第1節 第36話 Encounter with the unknown
恒は家に戻って冷蔵庫でキンキンに冷えた麦茶に更に氷を追加して飲みながら、夏休みの算数の宿題ドリルを1時間ばかりで最後のページまでちゃっちゃと片付けてしまってインターネットをしていた。
GL-ネットワークに接続し、織図がいないので遠慮なくEnglishボタンを押してニュースを読んだのは何気なくというのではない。
恒は夜間、相変わらず荻号のゲストカードを使ってADAMにログインしていたのだが、昨夜から突然ログイン不能になってしまったのだ。
理由を問い合わせると、カードが失効しているとのアナウンスだ。
それを聞いて、荻号の身に何かがあったのだと思った。
身に……とはいっても彼の命に関わる事などありえないだろうから、社会的身分においてということだ。
彼はここ百年のものだけでも、数え切れないほどの不祥事を起こしてきた。
またいつものご法度破りなのかと、恒はそのぐらいにしか思えない。
とはいえ荻号の神階に一枚しかない陰階参謀特権のついたブラックゲストカードはかなり重宝していた。
機密調査執行嘱託権の付与されたカードは閲覧禁止書棚の閲覧権があったり、機密調査モードという機能がついていて、ログイン中に他の神々から恒の姿を見えないようにすることもできた。
恒はゲストカードをもう一枚持っている事を思い出さなかったわけではない。
一般ログイン用の枢軸ゲストカード、つまりユージーンのものをだ。
だが彼のカードは豊迫巧を蘇生させた違法行為の懲罰として効力が停止しているし、織図に頼もうにも参謀以外の陰階神にはゲストカードの配布が認められていないので、織図にカードをもらうこともできなかった。
口をとがらせながら荻号の携帯電話に電話しても繋がらない。
しばらくADAMのログインはおあずけかと諦める前に、恒はGL-ネットワークのニュースを確認してみようと思った。
荻号ほど有名な神だとその一挙手一投足が常に神階全体から注目されている。
何か違法行為をしたのならニュースに速報として掲載されているだろう。
ニュース欄の下のほうの小さな記事から探していた。
ここ数日、ジーザス=クライストの崩御を悼む記事ばかりで特集やコラムが組まれて一面は殆ど占領されており、通常のニュースはカットされていたからだ。
ところが下のほうのちまちまとした記事に記述が見つからなかった恒はふと上の方を見上げてみると、一面に荻号の写真が出ているではないか。
もっといい写真はなかったのかと思うような、横を向いて大あくびをしている写真がでかでかと貼られている。
遂に重大犯罪をやってしまったのか、と恒は青ざめながら画面にかじりついた。
陰階神第4位闇神 ウィズ=ウォルター、置換名 荻号 要、失踪――。
「はあ?」
恒は誰もいない自宅で一人で素っ頓狂な声を出した。
ちょっと! そんなのってあんまりだろ!
荻号が誰かに殺されたなどという事はありえないから、いなくなってしまうとすれば失踪か誘拐だ。
誘拐という線も無理がありそうだ、誰に捕まっても平気な顔をして帰ってくるような神だ。
こんな時期に失踪だなんて……!
つい数日前まで彼の書斎で神具の扱い方を教えてもらっていたというのに。
恒が刑事なら……いや刑事でなくともこう思うだろう。
失踪したくなるような動機が何一つだってないじゃないか!
第一使徒の二岐が報告したニュースである以上真贋は疑いない、極陰が駄目押しをするように公式発表をして、神階へ帰還する意思はないとの旨を直接聞いたというのだ。
誰でもいいから、このニュースを詳しく解説して欲しかった。
地上にいる恒には天上世界の事情はわからない。
失踪とは口実で彼は極秘裏に神階を追放されでもしたのか?
そうでも考えないとやっていられない。
これから神としての道を歩み始める決心をした恒は、荻号が何らかの導きないしアドバイスをくれるものだと思っていた。
何より彼はユージーンを見捨てて失踪したのだろうか。
いや、さすがにそこまで無責任な事はしないと信じたい。
ユージーンの遺体はまだ荻号でなければ入れない実験室の水槽の培養液の中で眠っている。
回復までは最低でも数週間はかかると聞いていた。
水槽は回復を始めた彼が反射的に暴れてガラスを壊してしまわないよう、頑丈な素材で厳重に密閉されて中から出られないようになっているとも。
恒が助けに行こうにも行けない場所にある。
ユージーンを水槽の中に閉じ込めたままどこへ行った。
「どういうつもりなんだよ……荻号さん。どこに行ったんだ。放浪が趣味みたいな恰好はしてたけど」
恒は暑さにうだった顎を突き出して組んだ両腕の上に乗せ、卓袱台の上に平たくのびた。
織図は荻号失踪の事情を知っているだろうか?
彼は荻号と親友だったそうだから失踪の真相ぐらいは聞かせてもらっているかもしれない。
織図が神階での用事を済ませてひと段落して生物階に戻ってきたら、彼が楽しみにしている志帆梨の手料理に箸を付ける前に、このニュースについて解説をいただこう。
そう思ったところで、パソコンの画面右下に”You Got Mail!"と、なにやらメールの到着を告げるインフォメーションが現れ、恒は慌てた。
この端末は貸してもらっただけで、もともと荻号のものだ。そのアドレスにメールがくるということは他神からの荻号への連絡ではないのだろうか。
そう考えた恒はマウスのカーソルを移動させつつ、荻号宛に届いたメールを盗み読んでもよいものか自問した。
「でも……もう帰ってこないって言ってるなら……」
このアドレスは無効だとメールを宛てた神に返信をしなければならない。
このアドレスに送っても、もう荻号と繋がることはないのだと発信者に送らなければならないからな、と都合よく言い聞かせつつ、クリックしてメールソフトを起動して内容を表示した。
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送信者: no-body
宛先: wizwalter4@first.negative-states.ddmin.org
件名: 藤堂恒へ
内容: 誰が放浪が趣味みたいな格好だ?黙って聞いてりゃ失礼な奴だな。
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恒は内容を見てぎょっとして、パソコンの隅々に眼を配り、テレビ電話のカメラか何かがパソコンに仕込んであるのかとチェックしたが、盗聴されている様子も盗撮されている様子もない。送信者のアドレスすら表示されていない。
新手の迷惑メールのようだ。
だがメールの内容からすると荻号は近くにいるか盗聴するかして、恒の様子をどこかから観察しているということだけは間違いないようだ。
「荻号さん、ですよね? どこにいらっしゃるんですか? 返事をしてください! 出てきてください、俺はこれからどうすればいいんです」
恒はどこへともなく呼びかけたが、返事はない。
返事の代わりにメールがまた届いた。
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送信者: no-body
宛先: wizwalter4@first.negative-states.ddmin.org
件名: さあ、どこだろうね
内容: それ以上荻号なんて名前を連呼するなよ。荻号という者はもういない。
ここにいるのはどこにでもいてどこにもいない者だ。
後ろを見てみろ。何も見えなかったらそれが俺だ。
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恒は後ろを振り返ったが、何も見えない。
それが俺だと言われたって、後ろには畳の部屋に青い扇風機が廻っているだけだ。
恒は念のため扇風機の中心にむかって「あー」と叫んでみてから、どこで盗み聞きしているともしれない荻号を捜して、今度は八畳間をぐるぐると歩き回り、盗聴器を探しにかかった。
そうこうして時間だけが過ぎているうちに、恒をあざ笑うかのように、たしなめるかのように不気味な着信音がして三通目のメールが届いた。
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送信者: no-body
宛先: wizwalter4@first.negative-states.ddmin.org
件名: いつまでも探すな
内容: 盗聴器なんていくら探しても出てこねえよ。
一体何が聞きたい。
お前はユージーンのことを心配しているようだが
奴は回復して陽階にいる。
どうするかは自分で考えろ。
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「ユージーンさん回復されたんですか! よかった! 心配してました。頭なかったから。その前に隠れてないで出てきてください! お聞きしたい事がたくさんあるんです! 荻号さん! どこですか!」
いい加減にどこにいるのか教えてくれてもよいものを、どうしたことか彼は隠れてしまって姿を見せない。
ふざけている場合ではない、訊きたい事は山ほどある。
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送信者: no-body
宛先: wizwalter4@first.negative-states.ddmin.org
件名: 名前をつけて連呼するな
内容: 俺に訊いて解るような事はユージーンが知っているから奴に訊け。
風岳村は戒厳令が布かれユージーンは村に降下することができんがね。
会いたいなら神階には師弟制度があるから利用してはどうだ。
陽階枢軸の叙階表を見直してみるがいい。今のユージーンならば
師となるに相応しい力量を備えている。
無論彼がお前を弟子と認めればの話だ。師弟関係にある者は身分の貴賎に
拘わらず師と面会することができる。
継嗣からは十分学び、神として最低限の能力は備えた。
もう神階に入っても問題なかろう。
同時に、神として陽階に所属するといい。
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「ユージーンさんの弟子に? 俺が?」
戒厳令の中を特殊任務従事者という身分でかいくぐっては降下してきて多忙の中で毎晩熱心に指導をしてくれた、織図という師がいるつもりだった。
恒は荻号の言うとおりに叙階表を見直してみて、彼の言わんとすることがわかった。
ユージーンという名前がついているから不自然なだけで、神体検査の測定値は全てかつての荻号のそれに匹敵し、あるいは上回っていたからだ。
荻号が消えて、ユージーンが神階において荻号の代役を担う不可解。
ユージーンに弟子入りすることを勧めれている不可解。
荻号の意図はわからなかったが、陽階神として神階に入ることには賛成だった。
神階に入り神として経験を積んで、朱音を養えるようになり、風岳村を守る事ができるように力をつけるんだ。
恒はそんな抱負を述べる前に、神として神階に入るということは神階の教育機関である全寮制のアカデミーに入れられるということであり、生物階降下の機会が巡ってくるまで、二度と地上に降りる事ができないのだと織図が話していた事を思い出した。
しかも一度寮に入れられてしまえば100歳となるまで出られないそうだ。
石造りの部屋に監禁され、死にたくなるほど勉強漬けの毎日だという。
100歳というタイムリミットまでにあらゆる事を修めなければならず、100歳を過ぎるともう成長はできず心身ともに頭打ちとなる。
教育が必要だということはわかっていた。
このまま地上でだらだらと過ごせば何一つ身につかない。
神々の社会に入るためには、しかるべき教育を受けなくては相手にされない。
いやダメだ。母をおいて、友達を置いては行けない……。
彼は彼自身を戒めるように首を振った。
アカデミーを卒業する頃には、母やクラスメイト達はこの世にはいない。
そんな自分勝手ができるものか!
恒は一人で生まれ育ってきたわけではない、母に多大なる迷惑をかけ、友人達に支えられてここまでやってきた。
自分の勝手で一方的に彼等との縁を断ち切ってしまってはいけない。
地上で、自分にできることをこつこつと積み重ねてゆくべきだと彼は思った。
恒が思い悩んでいると、タイミングを見計らって送ってきたかのようにまたメールが届く。
まるでリアルタイムで会話をしているようだった。
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送信者: no-body
宛先: wizwalter4@first.negative-states.ddmin.org
件名:
内容: 師弟関係を結べば師である位神が弟子に
義務教育から高等教育までの教育を施す事が許され、
アカデミーには入らなくてよいのだがね。
地上と神階の往復もできる。
それにお前の本籍は風岳村であり、お前は人間でもある。
戒厳令は適用されんさ。
母親に迷惑をかけることもなかろう。せいぜい親孝行しろ。
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荻号ときたら、脱法の天才だ。
しかも恒の母親への配慮もおまけのようにだが、付け足して述べてくれている。
恒は感極まって後ろを振り返り、見えない彼に手を差し出して、今度は見えないなどと文句を言う事もなく握手をする振りをした。
「ありがとうございます、荻……いえ、ノーボディさん」
とりあえず恒は荻号が荻号と呼ばれる事を嫌がっているようなので、おそらくエラーメッセージだと思われる送信者欄のコメントをそのまま呼んでみた。
ノーボディ、誰でもない、身体を持たないもの。
荻号要、失踪とGL-ネットワークのニュースの見出しに出ているので、名前を呼ばれるのは色々と都合が悪いのかもしれないな、と思いそう呼んだ。
ノーボディは恒の配慮に満足したのか、返信のメールはこなかった。
*
暗闇に満たされた無機質な広間の奥。
透明な石材で組まれた階段を登りきったところ。
目の前に聳える一本の硬質の樹木の幹の上。
玉座の上から差し込む強い光に打たれながら、主神であり藤堂恒の父親でもある彼は今日も陰陽階統合の象徴として君臨し、その身に帯びたアトモスフィアのみで神階を支えていた。
天奥の間に参内したユージーンは磨き上げられた床が影を映じて、鏡に映るように床の倒立像と額をつきあわせ、陽階の長に敬意を表す。
極陽は部下であるユージーンを明らかに以前とは異なるまなざしで冷ややかに見下ろしていた。
「改めまして帰還の報告をさせていただきます。風岳村に5年間滞在しつづけるという勅命を果たせず違法行為をしたうえこのような結果となりましたこと、深く謝罪申し上げます。また、身体罰に際し格別のご高配により嘆願を頂戴いたしまして、心より御礼申し上げます。詳細は報告書にて……」
「他に報告すべき事はないのか」
遜りつつも媚びへつらわず、ユージーンは額を床につけていたが、ゆっくりと極陽を仰いだ。
極陽は彼の容貌が以前とはどこか異なっている事に気付いていた。
以前の彼は青臭い少年のようだった。
ユージーンの若さや暑苦しい正義感、真っ直ぐにしか伸びることを知らない檜のように、未熟を絵にかいたような神だった。
ところが目の前にいる彼は熟達した策士のように、巧妙に手のうちを隠して極陽の出方を覗っている。
「荻号様の御意向により、神具 相間転移星相装置(System of Correletive Mobile-Star:SCM-Star) を拝領しました。拠って、G-CAMに加え相転星を所有いたしますことを、お許しください」
「相転星を……荻号が手放したと? お前に起動できるのか? 猫に小判、では所有に価するとは見なされんぞ」
極陽は当然、わずか数時間前に発表された陽階枢軸叙階表の改訂版に目を通していた。
何が起こったのか、ユージーンの潜在能力は既存の装置では測定不能となった。
目にするまでは同一人物であるか疑わしい、そう考えた極陽が天奥の間にユージーンを召喚したのだ。
極陽の疑いの言葉に動じる事もなくユージーンはスーツの内ポケットから、彼のアトモスフィアでよく躾けられた神具を出して掲げ持る。
言わずと知れた形、だが目にする機会は殆どない。
それは荻号の薄墨色の聖衣の中に隠されていて、定位置である彼の胸元にだらしなくぶら下がっていたからだ。
荻号以外の他者が数秒以上手にしている場面を、目撃したこともない。
手にしたものはひどい負傷を被り、それ以上所持し続ければあっさりと命を奪われた。
そんないわくのついた神具を、ユージーンは恐れることもなく手にしている。
極陽は10秒以上ユージーンがそれを所持しているのを確認すると、彼を試すかのように顎をしゃくって起動してみろと促した。
ユージーンは軽く頷き深呼吸をして呼吸を止めた。
外殻を覆う三つのリングを揃えて眠っていた相転星の核の部分を指先でさらっと撫でて起動のためのアトモスフィアを与え、まるで傘を静かに開くようにリングをスライドさせると、宇宙の真理を示す相転星の外郭がギリギリ金切り声を上げている。
相転星の不細工な月と星は否応なく叩き起こされて、鈍色の身体を小刻みに震わせながらぎょろりとユージーンを見上げた。
あっさりと新しい持ち主の手に馴染んでユージーンを傷つけようとしない。
その様子を目の当たりにし極陽は目を見張った。
起動が遅いことで有名な神具であるのに彼のアトモスフィアに触れただけで、相転星は起動準備にかかっている。
ユージーンを主と認めている証拠だ。
彼は静かに数式コマンドを呟き始めた。
「条件 元素分布 g(x)=∫g(x)f(x)dx/∫f(x)dxのとき, 最大確率速度においては∫g(x)f(x)dx4σexp(-mv2/2kbT)dw=(4√π)( m/2kbT)3/2(1/2)⊿[π/(kvT)]……不可逆変化においては、以上の項を規格化する」
相転星の放出エネルギーは起動前の数式詠唱における励起状態、つまり可視光度に依存する。
励起されている光が強ければ強いほど放出エネルギーはより大きくなるという概算だ……相転星の反応中心は眼も焼け付くかのような光を発しはじめている。
少し離れていても肌が焼けるように感じる、産生されているのは身の危険を感じるほどの熱量だ。
それでいくと、以前荻号が起動していた際の可視光度の比ではない!
これでは頑強に作られた神階もひとたまりもない。
ユージーンは恐怖に歪んだ極陽の顔を見据えながら、長き眠りから覚めた暴君のように、躊躇もなく相転星を極陽に向けた。
止めていた息とともに、最後のコマンドを厳かに吐き出す。
「相間転移せ……」
「よせ! もう十分だ」
極陽は怒鳴りつけて起動を阻止した。
ユージーンは極陽を脅すことこそが目的だったようで、僅かに微笑むと固執もなく臨界前に達した相転星を両手で包み込み、エネルギーを彼自身の神体に還元した。
あと1秒でも止めるのが遅ければ神階は吹き飛んでいただろう。
ひとたび起動をすれば陽階のみならず陰階までもがきれいに消え失せる。
極陽は至近距離で相転星起動の臨界前核連鎖反応を見て、陽階の内部に得体の知れない能力を持つユージーンという恐るべき爆弾を抱え込むはめとなってしまったことを怖れた。
彼は今日という日まで極陽にとってINVISIBLEの器という物に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもなかった。
彼は来るべき日がやってきて運命に抗う事もできず、無様にINVISIBLEの拠代とされるために生まれ出でてきたのだと思っていた。
そしてその役割を果たして犠牲となることを切望していた。
INVISIBLEを裡に秘めたまま藤堂 恒というAnti-ABNT Antibodyを利用して、彼には永眠してもらう予定だ。
何の誤算だろう、極陽は最も単純に動かせる筈だった駒が不動の岩山になってしまったように感じた。
……そうはいかないと宣戦布告をしにきた、そうなのか?
ユージーンの表情はうかがい知れない。
憚りもせず陽階の長を見上げていた。
僅かに黄金がかった空色の瞳を、大きく見開きながら――。
*
恒はメファイストフェレスに会いに社務所へ向かって畦道を歩いていた。
昨夜もまた、織図は生物階に降りてこなかった。
しびれを切らした恒は織図に電話をかけ、どこからともなく荻号のメールが届いてユージーンの弟子になるようすすめられたのだと話した。
織図は荻号の失踪について何も聞かされていなかったようだ。
だが、織図は荻号の部屋で駄弁っていたある日″もしも自分がぶらりといなくなってしまっても捜さないで欲しい″という話を聞いた事があり、彼はいつか消えてしまうだろうとは想像していたそうだ。
織図では師となる事はできないから、ユージーンを師と仰ぐかどうかよく考えて決めろという。
ユージーンへの弟子入りの申請手続きは織図が引き受けると言ったが、ユージーンが弟子を取るかどうかはわからないぞとも念押しされた。
というのは師となる為には神階の定めた厳しい条件をクリアせねばならず、弟子の教育のために時間を割かねばならないことで、位神はかなりの負担を強いられるからだ。
弟子の教育期間は何年かかっても構わない、弟子の能力に応じて皆伝までの教育期間が決まる。
師が途中でさじを投げて教育を打ち切る事は許されないのだそうだ。
正規にアカデミーで100歳まで行われる教育を受けた者と同程度以上の能力を獲得させるまで、師匠は弟子を手放せない。
皆伝の条件は神階の公務員のうちでも最難関である第一種公務員試験への一発合格を必須とする。
それもただ合格するのではなく、70以上の偏差値の獲得が最低条件だ。
師弟制度は、正規の教育では十分に可能性を伸ばしきれないと見込まれる優れた神を将来の神階の牽引者として育て上げる為に、アカデミーでの教育の代替として極位クラスの優れた指導者に師事して学ばせる制度である。
後世に名を轟かせる素養のある逸材でなければ、師を引き受けたくないのが位神の本音だ。
荻号はかつて比企の師を引き受けたそうだが、まずアカデミーを卒業することを条件としたそうだ。
比企の実力は突出しており、歴代5位の成績で第一種公務員試験に合格していた。
陰階神第16位の薬神として執務しながら50年ほど荻号に師事し、ある日突然袂を分かった。
荻号がいつ師弟関係を破棄してもいいよう比企のアカデミー卒業を師事の条件とした本当の理由は、弟子の方から破門を申し出る事を予期していたからだそうだ。
荻号と比企の師弟関係を最後に、現在、陰陽階で師弟関係にある神々はない。
それはまた、負担を負ってでもこの神を是非とも自らの手で育て上げたいと思わせるようなダイヤの原石がなくなってきたという意味でもあった。
だからよく考えろと織図は言うのだ。
恒は完全なる神ではないというハンデを負っているため武術の試験に不利で、どんなに努力をしても偏差値70を上回る成績で第一種試験に一発合格する事は難しいだろう、と。
もしもそれが達成できなければ結局アカデミーに強制的に入れれられ義務教育を100年間近くも受ける羽目になるのだ。
最初からアカデミーに入れば100歳で卒業できるものを、なまじ師弟制度を利用したがためにいつまでたっても皆伝させてもらえず、何百年も時間を無駄にしてしまったらどうする、という。
人間でもあり寿命の短い恒の場合は最悪、皆伝を待たずして一生を終えてしまう可能性だってある。
参考までに、と織図には言われたが、たった二百柱しか即位できない第一種公務員試験に一度でパスした神はほとんどいないのだそうだ。
織図は25回も受験したらしいがそれは少しも恥ずかしいことではなく、何回受けても合格できず第二種公務員以下の公務員になる神々が大半だ。
ユージーンはたった一度で合格したそうだが、文字通り血を吐いて倒れるまで修業したそうだ。
一種公務員該当者なしという年もざらで、日本でいえば内閣総理大臣になる以上に難しいんだぞ! と大げさに言う。
そこまで言われると恒は自信がなくなってしまうが、人間としては天才を自負しているものの、神としてとなるとひとなみ以下だ。
恒の周りにいる神々は気さくに接してくれているがいずれも枢軸神ばかり、選びに選び抜かれた神階のリーダー達であるということを忘れていた。
織図は一般的な見解を述べてくれるから助かる、と恒は思う。
荻号やユージーンと接しているとあまりにも彼らが凄すぎてまるで自分が特別な存在であるかのように錯覚をしてしまうからだ。
恒はメファイストフェレスの言葉を思い出していた。
”ユージーンや荻号のようになろうと思ったらほんの1%でも可能性がない”と。
本当に、可能性などないのだろうか。
ユージーンの最高位使徒でもある彼女にも相談してみようと思った。
さて。空山 葉子は前を歩く少年の後ろをひたひたとつけていた。
相棒の井村はどこにいるか空山も知らない。
最初に空山が提案した、ふたり一組で別行動をとり片一方が藤堂 恒との接触をはかって、もう一方が離れた場所から盗聴、盗撮しテープをコピーする、そのファイルをクリックひとつで研究所本部に届くようにスタンバイしておく、この方法を採用することにした。
井村は先日より早瀬たちには父親の急逝と偽って忌引とし、研究グループから離れて行方をくらませた。
空山の背負うリュックの中には、盗聴器とカメラ、そしてGPSが入っている。
問題の少年、藤堂 恒はぶらぶらと緩急をつけて歩きながらまっすぐにあぜ道を進んでいる、後ろからおおっぴらにあとをつけているのだから気づきそうなものだが、彼は考え事をしているらしく気づいていなかった。
空山はこれ以上進めば黒い女のいる社務所に行ってしまう事に気づいたので、コンタクトを図ることにした。
空山は立ち止まり、大声で呼び止めた。
「ちょっと待って!」
思いがけない背後の気配に、恒は身体ごと振り返った。
考えごとをしていて前にすっかり気をとられていた。
恒は無意識にポケットの中のFC2-メタフィジカル・キューブに手を伸ばしてまさぐる。
起動のコマンドを与えようとしたところで見咎められた。
「ダメ! ポケットから手を出して! 両手ともよ」
恒は彼女の言葉が何ら強制力を伴わないため、命令を聞く必要はないと思った。
それより、彼女が誰かわからない事の方がよほど問題だ。
声や体型からは女だと思われるが、遮光のついたヘルメットをすっぽりかぶって顔も目も見えない。
目が見えず頭も隠れている以上、マインドブレイクをかけることはできなかった。
ヘルメットは電磁シールドが張り巡らされて脳内電位が読み取れない。
嫌な予感がした。
このヘルメットは何だろう? 顔を隠しているだけなのか?
それともマインドブレイクができると知っていて対策を打っているのか?
恒は牽制しあっていても仕方がないと思ったので、尋ねてみることにした。
「どなたですか?」
「やっと会えたね、”主”、藤堂 恒君」
恒はその言葉に反応して今度こそポケットの中から神具を取り出そうとした。
だが彼女は右手に持った小さな黒いもの高々と見せ付けている。
それが何なのか、普段の恒ならばマインドブレイクをかけて彼女の記憶を読み解くことなどわけもない。
だがそれが何か、ヘルメットに遮られて今は読み取れない。
「これ、何だと思う? 盗聴器とカメラよ。この会話は盗聴されているの、私の声が途切れたらモニターしている別働隊がとある研究所に、あなたが主であって石沢 朱音という子が天使であるという報告を送るわ。私を殺してもダメ。声が聞こえなくなれば同じように報告が行く……私が無事だったら会話を録音したテープは処分する。さあ、状況がわかったら話をしましょう。物騒なものはそこに捨てて」
恒は一歩も動けなかった。
何だ、一体何が起こっている? 彼女はどこまで知っている?
恒は片手を挙げたまま、見た目にはルービックキューブにしか見えないカラフルな神具を地面にそっと置いた。
またゆっくりと手を上げてハングアップの格好をしてみせる。
「そのおもちゃで、マインドコントロールをかけようとしても無駄よ。私が突然整合性のない事をしゃべり始めたら、やっぱり報告が行くわ。ほら、逃げられないのよ。そのおもちゃを蹴とばして、早く」
神具は後で拾いに行けばいい、今は言う事を聞いておこう……そう思った。
何故、マインドコントロールがかけられるとバレているのだろう。
電磁シールド付きのヘルメットはマインドブレイク対策ではなくマインドコントロール対策だとわかった。
街なかで皐月とMCFについて雑談をしていたのを、盗聴されていたに違いない。
それにしても決してマインドコントロールフィールドと正式名称を言った覚えはないのに、MCFという言葉だけでそれを連想するとは、当てずっぽうにしては恐れ入る。
恒はひとまず要求を聞いて、素性の全く知れない不気味なこの女の出方を窺ってみることにした。
女が本部へ報告しろとの合図を送るためのボタンのようなものを見せびらかしているので、恒は仕方なくFC2-メタフィジカル・キューブを蹴って遠くの田んぼの中に捨てた。
荻号からもらった大切な神具を蹴飛ばすとは罰当たりもいいところだ。
荻号はもちろんこの光景を見ていて、何を思っているかは知れない。
後でまたno-bodyからのメールが届いて、もっと大切に扱えとこっぴどく怒られることだろう。後手後手でうざいメールを送ってくるぐらいなら、今この状況を何とかしてもらいたい、と思うが生憎彼は助け舟を出してはくれないようだ。
恒の行動を封じたのは別働隊の存在と、朱音という人質だ。
恒の頭の中は熱に浮かされたようになった。
彼女はルービックキューブが田んぼの中に転がって泥の中に沈んでいったのを確認すると、ようやく語調を和らげた。
大の大人が子供相手に脅迫という、傍目にはかなりみっともない事をしているというのは彼女も心得ていた。
「突然ごめんね。手荒なまねはしないと約束するから協力してちょうだいね。取引をしましょう。君たちがどういう存在で、何を目的として人間社会に溶け込んでいるのかを話すの。そうすればこちらも君達の事は本部に報告しない、朱音という子の事もこれ以上嗅ぎまわらない。そう、約束するから。人として約束するわ」
「何か誤解されているようですが、俺も人間です」
10年間も人として生きてきた恒は、まるで宇宙人扱いされているように感じて心外だった。
何故この女に人間代表のような事を言われなくてはならない。
「本当に人間なの?」
「そうです。そう見えませんか? 風岳小学校の小学生ですよ?」
恒は落ち着き払って答えた。
ここで変な事を言ってしまっては台無しだ。
恒は神でもあるが人間でもある、ややこしい身の上だが人間であることに間違いない。
志帆梨が母親だという事実にも間違いない。
藤堂恒という名前まで突き止めているのだから、母親の素性ぐらい調べてきただろう。
母親は真人間だ、恒の血液型も母親の血を受け継いでA型であり、それがとりもなおさず人間であるという証拠となっている。
「嘘つき。ネタは挙がってるの、しらばくれないで」
女は恒をなじるように甘ったるい声を出した。
もう数分話していればこの女のペースに持っていかれてしまいそうだ。
こちらの方がマインドコントロールをかけられてしまいかねない。
どうしよう。
瞬間移動を使えばこの場から逃げ出すことはできる。
だが――逃げ出してしまえば、自分が完全なる人間ではないと認めたこととなる。
そうなれば何もかも、一巻の終わりだ。
女は恒の動揺に付け込んで、更に畳み掛けるだろうと、恒は推測をめぐらせる。
「人間社会で何をしようとしているの? ほら、お姉さんに白状してごらん」
「何も……」
「何もしゃべるつもりがないの? なら残念だけど報告するしかないよね」
「……」
恒は言葉に詰まる。
下手なことを喋るぐらいなら何も答えない方がいいが、それが逆に自分を追い詰める。
何でもいいから、お茶を濁さなくては……。
女はじれったそうに、もう、と呟いた。
「ほら、どうなの。……じゃあ、質問を変えましょうか。主って、何? 天使をどうやって養っているの? 何故この村で、暮らしているの? どれでもいいから、答えて」
空山は質問を並べ立て、答えられそうなものから聞き出す作戦に出た。
今のところ空山のペースで話は進んでいる。
少年の恐るべき能力は封じたままだ。少年は苦しそうに、呻くように少しずつ語り始めた。
「俺、この村で生まれたんです。この村で生まれ育ちました……何をしようとしているのかと聞かれても困ります。ここで生まれた事に、そして俺が少し他の人とは違っていた事に何の理由があると思いますか? 俺の存在がたまたま朱音を生かしていた、理由なんてわかりません。植物が陽光を受けて生きるように、朱音は俺の傍でしか生きられない。あるのはただ事実のみです。朱音だって普通の人間だと思って暮らしています。それは罪なんですか? 俺達はただ穏やかに暮らしたい、それだけが願いです。あなた方が朱音を研究対象として調べあげたりしなければ、俺だってあなた方に何も危害を加えるつもりはありません」
「……一理あるね。じゃあ、君と朱音という子はただこの村に暮らしているだけなの? ただ生きているだけ?」
「ではあなたは、どうして人として生まれてきたんですか? 何のために」
空山は答えられなかった。
藤堂 恒は自分が人間以外の者である事を知っている、だがそう生まれついてしまった以上、自分にもどうすることもできない。
生きることに罪はない筈だ。
人間ではない彼にも生きる権利はある。
そしてそれを咎めることはできない。
「……君は賢い子ね。君の先生、吉川 皐月先生は君が人間ではないという事を知っていて、それでも教師と生徒として共存しているのね。お互いに、信頼しあっているからかしら。マインドコントロールをかけられることもなく。……だったら……」
空山はくぐもった声でそういってから、ヘルメットを脱いだ。
印象的ではっきりとした顔立ちに、真夏だというのに白い肌が現われた。
恒は素顔を記憶し即座にマインドブレイクの体勢に入った。
彼女はわざわざ顔を出したのだ、まるで読んでくれといわんばかりに――。
「私も君とそういう関係になれない? 友達に、なってくれない? もう君の事を研究したいなんて言わない、ただ、理解したい。読めるものなら心を読んでもかまわないわ、嘘じゃないから。でもお願い、洗脳だけはしないで」
函館のホテルでその様子をモニターしていた井村は、唖然として肩をこわばらせた。
通信はそれを最後に、途絶えてしまった。
空山が自らの意志で盗聴器をの電源を落としたのだ、何という勝手な事を……これでは計画が台無しだ。
函館までの飛行機代と宿泊費をどうしてくれる。
それともこれが、マインドコントロールというものなのか……会話に破綻はみられなかった。
じわじわと人の心の隙に付け入り、心を支配する。
恐るべき相手だ、井村は一人、震え上がった。
*
「これ、どう?」
「それも似合うけどどうしたの? そんなに張り切っちゃって」
朱音は母親と共に街に出て、昼食を軽く食べ、セール中の水着を選んでいるところだった。
朱音の生活はこの週末に行く海水浴を中心に回っているようだった。
ここにきて突然水着が欲しいと言い出した。
スクール水着しか持っていなかったので、友達がかわいい水着を着ていたらスクール水着で泳ぐのは恥ずかしいという理由でだ。
そんなこと、去年は言わなかったのにどうしたというのだろう。
11歳というともう思春期なのかしら。
好きな子でもできたのではないわよね。
水着だって高いのに、すっかり女の子になっちゃって困ったものだわ、と母親は困惑しつつ一生懸命安い水着を勧めていた。
朱音の背中に出来た骨は上島が打つ謎の注射の効果も疑わしいなか、少しずつ成長をはじめていた。
背中に手を伸ばすとはっきりと硬い一対の骨が手にあたるようになっていた。
海水浴もいいが母親は心配だった。
いつか羽根が生えて、飛んでいってしまったりしないでしょうね、と――。
「もしかして好きな子、できたの?」
「そうよー、私にだって好きな人ぐらい、いるんだから。真っ白な砂浜でね、もし二人きりになれたら」
「告白するの? 誰に?」
「それは、秘密」
朱音は白い砂浜によく似合う、薄水色の水着を選んで手に取った。
母親は名前も知らない、愛しい娘の初恋の相手とは、どんな子供だろう?
日曜日は快晴の晴れマーク、うまくいけば告白日和となるだろう。




