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【完結済】INVISIBLE-インヴィジブル-(EP1)  作者: 高山 理図
第一節  The mystery of INVISIBLE and the story of Ground Zero
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第1節 第33話 Nativity

 荻号はその動作から集中から全てに無駄のない超空間転移をかけると、同時に極陰の座する締皇(ていおう)の間に現れた。

 極陰は葬儀から戻り、まさに玉座に座したところだった。

 玉座の構造は基本的に陰階と陽階は変わらない。

 極陰 ゾーナ=イクシメナ(Zona Iximena)、置換名 鐘遠 恵は年甲斐もなく抜群のボディラインをこれでもかと見せ付けるポップな聖衣に太ももの露になった超ミニスカートをはいて、今にも下着が見えそうだ。

 その挑発的な装束が、これまたよく似合う。


 生物階と直接関与しない陰階神は陽階神のように見てくれなど気にしないから、自らのセンスで好みのデザインの聖衣を仕立て屋に作らせている。

 そんな彼女を下から見上げてしまうと陰階の女皇のパンツの有り難いご来光が見えてしまうのだが、荻号はかまわず凝視している。


「些か、無礼ではないのか?」

「どっちがだ? 急に現れた事か? それとも、あんた自身が見せびらかしている下着をガン見していることか?」


 それを聞いて、彼女はたっぷりと時間をかけて荻号に蔑んだ眼差しをくれる。


「下着は、好きなだけ見るがいい。だがアポイントもなくここに来たは無礼。それもジーザスの葬儀をバックれた後で! 偉神へ哀悼の意をも表す事ができぬか。失望したぞ」


 彼女はわざと足を組み替えて、流し目で荻号を見つめた。

 股の中が丸見えだ。

 最後に言い残すとしたら、極陰の威厳というやつをもう少し保って欲しいと言いたいものだ、と荻号はため息をついた。

 荻号は男神でもない上に神でもないのだから、そんな事をして挑発されても少しも興奮などしない。


 まったくもって無駄な誘惑だ。

 だがその誘惑に乗らなければ、彼女は機嫌が悪くなるということは解っている。

 彼女はプライドが高く、もてはやされる事を望む。

 勿論それだけの実力はあった、智力においても実力においても、陰階神の長として最大限の敬意を以って謁見すべきだ。

 今回もまた荻号は誰に対するにもそうであるように膝を折る事もなく、すっくと背を伸ばして極陰を直視する。


「こっちにも諸事情ってやつがあってね」

「いかに奔放な行動にも、節度というものがある。以後はこのようなことがないようにしな。陽階神は怒り心頭だ。おまえの嫌疑も晴れてはおらぬし」

「その件だが、俺は神を辞めようと思っているんだ」

「神を辞めるだと? 元々神なのに神を辞めるとはおかしな話だ」


 極陰はふぅん、と、ねばつくような吐息を吐いた。

 彼女の身に纏う甘い香りが辺りを満たしていた。

 これは破壊神である彼女の持つ香水状神具、アンデッド・ライフラインズ(Undead Lifelines:不滅生命線)の残り香である。

 匂いというのは五感のうち感覚に訴えかける最たるものであり、神経を直接的に支配するものだ。

 ジーザス=クライストの持っていた聖杯(The Grail)と同様の原理を用いている。

 彼女は香水の組成を変え締皇の間に常時MCFを張っているのだが、五感のない荻号には何の意味も成さない。


「言い方は妙だが、神階を去るってことだ」

「神階を去って……どこへ行く?」

「さあなあ、俺にもよくわからん。陰階神には失踪したとでも言っておいてくれ」

「戻って、くるのだろう?」

「いや、これでお別れだ。あんたには世話になった、挨拶をしてから行こうと思ってね。じゃあな」


 荻号はへらっと手を振ると、後ろも振り向かず踵を返し、ツカツカと歩いて出て行こうとした。

 すると極陰はアンデッド・ライフラインズを取り出す。

 青い小瓶の中に詰められた香水型神具だ。

 彼女はキュッと蓋を口で咥えて引き抜く。

 蓋を開いた瞬間から、怪しげな蒸気が立ち込める。

 細い指をパチンと鳴らして組成を変え、紫色から青く変わったそれを空気中にぶちまけた。

 周囲は蜃気楼に包まれ、締皇の間の入り口も消え去ってしまった。

 その扉を出てゆこうとしていた荻号は立ち止まらざるをえなかった。


「引き止めようとしているのか?」

「陰階の長として、勝手な真似は許さん!」


 彼女は玉座を降りて異常事態を知らせるアラームが鳴り響く中、発光する液体に満たされた神具を掲げ持って臨戦態勢に入っていた。

 彼女のフィジカルレベルは90046、神階全体でも荻号を除いては最強を誇る恐るべき女神、鐘遠 恵が遂に本気を出した。

 可視化されるまでに強大なアトモスフィアが周囲を取り巻き、竜巻のように立ち上っている。ジーザスの死を受けて、感情が昂ぶっている事もまた影響しているようだった。


「お前を含め全ての陰階神はあたしの支配下にある。勝手な理由で一柱として逃がしはしない!」


 そう言うが否や、彼女は小瓶のキャップ側に入っていた液体数滴を蜃気楼の中に放ち、神具のリミッターを解除した。

 化学連鎖反応が起こり、蒸気は不可視化し匂いを失う。

 そしてアンデッド・ライフラインズはもはや嗅覚を越え、直接脳に働きかける状態となった。


 何者も脳を支配するその攻撃から、逃れるすべはない。

 荻号は気のすむようにそこまでさせておいて、片手を腰にあてがったまま軽くもう一方の手をあげ、彼女の神具の効力圏を吹き飛ばすほどの風圧をくれて彼女もろとも極陰の玉座にたたきつける。


 ぐしゅっ、何か形容しがたい音が極陰の内臓のあたりから聞こえ、蜃気楼を生み出していた神具の影響を消し去り。

 アンデッド・ライフラインズは霧消した。


 彼女はわけもわからず玉座の支柱に叩きつけられ、うっと小さくうめき声を上げた。

 たった一度の攻撃で内蔵が叩き潰されたのが解る。

 極陰は数々の歴戦を経てきたが、極位を望まなかった荻号と闘ったことがなかった。

 まさかこれほどまでの差があったとは……! 

 相手にもならず、戦意も喪失してしまった。


 荻号は何度となく吐血する彼女を気の毒そうに見つめる。

 何とか意識があるのを確認し、シザーケースの中から黒いアンプルを取り出し、彼女に投げつけた。

 アンプルは割れて、細胞の修復をはじめる。


「遅効性の治療薬だ。治るまでそこで無様に這いつくばっておけ」



 比企は、極陽への戒厳令の発布を直々に要請しに、天奥(てんのう)の間へと向かっていた。

 虹を模した七色に輝く吹き抜けの空中通路を、一歩一歩確実な足取りで歩んでゆく。

 荻号の謀反の意はムジカが証明してくれるだろう。

 比企はムジカの供述書と自らの供述書をファイルに挟み、小脇に抱えていた。

 比企はかねてより目標としてきたことを成し遂げて、後は極陽からどのような処分を下されても構わなかった。


「さっきは、世話になったな」


 有無を言わさず脳内に侵入してくるその言葉と同時に、比企はもう二度と抜く事もないと思っていた懐柔扇を抜き放ち、最外殻のリミッターを外した。

 起動間近の神具の切っ先を構えようとして、荻号の右手に押さえられているのが見える。


 これほど近ければ巻き添えを食らってしまう、懐柔扇を起動できない。

 彼の師、荻号は逃げる事も隠れる事も知らないかのように、懐柔扇の暴力にも怯まず比企の真正面に立っていた。

 元素崩壊をもろに食らったあとでも、ぴんしゃんして涼しい顔をしている。

 彼の一原子として残らぬほどに消し飛ばしてやった筈だ。

 それを荻号は確かにまともにくらって破壊された、断じて間違いなどではない。どうやって……!?


「やめとけ。同じ手は二度も効かん。これは以前教えただろう」

「馬鹿な……元素崩壊をも……」


 比企は何が起こってどうやって荻号がそれを免れたのか考えが及ばなかった。

 ただ比企は絶望した、それだけだ。


 元素崩壊にも動じないこの怪物を、どんな手段で殺せばよかったのだろう。

 手段を間違えた。

 その叛意は一度きりしか許されなかった。

 荻号へ牙をむくのが許されるのは、たった一度だけだ。


 一度しとめ損なったら、荻号を前にして比企の命はない。

 ジーザスを、そしてユージーンを消してきた彼のことだ。

 半世紀も時間を共に過ごした直弟子だからといって慈悲をかけることも、ましてや躊躇などない。


「元素崩壊か。効かんよ」

「化け物めが……」


 荻号はこの上ない侮辱を、甘んじて受け止めた。

 正しい道を歩み続けてきた比企には、荻号をそうやって蔑む権利があったからだ。


「時間軸を軽んじたお前の負けだ。だがお前はよく俺を追い詰めたよ……弟子の頼もしい姿を見て、目頭が熱くなったね。そういうわけでお前の望みどおり、俺は神階を去る。以後は神々に介入もせん、それで満足だろう」


 そんな譲歩、信じられはしない。

 彼には何のメリットもないし、比企をここで殺さない理由もない。

 わざわざ姿を変えてまた神階の中に溶け込まなくとも、彼は神階全体にMCFをかけてリセットをすることだってできるというのに。


「また姿を変えて介入してくるのだろう……己は貴様がどれほど姿を変えても、どこどこまでも追い詰めて殺してやる!」

「俺が長きに渡り神階に介入してきたのは、俺の力が必要とされていたからだ。だが、今の神階ではどうやら、出番はないようだ……お前もいるしな。だから去る。お前たちのひとりだちだ、神階を頼んだぞ、比企」


 比企は耳を疑った。彼はどこへ行こうとしているのだろう? 

 神階にはもう、戻ってこない? 行くところなどないはずだ。

 神階を去った神は堕神として生物階を彷徨うしかない。

 そして堕神となった者は地上でそう長くは生きられない。


「もう二度と、戻らぬと?」

「ああ、お前の望みどおりだ。ユージーンは戻ってくるだろうがな」

「わざわざそれを言いに来のか」

「今生の別れだぞ、少しはしんみりしろ」


 比企は次に用意していた台詞を忘れて、口をあんぐりと開けた。

 彼は本気だ。

 もう戻ってくるつもりはないのだ。

 長い付き合いだった、彼の本心は分からずとも嘘をついているのか、本当なのか、そのぐらいの事はわかる。


 伊達に何十年も師弟関係にあったわけではない。


「貴様は結局、何だったのだ? 神々を煙にまいて、そして通り過ぎてゆくだけの存在だったのか」

「……さあなあ、何なんだろうな。お前の思っているよりずっとつまらんもの。俺は”虚無”だよ」


 荻号は比企の質問には答えず、手を伸ばし、比企の両肩を強く握った。

 後は、頼んだぞとでも言うように。

 荻号の、独特の声にならない声が比企の脳裏に優しく響いた。


 ああ……と比企は思い出した。

 荻号という存在はいつも比企や神々に無関心のようでありながら、そっと見守っているのを、心のどこかでは知っていた。

 どれだけ罵っても嫌忌しても全てを受け止める、その姿は彼の実の父親のようであり母親のようであった。


 だからこそ子らは彼を恐れ、彼の存在を追求しようとして一線を越えて斃れた。

 今になって思えば累々と積み重なってきた屍を増やさないために、彼は神々に無関心であり続けたのかもしれない。


 数百年ぶりに間近で見た、比企が美しいと感じた彼の空色の瞳は彼が荻号と初めて出会った時そのままだった。

 結局、徹頭徹尾、終始一貫して彼の考えている事はわからなかった。

 一度とて看破できたこともなかったし、彼の口から打ち明けたことすらなかった。


「比企、お前はお前にできる事を少しずつ積み重ね、強堅で、聡明で、慈悲深き主神となれ。もうじき現代極陽の時代は終わる……歴史を引き継ぐんだ。連綿と続く神々の歴史と人々の歴史を、絶えさせてはならない」

「貴様に言われんでもそうする、我等は我等の歴史を次の世界に正しく受け渡す」

「長きにわたる不実を許せよ。俺は消える、今度こそさよならだ。それから、ひとつ。俺もお前も、例え死んでも世界を守り続けたいと願うだろう」


 荻号はいつまでも噛み付いてくる弟子の攻勢を軽く受け流し、名残惜しそうに少し高い目線から見下ろした。

 比企は昔も今も、彼の信念を貫き通す正しい神であり続けた。


 荻号はそんな比企を万感の思いで見つめていた。

 荻号の継承者である彼を残して神階を去ることは、寧ろ喜ぶべきことなのかもしれなかった。彼とは反目しながらも学んだ筈だ、荻号の力を、智を、そして……。

 比企は荻号の消えうせる瞬間を逃がさないように、鷹のような鋭い眼差しで睨みつけていた。


 そんな弟子を残して、彼という存在はその場で荻号要であることをやめた。

 荻号を守ってきた時間が撓み、ぐにゃりと捻じ曲げられると元のようにまっすぐ伸ばされ、ぱあっと砂が崩れるように彼の姿は失われていった。


 ただの一片も、何も残らなかった。

 雲散霧消という言葉がぴったりだ。

 後に残ったのは金色の霧と、どこまでも続く金色をした虹の橋だけ。

 それも儚く滲むとただちに掻き消えてしまった。


 比企は幻が消え去った後も無意識のうちに手を伸ばし、霧の余韻を掴もうとした。

 こんなにあっけなく。荻号自身の意志で何の感傷もなく消えてしまうとは思わなかった。

 彼は比企のために、純粋に別れの挨拶をだけしにきたのだろうか。

 そして彼の長き生の終わりの死に場所を、ここにしようと、これほど彼を憎しんできた弟子のもとで、と定めたのだろうか。


 だとしたら、言葉を違えてしまったのではないかと、比企は後悔した。

 ……ファイルは飛散して粉々になってしまったが、もう必要ない。

 比企は構わず呆然と天空を見上げていた。



 荻号が真に消滅し、アルティメイト・オブ・ノーボディ(Ultimate of No-body:名も姿もなきもの)へと昇華したその瞬間。

 ユージーンの意識は凄まじい圧力によりどこかへ転送され、ドクン、と培養液中に沈むユージーンの神体の内に彼の意識が戻った。


 ユージーンはもはや脳を彼の居場所とせずともよいということを、ノーボディより学んでいたのだ。

 いわゆる脳の中の幽霊ゴースト・イン・ザ・ブレインは自我だ、脳のみならず全身に宿る。

 彼は全身の細胞を脳に集め回復を急ぐ。


 この世界のシステムを余すところなく理解したユージーンを以ってすれば、数時間以内に復活はできそうだ。

 荻号が消滅した今、もはやこの世界に希望はない。

 自らが荻号の遺志を継ぎ荻号と均しい存在となるために、ユージーンは新たなる力を呼び起こした。


”実在は、どこにあるのか”


 それは脳ではない、そう思い込んでいるだけで、本当は違うのだ。

 存在を、自己とあらゆる環境を疑う事、自らが自らではなくなるということ。

 何者でもなきものへと、その身を変化させてゆく過程であった。


 母胎の羊水の中で再び生まれるのを待つ赤子のように、彼は始まりというものをはっきりと認識する事ができた。

 荻号はユージーンにのみ、”生まれる”という権利、生をはじめる苦痛を与えた。

 そして荻号の研究室という閉ざされた空間の水槽の中に置き去りにされた彼は、空間を超え、あたかも蛹が蝶へと羽化するように、まったく新たな存在となって世界の前に姿を顕さねばならなかった。


 何もかも新しく生まれ変わる。

 ユージーンは急速に再形成した彼の頭部を衰えた筋肉でもたげ、ゆっくりと培養液の中で目を覚まし、自らの生を確かめるようにひとつ呼吸をした。

 ゴポッと大きな気泡が上がり、赤い水面を無神経に波立たせている。


”よし……もう大丈夫だ。行こう”


 彼は小さく頷き、ぐっと力を込めて瞳を開くと……新たな世界がそこにはあった。


 培養液の中で赤く揺らめく両手を見つめ、指を一本ずつ折りたたみ、きつく握り締めた。

 それが自分のものかと確かめたかったのではない。

 それが自分のものではなく以前の彼とはまるで異なる新たな存在だと、確かめたかったのだ。


 彼は自在に、如意に在る事ができた。

 それでも来るべき日が来るまでは自らがユージーン=マズローであったということを忘れてはならないと思った。

 最後に手放すべき彼のルーツは、まだ繋ぎとめておくべきだと思ったのだ。

 ”何者でもない”事が力となりうるのならば、”自らが自らである”という力もまた、この上ない力となりうる。

 ユージーンは何者でもない者であることの自由と何者かであり続けようとすることの強さを知り、世界の姿を多面的に理解した。

 存在と非存在の狭間、それが荻号や彼のような存在の境界という現象だ。


 ユージーンはうっすらと黄金がかった瞼を閉じる。

 荻号から譲り受け、超越者を証する黄金の瞳、禁視(Forbidden-Visibility)を備えている。

 成すべき事はわかっていた。


 そのままガラスをずるりと通り抜けて密閉された水槽の中から出る。

 ガラスはまるで彼を産み落とすように、羊膜を切り離すように溶けて軟らかくなり、妨げることなく通ずる。

 存在と非存在の境界という位相を理解した彼は、認識の檻から解き放たれているのだろう。


 ユージーンは自らが死に際に纏っていて荻号がすぐ傍にたたんで置いた軍神の聖衣を纏い、展戦輪をかたどったカフスボタンをパチンと袖口で留めた。


 死の瞬間には鮮血に染まっていたであろう聖衣は洗濯などしなくても、血痕などついてはいなかった。

 彼は荻号の意識の中で相転星を譲渡するという旨を聞いていた。

 彼の後継者である証……聖衣の置いてあった粗末なデスクに打ち棄てられたように無造作にある神具を取り上げた。

 全神具適合性など、もはや問題ではない。


 相転星は彼のアトモスフィアに感服して屈し、簡単に所有者であることを認め喜んでいるようだった。

 相転星を眠らせたまま自らも目を閉じ、細く糸を紡ぐように指先で糸をつうっと手繰り寄せるような仕草をすると、荻号の研究室という基空間に隔絶された空間から荻号の書斎へと簡単に脱出する。

 世界はこれほどまでに単純で、しかし完璧な法則に満たされていたとは。

 ユージーンは181年も縛られてきた絶対なる法則、命すらも奪われたその法則を、簡単に覆す事が出来るという事を知る。


 ノーボディの導きにより、この世界のエニグマ(Enigma:暗号)を解くことができたのだと。漠然と思った。


”あなたはこの世界の大気になって姿は見えないけれど、わたしは確かにあなたの存在を感じます。力を貸してください、あなたの強さを、あなたの優しさを、わたしにも与えてください――”


 彼は見えない気配を取り込むように大きく息を吸って、ふうっと長い呼吸を吐いた。

 ユージーンは荻号の書斎の隣の部屋にいた二岐と出会い、荻号は失踪してしまってもう戻ってこないのだと告げた。


 鶴の機織りの民話ではないが、荻号の正体を見て彼を畏れてしまったために消えてしまったのだと普段は冷静な彼女はひとめも憚らず嘆き悲しんだ。

 ユージーンは荻号のことづてで相転星を継承した旨を伝えたが、荻号しか扱えるもののなかった融通のきかない特別な神具を次期闇神が扱えるようになるとも思えなかったので、触れられるものなら好きに使ってよいし譲渡は法的に問題ないから、と言って帯出を許した。


 相転星という常軌を逸した性能を持つこの神具は、ノーボディ自身が造り出し、彼の全能性をカモフラージュするのに役立っていたのだろう。

 神々の前で奇跡としか思えないような能力を揮っても、″まあ、相転星の性能あってこそだろう″ぐらいにしか思われないのだ。

 荻号が巧妙に培ってきた隠れ蓑は是非とも活用すべきで、超越者が神階に自然に溶けこむためには必須のツールだった。


 しかしユージーンには神階で神として過ごすということが如何なる事かを理解していた。

 荻号と均しき存在となるという事はまた彼の負ってきた十字架を、ユージーンも負わねばならないということでもある。

 誰にも理解を求める事ができず、畏れられ、ある側面では必要とされる……全能の力と引き換えにだ。

 荻号のもうひとりの継承者である比企にも命を狙われる事だろう、自らの意識を鉄壁のマインドギャップで守りながら、孤独を貫き通すのだ。

 来たるべき日が来るまでは……。


 望むところだ、やってやるさ、とユージーンは思った。


「ユージーン様」


 悲嘆にくれていた二岐が思いがけずしゃんとした声で呼び止めた。


「あなたの使徒にしていただけないでしょうか」


 いつも不機嫌なのかと思うほど他者に媚びる事のない二岐がこんな声を出すのかと思うほど、彼女は少女のような澄み切った声を振り絞って出した。

 荻号のために流した涙のあとが、まだ乾くまもなく輝いている。

 こんなに簡単に、主を乗り換えるのだろうか? 

 誇り高き彼女が、口にする台詞ではなかった。

 荻号の突然の消滅を受け止められずに口走っているうわごとなのだろうか。


「わたしに? 次期闇神には、仕えないのかい? 元第一使徒の転階手続きは厳しいだろう」

「寡臣は主に対する忠義を、貫くことができませんでした。誠心誠意お仕えしたつもりが、最後の最後に寡臣は主に不忠をはたらいてしまった事が悔やまれます。あなたが主の生まれ変わりのような気がしてならないのです、今度は最後までお仕えさせて下さい」


 二岐は長年連れ添った荻号に忠義を通す事ができなかったことを、相当に悔やんでいるようだった。

 ユージーンはこの哀れな女使徒を、ここに置き去りにすることができなかった。

 ユージーンに仕える事ができなければ、彼女は荻号の後を追って命を絶つと、強く心に決めていたからだ。


「そう……。うちにはうるさいのばかりいて大変だろうけれど、それでもよいならうちに来るといい」



 比企は何も考える事ができないまま、抜け殻のようにふらふらと執務室に戻って来た。

 ムジカは体調も回復してきたらしく、寧々にたしなめられながらもベッドを立ち上がっていた。

 荻号の消滅を目のあたりにしなかったムジカも、不穏な空気と違和感を感じていたようだ。

 神階から、荻号のアトモスフィアが消滅した。

 彼のアトモスフィアは神階全体を覆い尽くすほどに満たされており、宇宙要塞のような神階の不安定性を安定化させるアンカーのような役割を果たしていた。

 それはずっと繋ぎ止められていた箍が取り除かれたようでもあり、一度は清々したようでありながら、しかしいざそれがなくなってみると途端に不安になった。

 ゆりかごからほうり出されたように、それがなくてはひどく落ちつかない。


 いつの日にもずっと聞こえていた優しい小守歌が、突然鳴りやんでしまったように。

 ムジカは切なさすら感じた。

 そしてはじめて、荻号という存在の必要性を噛み締めたのである。

 寂漠とした悲しみが込み上げてきて、無性に荻号の名を呼びたくなった。

 彼が今にも叫びそうになった時、稲妻のように新たなる気配がほとばしって、まるで柔らかい布を拡げてゆくように強大なアトモスフィアが神階を満たして包み込んだ。


 ムジカはこの気配を知らない、記憶にもない。

 荻号にも匹敵する絶対的かつ純粋な光明が降誕した瞬間だった。

 比企はちょうど、執務室の扉を開いて戻って来たところだったが、敏感にそれを感じ取って天井を見上げる。

 陰階に突如として現れた、何とは知れない何かがだ。

 比企は同じく視線のうつろなムジカと顔を見合わせた。

 二柱ともが即座に、この力に挑みかかる事は無謀だと認識できるほどに圧倒的な存在。


 それが、虚空から忽然と生じたのだ。


「何が、生まれたというのだ……たった今……」


 ……あらゆるものに光を注ぐ朝陽のような、透明で広大な気配だった。



 相模原と築地は大学前の小粋なデザインが目にチカチカとまぶしいパーラーに着くと、雨天のため土木関係者が暇を潰しにきてなだれ込んできたのか、パチンコが満席だったためにスロットでの勝負とあいなった。


 教授の動体視力の衰えを考慮に入れ、当たりを引いたら築地が7を揃えてやるかホールの店員に頼むという特別ルールを確認した。

 勉強や実験にはめったに勤しまないのに、築地は張り切って台選びに勤しんでいる。

 築地は昨日よりそこと決めていた台にした。

 相模原はとことこと築地の後をついてきたかと思うと、小柄な教授はちょこんと隣に座ってきた。


″あーあ、そこはあかん! 昨日出たばかりやで″


 相模原はろくすっぽ台の案配を調べず、築地の隣の台に陣取っている。

 相模原はスロッターにとっては大切な情報である台の上についている大当り回数や回転数などには目もくれていない。

 まいったな、まさか本当に初心者だったんじゃないだろうな。

 築地は下手をすればスロットの打ち方から教えなければならないのかと思ったが、どうやらそれくらいは知っていたようだ。

 学会のついでにラスベガスのカジノに行ってボロ勝ちしたことがあるそうだから大人の嗜み、といったもので知ってはいるのだそうで。


「先生、親切心で言うんですが、あいにくそこは出ませんよ。昨日大連荘していましたからね。出た場所は次は出ない。驕れる者も久しからず、盛者必衰の理ですよ」

「なかなか達観しているな。だがそれで何故勝てないのだね? ん?」


 そう言われると築地は返す言葉もない。

 彼は嫌煙家の教授の隣でやりにくそうにこっそりと煙草を取り出し、火をつけて隣の空席にぷいーっと煙をはきかけた。

 教授と昼間っぱらからスロット勝負だなんて、何となく落ちつかない。

 ホール内はもうもうと煙が充満しており、築地の煙草が一本加わったところで煙たくなったとは言い難い。


 相模原の顔を見て、ホール内をこそこそと隠れるバックレ学生たちもいたが、よく考えると教授がこんなにおおっぴらにパーラーに来ているのだから、と考え直して築地と相模原の勝負の行方を見届けにやってきて辺りをぐるりと囲んだ。

 両者勢いよく打ちはじめる。

 勝負は2時間ぽっきりだ。2時間の収支を競うこととなった。


 別に望んでもいない勝負なのに、どうしてこんな事になってしまったのだろうと築地は嘆く。今日はついていない、教授に勝っても嬉しくなどないし負ければ教授の言いなりだ。

 これも院生の悲しいさがで、修了証書を手渡してくれるのは教授なのだから、卒業するまでは教授の奴隷だといっても過言ではない。

 築地は左から順に慣れた手つきでスロットを打っている、この台の推定設定は3か4ぐらい、上々だ。


 ビッグボーナスの出ないバケ連が続いて今日はスロッターから敬遠されているようだが、この台はこのような挙動を示すということは、彼の無駄に賢い頭脳で計算済みである。

 そんな事を考えながら打っていると、後ろからつんつんと肩を叩く奴がいる。

 同級生の長瀬くららが研究室を抜け出して、観戦にやって来ている。

 彼女の服は個性的で、極彩色のカラーと、どこで買って来たのかと思うような斬新なデザインの服装がまたいっそう人目を引いている。


 相模原が真横にいるというのにバレたらどうするんだ、と築地はしっ、しっとやってヘン顔をしたまま顎をしゃくった。

 天然系でもありゆるめのくららは、築地のヘン顔を見てきゃっきゃと面白がるばかりだ。

 長瀬に気を取られていると、ポチ、ポチ、ポチ、とぎこちない手つきでスロットのボタンを押す教授が声をかけてきた。

 ジャンジャンバリバリという店内の爆音とマイクパフォーマンスで話が途切れ途切れになってしまってよく聞こえない。


「研究も人生も、恋愛でさえも、こうやってギャンブルをしているのと、実は何もかわらない」

「はい? え?」

「君はこの台が、出ないと思うかね?」

「思いますが」


 築地は断言した。

 こちらの台が出なかったら、相模原の台が出るかというともう絶望的だ。

 築地はこの世界を支配する確率というものは万能だと信じていた。築地はいつも計算している、何分の一の確率で大当たりの確率で、この演出が出たあとは何分の一の期待度でボーナスに発展してゆく。

 などと彼の考える事は殆どが下らない事ばかりだったが、確率という支配者は確かにいるのだと、築地は信じていた。


「私はこの台から、殆ど見込みのない確率を引きずり出す。ビギナーズラックの原理を知っているかね……それは上級者にはない、素人の持つ揺らぎだよ。世界は絶えず揺らいでいるんだぞ築地君! ときに世界は、あまりに大きな揺らぎを見せることがある。それを見逃してはならんぞ」


 教授は子供のように無垢でありながら、彼の信じる何かに賭けているようだった。

 ビギナーズラックの原理など知る由もないほどのビギナーだというのに、一体なんだ? 


「それは詭弁っていうんじゃないですかね」

「まあそうだ」


 築地は気味が悪かった、彼がおよそ体験した事もないし相容れないものが、教授によって証されようとしていた。


「時には無謀だと思われる事にも敢えて挑んでみなくては、人生つまらんだろう。我々は確率というものに、支配されてはいないのだから」


 教授は少年のように、しわくちゃの顔でいたずらっぽく微笑んでみせた。


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