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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第3話 Become an elementary school teacher

 村で唯一の寄り合い場、風岳集会所でユージーンの簡単な紹介が行われるのは、通知が行き渡っていないということもあって、翌々週の日曜日になった。


 それまでの二週間というもの、ユージーンは至る所で奇跡をせがまれることになる。

 むやみやたらに力を使う事は法に反するので、「何かやってくれとせがまれた時に見せる用のマジック」を披露するにとどまる。

 よくありがちな透視、コインマジック、トランプ、縄ぬけ、人体切断、空中浮遊。「単なるマジシャンじゃねーか」と言ってくれればしめたもので、彼の正体はうやむやにしておく。

 しかしそんな工夫をしながらも既に噂と疑惑は爆発的な勢いで広がり、今や道を歩いていても気軽に声をかけられる始末だ。

 村人の反応は日が経つにつれて、子供を中心にではあるが良好ではあった。

 彼らの半分は信じて、半分は信じていなかった。


 村の中央にある風岳神社の総代会に気に入られて、社務所が仮住まいとして貸して貰えることになった。

 ユージーンはようやく警察署の保護室から引っ越して、生活道具と寝具の一式が揃っている、そして冷暖房完備の新築の社務所に腰を落ち着けることとなった。民家でもよかったが、揉め事に巻き込まれる恐れがあり、迷惑はかけられない。


「短い間ではありましたが、お世話になりました」

「おう、近々賽銭持って参拝に行かせてもらうよ」


 警察署長も、花束など渡しながらそんなことを言った。

 かの不登校児、藤堂 恒はこれまでの態度を悪いと思ったらしく、役立つものから下らないものまで毎日のように差し入れを持ってやってきて、暫く嬉しそうに雑談をしては帰っていった。


 そんな日々が続いていたある日。

 話し疲れた恒が帰ってゆくのを見送り、手持ちのモバイルに特殊なパスコードを入れて再起動する。

 GL-ネットワーク ポータブルという鮮やかな起動画面に切り替わった。

 ディスプレイに指紋のない指を押し付ける。

 これは個別認証システムではあるが、彼の指紋を読んでいるのではなく彼の身から発せられるアトモスフィア(Atmosphere:化学的環境)を認証していた。


 この化学的環境は神によって構成も色も違うので、指紋に代替するものとして神々の社会、神階しんかいで一般に用いられていた。

 先程は何の変哲もなかった最新携帯は、複雑怪奇な構造になっている。

 ID確認を終えると、携帯画面の右上に電波圏内にいる事を示す接続中という文字が表示された。

 アクセスエリアは風岳村との文字が点滅しており、

 陽階ようかい 7位 ユージーン=マズローと認識された。


 煩雑な手続きを踏む事で、不正に誰かが利用できないようなシステムになっている。

 ユージーンはアドレスに登録されたSnF02GIEという暗号を選択し電話をかけた。

 通話の相手を推測されないよう、名前も暗号で登録している。


 彼は職業柄、それは用心深い神だった。

 電話の相手は、ユージーンの擁する大勢の使徒達のうちでも、秘書官のような役割を果たす第一使徒だ。


 ユージーンは神だとふれたが、それに伴い使徒、伝統的な言葉では天使も大勢所有しており、その数は22万名にも上る。

 第一使徒の響 以御という使徒は、その中でもとりわけ秀でた才能と充分な実力を持つ者達、十大使徒のうち第一位を務める者だ。

 第一使徒は神の代理で、今回の風岳への着任とともに、以御も彼の代わりに執務室の椅子に座り、彼とまったく同等の職権を以って仕事をこなしている筈だ。


『俺だ。ユージーンか? あんた早速法務局から懲罰通知が出てるぞ』

「そうだろうね。正体を明かしたんだから。まったく、散々だよ」


 しかし村民に正体を明かす以外に方法があったかというと、なかったといえる。

 ユージーンは警察に逮捕されて今にも殺されそうだったし、懲戒環のおかげで力も出せなかった。


『なんでバカ正直にばらしたんだ?』

「警察の内部で拳銃抜かれて殺されそうになってたんだぞ?」

『転移で逃げればよかったじゃねーか。そんで、その場にいた全員の記憶を消してしまえばいい』

「赴任地でもめごとを起こしたくない」

『いや、こっちの方が話でかくなってんだろ。まあ懲戒措置は極陽が握り潰したが、今上極陽は神の存在を人に明かさないと明言している。トップの方針に叛くことをしてくれるな』

「わかっている。ここを去るときにはたった一つとして証拠を残さない」


 つまりそれは、任期が終わったら村民全員の記憶の消去をして去るということだ。


『しかし今回の任務の目的は何なんだ? 任期終了日まで風岳村の警備だと? 過疎村に枢軸を降下こうかさせてまで、一体』

「それを自分で調べよと仰るのだろう。早くも不自然な点が出て来た。今から言うログイン情報をADAMで調べて欲しい。ナンバーは……」

『それがどうかしたのか? 何故他神のアクセスコードを取得してるんだ。またやらかしてくれたな……』


 以御が慌てるのも無理はない。

 彼が気色ばむ様子が、受話器越しに伝わってくるようだ。

 アクセスコードは一柱につきひとつ割り当てられている。

 他の番号を知っているというだけで、ハッキング行為を行ったという証明になるからだ。

 以御の脳裏では今、他神のアクセスコードのハッキングによってユージーンがくらう量刑を考えていることだろう。


「違う、これは不正IDで、人間の少年が8年前に強制ログインさせられていたものだ。以来少年はずっとログインの状態にあった。こんな残酷な事をした者を突き止めたい」

『ADAMの知識を人の子が8年間も受け続けただと? そんな事ができるのか?』

「少年は生きるために受容してきた。一冊で人間の一生分の脳領域を使うというのに」

『本当か?』


 ユージーンは片手で社務所のポットの湯を沸かしはじめた。

 村人からの差し入れもあって、生活に不自由することは今のところ何もない。

 今日も恒たちが必要以上に茶を飲み干して、湯がきれてしまった。

 しかし不登校児として有名なあの子は、学校に行っている気配がない。

 今日はもう木曜日だったはずなのだが、とユージーンは恒が心配になる。


 夜になると、恒の仲間の少年少女たちが毎日毎日すし詰め状態になって押し掛けてきた。

 ユージーンが最初に出会った少女もやってきた。

 石沢いしざわ 朱音あかねと言って、恒のクラスメイトだということも判明した。

 気が付けば宿題を教えるはめになって、教師でもないのにと苦笑する。


『その子供は人間なのか? 不可能だ。使徒は勿論、神でも持て余す量だ。となるとその子供にはファイルの圧縮か削除の技術があるんだろう。だが訓練もせずそんな事は人間にはできない。絶対にだ』

「以御。わたしが少年を人間かそうでないかの区別もつけられないと思う?」

『そうは言ってないだろ。でもあんたは テトラ・スパイラルシーケンサ(Tetra Spiral Sequencer:四極螺旋解析装置)で調べた訳じゃない。神の中には稀にだがアトモスフィアの薄い方もいるぜ』


 テトラ・スパイラルシーケンサというのは、遺伝子を司る神、岡崎おかざき 宿耀しゅくようの所有する遺伝子解析装置だ。

 人間の遺伝情報を瞬時にして読み取り、その遺伝的優位性、欠陥、疾患や性格、病歴に至るまで全ての情報を暴き出す。


「現実的ではないな。彼が神か使徒なら何故神階が把握しないんだ。それに、万が一にも使徒の線はない。神が傍らにいなくていくらも生き延びられるものか」

『どうかな。俺ならその子供、只の人間じゃないと思うけどな。普通に考えてだ。まあアクセスの件は調べておくとするよ』


 電話が切れると、一回の通話ごとにセキュリティロックがかかっている。

 通話記録は暗号化され、再ダイヤルすらできないように設計されている。

 面倒だが、必要なことだとユージーンも思っていた。


 恒は人間だと断言してみたものの、以御にそう言われると自信がなくなってきた。

 使徒の線はまずない、そう言えるのは使徒という生物種がその生来の特性として、身体の重要なシグナル伝達物質を欠損しているが、まさにその物質は神体で大量に合成され、アトモスフィアの中に浮遊している。

 つまり神の傍らにいなければ、半月とて生きてゆけないというわけだ。


”では、神なのか?”


 この数日でユージーンはよく分かったが、彼の身体能力は確かにずば抜けているし、知性も話した限りでは相当のものだ。

 でも……そんな筈はない。そんな馬鹿な事があってたまるか、とユージーンは首を横に振る。


 藤堂 恒が神であって神々に気付かれる事なく人間社会に紛れ込んでいる。

 そんな馬鹿げた事が発生する確率は、宇宙から隕石が落ちてきて、それが一人の人間に二つも当たってしまうほどあり得ない。

 だが、何故彼は神々の図書館に監禁されていた? 

 疑問は残る。

 恒は悪夢から解放されたが、それは本当の意味で解放した事にはならない。

 犯行を行った者を突き止め、次なる犠牲者が出るのを防ぎ、法の審判を受けさせるまでは。



 ユージーンには懸案もありつつ、日中ぶらぶらしている訳にもいかなった。

 人たちは日に日にユージーンに参拝には来てくれたし、恋愛相談や人生相談をもちかけてきたが、具体的に何か力になってくれと頼みにくることはなかった。


 唯一絶対の神という概念は、西洋やアラブ系の文化だ。

 この村の人間にとって、神とはもっと身近で非力なのかもしれないな、とユージーンはひしひしと感じている。

 村人たちはユージーンに何の力も期待していないというのもあったし、力を必要とする場面がないというのもあった。

 この村は平和で、何もわざわざ神の厄介になるような事などなかったのだ。

 だが彼は村人の力になると約束してしまった以上、何もせずニート業もできはしなかった。

 今日も恒がやってくる前に、簡素な私服に着替え、デニムを穿いて首にタオルを巻いて田舎風のいでたちに着替える。


 ユージーンがやってきたのは果樹園を営む近くの農家だ。

 腰の曲がった老婆がほっかむりをして、丁寧に雑草を取っている。

 老婆はユージーンの姿を認めると、すっかり顔なじみのように手を振った。


「あの。お手伝いしましょうか。雑草とりでも」

「や、神様。草むしりですか? 間に合ってるといいたいけれど、それじゃかえって困るんでしょう」


 老婆はユージーンの状況をよくわかっている。


「はい。仕事を探しているのですが、あまりにも依頼がなくて」

「神様が人間をどう思っているかはわかりませんがね、人間が神様の力を借りたくなるような事ってのは、一生のうちに何度もないものです。人間の欲望は果てしないと思っていましたか? ふふ……そうですか。特にこの村の人間は、あまりがめつくもなくて、のんびりしているんですわ」


 彼は神であると名乗りそう扱われることを、どことなく心苦しく思っていた。

 この村で人間のふりをして生きてゆけるのなら、その方が断然よかったとすら思う。


 人々が期待しているほどに、神々は全能ではなく、人々から落胆されるほどに無能でもない。

 要するに微妙な存在なのだ。

 それが、ユージーンはたまらなく嫌だった。

 老婆の畑仕事の手伝いをすることぐらいが、今できる精一杯のことだ。


「結局、信用されてないんでしょうね」


 ユージーンがそういうので、仕方なく老婆は軍手をよこした。

 二人はなかよく並んで、時折会話をしながら雑草をむしっている。


 村長、玉屋と村の参事が、遠くに着けた車の中から草むしりをしているユージーンと老婆の姿を見つけた。村に留まらせてほしいと懇願していただけに、どう暮らしているのか気になってしまって、毎日社務所の周囲を必要以上に回っている。

 彼は村人達と馴染んでいるが、生活がうまくいっているとは思えなかった。


「また、草むしりしていますね」

「……さすがに気の毒になってくるな。何かしかるべき仕事はないのか? この村は自営ばっかで、人手もいらないし、やっぱり果樹園やなんかの手伝いになるんだろうなあ」

「というか、普通に怪しいですからね彼。自称神の外国人なんて、私が会社経営者なら絶対雇いません」

「まあ、なぁ」


 彼の性格は朴訥としていて、よく話してみると謙虚で素直だ。

 長期間滞在するというのなら、もっとよい仕事をさせてやりたい、と玉屋は考えていた。新興宗教を広められるよりましだ。

 村役場の仕事はただでさえ縁故ばかりでリストラが叫ばれているのにこれ以上定員は増やせないし、かといってこんな山村では農業以外には、これといった職業も成り立っていない。

 見るからに若ぶりなユージーンは体力がありそうだし、真面目に働きそうなのでそれなりの仕事があればよいのだが……。


「私は雇いたくありませんが、実は依頼がありまして」

「本当か!?」

「小学校の臨時採用教師というのはいかがでしょう」

「戸籍もない神様が、小学校教諭だなんて笑える話だ」


 本当にふざけた依頼だった。

 うかつに彼に話しても、教員の資格がなくがっかりするのが目に見えている。


「教諭補佐ということでなら、臨時採用のアルバイトでもいいでしょう」

「へえ、空きがあるのかね」

「吉川先生が担任をやめたいと言い出したそうで。後任が見つからないんです。ほら、あの藤堂 恒の受け持ちクラスの若い担任ですよ。その点、恒にも一目置かれている神様なら、適任でしょうし。雑草とりよりはましかと」


 玉屋は担任の吉川をよく知っていた。

 村で噂の美人教師だ、人柄もよく子供達にも慕われている。


「ふむ。悪くはない。だが気に入って下さるかどうか」

「実はこの話があったのは、小学校側からなんです。子供達が神様の話ばっかりしているからと言って。それに、夜は勉強を教えてもらっているようですよ。この村、塾がないから塾がわりになってるんじゃないでしょうか」


 塾というより、狭い社務所の中にぎゅうぎゅう詰めになっている様子はまるで寺子屋のようだった。

 夜遅くまで子供達が押しかけて、彼も大変な思いをしていることだろうと常々思っていた。


「どうだか。塾だなんていって、堂々と夜遊びできる場所になっているんじゃないか? まあ、人としてみても、日本語が流暢に話せる外国人だからなあ。子供達に人気も出るだろう」

「風岳小学校は英語教育なんかも力をいれていますしね」

「そうだ、英語を教えてもらえばいい。小学校か……打診してみようか。村人への紹介が終わったら、着任していただくということで」


 ユージーンはいかがわしい神通力を使うこともなく、地道に彼の手で丁寧に雑草を取り終えると、老婆がねぎらいの麦茶と、タッパーに詰めた煮物を渡した。

 かえって気を遣わせてしまったかなと彼は反省するが、彼ができる村人への手助けは、今はこのぐらいしかない。


「そんなに気を落とさないように、ね。これ、お豆! 持って帰って下さい」

「ありがとうございます。また、雑草が生えたら呼んでくださいね」


 老婆の営むこの果樹園は、無農薬が売りなのだそうだ。

 農薬を使わず彼の神通力で一気に雑草を枯らすこともできるのだが、それはやらない。

 これから夏も本番となるし、雑草はまたすぐに生い茂るだろう。

 老婆はにこにこと見送った。


「お疲れ様です」


 老婆と別れ、不意に後ろから呼び止められたユージーンは振り返り、へこっ、と小さくお辞儀をした。実は村長とは毎日のように電話で話している。

 何か必要なものを用立てたり、便宜を図ってくれているのも村長だ。

 村長がいなければ、この村に受け入れられ、留まることすらできなかったかもしれない。

 全村民に正体を明かすという条件さえつけられなければ、とは思うが、彼には頭が上がらないといったところだ。


「こんにちは」

「どうですか。村の暮らしは。スローライフもなかなかいいと思うんですが、さえないお顔をされていらっしゃるようですね」


 さえないというか、困惑顔だった。


「あまり、仕事をいただけないものですから。当然だとは思いますが」


 よろず屋もいいが、何しろ仕事がない。

 この調子で本当に仕事がないというなら、彼は当初の予定通りボランティアで村の測量と地質調査をしようと思っていた。

 何をするでもなく村でぶらぶらしているわけにもいかない。

 風岳村の地盤は脆弱で、地震が起こるとすこぶる弱い。

 防災のための補修工事や、各民家をまわっての耐震調査などの基礎的な資料を作り、自治体に提出しようと考えていた。


 彼は定期的に、神階に提出するための活動報告書を作らなければならない。

 とにかく、無給でも何でもいいから、何か仕事をしなければならないのだ。


「ちょうどよかった、小学校教師をしませんか?」

「え? 教師ですか?」

「教員免許なんかは気にしなくていいですから」


 資格がなければ教壇に立ってはならないものだが、この大らかな村にはそんな事を気にする親もいなかった。


「持っています、日本の教員免許。小、中、高校の。でも……」

「って、ええ!? 本物ですか?」

「はい。四半世紀前にとったので49歳だということになっていますが。文科省に照会してもらってもいいですよ。名前、出てきます」

「ええ……国籍どうなってるんですか?」

「日本国籍と、英国籍を持っています」

「は、はあ……合法なんですかそれ」


 玉屋は突っ込みどころが多すぎてもう何も言い返せない。


「そういえば失礼ですが、年はおいくつで。二十歳かそこらにしか見えませんが……」

「正直に申しますと、181歳になります」

「えっ!」


 玉屋は信じられないと口走ったが、この場で真贋を問いただすのも不毛だ。

 彼が何歳であっても、人智を超えた力と身体を持っていて、神だと名乗っている事実に変わりはない。何歳でも不都合はなかった、書類上では49歳ということになっていても、戸籍上未成年だということになっているのでなければ。


「そうですか。ところで例の件……」

「お引き受けします。皆様がそれでよろしいなら。でも」


 先ほどから彼は「でも」と言いたがる。

 玉屋は顎を突き出し、口を尖らせた。


「でも?」

「学校とは信頼できる教師に子供を預ける場です。わたしのような者が、よいのでしょうか。保護者の方も心配なさるでしょう」


 大事な生徒を預かる学校に自称神様教師など、これほど怪しい男はいないと、彼も客観的によくわかっている。


「問題になれば、検討すればよいでしょう。あなたの手腕で何とかして下さい」

「わたしは差し当たり五年の任期がありますので、仕事をいただけて嬉しいです。勿論無償でご奉仕させていただきます」


 玉屋は苦笑する。


「無償なんて、何のために仕事を紹介したんだか。きっちり仕事をしていただければ、正当な賃金をお支払いいたしますよ。いくら神様でも、生活費の工面もありますでしょう」


 彼にとって仕事とは、どうやら生計を立てるためのものではなかったようだ。

 彼は、金ならそれなりに貯金があるのだと言った。


「本当に無償でかまいません。皆様のご厚意で住むところまでいただいたのですから、何かご恩を返さなくては」

「へえ。義理堅いんですな。とにかく、今はお耳に入れただけです。正式に着任していただくのは、村人への紹介が終わった後になります」


 どうせ手が空いているのだから、小学校教師も悪くないかもしれない。

 ユージーンは少しだけへこたれていた背筋をしゃっきりと伸ばした。



 ユージーンの紹介の宴席はあれよあれよという間に参加希望者が千人を超え、風岳集会所の中には収容できず、いつの間にか大掛かりな祭の規模にまで発展してしまった。

 当日は出店屋台も出て振る舞い酒もあるそうだから、人手の予想がつかないといったものだ。村外には口外無用の回覧板を廻してはいたが、この盛り上がりようである。村外の親戚などの係累から、少しずつ話が漏れはじめているかもしれない。

 当日は花火などの騒々しい演出は抑えなければならなかった。

 祭りばやしなどもってのほかである。


 ユージーンは彼の上司から、もし任務に差し支えるようなら、その枢軸権限においてしかるべき措置をとることを許可するという神具起動の承認を受けていた。

 神具しんぐは、その文字通り神々の行使する特殊な道具である。

 人々の自然な営みに神が積極的に干渉する事はあまり好ましくはなかったが、時と場合による、致し方ないとユージーンは腹を決めた。


 このままの勢いで噂が広まるようでは、神具の起動は避けられなくなっている。

 日が経つと共に事の重大さに気づいてきたユージーンは、風岳村の地図をマージさせて深刻な面持ちで睨み付けた。

 村長が提示した滞在の条件はこの村の全村民に正体を明かす事だが、村外の住民にまで明かす義務はないのだ。


 彼は地図の縮尺を定規とコンパスではかり、複雑な計算式をプロットし、それを例のビリヤードのキューのような形をした杖の端っこに繋いだ。

 たっぷりと1時間をかけ入力したのは、村外に出ると自分の事をすっかり忘れてしまうという広範囲マインドコントロールプログラムだ。


 神階では慣用的に、省略してMCF(マインドコントロールフィールド:Mind Control Field)と呼ばれている。

 ユージーンの仕事の性質上、エリアを指定してマインドコントロールをかける事は多々あったが、複雑な地形をこれほど厳密にプログラムしたのは初めてだ。


 ユージーンのアトモスフィアと神具を媒介とし、特殊な電磁波で人の神経系を制御するMCFシステム自体は、人体に何かしらの害があるものではない。

 神階の厚生労働局によって厳密にシステムは審査され、足かけ二十七年で認可されたのだから、その安全性には定評がある。

 安全ではあるのだが、やはり人の心を操るようでユージーンの心情的にも気持ちのいいものではなかった。

 彼は今日何度目かになる、深い溜息をついた。


″本意ではないが、あの日にやるしかない″



 約束の日曜がやってきて、風岳村夏季親睦会という適当過ぎる程適当な名前がつけられて、夏祭りのようなその集会は催された。


 寄付金が大半だが村の予算を使うので、玉屋はあとあとの事も考えて、村おこしも兼ねたこの会を開催していた。

 そんな玉屋の配慮も知らず、子供たちはずらりと並んだ屋台の食べ物に夢中だし、普段から酒びたりの青年会がすでに出来上がってしまっている。


 会場となった公園の入口には村の役員が入念な入場制限をかけていて招待葉書をチェックし、一人たりとも村外の人間を入れないように監視していた。

 ユージーンも勧められるままに日本酒をいただきながら、村人たちの挨拶に応じていた。

 お神酒だとかいって注がれる酒だが、もう何升飲まされたことだろう。酒の強さを試されている気がする。


「まあまあ、もう一杯だけ、いいじゃないですか!」

「この清酒なんてどうです? これはとても珍しい銘柄で」


 応じなければ、蘊蓄が長々と続く。


「はあ……ではもう一杯だけ頂戴します」


 酒自体で酔うことはないが、普通に満腹になりはする。

 彼は初対面の相手でも、顔さえ見れば看破で情報を得られる。

 自己紹介は無駄でしかない。

 そうとは知らない村人は、続々と列を作って挨拶にやってきた。

 今日の人出はやはり千人を超えるそうだ。

 今のところ、村外の者の顔は見えない、村役場の役員たちに感謝といったところだ。

 7時になると、まず舞台に上がった村長が開会の挨拶をし、ユージーンを紹介する。


「こちらが、先週から当村にいらしたユージーンさんです。このお方は、既に皆さんご存知かもしれませんが、神様です。信じる信じないは皆さんにお任せします。当面の間、風岳神社社務所にてお住まいになられます。今日こうして神様を紹介させていただいたのは、皆さんに神様の本当のお姿を知っていただき、決して畏れ奉るような方ではなく、とても気さくな方だと分かっていただきたかったからです。どうぞ親睦を深めていただければと思います」


 ユージーンはマイクを渡され、壇上に上がった。

 既にどよめきと拍手が沸き起こっているなか、深々とお辞儀をした。


「こんばんは。高いところから失礼致します。突然お邪魔致しまして申し訳ありません。本日はこのような会を催していただき、恐縮の限りでございます。わたしはユージーン=マズローと申しまして、若輩ながら神を名乗っております。とは申しましても、見た目もこの通り人となんら変わるものではありませんし、どうぞお気遣いなさらずお気軽にお声をかけてください。多少ながら皆様のお力添えができるかと思いますので、以降この村に滞在させていただくこと、平にご容赦ください」


 ユージーンは丁寧すぎるほど丁寧な挨拶で締めくくると、また深々とお辞儀をした。

 彼は日本に滞在しているときは特に、なにかにつけ礼をするよう心がけていた。お辞儀は日本とアジアでは必要な習慣だ。

 拍手と歓声は夜空に響き渡り、暫く鳴りやまなかった。


「神様は偶然にも教員免許をお持ちとの事で、来月一日より、風岳小学校にご勤務いただきます。担当のクラスは5年2組になるそうです。村民を代表いたしまして、どうぞ児童たちのご指導のほどお願いいたします」


 ユージーンのクラスに当たった子供たちが文字通り飛び上がって喜んだのは言うまでもない。

 知り合いが出店しているということで誘われやってきた吉川よしかわ 皐月さつきは、まさにその話を聞いて驚き、酒の酔いも手伝って、後先も考えず舞台袖に駆け寄った。

 吉川は普段のタイトなスーツではなくラフなジーンズを穿き、サンダルにデザインTシャツという素朴ないでたちだ。

 栗毛色の髪の毛をアップにしてトップにおだんごをつくり、赤いフレームのメガネをかけていた。


 吉川 皐月、彼女こそが5年2組の現クラス担任である。

 運営スタッフ達は皐月のことをよく知っていたので、特別にユージーンの控え室に通す。

 控え室といっても、年季の入った仮設テントなのだが。


「あ、あのっ」


 皐月は壇上から降りてきたばかりのユージーンと面と向かうと急に怖気づいてしまったが、声をかけてしまったので今更後にはひけない。ユージーンは誰かにリクエストされて着ているのか、自分で用意したのかわからないが、いかにもといった白衣を着ており、それが見間違いではないとはっきりわかるほど、暗い中でも明るい光を湛えていた。

 スポットライトが当たっているのではない。


 皐月は国立大学の理系学部出身で、この世のあらゆる現象は自然法則に沿うと信じていた。

 だが人が発光するという現象は、常識では考えられない。

 つまりそれは、可視できるまでのエネルギーを持っているという事だ。

 物体は励起されると発光するが、この人は何に励起されて発光しているというのだろうか。

 皐月はこのイベントをただのマジックショーぐらいにしか聞いていなかった。

 村をあげて大々的に神であると公認し、自らの後任にまでなるなどとは初耳だ。


「はじめまして。吉川皐月先生ですね」


 皐月は名前を名乗ったことも面識すらもなかったので、あっさりと知らない筈の名前を呼ばれ、尚更恐ろしくなった。

 きゅっと肩をすぼめたので、ユージーンは申し訳なさそうに頭を下げた。


「ごめんなさい。驚かせてしまいました。お顔を拝見すれば、お名前はわかるのです」

「そ、そうですか」


 皐月は驚いた後で少し冷静になって考えた。

 このタイミングで会いに来る、この年代の女という手がかりから吉川 皐月という名を推測したに過ぎないのではないか。何のことはない、他愛もないことだ。


 それにしても、まだ辞表を出した訳でもないのに、こんなに早く後任が決まってしまって、あろうことか自称神様の変人を雇ってクラス担任を任せようとしているだなんて。

 いくら彼が教員免許を持っているからといってもあんまりだ。

 よほど自分が頼りないからかしら、皐月はそう思い詰めた。

 何を言いにきたのか、皐月は言いたいことを忘れてしまった。

 その代わり口をついて出てきたのはこんな言葉だ。


「私がいなくなっても、生徒たちを、よ、よろしくお願いします」


 皐月はもうやけになって、涙ぐみながらユージーンの手を取って握り締めた。

 温かで大きな手だ。

 発光しているのだから熱いのかと思ったが、体温は人よりだいぶ温かいぐらいで、熱いとは感じない。どうなっているのだろう。


(この人は、夜光塗料でも全身につけているのだろうか)


 ユージーンは皐月の言葉が意外だったのか一瞬絶句し、思わせぶりに首を振った。


「わたしはあなたの補佐、副担任として着任して欲しいと言われているのです。どういう意味ですか」

「えっ」

「至らないとは思いますが、よろしくお願いします。吉川先生」


 ユージーンは村長に呼ばれたので、皐月とまた握手をすると、そそくさと舞台に上がって行った。

 皐月は優しく握られた手をぼんやりと見つめた。


(……あの変人が神様である筈はないけれど、本当の神様が私の今の状況をなんとかして下さるために、この試練を課したのかもしれない)


 皐月はそう思いながらその手を自分自身の決意で、きつく握りしめた。

 そうと決まればできるだけ早いうちに、化けの皮を剥がしてやらなければならなかった。

 そうでなければ子供達がヘンな宗教に勧誘されてしまったり、何かと悪影響が出かねない。

 この世界は秩序という美しい物理法則に則って営まれているものであり、決してこのような変人が神を名乗ってはならないのだと証明しなくてはならない。

 どんなトリックを使っているのかしらないけど、必ず見破ってあげるわ、と彼女は再びステージに上がった彼を見上げながら、そう意気込むのだった。



 恒はその頃、あれほど楽しみにしていた祭りに出かけることもなく、身辺の整理をしていた。

 荷物はそれほどなかったし愛着のあるものもなかったので、荷造りに時間がかかることはないのだが、無益な考え事ばかりしていて結局だらだらと時間を無駄にしている。


 荷造りをしているのは、隣村にいた母親が神戸の親戚のもとに身を寄せることになり、それに伴い恒も親戚に厄介になる話が出たからだ。

 母親の病がいっこうに回復しないことを心配した親戚が、巷で話題の名医を紹介してくれるとのこと。


 彼の母親の病には病名すらつかず、悪化の一途を辿っていた。

 自己免疫性疾患の一種なのだそうだが、どの疾患にもカテゴライズされない難病なのだという。

 ADAMの叡智を受けた恒とはいえど医者ではないから、母親に対して出来る事など皆無に等しい。

 恒の出産直後に母親の侵されたその病が、いつも恒の自己肯定感を蝕んでいた。


”母さんは俺を産んだばかりに、病気になったんだ……”


 自分など、生まれてくるべきではなかったと思わない日はなかった。

 だから自分はその罰として、いることが絶望でしかない図書館に閉じ込められ、眠ることすらままならなかったのだと、恒は強引に結論付ける。

 恒には父親もいない、望まれていない子供だということは百も承知だった。

 恒は彼の命の価値というものを見出すことができなかった。

 少年時代を、彼は絶望のうちに過ごした。


 ”死んで母さんが助かるなら、死んでもいいかな”と、そんなことを考えた夜もある。

 自分は決して救われてはならないのだと、彼はそう思った。

 そうでなければ、この絶妙なタイミングで神戸への転居の話などくるものか。

 

 失う事しか知らなかった恒に希望を与えたあの青年から、かくも早く引き離されてしまうのもきっとそうだと思い詰めてすらいる。


 もう少しだけ。たとえ一ヶ月でも二ヶ月でもユージーンと共にいたかった。


 まだ知りたいことや学びたいことがたくさんあった。

 そうは思えど、母親の病気が折角治る機会があるかもしれないのに、我儘を言って一人、村に留まるわけにもいかなかった。

 急な話だったのでかけがえのない仲間達にも、何も告げずに去ってゆくのがいいだろう。


 どんな顔をして別れを告げればよいのか判らない。

 引き止められるのが分かっているので仲間には会わずに行きたい。

 それでももう一度だけ、ユージーンには会ってから行こう。

 神だと言っているのだから、夜分に訪問したぐらいでどうこう思いはしないはずだ。

 もうすぐ祭りが終わる。

 そうしたら、行くんだ。

 彼はそう決心した。



 祭りも深夜を過ぎ、村人たちは三々五々帰途について、ユージーンは村人たちに挨拶をして帰途につくそぶりを見せながらも社務所ではなく小高い丘の上に登っていた。

 そういえば、恒の姿が見えなかったな。

 などと思いながら土産にもらった饅頭を口の中に放り込む。

 恒の分ももらったから、明日にでも届けてやろう。


 村人から恒についての話も耳にした。

 恒はうまれてこのかた、悪童として村人から疎まれていたそうだ。

 頭はとても切れるが言動が不可解で、およそこの世の全てに向けられているかともいうようなやる瀬のない失望感からか、大人というものを全く信じようとせず、子供達を率いては非行のかぎりを尽くしてきたのだという。


 ……非行とはいっても、小学生のすることだから結局大した事ではないが、恒に影響された少年少女たちが門限を守らない、無断外泊をするなど、この年頃の子供を持つ親としては頭の痛い問題を撒き散らしてきたそうなのだ。


 おまけに恒は万年不登校児で、恒の真似をして不登校になる子供もいたりいなかったりした。

 更に悪い事に、彼には学校に行けと叱ってくれる親らしき存在がいない。

 親がいないのはともかく、ユージーンからしてみればADAMとの接続が切れない為に心身的不安定になってしまった者に多く見られる現象だと思うのだが、そんなフォローもできはせず、話だけ聞いておいた。


 今や恒はADAMとの接続を切られて正気を取り戻し、それ以来特に非行少年のようには見えない。

 優しい子なのだということもわかってきた。

 ユージーンとしてはたった十歳の子供が不断の苦痛に苛まれてきたのだから、普通に生き延びてきただけでも大したものだと思う。


 ともあれ恒のためにも、彼のあまりにも失墜しきった信頼というものを回復し、村人から白い目で見られることのないようにしてやらなければと思う。

 恒はADAMから得た知識を活用して、学者か医者になりたいと言っているが、このまま不登校を続けているようでは学歴もなく、夢も叶わなくなってしまうだろう。

 やはり彼を学校に行かせなくてはならないらしい。

 それが彼にとってどれほど退屈な場所であろうとも。


 思案しながら、ユージーンは丘の上まで登りきった。

 この丘は村の北東にあって、下の集落からは見えにくくなっている。

 夜空には星がくっきりと見えるような快晴の夜空で、喧騒から解放されて丘の上の新緑の草木を撫でる風が心地よい。

 人目につかない場所がよいと思って、この場所を起点に入念に行われた全ての演算を完成させてきた。


 今日どうしても実行しておこうとしたのは、人間が心身ともに疲労している時ほどマインドコントロールが効果を発揮しやすいからだ。

 体調のよい時より、今夜のように酒気を帯び、夜更かしをして疲労困憊となっている時の方が効果的なのだというデータがある。

 それも村の半数以上の人間が疲れきっているという日など、今日をおいて他はない。

 いつものように愛用の杖をどこからともなく取り出すと、ユージーンは集中を高めた。

 最初のコマンドワードを冷静につむぎだす。


"Grasp the context by analytical microcosm (G-CAM).Open. "

(分析的宇宙 依拠 現象把握機構 G-CAM、展開)


 ユージーンは小声でつぶやくと、例の長い杖が淡い光を放ち始めた。

 彼が事あるごとに握っている杖のような物体は、神具と呼ばれるものの一つだ。

 神具は通常、基空間と呼ばれる広大な空間に格納してあり、必要に応じて自在に出し入れする。


 殆どの神具はエネルギーを増幅して異なる能力に変換するチェンジャーのような機能を持ち、神々はその職務に応じて能力の異なる固有のものを各々ひとつずつ持っている。

 個々の神のアトモスフィアの質によって神具の適合不適合が決まるので、所有する際には繊細な調整が行われており、ひとつとして同じものはなく、他神のものは性質が合わず扱えない。

 ユージーンの固有の神具、彼がG-CAMと呼んだこの杖は、ビリヤードのキューとほぼ同じ形状と大きさで、広帯域MCFの展開や戦域シュミレーション、核爆発を上回るエネルギーの吸収と放散などを可能とする。


 彼は軍事スペシャリスト、平たく言えば軍神として任じられており、戦争開始点の特定とその抹消、また開戦の折には犠牲者を最小限にとどめ、すみやかに終戦へと導くことが責務とされる。

 そのための戦局操作などを目的としてこの神具を用いてきた。


 二度の世界大戦が核戦争に発展することで北半球の殆どの国々が滅亡する、というシナリオだった筈の歴史を、G-CAMにより戦局を傾かせ被害を最小限にとどめた功績が認められ、当時89位軍神であった彼は7位へと推薦され、史上最年少枢軸神として陰陽階に名を馳せることとなった。

 半世紀以上も前の話である。


"System consol open , program No,446. Access."

(システムコンソール展開、プログラムNo,446 接続)


 静かに、あらかじめインプットしておいた広帯域マインドコントロールシステムを起動する。

 これから電磁フィールドをこの村の形そのままに展開するのだ。

 結局、ありのままの人々の生活に干渉したくはなかったので、MCFはこの村を出入りする時にのみ発動するように最小限に設定した。

 この村を退出しようとする者は神の存在を忘れ、この村に引っ越してきた者以外で一時的に滞在する者は、どのような現象を見ても神の存在を信じられないという内容だ。


 つまり定住している一般村民の殆どには影響しないプロトコルだといえる。

 このプログラムの展開時間は、長くてもコンマ数秒で終わる。

 同心円状に電磁波は放出されて、近くに住んでいるものから順にマインドコントロールが影響してゆく。

 村人全員、つまり三千人強の人間に均質に浸透する。

 いや、正確には全村民ではない。

 たまたま村外に外泊している者などもいることを考慮して、日を改め、数回にわけてこの作業を行う。村人全員の名簿は手に入れているので、誰一人逃がさない。

 

 神具起動の代償として、ユージーンの体から凄まじい量のアトモスフィアが奪われてゆく。

 痛みなどはないが、明日は一日中身体がきついことだろう。

 長期的なMCFのため、それだけ消費するアトモスフィアの量も少々では済まされない。



 その時、荷造りをしたダンボールにガムテープを貼っていた恒は、体の正中線上を何か矢のような冷たいものが駆け抜けていったのを感じた。


”何だ、この感じ。目に見えないが、放射線でも当てられたかのような、このおぞましい感じは――”


 心地よいものではなかった。

 恒は窓の外からざわめく庭の雑草のあたりを、ぼんやりと眺めていた。


「……やっぱり俺には、わからないことばかりだ」



 疲れ切ったユージーンが戻ってきたのは、もう白々と夜の明け始めた頃だった。

 日本の朝焼けは空気が澄み切って情緒があるな、などと思う余裕も、残念ながらわずかにもなかった。

 社務所の前に、何があったのか恒がひとり待っている。

 もうくたくただが、待っていたのだろうから追い返すわけにもいかない。


「どうしたの、恒君。こんな時間に」

「ごめんなさい、こんな時間に」

「いいんだ、ずっとわたしを待っていたんだね。とにかく中に入って」


 ユージーンは熱い番茶と、先ほどの饅頭を出す。

 恒は身体が冷え切っていたらしく、すぐに湯のみを持って手を温めた。

 初夏だとはいっても、山間部の夜は冷える。

 ユージーンもこの村に来て、まず最初に思い知らされたのでよくわかる。


「折角眠れるようになったのに、まだ夜更かしかい?」

「あなたこそ、どこに行っていらっしゃったのですか? お祭りはもう終わっていたでしょう」


 鮮やかに切り返されたので、ユージーンはばつが悪そうに茶をすすった。

 だが理由など何とでも思いついた。


「散歩をしていたんだ。で、何の用?」

「どうしても、聞きたい事があって……ひとつ、教えて下さい。あなたはどうやって、世界を創ったのですか?」


  ユージーンはたった一言の問いかけに、答えることができなかった。

  ユージーンは自らを神だと明かすにあたって、根本的にそれが間違いだと自認していた。

 確かに人間とは比にならないほど優れた能力を持ち、重力と光により時間や空間をすら操る事ができる。

 だがそれでも、神の神たる所以である創世の能力がいにしえの神々にあったかというとそうではなかっただろう。


 真の意味での神とはいついかなる宗教でも、現空間と大宇宙を最初に創造した存在、あるいはそれを為しえた力だ。

 それは絶対かつ無機的なものであって、断じて有機的なものではありえない。

 何故なら有機物であるというそれだけで、創世後の副産物であるという事を露呈している。


 それでも殆どの宗教での神はある程度擬人化されているがために、人々の前に顕現するたび神と呼ばれて信仰され、宗教的な意味でもそうならざるをえない状況に追い込まれてきた。

 そして神という絶対者の存在が、人々の心の拠所となり、平和維持の一端を担った事でなおさら、壮大な詐称は後戻りできなくなってしまったのだ。

 付け加えるなら、神が信仰にたえるだけの能力を持っていたのもそうなってしまった理由だ。

 神であるとはいえ肉体を持ち、死から逃れられない生物に過ぎない。


 そもそも神々自ら冠した”神”という名詞は、ヒトやサル、鳥や魚のように生物種名を現す名詞に過ぎなかった。

 決して人間や動植物の支配者であり造物主などを意味するのではなかったのである。

 神は動植物の進化の歴史をそっと見守って、求められれば力を貸してきた。

 何のためにかはわからないが、健気に直向きに生きる動植物、自らの姿に似た人という存在をいみじく感じたのだけは間違いないだろう。


 それがいつの間にかあたかも創造主であるかのように、神は人々を欺いてしまっている。

 例えば原始時代の人間にとって、人社会の現代文明があたかも神の世界のごとく高度に感じられるように、人が神々を創造主だと錯覚しているに過ぎないのだ。


 ユージーンはそういう理由もあって、神として人に接する事が得意ではない。

 神は自らが一個の生体に過ぎないという説明を疎かにして、宗教上の造物主という都合のよい立場におさまっている。

 そんなのはあまりにも不遜で無責任だ、そんな思いが過ぎって、ユージーンはまた気取られぬよう小さな溜息をつくのだった。


 こんな些事に縛られているのは徒労だ。

 神として人を助け導くと割り切る、その方がどちらにも幸福であり、神階上層部といらない衝突をすることもない。

 もっと賢く生きろと、第一使徒の以御にはいつも心配されるが、彼は割り切れないままでいた。

 若いが故の葛藤なのだと分かってはいても、狡猾な生き方を身につけたくはないものだ、とユージーンはまた思いを巡らせる。


 一方、創世をなしえた力、肉体を持ち生死を繰り返す神とはおよそ対極にして真に原始の力は、可視者(Visible)に過ぎない神とは区別され、不可視者(Invisible)と呼ばれているうちにINVISIBLEが名詞化した。

 ″者″などではありえないのだが、神が唯一畏れる全能の力として様々な異名で呼ばれている。


 それは、長い歴史の中でたった二度だけその存在を証明した。


 はじめは、今からおよそ三十万年も前。

 神の寿命は三千年ばかりあるので、百世代以上前の時代。

 神の総個体数は現在の千倍ほどあり、神とその守護者の栄光は全宇宙に及んでいた。

 しかしその時代に突如として現れたたったひと柱の神により、半数が大虐殺された。


 かの無名の神の力は圧倒的で、神語を直訳すると絶対不及者ぜったいふきゅうしゃと呼ばれ神々を震え上がらせた。

 絶対不及者は空間と時間を意のままに操り、空間創出能を持っていたという。

 神の総個体数を僅か半数にまで削り込むというおぞましい大虐殺を終えると、あとかたも遺さず消滅してしまった。


 絶対不及者という言葉は、憑依された者を指す言葉であって、INVISIBLEの本質を示してはいない。INVISIBLEは宿主を転々と変えながら、自らの存在をその名の通り不可視にして、その器となるべきものを絶対不及者に変えては放棄してゆくのだ。


 このとき無名の神の姿を借りて現れた何かが、現時点ではINVISIBLEであろうと言われている。

 絶対不及者となったその神は、生まれてよりINVISIBLEに憑依されるまで、何らかの特徴を備えてもいなかったし、特別な力があったという訳でもなかった。

 過去何百回も研究され尽くした彼の出生簿を見る限り、至って普通に神として生まれ、成体となって間もなくINVISIBLEにとりつかれたのだそうだ。

 ……それから十万年を経ても、神の総個体数は一向に増加しなかった。

 それもそのはず、神には生殖能力がない。INVISIBLEの神への粛清はまたいつ行われるともしれない、だからこそ神階は総力をあげ、INVISIBLEへの対抗策を練り続けていた。


 INVISIBLEはまたしても現れた。

 十万年間の対策が実ったのか、当時の神々は絶対不及者を拘束する事に成功する。

 しかし真の意味で肉体など持たないINVISIBLEの拘束は一時的なものでしかありえなかったし、意志疎通の手段を持たない彼の意図するところも何一つといって解らなかった。


 それでも神々はINVISIBLEを畏れるあまり忠誠を誓い、天帝として奉じた。

 このとき腕に覚えのある神々の一派は何の意図も持たぬその存在を主として奉じる事を是とせずINVISIBLEへの叛逆を試みた。

 INVISIBLEからの解放を旗印に立ち上がった神々が神階を二分した。

 彼等によって一度は拘束されたかに思えた絶対不及者は、神々に再度の圧倒的粛清を与える事となる。


 こうして神々の総個体数はかつての千分の一にまで落ち込み、絶対不及者の姿を借りて現われたINVISIBLEを奉じた陽階と、INVISIBLEからの解放を目指した陰階いんかいの二階制の基盤が形づくられた。


 神の歴史は、創世者との戦いの歴史だった。

 INVISIBLEが創世者であるという可能性がなければ、神々は体制を二分するまでに揺れなかっただろう。

 力の横暴というだけであったならどんな手段を講じても、対抗したはずだ。

 しかし、陽階はINVISIBLEを創世者と認め、支配に屈してしまった。


 陰階に所属する神々は創世者に戦いを挑んだことを、今でも後悔している気配はない。

 創世者に怯えながら生きながらえるより、主権を取り返すべきだと考えている。

 一方陽階では、創世者を支えるのが神々の責務だと教え込まれている。

 陰階と陽階は今でこそ和解が進んでいるが、根本的な精神はなんら変わっていない。


 ユージーンは陽階が掲げる、支配に甘んじても避けられる絶滅を回避すべきだという考えも共感できるし、陰階の掲げる、INVISIBLEの支配から破滅のリスクを負ってでも脱したいという精神にも共感できた。

 INVISIBLEはいつ現れるのかわからないが、今のところ破壊しかもたらさない。

 神階の対極にあるいまひとつの世界、解階げかいやここ地球を指す生物階には、現時点では無害だ。


 解階でもまた、被害を想定してINVISIBLEへの対策が練られている。

 甚大な被害を受けた神階はINVISIBLEのせいで、急速な凋落をみせた。

 神階、生物階、解階を含む三階のうち神階という存在だけが創世者の理に反しているからなのだろう、ユージーンはそう思う。

 とはいえその理はお世話にも道徳的なものではないし、決して甘受するわけにはいかないのだろうが――。


「あの。ごめんなさい、こんな失礼なことを聞いて」


 恒が目の前にいることも忘れて、彼はしばらく回想にふけってしまっていた。

 恒の問いかけはそれほど核心をついていた。


「君は重要な事に気づいたんだね。そう、わたしたちにはそんな力はない」

「そうなんですね。失礼なことを聞いてしまいました」

「気にしなくていいんだよ、事実そうなんだ」


 ユージーンは少しも不快だとは感じなかった。

 むしろ彼に器量を見抜かれているということで、少し安堵した部分もあったのだ。


「あなたは肉体を持っているから、そう思ったんです」

「何故、神と名乗るのか、と」


 いっそ○×星からきた宇宙人だと名乗った方が、村人達に対して誠実で健全な説明なのではないか。

 とユージーンですらそう思う。

 神だと名乗ることは間違っている。

 それは人々の敬虔で歴史ある宗教感情を裏切ってしまうからだ。


「でも何となく、分かるような気がします。人が神様を望んだんだ。あなた方はそれに応えざるを得なかった。あなたが人と関わる姿を見てそう思いました」


 恒は素直に白状した。


「それはとても立派だと思いますし、尊敬します。俺だったら耐えられないから」

「神という言葉は生物種名を表すものであって、もともと宗教的な意味ではないんだ。だから、君たちは少し、わたしたちについて誤解をしている」


 この子には真実を話しておきたい。ユージーンはそう思った。


「それでも俺は、あなたを神様だと思います」

「……ほう、どうして」

「あなたが人をわけへだてなく、慈しんで下さるからです。たとえ俺のような子でも。お茶とお饅頭、ごちそうさまでした。お答えが聞けたので、もう帰ります」


 去ってゆこうとする恒を、慌てて呼び止めようとして、ユージーンは言葉がつまった。

 再び沈黙してしまったのは頭がのぼせて、何も考えられなかったためだ。


 ”この子は、何も知らない。すべてを話せば、きっと失望させてしまうことだろう”


 人と正面から向かい合えなかったユージーンの心を救ったのは、彼なのかもしれない。

 勝手な都合で、目の前で救いを求めてもがいている者の手を、踏みにじってしまうところだった。


 神として望まれているのなら、その役割を果たさなくてはならない。

 それが世界の創世者に対してどのような冒涜となろうとも。

 ユージーンは言葉が出ないまま、取り繕うように恒の手を取った。

 こんな自分でも、この子は神だと信じているのだから……応えなくてはならない。

 それが神という責任ある名を名乗った対価だ、と彼は決心した。


「……恒君。学校に来てみないか?」

「俺のクラスの副担任になるってお聞きしました」


 ガキ大将であった彼には子供たちからの情報がいち早く届き、学校に通わずとも耳が早い。


「そうなんだ」

「それは出来ません。俺、来月から神戸に行くことになったんです」

「え、何故、突然」

「丁度いい機会だったんだと思います。悪夢から解放していただいて。自業自得で、もともと居場所もない村でしたし……五年はここにいらっしゃるんですよね。また来ます。そうすれば」


 また、いつか会いにくることができるから。

 これがお別れではない。

 恒は彼自身にそう言い聞かせこの地を離れようとしていた。

 しかしユージーンからは意外な言葉が返ってきた。


「それはできない。この村を出たら、わたしの事は忘れてしまうだろう。君は友達と会うためにこの村に帰ってくるだろうけど、その時にはわたしを見てももう初対面のように感じるだろうね。そして賢い君は、神だなんて信じはしない」

「どうしてそんな」

「お互いのためにさ。差し出がましいようだけど、何故突然引っ越すのか教えてくれないかな。ひょっとして、わたしの責任なの?」


 十中八九、それしかないとユージーンは確信している。

 少年がこの地を去らなければならない原因を作ったならば、それは見過ごせない。


「いいえ、母が決めた事なんです。病気が治らないから、大きい病院に行くんだって決めて」


 恒は村の子供達の前では一度も、母親の病を口にしたことはなかった。

 母親が病気だったとは初耳だった。


「君のお母さんは病気だったの。何の病気?」

「それが、よく解らなくて。自己免疫疾患かもしれないという事なんですが。詳しい事はなにも」


 ユージーンはやや考え込んで、次にまっすぐ恒の瞳を見据えた。

 恒は直視され、思わず視線をはぐらかした。

 何故だか無性に、悲しくなってしまったのだ。

 恒は同級生と比べて、あまり感情が豊かな方ではないながらに、はっきりと分かっていた。

 ユージーンと別れたくはない。

 だがこうする以外に母を救う方法がないのなら、我侭を通すわけにもいかない。

 恒は自分の感情を押し殺していた。

 そんな思いも、彼にはすっかり見通されているに違いない。


「診てみようか」

「診ていただけるんですか? でも、あなたはお医者さんじゃ……」


 胡散臭いという以前に、恒はそこまで全能を演じなくてもいいのに、と彼を慮った。

 神だと名乗るからには、周囲から全能を期待されるということだ。

 信用してもらうためには、医者のふりもしなければならないのだろう。

 しかし、彼ひとりにそんなに何でもかんでもできるわけがない。

 不治の病と診断された母親の治癒を試みるだなんて、その気持ちは有難いが無茶をしないでほしいと思いつつも、ひょっとして、という思いも勿論ある。


「一応これでいて内科医なんだ」


 彼はさらりとそんな事をいった。

 教師の次は内科医ときた。

 医師を詐称することは罪に問われる。


「そんな話、聞いてないです。どうして今まで黙ってたんですか」

「この村には上島先生がいるだろう? 医師の仕事は間に合ってるし、あえて医業をする気はないよ」

「ほかにもいろいろ免許持ってるんですか?」

「まあね。でも、この村に滞在するには必要のないものばかりだよ」

「どこの国の医師なんですか?」

「英国がメインだけど、日本医師会にも在籍してるよ、嘘だと思うなら調べればいい。検索すれば出てくる。でも医師かそうでないかはあまり関係なく、問題は治してあげられるかどうかだ。まずは診てみないとわからないけど、何もしないよりはいいと思う」

「そんな事ができるなんて」


 恒は半信半疑だ。


「治せるかは正直解らない。でも助言はできるかも。お母さんを連れてきてくれるかな。わたしはこの村を出てはいけないから」



 翌々日、恒は母親の病院で一時外出の手続きをとると、手際よく介護タクシーを手配して、彼の母、藤堂 志帆梨(とうどう しほり)を連れて帰ってきた。

 ユージーンは恒からの連絡を受けて、すぐに恒の自宅に駆けつけた。

 彼が志帆梨の病を治せるとは、恒はさらさら思っていなかった。

 それでも恒にできることは、一縷の希望にすがる事だけだ。

 ひょっとすると、何か病気の手がかりとなるようなことを知っているのかもしれない。

 それが分かるだけでも価値がある。診察だけでもしてもらいたい。


 白いTシャツと楽なジャージを着た藤堂 志帆梨は痩せた色白の美人母で、31歳。

 艶やかな黒髪と意志の強そうな眉、そして力強い目元からは病人のように見えないが、頬はやせこけている。

 闘病生活が長いということは、一目瞭然だ。


「これは……」


 ユージーンは志帆梨を凝視する。

 二人の顔が、いっしんに彼に向けられている。

 よく似た親子の顔が大接近しているのを見てわずかにのけ反りながら、ユージーンは「ええと」と目を泳がせた。

 その様子に一抹の不安を感じた恒は、縋るように尋ねた。


「治りますか?」

「あ、ああ。でもこれ、病気なんかじゃないぞ」

「え? 自己免疫疾患というのは」

「全くの見当はずれだ。バイタルが何者かによって根こそぎ奪われている、それで全身の不調をきたしているんだ」

「バイタルって何ですか? バイタリティのバイタルですか?」

「そう、生命力みたいなものだよ」


 怪しい話になってきたが、恒には思い当たる節がある。


「何者かって、やっぱり俺が生まれた時に……」

「それはない。人が生まれる時には母親から多少のバイタルを奪うのだけど、さすがにこれほど奪うなんて有り得ないよ。バイタルは奪われてもゆっくり回復するものだけど、ある程度の閾値がないと回復できないんだ。志帆梨さん、あなたが奪われたバイタルは、赤子でいえば何百人分にも相当します。こんなことが出来るのは人間ではない。わたしと同類の何者かです。人間である恒君のせいなんかじゃない」


 そう言いながら、ユージーンはこの家族に起こった悲劇に思いを巡らせた。

 藤堂 志帆梨がもし、神階のなんらかの事情に巻き込まれて十年もの間犠牲になったというのなら……。


「原因がわかっただけでもよかったです」


 志帆梨はやっとのことで一言を絞り出した。

 恒がユージーンと出会わなければ、この悲劇は終わらなかった。

 彼らは運命の無慈悲を嘆きながら、それほど遠くない将来、ひっそりとこの村で息絶えたにちがいない。そんなことは断じて起こってはならない。


「やっぱり俺、呪われてるんじゃないでしょうか。あの夢の事といい……」

「君に非はないのだし気に病まないで。あの件は今、部下に調べさせている。どちらにしろわたしたちの倫理に反する事だ」


 恒と母親は不安げに顔を見合わせた。


「とにかく、すぐ治せるよ」

「えっ、すぐですか?」


 ユージーンの言葉に、親子は手を取り合って喜んだ。


「神戸に行かなくてもいいんでしょうか」

「もちろん」


 ユージーンは流しで手を洗うと、用意していたと思われるタオルと剃刀を持ってきた。

 まさかここで手術でもおっぱじめようとしているのではないかと、志帆梨は青ざめる。


「手術ですか……?」

「いえ、あなたを切るのではありませんのでご心配なく。ところで今後の意向の確認なのですが、あなたは元気になったらこの家にまた元のように住まいますか?」

「ええ、必ず。恒と二人で暮らしたいのです。それが叶えばどんなにうれしいか」


 もう志帆梨がすっかり諦めていた、些細な夢だった。

 ユージーンはその答えを聞いて頷く。

 彼女がこの村に留まるという答えが重要だった。

 もし病気の治癒いかんにかかわらずこの村を出ていくというのなら、ユージーンは彼女を治癒できなくなる。

 彼が力を行使してもよいのはこの村内だけで、村外は管轄外なのだ。


「わかりました。ではあなたもわたしが守るべき村民の一人です。わたしのバイタルは人の一万倍以上あります。計算上ではわたしの肉体50gを摂取すれば充分なバイタルを回復できます。血液50ccほどでいいでしょう。気持ち悪いでしょうが我慢して飲んで下さいますか」


 ユージーンは勿論、当初はできうる限り現代医学を用いて治療にあたるつもりだった。

 しかしこれは現代医学では対処できない領域の問題だ。

 血液を飲ませる。

 志帆梨の心情を慮ればグロテスクなことをさせたくなかったが、バイタル欠損だとすればそれ以外に治療方法が思いつかなかった。

 そして幸い、あらゆる病人の病を癒す治癒血(ちゆけつ:ヒーリングブラッド)という珍しい体質を持つユージーンには、まさにど真ん中での治療適応症例といえた。


「血を、ですか?」

「はい。一回コップにためます? 直接飲んでもらったほうが新鮮ですし、バイタルのロスもないのでおすすめです。肝炎などの血液感染などはありません」


 グロすぎて志帆梨は困惑する。

 恒から、腕のよい医師が現れたと聞いていたものだから、民間療法を通り越して宗教じみている。


「母さん」

「わかってるわ。お願いします、コップにためてもらったほうがいいです」

「わかりました」


 志帆梨が戸惑いながらも同意をしたのを見て、ユージーンは手首に剃刀を宛てすっと刃を引くとまるでインクのような赤透明な液体が流れ出てきた。


「これ……血なんですか?」

「人の血液とは色が違うでしょう」


 それは随分と透き通っていて、人の血液のどす黒い感じとは明らかに違う。

 母親は恐ろしくなって身震いしたが、彼を信じろと言った息子の言葉がいよいよ信憑性を帯びてきた。

 50ccはそれほど多い量ではないが、ユージーンは循環器系が血管に支えられていないので血液の漏出が遅く、やはり時間がかかる。50㏄ほどたまったところで、ユージーンは圧迫止血に切り替えた。志帆梨が何か感想を言う前にユージーンはタオルで止血をしながら補足した。タオルが真っ赤に染まっていった。


「では、どうぞ」

「はい……いただきます」


 母親は生暖かい血液をぐっと飲み干す。

 酒を飲んだ時のように胃がかっと熱くなるのを感じていた。

 嫌な熱さではない。


「まだ変化はないでしょう、今は体に入っただけですから。これから徐々に吸収されてあなたのバイタルを補っていきます。拒絶反応もなかったようで何よりです」

「拒絶反応があったらどうなったのですか? 死んでしまったりとか」


 人間や動物の血ならなんということはないが、彼の血は人体にとって異物だ。

 まさか毒が含まれていたり……などとも考えてしまう。


「身体が受け付けずに吐くだけですよ。とにかく明日の朝までは大事をとって安静にして、寝ているのがベストでしょう。ではわたしはこれで。明日の朝また様子を見に来ますから」

「ありがとうございました」

「まだ治っていませんから、お礼はまだです」


 ユージーンはしっかりと傷口にタオルを押し付けたままだ。


「血が、止まらないんですか? ずっと押さえてますが」

「俺の傷は簡単に治して下さったのに。あの時のようにできないんですか?」

「むやみに力を使ってはならないんだよ。特に自分のためにはね。まあ、縫合するほどでもない」

「神様なのに……」


 ユージーンは少し困惑したように微笑んで、恒の言葉には応えなかった。

 何故自分の傷をすら癒せないのか、存在をまた疑われているように感じてしまったのだろうか。

 恒は失言だったと唇を噛んだ。


「では、また明日ね」


 ユージーンはいそいそと玄関から出たので、恒は見送りに行こうとしてついて出た。

 別れの挨拶をしようとしたのだが、今の今玄関を出た筈の彼の姿はもうなかった。


「走って帰ったのかな」


 恒は仕方なく諦めて、相変わらず建てつけの悪い玄関の扉をギシギシといわせながら閉めると、母親のいる部屋に戻って来た。

 母親は感極まって天井を見上げている。

 しかし今までのようにどこか諦めきったような表情ではなく、しっかりとした面持ちでだ。

 たとえ治らなくても、恒は久しぶりにしっかりとした表情の母親の姿を見ることができただけで胸がいっぱいだった。


「母さんは信じる? ユージーンさんが神様だって」


 ユージーンの血が彼女の体内を満たしているのか、気持ちほど顔色がよくなってきたように思える。

 またそれを、彼女も実感しているようだ。

 身体の中から、何か熱い力が込み上げてくるのだと言った。


「それはわからない。でも信じられる、そんな気がしたわ」



 翌日、ユージーンはけたたましく社務所の窓ガラスを叩く音で目が覚めた。

 眠たい目をこすりこすり、カーテンを開けるその手首には、大きな被覆材が貼られていた。

 彼は昨日晩、自分で止血と創傷治療の処置をした。

 結局止血はできたものの、すぐには治らない。


 アルミサッシつきの窓ガラスの向こうには、恒と志帆梨の二人の笑顔があった。

 社務所の入り口が開いていなかったので、いつもベッドの置いてある窓の方に回り込んだのだ。

 電話が設置してあるから、かけてから来てみればいいのに、と思えど、そんな事も考え付かなかったか忘れていたのだろう。

 ユージーンはともかくほっとして窓ガラスを開ける。


「おはよう。治りましたか」

「おかげさまで! もう十年以上も床に臥していましたのに、嘘みたいで! 今朝目覚めたら、なんとなく歩けるような気がしたんです。気が付いたら、走ってここまで来ました」

「ありがとうございます! 本当に!」


 バイタル欠損という世にも珍しい状態にあった彼女のバイタルをユージーンの血液が補うことによって、彼女の身体はまたたく間に生命力を取り戻した。


「よかったですね。暫くは無理に動かず、リハビリをした方がいいと思いますよ。筋力も落ちていますし、急に動くとすじを痛めたりしますからね」

「本当にありがとうございます。私はどうお返しをさせていただけばいいのか……治療費をお支払させてください」


 ここぞとばかりに数百万も吹っかけてきても、母子家庭では実際のところ払えない。

 しかし働き詰めてでも、それほどの金額は払ってもよいと思っていた。


「何もいらないですよ」


 ユージーンは朗らかに笑う。


「ですが、貴重な血をいただいて……」

「お金を取るようなものではありません。あなたがこの村を出てゆかなくてよくなり、恒君は学校に来てくれれば、何よりのお返しです」

「は、はいっ! ありがとうございます」


 志帆梨は午後から、退院手続きに行くつもりだという。

 そういえば、と、ユージーンは恒に視線を戻した。

 明日はユージーンの着任の日であると同時に、恒のここ数年ぶりの登校日となるだろう。

 恒自身の不眠と志帆梨の治癒。

 彼が不登校になっていたとみられる二つの要因を取り除いたのだから、これでまだ学校に来ないと言うならそれは説教ものだ。


「で、恒君は明日からちゃんと学校に来るんだろうね」


 ユージーンは恒を学校に来させるために副担任に任命されたようなものだと、玉屋から聞いている。

 肝心の恒が登校しなければユージーンはやり甲斐がない。


「あ……そうでしたね」

「では改めてよろしく」


 志帆梨と恒は顔を見合わせ、晴れ晴れとした顔で微笑んだ。


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