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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第39話 The uncovered sacraments

 どこまで続くのかわからない果てなき新緑の草原に、長い金髪をたなびかせた人影が風に吹かれて立っていた。

 強く透明な日差しが背後から射し逆光となって彼(彼女?)の装束や髪の色を透明にしている。

 恒は彼を知らない、男性なのか女性なのか……そのどちらにも見える。

 会った事もないのに懐かしく感じるのは何故だろう。

 黄金の輝きを持つ太陽のような瞳は独特の色彩を持つ、その彼は草原の上に平たく伸びてしまった恒を見守っている。何かを待つように。


 立たなければならないのだと思った。


 どんなに恐ろしくとも立ち上がって前に進まなければ。

 後ろを見てはならない。

 振り返った途端に深淵に飲み込まれるのだと理解した。

 彼は恒がようやく立ち上がったのを見届けると微笑む。

 言葉は発しないが、思い出したように手を伸ばして恒の手首を掴むと掌に、よく手になじむ立方体を載せる。

 握り込んだものを見ると、FC2-メタフィジカル・キューブがコチコチッと軽快な音を立てて動いている。


 観察されるばかりではなく、見守っている者もいるのだと夢の中にまで教えにきたのだろうか……。

 姿は違うが、荻号なのだろうと思った。

 荻号が恒の夢の中にやってきたのは確かに、これが初めてではなかった。

 それで懐かしく感じたのかもしれない。


”わかりました……もう大丈夫です……俺には皆もいるし”


 恒は温かなアトモスフィアに満たされた神具を大切に握り締めると、ポケットの中に詰め込んだ。

 それをまた心強く感じて、彼に追従して歩きはじめる。

 柔らかな新緑の草原がぱあっと夕凪のような光の海原に変わった、ゆっくりと光の射すほうへ前をだけを見据えて歩き始める。


 踝を浸す虹色の水は恒のすぐ後ろに集まり深淵に落ち込んでゆく。

 滝の轟音が聞こえ飛沫が飛び交う。波は寄せたまま、帰ってこない。

 それでよいのだと思った。



 織図がテレビを見ながらくつろいでいると志帆梨が帰宅した。

 恒を起こそうとする志帆梨を制して、志帆梨の作ったオムライスで晩飯をいただき、夏の怪奇現象特番を見て、一番風呂をもらってそのままぐうたらと一泊することにした。

 人の家でなんとも殿様な生活だが、織図はそのかわり恒の傍を離れない。

 志帆梨は死んだように眠るわが子を時折覗き込んでは、生きていると確認してほっとため息をつき、また家事に精を出すのだった。


「夏風邪でもひいたのでしょうか?」

「おたくの息子さんは人間でもあるもんで、たまには風邪ぐらいひくでしょうな」


 織図は志帆梨と晩酌をはじめた。

 アルコールでは酔いもしないくせに、これも織図のオツな楽しみだ。

 志帆梨は創作料理屋の開店の準備に向けて、カクテルを作る練習をして、織図の気まぐれな気分に合ったカクテルを手早く作りあげる。

 今日は色々大変だったというと、X-Y-Zというラムベースのカクテルを作って手渡す。

 このカクテルの由来は、もう後がないという意味だったな、そう思い出した織図はわざとたっぷりと酒を含んだ大粒の(梅酒用の)梅を、ころんとグラスに入れて違うカクテルにした。

 今後、もう後がないとは考えたくなかったからだ。

 志帆梨は何故織図がせっかく作ったカクテルにわざと梅を入れたのかわからなかったが、彼がおいしそうに飲んでいるのでそれでいいと思うことにした。


「ただの夏風邪ならいいんですけど親ですから心配になります。この子はあなた様方のような立派な神様の中に混ぜていただいて何をしているのでしょう。肝心な事はいつもはぐらかして、話してくれなくて……」


 志帆梨は恒のしていることに、できるだけ口を差し挟まないようにしていた。

 だがここのところ恒が頻繁にどこかへ行ったり、志帆梨の目の届かないところで何をしているのか分からないという状況が続いたため、志帆梨はやはり心配だった。

 動き回りすぎて疲れたのか、風邪などひいて体調を崩している。

 志帆梨は自分の息子ながらその心が掴めず、困惑しているらしかった。

 志帆梨も酒を飲んでほろ酔いになって、本音もでてくるのだろう。

 いつもは白い頬をピンク色に染めている。


「この時期の子ってのは、どこの世界でも好奇心旺盛で、あれこれやってみようとするだろ? 背伸びだってしてみたい、そんな年頃だ」

「危険な事はしていませんか? しようとしたら、織図様が叱って下さいね」

「ああ、責任持ってそうしよう。明日は恒と共に広岡市内に行ってくる……今度から恒の行き先はできるだけあんたに報告するようにしよう」


 織図は梅を種までかじりながら、口約束にするつもりはなかった。

 恒が危険に巻き込まれるのなら、それを止めなくてはならない。

 恒には親身になって心配してくれている、たったひとりの肉親がいるからだ。

 最近はどうも志帆梨に餌付けされているな、と思いながら織図はつまみの枝豆に手を伸ばした。

 織図は酒代とつまみ代、と言いながら札束をまた志帆梨のエプロンのポケットに入れた。

 札束の厚さは1cmはあって、ポケットがいっぱいだ。

 この神様は、金銭感覚がどうにかしているに違いない、きれいな金なのかもわからないし……志帆梨はそう思いながらいらないと言って返そうとしたが、では恒の為に使えと言って無理やり戻された。

 カクテルと枝豆のお代が、何千倍にもなってかえってきた。


「あ、そうだ。じゃあ今の金で恒に携帯を買ってやってくれないか? あんたも恒と連絡がとれないと心配だろ? あんたの携帯も買うといい。俺もあんたと恒が携帯を持ってくれると何かと都合がいいしな」


 志帆梨はそれには賛成だった。



 翌日。

 織図は一泊をして味噌汁と納豆、焼き鮭で遅い朝食をいただいていた。

 時刻はもう9時半だ。

 久しぶりに睡眠をとり、珍しく寝坊をしたのでこんな時間になった。

 起きると志帆梨が朝食を準備していたので食べないわけにはいかなかった。


「ごはんのおかわり、どうしますか?」

「あ、大盛りで……なあ、奥さん。俺食いすぎかな? 昨日もしこたま食ったし」


 織図は柄にもなく、食べ過ぎを気にしている。


「いいじゃないですか。神様はお太りになりませんでしょう?」

「それが、デブるんだよ! もう昔の話だが、ギリシャ神話にも出てくるディオニュソスって陽階神の酒神がいたんだ。バッカスと言うとわかるだろ? ディオニュソスは昔はいいプロポーションしてたんだが、職業病で酒とつまみばっか食ってて、デブって痩せるまで職務停止になったんだよ」


 嘘のような、本当の話だった。

 志帆梨はぷっと吹き出す。

 有名なオリンポス十二神を笑うとは失礼だとわかっていたが、織図の話がおかしくて口を押さえて声を殺し笑った。

 神も食べ過ぎると太る。

 もともと食べなくてもいいようにできているのに、栄養を過剰摂取すると太ってしまうという、バッカスの例は有名だ。

 陽階神は容姿が優れてあることが必須の条件であり、スタイルの維持は仕事の一部だ。

 バッカスはたるんだ身体が神体検査の際に見咎められて、職務停止となってしまった。

 陽階神からは随分笑われたものだ。

 そこで陽階では、食通の女神を中心にダイエットが一時期流行った。


 陰階神は太りすぎてもクビなどという事にはならないが、死神といえば大鎌を持った骸骨のようないでたちがイメージとして定着しているのに、おデブな死神などあってはならない、と織図は肝に銘じておかわりを遠慮した。

 藤堂家に来るようになってから栄養過多だ。

 文型神は武型神のように毎日はトレーニングをしなくてもよいが、久しぶりにジムにでも行かないとな、と、そんなことを暢気に思っていた。

 織図の携帯電話が鳴ったので、電話に出るとメファイストフェレスの怒鳴り声が聞こえる。

 電話番号を知られていたのは、織図がメファイストフェレスとも携帯電話の番号を交換していたからだ。

 彼女は解階から携帯を持って帰ったらしい。

 解階の携帯電話は名刺一枚ほどの大きさで、名刺より薄い。解階の科学力もまた、神階と同等に張り合うほどに発達を見せており、解階の住民はメファイストフェレスのマクシミニマのように科学技術の粋を集めた多機能装置を数多く開発している。

 新しいもの好きの織図も、今度極薄の携帯電話を入手したいと思っていた。


「お前たち! まだ出ないの?! もう上り電車が発車するわよ、お前が恒を連れてくるって言ったのに、支度が遅いったら」


 彼女がいるのは、風岳駅のホームに違いない。無人で、閑散とした風岳村の玄関だ。

 人目の少ない風岳村ならともかくマクシミニマで飛んで市内まで行くのは目立ちすぎる。

 光学迷彩を持っていない彼女は交通手段で行くのだろう。


「ユージーンが来たら行くさ、任せろ」

「はぁ?」

「お前の気配はアトモスフィアじゃねぇから追跡転移できねんだよ、だがユージーンが来ればどこにいてもわかる」

「横着なんだから!」


 織図はぎりぎりまで恒を寝かせておいてやりたかった。

 ユージーンが生物階に入って待ち合わせ場所に着いたら、彼のアトモスフィアを頼りに恒と追跡転移で行けばいい。

 恒はまだ起きる気配はない。

 約束は12時半だから、12時になったら起こして支度をさせるかな、そんな具合だった。



 ユージーンはもう二度と乗る事などないと決意したはずの白隼の凰の背に再び乗り、これまた生きては再び通ることなどないだろうと思っていたへヴンズゲートを通って生物階にやってきた。

 久々に訪れた中国地方の中核都市である広岡市は、いつもどおりの喧騒に包まれていた。

 ユージーンは市内上空に入る前にODFを展開し自らの姿が人目に触れないように配慮しながら、鳳の背から飛び降りて駅ビルに降り立ち、ふと広岡駅の方を見遣る。

 広岡駅から30分ほど市電に乗ってJR鹿又駅に乗り換え、1日に6本しか運行されない府川線で2時間ほど揺られて、終点にある風岳村は大変な田舎村だった。

 わざわざこんな遠くまで呼び出して、悪かったかなとユージーンは悪びれた。


 そういえば約束の店に着くためには恒たちはもう電車に乗っていなければならない時間である。

 メファイストフェレスは電車に乗ってやってきているようだが、生物階にいればどこにいても探知できるといっても過言ではないほど強大な織図のアトモスフィアはまだ藤堂家の方角から動いていない。

 恒のアトモスフィアは探知できないほど弱いから、恒が織図と一緒にいる場合は遅刻だ。

 そう思いかけて、恒も追跡転移ができるようになったことだし追跡転移で来るのだろうな、と思いなおした。


 待ち合わせにはやはり携帯があった方が便利だ。

 お互いのアトモスフィアを頼りながら待ち合わせをするのでは何かと不便だし……。

 ユージーンの持っていた携帯電話は壊れて使い物にならなかったので、少し早く生物階に入ったついでに携帯ショップで再契約をして最新機種を購入した。

 電池パックと個人情報カードはどのみち入れ替えてGL-ネットワークに接続できるよう改造するつもりだ。

 最新のシルバーの携帯電話をポケットに無造作に入れて、待ち合わせ場所に向かった。


 メファイストフェレスの名で予約を入れいてる梦粋(むすい)という日本料理屋は、広岡駅から10分ほどの裏手にあり、本格的な和食が堪能できる老舗だった。

 小京都を思わせるよく手入れの行き届いた日本庭園に面した個室で、季節の移ろいをふんだんに取り入れた、趣き深く贅沢な一品一品を味わえる。

 お見合いや結納の席にも使われるそうだ。

 ユージーンは20分も前に店の前に到着すると、中に入らず植え込みの影の岩に腰掛けてアトモスフィアを維持・放散しながら彼らを待った。

 あとは恒と織図が自分のアトモスフィアを目印に追跡転移をかけてくるだろう。

 時計を見ていると、メファイストフェレスが徒歩でやってきて、出会うなり立ちすくんだ。

 顔や姿は変わっていないのに、彼女は別神を見ているかのように驚いた。

 彼女が胸がいっぱいで何も言えなくなってしまっているので、彼は先に手を振って声をかけた。


「やあ、久しぶり」

「主……ですか?」


 メファイストフェレスは彼と再会して、もはやアルシエルとの謁見の件について話すのを遠慮する必要はないと感じた。

 口調はおっとりと以前の通りだが、彼は既に何らかの方法で超越者と呼ぶに相応しい存在になってしまっている。

 アルシエルとどちらが優れているかなどと、比べるのも無意味だ。

 抹殺されてしまう事はありえない。

 助けてもらおう! そして彼は助けてくれるだろう。メファイストフェレスは深々と敬意を表した。

 彼女の真っ白でフリルのついたノースリーブの肩口には、展戦輪の御璽が彫り込まれている。

 彼女自身が願って、ユージーンの使徒となるべく自らに刻み込んだ忠誠の証。

 彫り物のある女性は日本では白い目で見られるというのに、彼女は電車の中でも誇らしげにさらして、人目も気にせず隠そうともしないままやってきたのだろう。


 ユージーンは彼女が今でもユージーンの最高位使徒であろうと、健気に、控えめに主張しているのだなと痛いほどに感じていた。

 解階の住民である彼女がユージーンに捧げるものは忠誠以外に何もなく、ユージーンから与えられるものは感謝しかなかった。

 無償で奉仕してくれていた彼女に報いる機会が、ようやく巡ってきたのだろうと、ユージーンは彼女の心情を察して余すところなく理解した。

 解階に、行かなければならない。

 それは彼女の忠誠に見合う対価となってくれるだろうか。


「ご無事で何よりです……」

「わたしが居ない間、留守を守ってくれてありがとう。そして解階にはすぐに出向く。お前の父親が心配だ」

「あっ!」


 彼のマインドギャップの層数は計り知れない。

 簡単に看破され、彼は解階を訪れることを承諾した。

 嬉しいと思う前に、メファイストフェレスは寂しかった。

 彼にとってまだ自分は必要な存在なのだろうかと。


「主よ。あなたに何が起こったのですか?」

「何も起こっていないよ」

「ですが……」

「織図様の気配が風岳村から消えた、いらっしゃるぞ」


 風岳村方面でその存在を主張していた織図の重厚たるアトモスフィアが消失したので、ユージーンは転移した二柱を迎えるために少し開けた場所に出て、メファイストフェレスの話は遮られる。

 あまり深く訊いてほしくないのだろうな、という彼の心中を察して彼女は口をつぐんだ。

 藤堂 恒が快晴の空に現れ、バランスを崩して落ちてきた。

 ユージーンの気配があまりに強大であるために、アトモスフィアが散乱してしまい正確な座標を把握できなかったのだろうと思われる。

 ユージーンは追跡転移により現れてバランスをくずした恒を両腕で受け止めて支える。

 織図は転移後も光学迷彩を用いて人目に触れることのないよう配慮した後、黒い霧のように幻想的で美しい転移を見せてくれた、さすがにベテランの風格がある。


 織図はまた白いジャケットとパンツの私服でやってきて、相変わらずのチャラけたいでたちだ。

 どこぞの黒人DJのようにしか見えない。

 赤いタイトスカートをはいたメファイストフェレスとペアで、紅白のめでたい色あわせとなった。

 シンプルなボーダーのTシャツとデニムをはいてやってきた恒は猶もスーツ姿のユージーンにしがみついたまま離れなかった。

 ようやくの思いで再会できた。

 もう離れたくない。

 一方のユージーンは自殺を図り、その現場に居合わせた恒を深く傷つけてしまった事を何と詫びてよいのかわからなかった。


「ユージーンさん」

「ごめんね、恒君」


 恒はすっかり回復して恙無い様子のユージーン見て安心した。

 恒は彼の出会った三柱の神々のうちユージーンを最も敬愛し、慕っていた。

 彼は恒が神ではなかった時から恒に目をかけて救ってくれた。

 母と恒と、そして大切な親友の命を。

 彼は誠実で恒を欺かない。

 そんなひたむきな彼の姿勢が、恒の心の拠り所となっていた。

 生きて再会できて、溢れ出しそうな感情は何と表現すればよいのかわからない。


「もう、あんな事はやめてください! ご自分をもっと大切にしてください! あなたはおひとりで全てを負ってあんな事をなさって。でも忘れないで下さい、あなたはひとりじゃないんです、一緒に立ち向かいましょう。問題はあなただけのものじゃありません、俺にもその荷を負わせてください」

「ありがとう、君はいつも現実と戦おうとする。すっかり頼もしくなって……。初めて電車で会った時とは別人のように見えるよ」

「よぉ、今日はご相伴にあずかるぜ」


 やはり恒はユージーンの奴を頼りにしているのだな、と遠巻きに見ていた織図は鼻をならして声をかけた。

 織図が恒を守らなくとも、三階の最強者となったユージーンは恒を守り抜くことだろう。

 また、彼らは強い信頼関係によって結ばれている。

 だがこれから世界一過酷な運命にあるといっても過言ではないユージーンに傾倒することが、果たしてよいことなのかわからない。

 ユージーンの前途には間違っても希望はなさそうだ。

 彼自身も破滅を望んでいる。

 恒が彼を師と仰ごうとするのがよいことなのかも、織図にはわからなかった。


「織図様、恒君を支えて下さってありがとうございます」

「そうだ、おめーがサボってる間に俺らがどんだけ……ってお前、妙だよな。お前の記憶って荻号さんのバックアップコピーなんだろ? じゃあお前、ユージーンじゃねーじゃん? お前誰よ? もはや誰でもないじゃないか」

「そうですね、わたしは今はユージーンを名乗っていますが既に誰でもない者です。しかしそうであればこそ、わたしにしか出来ない事を二度目の生では完遂しなければならないと思います」

「ふーん、まあ、お前がいいんならそれでいいんだ」


 救世主は二度死ぬものだ。

 そして図らずともそうなってしまった彼も、本当は死を心から望んでいた。

 織図は彼の中にある潜在的なタナトス(死への衝動)を感じ取っていた。

 しかし不滅の存在である彼には、死という選択肢は用意されていない。

 行き場を失ったフラストレーションはどこに向かうか……彼の願った安らかな死は、創世者との勝算なき戦いへと昇華されている。空色の瞳には強い意志を感じた。

 ユージーンはおもむろに織図に歩み寄り、軽く両手をあげて彼の目の前に翳した。

 何がしたいのだろう。


「ん? なんだ?」

「その眼、治せます。今ならできると思います」

「なんだと……そんな力が?!」

「眼球に触れますよ」


 ユージーンは織図の返事を待たないまま、光を映さない織図の真っ黒な双眸に指を入れ、虹彩からアトモスフィアを送り込んだ。

 ユージーンの両手が優しい光に満たされ、織図の視界に見たこともない光景が広がった。

 生まれて初めて光を受け入れ活性化された視神経、脳がその不可解な情報を処理しきれない。

 治療を終えた織図はその場に蹲り、顔を両手で覆って呻き声を上げた。

 苦痛に襲われているのではない、脳が情報を処理しきれず混乱しているのだ。


「織図、大丈夫なの?」


 ユージーンの前だと借りてきた猫のようにおとなしくなるメファイストフェレスも、織図を心配そうに覗き込み、織図の背中を擦る。

 織図はややあって、心を落ち着かせまばたきをして、目の前にあったメファイストフェレスの顔を唐突に両手で掴んだ。


「お前、結構美女だったんだな」


 彼女は頬を赤く染めた。


「何よ、当然じゃない……よかったわね」

「ユージーン、恩に着る」


 織図は新たな世界を感じながら立ち上がる。

 これまでは視覚に頼らない認識の仕方を心得ていたため盲目でも不自由はなかったが、織図の鍛え上げた認識能力に視覚情報が加われば、鬼に金棒、いや死神に金棒だった。

 ユージーンはノーボディから織図の目を癒してやるようにと頼まれていた。

 荻号にも織図の目を癒してやる事はできた。

 だがノーボディに近づいた織図が一線を越えて真実を知る事ができないよう、来るべき時がくるまでは、視覚を与えない方がよいと考えたのだそうだ。

 そうすることにより、織図は荻号と何百年も懇意にしながら命を奪われる事はなかった。

 彼は故意に織図の視力を奪っていたのだ。

 また、ユージーンにはもう一つノーボディから頼まれていたことがある。

 恒の持つFC2-メタフィジカル・キューブが壊れたから、直してユージーンのアトモスフィアで充電してやってほしいと。


「それから、恒君。君の神具は後でちゃんと修理してあげるからね」


 ユージーンが戻ってきた事で、全ての問題が解決するのではないかとすら思えた。

 恒は自分に言い聞かせるように胸に手をやった。


”大丈夫だ、俺達にはユージーンさんもいる。INVISIBLEに負けはしない”


 絶対に負けはしない。と、恒は口の中で呟くように繰り返した。



「まずはお前の話とやらを恒にしてやったらどうだ? ん?」


 織図は昼間っぱらからジョッキでビールを飲みながら、真面目に切り出す。

 食事の間、ユージーンは雑談をするばかりで何も重要なことは話そうとしなかった。

 深刻な話を食事中にすると、料理に手がつけられてなくなってしまうので彼なりの配慮なのだろうなと思いながら、恒はデザートの夏みかんジュレをいただいていた。

 織図はベルトを緩めながら、今日はうまい豪華会席も食べたことだし、ダイエットは明日からにしようかなと考えたようだ。


 織図は視力を得て、円窓から見える中庭の風情ある日本庭園にせわしなく目を配った。

 美しい夏の彩りに見惚れているというのもあるが、彼にとっては全てが新しい世界だ、もし600年以上も盲目で暮らしてきて突然目が見えるようになったら恒は嬉しくて半狂乱になりそうだと思うが、多少キョロキョロするぐらいで平常心を保つ織図はさすがである。

 隣を見るとメファイストフェレスがユージーンの一挙一動に目を奪われて、恋する少女のようになっている。

 解階の生命システムは生物階と似て核酸とタンパク質ワールドに支えられているらしく、遺伝子的には全て女性であり同性愛者の彼女らであるとはいえ、特定個体に対する愛情のようなものはあるようだ。

 解階では婚姻と出産というイベントもある。

 だがあまりに彼らの寿命が長い為に、同じ相手に添い遂げる事は珍しく離婚や再婚、再々婚は常態化しているのだそうだ。

 メファイストフェレスは人に換算すると25歳ほどの年齢で結婚適齢期だと織図から聞いた。

 それでいくと未婚の彼女がユージーンに恋をしていても不思議ではないが、残念ながら男性ですらない彼女の主とメファイストフェレスが結ばれる事はありえない。

 このままユージーンにうつつを抜かしているようだと彼女は婚期を逃してしまうだろうということだ。

 だがそれでも、彼を慕うメファイストフェレスが彼の側にあり続ける為には、彼にもっとも近しい使徒となるしかなかったのである。

 魔女が神に恋をするなど、聞く分にはロマンチックな話だが当事者たちは辛かろうな、と恒は思った。

 それほど彼女のユージーンに対する表情は普段と違っていた。

 千年以上を生きてきた彼女からすれば、ユージーンも織図も子供のようなものだというのに。


「それとも、俺らがいると話し辛いか」


 織図は雑談をしそうになる口にチャックをし、ひとまずユージーンに気をつかった。

 恒はいよいよ話が聞けるのかと、気持ちを落ち着かせるため緑茶を飲んで静かにユージーンに向き直った。


「いえ、お聞きいただいて結構です。ただし、特殊任務従事者である織図様は監査フリーですが、陽階神であるわたしは生物階降下に伴い法務局からの監査が入っている可能性があります。なので……」


 法務局の偵察衛星はとても解像度がよく、何をしているかはもちろん読唇術により会話の内容まで把握する。

 法務局による偵察衛星での監査は陰階神、陽階神の別なく正規に生物階降下を果たした全ての神々を対象にして、神階へ帰還するまで24時間体制で行われる。

 特殊業務従事者は監査の対象外ではあるが、ユージーンには油断なく監査が入っていると思ってよい。

 そんな中で口をぱくぱくやって会話をすると、結果的に盗聴器などしかけられていなくとも、その内容は法務局に駄々漏れだ。

 ユージーンはその点をよく心得ていた。


『同期性意思伝播法という方法でお話しします。これなら盗聴されていても大丈夫ですからね。話の内容を隠す必要はなくなったのですが、突然話が漏れてしまうと神階は大混乱をきたします。さて、皆さん聞こえますか?』


 一同は聞こえると頷いた。

 この方法は唖者(耳は聞こえるが話せない者)であった荻号から学んだ手技だ。

 これができるのはユージーン以外には比企しかいないということになる。

 自らのアトモスフィアを相手の脳に伝え、聴覚神経回路に合流させ、あたかも頭の中で聞こえているように錯覚させる。

 神経回路を同期させる人数が増えれば増えるほど、意思伝播の難易度は上がってゆく。

 この方法のメリットは会話を盗聴されずに済むということばかりではなく、真空中においてもコミュニケーションを取る事ができるという点だ。

 ユージーンは初めてだが、3名とも聞こえている。


『念のため、これからの会話は必要以上に繰り返したりしないで下さい。恒君。では本題を話すよ。君は先日、妙なメールを受け取らなかったかい?』


 恒が織図とともに開封したメールだ。

 彼がどうして知っているのだろう。

 どこかで見ていたとでもいうのだろうか? 恒はそう思った一方、織図は警戒した。

 法務局の偵察衛星は神籍のない恒と、特殊任務従事者である織図を監査している筈もない。ユージーンが知りえる情報ではなかったからだ。


「あ、え? はい。でもどうしてご存知なんですか?」

『メールの送信者が、教えてくれたからね。最後の一通は、雰囲気が違っただろう?』


 ユージーンは彼を荻号とは呼ばなかった。

 故意にだということがわかった。

 彼が荻号に対して払ってきた敬意を、あまり気にしていないか忘れているように思えたからだ。

 彼は荻号の謎に近づいて荻号と通じ、そして荻号の失踪の原因も知っているのだろう。


「はい、違いました。最初のメールってのは、荻号さんのものですよね」

『彼は、荻号様と同一視される事を嫌がっていなかった?』


 恒は姿の見えない荻号を捜して名前を連呼して、荻号と呼ぶなと怒られた。

 だが状況から推察するに彼は荻号でしかありえないと思うのだが……。

 最初のメールと、最後のメールは明らかに雰囲気が違う。

 だが、最初のメールの信頼性も、敵の侵入を許した今となっては限りなく低いといえよう。

 ユージーンの弟子になれと教唆した最初のメールが荻号からのものだったのか、それすらも今となっては判別できない。何を信じればいいのか、恒は見失っていた。

 そんな時に夢枕に立った金色のメタファーを持つ人物……。


「ええ、名前を呼ばないでくれと」

『そう。彼は名前を呼ばれると力を失う。彼はわたしたちに味方をして下さる”名も姿もなき者”(アルティメイト・オブ・ノーボディ)だ。そして最後にきたメールの送信者こそが、わたしたちが戦うべきものだ』

「それは、INVISIBLEなんですよね」


 恒は一つずつ確認してゆきたかった。

 自分がどこまで分かっていて、何を知らないのか。何が間違っているのか。

 そして彼は丁寧に一つ一つの疑問を解消してくれそうだ。


『違うんだよ。何を言っているのかわからないと思うけれど』

「INVISIBLEが敵なんじゃないんですか!?」


 監査を恐れて織図がすぐさま恒の口をふさいだ。

 そして織図はやはり、というように確信を持って小さく頷いた。


「俺は薄々感づいていた。INVISIBLEとは異なる何かが、INVISIBLEの威を借りて水面下で動いているんだ。荻号さんはINVISIBLEに目を向けてはいなかったからな、明後日の方を向いて戦っているように見えた。表面上ではINVISIBLEを見据えているように見えながらその実、そうではなかった。その謎に近づいた者は殺される。そうだなユージーン、俺がまだ死なないのが不思議だが」


 黙って聞いていた織図が口を差し挟んだ。

 メファイストフェレスはもとより、そのメールを見ていないので要領がわからないらしく会話に入ってこなかったが、織図は口にするだけで命を奪われるという神階の三大タブーを敢えて口にして確認した。

 織図は本来ならその瞬間に命を断たれるはずだった。

 だがそうはならなかった……ジーザスの時とは何かが違う、それは何故だ……? 


 恒は生きた心地がしなかった、織図は何故そんなに迂闊に、生死を分かつ問題を口にしようとしたのだろう。

 死神であり死を知り尽くした織図とはいえ、創世者によって与えられる死を回避する術はない。

 恒は直前に失言をした自分の事も棚に上げ、隣にいた織図の腕を掴んでふるふると首を振った。

 慎重に、慎重になった方がいい。

 どこまで知れば命を落とすのか、彼は自らの命を弄んで実験をしているかのように思えたからだ。

 いたずらにチキンレースをしてよい場面ではない。


『はい。それは名も姿もなきお方が本来のお力を取り戻しつつあるからです、昨日の午後4時過ぎをもって神階と生物階の支配権を取り戻されました。この場所も彼の絶対的庇護下にあります』

「じゃあ謎に近づいても、殺される事はないのか」


 ノーボディはもう誰も失わないために荻号という肉体を捨て、名もなき者へと昇華された。

 荻号という肉体に宿っていた際にはあれこれと能力に制限が生じていたが、名も姿も捨てたことにより先日の午後4時すぎをもって、侵略され食い物にされていた生物階と神階の主権を取り戻したのである。

 最後のメールが届いた直後のことだった。

 敵は最後の足掻きとして、恒にメールを寄越して生物階から手を引いた。


『そうです。しかし解階はもともと彼のものではないのです。だからメファイストフェレス、お前はこの真実を知ったままINVISIBLE収束までの3年以内に解階に戻れば殺される。解階に戻る予定があるのなら少しでいいから席を外してくれ』


 ユージーンは父親を人質にとられたメファイストフェレスを案じて、そう言う。

 だがメファイストフェレスはこの話をどうしても聴いておかなければ後悔すると考えた。

 そして父は大丈夫だ、ユージーンに全てを任せようと決めた。


「ひとつお約束を。主が解階においでになり、父を助けていただけますか」

『ああ、それは約束する』

「では解階には戻りません」


 ユージーンは彼女の決断を尊重し了解した。

 恒はひょっとすると敵がメファイストフェレスの父親の命を狙ってくるかもしれないと思ったのだが、ユージーンを信じた彼女の決意は固いようだ。

 それでいいのだろうか? 三年間の間に何があるとも知れない、ひょっとすると止むを得ず戻らなければならない事だってあるのかもしれないというのに、決断が早すぎるのではないか、と恒は思うのだが。


『不死であるわたしは約束どおり解階に参りますが、恒君と織図様は解階を訪れる事もないでしょう。わたしが知り得た全ての謎を明かします。そして恒君、君を呼んだのは他でもない。全ての事実を知り、よく考えて、君の力を貸してほしいんだ』


 もちろんだ、恒も力を貸すつもりだ。

 だがINVISIBLEに挑む神々の一助になればよいとは思えど、あくまでも全体の中のひと柱として微力ながらに恒にできる事を協力する程度だと思っていた。

 例えば原発を誘致するよう空山を介して働きかけるといった類の、そのようなこと。

 それが、隣にいる織図ではなく恒ひとりに呼びかけているように思えて困惑した。

 恒ひとりに出来るような重大な事があるのだろうか。


『この宇宙はINVISIBLEが創世した、膨張し続ける宇宙です。それは周囲の宇宙を飲み込み続けるほど膨大なエネルギーを持っています。しかしINVISIBLEはただ膨張し他の空間を鈍食するだけで赤子のように無垢な、確固たる意思なき創世者であり、膨張し貪食する過程で、無数の宇宙を飲み込みました。飲み込まれた無数の宇宙の創世者達はその力をINVISIBLEに奪われINVISIBLEの支配する一つの宇宙に統合されてゆきました。しかし、偶然にもINVISIBLEに消化されず、INVISIBLEの支配する宇宙の中でさらに一つの宇宙を創り出した創世者がいました。恒君に最初にメールを下さったお方です。彼、……とはいえそれは例えばプログラムのようなもので非常に無機的な存在なのですが、彼は他の創世者と異なり優れた知性と慈悲を持っている、もの思う創世者です。彼は神々を創り出し穏やかな時間の中で、不変の神々の営みを見守っていました』


 それはアルティメイト・オブ・ノーボディにとって、あたかも人々がアクアリウムを作って観賞魚を飼育し、愛着を持ちあれこれと世話を焼くようなもの。

 INVISIBLEに飲み込まれ本来の力を発揮できず、暇を持て余し思索にも飽きた彼のささやかな趣味として始められたのかもしれない。

 神という不変の生命を生み出し繁殖をさせ、子々孫々の繁栄を優しく見守っていた。

 宇宙の化身である彼の体内にささやかな愉しみとして作られた命あふれる小さな箱庭、そこに住まう神々の生活は、彼の目にいみじく映ったことだろう。


『彼は大変な愛情をもって神々と神々の住まう世界を慈しんでいました。古の神々は男女の別があり生殖能力を持ち、恒常的環境で社会生活を営んでいました。しかしその箱庭を見ていた、またひとつのもの思う創世者がいました。それがブラインド・ウォッチメイカーと便宜的に名づけられた創世者です。彼は変化なく続く平和な営みを見守るだけでは満足できませんでした』


 アルティメイト・オブ・ノーボディの創り出した箱庭を観察し続けていた別の創世者がいた。これが全ての悲劇の幕開けだった。


 仲居さんがお茶のおかわりを持ってきたが、深刻な話をしている空気を読んで、急須だけ置いて襖を閉めて出て行った。

 恒はまるでSF小説やファンタジーのそれを読み聞かされているように、とても現実とは信じられない真実を、どう受け止めてよいのかわからなかった。

 創世者に感情があるなど……理解ができない。

 恐らくそれは偶然に作り出されたシステムであり、ノーボディという創世者はそのシステムを箱庭の生命たちに押し売りをしただけなのだろう。

 愛、慈悲、それらはノーボディが美徳として彼の作品に刷り込んだシステムに他ならないのかもしれない。

 だからまず感情ありきのシステムだったのだ。

 感情が高度な知性によって獲得された霊長類の個性などでは、断じてないということだろう。

 が、神という生物に求めたシステムは、意訳すると感情による安定化システム(Stabilization by Emotion System)といったものだ。

 これが彼の創造した生物達には刷り込まれていた。


「まさか横取りされてしまった、とかですか?」

『いや、横取りならまだよかったんだ。ブラインド・ウォッチメイカーはノーボディの手法を真似て、INVISIBLEの支配する宇宙の中に入れ子構造の小宇宙を創り出しました。しかし、ノーボディのように無から生命を生み出すことが、どうしてもできなかったのです。そこで絶えず変化し続ける環境の中に無機的な元素を種子として撒き、環境を変化させ続ける事で化合物は有機化合物となり、高分子を創り、核酸が生まれ、タンパク質を創り……ブラインド・ウォッチメイカーの導くままに生命は進化を遂げました。そして最終的に神に似た生物が文明を作り上げ、高度な科学力で環境を克服しそれ以上進化が進まなくなった時、ブラインド・ウォッチメイカーはせっかく創り上げた宇宙を破壊し、また初めから歴史を繰り返しはじめたのです。これが解階のはじまりでした。ブラインド・ウォッチメイカーは生命が進化し続ける事を旨とし、長い長い年月をかけ破壊と創世を幾度となく繰りかえしました』


 メファイストフェレスは、ブラインド・ウォッチメイカーに弄ばれていた解階の住民のひとりだったということになる。

 解階は確かに殺伐として、進化速度が三階のうちもっとも速く荒廃しきっている。

 絶えず変化する環境、絶えず進化する生命。

 それらはINVISIBLE殲滅のために必要なことだと思っていた。

 だがその営みさえ、何の意義も目的もなかったのだとしたら……。

 メファイストフェレスは進化し生物としての強靭さを獲得し続けることを、よいことだと思っていた。

 だが解階で思想の主流となっているその価値観でさえ、ブラインド・ウォッチメイカーによって巧みに刷り込まれた、進化システム(Evolution System)のもたらしたものだとしたら……。


『何の目的があってか、もしくは戯れにか……生ある者が命をもてあそばれる荒廃した宇宙を前に……ノーボディは嘆きました。生命は創世者の玩具ではないのだと。ノーボディは生物を物質とは区別し、命として見なし尊重していました。しかしブラインド・ウォッチメイカーにとっては観察対象であり、手頃な玩具、暇つぶしの対象でしかありませんでした。ノーボディはブラインド・ウォッチメイカーの大破壊の後、再生されたばかりの解階を侵し、その一部を分割して支配下に置きました。それが現在の生物階の始まりです。彼は生物階に穏やかな環境の変化をもたらし、緩やかな進化を与え、神階と同じようにわけへだてなく愛し見守ったのです。神々も生物階の生命たちが健やかに育つよう観察をはじめ、あれこれと世話をやきはじめました。しかしブラインド・ウォッチメイカーは解階の一部を奪われた報復として、神階を滅ぼし神々の大虐殺を行いました。こうして性別を持つ殆どの神は絶滅し、住むべき楽園を失った神々を守るためノーボディは一介の神に身をやつして宇宙に要塞を建設し、要塞の中に新たなる神階を創りあげたのです。その神が誰なのか、もうお分かりのはずです』


 三階のうち神階だけが異質だった理由だ。

 神々の楽園、神の住む星は存在した。

 そして言うまでもなく、彼とは荻号のことだと誰もがわかった。

 いや、何も荻号である必要はない。ノーボディは適宜姿を変えながら、延々と神々と生物階を守ってきたということだろう。


『三階は創世者たちの抗争に飲み込まれてきました。不滅の創世者達が互いを滅ぼすには、宿主であるINVISIBLEの強大な力を手にし、相手の創世者を体内で消化する事だと気付きました。何の気まぐれか、INVISIBLEの力は折りにふれ特定の神のうちに収束します。世界に絶対不及者が現れる時、互いの創世者たちはINVISIBLEの力を乗っ取り、INVISIBLEそのものとなるために壮絶な綱引きを行います。……これが私の知りえた真実です』


 恒はユージーンの作り話であってほしいと願いたかった。

 では何だったのだ? 

 人類の歴史、神々の歴史は……。

 世界中で科学に携わる科学者は、一体何を見てきたというのか? 

 ノーボディが気まぐれに創りだした箱庭の中に敷かれたルール、箱庭を維持するためのプログラムを、真理だと考え日夜研究し続けてきたというのか。

 そこに真実があるのだと思っていた。

 だがこの世界そのものが、偽りと故意に満ちている。ノーボディに庇護され慈しまれる生命……それは、何のために? 

 一緒ではないのか、と恒は思った。


 小さな子供が寂しさを紛らわせるため、お気に入りの人形を抱えて離さないのと同じレベルなのではないか。

 ただそのスケールがあまりにも大きいだけだ。

 恒と神々がこれから全てをかけて敵と対峙し、挑み、取り戻すものは、ノーボディの自己満足、たったそれだけのものでしかないのか? 

 こうやって考え、ものを思い、苦悩し、悦するこの感情は、押し付けられたものでしかなかったのか……。

 しかし、恒はわかっていた。

 しかしそれでも、取り戻さなくてはならないのだと。


『解階はブラインド・ウォッチメイカーによりもうすぐリセットがかけられます。そしてかつて解階の一部であった生物階のリセットをも望んでいるでしょう。どちらに味方をすべきなのか、言うまでもない事です。そしてわたしは三年後、最大の創世者INVISIBLEの器、絶対不及者としてマインドレス・オートメーション(無慈悲な装置)となります。恒君、そこでわたしを助けてほしい。わたしと彼は共にINVISIBLEとなる、そのために本来のINVISIBLEの力を押さえつけてほしい。君は特殊な能力とアトモスフィアを持って生まれてきた絶対不及者に対する抗体だ。君のアトモスフィアは絶対不及者を弱体化させる。絶対不及者は存在者であり、肉体に収束している限りINVISIBLEといえど全能ではないからね。酩酊としているその隙に、わたしたちはINVISIBLEと一体化し力を掌握する。ただし』


 彼はそこで一度話を区切った。


『君の能力は、君の死後に発揮されるんだ。君のアトモスフィアは死と同時に、力尽きながら急速に構造が変化する』


 恒は死んではじめて機能をする抗体として、遺伝子工学とバイオテクノロジーをもとに実の父親に生み出された。

 極陽ははなから彼の作品であり模造生命である恒を生命だなどと、ましてや息子だなどとは思ってもいない。

 ユージーンを予め恒の住む村に派遣したのは抗-絶対不及者抗体である恒に、ちょうどワクチンを接種して免疫効果を高めるように、抗原であるユージーンと接触させ予備免疫を作らせるためでしかなかった。


 あくまでも駒としての働きを期待してのことで、恒がどのように生まれ苦悩し、成長してゆこうともそれは全く興味をひかれるものでも何でもなかった。

 彼が恒に課した負担は全て恒の死後、彼のアトモスフィアに強い抗体効果を発揮させるためだ。

 極陽は永続的に絶対不及者を拘束し続けるため、恒のような使い捨ての生きた抗体を定期的に量産する予定だったのだ。


 人の母胎を褥とし、生まれた赤子をADAMに監禁して精神力を鍛え上げる。

 監禁に堪え生き残った子供を絶対不及者の抗体にする、生命工学でいうところのセレクションを経て、絶対不及者の器に接触させ抗体とするため育てる。

 それは神階と生物階を救うために講じられた、主神としての対INVISIBLE対策だった……。

 自分の子供は自分のモノでありその意思など関係もない駒だという冷徹な、全体のためのわずかな犠牲はやむを得ないという考え方は、ユージーンもノーボディも受け入れられない。

 だが極陽の選んだ手段はより確実に生命を守るための方法だといえる。

 人間が動物実験をして命を奪う事は日常化している、それを気にやまないのと同じだ。


 ……正しい事など、ないのだ。


「……俺は、死ななければならないんですか」


 恒はまるで他人事のようにユージーンに尋ねた。

 彼から死ねと言う言葉を与えられるのか、客観的な立場から受け止めようとしたのである。


『君が死ぬという選択肢もあるし、もともとそうなる予定だった。ただしそれは以前の君だったら、の話だ。君はほんの短期間に神として、人として目覚ましく成長している。強い精神力を持ち、アトモスフィアを自分自身で構造変化させる事ができれば死ぬ必要はないが、人間でもある君がアトモスフィアを一分子に至るまで制御するのは至難のわざだ。だが君は3年後、生きて抗体としての役目を負ってほしい。君は必ず生還するんだ』


 気休めではないと、彼の瞳がそう言っていた。

 だからこそユージーンはその日その瞬間に備えるための時間を、一日でも長く用意してやりたかった。

 恒を早急に呼び出さなければならなかった理由はそのためだ。

 ……恒は全力で備えれば助かる、でも、彼は? 恒は今にも泣き出しそうになった。


「でも、あなたは」

『わたしは消滅する。でもそれは終わりではなく、始まりだ。名もなき創世者として命の営みを永遠に守り続ける、それでいいんだ』

「あなたを滅ぼす事が、俺の役目……」


 恒はうわごとのように呟く。

 嫌だ、信じたくない! 

 誰がその役目に当たっても神々は受容し、成し遂げようとするのかもしれない。

 しかし恒は! どうしてよりによってこのふたりが選ばれてしまったのだろうと、呪わずにはいられなかった。

 彼はよき教師であり、恒の憧れであり、目標とすべき神だった。


『君とわたしの役目は違う。しかし守るべきものは同じだ。わたしたちは犠牲になんてなるつもりはない、誰かを守る為に生まれてきた。そうだろう?』

「俺を……俺をっ! あなたの弟子にしてください!」


 恒はわけもわからず、気付けばそう叫んでいた。

 焦り、不安、怒り、失望それらの感情がごたまぜになって、恒の中に押し寄せる。

 弟子にしてもらうことなど、本当はどうでもよかった。

 ただ彼と離れたくないという気持ちが抑えられなかった。


 恒は、こんなの、あんまりだと泣きじゃくった。

 彼が電車に乗ってやってきた日から、三年後のその日まで避けられない一方通行のベクトルが、今も進み続けている。


 どんなに泣いても怒りをぶつけても、後戻りはできないのだ。

 彼を滅ぼすために、恒は彼に学ぶ。


『よろこんで。……泣かないで恒君。まだ時間はあるんだから。戒厳令は9月には解かれるだろう、そうすればまた教師として教壇に立てるし、その時までわたしたちは一緒だ。出来る限りのことをして備えよう』


 織図もメファイストフェレスも、かけるべき言葉が見つからなかった。

 彼は恒に滅ぼされる為に、恒の師となることを引き受けた。

 彼は恒に確実に引導を渡してもらうため、三年後に向けて恒を鍛え備えさせる事になる。

 ユージーンを刺し貫くために恒という鋭利な刃を、彼自身の手で育てて研ぎすますのだ……。


 終末を覚悟した者は、精神科医エリザベス・キューブラー=ロスのいうところの、否認、怒り、取引、抑鬱、受容の感情的段階を辿るという。

 自分が感情を失い絶対不及者になる筈がない、嘘ではないのかという”拒絶”、何故自分が選ばれてしまったのかという”怒り”、何とか絶対不及者にならずに済む方法はないかと考える”交渉”、無気力になり何も考えられなくなる”抑鬱”、絶対不及者となる事を受け入れる”受容”、それらの感情的段階を経て最後の境地にユージーンはいるのかもしれないと思った。


 満足のゆく最期を迎えるため、彼は全身全霊で成し遂げようとしていた。

 そこには消滅する自己と引き換えに救われる命があったからだ。

 そのために、彼は死力を尽くす。

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