仕事をしなければならなかった。

 しかし彼女はかた時も休まず働いてきて貯めに貯めた有給休暇がある。

 これを育児休暇にあてるつもりらしいのだ。

 廿日はすっかり母親のつもりなのか、以御の配慮のなさに抗議した。


「長過ぎじゃないです! 母として手をかけて育ててやりたいんです! 林檎に謝って下さいっ」

「もう名前まで決めてんのかよ! しかも林檎て! 娘が生まれなかったらどうするつもりだ、息子だったらグレるぞ」

「息子だったら桃太郎です」

「名前ぐらいもっと真剣に考えてやれ!」


 父親が葡萄なので、どうにかこうにか果物の名前にしたいのだろう。

 こう言い出した廿日は、どうあっても折れなかった。


 それにしても鏑 二岐――。

 最強神荻号すらも尻に敷いてきたというあの鉄の女と共に、仕事をしろと! 

 以御は廿日をよきビジネスパートナーだと思っていた。

 以御と廿日はツーカーの仲で、廿日はいつも以御をたて、仕事をしやすいように環境を作ってくれた。

 もう何百年も一緒にやってきたのだ、今更他の相手と一緒に仕事などしたくない。

 以御は廿日の事より自分の都合をばかり考えていた。


「その件については、ユージーンに産休と育休の許可をもらえよ」

「もういただきましたよ」

「何故俺に先に言わない!」


 根回しの順番が間違っている。

 普通は以御の許可を得てからユージーンに話すものだ。

 会社のシステムでいうと、部長に話を通さずにいきなり社長に話を持っていったようなものだ。

 廿日は首をすくめた。

 その怯えた眼差しがまた癇に障った。そこまで信用されていないのか、廿日にも、ユージーンにも……。

 以御はもう何もかもが情けなくなった。いつ自分が信頼を損なうような事をしたのだろう、一連の騒動にしたって以御は留守を任されるばかりで蚊帳の外だ。

 ユージーンは以御には何も話してくれない。そして、廿日まで……。


「だって、主より以御に許可をいただく方が怖いんですもの」

「ユージーンは何て?」

「おめでとう、ゆっくり休んで元気な赤ちゃんを産みなさい、体調が戻れば復職してくれると嬉しい、と。私、一生、主についてゆきます。結婚と出産って男性が思うよりずっと、女性にとっては大切なものなんですよ、以御」


 以御は大事な言葉を忘れていた。

 部下に慕われる上司とそうでない上司の差を見せ付けられた思いだ。

 だから彼女は以御より先にユージーンに報告し、彼は心より祝福を述べただけだった。

 以御などよりはるかに重い運命を背負っている彼は、後任がどうのこうの言いはしなかった。


 以御は恥ずかしそうに、そして体裁悪そうに小声でこう付け加えた。


「忘れてた。妊娠おめでとう」



 恒は織図とともにくだりの電車に揺られていた。

 織図は感慨深そうに車窓の景色を見ている。

 彼にとっては生まれて初めての風景なのだ。

 光を宿した茶色の目を細めて、彼は深呼吸をした。気づかない振りをしてばかりもいられない。

 織図と交わしていた雑談が、途中から恒の返事がなくなった。


「恒。また何か余計な事を考えていないか?」

「え、考えていませんよ」


 不意打ちをくらったように、恒はしどろもどろになった。

 考えていた。恒が何かを考えなくてよい日など、実際のところなかった。


「下手な考え休むに似たり、だ」


 その通りだと、恒も思う。

 だが考えずにはいられなかった。

 ユージーンは助からないのだろうか、彼は三年後、恒に引導を渡されて消滅しなければならないのだろうかと。

 彼は間が抜けているから、先ほどのように何か重要な事を見落としてはいないか、そうであってくれればいいのにと、いくつもの駅を通過しながら何度も願った。

 織図からペットボトルのお茶をもらって、一本全部飲み干した。

 じっとラベルを見る……何も思いつかない。


「お前はお前の問題を考えるんだな。お前に与えられた選択肢は、生きるか死ぬるか、その二択だけだ。そしてその二つの選択のうちどちらも、ユージーンの消滅なくしては成り立たない。お前が死んでもユージーンは救われない。ならばお前は生きろ、それが奴の願いだ。いいか、これはどちらかが死ねばどちらかが助かるという類の問題ではないんだ。お前が生きても死んでも、ユージーンは死ぬんだよ。選択肢はお前の方にしかないんだ」

「わかってます、わかってます! でも……そうは思いたくないんです。誰かの犠牲の上に成り立つ未来なんて……」

「誰かが犠牲になってはじめて、開ける未来もある。歴史はその繰り返しだ」


 また一つの駅を通過し、車両は一両だけになり、列車は少しスピードを上げてタタン、タタンと軽快な音を立て始めた。

 真夏の日差しを受けた山々の緑がまぶしい。

 眼下にはくねくねと、美しい渓流が涼しげに流れている。

 しばらくして、織図は橋の上で釣りをして遊ぶ子供達の姿を見た。

 誰にも邪魔されない、彼らの夏休みがそこにある。

 織図は車内に視線を戻した。

 お宮参りを済ませたばかりの、赤子が母親に抱かれて眠っている。

 恒の周囲で、こんなにも日常は精彩を放っている。

 恒はまたぼうっとして、何かを考え始めたようだった。織図は誰に話すともなく、話を続けた。


「この電車に乗っている人間達を見ろ、誰もが生きたいと願っている。あの座席を見ろ、生まれたばかりの子供もいる。そんな奴らが生きる権利も巻き込んで、それでもお前はユージーンをのみ生かすことを願うのか? たとえ奴がそれを願っていなくとも、お前はそうしたいのか……お前は、生きろ。そしてこいつらを救え。こいつらこそがお前の守るべき者だ。ユージーンではない」


 600年以上を生き、死神として人々の生と死を見守ってきた織図の言葉は重かった。

 恒にとっては残酷な言葉を織図は次々と並べたてる、誰も間違っていないとわかっているからこそ、受け入れる事はできなかった。

 正論を振りかざして、ユージーンを犠牲にすることが耐えられなかった。


「でも、ユージーンさんは生きられないんですか?」


 ついと顔を上げると見える、悲しいほど澄み渡った快晴の空。

 彼の瞳の色にも似て、恒は油断するとまた泣けてくる。

 泣いても、喚いても、逃げられない現実があるといつも思い知っていた。

 それでも、今度ばかりは酷すぎる。


「恒、お前は生きるという事をわかっていない。ならばユージーンが三年後、死から逃げ仰せたとしよう。奴は不死の存在だ……死ぬ事もできず、永遠を生きる事となるだろう。それは果たして、生きていると言えるだろうか? 生きる事には完結を必要とする、生まれ、育ち、何かを残し、そして死ぬ。そうやってはじめて、生きたと言えるんだ。奴は、生きたいんだよ……奴が奴であるために。不死の怪物としてではなく。生きたいんだ」

「あなたの仰る事は何となくわかります。間違っていない事もわかります。でも今は……。そうですね、とは言えません」


 織図はよしよし、と恒を慰めて膝を貸す。

 織図の膝の上に転がって、白いジャケットをかけてもらって恒は天上を見上げていた。

 自分達は何のために、戦わなければならないのか。

 そうやってまで取り戻すものは、何なのだろう。

 風岳村に着くまでには、まだしばらく時間がある。


 恒が目を閉ざしかけたとき、織図のジャケットに入っていた携帯電話のバイブが激しく鳴った。

 身体を起こそうとする恒の肩を押さえて、織図は携帯を取り上げた。空山からのメールが入っていた。


「何でもねえよ、少し眠れ」


 織図はいつになく優しくそういうと、恒を寝かしつけた。



 アルシエルとユージーンは風のわたる広大な武道場に、5mほどの距離をとって向かい合った。

 アルシエルはドレスでは戦えないと思ったのか、長い裾のドレスを脱いで、細身の黒い革のパンツと紅いキャミソールを着ている。

 常日頃からドレスの下に戦闘用の服を着ているということなのだろう。

 どれだけ解階では戦闘が日常化しているといっても、女皇に挑みかかってくるような輩などいないだろうに女皇までこの有様なのかと、平和第一主義者のユージーンは嘆かわしく思う。


「あなたのお気の済むようにしたいとは思いますが……無益な争いは望ましくありません」

「我等は力こそ全ての社会。戦わずして屈する事はできんのだ。我も全力で挑む、手加減は召されるな」


 彼女は神でいうところの神具、ツール(Tool)を用いることなく、素手で挑んでくるようだった。

 ユージーンも相転星、G-CAM何れの神具を抜くことなく、素手での勝負を心に決める。

 彼女は解階の女皇であり、その潤沢な財力で一流のメーカーに作らせ、荻号の専売特許である時空間歪曲能を備えた解階最凶のツール、不可侵の聖典(Inviolability Scripture)を持っているはずだった。

 それを用いる事もなく挑もうとしたのは、勝敗を道具のせいにしたくはないという思いからくるものだろうか。

 アルシエルは腰を低く落として構えた。

 彼女は喜色満面だが、少女のようなあどけなさの中に残忍さが見え隠れする。

 敗北の見えた潰しあいにも、少しも怯む様子もない。

 それでこそ、強くある為にのみ存在する解階の皇だといわんばかりに、彼女は威風堂々とただそこに佇んでいた。


「下手な男になど目もくれぬ、メファイストフェレス伯のはねっかえり娘を、ただの女にしたそうだな」

「へ?」


 立ち上る紅いオーラとなって殺気が痛いほど伝わってくるアルシエルから、現状に不釣合いな突飛な言葉が出てきて文字通り、ユージーンは目を丸くした。

 何だその話は、まさかメファイストフェレスが自分で吹聴して回っているのではあるまいな。それともセルマー伯が……ユージーンが丸くなった目を白黒させているので、アルシエルはほくそえんだ。


「ふふ、何でもない。……では参るぞ。我を鳴かせてくれよ」


 彼女はそう言うと、爆発的な加速度をつけて踏み込んできて、ユージーンの前で急停止をかけスピードを殺さないうちに軸足をねじり、彼の脇腹に深々と細い足首をめり込ませた。

 最外殻から30層ほどのフィジカルギャップがアルシエルの蹴撃によって粉砕され、彼女の上段蹴りから生じた凄まじい風圧が、武道場に谷割れのようなつめ跡を残す。

 ユージーンは左肘でそれを受け止めていた。正確にはフィジカルギャップに守られて、攻撃が神体に届いていない。

 彼女が望んでいるのは純粋な力比べだ。

 ちょこまかと逃げて攻撃をかわしたり小細工をすることではない。ユージーンは彼女を満足させるためにフィジカルギャップを解除した。

 これで思う存分打ってこれるはずだ。


 彼女は受け止められた右足を見てユージーンの左腕が封じられたことを確認すると不敵な笑みを浮かべ、そのまま体軸を回転させて身を翻し左足を彼の首筋めがけてギロチンのように振り落としてきた。

 それをまともに受けたユージーンの足が武道場の石畳を割り、地面にめり込む。


 なんという怪力だ……。

 ユージーンもあっけにとられているばかりではないだろう、その後、恐らくユージーンは今度は右手で上からの攻撃を受け止め、脚を逃さないよう掴んで彼女の腹部に膝で一撃を決めようとするだろう、相手の間合いに長居する事は致命的だと察したアルシエルは逆立ちをするように両手をつき、そこを基軸として背中を鞭のようにしならせ、彼女から向かって左側方にユージーンを薙ぎ倒す。

 ユージーンは力学分散のために側宙をして横方向からの衝撃を受け流すが、側宙をしている間にアルシエルに逆サイドに回りこまれた。

 彼は空中を二段蹴りの要領で蹴って、上空に舞い上がると、アルシエルも地を蹴って追ってきた。

 地面の強い反発力を利用して跳び上がったアルシエルはユージーンに追いつくと、彼の肩を足場にして、両足でユージーンの頸を挟みこみ、アルシエルの頭を大きくのけぞらせて振り子の鐘のように彼女は顔を地面に向け、彼の足首を担ぎ上げるようにして掴んだ。


 まさか、これは……。

 アルシエルは上空から回転エビ固めのような格好で、足でユージーンの頭をロックすると、数十メートルもの高さから地球の何十倍にもなる解階の重力加速度を利用してウラカン・ラナを決めようとする。

 まともに受けるのは危険だ、とユージーンは地面に接触する直前に、反動を利用して更に一回転をして上側になると、アルシエルの頭から地面に叩き付けた。

 だがアルシエルは受身が上手く、両手を突いてすぐに転がり衝撃を分散したため涼しい顔をしている、その身のこなしは猫のようだ。

 彼女は次の瞬間もただ平たく伸びているのではなかった。

 次にユージーンが狙われるのは恐らく鍛えても鍛えようのない、顔面か喉。


 的中だ。

 アルシエルがユージーンの喉をめがけて放った蹴撃は、ユージーンの右足の靴裏で止められた。

 傍から見れば足裏を合わせて、仲良くダンスをしているように見えることだろう。

 だがアルシエルの膝はあまりの負荷に耐えかねて軋んだ。

 次の攻撃を避けるために跳ね起きようとした女皇とは真逆に、ユージーンはそれより一瞬早く彼女の鎖骨を掌底で軽く押し倒し、地面に彼女を縫い付けた。

 ぽふ、と柔らかい武道場の外の土の上に軽い身体は簡単に横たえられた。


 出来れば怪我をさせないように、短期決着をとの配慮が見え見えだ。

 アルシエルとユージーン、魔皇と神皇は至近距離で見詰め合った。

 お互い、引きつった笑顔を浮かべ、お世辞にもロマンチックなものではない。

 白々しい笑顔の裏で力と力の鬩ぎあいが起こっている。

 アルシエルとユージーンは互いの喉を捕らえていた。

 力のコントロールがきかないユージーンが少しでも力を入れれば、アルシエルの細い首が引きちぎれるため、彼女の喉をおさえているだけだ。

 アルシエルもユージーンの喉輪を捕らえている、信じられない握力だが、いくら絞めても握りつぶされてもユージーンは死なない。


 もとよりこの勝負は、フェアではないのだ。


「ふ……優しいな、これだから博愛に生きる神は好かん! 殺す気で来ぬか!」

「殺してしまったら、何故呼ばれたのか、解らなくなってしまうじゃないですか。まさかわたしと戦いたいというだけで、呼んだのではないでしょう? 皇帝陛下」

「そうだったな、先に用件を話そう」


 アルシエルがはたと我にかえったようなので、ユージーンは身体をアルシエルの上からどかそうとした。

 だが、彼女は蛇のように腕を首に巻きつかせ離れようとしない。

 ユージーンが話を訊こうとうっかり手を離したものだから、彼女は翻って体勢をたてなおし、丁度スリーパーホールドのように腕を回してユージーンの頚を絞めてきた。

 いくら絞めても、頚動脈などないので決め技にも何もならないのだが、彼女がユージーンを何としてでも捻じ伏せたいと思っているようなのでそのままにして話を聞くことにした。


「お話、聞きますけど。この体勢のままで?」

「そうだ。我は男に上に乗られるのがたまらなく嫌いでな。事情を先に説明するが、終わったらすぐに続きを始めるぞ」


 ユージーンは首を絞められたまま呆れてしまった。

 まったく、この戦闘至上主義民族は有史以来の非常時だというのに、これだ。


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