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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第34話 Researcher, 井村 博道, 空山 葉子(枢軸叙階一覧あり)

 極陽が天奥の間に戻ってからしばらくしてのこと。


 神階を満たしていた荻号のアトモスフィアがかき消え、置き換わるように新たなアトモスフィアが張り巡らされた事に、極位神が気が付かないはずがなかった。

 神階と生物階の安全を脅かす憂慮すべき事態が起こってしまった。

 極陽はその脅威の前に、全ての目算が覆され舌打ちをする。


 荻号のみが消えていれば有り難かったと嘆いても仕方のない話で、ともかくそれが何なのか極陽は陽階の長として調べなければならなかった。

 アトモスフィアの発信元ならどこに居てもわかる、荻号の書斎だ。

 極陽ばかりではない。

 陰階神も陽階神も、およそ凡ての神という神、使徒という使徒がその動作を止め、忽然と現れたアトモスフィアの動向に神経を研ぎ澄ませた。

 荻号を引き止めることができず、彼から逆に手痛い返り討ちを喰らってしまった極陰は、荻号が去り際に投げて寄こした黒いアンプルを飲んでどうにか、被った損傷は全て癒されている。


 キリストの聖水の組成を模したものだ、治らないはずがない。

 彼女はいつもだらしのない荻号が珍しく真面目に別れを告げるのを聞いていたので、例えその気配が荻号の書斎から生じたものであっても、荻号のものだとはどうしても思えなかった。

 荻号の書斎が記憶にある彼女は、何が起こったのかを見届ける為にそこへ行って確かめなければという衝動に支配された。

 玉座から離れればアラームが鳴るので締皇の間から出る事は難しい、極陰は空中に紫色のプログラムコンソールを呼び出し得意のプログラム書き換えでセキュリティシステムを一時的にダウンさせ、注意深く辺りを見回し、誰の目にも触れぬよう静かに瞬間移動をかけた。


 転移後景色が変わって、彼女は書斎の隣の部屋に立つ男の後姿とその前に恭しく跪く女使徒をドアの隙間から目撃した。

 それよりむしろそのアトモスフィアの発信源が顔見知りであったということに戦慄する。

 何度もは見えたこともないし特に興味もなかったが、姿ぐらいは覚えている。

 陽階枢軸7位 軍神ユージーン=マズローだ。

 先程の葬儀にも参列していた、個性も薄く印象も薄い。


 だが……。姿は先ほどと同じように見えるが、その気配はまったくの別神だった。

 彼のアトモスフィアは神階全体を覆いつくすほど強大であるため、極陰といえどもアトモスフィアを放散しないように気配を消していれば気取られないだろうと思ったのだが甘かった。

 ユージーンはすぐに気付き、体を向ける。

 陰階の長の突然の来訪に、まだ立場上は闇神下第一使徒である二岐は血相を変え畏まって平伏した。

 彼女はそんな二岐には構わない。


「お前は誰だ?」

「陽階にて軍神を拝命しております」

「ではないだろう。お前の気配はいまや神階を揺るがし、同一人物とは信じがたい」

「それは困りました。わたしがわたしであるという証明はとても難しいのです」


 どこか落ち着きのある回答を、極陰はますます訝しく感じた。

 彼のマインドギャップは極陰にも看破できないほどの厚さを備えている。


 マインドギャップは4層以上格下の相手なら看破可能だ。

 極陰はもともと10層のマインドギャップを備えているので、5層であった彼は看破できて当然なのだが。

 ユージーンの心層はまるで鉄壁の要塞のようで、どこから突き崩してよいものかわからない。

 ユージーンは疑われることを最初から予測していたように、シャツをたくり上げて左肩の展戦輪の御璽を示す。


 金色の色素で彫られた刺青は緻密で、紙幣のように偽造することのできない。

 さらにUVを当てると光るIDコードと共に彫り上げられている。

 他神が姿を変えてその神を騙ることができないよう開発された技術であり、世界にただ一つしかない御璽は指紋のようにその神が彼自身、彼女自身であるアイデンティティを示す。

 DNAを持たず、指紋を持たない神という生物種は、即位する際に刻印されるこの御璽とID、そしてアトモスフィアの組成のみが自己同一性を示すものだ。


 身元確認をするにはこの御璽の確認が一番手っ取り早く確実だ。

 それを見せても、極陰は納得できない。


「お前がどうしてもユージーンだと言い張るなら……陰階の長として、神体検査を要請する」

「極陽に報告し、そのようにいたします」


 ユージーンは観念したように頷いた。

 神体検査とは全位神が叙階表に記録するために年始ごとに行う身体測定のようなものである。

 計測するのはアトモスフィアの絶対量であるフィジカルレベル, フィジカルギャップ(物理障壁)の層数、マインドギャップ(心層)の層数、偏差値の算定、アトモスフィアや血液の組成分析等である。

 神階に留まるためには神々の疑いの視線を晴らさねばならず、身元を明らかにしておくしかない。


 頭部以外はユージーンの神体や血液は以前のままだったし、ユージーンがユージーンであるという証明はそれほど難しくない。

 ただ、アトモスフィアの組成が劇的に変わってしまっているという事は、彼自身も認識していた。

 更に厳密にいうとユージーンの意識はもう消えている。

 今ある意識は荻号の中にコピーされてバックアップされていたものだったのでアトモスフィアが変化し、マインドギャップやフィジカルギャップが荻号のそれと同程度にまで増強されてしまった。


 荻号のコピーは完全であるために生前と比較しても記憶に関しては遜色ない。

 極陰は細身の身体をしならせ腰に手の甲を当て、ぽりぽりとこめかみを掻いたり薄い茶色の髪の毛をもてあそんだ。

 今もなお疑われているということは明らかだ。


「聞いてもよいか?」

「ええ、何なりと」

「どうやって力を手に入れた?」

「わたしにもよく分からないのです」


 二岐が心配そうにユージーンを見上げている。

 話すつもりがない、そう決めたユージーンの口を開かせることは不可能だった。

 まるで荻号を相手にしているようにのらりくらりとしている。


 陽階軍神 ユージーン=マズローは業績を認められて推薦により7位に叙階された神だ。

 彼が即位する際に、極陽が誇らしげに自慢をしていたが、まさかさしもの極陽も、彼がこれほどまでの怪物となるとは夢にも思っていなかっただろう。

 忌々しげにユージーンを睨む極陰は超ミニスカートの中身がひざまづく二岐に丸見えになってしまっているのも気付いていないようだ。


「全てが納得がいかない、何故お前はここにいる? ここは荻号の部屋だ。まさかお前が荻号を殺して力を奪ったのか?」

「いえ……」


 そうだな。

 状況からいってもそれが妥当な推理だとユージーンは分析する。

 荻号は死んだというより、もともと存在しなかった神であり存在しなかった者があるべき場所へと還っていった。 

 それだけの事だ、などとは口が裂けても語るわけにはいかない。

 口に出した瞬間に、INVISIBLEによって間接的に極陰を殺してしまうことになる。

 たとえユージーンが荻号を殺したという事にされてしまっても、その方がずっとましだ。

 何か口を挟んで極陰にフォローをしようとした二岐を制して、ユージーンは固く口を結んだ。


 二岐は最初からユージーンを疑う気にはなれなかった。

 どんな卑怯なやり口でも、荻号が誰かに不意をつかれて殺されるような事はないと信じていたからだ。

 むしろ荻号がユージーンを見込んで、その力を託してどこへともなく、いつもの気まぐれで消えてしまったのだと思いたかった。

 二岐の希望が過分に含まれた、妄想に過ぎないのかもしれないが……。

 ユージーンがどうしたものかと困惑していた時だった。


「違う。荻号を殺したのは己だ」


 静寂を打ち破るように抑揚のない冷たい声が聞こえる。

 比企が追跡転移を経てユージーンの背後に現れたのだった。

 比企もユージーンのアトモスフィアを感じてからというもの、陽階の執務室でじっとしている事などできず、ムジカを置いてたまらず駆けつけてきた。

 荻号に代わる力が何なのかをその目で確かめておかねばならなかったからだ。


 比企はいつものように鉄面皮のまま、臆面もなく極陰とユージーンとの前に立つ。

 ユージーンは比企の番狂わせの登場に、どう反応したものかと思案する。

 ユージーンは荻号の最期のその瞬間にまで荻号と共にあった。

 比企は荻号の消滅をユージーンと共に目にしたのだ。


 比企は一度は荻号を殺しかけたが、最終的に手を下して殺したのではない。

 比企は嘘をついている。だがそれが明らかな方便であっても、比企と極陰のMind Gapの層数は同格……両者看破できない。

 このまま荻号謀殺の罪で比企の失脚となるのか。

 ユージーンはそれは避けなければならないと感じた。

 荻号は神階の導き手として比企に全てを託したのだ。

 だが比企も同じことを考えているようだ、ユージーンをこそ荻号の継承者として、ここで失脚させてはならぬと。

 極陰の疑念、比企の真意、そして荻号の遺志、全てを見通しているユージーンはいたたまれなかった。

 どうやって真実を語らずに、この場を切り抜けるか……。

 だがユージーンの心配は無用のものだった。

 比企は凛とした面持ちで切り出す。


「しかし同時に、陰階神 荻号要の陽階神ジーザス=クライスト謀殺を立証するぞ。裁判に持ち込めば手前どもには好都合だ。証言者にはケイルディシャー=ムジカも出廷できると申しておる。叛意ありとの確証があった上での天誅殺は合法だ。違ったか? のう、極陰殿……ユージーンに嫌疑をかけ騒ぎ立てるものなら、己は何の躊躇もないのだぞ」


 極陰は苦虫を噛み潰したような表情を見せた。


「比企よ、この状況を不自然だとは思わなかったのか。荻号が消えユージーンがここに、彼と同等の力を持って……何故?」

「さあ、特に思わんな。ユージーン=マズローが覚醒し得た力なのだろう。彼が修練の末解脱したところで、何も不自然に思うところはない」

「ようも小癪な……」

「ほう。抜くのか? ここで撃ち合いたいというなら一向に構わん。ここは陰階だし……修繕費が高くつくだろうがのう?」


 比企はしたたかな神だ。

 ……ユージーンは彼を怖ろしくも感じた。

 極陰は細く美しい茶色の眉をきゅっと吊り上げて、忌々しそうに比企を睨んだまま時間を気にしているようだ。


 陰階を自身のアトモスフィアのみで支える極陰は、いくらセキュリティーシステムを攪乱させているとはいえ玉座を離れて長時間留守にできないのだ。

 彼女の周囲を取り巻いている陰階の皇の証、二本のアトモスフィア吸収環が鮮やかな青い蛍光を放っている。


 比企に極陰、両者ともが各々の神具に手をかけていたが、比企は荻号以外の相手には神具を抜かないつもりのようだった。

 極陰も先ほどまで虫の息だった身だ。

 よりによってここで玉座をあけたまま一戦やらかすことは賢明ではない。

 一触即発の事態が比企の機転によって回避された。


 極陰はそれ以上追及しても不利となることがわかったので、撤退せざるをえなかった。

 極陰は、荻号がどうやって死んだかというより、いかにしてユージーンが生じたかを気にしていた。

 比企が殺気だっている今、性急に問いただす必要もない。

 策士である彼女はそう考えて、その場を退いて玉座へと戻っていった。


 あわや撃ち合いというところを回避してまだ生きた心地のしない二岐に、ユージーンは二、三言葉をかけて手をかして立たせる。

 比企は陽階には戻らずに荻号の書斎に立ち入り、まるで宇宙の真理をぶちまけたように散らかっている遺品を一つ一つあらためていた。

 何かメッセージを残してはいないかと思ったのだろう。


 荻号は公文書でどうしても書類の提出がある際を除いて、私的なメモを取らないし残さない。どうやら彼の頭の中に全てを押し込んで逝ってしまったようだ。


 二岐は久々に比企を見て、容貌が随分変わってしまったのだなと感じた。

 二岐の知る若き頃の比企は、まだ100歳を過ぎた頃からこの書斎に出入りをしては本を読んでいた。

 本の虫になってしまったのはその頃のことであって、荻号を慕って毎日のようにやってきては様々な事を彼から学び取り、生き生きと問答を交わしていた。

 そして幾歳月が過ぎ、比企が全てのことを荻号から学び終える前に、突然比企は荻号のもとを去った。

 ずっと理由を聞きたかったと思っていたのに、二岐はどうでもよくなった。


 紆余曲折あったにしろ、比企は荻号を慕ってまた戻ってきたのだと、二岐は思いたかったのだ。

 比企は一通り荻号の遺品をあらためると、ふとユージーンに向き直る。


「汝の身に何があった」

「比企殿……それは……申し上げられません」

「全てを識りながら、口を閉ざすか……」


 比企の灰色の瞳が、寂しそうに閉ざされた。

 諦めてしまったような、苦しそうな彼の横顔。

 荻号は失望し、裏切られた彼の子らの表情を飽きるほどに見てきたことだろう。

 彼に近づいた者は裏切られる事が必然だった。

 ジーザスが去り、彼がそれを望まなかったと知る者は、今はユージーンしかいない。


「荻号が消滅してようやく解ったのだ……この世には不可侵の領分があるのだと」

「比企殿、荻号殿の名誉にかけてお伝えしておきます。ジーザス様は荻号殿に殺されたのではありません。はっきりとお伝えしておきます」

「それはもう解った。先ほどそう言ったのは、交渉カードだ……死者には口がないので利用させてもらった」


 比企は自ら罪を被ってまでユージーンを庇った。

 何故彼がそうする気になったのかわからない、だが……荻号に対する心情が何らかの形で変化したのだろう。

 比企は荻号の最期に立ち会った唯一の神だ。

 この世界の大気へと還っていった彼を目の前で見届けて、最後の最後に彼の心に触れたのだろうか。

 ユージーンは自然と口をついて、謝罪の言葉が出ていた。


「申し訳ありません」

「……ユージーン。それは言うな。汝はなお辛いはずだ。だが奴の遺志を継ぐものがお前でよかった、それが救いだ……」

「……」


 ユージーンは比企に何か言葉を返さなければと思えど出てこない、比企もまた数多くのものを失い、それと引き換えに強さを得てきたのだ。

 生まれついた時は黒かったという、若くして真っ白になった雪のような白髪が取り返しのつかない時間と煩悶の日々、計り知れない懊悩を物語っていた。

 比企はまた連絡すると言い残して陽階に戻っていったので、後には二岐とユージーンのみが残った。

 二岐は闇神下第一使徒の最後の勤めとして、荻号の失踪を発表して法務局に届けねばならなかった。

 失踪という表現が一番よいじゃないか。

 と二岐は思った。


 いつかひょっこり戻ってきてくれそうな、そんなニュアンスを含んでいる。

 実際はもう彼がこの書斎に戻ってきてけだるそうに煙草を吸いながら、考え事をする日が再び訪れることはない。

 分かっている。

 ユージーンは比企と二岐の苦悩する姿を見て3年後、風岳村のはずれ、首刈峠でINVISIBLEを克したユージーンが消滅する時には、自らの貫くべき道ばかり考えるのではなく、遺された者達を思いやらなければと感じ、ふと風岳村のことを思い出した。

 恒や皐月、そしてクラスの子供達……。彼らはユージーンを心より慕っていたというのに、遺された者達の事を顧みず自殺を図り、恒を悲しませてしまった。

 死なないでくれとすがり付いて、あんなに泣いて止めてくれたのに……。


 破滅へと突き進む者、取り残される者。

 残された者は、簡単には前に進めない。

 アルティメイト・オブ・ノーボディの創造物ではない異端の神。藤堂 恒は今、どうしているのだろう?


 彼は荻号よりFC2-メタフィジカル・キューブという神具を得て、その訓練に勤しんでいると聞く。

 恒はユージーンに何かを与えようとしているが、それは気持ちだけで充分で、それ以上にユージーンは恒に何かを残さなければ、と突き上げるように強く感じた。

 ジーザス=クライストの死と引き換えに生まれた女神の赤子は、神階の歴史において最後の神となるだろう。

 ノーボディの昇華によって、かの女神を最後に神階には神が誕生しなくなる。

 力を得たユージーンとて、さすがに神を産み出すことはできない。

 どうやら神を創りだすというのは、彼の専売特許であったらしい。

 神はノーボディの手を介しては誕生しなくなり、使徒はアトモスフィアの供給源を断たれて滅亡するだろう。


 アルティメイト・オブ・ノーボディ(名も姿もなきもの)が神階を手放したことにより神階は滅亡する運命なのだ。

 極陽が恒を創りだした方法は画期的だったが、それでは純血の神は創れない。

 更に恒がその方法を以って神を創りだそうとしても、1/2…1/4…1/16と、神の血はどんどんと薄くなる。

 劣化した神のコピーは、やがて生命みなぎる人の遺伝子に更改されてゆく。

 ノーボディが神々から離れたように、人もまた神の手を離れ、自ら歩み始める……その歩みを見守る事ができる神はどこにもいない。


 ノーボディは、神々の滅亡をも予見していたのだろうか。

 たとえINVISIBLEの支配から解放されたとしても、”神亡き時代”は静かに

 しかし確実に到来しようとしていた。



 井村は息が切れてぜいぜい言いながら、宿泊中の旅館に戻って靴を脱ごうとして、玄関口でよろけて盛大に躓いてこけた。

 金曜日までに何としてでもここを脱出しなければならない。

 モニター室兼宿泊部屋に入ると、スタッフが寝転がってスナック菓子やピーナッツをつまみながらモニターを見続けている。

 井村もその一つ一つのモニターに目を走らせる、どこだ、どのモニターが”主”なる少年に見破られている? 


 不自然な画面は一つもない。

 早瀬や他の研究員達がダメダメ、さっぱりと手を振る。

 朱音は特に目立った行動はとっていないようで、夏休みの宿題の書道に取り掛かっている。

 今時の子供だというのに本格的に墨を磨っていて、墨汁など使っていない。

 くるくると墨が硯の中を移動している面白みのない画だけが映っている。

 その墨の動きを見ていると、眠気に誘われる。


「さっぱりですか」

「ああ、まだ1日目だしな。そう簡単にシッポは出さんだろう」

「それを言うなら、羽でしょう」


 入浴やトイレに至るまで津々浦々、朱音の私生活をのぞいていてもこちらが後ろめたくなってしまうほど、何の疚しい点も見出せなかった。

 こんな小さな子供が人間ごっこをしているとは思えない。

 ひょっとするとこの子は、自分が天使である事を知らないのかもしれないな、と井村は考えを改める。

 彼女が天使だと知っているのはあの少年と背の高い女だけだとしたら、辻褄が合うように思える。

 とすれば朱音を調べていても何の進展もあるわけではなく、むしろあの二人の行動を追ったほうがよいように思える。


 しかしあの二人は超能力めいた力が使えるので迂闊に近づくのは危険だ、……見つかれば命の保障すらもないかもしれない。

 井村は恐怖しつつも、彼等に近付き調べてみたくて仕方がなかった。

 彼等に見つかっても対等以上に話が出来る方法はないか……何か脅しをかけられるような材料は。


 彼等と対等に話ができる方法があるとすれば、やはり脅迫だ。

 それもただの脅迫ではいけない。

 彼等と話し合いの場を作り、自分が無事に帰れなかったら研究所本部に報告が行くようになっている、とでも言わなければ話を聞いてくれはしないだろう。

 そして自分がのこのこと彼等の前に出て行く事は危険だ。

 直接は接触できないように……例えばオンライン通話などが望ましい。


 そうなると少し大掛かりになってくるので、井村一人でできる仕事ではない。

 やはり研究員を一人、ないし二人はこの計画に参加させなければ手に余る。

 主任である早瀬に話すのはやめておこうと思った。

 朱音の調査が疎かになってしまって逆に、こちらの動きを知るあの少年達に異変を勘づかれてしまってはならない。


 とすると……調査に指揮権を持たない者がいい。

 更に井村の信用のおける人物となると入所1年目の空山 葉子(そらやま ようこ)、彼女しかいない。

 彼女は唯一の女性研究員であり、性格は変わっているが、なんというかとても度胸があるし物怖じしない。

 共に仕事をするとしたら彼女ほど心強い味方はない。


 空山は非番なので男性研究員たちが雑魚寝している中に混じって、ごろごろと音楽を聴きながら仮眠をとっている。

 一応女性なので配慮されて別の部屋を取ろうかと早瀬が気を廻したのだが、結構です、と一蹴したつわものだ。

 井村は布団の中に手を差し入れ、ちょいちょいと足の裏をくすぐる。


「ううん、あっは! やん、クロ」


 小さく喘ぐような声が聞こえてきた。

 どうやら愛犬に足の裏を舐められている夢を見ているようだ。

 他の研究員は寝ているかモニターを見ているかでまだ気付いていないが、早く起きてくれないと井村が空山にちょっかいを出しているように見られてしまう。

 くすぐるのは中止にして、足首を持って揺さぶってみた。

 空山は地震が起きたのかと思ったらしく、短い悲鳴をあげて飛び起きた。


 起きぬけの頭ぼさぼさの姿であるにも構わず、井村は彼女を外に連れ出した。

 一応、GパンにTシャツといったいでたち、パジャマではないので外に出しても大丈夫な格好はしている。

 ボブの頭で、猫っ毛の茶色の髪の毛、大きくくりくりとした猫のような瞳、身長は150cmとミニサイズな妙齢の女。


「何ですか、折角気持ちよく寝てたのにぃうんうん、それで……へえへえ…あーあ」

「寝るなー!」


 後頭部をスパーンと叩くふりをする。

 吉本新喜劇の誰かかと思うような絶妙の寝ぼけ顔を見せている。


「三途の川やわぁ……あっ、きれいなお花畑が」

「渡るなー!」


 いい加減に起きてもらわなければ困る、と眠気覚ましに村の純喫茶でコーヒーを一杯おごってやるはめになった。

 日に焼けた看板、レンガ造りの店構え。

 ガランガランとドアについたベルがけたたましく鳴って、暇そうにカウンターで新聞を読んでいたマスターが久しぶりに来た客に驚いて立ち上がった。

 案外ここの方が外で話すより安全かもしれないなと思って、店員に会話を聞かれないよう一番窓際の席を陣取る。

 店内は意外と広く、ジャズのBGMが控えめといった言葉を知らないのか耳障りな音量だ。

 それでもしーんと静まり返って、会話が店員に漏れ聞こえてしまう心配はなさそうだ。

 優柔不断な空山にはメニューを選ばせないで、コーヒーのブラック二つ! と遠くから厨房に注文を飛ばした。


「チーズケーキもぉ!」


 空山がすかさず追加で叫んだので仕方がない。

 井村はこの女を信用してよいものか本気で考え直した方がよいのかと思ったが、もう連れてきてしまったので仕方がない。

 空山は口調や性格はこんなだが、意外としっかりしていたように思ったのだが……。

 空山はメニューを名残惜しそうに見ていて、煙草を出してライターに手をかけたが、井村はそれをぴしゃりと叩いて引っ込めさせた。


「タバコはやめろ、肺がんやCOPDになってもいいのか」

「へいへい」


 井村はこれからどうすべきか悩みながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 商店街は人通りが少なく、殆どが高齢者ばかりだ。

 コーヒーが運ばれてきて、チーズケーキも揃ったら切り出そう。

 そう思ったところだった。

 まずはお冷やとおしぼりが運ばれてきて、井村がそれを口につけたときだった。

 外を、見慣れたシルエットが通りがかった。

 先ほどの少年と、その隣にいるのは……どこか見慣れたシルエットだ。

 すらりと背が高く、細身で、色白……ふっくらと丁度よい肉付き。井村はもう少しで水を噴きそうになったのをあわやというところでとどまった。


 空山が面白そうに、ふぐのように膨らんだ井村の頬をぷにぷにとつついている。


”よ……吉川 皐月! サッツン!?”


 吉川といえば大学時代のテニスサークルの後輩だ。

 確か学生時代は優秀で、大学院に飛び級をし著名な雑誌に彗星のように現れた若き天才と物理学界に賛美されたものだ。

 研究者としての道を歩まぬ事を惜しまれながらも、小学校教師として中国地方のどこかにある山村の小学校に赴任したと聞いていた。


 まさかそれがよりによって! この村だったとは……。

 年の頃にして10かそこらの少年、そして皐月の連れ合い。

 ……まさかサッツン、いや皐月の教え子なのか? 

 サッツン、気付いてくれ! それは人間じゃない。”主”だぞ……!


”くそっ! どうする、どうする俺!”


 コーヒーが二つと、そしてチーズケーキが運ばれてきたが、井村は思考回路が止まっていた。



 恒と皐月は連れ立って商店街を歩いていた。

 連れだっているのは偶然というか、メファイストフェレスとの特訓の帰り、偶然ばったりと商店街で出会って、一緒に歩いていただけだ。

 恒は母の出す創作料理屋がどこに建つのかが気になって、更に言うとその隣の魚屋の主人が気になって何気なく商店街に入ってみると、ばったり会った皐月は丁度その魚屋に買い物に行くそうだったので、同行させてもらった。


「藤堂君、MCFはもうできた?」

「はい、できました」

「それって、人体に悪影響があったりしない?」

「そうならないように、できる筈ですけど……」


 恒は自信満々といった風ではないが、確実に100%の状態にまで仕上げてきた。

 そのために彼が何度も何度も、繰り返し練習をしていたのを皐月は知っている。

 恒を信じたい、しかし皐月の大切な人もまたMCFの対象となる事を、彼女は恒に打ち明けざるをえなかった。

 言ったところで何かが変わるとは思えないが、それでもより慎重にやってくれるのではないかと期待した。


「研究者の中にね、私の先輩がいるの……傷つけないであげてね、難しいと思うけど。研究者だって悪い人ばかりじゃないのよ。皆それぞれの立場があって状況があってこうならざるをえなかった、だからお願いね。藤堂君はわかってると思うけど」


 皐月は恒にくれぐれも、と言って恒の手を握った。

 恒にも勿論わかっているし、そんな目で見ないでほしいと思う。

 人間以外の知的生命体がこの地球上に闊歩して、その目的も知れないとしたら不安だし警戒心だって持つ。

 それらはどこからやってきて、そして何が目的なのか? 

 それだけは調べなければ気がすまない。

 恒がかつてユージーンを怯えて逃げ惑っていたばかりではなく、果敢にも立ち向かい解き明かそうという人間はいつだって現れるだろう。

 それを不本意な形で挫いてしまわねばならない、とても卑怯な行為だ。


「先生の、元彼とかですか?」


 違うと分かっていて、恒はからかう。


「え? そんなんじゃないわ」

「そういえば先生って、彼氏作らないんです? 今日だって、天気もいいのに一人でぶらぶらしてますけど……」

「うーん、今はねえ……」


 そう言って皐月の頭をよぎったのは、ユージーンの面影だ。

 恒はそれを見て、あっと思った。

 そうだったのか……最初はあれほど噛み付いていたりして仲が悪そうだったのに。

 人間の感情は複雑なものだ。

 例えば皐月とユージーンが付き合う事になってしまったらどうなるのかな、と恒は勝手に想像をめぐらせる。

 結婚して、子供は生めないから夫婦二人でずっと仲良く暮らすんだろうな。

 でも皐月は老いてゆくのに、ユージーンはずっと同じ姿のままだ。

 そんなのって、耐えられるだろうか? 

 いくら愛は不滅だとはいっても、さすがにそれは皐月が辛くなりそうだ。

 そして皐月の最期を看取らなければならないユージーンもまた、愛する者を先に失って気の毒だ。


 やはり皐月先生のお相手にはちゃんとした人間の優しい男性がいいな、と恒は勝手に妄想しておいて結論付けた。


「ユージーンさんとは無理ですよ。第一、人間じゃないし男でもないんですから対象外じゃないですか」

「こーらー、どうしてそんな事を言うの。大体どうして、私がユージーン先生と……」

「だって先生、顔に書いてありますよ。ユージーンさんの事が好きだって。好きになるのは仕方ないけど……ユージーンさんに恋愛感情ってそもそもなさそうです。人間は皆恋をしたり、好きな人が出来たりするものなのかな」


 恒にはよく分からない感覚だった。

 皐月はユージーンに恋をしているようだし、母親は魚屋の主人に恋をしている。

 朱音は恒に、巧は朱音に……。

 恋愛大いに結構。でも人を愛するって、誰かを好きになるってどんな気持ちだろう。

 恋愛の話になった時、恒は一人、取り残されたように感じるのだった。

 こればっかりは、皐月先生も教えてくれはしない。

 人を愛し、結婚し、子供を作る。

 なんという神秘的な人間の営みであり生命の環、恒はその環の中に、生涯入る事ができない。


 志帆梨の創作料理屋の建設予定地は割と広い間取りで、逆に広すぎるんじゃないかと思うほどだった。

 囲炉裏を置いたりする予定だというから、できるだけ広いスペースを確保したいのだろう。


「ここが、お母さんのお店?」

「そうです」

「広いのねえ」

「広いですねえ……!」


 ひとしきり店の間取りに感動したところで、恒は偵察に、皐月は買い物のため、隣の魚屋に入ってみることにした。

 外はガラス張りになっていて、中に陳列されている魚やらイカやらタコやらが外から見える。落ち着け、恒の未来のお義父さんになるかもしれない人が中にいるのだ、恒も流石に緊張し深呼吸をして息を整えた。

 皐月がドアを開けて、恒がこそこそと中に入ると、三代目店主、三笠 和成(みかさ かずなり)が愛想のよい大声で挨拶をする。


「はい! らっしゃい! お姉さんにぼく、今日の魚は新鮮だよ」


 山村で”今日の魚は新鮮”もなにもないと思うのだが、彼があまりにも屈託のない爽やかな青年だったので、恒は逆に戸惑ってしまった。

 余計なお世話だが顔も十人並み以上、肌は真っ黒に健康的にやけて、きらきらと白い歯が光っている。

 恒は申し訳なく思いながらもマインドブレイクをかけさせてもらった。

 32歳独身。

 女性経験2人、今は彼女もおらず。

 身辺調査をしても、ひとつも疚しいものはない。


 こんなに下心がなくてよいのかと思うほど、清廉潔白だ。

 小さな村に、よく好青年がいたものだ。

 皐月はそんな恒の複雑な思いも知らず、魚を一つ、二つと注文している。


「こないだねー、藤堂さんちでここのお刺身ご馳走になって! もうすっごく美味しくて! 一度行ってみたいと思ってきたんです」

「藤堂さんと、お知り合いで?」

「この子、藤堂さんちの息子なんですよ。ね、恒君」

「え? あ、母がお世話になっています。母を覚えていますか?」


 思いがけず話題を振られて、恒はしどろもどろだ。

 彼はヘンな意味ではなく、得意客として母親をよく覚えているようだった。


「藤堂さんとこの奥さんは、いつもこーんなにたくさん、魚を買ってくださるんで。そらもう、覚えてるさ。でも子供さんは毎日魚料理なんて大丈夫かなあ、なんて考えていたんだ」

「たしかに、少しは肉も食べたくなってきました」

「だろー。でも知ってる? 魚は頭がよくなるDNAってのが入ってってね?」

「DHAですよ」


 少々間が抜けているが面白い青年だな、と恒は感心した。

 彼が未来のお義父さんとなっても、彼とならうまくやっていけそうだな、と子供ながらに彼は複雑な心境で将来のことを考えていた。

 そして恒にとっては実の父親などより、彼の方がまだ親しめそうだった。



 その後ろで、井村と空山は壁にへばりつくようにして聞き耳を立てている。

 途中、お巡りさんが不審な目をくれながら通り過ぎていった。

 喫茶店で出たコーヒーを一気飲みして、空山は何が何だかわからぬまま井村にチーズケーキをもごもごと口の中に押し込まれて、とにかく奴らを尾けろと言われ外に出て後をつけていたのだ。

 彼等は商店街の中ほどにある魚屋に、吸い込まれるように入っていった。

 主人との会話から察するに、少年の名は藤堂、藤堂 恒! 

 彼が”主”なる少年だ。

 この名前を忘れてはならない、と井村は持ち合わせていたマジックで腕に書き込んだ。

 名前がわかれば住所だって突き止められるし家族構成などもわかる。

 空山はまだ口の中のものが片付かずに、もごもごと口を動かしているだけだった。



 ユージーンは極陰の要請どおり、総務局に行って神体検査を受けていた。

 あれから軍神下執務室に戻って以御と会ったが、どうやら彼はユージーンを荻号だとばかり思っているようだった。

 説明するのが面倒なのでひとまずそういう事にしておいた。

 そのためにも、自らが過去も現在もユージーンであり続けるというアイデンティティを証明する神体検査はデータを示す事ができるので好都合だ。

 血液成分測定において以前と同じ組成が出て、御璽の真贋認証もパスした事で、ユージーンはユージーンであるという自己同一性が立証された。

 しかしその他はまるで別神の数値が出ていた。

 フィジカルレベル測定装置、マインドギャップ計量装置はあまりの膨大なパワーに軒並みカウンターストップが出てしまってあり得ない数字になってしまったが、ここは仕方がない。

 今のユージーンは荻号のようにうまく力を加減する事ができない。

 Mind Gapが99層などあり得る数値ではないので公務員たちは驚いたり、呆れたりしているようだった。

 イカサマをしているのではないかと何度もボディチェックをされたが、彼等も気付いていた。

 彼の纏っているアトモスフィアが、それ相応の数値をたたき出すに相応しい暴力的な量だということぐらいは――。


「どうして、こんな事に? 装置は壊れていないようですし」

「どうしてでしょう」

「荻号様の力というのは誰かに引きつぐものなんですか?」

「……あるいは、そのようなものなのかもしれませんね」


 そう言って公務員達が不思議がるのをユージーンは黙って聴いていた。

 Lv 99, フィジカルギャップ 999999, マインドギャップ 99, 何一つ実測値ではない値となってしまった。

 これがGL-ネットワークオンラインで一両日中に叙階表に掲載される。

 神階を震撼させるに十分な数値をたたき出した。


 神々はどう思うだろうか……。

 どのように思われてもそれを受け止め、受け流すしかない。

 荻号がかつて長き歳月をそうしてきたように。

 彼は小さく頷いて、決意を新たにした。


画像をクリックするとフルサイズになります。

挿絵(By みてみん)

■陽階■ Jesus Chirist崩御により初登場10位。Eugene Mazrowの神体測定値が大幅に変動しました。

□陰階□ 荻号 要が失踪し、4位以降の位階がそのまま繰り上がりました。初登場10位。

【通名】 生物階での通り名のようなものです。

【置換名】 神語での本名を表意文字である漢字に置換して表意したものであって、漢字の名が本名というわけではありません。

神々は神語での本名を呼び合う事は滅多になく、多くは通名や置換名を使います。

公文書にのみ神語での本名が記載されています。

【S.D】 Standard Deviation(偏差値)です。陰陽を含む全位神(第一種公務員)の中央値を50とした場合の偏差値です。

【P.Lv】 Physical Levelです。特殊な装置により測定された純粋な力の潜在量であり、そのまま神そのものの強さを示します。

陽階7位 Eugene Mazrowは装置の測定許容量を超えたため、実際の測定数値ではありません。

【M.G】 Mind Gapの層数

【P.G】 Physical Gapの層数です。

【A.O】 Apostle Occupationで、使徒数です

【特記】 特殊身分。陰陽間が全面戦争になった場合を想定して置かれた役職です。

執権は全軍の指揮権を持ち、参謀は幕僚部を統監して戦術を立て、兵力を動かすのは司令です。目付は停戦監視役です。

【A.R.】 approval rateで支持率。Pは陽階神からの支持率、Nは陰階神からの支持率です。

↑は前年度と比較して5%以上の上昇

↓は前年度と比較して5%以上の下降

―は±5%内の横ばい状態です

【O.B】 official bird、光獣の種と名前です。

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