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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第37話 Questions and answers with Sorayama

 空山はヘルメットを地面に置き、両手を軽く挙げて恒に近づいてきた。

 ありとあらゆる切り口から空山にマインドブレイクを行った恒はひとまず空山の真意を察して警戒を緩めた。

 マインドブレイクをマスターして以来心理戦などもうないと思っていたが、心理戦は消耗するので勘弁してほしい。


「さっきのおもちゃ、一緒にさがす? 君の大事なものなんでしょ」

「え? いいんですか?」

「悪いことしたからね。でも洗脳はしないでよ」


 恒は先ほど蹴って見えなくなった方角に走り、田んぼの稲を踏まないように気をつけながら田の中に分け入った。

 アイガモ農法で田の中で飼育されているアイガモ達が恒を興味深そうに取り巻いたところを、しっしっと追いやり泥の中をあさった。

 アイガモ達が泥を掻き回したので、水が濁って水中が見えない。

 恒は目を閉じて、満タンとなっている荻号のアトモスフィアを探ろうとしたが、アイガモが騒がしいからか、恒が焦っているからか彼の気配はぷっつりと途絶えて探知できない。

 そこはかとなく嫌な予感がした。


「あったよー」


 間延びした声にはっと振り返ると、膝をついたのか泥まみれになった空山が、ルービックキューブを持ってハンカチで泥を拭っている。


「あーっ! 捨ててっ! 火傷します!」


 恒は絶叫とともに瞬間移動で空山の前に来て、神具を奪った。


「なにーそれ、瞬間移動?」

「手を見せて!」


 恒は神具をまともに握った空山の手を診る。

 適合しない者が手にしたときに神具の発生させる熱が、空山を傷つけたと思った。

 だが神具が濡れていたからか、火傷の跡は見当たらない。


「やっだー、何? ちょっと君って強引! まだ心の準備がー」


 空山は何かを勘違いしているのかふざけているのか、そんな事をいう。

 恒は不思議だった、神具は誰かれ構わず拒絶反応を示す。

 神が守るべき人間の手だからといっても容赦はない筈だ。

 神々は神具が自らの手に合うよう厳密な調整をして使う。

 全神具適合性という特異体質を持つ者のみが全ての神具に焼かれない。

 人間がそんな体質を持っているのは考えられなかった。空山は汚れたルービックキューブをちらちらと見ている。

 空山は使い方が気になるとみえる。


「汚れちゃったね。そこの用水路のきれいな水で洗おっか?」

「洗う?」


 何気ない言葉が気になった。

 洗っても大丈夫なのだろうか?


 もしかして。

 やらかしてしまったのかと思ったが、いやいやまさかそんな事で壊れまいと、動揺しつつも否定する。

 仮にも神具だ。

 簡単に壊れるようなやわな代物ではない、曲がりなりにも神々のツールだ。

 恒は空山に警戒されないよう気を使いながら起動のコマンドを与えようとしてキューブを捩る。

 神具は石のように固まって頑として動かない。

 真夏の日差しの中、燦燦と降り注ぐ陽光の中。

 恒の顔からざーっと血の気が引いてゆく。


「え? ま、まさか壊れちゃったの……?」


 空山も気まずそうに顔を近づけて恒の手元を覗き込む。

 軽く振ったり、叩いたりしても反応はない。

 頭の中が真っ白になった。神具が壊れた、この場合はどうすればいいのだろう。

 直ちに連絡がとれるのは織図だが、織図は盲目だし他神の神具は修理できないだろう。

 家に帰ってノーボディのメールを待ちたい。

 今もこの瞬間を観察していると思われる彼は、壊れた状況と、神具の修理ができるのかを判断してくれるだろう。

 その場合この女をどうしよう。

 はっきりいって邪魔だが、ここで帰してしまえば今後の足取りが知れなくなってしまう。

 家に一緒に連れて行けばよいのだろうか。

 あれこれと思い悩んでいたときだ。


「電気屋に修理に出す? 何だか悪いことしちゃったね。ちょっと見せて」


 空山は呆然とする恒からひょいと神具を奪い、無理矢理赤い面のブロックをもいで中を覗いた。

 どうせオーバーホールされる運命なのなら、分解すればいいと思っているようだ。


「ちょっと! な、何て事を」


 あーあ間違いない。

 今ので完壁に壊れた。恒はもう、その状態からどうしていいものか分からない。

 しかも空山には悪気がないのだからなお悪い。

 マインドブレイクをしてみても、修理するつもりはあるらしい。

 無能な働き者が一番こまる。

 いや、無理だから! 

 たとえ空山が電気屋でも元工学部出身でも、神々の科学技術の粋を集めて繊細に作られた神具は人間には直せないから!

 そんな突っ込みをする元気も出ない。


「全部あけてみる? パカッと」

「もうやめて下さい! あなたにはおもちゃのようにしか見えなくとも大事なものなんです!」

「その通りだ、それを寄越しな」


 低い声がしたかと思うと、突如太陽が翳り黒い霧が竜巻のように現れて、恒と空山は闇の中に閉じ込められた。

 死神、織図 継嗣が降臨し、視覚郭清フィールド(Optical Dissection Field:ODF)を展開したのだ。

 神、特に陰階神が周囲の目から隠れて顕現し降臨する際に、用のある人間以外の人間にはその姿も言葉も聞こえないようにするため、ODFというフィールドを展開して当事者を巻き込む。


 俗に言う天啓はこのフィールド内で与えられる事が多く、他者には神の姿は見えないし聞こえない。

 いわゆる結界のようなものだ。

 用心深い織図は、皐月や志帆梨以外の人間の前に決して姿を顕そうとはしない。

 そして人間の寿命や記憶を掌握する彼は、あらゆる人間に対して断固とした支配力を持つ。 

 死神の権限を維持するため、多くの伝承でそう記述されているように、不本意ながら織図は人間に対し恐怖の対象とならなければならない。


「だ、誰?」

「世界に二つとない神具を壊しやがったな」


 いつもは夕暮れとともにやってくるのだが、まだまっ昼間のうちに織図は追跡転移でやってきた。

 織図はノーボディから届いたというメールの内容が気になっていた。

 どのような状況で届くのか、そして荻号と連絡はとれるのか恒に直接聞きたかったのだ。

 神階では荻号の失踪を受けて達磨落とし式に陰階の叙階が繰り上がり、織図は9位死神から8位へと昇進した。

 昇進の各種手続後、ようやく手がすいて降下したのがちょうどこの時間だった。

 しかし追跡転移で現れるなりこの状況、仕方なく子供のケンカに親が登場という事態だ。


「これ以上恒を嗅ぎ回すな」

「また新しいのが出た……あなた誰? 言わないとこれ、返さないよ」


 空山は危機感というものを感じないのだろうか。

 恒はまだ子供だが、相手は見た目には身長190cm以上もある黒人の大男だ。

 普通の女性が黒人の大男に脅されたものなら、足が竦んで思考回路が停止する。

 暗闇にも等しい織図のODFの中に閉じ込められても空山は平常心で恐れる様子もなかった。


「死神さ……お前の寿命はあと56年と138日。その時間は俺に握られている。お前とお前に関わる全ての人間だ。俺は意図するだけで瞬時に複数の人間の命を奪う。さあ、下手な真似をせず今すぐそいつを寄越せ、記憶を書き替えてやる」


 織図は少し脅しをかけるためにアーカイブ中から神具、ルイ16世の鎌(XVI Von Louis)を抜く。

 ずぶずぶと溶け出すように深淵から現れた神具の金具部分を空山の細い首に引っ掛け、織図は厳しい顔つきで彼女に迫った。

 普段のちゃらけた織図の姿とは違い、黒衣を纏い視線をフードで隠したその姿は古来描かれる死神そのものだ。

 その言動は威圧感を伴って空山は怯んだかに見える。

 首筋に当てられた冷たい鎌の感触が、ただの脅しではないと主張している。


「やめてください! こちらも脅迫をしてしまったら、この人たちとやっている事が同じです!」


 恒が膠着した空気を破り間に割って入った。

 しかし織図が空山の首に刃物を当てている以上恒も迂闊に手は出せない。

 織図はまだ神具の起動スイッチであるリミッターを外していないが、指先一本で閂を弾けばギロチン状の刃物が一瞬のうちに落ちてきて空山の首を刎ねる。

 織図は守るべき者とその他の区別を明瞭にしていて、敵対する者には容赦ない。

 彼は陰階でほぼ唯一、理由もなしの殺人を許されている神だ。


「神が人間になめられている場合か! 時にはこういう手も使わねばならん!」

「織図さんっ! 口が滑りまくってます!」

「構うもんか! この女の記憶を書き替えるからな」


 空山は織図の気迫におされて、ようやく恒に神具を返却する。

 それを見た織図は首筋に当てていたXVI von Louisをアーカイブに格納して消した。

 恒は空山に危害が及ばないよう庇いつつ、織図の前に立つ。


「織図さん。この村にいる研究員のことは、俺に任してくれるって……」

「神具を失った今、お前にはもうMCFはかけられん。お前はマインドブレイクをかけてこの女が俺達の存在を他言しないと信じたが、それは大きな間違いだ」

「見くびらないでよ。喋らないんだから!」


 空山は向きになって反論する。

 彼女はこの村で生まれ、そして何も知らずに朱音という天使の主となっていたと思われる恒と親交を持ちたいと、今はそう考えていた。

 いち研究者としてではなく人間同士の付き合いとしてだ。

 だがオリトと呼ばれるこの男は、先ほどから”神”がという言葉を連発している。

 彼らは彼等自身を神であると認めたのだ。

 神が”主”と呼ばれ、大勢の天使を養っている……少年の漠然とした説明よりも最もシンプルで納得のいく説明だった。

 空山はシンプルな結果を好む。

 彼等が神でありこのような不思議な能力を持って天使を養っているのだとすればもう疑う余地はない。


 彼女は宗教家でもないので、唯一神が雲の上で人々を創造し見守っているという説明より、神々が人間社会の中に溶け込んでひっそりと人々を守っているという説明がすんなり理解できた。

 研究者は観測を以って世界を理解する。

 DNA二重螺旋モデルを提唱したワトソンとクリックもしかり、どんなに心情的には納得のいかないことでも、一度観測された事に対しては柔軟に対応し認識を改めるものだ。

 空山はすこぶる納得した。


 少年、藤堂 恒は神と人の混血なのだろう。

 神々と親しく交流したいとは思うが、その存在を明かして大騒ぎにするのは中止だ。

 だってそれはひとつとして人類にメリットがない。

 それなのに織図は空山の心情も打算も察することなく、勝手に決め付けてくれる。


 織図は空山の心情を察していないわけではなかった。

 織図はマインドブレイクを行い彼女の思考回路を解析したからだ。

 信じる事さえできれば、神という存在をすんなりと受け入れてくれる性格であろうとも。


「空山 葉子。確かに今は、喋るつもりがないと見える。だが状況が変われば簡単に考えを変えるのが人間の心理だ。井村という上司を裏切ったようにな。人間の誓いほど信用ならんものはないぜ。神の存在を知った者は、この村から一人も逃がさんよ」

「織図さん、あなたが仰ったではないですか。神具を用いないマインドコントロールを人間にかけるのは危険だと、アトモスフィアによる急速な記憶の書き替えで、精神崩壊を起こす者も稀にいると。だから俺に任せてくれると仰ったじゃないですか! この人にマインドコントロールをかけないで下さい!」


 恒が必死に織図に懇願する。

 織図をはじめ、精神力に優れた神々は、神具を用いず生身のままマインドコントロールをかけることができる。

 ユージーンが自殺を図る直前に、G-CAMに頼らずマインドコントロールを恒にかけたようにだ。

 だが、神ならまだしもそれを人間に用いる場合、安全性は100%ではないと織図から教えられていた。

 人間はアトモスフィアという化学物質に曝露された経験がないため、たまにアトモスフィアを受け入れることができない者もいる。

 そんな人間に強制的にマインドコントロールをかけてしまったなら、稀にではあるが精神崩壊を起こしてしまう者もいるのだと。

 だから人間の心を操る職種にあたる神々は、より安全性の高いMCF機能を付加した神具を用いて人間に対して100%の安全性を保障しつつMCFをかける。


 神具を失った恒は、織図の言うよう確かにひとりでは何もできない。

 そのうえ戒厳令が敷かれている以上、織図以外の神がこの村に降下する予定もない。

 ユージーンが降りてきてくれたら、G-CAMに標準装備されている広帯域MCFという機能を用いて、この問題は一発で解決する事ができるのだが。

 恒は彼の復活を受けて、ユージーンの広帯域MCFを何とか発動してもらえないものかを考え始めた。

 例えば風岳村には介入禁止とされているのだから隣村に入ってMCFをまるごと広範囲にやってもらう。

 だがその場合、風岳村に介入禁止という条項は守られているのだろうか?

 また法度破りをさせて実刑判決を受けることになると、申し訳なくてあわせる顔もない。


「じゃあ、誰がやる? ん? 俺以外の全神はこの村に介入禁止だ。助け舟など出てこんぞ。出来もしないくせに偉そうに言うな」

「ユージーンさんにG-CAMを貸していただいて俺がやります!」

「G-CAMが起動する際に、たった60kgの神具が何tになるかわかるか? アトモスフィアも充分になく腕力すらないお前に起動、展開できるか」


 軍神もなめられたものだと織図は嘆くが、そういえば恒はまだ神具を起動し、扱えるレベルには達していないのだ。

 荻号が充電のできる特殊な機能のついた神具に、潤沢なアトモスフィアを満タンにして渡してくれたから神具が扱えるようになっていただけで、恒の実力は同年代の神々にも劣っている。

 口先だけ達者でも、織図はとりあってくれない。


「ちょっと! 身内でケンカはじめないでくれる? ……話をまとめると、あなた達は神様達なのね?」


 激しく口論していると、空山が外野から水をかけた。

 空山は織図の会話を漏らさず聞いていて、軍神というキーワードもしっかりと覚えていた。

 そしてIEIIOが最も多く捕獲し尚且つ戦地や紛争地に多く現れる、車輪型の紋章を持つ天使、それが軍神の所持する天使たちなのだろうとも推測した。

 空山の中で、全てのキーワードが繋がった。

 神々はそれぞれ役割を持っている。

 目の前の死神、軍神、探せば天使の装束に刺繍された紋章に対応する、それ以上もっと多くの種類の神々の職種があるのだろう。

 唯一神が全ての現象を管理するという事は効率的ではないから、神々の社会ではそうやって”~の神”と役を決めて、分業化を図っているに違いない。

 恒は他人事のように会話に割り込んでくるこの女の口を、少しの間塞いでしまいたいと思った。

 織図は調子を崩されて思わずフードを取った。盲目の瞳で、空山を睨みつける。


「ああそうだ。空気を読んで外野はすっこんでろ!」

「ねえ、どうして、人間が神様の味方じゃないって決め付けるわけ? 私達はあなたたちを地球に侵略にきた宇宙人か何かだと思ってたから、調べてただけ。よくわかったから、国際知的生命研究機関(IEIIO)は神様達に協力するよ」


 まるでIEIIOを代表しているかのような口ぶりが気になった。

 空山の身分は研究員でしかないというのに。はったりか?


「協力だと? 一介の研究員に過ぎんお前に何ができる、そこに大人しく立っとれ。お前は後でじっくり料理してやる」

「あれー、そんな口きいてもいいのかなあ。私、IEIIO 日本支部所長 澄田 咲江(すみだ さきえ)の娘なの。両親は離婚してるから私の性は違うけど? ママは何でも私のいう事を聞いてくれる。そしてママは現職の丸谷科学技術省長官と、付き合っているけど?」


 恒は直感的に、これは利用できると感じた。

 この女を利用してIEIIOの動きを封じたり、取り引きができるのでは。

 具体的な案はともかく、うまく立ち回ればかなり利用価値のある人物だ。

 ここでマインドコントロールをかけ記憶を奪い、全てを元通りにしてしまうよりずっと効果的だ。

 世界的な組織であるIEIIOはこれからも神階にとって厄介な相手となるだろう。

 INVISIBLEとの戦いにこそ全力を注がねばならない神々が、煩いごとに頭を悩まされ続けるのは少しも得策ではない。


「織図さん、この状況を、むしろ利用すべきなんじゃないでしょうか?」

「人間ごときに何ができる」


 織図は空山を挑発するが、空山も負けてはいない。


「あなた達こそあまり人間を甘く見ない方がいいわ」


 織図はうんざりしたように、空山を見下ろして腕組みをした。

 この女は本当に空気を読まない女だな、と。

 神が人と手を組むとしたら何が出来るだろう……それほど大きな事は出来そうにないと、織図は思うのだが。



 その頃、社務所で紅茶を飲みながら新聞を読んでいたメファイストフェレスIIは、立ち上げていたユージーンの端末にメールが届く音がして、口につけていたカップから紅茶をこぼしてしまった。彼女は時間と状況が許す限り、ティータイムを忘れない上流階級の貴女だ。

 黒い装束は紅茶のシミを目立たせない。

 ほっとして水滴をビロードのスカートから払うと、よく手入れされた爪のついた指先でノートパソコンを手元に引き寄せる。

 送信者はユージーンだ。

 ようやく神階のことが落ち着いてこちらにも目を向けることができたのかと思うと、彼女は嬉しくて顔を綻ばせ、鳴らしっぱなしにしていたクラシック音楽のボリュームを下げる。


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Sender: eugenemazrow@first.positive-states.ddmin.org

To:   subnote@first.positive-states.ddmin.org

Subject:生物階降下の件

このパソコンを見ているのはメファイストフェレスだと思うが、留守を守ってくれてありがとう。

自殺未遂をしてしまって心配をかけてしまったが回復し、達者にしている。

もう自殺はしないと約束する。しても無駄だとわかったからね。

お前もだが、恒君や村人達は元気にしているだろうか。こちらも色々なあって連絡が遅れてしまったのだが、風岳村には介入禁止の勅令が出ていて風岳村には入れなくなってしまっている。

直接話がしたいのだが、風岳村以外の場所で会わなければならない。生物階降下の許可が出たから、明日の正午、風岳村外の広岡市で適当な店で昼食を取りながら話でもしないか。

恒君を連れてきてくれると助かる。

他の人は連れてこないで欲しい。

どうしても予定の都合が付かなければ、明後日に延期してもいい。

だが、降下の期間は3日しか与えられていないから、それ以降の面会は無理だ。

恒君に連絡を取り面会の日時と場所を指定してくれ。

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 メファイストフェレスはGL-ネットワークでユージーンの復活を知った。

 そして復活と共に、彼が飛躍的な能力の向上を果たしているということも。

 以前のユージーンの実力は彼女の実力より明らかに劣っており、だからこそユージーンはメファイストフェレスを最高位使徒として頼りにしてきた。

 過去の叙階表と照らし合わせて、ユージーンは荻号という神の力を継承したのだなと推測させるようなデータだ。

 それはとりもなおさず三階最強の地位におさまったということでもある。


 もはやユージーンはメファイストフェレスが庇護する存在ではなくなってしまった。

 彼はまだ自分を、使徒だと思ってくれるのだろうか、不安が膨らむ。

 メファイストフェレスは久々に彼と対面できる機会を与えられて嬉しく思うと同時に、父親がアルシエルの人質となっていることをユージーンに相談すべきか否か迷った。

 彼はどうやら慌しいようで、私事を持ち出してよいものか分からない。

 慈悲深い彼の性格でメファイストフェレスの実父が殺されてしまうと聞けば、何とか助け出してくれようとするだろう。

 だが、アルシエルの目的が知れない以上、彼を危険な目に遭わせることになってしまいかねない。

 父の代わりにユージーンが殺されてしまうということも想定内だ。


 だが、以前とは一つだけ状況が変わっている事がある。

 ユージーンは復活と共に、何故とは知れないがとてつもない力を身につけた。

 神皇とも評された荻号と同格の能力を持っているというのなら、三階最強の地位は確実と思われるユージーンが解階の女皇、アルシエル=ジャンセンに殺されてしまうということはありえない。

 メファイストフェレスは社務所の固定電話をとり恒の実家に電話をかけた。


”主とお会いして、主のお力がいかほどのものかを体感してから、お話しするかどうか決めればいいわ”


 ――そう思いながら。


 その後メファイストフェレスはネットで会食場所の検索をしていた。

 ユージーンと面会し、昼食を共にするための雰囲気のよさそうな店と、お得なクーポンを検索していた。

 恒の実家に電話をかけても誰も電話をとらなかった。

 専業主婦の志帆梨だって家にいないことぐらいある。

 恒は友達と遊びに行ったかどうかしたのだろう。

 不登校児であった恒にとっては生まれて初めての夏休みであるが、折角の休みなので昆虫採集のひとつ、出かけていてもおかしくない。

 明日は木曜日、恒に予定はなかったはずだ。

 急に予定ができて、ユージーンと会えないということはないだろうと思い、恒の返事もさておき店を選んでいる。


 メファイストフェレスは雰囲気のよい洒落た洋食屋がいいが、恒の好物は志帆梨の作るような薄味で上品な和食だという事がわかってきた。

 仕方ない、ここは我慢して料亭にするか……。

 それよりも何よりも優先させるべきは、個室席があるかないかだ。

 落ち着いて話が出来、人目の気にならない個室がよい。

 店の雰囲気や座席、料理の評判を気にするあたり、飲み会の幹事とそれほど変わらない。

 メファイストフェレスは携帯レコーダーを持ってゆくつもりだった。

 神階のしがらみに縛られて風岳に入れないユージーンだが、皐月や生徒たちに一言でもメッセージを送ってくれるだろうと思ったからだ。

 何を考えていても、そわそわと落ち着かない。


”あれほどお会いしたいと思っていたのに、何だか主にお会いするのが怖い……”


 ユージーンはまだ彼女を必要としてくれるだろうか?

 そう思いながら料亭に電話をかけた。クーポンを忘れずに。



「なーんーやーのーこれ、ありえへん構造してん。なー長瀬、これ見たってー」

「ホントにー、何なのこのサンプル」


 築地がデータを何度も見直すかたわら、長瀬は今日もド派手な衣装で築地の周りをうろちょろしている。

 皆データが出ず実験に忙しく、誰も相手をしてくれないので築地をからかいに来ているのだ。


「俺の解析が間違ってんやろか」

「えーでもこのスペクトルはそう取るしかなくないー?」


 暫く沈黙が続き、築地はこらあかん、とデータを文字通り投げた。

 すかさず長瀬はスクラップにしたデータの用紙で高性能紙飛行機を折って片っ端から飛ばす。

 神風16号が弧を描いてM1の後輩、香田 一樹(こうだ かずき)の机の上で飼われているコッピーのボトルの横まで飛んで行ってパタリと落ちた。

 後輩が紙飛行機を開くと、アタリ、あわ玉一個と書いてある。

 実験に行き詰まっていた後輩の香田はガタッと席を立ち、長瀬にあわ玉をもらいに来て長瀬の四次元ポシェットからあわ玉を選んでコーラ味を持っていった。

 席について開けてみると更に当たりが出たらしく、すぐに売店に走ってゆく。

 でかい図体をしてかわいらしく、もう一個駄菓子をもらいに行くのだろう。


「あーもーあかん、うちの装置じゃ精度が出えへん。ピークがつぶれとる」


 築地の大きな声が廊下まで聞こえたのか、松林がまた歯ブラシをくわえたまま学生部屋までやってきた。

 築地のパソコンに取り込まれたサンプルのスペクトルデータに目を通すと、実験用流しの水で口をすすぐ。


「だーめーでしょーそこに吐いたら!」


 この助教先生は綺麗好きなのかそうでないのかよくわからない。

 うちの研究室の女性陣はどうも変わっている。


「どうやらそのようね、もっと性能のいい装置が必要だわ。このサンプルに含まれる化合物の殆どが普通はすぐに分解してしまう筈の構造が安定化している。だから見たこともない構造ができている……SPring-8(Super Photon ring-8 GeV/スプリングエイト:大型放射光施設)に行って解析しましょう。君もついて来なさい」

「名古屋グランパスエイト?」


 長瀬がくいついてきた。

 知っているくせに、長瀬は面白くもないボケをかます。

 東京人はこれだから、おもろないねん。

 口に出す前にもっと一つ一つのボケを精査せんかい。

 築地はそうつぶやきかけたが気を取り直してツッコミを入れてしまうのは関西人の悲しいさがだ。


「あほう! どこに名古屋ついとったんや。8だけしか合っとらんやんけ。スプリングエイトって、そない簡単に使わしてもらえるもんですのん?」


 電子の最大加速エネルギーである8GeVに因んでつけられた。

 世界最高性能の放射光を発生させることができる大型放射光施設だ。

 蛍光X線分析装置として利用し超微量元素の同定を行う事ができる。

 サンプルの量が限られていて二度と入手できないとされている以上、精度の悪い装置で無駄にサンプルを費やすわけにはいかなかった。

 こんな有難い装置がひょいと足を伸ばせば行ける距離、兵庫県にある。


 大坂大学蛋白質研究所ではスプリングエイトを用いてタンパク質結晶構造解析などを行っており、生体分子の探索とあらば本来は共同研究を申し入れたいところだが、今回のサンプルからは一つとしてタンパク質が検出されていない。

 蛋白研の出番ではなかった。

 サンプルがどのような分野の成分構成なのかがわかるまでは、錯体研独自での研究となるだろう。


「構わないわ。このサンプルの組成はまるで宝石箱を開けたように……」

「それを言うなら味の宝石箱やー、でしょー」


 またこいつはしょーもないところでボケの無駄弾を撃つ。

 それいつのボケやねん。松林は築地には厳しいのにきちんと結果を出す長瀬に甘く、たしなめようとしない。


「ちょ、お前は黙っとれ! 俺の修了がかかっとんで!」

「とにかく、私たちがこれまで囚われていた見識が万能ではなかったと教えてくれているわ。このサンプルはどうやって作られたのかしら……おそらく地球とは異なる環境で合成されたのでしょうね」


 松林は何の危機感もなくそんなことを言っている。

 そういうのって、年末にたけしがやる番組で聞くような言葉だけど。

 と、築地は顔をしかめる。

 長瀬が思いっきり息を吸って飛び上がる。

 長瀬のオーバーリアクションは、冬場はいいが夏場になると暑苦しい。


「うっそー!」

「無理無理、そんなん無理やて! ありえへんもん。必死こいて同定してもありえん構造しとるんなら、それが正解なんか分からへんやん。せめて地球上の化合物にしてくれへんー? そんな宇宙人が作ったようなけったいなもん、NASAに送り付けとけばええねん」


 どうして大坂大学が引き受けなければならない代物なのかわからない。

 教授がどんなルートで入手したものなのかという事も問いただしたい。

 できればもっと頭のよい学者にお任せしたいところだ。


「あはは、たけしの特番、応募してみる?」


 長瀬がまたしてもきゃははっ、と他人事のように茶々をいれる。

 この子は頭のネジが飛んでいるような言動をするのだが、威風堂々、学年一位の成績を誰にも譲らない。

 自分の実験もほとんど終わっているから暇で暇で茶々を入れにくるのだ。

 学生部屋があまりにうるさいので、向いの教授室にいたウツボカズラ教授がやってきた。


「情けない。君はもう弱音をはいとるのかね」

「教授ー。もう勘弁してくださいよー」

「だから神様の血だと言っただろう、そんなに簡単に組成が解ってしまったら神様だって面目まるつぶれだろうで」


 冗談めかしてそんな事を言っているが、教授も解析を分担している。

 教授は築地の何倍ものスピードでいくつかの化合物を同定していた。

 そのどれもが有り得ない構造をした新規の化合物だとわかっている。


「これ絶対神様じゃなくて宇宙人のですよー」


 愚痴を言う築地とは対照的に、ハブラシを白衣のポケットに挿した松林は真剣に教授に向き直った。

 さりげなく扇風機を教授の方に向けてやる気遣いが、教授のお気に召したようだ。

 冷暖房完備で快適な教授室とは違って学生部屋のクーラーは壊れかけていて、湿気が高い。

 いや、窓際で栽培しているトマトや、長瀬が育て始めた実際のウツボカズラが湿気を放っているのかもしれないが。


「ようやく事の重大さを把握しました。築地君とSPring-8のBL19B2ビームラインで構造の決定と組成の同定をしてきます」

「ほう? SPring-8ねぇ。あれは予約をとっとらんと使用できんが?」

「予約は私の実験のために以前より取っておりました。粉末結晶サンプルにして持って行きます」

「いいのかね? 3日しか解析の時間はないが、君のサンプルを解析する時間はどうするんだね」

「私のは後にします。昔から言うではないですか、宝船には乗っておけと」

「築地君は出る台は打てとも言ってます。高設定のスロット台は破産してでも打てとも!」


 築地はぺらぺらと止まらない長瀬の口を慌てて塞いだ。


「そんな諺は断じてない! まあいい、では二人とも、頼んだぞ。私はこちらでできる解析をする。サンプルを好きなだけ分注し、結晶化するならしてSPring-8に持っていきたまえ、くれぐれも紛失したり盗まれたりしないようにな」


 教授は快くOKを出した。

 教授もついていきたいところだろうが、会議などがあって予定があかないのだ。

 サンプルは1/3を使い切っていた。

 もうこれ以上の無駄は許されない。失敗も許されない。


「ありがとうございます。行ってきます」

「えー行くんですかー」


 築地は面倒なばかりだ。

 チャキチャキの研究者である松林は苦手だというのもある。

 二人きりで過ごすとしたらもって2時間、それ以上一緒に二人でいるのは無理。

 大体彼女は嫌煙家だし……。


「じゃあ私も、ついてっちゃおっかなー」

「あなたも来る? 来てもいいわよ、交通費は科研費から出してあげるから」

「築地君の今カノのつとめですから、ついていきます何処までも!」


 アイスコーヒーを作っていたM2の千葉 満(ちば みつる)、データをスティックのりでノートに貼り付けていた白浜 樹里(しらはま じゅり)、携帯をいじっていた後輩の玉崎 灯(たまさき とも)が一斉に長瀬と築地を振り返った。

 築地は真っ赤になって立ち上がり否定する。


「嘘つけー! お前、俺の今カノどころか、シゲルとできてんだろうが!」

「あは、ばれたぁ。だってシゲ今忙しくって相手してくれないんだもん」


 おいおい、彼氏が相手してくれないので暇つぶしかよ。

 シゲルは築地の友達だが、どうしてもやってくれと言われて渋々やった合コンで、シゲルが長瀬に一目ぼれしてお持ち帰りしたのだ。

 その日のうちにベッドで一夜を明かし成り行きで付き合うことになってしまって、付き合い始めてもう3ヶ月になるのだが、まだラブラブだという。

 シゲルも含め二人とも軽くて築地は嫌になる。

 もうしばらく彼女のいない築地は、パチンコ海物語のマリンちゃんが恋人なのではないかと噂されている。

 何とも情けない有様だ。

 築地は二次元の女の子が好みなのだとばかり思っていた研究室のメンバー達は、築地と長瀬が付き合っているとしたら大ニュースだと注目していたのだ。

 長瀬のおふざけだとわかった三人の野次馬は、また黙々と各々の作業に戻っていった。


「長瀬君、君は今年いくつだ? もうちっとしゃきっとできんのかね」

「はーぁい」


 教授も呆れて、持っていた扇子の腹で長瀬のゆるふわウェーブのかかった頭をぽーんと軽く叩いた。

 長瀬はえへっとやって舌を出していた。

 これが素なんだからなあ、しかも頭がいいという事は実証済みだし、無駄に美人だ。

 天はどうしてこんな女に二物を与えてしまったんだ、と築地はがっくりだ。


「まったく……ホントお前いくつだよ」

「君もだぞ築地君! 金髪頭!」


 ウツボカズラ教授は、築地の頭は容赦なく扇子の角でカツンと殴った。



「ユージーン、少し待て」


 天奥の間から戻ってきたユージーンを、まるで待ち伏せをしていたかのように軍神の執務室の入り口に立っていた比企に呼び止められた。

 秘書室に居た以御が通したようだ。ユージーンはとりあえず執務室の中に招きいれようとしたが、比企は中に入ろうとしない。


「いや、ここでよい」

「何か御用でしょうか」

「お前の意思を先に聞いておこうと思ってな。己はこれから位申戦に臨む。位申戦が行われれば己は間違いなく主神に剋し、主神を襲名するだろう」


 比企の自信は、決して自惚れからくるものではなかった。

 比企は充分な力を備えてきた。

 300年前の未熟であった彼とは違う。

 精神的にも肉体的にも今がピークの時といえよう、機は熟した。

 主神の格を備えた比企を遥かに凌ぐ力を持つユージーンは、冷静に比企の実力を評価した。


「そうですね。あなたの御力は現代の極陽に勝っていらっしゃいます」

「己が主神を襲名したあかつきには、生物階に対し神政復古の大号令を出す……それが汝の意にそぐわねば己は位申戦に故意に敗北し、意図に沿うように図る」


 意図に沿うように故意に敗北をするとは、比企らしくもない言葉だった。

 比企は何者の進言も頑として受け付はしなかった、妥協、譲歩、打診……それらは比企とは生涯無縁と思われるような概念だ。

 比企は主神として即位した際に公約として掲げるであろう神政の復古の是非を、ユージーンに打診している。

 ユージーンは驚いて耳を疑った。


「神政復古とは生物階に対し主神の名を明かし、神による人間の直接統治を図るということですね。あなたが以前から掲げていらっしゃる政策です」

「左様。その意図は己が主神として驕りたかぶる為にではない。汝は風岳村を巻き込んで、住民達を如何にするつもりなのだ。汝は固い決意でINVISIBLEとの戦いに臨もうとしている、神階も全力で支えるだろう。だがINVISIBLEとの戦いに罪なき住民達を避難させもせず、多大な犠牲を出すつもりなのか?」


 ユージーンはマインドブレイクをかけて、比企を看破した。

 何故比企がグラウンド・ゼロへのINVISIBLEの収束を知っているのだろう。

 比企はファティナのへクス・カリキュレーションフィールドを借りて荻号の解析したデータを再構築し、片っ端から消去していたデータの痕跡をハードディスクから復帰させると共に、ユージーンが培養液の中にいた間にG-CAMに逆アクセスを試みていたようだ。

 G-CAMは以前比企が所有していた神具だったようで、その遠隔リンケージ機能の詳細も彼は知り尽くしていた。

 G-CAMとへクス・カリキュレーションフィールドのデータの痕跡から知りえた事実を総合した結果、彼は荻号と同じシュミレーションの結果にたどり着く。

 3年後、最も高い確率で、INVISIBLEの最初の収束が起こる、と。

 かつて荻号の弟子を名乗った比企の推察力と、データの解析力は恐るべきものがある。

 荻号から認識を疑う事を徹底して教え込まれた比企は他の常識的な神々と較べ、非常に柔軟な思考ができる。

 しなやかな頭脳は比企の個性であり、最大の武器だ。

 比企は言葉を続けた。


「創世者の力は底知れぬ。生物階が地獄絵図と化しあるいは灰燼と化す事も考えねばならんだろう。生物階のあらゆる生命の生存権を守るのが、我々陽階神の務めだ。予測不能な事態に臨むとあらば、大災厄から人間や生物を避難させねばならん……破壊は一瞬でも、再生には長き時間を要する。一朝一夕では生命の進化は成り立たんのだ。己は次の世界に、正しく生の営みを受け渡すと荻号に誓った。したがって三年後、聖書にあるNoah's Ark(ノアの方舟)の記述のように、人々や生物を神階に匿い、戦渦から救いたいと考えておる。生物階不可侵の政策を標榜するヴィブレ=スミスには理解されなんだがな……この方針が汝が意に沿うだろうか?」


 比企は深慮をもって生物階のあらゆる生命の庇護を決意していた。

 確かにユージーンは三年後、一か八かの確率にかけている。

 INVISIBLEに勝てる可能性は1%にも満たないかもしれない。

 ノーボディがユージーンを支えるだろうが、ノーボディは神を生み出し続ける事により力の殆どを使い果たしており、実際のところ勝算など立たない。

 ユージーンの無責任な賭けに生物階の生物達を付き合わせるのかと比企は問いただしているように思えた。

 比企は破滅に向かって突き進むユージーンを全力で支援すると言った、だがそれは”ユージーンの勝利を信じている”という意味ではない。


 万が一の可能性に賭けて挑まれるのでは困るのだ。

 比企は賢明でよほど先見の明がある。

 三年後にいきなり比企が主神を名乗り、神政復古を叫んで人々を避難させるのは不可能だ。

 三年という期間を一日でも無駄にはできない、前もって備えなければならなないと彼は考えているのだろう。

 時間は殆ど残されていなかった。

 ユージーンはうまくゆく事しか考えなかったから想像もしなかったが、比企は俯瞰的な視点からそう言っている。


 比企は以前までは荻号がINVISIBLEだと信じていたため、荻号のみを見据え警戒し抹殺を企てていればよかった。

 荻号は神階に居たため荻号がいつ絶対不及者となって神々の大虐殺を行ったとしても、生物階は安全だと思っていたのだ。

 だが荻号がINVISIBLEではなかったと知り、比企の計略は振り出しに戻されてしまった。

 備えるべきは三年後だ。

 グラウンド・ゼロは生物階にあり、INVISIBLEは生物階に収束する。

 まずは守るべきものを守らなければならない。

 比企はやはり生物階の直接統治を果たさねばならないと考えるに至り、一度はどうでもよいと思っていた主神の座に拘らなければならない理由ができてしまった。

 その計略の一部始終を、ユージーンには偽ることなく明かしておこうと思った。

 比企は不思議と、ユージーンを心から信じることができた。

 何故かはわからない。


 ユージーンは瞳を閉じ、心の裡でどこに居るとも知れないノーボディに呼びかけた。

 比企の計略を実行にうつしてよいかと。

 ユージーン個神としては比企の考えに賛同できた、だが”彼”は何を思っているだろう。


 比企は口を閉ざし瞑目したユージーンをじっと観察している。

 全ての事象を把握して聞いているであろう彼が、比企の話をどう考えるか訊いておきたかった。

 声が聞こえればよいのだが……。


”名もなき方よ、今もご覧じておられるでしょうか?”


 そう何度もは呼びかけないうちに、耳鳴りのような僅かな予感がユージーンだけに天啓のように齎される。

 荻号と意識を共有していた彼にのみ齎される予感。

 それは音楽のような幽かな言葉。他の誰にもは聞こえない。

 やはり彼は傍で見守っている。


[汝らの思うように行動することだ。汝らの選択した未来をいかようにも受け止める。吾が意を酌む事が必ずしも三階を救う事とはならん]


 アルティメイト・オブ・ノーボディは、この世界を創出した創世者たちのうち唯一生命を慈しみ育もうとする存在であり、彼の意図には偽りがないとユージーンは確信していた。

 彼は神々の手に未来を委ねている。

 ユージーンは彼の言葉をよく咀嚼し、ユージーン自身の考えを比企に伝えた。


「あなたが主神となりわたしの去った後の世界を幸福に導いてください。神の存在を人に明かす事に賛同します。ただし可能な限り暴力による統治は望ましくありません。神と人は本来対等であるべきです」

(あい)わかった。では己は己が役割を果たすのみだ」


 比企は大きくひとつ、頷いた。

 ほどなく極陽に引導を渡しに行くのだろう。

 恒の父親、主神にだ。

 神の名を明かすことで生物階の混乱は避けられないだろうが、それを賢く統治するだけの手腕が比企にはあった。


「汝は真の意味で救世の主とならねばならんぞ。……勝てよ」

「ええ、負けません」


 確信などなかった。

 勝算などなおさらだ。

 だがユージーンが勝てない、自信が持てないと言ってしまえば三階に希望はない。

 その責任をユージーン自身が痛切に感じている。

 ユージーンは屈託なく微笑んで、執務室の前から比企を見送った。

 比企は安心したように踵を返し力強い足取りで去っていった。


 その短い半生を軍神として生きたユージーンは、必ず勝たなければならない戦いというものに思いを巡らせる機会がなかった。

 より平和な世に導くと思われる軍勢に戦局を傾かせ歴史を影ながら操作をしてきたが、最終的にどちらの軍勢が勝っても人の世が絶えず平和に続けばそれでよかった。


 英雄になりたいなどと願ったこともない。

 真直ぐに前を見ていなければ、立ち竦んで一歩も動けなくなってしまいそうだ。


 ユージーンは創世者として生まれついたのではなく、彼にとって自らが世界に責任を負う立場にあるという自覚と現実は、誇らしい事でも何でもなかった。

 あるのは底知れない孤独感と、不断の恐怖だけ。

 しかも自らが世界を救うより破滅させてしまう可能性の方がはるかに大きいのだ。


 逃げ出せるものなら逃げ出してしまいたい。

 荻号だって死ねるものなら死にたかっただろう。

 退路はいつの間にか完全に断たれていた。


 ユージーンにできるのはただ、その先に何があろうとも現実に立ち向かう事だけだ。

 ユージーンが唇をきつくかみ締めたとき、また穏やかな声が予感となって降り注いできた。


[汝に全てを負わせてしまったの]

″……自分で決めた事ですから。しかし最初からあなたは全てをご存知だったのですね″


 何の変哲もない平凡な一神として生まれ付いたユージーンが、絶対不及者としてINVISIBLEに選ばれるであろうことも。

 何もかも彼は見通していたのだろうか。

 今となってはもう、それを恨んだりはしない……。

 彼と共に永劫を生きなくてはならない、そう望んだのだから。

 暫く時間があいて、呻くようにこう呟いたのが聞こえた。


[其は誤りだ。子の破滅を願って殺さんが為に子を生む親などない……]


 彼の言葉の後にユージーンの心に去来したものは。

 経験したことのない温かな感情だった。


 惜しみなく注がれる親の情愛とはかかるものをいうのだろうか……。

 親のみが子に与える事の出来る一方的で、絶対的な愛情。

 いつも羨望の眼差しで見守っていた、人の子らの交わすそれらにも似ていた。


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