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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第35話 About the Lord

 何度説明されても、以御には納得がいかなかった。


 いかに最新のデータを示されても同一人物だと認めることができない。

 以御はピカピカに磨き上げた軍神下執務室の机を譲らないまま、何度も目の前の男から提示されたデータを見直している。

 揚げ足とりは以御の得意分野だが、口をついて出てくるのは唸り声ばかり。

 目の前の男。いや神だが、ユージーン=マズローが紛れもなくそのひとであるという自己同一性は99%、アトモスフィアの組成の変化を除いては疑う余地もない。


 アトモスフィアの質がどうだの数値がどうだの、細かい事はこの際どうでもいい。

 強すぎるのだ――。

 ただ以御の眼前に立っているだけでも、かつて荻号がそうだったように、強者と力劣る者が接近した際に起こるスパークのような現象。

 いわゆる″気圧の差″が発生する。

 かといって彼が荻号なのかというと明確に違う。

 彼は一体誰だというのか。

 以御は書類の向こうに、疲れた顔で立たされている神をちらりと見遣り首を振って結論付けた。


「俺にはあんたがユージーンのようには見えない。俺は俺の主たる軍神からいかなる者もこの椅子に座らせてはならないと言われている」

「職務に忠実なのは結構だが、そろそろ理解してくれないか」


 以御はもう、何が何だかわからなくなっていた。

 ジーザスの葬儀にユージーンの聖衣を借りていった荻号は、とっくに終わっている筈の葬儀からまだ戻ってきていない。

 その代わりに現れたのがこの男、いや、この神だ。

 順番が狂っている。

 物事を筋道立てて考えるなら、目の前の男はどう考えてもユージーンに成りすました荻号だ。

 だがそれならば、面倒な神体検査を半日がかりで受けてまで自己同一性を証明しようとしている意味がわからない。

 ひょっとすると荻号はこれからユージーンとして生きてゆくことにしたのだろうか?

 この男が荻号だというなら非常に納得がいくのに、違うと言っているから困る。


「あんたがどうしてもご自分をユージーンだと思うなら、これができる筈だ」


 以御はデスクの上に小さな錠前を置いた。

 10cmほどの長さで細身の筒状、鈍い銅色をした金属製のものだ。

 爪先でやっと廻せるだけの小さなダイヤルが36桁もついている。


「これを開けるには36桁の番号が必要だ。12桁を俺が決めた番号、残りの12桁をあんたが決めた番号、残りの12桁は軍神の肩にある御璽の下に彫り込まれている識別番号の数字だ。36桁の番号が一致した場合にのみロックの開く錠前だ。覚えていたか? この錠前の中には鍵が入っていて、その鍵で墓場まで持ってく機密書類のある金庫が開く。俺と軍神は互いの番号を知らない、俺にマインドブレイクをかけて軍神側の番号を知ろうとしても意味がないのさ。さあ、入力してみな? 本物なら難無くできることだろう」

「迂遠なことだが、なるほどお前は正しい」


 ユージーンは以御の忠実さと疑り深さに脱帽しながらも、以御が先に入力した番号に引き続き自らの番号を入力し、錠前はあっさりと開いてしまって筒の中からぽろりと銀色の鍵が出てきた。

 以御は反射的にその鍵を筒の中に押し込め、また適当にダイヤルを廻して封をした。


「あんた、本物だったのか!」

「だから、そう言っただろう」


 以御は首を傾げながらもようやく、デスクの椅子を譲った。

 入れ替わるようにユージーンが椅子に座り、以御がデスクの前に立たされる。

 ユージーンは自分の居場所に戻ってきてほっとしてたのか軽く肘をついて手を組んで顎をその上に乗せた。

 以御はまだ納得がいかないらしく、つっかかってくる。


「何があったんだ。荻号さんは回復までにはまだ3週間はかかると……それどころかそのアトモスフィア。てんで別神じゃねーか」

「色々あってね。急いで出てきたんだ」

「渦中の荻号さんはどこに消えた」

「それは、わからない」


 歯切れの悪い返答だ、ユージーンはこのように歯に衣着せた物言いをする神ではなかった。

 彼は気持ちがいいほど明朗快活で、彼の第一使徒を信頼していた。

 隠し事など一切なかったというのに……。

 彼がこうまでして隠さなければならない真実、いや約束なのか? 間違いなく彼は真相に近づいていた、以御はそう思った。


「知ってるんなら、言えよ」

「言えない」


 しばし睨みあう。


「では後で吐かせる。わかってるのか? 俺でさえこんなに疑ったんだ。他の神々にどう説明する。極楊と比企さんの頂上決戦が終わったら、陽階枢軸・準中枢定例議会が始まる。追及は避けられんぞ」

「釈明などしない。自分でもどうしてこうなったのかわからないし、特に疚しい事もないのでね」


 ユージーンは神階の現状の確認をするため、以御に貸していた端末を起動する。

 そういえばもう一台の端末は風岳村の社務所に置きっぱなしだ。アトモスフィアでの認証はアトモスフィアの構成がすっかり変わってしまってユージーンのものとは認識されずエラーが出たので直接コードを打ち込むと、オンライン接続が開始された。

 GL-ネットワークは1時間単位での神階の動向を報じている。

 メンバーズログインをすれば更に詳細なニュースをチェックできる。

 最新のニュースは常に把握しておかなければならない。

 ヘッドラインには荻号の失踪が大きく報じられていた。

 失踪を報告したのは二岐、対外発表をしたのは極陰だ。


「失踪……か。極陰が最後に荻号殿自身から、彼が神階を去る意を聞いたそうだ。ところで公務に復帰させてくれ、以御。指揮権の返還を」


 以御は肌身離さず持っていた軍神の正当性と指揮権の所在を示すもの、つまり身分証明のための神器を返却した。

 軍神の証、展戦輪の刻印された公式の印鑑である御璽と宝玉、そして権威の象徴である軍神の杓杖である。

 これを第一使徒と位神の間で受け渡しすることによって指揮権の所在を明らかにするものであった。


 あれだけ死を覚悟しておきながら生き恥を晒しなんとも情けない話だが、死に切れなかったユージーンに遺された道は軍神として復職するほかになかった。

 一方、以御の方はユージーンが出戻ってくる事は知っていたということになるが、まさかこのような形でとは夢にも思わなかった。



「不自由な思いをさせておるの」


 メファイストフェレス=セルマーは、突然入室してきた女皇に驚き鏡に額をぶつける。

 彼は鏡の前で、豊かにたくわえた顎髭の手入れをしていたところだった。

 アルシエルは供もつけず、応接間のようなこの部屋のビロードのソファーにずかずかとやってきて、でんと座ってふんぞり返り、赤いピンヒールを履いた足を大胆に投げ出している。

 セルマーは普段は御簾により隠されてきたアルシエルの素顔を見てはならないと思い、条件反射的に平伏しようとした。


「これは、陛下」

「苦しうない。そこに掛けよ」

「ご尊顔を……光栄の至りにございます」


 セルマーの娘、メファイストフェレス=メリーがアルシエルの勅命を受けてより数日。

 父セルマーはアルシエルの皇居にて、実に手厚い待遇でもてなされていた。

 退屈をしないよう最新の学術雑誌が毎日運び込まれてくるし、パソコンもネットも使い放題、一流のシェフによる豪華な食事も胃がもたれるほど運ばれてくる。

 ストレスが溜まらない様、スパなども堪能できるときた。

 何不自由のない生活を保障されているのだが、セルマーはとても楽しむ余裕などない。

 娘は勅命によりユージーン=マズローなる軍神をアルシエルのもとに連れてくる約束だ。

 セルマーは人間にこそ興味は持てど、神になどとんと興味もなかった。


 だがかの神を連れてこなければ自らの命がないとなると、自ずと興味も湧いてくる。

 セルマーは娘が第0位の使徒を務めているというユージーンという神について、情報収集にあけくれた。

 GL-ネットワーク(Gods-Linkage Network)の存在は知っていたので、メンバーズログインはできないまでも、表向きの神階の情報は集めることができた。

 ヘッドラインには先代極陽、ジーザス=クライストの崩御が大きく報じられており、セルマーは感慨深く思った。


 生物階に浸透しつくした世界三大宗教がひとつ、キリスト教創始者の死をもって一つの時代が終わりを告げ、新たなる時代の到来を感じたからだ。

 ある意味で神階の代名詞でもあったジーザスに哀悼の意を表しつつ、陽階7位 軍神 ユージーン=マズローのデータを漁った。

 彼の主な業績は太平洋戦争、第二次世界大戦の戦局操作だそうだ。

 あれほど多大なる犠牲者を出しておいて何が業績なものか。


 あの戦争をこそ起こすべきではなかったとセルマーは考えているのに、神々はいつの時代も勝手なものだ。

 その結果ユージーンは若くして出世したようだが、それ以外に特にいわくのついた神のようには見えない。

 写真を見てもそれほど興味深い容貌はしていない。

 至って普通。

 何か特徴を挙げろと言われると困ってしまうほど、神としては平凡。

 セルマーはとうとうアルシエルの気を引くものを、彼の中に見出すことができなかった。

 それが自らの生死を決するというのに!


「気もそぞろだな……さすがの汝も、死は怖いのか」


 アルシエルはびくびくと怯えるセルマーに声をかける。


「お恥ずかしながら、陛下」


 セルマーは正直に現在の心境を奏上した。

 アルシエルは死を怖れると言っている割には卑屈になることもなく、物怖じをしないセルマーの紳士然とした振る舞いがいたく気に召したようだ。


「安心しろ、娘が任を果たせずとも汝の命など取らぬよ」

「え? は? で、では何故?」

「そうでも言わねば、神が万障を繰り合わせて解階に出向こうとは思うまい。娘がユージーンという神に事情をよくよく打ち明け、父親が人質となっている旨を伝えれば、博愛、慈悲、正義を是とする神ならば断れまい。それが余の狙いだ」


 アルシエルはメファイストフェレス=メリーに危機感を持たせる事により、確実にユージーンを連れてこさせようという寸法だ。

 解階の住民が神階の門を通って神階に入ったことがないように、神が解階の門を通って解階を訪れたという前例はない。

 しかもアルシエルと面会を余儀なくされるとあらば、進んで来たいとは思えないだろう。

 そんな状況の中、否が応でもアルシエルに会いに来てもらうためには不本意ながらに脅迫をするしかなかった。

 ネタばらしをすると、そういうことなのだそうだ。

 娘には気の毒なことだが、セルマーはほっと胸をなでおろす。


「さすがは、陛下。恐れ入りました。差し出がましいとは承知いたしておりますが、かの神をいかになさるおつもりか、いま一度お聞かせいただけないものでしょうか」

「……助けを乞いたいのだよ」

 

 アルシエルは遠くを見遣りため息混じりにひとつ、呟いた。

 窓の外は夜闇に、絢爛豪華なシャンデリアの影が映じている。

 中庭の噴水の水音がさらさらと聞こえてくる。

 アルシエルが生涯口にしそうにない言葉、助けが欲しいという一言は、セルマーの耳を疑わせるに十分だった。

 冷たい静寂が暖かな部屋の中を満たしてゆく。


 彼女に助けが必要? セルマーは声を裏がえらせながら鸚鵡返しに尋ねる。


「は。助け、でございますか?」


 ほどなく控えめなノックが聞こえ、執事がティーセットを持って入室してきた。

 アルシエルは運ばれてきたブルーハーブティーをセルマーにすすめ、上品な所作でカップに口をつけながら、マッチ棒が上に載るのではないかと思われるほど長い睫毛をしばたかせた。


 色白の顔の輪郭はふっくらとして、あどけなさすら残る面立ち。

 解階の至高者であり最強の名を欲しいままにしてきた彼女は、間近で拝見すると華奢な骨格であることに気付く。

 アルシエルの深慮がセルマーには理解できない。

 何が悲しくてまだ年端も行かない若き軍神ユージーンに助けを求めるのか、セルマーには想像もつかない。

 アルシエルはセルマーと彼の娘を巻き込んだ事に責任を感じているようで、重い口を開く。


「遅々としたものではあるが、確実に喰われておる……解階がだ。余の力では如何ともし難い」

「喰われている!? な、何にですか?」


 セルマーは思わず身を乗り出し、アルシエルに直に視線をぶつけて凝視していた。

 ぷい、と彼女は視線をそらす。どうやら簡単に、手玉に取られている。


「それが解らぬのだ」


 まるで満月が欠けてゆくように、偉大なる力によって解階は徐々に侵食されつつある。

 アルシエルがそれに気付いたのはつい最近だ。

 解階最強の女皇と謳い、暴力の何たるかを知る彼女は、解階を侵すその力が何ら暴力的なものではなくより本質的なもの、すなわち″世界の成り立ち″に関するものだと気付いていた。


「して、何故かの神に白羽の矢を?」

「太古、解階では政は占術により執り行われておる。代々の解階の皇たちは力に秀でた者であるとともに、優れた占術者としての資質も併せ持っておった。余も例にもれず占術をおさめておる。余は50年前に星の運行を読み解き凶徴を見出だしてより、星々が消滅しておると気付いた。はじめは気にならぬ程度であったのだが、つい最近、状況が一変し急速に数十もの恒星が消滅をはじめたのだ。……静かに、しかし着実に解階は失われつつある」


 彼女の口調には実感がこもっていた。満月が欠けるように侵食されているのか? 

 あるいは解階という風船のような空間の袋状構成が収縮に転じているのか。

 アルシエルの含蓄だと前者だと言いたそうだ。

 三階は基空間という巨大な虚無の空間の中に独立に構成された空間郡だ。

 その最下層にあたる解階が侵食されるなら、すなわち基空間が穿孔したか、基空間もろとも何らかのトラブルに飲み込まれているということだ。

 そうなった場合、事態は解階の消滅のみにとどまらない。

 三階は例えるなら一艘の船のようなもの、どこかに綻びがあったり穴が開いたり喰われれば、水が入って船が沈むように三階も同じ運命を辿る。

 神と解階の民との長年にわたる確執などに囚われていてはならない。

 軍神ユージーンなる神がその逼迫した状況を理解できる賢明な神であることを祈るばかりだが――。


 メリーには半年以内につれて来いと申しつけたが、悠長にしていられる時間など実はなかった。

 ある程度の時間を彼女に与えたのは、勅令の完遂を不可能と感じて、諦めたり投げ出してしまわれないようにとの配慮だ。

 時間に余裕がないからこそ敢えて、時間を与える。

 このあたりのアルシエルの戦略については、セルマーも脱帽だ。


「で、では何れ母星も……とお考えですか?」

「憂慮しておる。余は空前の脅威から解階を救いうる救い主を捜し……かの神を見出だした。かの神の背には、類い稀なる徴があるそうだが」


 アルシエル得意の占術でユージーンを見出だした。

 学者であり物事を理論立ててしか考える事のできないセルマーはオカルト的な発想が気に入らなかったが、アルシエルが打つ手無しと匙を投げて諦めてしまったらもう手だてがない。

 アルシエルすらも無力であるというのに、彼女より力劣る存在である神に助けを求めるのも見当外れのように思えてくる。


 そんなセルマーの考えを見越していたかのように、彼女は自嘲気味にのたまった。


「神ごときに借りを作るなど、我慢ならぬと?」

「滅相もございません。かかる危急の大事とあらば手段を選ばず迎え撃つが道理。陛下のご判断は正しうございましょう。して、かの神は″世界の根幹″を揺るがす力を持っているのですか」

「卜占の結果ではな。最初は神皇とも評される荻号とやらを考えておったのだが……かの者は近日、消息を絶つとの結果だった」

「は、そのようなニュースはまだ流れていないようですが」


 神階の状況がいまいち把握できていないセルマーは彼女の言葉の真偽を確かめることもできなかったが、なかなかどうして。

 たかが卜占、されど卜占。

 彼女がそう言ったときまさに、神階では荻号が消滅した時間だった。



 織図はジーザスの葬儀より戻り、EVEへのダイヴを行っていた。

 ファティナの演算空間のようにEVEも仮想空間に構築されているものであるから、その中を窺い知るには肉体を脱ぎ捨て、記憶のみを演算空間の中に転送して監視を行う。

 死者の記憶と穏やかに交わることは彼の日課だ。

 今日もまた無数の死者たちが仮想空間に籍を与えられてやってくる。


 死の化身である彼にとって死は身近なものだったが、死に慣れてしまったことは一度もない。

 人間は驚くほど脆く簡単に死んでしまう。

 彼等は儚く短い生を様々な色に彩って、花火のように散るのだ。

 天寿を全うし、神々でいうところの成神にあたる100歳まで生きながらえる者、生を受けた瞬間に死を与えられた幼き命もある。

 大抵の人間は、神々でいうところの子供のまま生涯を終える……。

 彼は不当に奪われた命や不条理な死も盲目の瞳で数多く見てきた。

 死神が冥皇として管理運営を行うEVEは、そうして心ならずも不条理な死を遂げてしまった″正しく生きた者″に報いるため設立された。

 死者の記憶は彼らの夢みたオリンポスを、アスガルドを、極楽浄土を、千年王国を、彼岸を見出だしたことだろう。


 織図の管理する死者の記憶は増える一方で、″死者の書″と呼ばれる死者の戸籍管理のためのスーパーコンピューターのメモリを、織図は着々と増設している。

 現在、世界平均での死亡率は人口1000人あたりに対して8~9人の割合。

 有史以来最も低い値となっており、織図は一時期の忙しさからは解放されていた。

 その要因としては医療の進歩による平均寿命の伸長や伝染病などの消滅、軍神による戦局操作の結果大規模な戦争が起こっていない事も一因となっているようだ。


 とはいえ、人は人である限り確実に死を迎え、織図の仕事がなくなる事はない。

 しばらく溜まった死者の記憶をEVEの内部に転送し終えた織図は遥か高みから眼下に広がるEVE内部の光景を見下す。


 彼等にとっての天国は、地上で彼等が夢見た天国の姿に近いように設計している。

 雲の上に住んでいるかのような澄み渡り光に満ちた風景。

 あるいは霞がかる広大な花畑の上に、死者たちの終の住家が思い思いに建設されている。

 家の周りで趣味の農業に精を出しているものもいる、湖のほとりで水浴をしている者も、軒先にテラスを作ってのんびり読書をしている者もあった。

 代々の先祖とともに一族郎党がこぞって、一つの集落を成しているものもある。

 好きなように暮らせばよい、ここには彼らを縛るものなど、何もないのだから。

 環境は春夏秋冬、世界中のありとあらゆる場所を用意されて、死者たちは好きな土地を選んで住まう事ができたし、ここをこうしてほしい、あれがほしいなどの要望があれば1kmおきに設置されている「要望ポスト」に投函すれば内容を読んだ織図がそれを可能な限りひとつひとつ叶えていた。


 織図や彼の使徒たちの善処により居住に関しての不平不満はなく、飢えも貧困もなく、死者たちは誰にも脅かされず平等な平安と自由が与えられている。

 富を求める者、金にがめつい者もそれが無意味であるとすぐに気付く。

 EVEには貨幣もないし、必要な物はよほど贅沢品ではない限り要望ポストに手紙を入れれば手に入るからだ。

 神には死後の世界が用意されていないぶん、織図は人間達には快適な死後の世界を用意してやりたかった。

 よしよし、今日も楽しそうに暮らしてやがるな、と織図は満足げに彼等を上空から見下ろすと、織図のEVEへの降臨に気付いた数名の死者たちが下から手を振っている。

 彼等の姿は可視化されて、ほとんどの場合は彼等の生きた好みの世代の姿をとる事が許される。


 二十代前半が人気だ。

 下で手を振っている一団は皆20歳代の若者達だが、その内訳は、子供、父母、祖父母、曾祖父母となっており、ややこしい関係になっている。


 EVEには宗教も健在している。

 唯一神とされる各宗教の祭神は実在した位神たちであり、全ての宗教は正しかったのだとわかった彼等の間で宗教的ないざこざはほぼないと言っていい。

 したがって今は崩御した祭神を崇拝するイスラム教徒と元ユダヤ教徒が仲良く語らっている姿も珍しくはない。

 大低の死者たちは彼らが生前信仰していた神が何位の位神だったのかが気になるようだ。

 信仰する神が枢軸神であった信者は喜んだり、さして高位になかった信者は落胆したりもした。


 EVE内での改宗も積極的に行われていた。

 崩御した神を信仰しても報われないと考えた一部の者たちは、教儀が公開されている陽階神たちの中から気に入った神を見つけて信仰しはじめた。

 どうやら、神も選ばれる時代になったようだ。

 陽階神のうちでもとりわけ陽階枢軸神に改宗する事にはメリットがあった。

 陽階枢軸神たちは年に一度、死者たちの慰霊祭にEVEに降臨し姿を顕すのが恒例となっているからだ。

 人気歌手のコンサートではないのだが、各々が信仰する神が年に一度姿を見せるとあれば信仰にも精がでるし積極的に改宗が行われるのも頷ける話だ。

 勿論信仰する神が崩御していたからといって、簡単には改宗しない敬虔なる信者、あるいは無宗教論者もいたが……。


 EVEの死者たちが崇拝する陽階枢軸の神々、もうこうなっては人気投票の様相を呈してきていると織図は思うのだが、陽階枢軸で現在最も人気を集めていたのは知名度も手伝って、やはりジーザス=クライストだった。

 そんな事情もありつつ、ここに立ち寄ったのはジーザスの死を彼の十二使徒や聖人たちに伝えるためだ。

 およそ2000年も前の死者の記憶であるとはいえ、彼らがジーザスの為に殉教した者たちである以上、彼らには知る権利があると考えたからだ。

 織図はジーザスに縁のある記憶達ひとりひとりに会いに行って、彼の死を伝えた。彼らの信じた主はEVEに入ることはできないのだと。


 死後の世界にジーザスが待っていると信じた彼らを心ならずも裏切った形になったことを、ジーザスに代わって心より詫びて回った。

 彼らはジーザスが歩んだ道についてゆけない事をこそ残念に思ったようだが、ジーザスが最期まで彼の信念を通し、善き世界を守ったと聞いて誇りに思うと述べた。

 最期までジーザスにつき従った彼らをのぞき、来年はジーザスの崩御を受けてまたキリスト教から大量の改宗者が出ることだろう。

 それを寂しいことだとは、おそらくはジーザスも思わない。

 果たして無限に続く生と死の営み、そのシステムは誰が作り出したものなのか?

 いつもの疑問を抱えたまま織図はジーザスの記憶を、この空間で穏やかに永遠の時間を過ごさせてやることができないものかと考えた。ジーザスは自らを千年王国に在るべき者として民衆に語りかけ人々に天国への道と愛を説きながらも、彼の死後には無があるだけだったということを知っていた。


 神は生命の輪廻から逸脱している異端な存在だ。

 誰よりも死という現象を知る織図はそう考える。

 恒に指摘されてはじめて気付いてより以来引っかかっていた、何故神は自ら生まれる事ができない生物なのだろう……。

 神は何者かに生み出されていて、神階に配達されている。

 確かに恒の言うとおりなのかもしれない。

 ジーザスの命と引き換えに生まれた女神の赤子は、ジーザスが輪廻転生した姿なのだろうか。――いや、違う。

 どうやら神々は、間違いなく誰かの手によって生み出され続けているようだ。


 三階の生物のうち神だけが異端だ。

 解階の住民も、生物階の生物達も、自ら生まれ出る事ができる。

 その原点はたった一つの構想、核酸とタンパク質の構成要素、アミノ酸という種子だ。

 誰かが生命の種、つまり複雑系理論でいうところの初期値をまいた、種子は受け継がれて進化し、爆発的な勢いでそれぞれの階を被覆していった。

 そしてそれぞればらばらに蒔かれた種子は異なる環境において異なる発展を遂げたというのに、解階と生物階の二つの階の生物は、一つのある完成形をみることとなる。


 霊長類の登場である。

 三階のそれぞれの”万物の霊長”(the lord of creation)はみな、たったひとつの型に集約された。

 二足歩行をし、立体的視野を持ち、発達した大脳、自由かつ独立に動かせる手足、高度な思考による文明と文化の創出。

 それらを可能とする生物は三階を見渡しても同じ姿をしている。

 織図はまた考える。


 はたしてそんな確率ってありえるだろうか? 

 空の箱の中に時計ができるパーツをばらして入れて、その箱をただガチャガチャと振って完成した時計ができる確率――その確率に均しいほどの確率で、生物階における霊長類は誕生したのだ。

 さらに、それに解階側の霊長類の登場の確率を掛け合わせると、その確率は天文学的な確率になる。


 そう。不可能だ。


 絶対的な不可能の壁を破り三階の住民はまったく異なる環境において同一の形におさまったのだ。

 何十億年もかけて進化を遂げた生物階、解階の住民とは異なり、神はその完成形がぽんと神階に現れるという奇妙な様式で生命が受け継がれてきた。

 こうは考えられないだろうか? 

 三階はたった一つの形に生命を集約させるために用意された、巨大な実験場なのではないかと。

 まるで複雑系のシミュレーションのように、シャーレ上に撒かれた同一の細菌が異なる環境においても同じ形を作るかを冷徹に観察する研究者の眼が、どこかから見下ろしているかのように思われてならない。

 空き箱の中に入れた膨大な数の時計のパーツからそれを振るだけで時計を創り上げる偉大なる者、ブラインド・ウォッチメイカー(盲目の時計職人)は確かに恒や荻号の言うよう、何らかの試行を行っている。


 この悪意に満ちた壮大な実験を行っているのは、INVISIBLEなのか。あるいは――他の何者かなのか。

 荻号は必ずしもINVISIBLEとブラインド・ウォッチメイカーは≒の存在ではないとも言っていた。

 織図はまたEVEを見下ろす。

 この仮想空間の世界にある全ての者達は、織図の意志により管理されている。

 ならば同じように三階を見下ろす巨大な眼があってもおかしくない。


 ジーザスの死により織図の目から鱗が落ちた思いだ。

 神々、人々、そして解階の住民たちは巨大な意志に翻弄され続けている。

 誰がそれを断ち切るのか。新たな力が必要だ。

 織図はそう考えてふと恒とユージーンの姿が脳裏によぎった。


「そうか、恒。そしてユージーン。お前たちはINVISIBLEを断ち切る、新たな力となりうる」

 

 織図はEVEのメモリをまた拡張しようと思った。

 毎日新たな死者がやってくるということはそれだけ人々の生きた歴史があるということだ。

 EVEに入ってくる死者が絶えないように、その快適なスペースの用意をしておこうと思った。

 いつしか、本当の意味で自由になった死者たちが、このEVEを満たす日が訪れるよう願いながら。



 結局、スロット2時間の収支対決は教授のボロ勝ちに終わったのだった。

 たった2時間で教授は23万4000円のプラスになってしまった。

 築地は学費を振り込むためにATMから25万円ほどを引き出す以外には、見たこともない金額だ。

 対決開始の30回転目で、教授がビッグボーナスを引いて築地が777を揃えた瞬間、大連荘が始まった。

 そんじょそこらの連荘ではボロ勝ちにはならない、築地もおよそ100回点目で初あたりを引いて4連荘したからだ。

 だが、教授の台は3連荘目に壊れたらしくメダルが怒涛の勢いで出てきて、いつまでたっても止まる気配がない。

 ボーナス消化中に1G連荘のランプが眩しく点灯し、台が狂ったように火を噴いていた。

 話には聞いた事があるが、初めて見た。

 台が壊れるなんて! 


 顔面蒼白になった築地は仕切りなおしの要求と店員を呼びたかったのだが、教授はそれにも気づかず上機嫌だ。

 あろうことかバイトの店員も気づいていない。

 教授はボタンを押す手が疲れてきたようで、肩をぽんぽんと叩きながら素人打ちで暢気に打っていた。

 周囲は黒山の人だかり。

 教授は最初にお互いが決めた持ち時間であるきっかり2時間になると、千両箱いっぱいにコインを詰めて、まだ連荘が止まらないのに、隣でよだれを垂らしながら見守っている人相の悪い若者に譲ってさっさと換金しに行ってしまった。

 ああ勿体無い! 

 そこでどうして代わるかな、と築地は舌打ちをしたが、築地も軍資金が尽きて打ち止めとなる。


 築地は13000円のマイナス、教授はボロ勝ちだ。

 教授は築地のマイナス分をおごって、帰りに研究室のメンバーのために特上寿司を買って持ち帰った。

 築地と長瀬は教授のかばん持ちのように寿司を持って大学に戻ってきた。


「よかったじゃないツッチー! 特上寿司にありつけて!」


 棚ぼたの長瀬はほくほく顔だ。


「ありえへん……台が壊れやがった!」

「私は言ったはずだよ、築地君。あの台から、殆ど不可能な可能性を引きずり出す、と」


 相模原は得意げに髭をいじっている。さきほどの大勝利の利益は、研究室のゼミ旅行費に充ててくれるようだ。


「あんなん偶然ちゃいますのん」


 築地はまだ納得がいかない。

 だがブツブツ言いながらも、頭のどこかでは理解していた。

 教授は勝利するべくして勝利したのだと。

 その台から大当たりという確率を引くのも偶然なら、壊れた台を選んだのもまた偶然という確率の産物、総合的に運が足りない。築地の完敗だった。


 急遽学生部屋で催された寿司パーティーの後、築地は実験の概要をあまり詳しく説明されないまま、教授からサンプルを受け取った。

 透明水彩の絵の具を溶かしたような質感。

 澄み切った赤い液体。

 これの成分分析を手伝ってくれというのだ。

 サンプルを分析することができたなら、彼の修士課程の修了は保障されると教授は約束した。

 そんな作業、研究でも実験でもない。

 分析するだけで、結果となるのだとするとこのサンプルは相当に価値のあるものなのだと知れる。


「で、教授。これは何のサンプルなんですか?」

「これか? 聞いて驚くな。これは神様の血だよ」

「は?」


 関西人に生まれついた築地はどうしても話のオチというものを求めてしまうのだが、教授はボケている様子はなかった。

 いつまで待っても、それ以上の言葉は続かない。

 相模原は冗談でも何でもなく、大真面目な顔をしている。


”ちょ、冗談きついで……さすがにそれはあかんやろ”


 築地はこんな事態になるのなら、他の大学院生と同じようにきちんと実験をして酷いいわくのついたサンプルを解析させられる羽目にならないようにしておくべきだった。

 とため息をついたがもう遅い。


”学生相談室に行くべきやろな”


 本当にそんなことを考えはじめた。



 そんなこんなで、井村と空山は物陰に隠れながら吉川 皐月と藤堂 恒を見送ると、先ほどの喫茶店に戻り、今後の作戦会議を催していた。

 空山もようやく事情が飲み込めてきたようで、緊張感のない顔を気持ちほど引き締めると、サンドイッチと紅茶を頼んで、メガネをティッシュで丁寧に拭いている。

 彼女が何か集中して考え事をする時には、こうやってメガネを磨く癖がある。


「で、井村さんはあの少年が主だという話を、聞いたんですね?」

「そうなんだ。彼は天使とは異なる力を持っている、少年の姿をしているが、危険な存在だ。超能力のような力を使う」

「私、主ってあんな姿をしてるなんて思いませんでした。もっと、栄養剤みたいなものなのかと思ってましたから。まさか男の子だったとは」


 研究員達の仮説では、主は特殊な栄養剤のようなものだとされていた。

 天使を生かす、主という謎の存在。

 まさか主なるものが生き物だとは想定の範囲外だ。これを研究所本部に報告すれば、本部は主の捕獲の司令を出すだろう。

 彼女もその”主”もまだ何も行動を起こしていないのに、捕獲となると胸が痛む。井村が独自に調査をしようとしているのは、幼い”主”に対する人道的な配慮もあった。


「俺だってびっくりだよ! しかもサッツンが一緒に歩いているなんて……」

「サッツンさんに聞いてみたらどうなんでしょう。サッツンさんは井村さんの後輩なんでしょ?」

「さあ、サッツンは俺とあの子、どちらを大切だと思うだろうな。親しげだったし、サッツンの生徒かなんかだ。俺達が主を研究対象としていると知れたら彼を守ろうとする。あいつはそういう奴だ」


 いくら朱音と”主”が人間ではないと説明しても、教師と生徒という関係で深い信頼関係ができているのなら、皐月は藤堂恒を庇う可能性がある。

 そして恒に告げ口をされてしまえば、何のために皐月に近づくのかわからなくなる。

 主、藤堂少年はますます研究員達に警戒心を強め、いらないことを画策しようとするだろう。

 皐月を介して情報を得ようとしても、それが裏目に出てしまっては意味がない。


「主に近づく事はできないんでしょうか。井村さんが偶然を装ってサッツンさんに近づけば、いつかは主を紹介してもらえるんじゃないでしょうか。あの子、礼儀正しそうでしたし性格もよさそうでしたよ。ひとまず研究のことは忘れて、主と友達になるぐらいの心意気で、近づいてみるのはどうでしょう? 私が遠くから監視してますし、井村さんに万が一の事があったらきちんと骨は拾いますから」

「主と直接接触しろと?」

「そうです。そしたら、金曜日にやろうとしているMCFとやらの手がかりも掴めるかもしれませんよ?」

「地雷の埋まりまくっている地雷原に裸足で入って行けと?! それに、向こうは研究員が村に入っているという事を知っているんだぞ。俺が研究員だとバレたら、殺されるかもしれない」


 井村が皐月の後輩だとアピールをすれば、命まで取られることはないかもしれないが、何をされるかわかったものではない。

 賢明な作戦とは言いがたかった。

 空山は運ばれてきたサンドイッチにケチャップを塗りたくりながら、あれほど必死で拭いたメガネにケチャップをつけてしまった。


 主がなまじ少年の姿をしているから空山が警戒しないのだろうが、彼の力は超能力を軽く超えている。

 と思うと傍に近づくのも怖ろしかった。


「えー、殺されたりしないですよ。ここ日本ですよ? 警察に捕まるでしょ、主だってそんなヘマはしないと思います。もう、面倒くさいなあ。いっそこっちの手を明かしたらどうですか? お互いバレているんだし……。で、ビジネスライクに交渉をするとか。主が朱音ちゃんにとってどんな存在なのかを話してくれたら、朱音ちゃんを連れ去ったりしないし主にも危害を加えないとか」

「直接だなんてお前は馬鹿かと言いたいが……そうだな……俺ももう、色々と考えたりこそこそ調べるのも疲れた。突撃してみるか! 見た目にはそれほど悪そうには見えなかった。頭もいい子だと、助かるんだが」


 井村はもうやぶれかぶれで、突撃してみるのもよいかもしれないなと考えた。

 案外、藤堂は話のわかる主だったりして。俺お手柄!? などという甘い見通しを立ててみた方がうまくいくのかもしれない。


「じゃあ行くかあ……」


 井村は結局何も頼まずに出てきたお冷やを飲み干し、お絞りで顔を拭いてさっぱりする。

 せっせとサンドイッチにマヨネーズを追加していた空山は暫く考えて、ころっと意見を変えた。


「あ、待って。井村さんはやっぱり出て行かないで下さい。私が行きます、万が一井村さんに何かあったとき、主の脅威を伝えられるのが私しかいないって、どうです? それに女の私の方が主にも警戒されずに済むんじゃないかと」


 井村に万が一のことが起こって、空山だけが残ってしまったら? 

 いくら主の脅威を必死に説明しても、またいつもの空山の妄想なのではないかと早瀬は信じないかもしれない。

 それに彼女はうらぶれた神社の裏で起こっていた光景を目撃していない。

 それらの出来事を併せて報告できるのは井村しかない。

 女性である空山を危険に晒すのは気が咎めるが、彼女が敢えてそれを引き受けてくれると申し出た以上、井村も彼女に託すしかないと思った。


「接触するにあたって心配な事は、私が捕まってしまって監視役の先輩の居場所を吐かされてしまう事です。そうなれば対等に情報交換ができません。ですから、先輩はこれから私とは一切会わずに離れた場所から監視をしていてください」

「なるほど、空山に危害を与えたり下手なことをすれば俺が主の存在を本部に報告すると言うわけか。だとすれば俺の居場所は誰にも知られてはならない」

「そうですよ、絶対に! 私にも知られてはなりませんよ、私がつるっと喋ってしまうかもしれませんからね、そうなったら」


 井村はその言葉を聞き逃さなかった。

 彼は無表情で尋ね返した、山彦のように、脳の中を彼女の言葉が浸透してゆくのを感じた。

 待てよ、今、彼女はとんでもないブレイクスルーをしなかっただろうか。そんな気がする!

 話を進めてはならない。


「待て、今何て?」

「つるっと喋ってしまったら、と」

「どうやって、拷問でか? それとも催眠術のようなもので吐かせるのか」


 井村は畳み掛けた。彼女の思考は水を得た魚のように冴え渡っている。


「催眠術? ……催眠術ねえ……あーっ! マインドコントロールですよ! MCFのMCはMind Controlの略のMCですよ! それこそ出来るもんなら真っ先にやりそうじゃないですか! 人体に危害を加えず、研究の邪魔をする事ができるとしたら、記憶を消してぇ、私達に大人しく帰ってもらうと! これが一番ありえそうですよ」


 井村は飲み干したコップを倒して立ち上がった。

 コップは転がっていって、テーブルの端までいって、床に落ちて割れた。

 店員達が振り返ったが、井村はそんな事にはお構いなしだ。

 彼は立ち上がり、空山の両肩をがしっと掴んだ。

 やはり彼女を抜擢してよかった。人と違うのだ。

 藪をつついていて黄金を出してくれる才能を持っている。普段はとても、使えたものではないのだが……。


「それだっ!! そうかっ! それだよ……でもFって何だろ。MCFを展開するって……」

「Function? Format? Fold? Filter?」


 彼女は井村が割ったコップのガラスくずを拾い集めながら、思いつく限りのFで始まる単語を並び立てた。

 井村はそこまで導かれて、船で対岸の見えるところまで渡してもらった旅人のように、あとはその岸に降り立つだけだった。

 彼はすんなりと一つの単語に思い当たった。


「彼等の会話の文脈によると、展開する、できる(形成する)ようになるもの……ならばフィールドだ! Mind Control Field! これを展開できるんだよ、主は!」

「フィールドだとすると、対象は人ではなく範囲でしょうか」

「でかしたぞ空山! 主は爆風のような風を出していたぞ、あれがMCFだ。これで対策が立てられる!」


 ずっと曇っていた空から晴れ間が見えて陽が差し込んできた。

 井村はガラスくずを集めて思う存分手を切りながら、痛みなど感じなかった。

 一筋の光明、彼女がそれを、齎してくれたのだと思った。


「見てろ……あまり人間様を甘く見るなよ、藤堂 恒!」


 井村の瞳は、爛々と輝いていた。


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